259◇紅く燃ゆる
トワの中に、兄に対する劣等感が少しもないと言えば嘘になる。
自分の方が五年も先にアークレアにやってきたのに、片や連合を率いる大英雄、片や冤罪一つ自力で覆せぬ偽英雄ときた。表立ってトワを見下す者がいなくとも、この無力感。一番辛いのは、どうあっても彼のようにはなれないという事実。それは色彩属性保持者であるとか、彼が重要視している思考し続ける力に掛かっている補正とか、そういった能力面でのことではない。
精神だ。
心優しくも、彼は普通の中学生だった。
普通の少年、だったのだ。
トワもまた、普通の少女だった。被害者としてこの世界に来た。大きすぎる心の傷を抱えた中学生として。『神癒の英雄』エルフィの力を借りて記憶を封じ、過去を忘れることで攻略者としての人生を歩みだした。
来訪者のステータスは、過去生での冀求と闕乏を汲むと言われている。適性魔術属性が『火』だったのは、あの時とても寒かったからだろう。死の間際、とても寒かったのを覚えている。
欠けていた強さがアークレアでは身についた。
幸助は変わってしまった。変わっていないところも沢山ある。でも、もう普通の少年ではない。
妹の死が、普通の少年を歪ませた。
異世界に来てまで自分を助けた兄は、幼い頃のように温かく、変わらず意地悪で、そしてとても遠かった。並び立つなんて、恥ずかしくて言えないくらいに差があった。
それでも、守られる存在に甘んじるつもりはなかった。
自分は英雄規格だ。『紅』を持たぬ偽英雄だとしても、戦力として兄に大きく劣っていても。
拗ねたり悩んだりしている暇はない。
自分の限界を見定めた上で、為すべきことを為す。
『紅の英雄』ハートドラック=グラカラドック。
アリスの生家であるグラカラドックの、最初の一人。燃えるような色の髪をした、寡黙そうな男だった。生前どうであろうと、屍となれば誰もが静かになるだろうけど。
この場には『紅』持ちが二人もいる。もう一人は旅団所属の青年で、そちらはアリスが食い止めている。だが長くは保たないだろう。
『紅』が司るのは『進行』。進んで行く。前へ、先へ、未来へ、終わりへ。老化を進行させれば赤子を老人に変えることも出来る。自然治癒力だけを進行させれば肉体の高速再生も叶う。
トワなどとは、格の違う魔法使いだ。
空ろな瞳が少女を捉えた。
「ほんと……グラカラドックはトワの邪魔してばっかだな」
一人目は、言わずもがなアリスだ。冤罪を被せられたかと思えば、次は先祖と殺し合いとは。
すぅ、と呼気を漏らす。
「力を貸して貰えますか」
色彩属性保持者、それも今の英雄よりも神の愛が深かったと言われる神代の英雄規格だ。自分一人で戦うなど無謀もいいところ。
「あら、あらあら、もちろんですよトワ様。頼っていただけて、とても嬉しく思います」
扇情的な和装をきこなすのは、薔薇色の女性。シュカだ。
「無論のこと、お供致します」
月色の髪をした青年だ。視線は鋭く、声には揺らぎがない。シキだった。
二人共、ハートドラッグがトワを捉えた時には傍らに来てくれていた。
「ごめんなさい、トウマさんやセツナさんが心配でしょうに」
「謝らないでくださいな。あの子達には、それぞれ信頼出来る仲間がついています。ここでトワ様を置いていったりしたら、わたくしがみんなに怒られてしまうというもの」
「加えて、我らもこの男に用向きがありますゆえ」
そうか。そうだ。
ハートドラック。彼はエルマー封印の場にいた。いなかったのは『耀の英雄』ローライトくらいだ。
そしてエルマーを封印した足で、英雄らはシキ達の仲間を殺したのだ。『蒼』で生命機能を『途絶』させられた者達だけが、長い時を経て魔法効果が切れたことによって生き延びた。
シキの言葉にシュカが頷く。
「えぇ、そうね。ハートドラック様、覚えておいでですか? あなたとは違い、わたくし共は亡霊ではありません。ここであなたの屍を塵に還そうと、同胞の魂が慰められるとも思わない。彼らはそれを望みさえしないでしょう。とても優しい子達ばかりだったから」
「なればこそ、我らは貴様を討たねばならん」
復讐は、残された者が行うこと。
無益でも、為さずにはいられない。
トワは実行者でもなければ目にしたわけでもないが、それを知っている。
「まさかこのような機会が巡ってくるとは夢にも思いもしなかったけれど……。長生きもしてみるものね。クロ様やトワ様にお逢い出来ただけでも奇跡だというのに」
「よもや、仇敵が揃い踏みとはな」
二人の顔に笑みはない。
「トワ様、わたくし共が前へ出ます」
「……はい」
『火』という魔術属性もあって、トワは近接戦闘を得意としない。
「十士五劔『火』のシュカ」
「十士五劔『空』のシキ」
「参ります」「参る」
二人が消えたかと思えば、ハートドラックを挟撃する形で出現。シキは拳を、シュカは閉じた和傘を構えている。
敵の目はまだトワに向いている。
紅い針が現れた。針といっても、時計の針を連想させるものだ。真紅の矢印が二つで一セット。一つは長く、一つは短い。ハートドラックは『進行』を『時計の針』のイメージで発現したようだ。
それを左右に展開。
彼から見て時計回りに、針が進む。ぐるぐるぐるぐる、異様に速い。正常な時の刻み方ではない。
本来ならシキの右腕もシュカの和傘も朽ちて崩れるところ。
「――――」
だが、そうはならなかった。
シキが纏う軍服を思わせる純白の詰め襟の内、右腕を覆う布。
シュカが振るった傘を構成するものの内、傘布の部分。
それらが花が枯れるように萎れ、散り散りになって風に消えた。
それだけ。
シキの右腕もシュカの傘の骨組みも、ある素材で作られている。アークレアでヘケロメタンのみだろう。魔力を通さず、また触れた者の魔法を封じる――魔封石を複雑な形に加工出来るのは。
トウマの刀も、シキの義手も、シュカの傘も、魔封石製。
二人の動きに対応出来ただけでも、ハートドラックが優れた英雄だと分かる。そこから色彩属性による迎撃を左右同時展開してみせたのも見事の一言。瞬間的な発動だった為、魔法の規模はおそらく最小。だからこそ二人は全身を『進行』されずに済んだ。どんな魔法使いでも、考えなければ魔法が使えないのは同じ。判断までに掛かる時間を減らしてやれば、出てくる魔法もそれに応じて小規模にならざるを得ない。
折れて砕けた時計の針。拳と傘の石突きが『紅の英雄』に迫る。
彼はそのどちらも手で掴んで止めた。
掴んでしまったのだ。驚異的な反応速度だが、掴むべきではなかった。
二人はただハートドラックを見ている。合図も何もなし。
それでも、為すべきことが何かは理解していた。
直後、ハートドラックの立つ地面から火柱が上がる。
色彩属性といえど魔術属性。魔封石に触れた状態では使えない。
たった一瞬の好機を、トワは逃さない。
業火が死した英雄を焼き尽くす。
神話英雄が弱いのではない。最も重要な精神が欠けていたことで、その強さが大きく削がれた。
そしてもう一つ。千年前の生存者達。
ジャンヌは人の心を弄ぶ。だからダルトラを筆頭とした連合に対して神話英雄とリガルの屍をぶつけてきた。一般の兵士はもちろん、貴族や英雄でさえ彼らを知っている。その武勇を知っている。
どうしても、そこに萎縮してしまう。そうでなくとも、戦うこと自体を躊躇う気持ちが出てくる。
誰もが幸助のように、必要というだけで行動に移せるわけではない。
ジャンヌの思惑は大きく外れた。
神話英雄に主を封じられ、同胞を殺されたヘケロメタンの者達。
彼らの魂に燻っていた復讐心は、戦闘に躊躇いなど生じさせない。
なによりも、彼らは神話英雄を実際に知っているのだ。
心を奪われた動く屍。
生き延びた先で刃を研いでいた戦士達。
この差が、本来ならば絶望的な勝率を僅かばかり引き上げた。
赤々と燃える炎はシキの右腕とシュカの傘を巻き込みながら揺らめいている。
魔封石は傷まないだろうが、生身の二人に炎熱は堪えるだろう。
だが二人は離れなかった。
炎が消えるまで。




