14.女子会
夕食後に体調を気遣う和臣によって部屋に押し込められたはずの雪乃が、麻衣子の部屋を訪ねて来て、「女の子同士でお話をしましょう?」と誘ったのだ。妄想をどうにかしたいと思っていた麻衣子は誘惑に勝てなかった。雪乃が部屋にいなければ心配性の彼を慌てさせかねないので、雪乃の部屋でお喋りすることにして、麻衣子が「お昼寝用」と思っている優雅な長椅子に二人並んで座った。雪乃はガラス工房での体調不良で麻衣子に迷惑を掛けたともう一度謝った後、彼女が思ってもみなかった事を聞いてきた。
「麻衣子ちゃんは、卓哉さんのことを想ってらっしゃるの?優ちゃんの事はもうよろしいの?」
どちらも雪乃の大切な人だし、麻衣子が好きになるのも無理はない。ただ、この旅行に誘ったのは自分だから責任も感じるし気になってしまう、いずれにしても応援するが正直な気持ちを聞かせて欲しい、とそう言うのだ。麻衣子は戸惑うばかりだった。問われても、「Yes」とも「No」とも答えられなかったのだ。そのことに自分自身が驚いてしまった。
『優太君のこと、もっと知りたいって思ってたけど、好きだって思うけど、それは卓哉さんにも感じる事だよね。だとしたら、私はどっちが好きなの?』
最早パニックだ。眉は極限まで寄って、大きな瞳はぐりぐりと蠢き、視線は彷徨って定まらない。鼻孔は膨らみ、口は閉じたままモゴモゴと動き、つられた頬がピクピクと震え、次第に真っ赤になっていった。自身の混乱に耐えられなくなって麻衣子は叫んだ。
「好きってどういうこと?!」
今度は雪乃が驚く番だった。麻衣子が悩んでいそうなことはその様子から想像がついたが、そう聞かれて、すぐには答えられない。雪乃だって日々戸惑いの中にいるのだ。俯いて暫く考えてから、「ごめんなさい。答えはわたくしにもわかりません。ただ、わたくしなりの好きという想いを聞いてくださる?」と前置きして話し始めた。
物心ついたころには、和臣のお嫁さんになるのだと信じていた。いつも淡々として、時に冷酷さすら感じさせる和臣が、自分に対してだけ優しいことも知っていた。だが、それは両親を慕うのに近い「好き」だった。初等部に上がってからは、皆の憧れのプリンスに目を掛けられている優越感もあったし、、自慢の兄のようだった。それが変化したのは和臣が自分を捨てていると気付いてからだった。東條家の後継として実母から引き離された彼は、不器用ながら努力を重ねて周囲に自分を認めさせたが、楽しげな様子を見せる事はなかった。何とか喜んで貰おうと必死に笑いかけても、静かに微笑みを返すだけ。雪乃に何かを望むことは一度もなかった。
「私が和臣さんにして差しあげられる事など1つも無かったの。与えられるだけで、求められることがないと知るのは子供心にも辛いことね」
だから、早く大人になりたかった。大人になれば、和臣を幸せにする為に、自分にも何か出来るはずだ。彼の役に立つための努力は惜しまないつもりだった。だが、彼は雪乃が大人になるのを待たずに留学してしまった。留学は彼の希望だと教えられ、ますますショックだった。初めて彼が自ら望んだ事が自分から離れる事だったのだ。和臣は雪乃と離れたかったのだろうか、今頃留学先で自由を謳歌しているのか、自分に出来ることは別れてあげることなのか。
「何かして差し上げたいと思っているつもりで、自分に望まれることしか考えていなかったの。どなたか他の方が和臣さんのお隣に並んでいらして、その方を和臣さんが望まれることを想像したら、胸が苦しくて堪らなかったわ。そして、それが恋だと気付いたの」
「嫉妬心ってこと?」
そこで初めて麻衣子は口を挟んだ。雪乃は小さく頷くと、麻衣子の思考を邪魔しない様に暫く黙って待ってくれた。麻衣子の百面相がまた始まった。
『私、やきもちって焼いたことあったかな。優太君が雪乃ちゃんを好きって知った時、二人を応援しようって思った位だもん。やっぱりあの時はただの憧れで、恋じゃなかったんだ。今は?わかんない。じゃあ卓哉さんは?他の女の人に声を掛けられ時、どう思ったっけ?気に食わなかったのは、嫉妬?それとも違う感情?』
混乱が収まらない麻衣子は、彷徨わせていた視線を雪乃に向けて、縋るように見つめた。雪乃は再び話し始めた。
麻衣子に勧められてメールのやり取りを始めた時には、辛かったが和臣の幸せを願おうと決心していた。本当は諦めたくなんてない。けれど、和臣よりずっと子供な自分は好きになって貰える自信などない。きっと彼は近くにいる大人の女性に心奪われるだろう。彼が結婚の話を無かった事にしたいと言えば受け入れるつもりでいた。幸い、和臣には留学先で特別な女性はいなかったし、雪乃の気持ちを喜んでくれた。二人の新しい関係が始まったのだ。
「実はそれからの方がずっと苦しかった。和臣さんが嘘をつく方ではないと、知っているはずなのに、疑ってしまうの。居もしないお相手の事を考えて、眠れない夜もあったわ」
いつ彼が心変わりをするか不安でたまらない。離れている間に彼の心を掴む女性が現れるに違いない。その思いに押しつぶされそうで、何度も確かめたくなってつまらないメールをした。彼からの返事を読み返しては何か兆候はないかを探してしまう。彼が帰国して、一緒に此処に来てからも、不安は消えていない。彼が仕事だと言って部屋に籠る度に他の女性と連絡をとっているのではないのかとさえ思えてしまう。
「和臣さんはあんなに雪乃ちゃんのことを大事にしてくれてるのに、なんでそんなに不安なの?」
「きっと自分自身が信じられないのだわ。和臣さんがこんなわたくしを好きでいて下さるはずがないとどこかで思っているの」
そして、此処に来てから、もう1つ、別の苦しみがまっていた。
「メールの遣り取りをしていた間は電話でお声を聴ければ喜んでいられたのに、どんどん欲張りになってしまって……会えば触れたい、触れれば抱きしめられたい、抱きしめられれば……」
「キスしたいとか?」
麻衣子は思わず聞いてしまった。言ってしまってから『しまった』と思ったが、雪乃は「ふふふっ」と笑ってから、告白した。
「そうよ。キスして欲しい。出来ることなら、それ以上だって……。きりがないの」
「和臣さんは?どんな態度なの?」
「お休みのキスをね、子供の頃はおでこにして下さったのだけど、ここに来てから唇にして下さる様になったわ。そっと、触れるだけだけれど」
唇に指を当て、雪乃は切なそうに眼を伏せた。麻衣子にはもっと、もっと、と願う雪乃の気持ちがよく分かる気がしたが、では、和臣の気持ちはどうだろうか。和臣だって同じ気持ちを抱いているのではないのか。
「和臣さんはわたくしの気持ちなどご存じの様子で、時折たしなめるようなことをおっしゃるの。その子供扱いが堪らなく悔しくて、悲しくて。どうしてわたくしは大人として扱って頂けないのかしら」
麻衣子は和臣と卓哉との会話を思い出してみたが、まだ早いとブレーキを掛けているような気がした。その程度には彼等と自分達は歳が離れているのだ。自分達はこんなに翻弄されて、あちらは余裕綽綽なのかと思うと、癪に障ってきた。卓哉だって、麻衣子をからかうばかりで、どこまで本気かわかりはしない。優太と卓哉のどちらが好きか真剣に悩んでも仕方ないと思えてきた麻衣子だった。
「雪乃ちゃんはさ、和臣さんに愛されてると思うんだ。雪乃ちゃんを見るあの人の目はいつも優しいよ。私は優太君にしたって、卓哉さんにしたって、からかわれるばっかり。どっちを好きになったって、片思いには変わりないよ」
「そんなことはないと思うのだけれど……」
次第に怒りを表しだす麻衣子の表情に雪乃は戸惑った。
「私を混乱させる卓哉さんが悪い!」
「麻衣子ちゃん?!」
「別に私、やきもちも焼いてないし、キスしたいとも思ってない!優太君も卓哉さんもどっちも好きじゃないのかも!」
とことん考えることの苦手な麻衣子は、八つ当たり気味に考える事を放棄した。雪乃は自分の告白が麻衣子を間違った方向に導いてしまったことを悟った。
翌朝、4人の食卓で、無言のまま横目で卓哉を睨む麻衣子に、男二人は困惑することとなった。雪乃は『卓哉さん、ごめんなさい』と心の中で謝ったが、何と説明してよいか分からず、下を向いて誤魔化すしかなかった。卓哉は、『昨日ちょっとからかい過ぎたかな』と思った程度で気に掛けなかったが、テニスの間中無言を貫いた麻衣子に、さすがにこのままではまずいと腰を上げることにした。丁度和臣が午後は仕事だと言うし、今日は乗馬を止めにして麻衣子を連れ出そうと声を掛けた。だが、言い方がまずかった。
「なぁ、麻衣子。俺達話し合いが必要だと思わないか?ちょっと二人で出掛けようぜ」
「話すことなんてありません!私の癒しの時間を邪魔しないで下さい!」
『浮気してる男のセリフみたい!最低!』と卓哉の女性関係を麻衣子に妄想させるような言葉が逆効果となったのだ。けんもほろろに断られ、卓哉は凹んだ。今まで自分から誘って断られたことなどなかったのだ。モテ男を自認していた彼の初めての敗北といえた。
夕食の席で情けなく眉を下げ、しょんぼりと俯く彼に、和臣と雪乃が気遣わしげに目を遣るのを見ていると、麻衣子は悪いことをしているような気がしてきた。考え続けることが苦手な麻衣子だが、怒りもまた持続しないのだ。冷静になってみれば、勝手に八つ当たりをしていたのだし、これは麻衣子のほうから謝らねばならないのでは、と思えてきた。理由を知ったら、理不尽な麻衣子の態度に怒られるかもしれないと、不安にさえなる。とりあえずは謝罪せねば。和臣は午後の仕事に引き続いて部屋に籠っているらしく、卓哉は一人リビングのソファでブランデーグラスを傾けていた。テーブルには瓶ごと酒が置いてあり、手酌で飲んでいるらしかった。足を組み、深く背凭れに身体を沈め、憂い顔の横顔に大人の色気を溢れさせている。麻衣子は正面から向き合えずに、ソファの背凭れを挟んで話し掛けることにした。
「卓哉さん、昼間はごめんなさい。あの……私…………」
そこまで言って言葉に詰まってしまい、すっかり俯いてしまった。首だけで振り向いた卓哉は、麻衣子を見遣ると1つ深く溜息をついた。
「謝らなくちゃいけないのは俺の方だよ。とりあえず座らない?」
拗ねる麻衣子に呆れてついた溜息ではなかったことに安堵し、ソファに座るため場所を移そうとした時に卓哉が自分の座っている横をトントンと叩き、隣に座れと促した。一瞬躊躇したものの、謝罪しに来たのだから、相手の希望に沿った方がいいかと彼の提案を受け入れた。座った麻衣子の姿勢は彼女の心を表していて、背を丸め、膝を精一杯寄せ、その膝の上に小さな両手を握りしめていた。そんな姿を横目で見ながら、卓哉は少し悲しそうに言った。
「お願いだから、そんなに緊張しないで。からかって悪かったって。ごめんな。ホントに反省してるんだ」
「あの、私、どうしていいか分からなかっただけで……」
「麻衣子が怒るのも無理なかったよ。な?仲直りしよう?」
そうだった。卓哉はいつだって麻衣子の意を汲んでくれるのだ。からかう時だって、いつも緊張をほぐす為だったり、落ち込みを慰める為だったりするのだ。麻衣子は自分が卓哉の優しさに甘えていたことに気付いた。八つ当たりしたって大人な卓哉さんなら許してくれる、とどこかで考えていたのだ。そして、その彼の余裕が悔しかったのだ。その距離が寂しかったのだ。大人になりたいと言った雪乃の気持ちが痛いほど分かった瞬間だった。
『私、卓哉さんのことが好きになっちゃったのかな?レディ扱いされている間に、生意気に本気になっちゃったのかな?卓哉さんが本気で私なんかを相手にするはずないのに?』
その時だった。スマホの着信音が鳴った。「あ、ごめん、俺だ」と言って卓哉がポケットからスマホを取出し、通話を始めた。座ったままなので、横に座っていた麻衣子にも、音が聞こえてきた。卓哉のスマホからは、甲高い女の声が漏れてきた。
『あのー、卓哉さんの携帯ですよねー』
「そうだけど」
『遅くにすいませーん。昨日、ガラス工房でお会いした愛ですけどー』
「ああ、愛ちゃんか」
『ナンパか?ナンパなのか?!』と心で叫んだ麻衣子は憤然として、立ち上がり、卓哉を置き去りにした。捨て台詞を吐いて。
「卓哉さん、最低!!」
「えっ?麻衣子?おい!」
「待てよ!誤解だー!」という卓哉の叫びは無視して、猛然と駆け出した麻衣子は頬を目一杯膨らませたまま自分の部屋へ閉じこもった。卓哉はきっといつもナンパで女の子を引っ掛けていて、たまに出掛けていたのも、その子とデートだったのではないのか。『せっかく見直してあげたのに!卓哉さんの馬鹿!絶対言い訳なんて聞いてあげない!』と心で叫びながら怒りに任せて枕を壁に叩きつけた。卓哉に買って貰ったガラスのリスがその風を受けてコトリと倒れた。
『卓哉さんなんて、きっと誰にでもいい顔して、愛想を振りまくんだ。とんだハーレム男じゃん!ドロドロの女の争いなんて御免なんだから!少女漫画は好きだけど、レディースものは興味ないもん!』
麻衣子はそれが嫉妬の感情だという事を薄々気づいていたが、これ以上卓哉に振り回されるのが怖かったのだ。卓哉はいつだって麻衣子の気持ちに気付いてくれるが、麻衣子の方は、大人の余裕を見せる彼の感情を読み取ることなど出来ない。卓哉との恋など、お子様の麻衣子には危険すぎるだろう。ちょっと耳元で囁かれただけで真っ赤になってしまうのに、本気で迫られたらどうなるのか。女性関係だって、きっといろいろあるに違いない。自分は雪乃とは違う。好かれていなくても彼のために、等という健気な想いなど、持ち合わせていない。そんな苦しい恋などしたくなかった。雪乃のように急いで大人になりたいとも思わないのだ。どこまでも甘い夢だけを見ていたい麻衣子だった。
『卓哉さーん、聞こえてますー?昨日の請求書は東條様宛でいいんですかー?』
スマホから、女の声が漏れていたが、聞く者はいなかった。




