116◇咬牙切歯
夜気を掻き分けるようにして、幸助は目的地へと急ぐ。
もといた世界より一回りほど大きいアークレアの月が、手が届きそうな程近くに感じる。
その錯覚は、幸助の移動方法が齎しているものだった。
竜の頭部、蝙蝠めいた一対の翼、鷲を思わせる脚、先端が鏃のようになっている尾。
月明が照らし出すシルエットは、もといた世界で言うところのワイバーンに酷似していた。
幸助の『黒』が創り出した型を、ソグルスの傀儡術で操っているのだ。
移動手段に空路を選んだことには理由があった。最短距離で目的地に向かえることはもちろん、魔力の問題を解消するのだ。
この世界の魔力と言えば、地より湧き起こり、天より降り注ぐもの。
悪領の魔物が地下へ潜る程強くなるのも、神域の試練が上階へ上がる程困難になるのも、理由は同じだ。
要するに、地下と天空は魔力濃度が高いのだ。
必然、地上よりも多くの魔力を取り込むことが出来る。
長距離高速移動を魔力で実現する幸助にとっては、空路こそが効率的なのである。
それは相手側にも言えることだが……。
空が白み始めた頃になり、目的地を捕捉。
降下を開始しながら、幸助の表情は歪んでいく。
魔力反応が、一つしか無いのだ。
捕虜となった国境警備隊全員に『囲繞』属性付与魔法でも掛けているのか。
あるいは、考えたくもないが――。
鉄網が、国境線を示すように長く長く続いている。
屯営の近くに、人影があった。
生者のものが、一つ。
その前にワイバーンが降り立つ。飛び降り、着地と同時にワイバーンを消す。
幸助とそう年の変わらない少年が、黒い軍服に身を包んでいた。
「よぉ、待ちくたびれたぜ」
妹を襲ったグループのリーダー格だ。彼の父が息子のあらゆる不祥事を揉み消した所為で、長く罪人が罰から逃れていた。幸助が殺すまでの、長い間。
本当に転生していたとは。自らの目で確かめるまで、半信半疑だったのだ。
人格の歪みや過去の所業は、転生においてさして重要な要素ではないのかもしれない。
英雄の狂気などを見るに、高遇の条件である可能性さえ。
だとしても、これはないだろうと幸助は思った。
どんな目的があるにしろ、自分とこの人間を同時代に存在させるとは愚かの極みだ。
そんなもの、どちらかが死ぬに決まっているのに。
「つぅかよ、テメェなんで此処にいんだよ? なんで死んだ? 親父の敵討ちにでも遭ったか? だったら最高だなぁ!」
二人の態度には、温度差があった。相手側が愉快げでさえあるのに対し、幸助のそれはどこまでも冷え切っている。
「お前らの末路が愉快過ぎてよ、笑い死にしたんだ。ここまで面白いくらいに因果応報ってあんだなって思ったら笑いが止まらなかった。それこそ、最高って感じだったな」
感情の込められていない幸助の言葉に、少年は血相を変えて怒りを露わにした。
「……そのスカした態度が気に食わねぇ! 俺らを殺す時もテメェはそうだったよな! なぁ、オイッ! テメェのそのツラが、こっちに来てからもずっと消えねぇんだよ! どうしてくれんだ!」
「知ったことか。……そんなことはどうでもいい。それよりお前、これは一体どういうことだ」
幸助の視線はやつの背後に向いていた。
途端に、少年はニヤニヤと卑しい笑みを浮かべて語り始める。
「そうだ、そうだった。再会を喜ぶあまり忘れちまってたぜ」
死んでいた。
全員、一人残らず首を吊られて、鉄網にぶら下がっている。
首吊り死体が国境線沿いに連なっている様は、幸助の心を急速に冷やしていく。
「この世界に来て、俺は心を入れ替えたんだぜ? これまでは楽しけりゃそれで良かった。だがな、今は違う。アークスバオナの為に身を粉にして働くつもりでいる。だってそうだろ! 世界征服! 最高じゃねぇか! テメェのおかげで、俺は力を手に入れた! もう親父を頼らなくても、俺自身が力を持ってんだ! この力でアークスバオナに貢献し、俺は次の景色を見る!」
「キーキーうるせぇんだよ。やってることは何も変わってねぇだろ、なんなんだお前」
「テメェこそ変わってねぇなぁ! 無駄なことに本気になってるとことか、笑えるぜ。テメェが来たら、それで兵士が全員生きて返ってくるとでも思ってたのか? 返して敵になるもんをくれてやるわけねぇだろ。ちったぁ頭使えや? な?」
頭が痛くなる。目の前の少年自体は、取るに足らない小物だ。魔法使いや戦士としては知らないが、少なくとも人間としては。
だが、幸助からすれば無視出来ない存在だった。例えば、幸助とトワの関係を少年がアークスバオナにバラしたとすれば、それだけでも懸念材料が増える。敵にとって、それは明確な隙になるからだ。
だから、幸助は知らなければならない。
目の前の男が、なにをどこまで、誰に伝えてしまったのかを。
「投降するなら、せめて殺し方は選ばせてやってもいいぞ」
幸助の提案とも言えない提案を、案の定少年は笑い飛ばした。
「妹の初めての相手に、随分な態度じゃねぇの。なぁ、お義兄さん?」
「――手足を切り落とす。仮にも来訪者なんだ、すぐには死なねぇだろう」
幸助が剣の柄に手を掛けても、少年の態度は変わらない。
余程の自信があるのか、自信満々にニヤニヤと笑っている。
「なぁ、黒野。テメェはこう思ってるだろう。『黒』さえありゃあ勝てる、とかってよ。だがな、そりゃ無理だぜ。なんてたって」ポケットから何かのスイッチらしきものを取り出し、押す。「此処では魔法が使えねぇからな!」
瞬間、異変が起きる。
周囲一体から魔力を感じなくなったばかりか、魔力を放出出来なくなった。
「一定範囲の魔力発露を阻害する、対魔法結界だ! 『黒』どころじゃねぇ、テメェは今、魔法を使えない雑魚ってわけだ! 対して俺の特化項目は身体能力! テメェは今から、為す術なく俺に殴り殺されるんだよ!」
なるほど、と自信の出処を理解する。
来訪者のステータス補正は、ほとんどの場合において偏る。大雑把には、魔法か身体能力かのどちらかに。前者が魔法使い、後者は戦士というふうにタイプわけが出来る。
だから、『黒』を得た幸助は魔法使い寄りの人間で、身体能力のみで比べれば自分が優ると考えること自体は、おかしくはない。それだけの補正は、やつも受けているということだ。
その為に、わざわざこんな仕掛けまで用意していたのだろう。
やつが地を蹴り、幸助に肉薄。
「おら、見えねぇだろ!」
幸助に右腕を振るう。
その右腕が、宙を舞った。
「――は?」
幸助から放たれた斬撃によって。
「ほら、見えないだろ?」
目を見開き呆然とするやつに、再び剣撃を見舞う。
咄嗟に下がろうするが、肩から脇腹に掛けて斜めに裂傷が刻まれた。
「な、な、な――」
「なぁ、……悪い、名前忘れた。とにかくお前、こう思ってたんだろ? どういうふうに死んだにしろ、黒野が自分より強いなんてありえねぇ、とか。たまたま『黒』に目覚めたから英雄に祭り上げられただけで、中身は安い復讐者。魔法を封じれば、自分の独擅場ってな具合にさ。わからなくもないよ。同じ世界出身で、年も変わらない。自分と大差ない、なんて考えるのも無理はない」
ただ、愚かだ。本当に、少年の上官はこの作戦で幸助を討ち取れると考えていたのだろうか。
あるいは、呼び寄せるところまででいけば大成功、という作戦なのかもしれない。
だとすれば、アークスバオナにとっては作戦成功で間違いないだろう。
「う、腕……俺の、右腕が……」
「俺を殴り殺すんだろ? やってみてくれよ。まだ左腕が残ってるじゃないか」
「有り得ねぇ……なんで、なんでテメェが」
「お前より強いのか? それは神にでも訊け。んなことより、ほら」
剣を構える。
「もう一度殺してやるから、来い」
少年の顔が絶望に染まる。
その顔を見るのは、過去生と合わせて、二度目のことだった。




