270◇天地玄黄、その果てに
箱馬車の窓から身を乗り出した美女がこちらに手を振っている。
「来ましたよ~! あ、あれっ。か、体が引っかかって……抜けない!? そ、そんな……ハッ、もしかして昨日我慢出来ずにケーキを三ホールも食べてしまったから!? 三つは多すぎたということなんですか!? そんな! お二人の前なのに、恥ずかしい!」
そうこうしている間に馬車が二人の前まで来た。
御者を務めていた小柄で短髪の女性が飛び降り、呆れた顔で美女に近づく。
「あ、イオちゃん。そんな豚を見るような目はやめてっ! 分かってるの。ちゃんと自覚はしてるの。無駄にどこもかしこも大きいのだから、せめて太らないようにしたいって思ってはいるの! でもわたし、我慢ってどうにも苦手でね。それにケーキ達もね、折角作られたからには食べないともったいないじゃない? ただでさえ食料不足なのに、英雄だからって特別扱いしてもらっているんだもの。頂いたものは全てありがたく食べて、その感謝を胸に国に奉仕しなければね! そういう風にわたしは――」
「マリア様、うるせぇです」
「ガーン!」
「あんた様が図体も胸もケツもクソでかくでオマケに足も太いってことは誰の目にも明らかなんだから、それを頭に入れて動いてくださらないと周りが迷惑するんですよ。おわかりで?」
「……ひゃい……大変申し訳ごじゃいましぇん……」
窓に腹がつっかえた状態のまま、美女が説教で涙目になっている。
「もういいんで、それぶっ壊して構わねぇですよ。あたしが直しとくんで」
「え、でも、わたし一応、女の子だし。そういう荒っぽいのは」
「あ?」
「……なんでもないでしゅ」
一応、主従で言えば美女が主である筈だが、力関係は逆らしい。
美女が潤んだ目でこちらを見た。
「あの、アヴィくんにグレグリさん。お見苦しいところを見せてしまってごめんなさい。それでね、その、しばらく後ろを向いていてくれると、とても助かるんだけど」
「……承知した」
グレアは一つ頷いて背を向けた。シリウスも続く。
「どうです、だんちょ」
「貴様の言いたいことはよく理解出来た」
任務の重要性と比べて、彼女の纏う空気は軽すぎる。いや自然体過ぎるというべきか。それが悪いというのではなく、気が削がれる。
待つこと数秒。
バキバキと木材の砕ける音の後に「あわわ!」と慌てたような声。
「馬鹿の極みですか?」
と呆れた声も聞こえた。前者が美女、後者が従者によるものだ。
「あ、ありがとうイオちゃん。助かりました」
どうやらイオが落下した彼女を受け止めたようだ。
「クソ重いです。ダイエットしてください、お願いですから」
「自分なりに頑張ってはいるのだけれど」
「はぁ? あんた様の貢献から食費を引いたら何も残らないくらい大食らいのクセに」
「ひ、酷い……。そこまで言わなくても」
「まぁ、取り敢えずこのへんにしときましょうか。お二人を待たせちゃ失礼ですから」
「わたしにももう少し優しくして……」
マリアの声に返事はなかった。
「もういいデスか?」
「あ、はいっ! 大丈夫だよっ」
二人で振り返る。
改めて立ち姿を見ると、美女は背が高かった。従者が小柄だから対比で巨大に見える、というだけではない。グレアは女性を見上げるということをあまり経験してこなかったが、彼女は例外。
イオがいったように単に背が高いだけではなく、全体的に大きい。
黄色い長髪と両眼は、太陽を連想させた。
七聖拝数二『際涯の英雄』――マリアスレイル=シュアリィダム。
「ごめんなさい、他の任務があって」
「構わん。すぐに始めても?」
「あ、うん。グレグリさんを限界突破させちゃえばいいんだよね」
「あぁ」
マリアは有資格者――英雄――であり、色彩属性保持者だ。その力は強力だが、ある理由があって伏せられている。『黒』や『白』を始めとする英雄譚に登場するような色は、その認知度もあって
存在自体が示威となる。だが彼女に発現した『黄』は、中でも特殊な属性。
司るは『限界』。
彼女はあらゆるものの限界値を更新することが出来る。人に用いれば、身体能力や才能、魔法の威力や範囲といった本人の『限界』を更新し、更に成長させることが出来るのだ。
ただし、己に適用することが出来ない。
公表すれば彼女の命が狙われるのは必至。故に秘密裏にその力は用いられた。
一般兵や要人、時には英雄の様々な限界値を彼女は更新し、また成長させてきた。
「陛下の勅とあっては否もありませんが、あんま無理させんでくださいよ、シュヴァルツィーラ殿」
通常、『限界』は色彩属性に適用出来ない。色彩属性の強化は出来ない。
それを解決するのが、代償と引き換えの魔法。
グレアとクロノで言えば【黒迯夜】。
これは天地より魔力供給を受け『黒』の干渉限界さえも無視した発動を可能とする。代わりに精神汚染が伴う。
神化の防遏はあらゆる手段で英雄を蝕む。
『黄』の場合は強制成長とでも言おうか。『人間』の形を越えた成長が進んでしまう。どこまでも大きくなり、いずれ巨人と呼ばれるまでになるだろう。
イオはそれを不安に思っているようだ。
「大丈夫だよイオちゃん。ちょっと大きくなるくらい、わたしは平気だから」
「今の時点で顔合わせようとすっと首痛くなるんで、これ以上は勘弁して下さい」
「酷い……」
口は悪いが、気遣う心は本物。
「シリウス」
「ハイ」
何が起こるか分からない。グレアとマリアはファカルネを覆う何かの『併呑』に集中する必要があった。生じる隙を、彼にカバーしてもらうのだ。
「すー、はー。じゃあ、いきますね」
マリアが服越しに、グレアの背中に触れた。
「……【黄峩這】」
自分が器だとすれば、注ぎすぎた液体が溢れるような違和感。だがすぐにそれは収まる。液体がこぼれるよりも早く器が拡張し、全てを収めることに成功。
「……【黒迯夜】」
アークスバオナとファカルネを隔てる透明の膜に、手をあてる。
どく、どくどくどく。急速に広がる『黒』は水が地面に染み渡るように透明の膜を覆っていく。一体どこまでいくのか。どこまでの範囲を閉ざしているのか。気づけば四人から前面の空間は漆黒に染め上げられていた。高く広く、真っ黒に。
だというのに、何も『併呑』出来ていない。一時的に神の権能に等しい格に引き上げられた魔法でさえ、この結界を破壊することが出来ないのか。魔法である以上、権能には届かない?
クロノは神の呪いを解いた。そうしてクウィンを救った。
だが、グレアは皇妃を救えなかった。
同じく魂に食いつく異常であっても、呪いと神そのものでは違うように。
この結界は、単に人を呪うよりも大きな強制力を持って天と地に刻まれているのか。




