170◇世界による辻褄合わせ
アークスバオナ帝都、極限られた者のみぞ知る結界に覆われし空間。
魔力・生命力・スキル・加護、果ては権能と呼ばれる神性まで含め、あらゆる『力の類』を外部に漏らさぬ秘所に幽閉されるは、皇后の身と、不遜にも彼女を依り代とし顕現する――悪神だ。
英雄旅団団長にして『暗の英雄』であるグレアグリッフェンは、一人その場を訪れていた。
牢屋だ。独房よりは広く、集団房よりは狭い室内。壁面は石組み。清潔に保ってはいるが、暗さの為か、あるいは悪神の放つ瘴気がそうさせるのか、『穢れている』と強く感じさせる。
「それはね、グレア。神を前にしたことによって、魂が畏れを感じているのよ」
拘束衣の上から鎖を巻かれた状態で、そこから更に壁に固定されているというのに、悪神は謡うように言う。
人の胸中を見透かすような言葉を、慈母の子守唄のように、優しく柔らかな声色で。
対するグレアの声は、冷め切っている。
「畏れなど無い。己はこう感じている。『可能なら殺してやりたい』と。憎悪より他に、貴様に向ける感情などあるわけもないのだから」
本当に、美しく嫋やかな女性だった。
色素の薄い紫の長髪、優しげな目元と赤い瞳、柔らかい笑顔を描く唇。
子を二人産んだというのに、ふとした時に見せる表情はあどけない少女のようで。
皇帝の妻であり、皇子や皇女の母であり、生粋のアークレア人でありながら優れた魔法適正を持った魔法使いであった女性。
けれど、同じ貌をして、同じ聲をしているのに。
眼前に在るのは、紛れもなく敬愛する皇后と同じ躰だというのに。
一目で、次の瞬きを挟むまでもなく一瞬で理解出来てしまう。
それほどまでに、悪神に侵された彼女は別物だった。
「最近は無礼な物言いも慣れてきたわね」
楽しげな声と、艶めいた表情。魅力と厭悪を同時に掻き立てられるような、頭痛を催す仕草。
「貴様とユリアーナ様を同一視することこそが、何よりも許されざる不敬と悟ったからに過ぎない」
ユリアーナ・アーヴィラ・マ=アークスバオナ。それが元の肉体の持ち主の名だ。
真の意味でグレアの主を理解している者は少ない。
グレアが末席に座る帝国最高貢献者七征においても、おそらく自身のみ。
皇子皇女でさえ皇帝の真意など露程も忖度出来ぬだろう。
だが彼女は違った。グレアは臣下としてだが、彼女は妻として皇帝に理解を示した。
皇帝にとって愛する者であり、グレアにとって敬愛する者であった。
それを、悪神に乗っ取られた。乗っ取られている。
どうして殺意を堪えられよう。
「あら、ユリアーナは消えてしまったわけではないわ。わたしの中に、ずっと居るもの」
だがその言葉一つで、悪神を傷つける全ての方法は容易く失われる。
虚言なのだとしても、皇后の精神がいまだ消滅していないのだとすれば、いつか救えるかもしれないという可能性が残るからだ。
『白の英雄』クウィンティをこの場に連れてきたのも、それを期待してのことだった。
自身を睨みつけるグレアを見て、悪神は一層楽しそうに笑みを深める。
「あなたを苦しめるのはいい退屈しのぎになるからもう少し楽しみたいところなのだけれど、今はそれよりも気になることがあるからこれくらいにしてあげる。感謝し、そして話しなさい、グレア。理由もなくわたしの許を訪れるあなたではないでしょう?」
胸の内を覗いたかのような言葉に、グレアは不快感を隠さず表情を歪める。
だがそれが奴を喜ばせるだけと思い出し、すぐに消した。
そんなグレアの一挙一動を、悪神は満足げに眺めている。
「力を寄越せ」
端的に要求を述べる。
眼前にて妖しく唇を吊り上げる悪しき神が、度し難き存在であることは重々承知。
その上で、グレアは恥を押して悪神にこそ力を求めねばならなかった。
そうでもしなければ届かぬ高みに、一人の男がいる。
「以前あげたでしょう」
応えは簡潔にして冷徹。
微笑は固まり不審げに。
「あれでは足りぬ」
そして、不愉快そうに目元を歪める。
「足りない? 有り得ないわ。個人戦闘能力なら、あなたはアークレア一の筈よ。それにあなたは旅団を持っている。それでいて、なに? 足りないだなんて、一体どんな冗談?」
悪神はかつて、皇帝とグレアに一つの取引を持ちかけた。経緯から、取り引きというよりは脅迫に等しかったが、それでも皇帝とグレアはそれを了承した。
グレアが手に入れた概念属性は、悪神の力を『併呑』して得たものだ。
クロノが短期間で連合を率いるまでに至れたように、『黒』の力は絶大。それに神の力が加わるとなれば、敵なしと言ったところで大言とならぬだろう。
無論、戦争を個人で勝ち抜くことは出来ない。一対一であろうと、実力それ一つで勝敗が決定づけられることは無い。悪神が個人戦闘能力と前置きしたのも、それを理解してのことだ。
そも、こと戦闘において概念属性を使う機会など余程の事態でもなければ有り得ない。
単に『黒の英雄』として、グレアは類稀なる強者なのだ。
だからこそ、不可解なのだろう。
既に充分以上の力を有した者が、旅団を持つグレアが、己の力に不足を感じているという事実が。
だがそんな戸惑いも、奴はすぐに解消してみせた。
勝手に納得したような顔をして、嘆息混じりに言葉を吐き出す。
「あーあ、あれも性格が悪いわね。ねぇ、グレア。あなたを負かした男の名は――黒野幸助と言わなかった?」
「――――何故、貴様が」
目を見開くグレアの反応で、悪神は己の考えが当たっていたことに気付いたようで、愉快げに嗤う。
「幾らあなたをわたしに獲られたからと言って、ふふっ、やることが短絡的だわ……でも、そう、あなた、彼に負けたの」
転生者を選んでいるのは、神だ。便宜上善神とでも言おうか。
そして神殿の所有権は悪神には無い。
だが、ある事情で、現在アークスバオナ領内の神殿は悪神の勢力圏となっているらしい。
つまり、グレアを含むアークスバオナ領内に転生した者は、悪神に見出されたということ。
本来ならば神が悪神を倒さんとして集めたかったであろう英雄の多くが、アークスバオナに転生し、帝国に属している。
それは悪神にとって、神に対する極上の嫌がらせの筈だった。
『黒』を筆頭に多くの色彩属性を勢力下に置いているのだ、さぞや気分が良かっただろう。
次の瞬間、悪神の表情はそれだけで世界を凍らせてしまいそうな程に冷厳なものへと変質する。
「でも、今回の彼は概念属性をどうやって……あぁ、一度目の彼を使ったのね。そういえば一つ、悪領が奪われて……なるほどそれならグレアが負けるのも頷けるわ。ふふ、折角優勢だと思ったのに、大したやつ。まったく、あぁもうッ! 本当に本当に本当に本当に!」
グレアがこの場にいることを露ほども気にせず、悪神は暴れるようにもがきながら叫ぶ。
「ねぇ、グレア。分かる? わたしがどれだけ苦労してあなたを見つけたか! 連れてくる死者選びというのはね、本当に地味で面倒な作業なのよ! 砂漠の砂を一粒一粒手にとって、それが糖の結晶かどうか確かめるような! それでいて、舌の上に乗せるまで甘いかどうかも分からない! 神をして気が狂いそうなんて思う程に! 英雄は甘く、その他大勢はハズレというわけね! ねぇ、この苦労が分かる!?」
激昂する悪神は、転生の仕組みについて語っているようだった。
もしそれが事実なら、納得がいくことも多い。
全ての異界の人間を砂に例え、その集合を砂漠というのであれば。
その一粒一粒を拾い上げ、転生させるかどうかを決めているのであれば。
旅団と連合の陣営に因縁を持った者が多くいたのも頷ける。
そもそもがその世界、砂粒の集まりを眺めていた時期が近いのだろう。
そして、転生させるまでどのような補正を受けるか分からないという仮説が正しかったことも証明された。
転生者は皆、甘いのではないかと舌の上に乗せられたものなのだ。
と、そこでグレアは気付く。
「……待て、つまりクロノが転生したのは――二度目だと、そう言いたいのか」
「言いたいのではなくて、言っているの! 次元誤差の極めて少ない世界から見繕ったのでしょう。同一の個体であれば、転生後のステータスも相似するわ! けれどね、それは愚策なのよ、本来であれば! 何故か分かる? 『一人の人間が一つの世界で二つの異なる人生を持つ』というのは理に反するの。神自ら理外の理を用いることは許されないわ。そんなことをすれば、世界そのものが歪みを修正しようと動く。神ではなく違反者に、摂理を侵した罪人に、選択を誤れば死を招くような苦難を死ぬまで与え続ける。歪みを最小限に留めようとして!」
悪神の言葉には理解出来ぬものもあったが、心当たりもまたあった。
間者や亡命者からの情報で確認済み。
クロノを襲った『死の危険』は転生当初から後を絶たない。
死んでいてもおかしくはなかった苦難が、確かに幾つも彼を襲っている。
それは人の意思の連なりなのだとしても、同時に必然でもあったというのか。
それほどまでに、許されぬことだということなのかもしれない。
起きてしまった問題を無かったことに出来ぬからこそ、終わらせようと働く力。
人間が問題に対処するように、世界もまた歪みを修正しようと動く。
例えば、アークスバオナとダルトラの両陣営にグレアが存在するというのは、異常どころの騒ぎではない。明確に理を外れている。時代が異なったとしても、それは変わらないと言いたいのだろう。
神が世界を創造したのだとしても、神もまた世界に存在している以上、全能でもってあらゆることを思い通りとはいかないようだ。
そもそも、そうなのだとすれば転生者など不要。
グレアらを必要としている時点で、神という存在の不自由さあるいは不完全さが透けて見える。
「本来ならば、一日と保たない筈なのに! なのに、なに? グレアに勝った? よりにもよって、わたしの腕を喰らい、躰を封じたあの男と同一の存在が! なんて、なんて――度し難い!」
悪神は今まで見たことも無いほどに取り乱している。
赫怒を湛えた双眼がグレアを貫き、視線だけで燃やし尽くそうとでもしているかのように睨んだ。
「やられたわ、本当に最悪よ。上手いと、そう言わざるを得ない。あなたには分からないわよね。二度目の彼は、死の押し付けからは解放されているの。修正は済んだ」




