134◇永遠を無くしては、刹那に手を伸ばし
『精神汚染』より脱却したエルマーが、セツナを見上げる。
それから隣に立つ幸助を見て――淡く微笑んだ。
たったそれだけの情報で、状況を把握したようだ。
「……なるほど、俺に引導を渡すのは、別の俺ってわけだ」
エルマーが立ち上がる。落ちた刀は拾わない。
「なんていうか、久々に悪くない気分だ。それにしても、セツナ」
「は、はい」
「若い頃の俺って、結構幼い顔してるんだなぁ」
「そ、そう思います。い、いえ! もちろんわたしは男らしくありながらも理知的な今のこうすけさんが至高だと考えますが、過去のこうすけさんもやはり魅力的で捨てがたく……」
「あはは、セツナは優しいな」
「そ、そのようなことは……っ!」
幸助と喋っている時とはえらい違いである。年頃の少女のように頬を染め緊張している様は可愛らしかったが、それが五つ年上の自分に対してのものであるというのは、なんとも複雑な気持ちだ。
「それで、お前が十八の俺か」
大人びた、どころか大人になった自分の姿というのは、新鮮でありながら違和感がある。
「セツナを解放してくれたんだな。ありがとよ」
繋がりを断ったことを言っているのだろう。
「感謝ついでに、もう幾つか頼みがあるんだが、いいか?」
「いいよ。自分のやりたいことはやる。お前は俺だ。断る理由が無い」
幸助の言葉に、エルマーは呆れるように苦笑する。
「うわ、変に理屈っぽいなぁ。セツナ、俺こんなんだったっけ?」
「……え、あ、いえ、その……概ね」
「あっはっは。そうかそうか。そりゃそうだわな。んで、頼みなんだけどよ――殺してくれ」
空気が凍る。
「こ、こうすけ、さん」
「違うよセツナ。今までお前に言ってしまった、苦しみから逃げたいっていう願望じゃあないんだ。なぁ、えぇと、お前、名前は?」
「……クロ」
「じゃあクロ。お前が来たってことは、必要なんだろ。概念属性だけじゃなくて、俺の全部が」
「……あぁ」
「この悪領はちょっと特殊でな、生きている俺じゃあ外に出られない。絶対に。仮に出られたところで、『精神汚染』は治せない。いつか誰かに喰われる為だけに生きてるなんてクソだと思ってた。けど、お前で良かったよ。なぁ、クロ。俺は――英雄として死ぬのは御免だ。お前なら、分かってくれるだろう?」
「…………分かったよ」
幸助は剣を抜き、地面に突き刺す。手を離し、コートを脱ぎ捨てる。
「エルマー、お前は世界の為に犠牲になるんじゃない」
エルマーも腕を捲り、好戦的な笑みを浮かべる。
「そうさ、クロ。俺はただ、やりたいようにやる。強そうな奴と戦うのは好きだ」
「自分と戦う機会なんてそうそうない」
「最期の喧嘩には、丁度いい」
困惑するセツナを置いて、二人は距離を詰める。
「――黒野幸助。十八歳の若々しい方だ」
「――黒野幸助。二十三歳で大人の魅力に満ち溢れてる方だ」
「言うほど魅力的じゃねぇだろ」
「あ? 乳臭えガキよりマシだろうが」
「は?」
「は?」
同時に拳を突き出す。
互いの右拳が互いの左頬を打ち抜く。
清々しいくらいに不吉な音がして、二人揃ってよろめいた。
「……おいおい、五年分経験積んでそれかよ。何してたんだお前」
「あ~? お前こそ蚊が止まったのかと思ったぞ。つまりなんにも感じなかった」
「お前そのちょっと髭生やしてるのダサいんだよ」
「お前こそ前髪伸ばしてんの陰気臭えんだよ」
「あ?」
「あ?」
そうして、呆気にとられるセツナの前で、二人は殴り合いに興じた。
それは英雄同士の決闘と呼ぶにはあまりに泥臭く、稚拙で、何も懸かっていない――ただの喧嘩で。
ほんのひと時でも、英雄という鎖からエルマーを解放する数少ない手段であった。
大人が子供心を思い出したところで、子供には戻れないけれど。童心に帰ることで得られる楽しさというのがあるように。
英雄が只人に戻ることは出来ないが、それでもそうであった時の感情を思い起こすことで救われる最期がある。
世界に翻弄され、捨てられた英雄として終わりたくない。
幸助には、エルマーのささやかでありながら重いその願いが理解出来た。
「おいクロお前頬の腫れが引いてんぞ、治癒しやがったな?」
「お前こそさっきへし折ってやった右腕を平然と使ってんじゃねぇか。こすいんだよ」
「つぅかお前年上にタメ口利いてんじゃねぇか。生意気なガキめ」
「自分に敬語使うほどアホじゃねぇだけだっつぅんだよ」
睨み合い、それから笑い合う。
彼に残された時間はそう多くない筈だから、その喧嘩は長くても十五分程のもので。実際はもっとずっと短かったのかもしれない。それでも、充実していた。
重くなった足を引きずり、互いに近づく。
拳を振るう。
交差する直前、エルマーの体の動きが鈍った。
結果、幸助の拳だけが彼の顔面を捉え、体ごと吹き飛ばす。
幸助はそれを見て――泣き出しそうになる。
「……くそ」
決着は、力のぶつかり合いではなく、エルマーの『精神汚染』によってついてしまった。
仰向けになったエルマーが、頭だけ上げて幸助を見ると、へらへらと笑う。
「勝った方が泣くんじゃねぇよ」
「……こんなの、勝ちでもなんでもない」
「いいのさ。……いいんだよ、全部含めて俺の実力だ」
それから彼は背伸びするように腕を伸ばす。
「あー、楽しかった」
一切の憂いを感じない、楽しげな声に、セツナの表情が歪む。
「……なぁ、クロ。聞いときたいんだが」
「……あぁ」
「お前は、トワに逢えたのかよ」
「……逢えたよ」
「――――そう、か。どう、だった」
平然を装っているが、その声は震えている。
「どうって別に。相変わらずクソ生意気なやつだったさ」
「そうじゃねぇよ。分かるだろ」
分かっていても、口に出すのには時間が掛かった。
深呼吸を繰り返し、そっと、口にする。
「……俺のことを恨んでなかったよ。それどころか……あの日、一緒にいなくて、よかった、って……」
「そんなわけ――ッ! ……そんなわけ、ねぇだろ」
エルマーは幸助だ。だから、同じように怯えていた。妹を探して、でも妹に恨まれているかもしれないと苦しんだ。そして彼は、グラスが無い故に気づけなかった。
「……なぁ、加護って知ってるか」
「…………それがどうした」
「俺にも、お前にも有るんだよ。生存率極度上昇効果がついてる。名前は――トワの祈り」
瞠目し、エルマーは口を閉ざす。
ゆっくりと幸助の言葉を噛み締めるように、静かに目を閉じ。手で覆った。
沈黙を、啜り泣く声が柔らかく裂いていく。
「……そうか。いつも、どんな無茶をしても死ななかったのは。結果的にいつも生き延びることが出来たのは……あいつの――トワのおかげだったのかぁ……」
目と手の間から、水滴が流れ落ちていく。
セツナも俯き、肩を震わせている。
幸助は話しながら、剣の回収を済ませていた。
彼の許へ歩いていると、セツナが立ち塞がる。
「……お願いだ。もう少し、あと少しだけ」
請い願う彼女を見ても、幸助の意思は変わらない。
「エルマーは英雄として死にたくないんだよ。『精神汚染』に侵された『暗の英雄』に戻りたくないんだ。退いてくれ」
「……出来ないよ。出来るわけがない」
彼女の気持ちは痛い程分かった。けれど、それでも。
「お前の願いを叶えられる時間はそう長くない。安らかな最期を願っておいて、邪魔するのか」
「そんなこと――! そんなこと、言われたって、しょうがないじゃないか」
「セツナ。そう虐めてやるなよ。そう見えて、そいつも俺なんだ」
彼の言葉に、彼女は振り向く。
彼に駆け寄り、膝をつく。
「でも、今、こうしてお話出来ているではないですか! 今までよりもずっと長く、ずっと安定している! も、もしかしたら、このまま――」
駄々をこねる子供のようなセツナに、幸助は優しく教え諭すような声を掛ける。
「無理だよ、セツナ。あいつが出てこないのは、このまま放置してても願いが叶いそうだからさ。もしここでクロが殺すのをやめれば、すぐにでも顔を出す。これでも、かなりギリギリなんだ……」
「そんなの……」
「ごめんな、約束守れなくて」
その顔は、本当に申し訳なさそうなもので。
千年前の映像と、重なる。
「初めて逢った時、偉そうに『お前の幸せを探してやる』って言ったのにな」
それは、二人だけの記憶。幸助の関与する余地がない、過去の出来事。
セツナは喉を震わせ、胸を押さえながら、千年前に言えなかった続きを口にする。
「そんな……! わたしは、こうすけさんといられて、それだけで――幸せでした」
「……あはは、こんなんに莫迦みたいに長い時間付き合わされて、まだ言うか。大した女だよ、お前」
「わたしは……! セツナは、こうすけさんのことを、あ、あ、あ、あい……していますから……!」
ぽろぽろと涙を流す彼女を見て、エルマーは苦笑する。
そっと手を伸ばし、その涙を掬う。
「そうか……千年も冷めない愛、か。俺の方こそ幸せものだなぁ」
「……ごう、ずけ、ざん」
セツナは彼の手を愛おしそうに腕に抱く。どうにかこの世に繋ぎ止めようとするように。
「セツナ。最初で最後の命令を下すよ」
彼と彼女の繋がりは既に断たれた。エルマーの命令に、もはや強制力は無い。
「正常な時間の中で生きてくれ。ゆっくりと老いて、いつかまた逢えた時に同じ気持ちでいてくれたなら、その時に返事をするよ」
彼女程の忠誠心なら、後を追いかねない。
だからエルマーは言っているのだ。返事を聞きたいなら、ちゃんと生きてほしいと。
「……主の命令だぞ、返事は?」
セツナは最初、何度も首を横に振っていた。
けれど、エルマーの手が小刻みに震えだしたのを見て、刻限を悟ったのだろう。
やがて、絞り出すように言う。
「……はい」
それを聞いたエルマーは、満足げに「良い子だ」と笑ってから、彼女から手を離す。
それから殊更に明るい声を出した。
「つーわけで! そろそろ頼むよ、クロ」
彼に近づく。
「……気障なんだよ、お前」
「ロマンチストと言ってくれ」
ヘラヘラ笑うエルマーに、幸助も、微笑みを返す。
英雄としての言葉は要らない。同じ人間であるという事実さえ不要。
「じゃあな、エルマー」
「達者でな、クロ」
彼の心臓に剣を突き下ろす。
「……悪くない、二度目の人生だった」
剣を伝う感触は、かつてナイフで己の喉を掻き切った時よりも、ずっと生々しく、重い。
短い期間に、幸助は二度も自分を殺したのだ。
一度目で転生し、『黒の英雄』となり。
二度目で捕食し、『暗の英雄』となる。
彼の遺体が幸助の『黒』に沈んで、消えた。
一人の復讐完遂者、その二度目の人生は、こうして終わったのだ。
幸助に、痛みと力を遺して。




