197◇湯けむりフルムーン
それを何かに喩えるのは難しい。布団に包まれているようとも、炬燵に肩まで沈めるとも、やはり違うだろう。湯に浸かる感覚は、そもそも喩える必要の無いものなのかもしれない。
身体をゆっくりと芯まで温めてくれるような入浴という行為が、幸助は嫌いではなかった。
しかし思い返してみると、アークレアに来てから湯船に浸かって休息をとったことはあまり無いかもしれない。ある程度時間が掛かってしまうことだから、余裕が無くシャワーで身体を洗い流すことの方が多かった。
露天風呂だ。
鎖骨より上は外気に触れているが、頬を撫でる冷気がまた心地いい。
疲れが湯に溶け出して、身体から出ていくようだ。吐く息は自然と長くなる。
夜天に浮かぶ星々の輝きは強く、また地球のものよりも存在感の大きい月も美しい。
空が近く感じられた。手を伸ばせば、月さえ摘むことが出来てしまいそうな程に。
隣の女湯からは女性陣の楽しそうな声が聞こえてくるが、男湯は今のところ幸助一人だ。
右手をそっと空へ伸ばしてみる。
月の縁に合わせて手を開き、摘むように縮めていく。
「手が届きそう、ですか?」
脱衣所の方から声がして、視線を遣るとそこにはアキハがいた。
少女と見紛う容貌をしている、線の細い少年。
繊手で髪を掬い耳に掛ける仕草など、妙に色っぽい。
加えて――どういうわけか、てぬぐいを胸許に寄せて垂らしている。
まだ酔いが抜けきっていないのか、僅かに頬も赤い。
ゆっくりと湯に足を入れ、慎重に全身まで浸かる。
「ふはぁ。生き返りますねぇ。あっ、すみません、稀人の方には失礼な表現だったでしょうか」
ヘケロメタンでは来訪者を稀人、英雄規格を大稀人と言うらしかった。
来訪者は総じて転生者であるわけだから、生き返る、というのは冗談でもなんでもない。
不快に思ってしまうのでは、と考えるのも無理はなかった。
「いや、気にしないよ」
言うと、アキハは安心するように、そして懐かしむように微笑む。
きっと、エルマーも同じように答えたのだろう。それでも謝罪の言葉を口にしたのは、エルマーとクロを分けて考えてくれているということ。
「……それはいいんだが、あー、アキハ?」
「なんでしょう?」
「近くないか?」
じりじりと近づいてきていたのには気付いていたが、今では肩が触れ合う距離になっていた。
「えー、そうですかね~?」
語尾は伸びているし、目は泳いでいる。
「……まぁいいや。シキは?」
「あぁ、シキ殿が五劔の代表なんですけど、今色んな人達に色んなことを指示しているところだと思います」
「そっか……領主のカグヤは風呂ではしゃいでるみたいだけど?」
どうやらカグヤがトワに抱きついているらしく、楽しそうな声が聞こえてくる。
アキハは困ったように苦笑した。
「いやぁ……カグヤ様もやれば出来る子なんですよ? 僕やシュカ姉なんかは師匠がいなくなって、仲間も大勢死んで、時間さえ地続きで無かった時、膝を折るしか出来なかったですから」
そう言って、アキハは遠くを見るように目を細める。
「ハルヤは誰かの上に立つような人間ではないですし、シキ殿も魂が抜けたみたいになっていて……でも、カグヤ様だけは違いました。戦士では無かったカグヤ様が、僕らの誰よりも強い心を持っていた。『思考停止など、エルマー様の臣たる我らには許されぬことです』って」
それから、嬉しそうに口許を緩める。
「ガツンときましたよ。師匠は常々言っていました。考えることをやめるなと。主と仲間とまともな人生を失ったからと言って、僕らは立ち止まってはならない。そう気づかせてくれたのは彼女だ。だから、僕らの上に立つのは、カグヤ様なんです。だからこそ、考えることに疲れてしまったのも彼女なのかもしれません。それもクロ様のおかげで復活したようですが!」
尊敬の眼差し。どうやら少年は思ったことが言葉だけでなく顔や態度にも出るようだ。
「そんな大層な人間じゃないよ……今回だって、お前らに戦場に出るよう頼みに来たんだから」
「何を言うんですか! 人は一人では戦えません! どうにもならない状況というものはいつだってあるものです! それをどうにかしようともがくことは、方法を見つけようと奔走することは、卑下されるようなことでは決してないのです! それこそ、考え続けるということなのですから!」
自嘲するような幸助の言葉を否定するよう、アキハは熱弁を振るう。
「……ありがとう。でもそれなら、お前も『僕なんか』ってのをやめろよな」
「うぇ?」
「トウマと戦ったけど、強かった。お前が師匠なんだって?」
「いやぁ、あれはトウマが優秀なだけですよ。僕とはモノが違いますから。あ、そういえばクロ様は一刀二閃が気になっているとか?」
「あぁ、その一瞬で二箇所斬るやつな。あれはなんだ? 魔法なのか?」
まったく同時に二箇所を、だ。まさしく一刀が二つに閃いた。
「いやぁ、それがですねぇ、実はよくわからないんですよ」
「よくわからない?」
アキハは才能が無かった。それでも戦いたかった。エルマーはそんなアキハに稽古をつけてくれた。
アキハは努力したが、とかく才能が無かった。
種を持っていないから、芽吹くことは無い。
土に水だけ与えても花は咲かない。全ては無駄ごと。
それでもエルマーはアキハを見限らなかった。
アキハが諦めていないからだと言っていた。
アキハが諦めないでいられたのは、エルマーがアキハを諦めていないからだったが、アキハはまだしぶとく努力を続けることに決めた。
最初は持ち上げるにも難儀していた剣を、いつしか振れるようになった。ものを斬れるようになった。動く敵を斬れるようになった。武器を持つ敵を斬れるようになった。魔法を使う敵を斬れるようになった。
無闇に努力を続けるのではなく、考え、必要なことに取り組む。上を目指すということは、考え続けるということはそういうことなのだと気付いた。
種を持っていないのではない。それぞれに育て方というものがある。育ち方というものがある。
早熟なものもいれば、晩成するものもいる。
そういうことなのだと。
エルマーが消えてから、それでもアキハは努力を続けた。
もっと速く振れる筈。一つの体勢から斬れる箇所は一つではない筈。来る日も来る日も剣を振った。
無心で、ではない。考えて考えて考えて考え続けながら振った。
季節が幾度巡っても振り続けた。
アキハにはおよそ才能といったものが無い。身体につく筋肉には限度があった。速度を損なわずに増やせる体重にも限界がある。強く、速くを肉体面で追求しても、すぐに頭打ちになった。
技術だ。努力は容易く自分を裏切るが、自分だけは努力を裏切ってはならない。身につけるのだ。
幸い、時間だけはあった。
だから、アキハは努力を続けた。
千年続けた。
主が諦めなかった自分を、自分が諦めるなんてことは出来なかったから。
そしてある時、見えた。
辿ることの出来る剣の軌跡が、複数。
後は実際に選んで、どちらかに刃を奔らせるだけ。
あぁ、だがどちらも捨てがたい。
同時に斬れたらいいのに。
どちらを選んだかは覚えていない。
気付けば、どちらにも刃は刻まれていた。




