5.VIPルーム
佐藤麻衣子と山岸透の二人が案内されたVIPルームは、思ったよりもこじんまりとした空間だった。総ガラス張りの窓越しにテニスコートの様子が手に取るようにみえる。野島優太がプレイする姿もよく見えた。壁に掛かったモニターにここからは少し見えにくいコートの映像も映し出されていて、見学のための環境としてはこれ以上ないだろう。部屋の隅にはドリンクバーがあり、その横のマガジンラックには最新の雑誌がいくつか用意されている。誰が読むのか、英字新聞まで見えた。そういえばここは大学の敷地内なのだから、読める人もいて当然か。コートとは反対側の壁には額に入った賞状がいくつも飾られ、その下に置かれたキャビネットに林立するトロフィーや楯と共にテニス部の輝かしい歴史を伝えている。部屋の中央よりも窓側に寄せて二つの丸テーブルがあるが、それぞれに三つずつ、クッションの付いた椅子がどれもコートに向けて据えてある。その配置からこの部屋がミーティングなどではなく見学のためだけのものだとわかる。その1つに桂木雪乃がこちらに背を向け座っていた。
「雪乃ちゃん、お友達が来たよ」
この部屋まで麻衣子と透を案内してくれた大学生は一言雪乃に声を掛けるとすぐに出て行ってしまったので、部屋に三人で取り残されてしまった。振り向いた雪乃は透と麻衣子の姿を認めると一瞬目を瞠ったが、すぐにいつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
「こんにちは。どうぞお座りくださいな」
「あ、どうも」
「何かお飲みになられます?」
「じゃ、コーヒー飲もうかな」
遠慮のない透の行動に麻衣子は頭を抱えた。同級生とはいえ、相手は雪乃だ。コーヒーを淹れさせるなどおこがましい気がして、慌てて「手伝います」と言ってみた麻衣子だったが、勝手がわからず、ほとんど雪乃に任せるしかなかった。申し訳程度にテーブルに運ぶのだけを代わったのだが、「ありがとうございます」と礼をいわれてしまい、バツが悪かった。
どうして三人で同じテーブルでコーヒーを飲みながらテニスの練習を眺めることになってしまったのか。救いは椅子がコートに向いており、顔をつき合わせる必要がないことだったが、それもなんだか間の抜けた図ともいえる。いつの間にか優太は別の選手と打ち合っていた。優太の方が相手に合わせて加減して打っているように見える。先ほどと違い、実力差があるのだろう。そこにまた一人見学者がVIPルームに現れた。さっきまで優太と打ち合っていた大学生らしき人だった。シャワーを浴びてきたのだろう、首にかけたタオルでまだ少し濡れた髪を拭きながら入ってきた。ちょっと乱暴な仕種で頭をこするその腕には筋肉が盛り上がっているし、しなやかな体からはなんとはなしの色気が溢れている。
『水も滴るいい男って感じ?この腕だからあんな強いボールが繰り出されるのか。逞しいってこういう人のことを言うんだな。クラスの男子も見習うべき!あの腕なら、お姫さま抱っこも軽々だよね!でもちょっと食べられちゃいそうで怖いかも』
だが今は、プレイ中の気迫はなりを潜めて、肉食獣のように鋭かった目ももう怖くない。案外たれ目だ。彼は雪乃と目が合うと、にっこりと笑いかけた。一見するとイタリア映画に出てきそうな伊達男だが、屈託のないその表情から、彼が気さくな人柄だとわかる。雪乃が立ち上がって出迎えた。
「西園寺先輩、お疲れ様でございました。」
「やあ、雪乃ちゃん、来てたんだ」
「ご無沙汰いたしております」
「入院してたんだって?優太に聞いたよ。こんなとこに来てて大丈夫?」
「お陰様で、もうすっかり良くなりました」
「ダメダメ、俺の目はごまかせないよ。まだ本調子じゃなさそうだ。優太を待たずにさっさと帰りなさい」
「もう!卓兄様ったら、意地悪です!」
ほっぺたを膨らませて上目使いに先輩を睨む雪乃は可愛らしく、目にしたことのないその様に驚いた透はコーヒーカップを持ち上げたまま固まっている。麻衣子も先輩に懐いている様子の雪乃に戸惑っていた。そういえば、ここに案内してくれた大学生も親しげに「雪乃ちゃん」と呼んでいたではないか。どうやらテニス部の関係者は優太と雪乃の二人にとって特別なようだ。
「そっちのお二人さんは?」
「優ちゃんのお友達です」
「ここへは初めて来たのかな?」
「ええ、おそらく……」
雪乃は余所行きの態度を止めにしたのか、纏う気配が別人のように変わった。案外出迎えた時の態度の方がおふざけだったのかもしれない。きょとんと首を傾げる仕種など、普段よりずっと幼く見える。西園寺と呼ばれた大学生は透と麻衣子に向き直ると、ピエロのごとく大げさに手を振り回しながらおどけたお辞儀をして見せた。
「雪乃の部屋へようこそ」
「また!卓兄様、それ、止めてくださいって、何度お願いしたらきいてくださるの?」
「いや、だってここは雪乃ちゃんのために作った部屋だろ?」
「違います!」
「嘘はいけないな。これはいいつけなくっちゃいけないかな?」
「違わないけど…違うもの…雪乃だけのお部屋じゃないわ……」
急に情けない顔になって声も消えかけ、今にも泣きそうだ。そういえばあの時も、優太に「いいつける」と言われて泣き出したのだった。どうやら雪乃に対してかなり威力を持った言葉らしい。
「ありゃりゃ、からかい過ぎた?こりゃ俺の方が怒られそうだな」
「知りません!」
今度は口を尖らせ、つんと顔をそらしている。ころころと替わる雪乃の表情に透も麻衣子も呆気にとられていた。西園寺は当たり前の事の様に雪乃にコーヒーを淹れるように言い付けるとさっきまで雪乃が座っていた椅子にどさりと腰かけた。
「驚いた?雪乃ちゃん、いつもと違うだろ?」
「は、はい。」
雪乃相手には図々しく振る舞った透だったが、まだ驚きから立ち直っていないようなので、やむなく麻衣子が返事をした。
「何しろ俺は雪乃ちゃんが幼稚舎に入る前からの付き合いだからね。特別なのさ」
お茶目にウィンクをして見せた。どうやら雪乃について初等部どころか一気に幼稚舎情報を知る人にたどり着いてしまったらしい。リサーチは意外な展開を見せ始めた。
昔話を嫌がる雪乃をからかいながら西園寺が話してくれたVIPルーム誕生秘話は透と麻衣子をさらに驚かせることとなった。
現在大学4年生の西園寺の同級生に優太の年の離れた兄、和臣がいて、幼馴染の二人は小さな頃からこの兄を慕って学院に遊びに来たがった。授業の邪魔はさせられないので付き添いの人間と一緒に大人しく遠巻きに眺めることがほとんどだったが、体の弱い雪乃は暑さ寒さに弱く、来る度といっていいほど熱をだした。心配した大人たちは見学を禁止したが、ある時、ピアノが得意な和臣が学校で演奏を披露することを知った二人はどうしてもそれを聴きに行きたくて、雨の中、大人の目を盗んで出かけてしまった。勝手知ったる道とはいえ、小さな足で雨の中長い道のりを歩くのは難しかった。結局二人して迷子になったあげく、ようやく見つけて貰えた時には雪乃は風邪をこじらせていて、長期の入院を余儀なくされることとなったのだ。和臣が中等部に上がってテニス部に入部したとき、初等部に上がって比較的自由に出入りが出来るようになった雪乃が体調を心配することなく見学できるVIPルームが作られたのだという。雪乃を可愛がっていた和臣の祖父が寄付の名目で費用を出した、まさに『雪乃の部屋』だったのだ。
「ちっちゃくて可愛くてさ、天使みたいだった。このテーブルで宿題の漢字の練習とかしてたよね。懐かしいなぁ」
「もう止めてください!」
「和兄様お上手!なんて、こう、無邪気に手を叩いておだてるもんだから、和臣のやつ張り切らざるを得なくなってさ。どんどん強くなって、ついには中学日本一になったんだから、雪乃ちゃんの功績は学院長表彰ものだよ」
「いやぁ!」
雪乃はこれ以上聞いていられないとばかりに耳をふさいだが、余程恥ずかしかったのか、全身真っ赤になってしまった。雪乃の反応を十分に楽しんで満足したのか、西園寺は話を締めた。
「和臣の奴が高等部卒業後に留学してしまったから、雪乃ちゃんももうここには来ないかと思っていたけど、幸いにも優太が入れ替わりで中等部に入ってくれたからね。こうしてまた雪乃ちゃんを可愛がることが出来ているんだ」
丁度そこに練習を終えた優太が現れた。透と麻衣子がいることに驚いたが、そちらには軽く手を挙げて合図しただけで、西園寺に話し掛けた。
「今日はありがとうございました。胸を貸していただいたお蔭で、自分の弱点を確認できました。」「こちらこそ、久々に本気で打ち合えて楽しかったよ」
「復帰はなさらないんですか?」
「んー、運動不足は解消したいんだけどね。実習が増えるしなぁ、ちょっと無理かもな」
「医学部は大変ですね」
「和臣ほどじゃないさ。この程度で弱音を吐いたら奴に笑われる。じゃ、またな」
「お疲れ様でした」
手を軽く振りながら部屋を出ていく西園寺を、優太は最敬礼で見送った。会話から優太の兄との絆を感じとれたし、和臣の親友なのかもしれない。彼は優太が来るまで雪乃の相手をするために残っていたのだろう。そう思わせるほど、先輩後輩の入れ替わりのタイミングは絶妙だった。バトンを受けた優太は西園寺が座っていた椅子に腰かけた。
「君たちが来てるとは思わなかったよ」
「佐藤さんが見てみたいっていったもんだから」
『山岸君余計なこと言わないで!』と叫びたくなった麻衣子だったが、優太はそれほど気にした様子もない。それにしても、クラスにいる時と雰囲気が違う気がする。なんというか、堂々としているし、大人っぽくて、ドキドキしてしまう。
「優ちゃん、何かお飲物は?」
「いや、スポーツドリンク飲んできたからいらない。それよりそろそろ帰んなきゃダメだろ?片づけしとけよ」
「はーい」
そそくさとカップを洗い始める雪乃は妙に嬉しそうで、新婚の奥様のようだ。『なんだ、幸せそうじゃん。私が出る幕なんてないのかも』と麻衣子が拗ねてしまいそうになったときに目に入ったのは、雪乃に向けられた辛そうな優太の眼差しだった。それは麻衣子の記憶に棘のように刺さった。『どういうことなの?あれは幸せなカップルのワンシーンではないの?』
「今日はビックリすること、いっぱいあったな。優太にお兄さんがいるって佐藤さん知ってた?」
帰り道、透に話しかけられたが、リサーチ結果をどう分析しようかと悩んでいた麻衣子は首を横に振ることしかしなかった。会話が続かないことを気にした様子もない透に、いつもなら「鈍感!」と憤るところだが、今はそれどころではない。他人に親切をしてもなぜか怒られることで終わることの多い透が『今日はやらかさなかったみたいだ。佐藤さんのお願いもきいてあげたし、よかった、よかった』と喜んでいたなどとは知る由もなかった。




