256◇惨憺たる劇毒、慈母が如き神愛、蝕むは2
兵士は首を――横に振った。
ギリ、とアリルデントは歯を軋ませる。よくない。
丹念に心を折ったつもりだったのに。
「……よろしいのですか、このまま死んでも構わないと? 腹いっぱいに好きなものを食し、友と語らい、愛する者を抱き、眠気に誘われるまま床につく。そういったささやかな幸福を二度と噛みしめることが出来なくなるのです。もしや我ら転生者がいるばかりに、期待をしているのですか? でしたら無駄です。貴方のような凡夫が死した先に待つのは無なのですから、二度目など期待されませんように」
青年がなにやら言おうとしている。
だが言葉にはならない。
しかし、瞳に活力が戻っていた。
怒りか。
絶望を一時押しのける程の、強い怒り。
――興ざめだ。
希望に揺らいだ弱者の心を、とどめとばかりに圧し折る。その時の快感たるや筆舌に尽くし難い。
それをアリルデントは先程から……五、六、七。ちらりと周囲を確認。この青年を入れて七回も味わえずにいる。
ダルトラの兵士は練度が高いばかりではなく、志までも高い。
膝を屈しても、魂は売らない。そんな瀬戸際の強さを持っている。
さすがは英雄国家と呼ばれる国の兵だけあるか。あるいは指揮官や戦場を駆け巡る他の英雄らに当てられ、正なる面が鼓舞されているのか。
認めよう、自分は失敗した。
「……よろしい。そのまま死になさい」
消化不良だ。
快感は確かにあったが、もっと出来た。自分は。相手が気を削いだ。つまらない。
まぁいい、とアリルデントは気を取り直す。
幸い、標的は幾らでもいる。
アリルデントは戦域の後方に位置どっていた。適度に前に出て、英雄規格だと気づいてなお挑んで来る者を釣る。こちらが逃げたように見せかけ深追いさせる。
出来れば一人ずつ。難しいようなら複数でも構わない。毒の量を調節し、死の予定時間をずらせば済む。そうして一人ずつ鑑賞。戦場なのでじっくりとはいかないが、臨場感もあってお手軽ながら強い快感を得られる。
「――あぁ、なんてこと」
声。
アリルデントの毒を食らって、まともに発声出来る者などいる筈がない。清冷、とでも言えばいいのか、聞くものを涼やかな気分にさせる不思議な声だった。不安と無縁の、安らかさを授けるような美しい声音。なのに、温かいのではなく涼しい。つまりどこか冷たいと感じたのは、なんだ。
アリルデントは目を瞠る。
既に興味を失った青年。
彼を胸に抱く女性がいた。
「大丈夫、頑張りましたね。聞こえていましたよ、死の淵に立とうとも揺るがぬ信念。お母さんは貴方を誇りに思います」
金の長髪、翠玉の両眼に褐色の肌。とても美しい女だ。だが情欲を掻き立てられるようなものではない。むしろ逆。そういった感情の抱きようのない美しさを、女は持っている。
悲しげでありながら誇らしげな表情をしていた。丁度、我が子の努力を誇らしく思いながらも、怪我してしまったことに胸を痛める母親のような表情を浮かべている。
アリルデントの意識の隙きをついて接近したのか。
だがアリルデントはそこに驚いたのではない。
彼女に抱かれた青年が見る見る内に生気を取り戻したことも、デレデレ笑いだし「母さん……」などと寝言をほざいたことも、どうでもいい。
彼女が身に纏っているのは、修道服めいた衣装。
――しゅっ、修道騎士!
驚喜したのだ。
修道騎士と言えば、通常戦場に現れることのない英雄規格だ。神に仕える聖なる者。
多分、アリルデントは穢したいのだ。
強い者の強さを。美しい者の美しさを。気高さとか、希望とか。世界に存在する全てを正負に分類した時、正に属するあらゆるものを、毒したい。蝕みたい。そこに価値や誇りを見出していた人間共が、そんなものは全部無価値でもう死ぬだけなのだと悟った時の顔を見たい。見たい。見たくて堪らない。
修道騎士は周囲の死体を見回し、涙を流した。子を亡くした母親の涙だ。
いかれている。
面識があったかどうか定かではないが、たまたまアリルデントの標的となった七人全員に我が子同然の愛情を注いでいるということはあるまい。つまり、彼女の狂気はそこにあるのだ。異常なまでの、愛の適用。
「何故……何故このようなことを。お母さんは悲しいです」
「私に母はおりませんが」
「全ての子には母がいるものですよ。何故なら、私がいる」
「狂っていますね。穢しがいがあるというものです」
「母に邪な感情を向けてはなりませんよ」
「そうですか、では母上。我が子に何をするおつもりで? 私はこれから貴方の死にゆくところを心ゆくまで鑑賞するつもりです。子の願いが為に命を捧げてくれますか?」
彼女が首を横に振った。
目を伏せたのは一瞬。苦しげな顔にはだが、決意の色も滲んでいる。
「いいえ、いいえ。趣味嗜好は個人の自由、母の干渉するところではありません。ですが、ですがですよ? 己が欲を満たさんが為に人を傷つける行為は認められません」
「認めないと、どうなるのです? 尻でも叩かれてしまうのですかな?」
アリルデントは察していた。
彼女も自分と同じ、力押しの魔法使いではない。妙な方向に特化した『治癒』持ちといったところだろう。
「それで『やってはいけないこと』を学べるのであれば、そうしましょう。ですがお母さんは思うのです。人の気持ちを理解するには、『やられたらどれだけ嫌か』を知る必要があります」
「ようは暴力による躾ですね」
ゆったりと首を横に振る女。
「暴力とは乱暴に力を振るうこと。乱暴とは道理を無視した振る舞いのこと。分かりますか? 道理を説く為に涙を呑んで振るう鞭は、暴力ではないのです。そこを理解出来ないとは、貴方は嗜虐性の伴わない痛みを知らないのですね。悲しいことです。でも安心してくださいね。お母さんが真なる愛を注いで差し上げます。全ての赤子は無垢にして善。道を外れたが為に悪に染まったに過ぎません」
「善なる者になりたいとは思いませんが」
「悪の所為です。お母さんが道を正してあげますからね」
「……貴方が醜く命乞いするのが楽しみでなりませんよ」
「いけない子」
青年を横たえ、立ち上がる。
「『英雄旅団』所属――『惨毒の英雄』アリルデント=ファシーガロン。親殺しですか、したことがなかったので楽しみですよ」
「聖教軍神園騎士団『天眠守護之番』第一席――『慈愛の修道騎士』テレサ。心苦しいですが、教え育てることこそを教育と言うのならば、これもまた親の役目と受け入れましょう」




