21.ガラス窓を開けて
婚約披露のパーティの翌朝、5人の食卓はいつも通りだった。優太はお誕生席に不満気だったが、先輩権限を発動した卓哉に逆らえなかった。昨夜雪乃にお祝いを伝えたのがウッドデッキで暗かった為、朝に改めて指輪を見せて貰おうと思っていた麻衣子だったのだが、すっかり当てが外れてしまった。雪乃の左手薬指にあったのは、同じピンク・ダイヤモンドらしかったが、昨日付けていた物に比べると、かなり小振りな、可愛らしいデザインリングだった。それでも充分婚約指輪に相応しい大きさではあるのだが。麻衣子はつい雪乃に文句を言ってしまった。
「えー!あの指輪、よく見てなかったのに!」
「気づかなくてごめんなさい。大き過ぎて普段使いには出来ないから、和臣さんのお父様に持って帰って頂いたの。私はこちらがあれば充分だもの」
「あんな大きなものを付けて街中を歩くものではないよ。そもそも僕が奈津生様に依頼したのはこちらの方だった。父が横槍を入れてきて作ることになっただけだ。今頃は銀行の貸金庫の中だろう」
眉を寄せて忌々しそうな和臣の顔には父、貴臣としたであろうその時のやり取りに対する不満が現れている。指輪を撫でながらうっとりと満足そうな雪乃の顔を見て、表情を緩めたものの、父親にはいろいろと言いたい事がありそうな和臣だ。麻衣子は昨夜パーティで目にした「雪乃の東條家逆ハーレム」を思い出して、くすっと笑った。
『何も知らなかったら、和臣さんとお父さんの間にドラマにありそうな「愛憎入り混じる父子の確執」とかって奴を想像しちゃってたとこかも。でも、あの光景を見た後だからね。きっと邪魔されたとか、そんな程度のことなんだろうな。「東條家の男共」って愛情の示し方が極端で、へたくそな人達なんだね!』
「婚約発表の時にはあの指輪を使うことになるから、その時に見ると良い」
「えっ?婚約発表って、昨日のじゃなかったんですか?」
「昨夜は身内に披露しただけだ。仕事ですぐ出国する予定なので、公式なものは当分先になる。企業やメディアの関係者を呼ぶので準備期間も必要だ」
麻衣子には、昨日のパーティより大がかりなものなど、想像できなかった。メディアと聞くと、良くテレビで映っている記者会見のようなものしか思い浮かばなかった。『あの、フラッシュがバチバチいう奴?』だが、企業の記者会見と言えば、お詫び会見しか知らない。東條家3代が頭を下げる所を想像してしまい、思わずにやにやと笑ってしまった。一瞬、周りの視線が麻衣子に集まり、卓哉の言葉を皮切りにまた会話が弾んでいく。
「おい、麻衣子、妄想してないでさっさと準備しろよ。テニスで俺と優太が勝負して、勝った方が和臣達と次の帰国の時にダブルデートするんだ」
「卓兄!麻衣子って呼ぶなよ!それに勝手に決めんな!」
「俺は好きに呼ぶ!悔しかったら、俺に勝てばいいんだよ!」
「和臣さん、デート楽しみにしています。どちらに連れて行ってくださるのかしら?」
「雪乃はどこか行きたい所があるかい?計画はあるが、希望があれば変更してもいい」
「おっ、和臣、ちゃんと雪乃ちゃんに意見を聞くようになったんだな。いつも命令ばかりだったからな。いいことだ」
「はは、卓哉に恋愛指南を頼むか。どう思う?雪乃」
「私は今のままで充分です。卓哉さんがお遣いになるようなセリフを和臣さんから伺ってしまったら、心臓が持ちません!」
「惚気か!」
爽やかな風に包まれたウッドデッキには、笑いが溢れていた。
どうやら、卓哉と優太は本当にテニスで勝負をするらしかった。二人はコートで念入りにウォーミングアップをしている。和臣は審判で、「僕が優太と手合わせをするのは次の機会だな」と少し残念そうに審判台に上った。試合直前、麻衣子の所に優太が寄ってきた。真剣な顔で、真っ直ぐ麻衣子を見て言った。
「俺、本気で卓兄とやるから。ちゃんと見てろよ」
「へ?」
「麻衣子と卓兄、俺が来るまで、結構いい雰囲気だったって聞いた。それ、俺も感じてたし、卓兄がいい男だっていうのもよく知ってる。だから、本気でやる。勝てる確率は正直ほとんどないけど、俺の本気を麻衣子に見て欲しい」
「…うん」
一度にっこり笑うと、戸惑う麻衣子を残してコートに走って行った。彼女の背中越しに雪乃が申し訳なさそうに打ち明けた。
「ごめんなさい。わたくし、麻衣子ちゃんが卓哉さんを好きなのではないかと誤解していたことをうっかり話してしまったの。お付き合いを始めた後だったし、気にしないかと思っていたのだけれど…」
「そっか。でも、私も誤解だって言い切る自信ないから、いいよ。気にしないで」
「麻衣子ちゃん?!」
和臣のイギリス仕込みのコールで優太と卓哉の試合が始まった。麻衣子は二人の動きをながめながら、自分の気持ちを整理しようとしていた。優太も卓哉も憧れていただけだった。姿かたちやテニスのプレイを見て『カッコいい』『あんな彼氏が欲しい』と思っていただけだ。人柄を知るようになって、どちらも優しくて思いやりのある人で、同じ位好きだった。違いは年齢だけだったのかもしれない。年上の卓哉は麻衣子を不安にさせた。彼はいつだって麻衣子の気持ちをわかってくれるのに、彼の気持ちは分からなかった。不安は彼を危険だと思わせ、近づくことを躊躇させた。だから麻衣子は卓哉が好きだと言ってくれても信じなかったし、彼が別荘を離れて何をしていたかを知ろうともしなかった。ずっと彼を誤解したままだったのだ。対して、優太は麻衣子の気持ちを誤解することもあったし、その反対に麻衣子が彼の気持ちを誤解することもあった。だが、優太の気持ちは麻衣子にはわかり易かった。それは安心感となった。彼が自分を好きだと言ってくれた時、素直に信じられたのだ。麻衣子が優太を選んだ最大の理由は、打算的な考えでしかないと彼女には思えてならなかった。相手が自分を好きだと言ってくれて、それを信じることが出来たから。それが全てだったかもしれないのだ。
『そうだったとしても、それがいけないことなのかな?雪乃ちゃんみたいにたった一人の人を一生愛したいと思えるような恋ばかりじゃなくてもいいじゃない。私は優太君が好きで、優太君もそうだって言ってくれる。それで今は充分だよ。私達はゆっくりやっていこうって、約束したもの!』
勝負は予想に反してシーソーゲームだった。試合開始当初、本気の優太と遊び半分の卓哉の気持ちの違いが点数に現れ、途中から卓哉も気合を入れ直した。次第に白熱し、和臣と卓哉の試合にも負けず劣らずの好勝負となった。ボールの行き交う音、シューズの擦れる音、和臣のコール、生々しく感じる二人の息遣い。雪乃がかつて切望したガラスの向こう側の世界に麻衣子はいるのだ。卓哉への想いに自分自身で区切りを付けた麻衣子は思わず立ち上がり、声を限りに優太を応援した。
「優太君頑張れ!卓哉さんに負けるな!勝てーーーーー!」
麻衣子は応援に夢中で気付かなかったが、彼女が叫ぶその横で、雪乃がポロポロと涙を流していた。雪乃は麻衣子と二人で話したVIPルームのあの会話を思い出していたのだ。あれから全てが始まって、今がある。そして、麻衣子と雪乃の二人の恋は、これからも続いていくのだ。
フルセットにもつれると、体力のある現役に有利となった。最後は卓哉の自滅によって、熱戦は優太の勝利に終わった。
「合宿の成果だ!現役を舐めるな!」
優太の雄叫びが響き、体力の限界だったのだろう彼は、そのまま大の字になってコートに寝そべった。澄み切った青空が彼の目に見えたはずだったが、それは汗と涙にかき消えた。麻衣子もまた感極まって泣いた。雪乃に背中をさすられながら、わんわんと子供の様に。疲れ切った卓哉はコートに膝をついていたが、それには和臣が手を貸し、「お疲れ」と声を掛けた。卓哉は「やられた」とため息交じりに言いながらも、後輩の成長に満足そうだった。
2週間、長いような短いような滞在だった。テニスと乗馬、そしてデートとパーティ。初めての体験ばかりの旅行も間もなく終わる。支度を終えて2台の車の脇に集合して、屋敷を振り仰ぎ見ながら、つい滞在中のことを振り返ってしまう麻衣子だった。乗馬用具は調教師の馬場に預け、管理して貰う事となった。それ以外の麻衣子の荷物は、直接家に届けてくれるという。卓哉に買って貰ったストラップもガラスのリスもその中に大事にしまった。思い出に浸った麻衣子がしみじみと呟いた言葉にまた卓哉と優太の会話が始まる。
「また来ることなんてあるのかな」
「冬にスキーにくればいいだろ。ボードでもいい。また俺が教えてやる。」
「なんで卓兄が教えることが前提なんだよ」
「お前は部活があるだろう?麻衣子、今度はスキーウェア、買いに行こうな!」
「私にもスキー教えてくださいます?卓哉さん」
「無理をしないと約束できるなら、僕がクリスマス休暇に教えてあげるよ。雪乃」
「まぁ、クリスマスはお会いできるのね!嬉しい!」
思わず和臣に飛びついた雪乃に、周りの冷やかしの眼差しが注がれた。我に返った彼女が「きゃっ」と叫んで顔を真っ赤に染め、両手を口に当てて、ふるふると首を横に振った。「まだまだ雪乃は子供だな」と零した和臣に雪乃は思わず頬を膨らませかかって、また恥じた。その光景は、はたから見て胸焼けするほど甘かった。ともあれ、別荘との別れは名残を惜しむつもりが、次回を期待するものに替わった。
誰がどちらの車にどう乗るかでまた卓哉が優太をからかって、結局、シルバーグレーのスポーツカーの狭い後部座席で一人優太がムスッとして座ることとなった。やがて、2台の車は走り出した。麻衣子にとって初めてだらけの旅が終わろうとしている。最後にもう一度高原の風を感じたくて、スポーツカーの助手席の窓を全開にして空気を吸い込んだ。後部座席の優太が吹き込む風に苦情をいっていたが、気にしなかった。窓ガラスなんていらない。オープンカーだっていいくらいだ。横で卓哉も笑っている。行きに聞いたアニソンがスピーカーから流れていた。もうすぐ日常が戻ってくるだろう。けれど、麻衣子は自分らしく、ゆっくりと自分が変わっていくのだと、大人になっていくのだと、知っている気がした。見て、聞いて、体験して、触れ合って、ガラス越しでない本物の世界が、彼女の前に広がっている。ガラス窓を開けば、それは手の届くものとなるのだ。空は青く澄み渡っていた。
FIN




