178◇万象を見透かす瞳なれど
じわりと、額に汗が浮かぶ。
恐怖や激痛の際に絞られる、粘度の高いそれがゆっくりと瞼へと落ちた。瞳を僅かに濡らし、像をぼやかす。
セツナの腹部は盲目の将・ジャンヌの剣によって貫かれ、いざ拷問が本格的に始まろうとしたその矢先に青年は現れた。
『蒼の英雄』ルキウス。
ジャンヌの言った裏切りの貴公子様という言葉に、場違いにも笑みが漏れる。
だが口から発せられたそれは笑い声ではなく苦鳴だった。腸が刻まれ流出しかかっているのだ、無理も無い。
「彼女を治療します」
その声は力強く、有無を言わせない語調だった。
だがジャンヌは平然と肩を竦めて嗤う。
「おいおい、ルキウスくん。きみねぇ、そりゃあわたし達は来る者は拒まずでやっているけれども、だからと言って門をくぐったら即対等な仲間ってわけじゃあないんだよ? 身の程を知りなさいな」
「……この牢は魔力の発露を阻害する。当然、伝達もしない。だから僕が直接足を運んだのです」
ルキウスが一枚の紙を取り出すと、そこでようやくジャンヌの笑みが消えた。
うんざりしたように、手で顔の半分をおさえる。
「あぁ……わざわざご丁寧に紙の命令書を運んでくださったというわけか。でもね、子猫ちゃんの移送まで含めてわたしの担当だった筈なんだけどな?」
「皇帝……陛下が許可なさいました。彼女は僕が連れて行く」
どうやら、ルキウスはセツナの移送を担当するようだ。
「……陛下のグレア贔屓も困ったものだなぁ……。お互い男色ってわけでもないだろうに……どんな関係なんだか。まぁいいさ。でもそうだな、もう少し待ってくれるかい? あとちょっとでいいんだ。視ていたいんだよ、この子をね」
ジャンヌの口の端に浮かぶのは、嗜虐を予期させる微笑み。
「いいえ、僕は命令をただちに遂行します」
許さぬとばかりに、ルキウスは一歩進み出る。
その首元に、ジャンヌの剣が添えられた。
「邪魔立てするのは賢くないよ、ルキウスくん。君の『蒼』じゃあ、わたしを染め上げるには力不足にも程がある。安心するといい、殺さず、必要な情報を引き出してからきみに引き渡すとも」
「聞こえませんでしたか? 彼女を治療します。今すぐに」
「情が残っているのかい? 笑わせないでくれよ、攫ったのは他でもない、きみたちだろう! エルフィともども、つまらない偽善に酔うものだね。猫ちゃんを救いたいなら、今すぐにクロノを含めた同盟の情報を提供すればいい。グレアでもなければ、そんな中途半端な裏切り認めないはしないというのに」
「陛下の命令を妨げることこそ、アークスバオナに対する裏切り行為では?」
「はっ、甘い顔で苦い皮肉を吐くものだ。それで、わたしを牢にでも閉じ込めるかい? 出来るのかな、きみ程度に」
「どうでしょうね」
「あはは、さすがにこの程度じゃあ怯まないかぁ。じゃあ説得だ。わたし達はなんだい? 軍人だ。聖人でもなければ、一般人でも当然無い」
「であればこそ、命令に忠実であるべきでは?」
「命令の遂行に必要として、尋問をしているに過ぎない。帝国の勝利と繁栄の為だよ」
「拷問がですか?」
「やめてくれ。きみだって清廉潔白とはいかないだろう。暴力の行使をこれまでの人生で一度も経験したことがないとでも? こんなもの、必要に応じてどうとでも振るえるだろうに」
「戦場で剣を交える敵であれば、苦しみと共に排除することもありましょう。それが後の平穏に繋がると信じればこそ」
「そうそう、これもそういうこと。わかるよね?」
「いいえ、分かりません。無抵抗の淑女を甚振ることは看過出来ない。それは主張の違いからくる衝突ではなく、一方的な加虐であるのだから。軍人であればこそ、我々は暴力を武力の範疇に収めて行使しなければならないのです」
「見解の相違だねぇ。わたしの元いた世界では、拷問も軍人の任務の範疇だったのだけれど」
「少なくとも、今この瞬間は違う」
ルキウスが更にもう一歩足を進める。
「……ふぅむ。その首を刎ねようか、今わたしは大いに悩んでいるよ…………なぁんて、ね」
ジャンヌは呆れるように言って、剣を収める。
大げさに身体をどけて、道を譲る。
「どうぞ王子様。自ら幽閉した姫を、颯爽と救い出すといい。感謝が返ってくると思っているのなら度し難い愚かさだし、怒りを向けられると知ってなお来たのなら被虐趣味を疑うよ。どちらにしろ、きみのその善意は倒錯している。きみが攫わなければ、猫ちゃんは傷つかなかったのだからね?」
ジャンヌの声を無視して、ルキウスはセツナの拘束具を外した。
力の入らない身体を、彼がそのまま抱き上げる。
「…………お召し物が、獣の血で汚れるぞ、裏切りの貴公子」
セツナの皮肉に、ルキウスは表情を曇らせるだけで何も言わない。
亜人の傷口を見て、青年英雄は怒りに顔を歪めてジャンヌを睨んだ。
「インヴァウス将軍」
「なんだい?」
見えてはいなくとも視えてはいる筈だろうに、ジャンヌは嫣然と微笑むばかり。
「話が違う。捕虜は丁重に扱うと――」
「それはグレアときみの約束だろう? わたしときみの間に結ばれているものなんて無い。何も無いんだから、非難される筋合いなんてものも当然、無いわけだ。違うかな? もちろん人道を持ち出せば別だけれど、それを言うには自身の裏切りを棚上げしなければね」
ルキウスの言葉を遮り、飄々とそんなことを宣う。その場で器用に回り始める様は、相手をバカにしているとしか思えなかった。
「ルキウスくん、クロノはその子を見捨てられない。だから、うん、ロエルビナフには来るだろう。でも、わたしにはどうしても、彼がこちらの提案に応じるとは思えないのだよ」
「……何が仰りたいのですか」
「ダルトラやきみの仲間が助かる道は用意するとも。わたしとしても、面白そうだとは思うからね。けれど、わたしはグレアじゃあない。陛下も同じだ。歩み寄りの姿勢は見せるが、相手がその手を払いのけるなら、次に交わされるのは剣戟だ。その時どちらにつくか、今から考えておくといい」
「失礼します」
ルキウスは答えず、牢を出る。
外気の魔力を感知。結界の範囲外に出た瞬間、『治癒』魔法を展開。傷を癒やす。
「……申し訳ありません」
外へ出ると、魔動馬車と軍人が数名待ち構えていた。魔封石の手錠を持ってこちらに近づいてくる。
半ば強引に彼の腕から逃れ、自分の足で立つ。
失った血液の量が多すぎたのか、足元がふらつく。
「……感謝はしない。貴様なりにマスターやトワ様の身を案じての行為であるとは理解した故、恨みもまたしない。だがな、言っておくぞ」
軍人に手枷を嵌められながら、セツナは言う。
「あの人は、わたしだけでなく、貴様らをも救おうとする。ジャンヌという女と同じことを言うなど業腹だが、貴様はやはり選ぶべきだ。共に剣を振るうか、それとも交えるかをな」
移送用の馬車へ連行される中で、セツナの血で汚れたルキウスは顔を伏せた。
「寄り添うだけが友ではありません。友の理想と命、片方しか尊重出来ないなら、僕は命を選ぶ。恨まれようが、刃を交わすことになろうが」
「そう思うなら、せめて俯くな。視線が前以外へと向けられる時点で、決意の程が知れるというもの。選んだならば、前を見ろ」
ルキウスは驚いたように顔を上げ、小さくこぼす。
「……貴方は、とても強い方ですね」
セツナは小馬鹿にするように笑う。
「貴様が軟弱なのだ。それと、あの女に言っておけ。剣を交えることになろうとも、あの人が敗れることは無い。それを見通すことが出来ぬ貴様の目は、万象を見透かそうとも節穴なのだとな」
またも目を見開くルキウスの表情が、整った容姿をして間抜けに映る程で、痛快だった。




