112◇血盟結びて、黒は滴る
「分からないよ」
幸助の答えに、シオンは呆気に取られたような顔をしたあと、憎々しげに表情を歪めた。
「……ふざけてんのか」
彼の、喉を押さえる手に力が込められる。
それに伴い、その声も掠れてしまう。
自身の身体が訴える渇きに逆らっているのだとしたら、理由はいかなるものなのだろう。
水ならそこにあるというのに。
あるいは、水では癒せぬ類の渇望だとでもいうのか。
「本当だ。自分のやってることが、正しいかなんて分からない。でも、正しく見せなければならないとは思ってるよ。俺が、俺達が正義だってことにしないといけないんだ。それがついてきてくれる皆を騙すことになるんだとしても、確信が持てないまま全力を出せる程、人は強くないから」
「だから、象徴になると?」
「多分、その為に英雄はいるんだ。武力にしろ、知略にしろ、言葉にしろ、拠り所となって集団を支える為に」
『戦争とはいえ人を殺すのは悪いことです。でも死にたくはないので国のために殺人をしましょう』と言うのと『戦争を仕掛けてきた敵から身を守る為に戦おう。正義は私達にある』と言うのでは、受ける印象がまったく異なる。
それを印象操作というのなら、誰に責められてもそれをすべきだ。
真実とやらを追求して得られるのが士気の低下なら、そんなもの覆ってしまった方がいい。
勝って、生きることこそが目的であればこそ。
「なら、あんたはどうなんだ。自分の正義を確信出来ないあんたは、全力を出せないんじゃないのか?」
自分の中にある不完全さを指摘され、幸助は咄嗟に何も言い返せなくなってしまう。
「オレは、出来るぞ。あいつらを生かす為なら、敵を殺せる」
彼の言っていることには、おかしなことがあった。
自分が明確に答えを出せないというのに、それを指摘する資格が自分にあるかはわからなかったが、思わず口に出してしまう。
「なら、どうしてアークスバオナ側につかない」
「――――」
「その方が、家族の生存率は高くなるだろう」
ぴきっ、と音がした。
彼の握るグラスに、亀裂が生じた際に発せられたものだ。
「そこまでぺちゃくちゃ話す程の仲でもねぇだろう」
「かもな。でも、なんとなく分かるよ」
「はっ、そうか」
「自分一人なら、結構、間違ったことが出来るんだ。でも、きょうだいが見てるとそうはいかない。ついつい、見栄を張りたくなるんだよな。失望されたくなくて、格好悪い兄貴だなんて思われたくなくて。お前はきっと、きょうだいに誇れる兄でいたいんだよ。アークスバオナに従属することは、お前にとって正しくないことなんだ」
グラスが砕けた。
破片が彼の手を細かく刻み、血を滴らせる。
それは水と混ざり、薄く伸ばした絵の具みたいな色合いになり、流れ落ちていく。
血を含んだ水滴は、その一粒一粒に月の光を内包した。
「……シオン、お前、本当に顔色悪いぞ」
彼の行動は、怒っているというより、制御が効かないという方が適しているように感じられた。
ぱらぱらと、彼の手から何かが落ちる。
手に食い込んだ筈の、グラスの破片だ。
見れば、彼の傷は既に癒えている。
どういうわけか、血は一滴たりとも付着していない。
それどころか、床を濡らしていた筈の混合液からも、朱色だけが消えていた。
紅の瞳。水では癒えぬ渇き。単なる回復とは異なる治癒。血の操作。
『血盟の英雄』。
「…………お前、吸血鬼か?」
シオンはそれでも、笑おうとしたみたいだった。
それは顔筋の痙攣という形に終わる。
「だったら、なんだ? 悪いが、『差別しない』なんてお綺麗な言葉で、俺は救われてはやれねぇぞ」
肯定と取っていいだろう。
であれば、彼の具合が悪いのは、人間の血の不足……ということになるのか。
吸血鬼の飲む血に関する条件など幸助は知らないが、事前に用意など出来ないものなのだろうか。
彼がそこまで愚かだとは思えないから、おそらく幸助の知らない事情があるのだろう。
「……放っておいてくれ。しばらくすりゃあ、治まる。発作みたいなもんだ」
だが、それは根本的な解決にはならないだろう。
幸助はその場に屈みこんだ。
「なぁ、やっぱ処女の血って美味いの?」
「あ?」
一番大きな破片を右手で拾い、それを左手首に宛がう。
そして、一息に引いた。
つう、と紅の線が引かれ、血が滴る。
「あんた……なにを」
「味の保証はしないぞ? 運動はそこそこしてるけど、結構喰いたいもん喰ってるし」
「だから、何をしてんだ……!」
「? いきなりリストカットする程不安定に見えるか? もし要らないなら早めに言ってくれる? なんかひりひり痛いから」
平然と言ってのける幸助を、彼は唖然とした表情で見つめた。
「……餌付けでもしようってか」
「あのな、水渡した時は受け取った癖に、血の時は見返りを求められるのが怖いのか? ガキ十六人養わなきゃならねぇ奴から何かを取る程困ってねぇよ。無駄口叩く余裕あるなら傷口塞ぐぞ」
ほれ、と言って腕を差し出す。
彼はしばらく迷いを見せたが、やがて膝をついて、そっと口を寄せた。
傷口から、血を啜る。
創作物などでは、吸血鬼の飢餓感は凄まじいものだと描かれることがある。
少なくとも、彼を見ているとそれは間違っていなかったのだなと思わされた。
ごくごく、なんて擬音が当て嵌まるくらいに彼は勢いよく血を飲んだ。
見る見るうちに、血色がよくなっていく。
やがて彼は、跳ねるように顔を離す。
「わ、悪い……加減せずに」
その顔には、罪悪感が満ちている。
幸助は傷口を治癒してから、首を揺すった。
「いいよ、別に。ただ……」
「なんだ……?」
「血吸われるなら、美女な吸血鬼が良かったなぁ」
その言葉に、シオンはしばらく意味が分からないというような表情をしたが、やがて噴き出すように笑う。
「それは、悪かったな」
「ほんとだよ」
顔を見合わせて、互いに笑う。
それからしばらく、彼は無言だった。
答えを出すべく思案するような沈黙は、やがて破られる。
「……お前が」
幸助に対する二人称が『あんた』から『お前』に変わった。
やや気安くなっているのは、意識的なのか無意識なのか。
「お前が正しいのか、オレも判断がつかない」
「あぁ」
「だが、納得はした。戦いに身を投じる者、そうでない連合加盟国の国民達全ての精神衛生を考慮したものだと。正しいと思わせる。それが絶対的でなくても、誤認であっても。なるほど、必要だ。オレもまた、この戦いの間だけ、お前に騙される馬鹿共の一隅となろう」
シオンは元々、どちらかと言えば協力的だった。
必要だとは理解していたが、あまりに先導者然とした綺麗事を宣う幸助に違和感を抱いたのだろう。
それが完全に解消されたかは分からないが、少なくとも納得はしてくれたらしい。
飢餓感が思考にどう影響を与えるかは不明だが、先程までの険も無くなっていた。
幸助はおどけるように言う。
「一隅と言わず、もっと中心に来て騙されてくれ」
シオンは皮肉げに唇を歪めながら肩を竦めただけで、返事を寄越さなかった。




