6.兄、和臣
佐藤麻衣子はざわざわと落ち着かない思いを抱えて帰宅した。そんな気持ちをいつまでも抱えていたくなかったし、何か分かれば少しは気が済むかもしれないと思った彼女は家のパソコンで気になる項目を検索してみることにした。大会で優勝したのなら、どこかに記録がのこっているはずだと思ったのだ。『野島かずおみ』では何もみつからなかったが、『さいおんじたく』で清光学院テニス部ホームページにある過去の実績が出てきた。
全国中学庭球大会男子シングルス:東條和臣(3年)優勝、男子ダブルス:東條和臣・西園寺卓哉(3年)ペア準優勝
これはどういうわけだろう。「東條和臣」で検索すると、テニスだけでなく、さまざまなメディアの記事がヒットした。最新のものは経済ニュースのコラムだった。見出しは「日本経済の未来―期待のニューフェイス」とあるが、出だしを見ただけでも難しそうで、読む気にはならなかった。野島優太が桂木雪乃に告げた「兄貴にいいつける」というセリフも西園寺という大学生の教えてくれた優太の兄、「かずおみ」も、いろいろと優秀らしいこの東條和臣を指しているとしか思えない。
『でも、野島和臣じゃないんだ。なんで?』
ふと思いついて、『東條、清光学院』と打ってみた。そうしたら、出るわ出るわ、何人もの清光学院卒業の東條さんが会社社長やら役員やらをしていた。そしてその一番上にあった名前が『清光学院大学理事、東條忠臣』だった。名前からして近しい親族だろう。VIPルームを作ってくれたおじいちゃんかもしれない。
すっきりしたくて調べたのに、これ以上自分で何かすると余計に混乱しそうだったので、とりあえず親友の相原希美に相談することにした。明日になれば今日休んでいた彼女も球技大会お疲れ休みから復帰するだろうし、一人で悩んでいたって仕方ない。そして、それは正しい選択だった。また駅前のハンバーガーショップに来ていたが、今日はいつもの席が空いていなかったので少し周囲が気になって、心持ち小さな声で話した。
「東條和臣っていったら、いつだったか麻衣子に教えたじゃん。私がうわさに聞いた王子様みたいな先輩だよ。あの人って野島のお兄さんなんだってね、知ってた?」
あっさりと返されて、思わずテーブルにつっぷしてしまった。情報に疎いのは優太の親友の山岸透と麻衣子だけで、割と知られた事実だったのだ。父親が違うため名前が違うのだが、母親が一緒の、正真正銘の兄弟らしい。途中編入になったのも、クラスでなんとなく浮いているのも、そこら辺の複雑な家庭環境が原因かもしれない。
「透は優太しか友達いないからね。お兄さんは私たちが入学したときには既に卒業してたわけだし、わざわざする話でもなかったんじゃない?私だって空気読むから三人でいる時にそんな気まずい話題はださないよ。ふーん、透のヤツ、やっぱ知らなかったんだ」
まるで情報難民だ。クラスメートから隔絶されている透と自分が哀れに思えてきた。自分から周りに働きかけなければいけないのだろうけど、もうちょっとくらいあちらからも手を差し伸べてくれたって罰は当たらないだろう。おせっかいをしろとは言わないまでも、もう少し歩み寄ってくれないものか。現に、雪乃は自分から周りの人に声を掛けているではないか。そこまで考えて、気が付いた。優太と雪乃は親切で思いやりのあるところがよく似ている。まわりがそれを受け入れているかいないかが違うだけで。だから二人とも私に声を掛けてくれたのだ。
「あのさ、麻衣子。水を差すようで悪いけど、恋の橋渡しは諦めなよ?あんたの想像通り野島は雪乃さんのことを好きだろうとは私も思うけどね。多分、あいつの片思いだからさ」
「へ?」
自分の思索に浸っていた麻衣子は希美の言葉を咄嗟には理解できなかった。しかし、脳内で反芻して理解した途端、言葉を失ってしまった。そうだった。キーワードは「兄貴にいいつける」だ。雪乃の好きな人は優太の兄だろう。風邪をこじらせてまで、VIPルームをつくってもらってまで見ていたかった和兄様。いいつけると言われただけで泣き出してしまうほど憧れている王子様。漫画に出てくる生徒会長のような東條和臣に、優太が勝てるとは思えない。
和臣の気持ちは麻衣子には知りようがないとしても、雪乃は彼のことが好きに違いない。では、優太はどう思っているのだろうか?一緒に迷子になったくらいだから兄のことは慕っているのだろうし、同じテニスの道を選んだのも、兄に対抗してというよりは兄みたいになりたくてという理由な気がする。兄が留学で不在の間、雪乃を見守っているつもりなのかもしれない。やっぱり優太は雪乃のナイトだったのだ。麻衣子の妄想にも知らず真実が隠れていたのだ。
「野島っていい奴じゃん?幸せになってほしいんだよ。実らない片思いなんて、奴らしくないしね!」
暢気な麻衣子となら、きっと苦労性の優太も幸せになれるんじゃないかと割と本気で思っている希美だった。ともかくも、麻衣子のキューピット計画は思い付きから三日目にして早くも潰えたのだった。
それからは、なぜか雪乃が麻衣子を放課後、VIPルームへ誘うようになった。当初はどんな魂胆があるのかといぶかしんでいたのだが、慣れてくると存外楽しい時間だった。高等部のエリアから離れているので周りを気にすることもないし、ドリンクフリーで、冷暖房完備、ハンバーガーショップよりもずっと座り心地のいい椅子。初日には気づかなかったが、キャビネットの中にオーディオシステムやノートパソコンなども備えていた。漫画がないことを除けば、麻衣子の自室より余程居心地がいい。雪乃が勉強を教えてくれることもあった。そして何より優太のカッコいいプレイを心おきなく眺めることが許されているのだ。練習が終わったあとは優太も加わり、少しの時間ではあったが三人で気兼ねないおしゃべりが出来るのも嬉しかった。構えることのない自然な会話を重ねたおかげで互いの距離も随分と近づいた気がする。
ある時、勉強の手を休めて雪乃が話しかけてきた。
「ね、ここから見る優ちゃんはかっこいいと思われるでしょ?」
「え?うん」
「わたくしも以前、麻衣子さんと同じ様に優ちゃんのお兄様の和兄様のこと、素敵だなと思いながら眺めていたの」
雪乃が自ら麻衣子に和臣の話をするのは初めてのことだった。
「でもね、ずっとガラス越しだと、ラケットの空を切る音もボールが弾む音も届かないわ。外に出れば、もっとたくさんの音だって聞こえるのに。頑張れって声援を届けることも出来るのに。だから、麻衣子さんはいつかここを出て、その音を聴いてね。そして、優ちゃんに頑張ってと言ってあげて」
そう言うと、ポロポロと涙を流した。視線はじっと空に向けられている。海の向こう、留学中の和臣を思っているに違いない。どうしているの?声が聞きたい。苦しんでいるなら励ましてあげたい。出来ることなら私が彼の元に行きたい。そんな切ない思いでずっとガラスの向こう側を眺めてきたのだろうか。涙を流しながら空を見上げる雪乃の横顔は、祈りを捧げる聖女のように美しかった。
『あなたはわたくしのようにならないで』この部屋に麻衣子を誘う度、そう伝えたかったのかもしれない。今日まで言い出さなかったのは、余計なお節介かもと躊躇っていたのだろうか。雪乃と過ごす時間を楽しむ内に、彼女が自分をここに誘う理由なんて気にしなくなっていたけれど、『私の恋を応援してくれるつもりだったってこと?そんな素振りみせなかったから、気付きもしなかった!』キューピット役に浮かれていた麻衣子とは違って、静かに見守ってくれていたのだと知った。
雪乃の気持ちには応えたいが、正直なところ、彼女のようにガラスの向こう側に行くことを切望したことなどない。カッコいいプレイをテレビの映像を観るように眺めていればそれで充分だった。優太のことを『好き』と思うことに嘘はないけれど、雪乃の和臣への想いに比べると自分の『好き』は随分と薄っぺらな気がする。そういえば初めて優太のプレイを見た時に感じた衝撃を、この部屋にくるようになってから感じたことはなかった。いつの間にか手の届かないものとしてガラス越しでいることに満足していたのだろうか。ガラスの向こう側では、違った優太に会えるのだろうか。クラスで見る等身大の優太と、アイドルやスタープレイヤーのように感じているテニスをする優太が、麻衣子の中で別物になっていたのかもしれない。
『どんなふうに好きなのかとか、どんなふうに付き合いたいのかなんて、まだわからないけれど、私はもっと野島君のことを知りたいし、彼に近付きたい!』
決心するとなったらとりあえず突っ走るのが麻衣子流だ。まずは雪乃の気持ちにもっと寄り添おうと決めた。お節介なおばちゃんのような図々しさではあったが。
「和臣お兄さんから連絡とかないの?」
「時折、旅先から絵葉書を送ってくださるわ」
「へぇ、素敵!こっちからお手紙は送らないの?」
「季節のご挨拶程度かしら……」
「電話は?しないの?」
「時差があるので、ご都合を考えると難しくて」
「あっ、そうだ!メールは?アドレスとか教えてあげたら、気軽にやりとりできるかもしれないよ?」
「メール交換なんて、考えたこともありませんでした」
「ねぇ、どうせなら、雪乃さんも私と一緒にガラスの向こう側に行っちゃおうよ!」
雪乃は目の前の霞が瞬く間に晴れていくのを感じた。和臣に追いつきたくて、自分に出来る限りのことを頑張ってきたつもりだった。けれど自分の体力の限界を思い知らされて、いつからか諦めていた。和臣に並び立てる日は来ないのだと。どうやら、自分からガラスのこちら側に閉じこもっていたらしい。想ってきた時間が長すぎたことも、歳が離れていることも、受け身になってしまう原因であったかもしれない。それでも、いつまでも泣き虫で甘えん坊のまま閉じこもっていてはいけない。たとえ体が弱くても出来ることがあったのだ。メールを使えば、励ましの言葉くらいは届けられる。愚痴を聞いてあげることだってできるかもしれない。会いたいなどと贅沢は言うまい。雪乃の一言でほんの一瞬でも和臣が微笑んでくれたら、それだけで充分幸せではないか。麻衣子の背をそっと押したつもりが、お返しに盛大に背中を叩かれてしまった。
「ありがとう、麻衣子さん。大好きよ!」
感極まった雪乃は思わず麻衣子に抱きついて、天使の笑顔に今度は嬉し涙を浮かべるのだった。
『ちょっ、雪乃さんてば可愛すぎ。萌え死んじゃうってば!』




