16.星空
野島優太が佐藤麻衣子の夏休み旅行に参戦した初日の午後、西園寺卓哉は急に「明日の午後に戻る」と言って車で出掛けて行った。彼が東條和臣と桂木雪乃に見送られながら玄関を出ようとしたところに麻衣子と優太がかち合ったので、麻衣子が「いってらっしゃい」と声をかけると、すれ違いざま「行ってくるよ、麻衣子」と甘く囁きながら頬に音を立ててキスをした。麻衣子が「ぎゃっ!」と叫び、優太が「卓兄!」と怒鳴る中を、卓哉は颯爽と車に乗り込み走り去った。優太の「ちっとも懲りてないじゃないか!」という叫びには麻衣子も激しく同意する。走り去る車を見ながら、麻衣子が何気なく呟いた言葉にそれぞれがしたリアクションはバラバラ過ぎて笑えた。
「さすがに都心まで連日ドライブはしないか。それに一人の移動だと、電車賃の方が安いよね?」
「卓哉さんがアメリカ旅行をなさった時は毎日1000キロ走られたそうですから、或いは…」
「体力馬鹿だしね。それと卓兄みたいなボンボンは燃費や経費の計算なんかしないんだ。あの車すげー燃費悪いんだぜ」
「そうか?企業経営に経費の削減は必須だろう」
『スポーツカー乗る人のドライブ好きを舐めてた。そっか、セレブは燃費とか考えないんだ。うちのお父さんなんて軽でもガソリンが高いって文句言ってんのに…それにしても、企業経営って……。確かに卓哉さんの金銭感覚はおかしいって買い物の時も思ったけど、和臣さんの発想はさらに付いていけない気がする』
これも1つの麻衣子のセレブ体験だった。
その日は乗馬教室初日の優太と鬼コーチ和臣に乗馬の練習場を譲った。麻衣子は、調教師の馬場についてもらいながら、雪乃と二人で少し遠くまで馬で出掛けた。体力の無い二人なので早めに切り上げて戻り、馬の世話をしながらお喋りしたのだが、これが面白かった。馬場が男性陣の子供の頃の話をしてくれたのだ。
そもそもこの別荘が出来た頃には広大な敷地はあれども馬はいなかった。だが、和臣が大きくなるにつれ、彼の人嫌いとも思われる性格を心配した当主がアニマルセラピーを目的に所有していた馬をここに移したのだ。初めは大きな馬を怖がっていた彼も徐々に慣れ、不器用ながらもこつこつと練習し、馬術大会で入賞するほどの腕前となった。彼は馬場の言う事は素直に聞いたが、自分から話すことはせず、もっぱら馬と無言の対話をしていた。一方、その友人卓哉は器用で、すぐに乗れるようになったものの、努力が嫌いで、馬の世話も厭う。ここには馬場に愚痴を聞いて貰うために来ていたようだった。勉強嫌いの彼は、「親に言われるがまま医者になる位なら、獣医になりたい」と言うくせに、馬に興味は無いらしかった。そして優太だが、彼は兄が馬に乗る姿を見に来ていたものの、乗馬には興味を示さず、もっぱら馬場とお喋りしながら馬の世話を手伝っていたという。馬場は麻衣子を見て、優太を思い出したのだといった。
「だから麻衣子さんも優太さんも乗馬がすぐに上達するはずです。馬との意思疎通が一番大切ですからね」
「三者三様で面白い!優太君と山岸君が仲良くなるのも当たり前だね!」
そこに和臣と優太が練習場から戻ってきた。優太が慣れた手つきで馬を繋ぎながら、馬の首を撫で摩りねぎらうと、馬の方も優太に擦り寄って返事を返す。初めて乗馬をした人間にはみえない。優太が鼻先を撫でながら馬に話し掛けた。
「ありがと、シリウス。お蔭で楽しく乗れたよ。また、よろしくな」
「おや、優太さん、よくそいつの名前がシリウスだって覚えてましたな」
「覚えてるよ。ここで一番最初に生れたからついた名前でシリウスだよね。兄貴が乗ってた白いのがリゲルで、雪乃が乗ってたのはちょっと青味がかった白のスピカ。佐藤さんはぶちのベガで、馬場さんは赤いベテルギウスに乗ってた。合ってる?」
「お見事ですな!」
調教師の馬場もびっくりな記憶力だったようだ。これは透を笑えないのではないかと思ってしまった麻衣子だった。
優太が来て興奮した為か、乗馬で疲れたのか、夜になって雪乃が熱を出した。夕食は三人だったが、麻衣子はもう緊張していなかった。雪乃の席が空いていたのは寂しかったが、それなりに話は盛り上がった。和臣は乗馬初体験の優太の失敗談を聞かせてくれたし、卓哉の子供の頃の暴露話もしてくれた。優太は合宿や練習試合のことを和臣に報告していたし、麻衣子は卓哉と食べたハンバーガーの話をした。自分から話題を持ち出したのはここでの夕食で初めての事だった。リラックスしている自分に驚いたが、それは和臣の優太に向ける慈しみ以上に、優太が傍にいることで得られる安心感によるもののような気がした。
『雪乃ちゃんと一緒にいる時は、言葉遣いとか気を遣ったり、間違って恥ずかしかったりするもんね。卓哉さんだって、くだけた言葉ではあっても扱いはレディだし。いままでの晩御飯はレストランのお食事って感じで、今日のはお家でご飯って感じ。優太君の力、恐るべし!』
食後、和臣は部屋に戻って仕事をするというので、優太と二人になってしまった。星を観に行こうと言われ、使用人に電池式のランタンを借りて、二人で夜の庭へ出た。あのピクニックの場所だ。背もたれのない二人掛けのベンチに、今度はテーブルに背を向け、二人並んで腰かけた。屋敷周りは電灯があってそれなりに明るいが、ここまで来ると真っ暗だ。まして、別荘地の夜は暗い。そのかわり、満天の星だった。星を楽しむために、と言って優太はランタンのスイッチを切った。二人揃ってテーブルに背を凭せ掛けて空を見上げ、星を眺める。真っ暗な中、光り輝く星達は空を埋め尽くし、都会からは想像も出来ない数の星が目に飛び込んできた。星の光が降り注ぐとは、こういうことか。初めての星空に興奮して麻衣子は思わず言った。
「凄い星だね!いつもくたびれて早く寝てたから、気が付かなかったよ!」
「都会と違って良く見えるから。俺なんか、星が見たくて此処に来てたかも」
「そういえばここにいる馬の名前って、星の名前と一緒なんだね」
「そうだよ。だから俺、覚えてたんだ。佐藤さんもよく分かったね。案外星好き?」
「以前読んだ漫画にあったから知ってるだけ。星好きって、ロマンチストって言うよね。ひょっとして、子供の頃の夢は宇宙飛行士?」
「恥ずかしいけど、当たり」
「へぇ!そうなんだ。今は?何になりたいの?」
「今は現実的に考えてるよ。兄貴の会社を手伝えたらいいなって。ただのサラリーマンさ」
「お兄さんの為か。優しんだね」
「ははっ、そんなんじゃない。コネ入社、狙ってるだけ」
それから暫く黙って星を眺めた。これは、麻衣子にとっては憧れのシチュエーションだ。男の子と並んで星空を眺めるシーンは漫画にも良く出てくる。麻衣子は沈黙の間、妄想に駆られていた。
『星空の下で告白とか、プロポーズとか、めっちゃ萌えるよね。周りに誰もいないから押し倒すことも……。いやいや、それは少女漫画じゃないって……卓哉さんじゃあるまいし』
つい優太と卓哉を比べてしまう麻衣子だった。卓哉とこんな風に暗がりの中で二人きりになったら、き
っとこんなゆったりした気分ではいられない。いつ押し倒されるか、気が気でないだろう。卓哉のことを考えていたら、優太に卓哉の話題を出され、内心ドキリとしてしまった。
「卓兄と星空デートはしなかったの?」
「しない、しない!だから、卓哉さんとはなんでもないんだってば!」
「本当に?けど、気配り上手で女の子の扱い慣れてるよね。あんな人なら彼氏にしたいとか思っただろ?」
「んー、デート気分は楽しかったけどずっと背伸びするのは辛いかな。もともとレディ扱いになれてて、しかも和臣さんのために早く大人になりたいって思ってる雪乃ちゃんとは違うよ」
「慣れるもんなんじゃないの?佐藤さんって、編入生の割には随分馴染んでると思うけど」
「だってさ、らしくないことすると疲れるよ?ほら、海外旅行みたいな?私は行ったことないけど。長いこと行ってると日本食が恋しくなるし、帰りたくなるっていうじゃん?私もそろそろお家に帰って漫画が読みたいかも」
「それ、わかる。俺も兄貴の生活を羨ましいと思うことがあっても、替わりたいとは思わない」
「清光学院での3年間は、私にとってある意味長い海外旅行みたいなものかもしれないね。自分の住む世界と全然違うしさ」
「家に帰りたくなる、長くいると居心地の悪い場所ってこと?」
「うん。でも優太君がいてくれるから、ちゃんとお家気分も味わえるかな…」
言ってしまってから、意味深なことを言ったと気付いた。星空をうっとり眺めている間に調子に乗って余計なことを言ってしまった。思わず真っ赤になった顔を優太に見られたくなくて下を向いた。暗がりの中、顔色など気にしなくていいはずなのに、顔も身体もどんどん強張ってしまう。俯いたせいで星が見えない。暗がりは麻衣子を不安にさせた。沈黙の間、優太は何も言わなかった。麻衣子の言葉をどう捉えただろうか。恐る恐る優太の方を見た。暗がりに慣れた目に、思いのほか真剣に麻衣子を見つめる優太の顔が見えた。彼はゆっくりと、言葉を選びながら麻衣子に告げた。
「俺も、佐藤さんのこと、あの居心地の悪いクラスで、唯一自分と同じ世界にいる人間だと思う。うまく言えないんだけどさ、クラスの奴らはなんか俺には違うなって思えるんだ。佐藤さんは、いつも一生懸命なとことか、人の心に寄り添おうとするとこが凄くいいなって、素敵だなって思ってる」
そう言った後、優太が少し照れながら語った話から、麻衣子が優太のことを見ていたように、優太も麻衣子のことを見ていたのだとわかった。クラスで一生懸命に委員の仕事をこなそうと頑張る姿を応援していたこと。カフェテリアで希美とおしゃべりする姿をながめていたこと。そして雪乃との交流。実はVIPルームはコートからも見えるらしい。少しずつ距離を縮めていく二人を優太はコートから見守ってくれていたのだ。
「俺も仲良くさせてよ。麻衣子って呼んでいい?」
ドクン、と麻衣子は自分の鼓動が聞こえた気がした。優太は麻衣子の言った「仲よくすることにしたの。野島君のことも優太君って呼ばせてね」というセリフに対して「俺も」と言っているのだ。麻衣子は勝手に宣言した。嫌だ、と言われるのが怖かったからだ。けれど、優太は律儀に麻衣子に返事を求めている。またもや固まって黙ってしまった麻衣子に優太が重ねて尋ねた。
「卓兄に先を越されたのがすげー悔しいんだ。俺も麻衣子って呼びたい。いい?」
顔を強張らせたまま、麻衣子は黙ってコクリと頷いた。それを見た優太が満面の笑顔で「よろしく、麻衣子!」といったので、今度は2度コクコクと頷いて返事をした。本当は言葉にして伝えたかった。ここに来てから優太に「佐藤さん」と呼ばれるのが嫌だったと。優太が言ってくれた言葉が凄く嬉しいと。だが、言葉は出てこなかった。優太は微笑んでいる。麻衣子の気持ちを知っているかのように。その顔は、ドレスを買ってくれた時の卓哉に負けず劣らず大人びてみえた。
「戻ろっか」と優しく告げて、優太は立ち上がった。帰り道を照らすため、ランタンのスイッチを入れる。その明かりを頼りに並んで帰る道すがら、二人の胸にはランタンよりずっと明るくて暖かい灯がともっていたようだった。
『なんだか、随分いい感じ?優太君と一緒にいる時って、安心してられるよね。卓哉さんとの時程はあたふたしないで済むし、やっぱり年相応のお付き合いが良いよね。雪乃ちゃんゴメン。私は歳の差なんか無い方がずっといいや』
部屋に戻って隣の雪乃の部屋を見ると、扉が開いていた。雪乃の具合も気になったし、優太とした話を報告してもおきたかった麻衣子は少し遅い時間ではあったが、部屋を覗いた。寝室へ続く扉も開いており、ベッドに横になる雪乃がみえた。雪乃も麻衣子に気付いて手招きしたので、「ちょっとだけ」と自分に言い訳しながら、部屋に入った。
少し不規則な形をしているその部屋は思ったより小さく、大きめのベッドのほかには大した家具もない。ベッドの足元の側の壁は屋根の傾斜のせいで傾いていて大きな天窓があり、隣部屋のものとは色違いのベージュ色のカーテンが掛かっていた。ここが寝室になった理由はこの窓の為なのだとわかる。雪乃はシルクに包まれたふかふかの羽毛の寝具に守られながら顔と手だけを覗かせていた。ベッドの横に置かれたひじ掛けの付いた椅子は、少し大振りだ。麻衣子は雪乃が差し出した手に促されるままに腰かけたが、和臣が使うものかもしれなかった。雪乃の青白い顔色を認め、浮かれた自分の話をするのは躊躇われてしまい、先に雪乃の方が口を開いた。
「心配かけて、ごめんなさいね。大したことはないと思うのだけど」
「お薬は飲んだの?」
「今、和臣さんが取りに行って下さっているの。すぐ戻ってこられると思うわ」
「それで扉が開いてたんだ」
卓哉に聞いたことがある。和臣は雪乃の部屋に入る時、必ず扉を開けておくのだと。彼によれば「理性を失って雪乃ちゃんを押し倒さないように自制するため」らしいが。
「私が寝込んでいるときは皆、扉を開けておいてくれるの。小さな頃から皆と離されて寂しい、と泣いて困らせたものだから」
「ああ、そういうことだったんだ」
「ふふっ、卓哉さんがおかしな理由を教えたんでしょ?和臣さんが私にそんな乱暴なことをするわけもないのに」
『いやいや、そんなこともないでしょ』というセリフは飲み込んだ麻衣子だった。どうやら今も寂しくて話し相手が欲しかったらしい雪乃は小さな声で昔語りを始めた。「いつだって寝込んでばかりで、そこの窓から良く空を眺めていたの」と雪乃は天窓を指差した。満天の星々が煌めいて見える。
「ここにいる間はお星さまが綺麗で、見飽きなかったわ。でも入院することの多かった卓哉さんのお父様の病院ではつまらなくて、カーテンを替えてくれと駄々をこねたの」
「カーテンを?どうして?」
「都内では星はあまり見えないでしょ?ましてビル街で、景色も楽しめなくて。昼間はお見舞いの方がいらしたりして気も紛れるけれど、夜はほんとうに退屈で。『つまらない窓をみせるなら、せめてカーテンを可愛くして』ってお願いしたの。本当に替えて貰ってしまったのよ。我儘よね」
そこにコンコンと扉を叩く音が聞こえた。扉は開けておいたので、来たことを知らせるための和臣のノックだった。出入口に薬と水を載せたトレイを持って立っていた。それをベットサイドの小さなテーブルに乗せると、腰に手を当て雪乃を見下ろしながらこう言ったが、声は優しく、怒っているわけではなさそうだった。
「眠っていられなければ起きていてもしかたないが、おしゃべりは感心しないな。また息苦しくなるだろう?」
「ごめんなさい、でも…」
「寂しがり屋のお姫様の為に、僕がお話を聞かせてあげよう」
遠慮して麻衣子は部屋を出ようとしたのだが、「麻衣子さんも一緒に聞いてほしい」と言われ、残ることになった。和臣は壁際に置いてあった丸椅子をベットサイドに運んで自ら座ったが、小さな丸椅子は長身の彼には低過ぎた。長い手足を畳むように折り曲げ、いつもは真っ直ぐ立っている背筋を前に屈め、膝に肘を付け、指を組んで座った。いつになく俯いた姿勢は、告解する罪人のようにも見えた。そして、その後に続く話はまさに彼の懺悔だったのだ。
「雪乃にも、話したことは無かったね。雪乃が生まれる前に亡くなった僕の義母のことだ」
和臣の父、東條貴臣の妻、つまり和臣の義母は、雪江といって、雪乃の母の従姉であった。体が弱く、東條家に乞われて嫁に来たものの、間もなく寝たきりとなった。良き嫁になろうと、屋敷の采配を振るう為の行儀見習いで無理をしたことが仇となったのだった。別荘の雪乃の部屋は、療養していた彼女が使っていた部屋だったのだ。子供を欲しがっていたが得られなかった彼女は、外に生れた和臣にも優しかった。ここで窓越しの星空を眺めながら「お母様はもうすぐお星様になるから、その時は、お星様を見てね」と度々語っていたが、和臣が6歳になろうという頃、亡くなった。別荘は引き払い、本邸に戻ったが、都会の夜空には星はまばらで、彼は義母に会えないようで寂しかった。その後、雪乃が生まれた。早産の為、かなり小さな未熟児だった彼女は長く保育器に入って過ごしたが、和臣はそれを度々見舞って、ガラス越しにいつまでも見ていた。
「保育器という名のガラスケースの中で小さな身体を必死に動かしていた。やがて開いた目の中に星が見えた。キラキラと輝いて。ガラス窓の向こうの空へお星様になって行ってしまわれたお母様が、僕の為にこのガラスケースに帰ってきてくださった。そう思ったよ」
雪乃を雪江の生まれ変わりと考えていたのは、和臣だけではなかった。親戚中がそう考えていたし、また、雪乃も日に日に雪江に似てきていた。華奢な体に透けるような白い肌、細くしなやかな黒髪、顔立ちもどことなく血の繋がりを感じさせた。何より儚げな雰囲気が雪江を思い起こさせる。和臣と雪乃の二人は許婚と見做されていた。誰が言い出したかは分からないが、いつの間にか皆がそう考えていたのだ。しかし、雪乃が成長するにつれて丈夫になるだろうとの目算は外れた。東條家の当主である和臣の祖父、東條忠臣は、雪江に無理をさせて命を縮めたことに加えて、貴臣が子を外に作ったことで雪江を傷つけたことに後悔を抱えていた。雪乃に雪江を重ねて、忠臣は二人の結婚に異を唱えた。
「庶子である僕の存在理由は東條の血を受け継ぐことだ。知識も教養も結婚も、おじい様の求める後継となる為に必要ならば受け入れるものだ。そう思っていた」
当時の和臣には許婚とはいえ、雪乃は義母に良く似た妹でしかなかった。だが、父、貴臣に言われたのだ。「和臣はどうしたい?私はお前が望むなら、結婚に反対しない」強硬に反対するかと思われた忠臣も、二人の意見を尊重するという。だが彼は自分の感情を押し殺すことに慣れて育ったため、自分がどうしたいかなど、考えたこともなかった。正直どうでも良かったのだ。ならば、雪乃の望むようにさせてやろうと考えた。雪乃は彼を慕っていたが、それは刷り込みのようなものだ。まだ幼い彼女に決断を求めるわけにもいかない。他の男を知る機会も時間も必要だろう。和臣は迷った末、周囲に保留を求め、留学することに決めた。雪乃との接触を自らに禁じて。
「僕は逃げたんだ。今思えば、雪乃にすべての決断を委ねようとしていた」
義母の友人の勧めもあって留学先をイギリスに決めた和臣が、最低限の日数しか学院に通わず留学準備の為に度々渡英するようになると、雪乃が体調を崩しがちになった。彼女を心配した東條家は雪乃が親しくする数少ない人間、野島優太を学院に編入させることを決めた。和臣は報告を受けただけだが、優太の雪乃に対する好意は感じていたので、それも良いかと思っていた。
「優太を選ぶなら祝福するつもりでいたし、むしろそうなって欲しいとすら思っていた。身体の弱い雪乃が東條の嫁になれば、義母の二の舞になるだろうと僕も考えていた。イギリス留学を決めたことで僕の卒業後の仕事はヨーロッパが主な活動場所になると予想されたこともある」
留学して、雪乃の笑顔に自分がどれほど癒されていたかを痛感した。どうしているか、気にかかった。優太からのメールで雪乃が寝込んでいることを知らされ、何度帰国しようとしたかしれない。だが、彼からは連絡を取らなかった。雪乃を思えば思う程彼女の望み通りにさせてやりたかったからだ。しかし、麻衣子に勇気付けられた雪乃から手紙が届いたのを機に、メールのやり取りを始めると、彼女は和臣への励ましの言葉ばかりを綴ってきた。彼女もまた和臣を思って、彼の幸せを望んでいた。私情を捨てて生きる和臣に自分の幸せを求めるよう促す雪乃に、彼女がもう幼い少女ではないと感じた。互いの愛情と雪乃の成長を確認した和臣は帰国して決着をつけると決意した。
「ありがとう、麻衣子さん。貴女が雪乃の背中を押してくれたお蔭で、僕達は向き合えた。この別荘での滞在も貴女なしでは成し得なかった。本当にありがとう」
和臣は麻衣子に向けて、微笑んだ。彼から麻衣子に向けられた、初めての優しく綺麗な笑みだった。彼女は大きな目を瞬かせることしか出来なかったが、和臣は満足そうに頷いた。驚いた彼女がそれしか返せないことを彼はいつの間にか知っていたようだ。
「お前を振り回して、すまなかった、優太」
そう言いながら和臣が振り返ったので、麻衣子がつられて視線を向けると、そこに優太が立っていた。和臣と一緒に来ていたのか、扉の陰に半分隠れて顔を廊下の方に向けている。兄の話を聞いて零してしまった涙を隠しているのかもしれない。目に一杯の涙を溜めて黙って話を聞いていた雪乃も「まぁ、優ちゃん、いつの間に?」と驚いている。
「今までずっと雪乃を気遣ってくれてありがとう。東條が雪乃を頼むと言った事、ずっと気に掛けていたのだろう?だが、もういい。お前は自由だよ」
最後まで語り終えると、和臣は立ち上がり扉に立つ優太に近づいた。そして、涙が止まらないどころか、身体を振るわせ始めた弟を抱きしめ、優しく背中をさすった。「辛かったろう?よくやってくれた。ありがとう」と小さく声を掛ける。薬を取りに階下に降りた和臣は優太にこの話を聞かせたくてここに連れてきたに違いない。誰よりも優太に聞かせたい話だったのだ。
優太の涙が漸く収まりつつあった頃、和臣が麻衣子を振り返って、皆を驚かせる発言をした。
「麻衣子さん、学院内で雪乃の面倒を見るという東條家と優太の約束は既に解消された。貴女と優太のお付き合いになんら支障はないので、安心して欲しい」
「へ?」
「はぁ?!」
「どういうことですの?」
目を白黒させた麻衣子はとぼけた声をだし、驚きに涙が止まった優太は叫び、興奮した雪乃は起き上がった。珍しく不思議そうに視線を泳がせた和臣に対して、優太が憤然として訴えた。
「俺達付き合ってなんかいない!」
「そうなのか?二人で良いムードで戻ってきたからそういうことかと思ったのだが。すまない。僕は卓哉と違ってその方面は疎いようだ」
「ああ!もう!余計なこと言うなよ!」
深刻なムードは消えたものの、今度は騒がしくなってしまった。雪乃はベッドから出て「良いムード」に関して麻衣子に説明を求めて詰め寄ろうとして、和臣の制止にも従わない。漸く雪乃が休む気になった頃には熱が上がっていて、大いに和臣に叱られることになった。
三人で雪乃の部屋を出て、麻衣子の部屋の前で「おやすみなさい」と挨拶を交わして別れたが、麻衣子は階段を降りていく兄弟二人の後姿を見送りながら、しみじみと思った。
『兄弟の間にあったわだかまりってヤツがなくなったんだね、良かった、良かった。なんか、和臣さんって冷たいように見えたけど、案外、口下手で不器用なだけかも。仲良くなれるかな』
麻衣子には兄弟二人が階段を降りながらしていたひそひそ話は聞こえていなかった。
「もう雪乃は僕のいいなりではないな」
「麻衣子の影響じゃない?」
「それはつまり、優太も苦労するという事か」
「え、いや、だから、俺達はまだそんな関係じゃないって…」
「まだ告白していなかったのだな。早くしろよ」
「何だよ!自分だってさんざんもたついた癖に!」
「だからこその忠告だ。頑張れ」
ともかく、兄弟の会話に悲壮な空気はひとつもなかった。この告白の夜は、和臣の長年の苦しみが浄化した夜だったのだ。




