10.高原の別荘
1日デートを楽しんだ佐藤麻衣子と西園寺卓哉の二人が東條家の別荘に着いたときにはすっかり暗くなっていた。別荘街には街灯もまばらで、あたりの様子は良く見えない。とりあえず、建物の脇に卓哉が車を停めたが、その横には既にもう1台車が停まっていた。麻衣子でも知っているエンブレムの付いた、セダンタイプの高級車だった。遅れてくると言っていた東條和臣と桂木雪乃の方が先に着いていたのかもしれない。気配に気づいて中から出てきたのは東條家の使用人のようだった。「こちらにどうぞ」と導かれて入ったリビングはホールと呼んでもいいほど広々としていた。最近テレビで見たイタリア貴族の豪邸を思わせる。
『これが別荘ってどういうこと?本宅はどれだけ豪華なの?ベルサイユ宮殿みたいだったりして?』
麻衣子の想像していた別荘はこじんまりした山小屋で、皆で暖炉を囲うイメージだったが、大きな暖炉はあるにはあったが、部屋の入口からは、はるか遠くに見えていた。煌めくシャンデリア、お客をもてなす為のバーカウンター、凝った装飾のついたグランドピアノ、見事な色と柄を織りなしたカーペット、何人座れるのかと数えたくなってしまうソファ、昼間なら美しい庭が眺められるだろう大きな窓。挙げればきりがない。家具も装飾も家具屋のショールームでさえここまで凝ってはいないだろう。壁に掛かっている絵も、もしかしたら、美術館にあるような価値ある物かもしれない。そんなことを呆然と立ち竦んだまま考えていた。そこに、優美な室内階段をゆっくりと降りてくる男性がいた。
「いらっしゃい、麻衣子さん。東條和臣です。出迎えもせず、申し訳ない」
握手を求め、スッと右手を差し出した東條和臣は、まさに貴公子だ。長い手足にまっすぐに伸びた背筋。隙のない立ち姿はマナーのお手本のように美しい。カジュアルな服装にもかかわらず、なんともいえない気品が溢れている。弟の野島優太とあまり似ていないのは父親が違うせいだろうか。切れ長の瞳は涼しげというより、冷ややかな印象だ。唇は薄く、きりっと結んでいる。整った鼻筋は優太と似ていた。少し秀でた額が知性を感じさせ、短く切りそろえてきっちりと分けられた髪はビジネスマンのようだ。まじまじとみつめながら、雪乃の話に聞く優しい「和兄様」とまるで違う印象に驚き、固まってしまった。麻衣子が握手の手を差し出さないことに僅かに目を瞠って、手を戻した。
「女性が手を差し出す前に握手を求めるものではなかったね」
「あっ!ごめんなさい!そんなつもりじゃなかったんです!あの、ちょっと、びっくりしたっていうか!」
もうパニックだ。取り繕うどころか、意味のないジェスチャーを繰り返してしまって、ますます収拾がつかなくなっていく。卓哉が助け舟を出してくれた。
「可愛い女の子を苛めるなよ、和臣。麻衣子ちゃん、この男はいつもこんな感じで嫌味な奴だから、気にすることないからね」
「相変わらずだな、卓哉。久しぶりに会う友人に告げるセリフとして、どうなんだ」
「お前こそだろ!やっと帰ってきやがったな!お帰り!」
そう言いながら、卓哉は両腕で思い切り和臣を抱きしめた。ハグというやつだ。大人の男同士のハグなど、目の前で見たことなどない。『ひゃー!なんか、外国の映画かドラマ見てるみたい!それともちょっとBLものを思わせる?』近況を話しながら部屋の真ん中のソファに向かっていく二人の後をひょこひょこと付いて歩くが、雪乃の姿が見えない。先ほどまでの浮かれた気分はすっかり消え、徐々に心細くなってきた。三人がソファにつくと、使用人によって、すかさずお摘みのようなものと冷たい飲み物がだされた。男性陣は冷茶のようだが、麻衣子にはオレンジジュースだった。『私までセレブ扱いしてもらって申し訳ないかも。そうだ、いつものハンバーガーショップみたいに音立てて飲んじゃいけないよね。気をつけなきゃ。』ジュースを飲むのにも用心深くなる麻衣子だった。
「麻衣子さん、本来なら僕が迎えに行くべきところを、卓哉に任せてしまい、失礼した」
「あの、卓哉さんが良くしてくれたんで、楽しかったです」
「それは良かった。あいにく雪乃が体調を崩していてね。大変申し訳ないが、今夜はこのまま失礼したい。構わないだろうか」
「えっ?大丈夫なんですか?あの、私のせいで無理させちゃったんでしょうか?」
「そういうわけではない。少し疲れただけで、おそらく明日の朝には…」
「麻衣子ちゃん!」
和臣の言葉に割り込んで聞こえた声に視線を向けると、彼が降りてきたのと同じ階段の上に雪乃がいた。本当に具合が悪く、寝ていたのだろう、寝間着の上にガウンを羽織った姿で現れた。すかさず和臣がソファから立ち上がり、彼女を迎えに行った。雪乃の肩を抱きかかえるようにして歩きながら、長身を屈めて顔を覗き込み話し掛けている。冷たい雰囲気は瞬く間に消え、優しげな、まさにイメージ通りの和兄様だった。その姿は優太が雪乃を慰めていた時の光景を麻衣子に思い出させた。
『ああ、そうか、優太君は和臣さんを真似てたんだっけ』
「起きてきてはいけないと言っただろう、雪乃。まだ顔色が悪いし、上で休んでいた方がいい」
「顔を見せないなんて失礼だわ。わざわざ遠い所をお越し頂いたのに。卓兄様にもご挨拶しないと。いらっしゃいませ。麻衣子ちゃん、卓兄様。このような格好で失礼しますね」
雪乃の言葉はまるで若奥様のようなのに、「卓兄様」だけが子供っぽくてちぐはぐな気がして、麻衣子には少し可笑しかった。卓哉が雪乃に近寄りながら声を掛けた。
「どうせ旅行に興奮し過ぎて、昨日の夜眠れなかったとかだろ?はしゃぎ過ぎだ。薬は飲んだ?」「ごめんなさい。おっしゃる通りです。はい、薬は飲みました、卓兄様」
「いい子だ。和臣の言うとおり、今夜はもう寝なきゃダメだよ。じゃなきゃ、明日の約束はキャンセルだ」
「そんな!楽しみにしていますのに!」
「大丈夫、約束は守るから安心して。せっかく起きてきたのだから、麻衣子さんを部屋に案内して、少し話すといい。その代り、今夜は少しだけだ。明日の為にも早く休みなさい。いいね?」
卓哉の言葉にしょんぼりしてしまった雪乃を見て、和臣が甘く告げる。卓哉はそれに呆れたように眉を大きく上げたが、横に立った麻衣子と目が合うと「ほら、邪魔しなくて良かっただろ?」とこっそり囁いた。
麻衣子と雪乃にあてがわれた部屋は隣同士で2階にあった。雪乃はここに来るまでの道中に不都合がなかったかを確認して麻衣子が「楽しかったよ」と答えたことにたいそう安心した。どうやら和臣に家の仕事が入ったというのは、雪乃の体調不良をごまかすための方便だったらしい。「今夜はいい子に休むけれど、きっと二人で夜更かししながらおしゃべり致しましょうね!」と約束して、早々に部屋引き取った。そして、翌日は、今日よりさらに驚かされることになるのだ。
朝、麻衣子が高原のすがすがしい空気を感じながら目覚め、階段を降りてくと、3人は既に談笑しているところだった。全員揃ったところで案内された広々としたウッドデッキには、朝食のテーブルが整っていて、その豪華さは、まるで高級ホテルの朝食のようだ。しかし、驚くべきところはそれではなかった。ウッドデッキからは見渡す限り青々とした林が広がっている。所々にある鮮やかな黄緑は家畜用の草だろう。楕円の柵に囲まれた馬場らしき場所も見える。近くに乗馬クラブでもあるに違いない。高原の情景を我が物と出来ていたのだった。麻衣子は思わずデッキの手すりから身を乗り出し、ぐるりと見渡して、叫んだ。
「うわぁ!凄い!いい眺め!」
「そうでしょう?ここの眺めはいつも素晴らしいの。わたくしは冬の雪景色も好きだわ」
ひとしきり眺めを堪能してテーブルを振り返ると、麻衣子には卓哉が、雪乃には和臣が、手すり側の座席の椅子を引いて待っていてくれた。二人が席に着くと、自分たちはその隣の建物側に座り、食事が始まった。さりげなく景色が見やすい側に席を誘導する、彼らの気遣いとスマートな仕種に、麻衣子はどぎまぎしてしまった。
『これがレディファーストってやつね!』
昨日も随分と卓哉にしてもらったが、たとえ麻衣子のような『なんちゃって令嬢』であってもレディとして扱って貰えるなんて、なんと嬉しいことだろう。『清光学院に入って良かった!頑張って勉強したかいがあった!』としみじみ思ってしまう。食事をしながら、和臣が今日の予定を教えてくれて、さらに驚かされた。
「今日の午前中は雪乃の希望通り、僕と卓哉のテニスの試合の観戦だ。麻衣子さんも申し訳ないが付き合って欲しい。試合の後、雪乃はお昼寝。麻衣子さんは僕たちと乗馬をしよう。それから4人で買い物だ」
「わたくしにも乗馬をさせて下さいな。和兄様!」
「あ、雪乃、和兄様と言ったね」
「きゃっ!」
「ははっ!さっきの約束、もう破ったな。雪乃ちゃん」
雪乃は真っ赤になって狼狽えている。どうやら、朝食の直前に3人で話していたのは卓哉の言っていた例の呼び方の事らしかった。『和兄様』と呼んだら何かペナルティでも課せられたのかもしれない。それにしても乗馬なんて、子供のころに行った牧場のポニーの引き馬にしか乗ったことがない。大丈夫だろうか。
「麻衣子ちゃん、また悩んでるな!心配いらないよ。大丈夫。お兄さんたちに任せなさい!」
また考え込んでいるのに気付かれてしまっていたらしい。卓哉に笑われてしまったが、嫌な気持ちにはならなかった。温かく、ほっこりする笑顔だからだろうか。
「僕と卓哉は先に行ってウォーミングアップをしておくから、ゆっくりコートに来ると良い」
和臣にそういわれ、少しだけ雪乃の部屋でおしゃべりをすることにした。そこは、麻衣子に宛がわれたホテルの一室のようなすっきりとした部屋とはまるで違っていた。窓に掛かったアイボリーのカーテンは繊細なレースで可愛らしい花柄が透けている。それにはいくつもの薄いピンクのフリンジがぶら下がり、同じピンク色のリボンをタッセル代わりにして纏められている。お姫さまの姿を映していたのではないかと思わせる豪奢な金の装飾に縁どられた鏡台がある。それ以外の家具はみな象嵌細工がふんだんに嵌め込まれてはいるものの、落ち着いたマホガニーで統一されていた。文机とティーテーブル。お揃いのピンク色のサテン地が張られた椅子。長椅子はお昼寝用だろうか。ベッドは見えないので続き部屋があるのだろう。それらしき扉がみえた。壁際の優美なチェストの上にはたくさんの写真があった。そのすべてに和臣や優太、卓哉、雪乃の家族と思われる人間が写っていた。皆今よりずっと幼くて、その笑顔が微笑ましい。
「ここは雪乃ちゃんのお部屋なの?」
「ええ、和兄様のおじい様のご厚意で、ここに滞在するときにはいつも使わせていただいているの」
「あれ、和兄様て呼んじゃいけないんじゃないの?」
「きゃあ!また言ってしまったわ!」
今朝、和臣から「もう子供じゃないのだから、和兄様は止めなさい。この旅行中にそれができるようになったらご褒美をあげよう」と言われたらしい。以前から兄妹の関係を脱して「和臣さん」と呼びたいと思っていたが、いざ長年の習慣をやめようとすると上手くいかないらしい。
夏涼しく空気の澄んだ高原の別荘は呼吸器官の弱い雪乃の療養に相応しい場所であった。雪乃を可愛がってくれていた和臣の祖父に是非にといわれ、幼い頃から度々長期に滞在していたという。雪乃を寂しがらせない様に、東條家と桂木家、そしてたまに野島家の人々が忙しい中を縫って入れ代わり立ち代わり滞在してくれた。卓哉は雪乃がしばしば入院してお世話になる病院の院長の息子で、和臣の同級生でもあったことから親しくなり、夏にはここでよく和臣とテニスをし、それに優太も加わった。涼しい気温ときれいな空気のお蔭で部屋に閉じこもることなくプレイを見ていられたので、雪乃にとってここでのテニスの観戦は特別なものだった。だからこそ、和臣が留学してからというもの、思い出の詰まったこの場所に来るのが辛くなり、しばらく足が遠のいていたのだという。
和臣に、「帰国したら、雪乃の1番のお願いを叶えてあげよう」と言われ、真っ先に思いついたのがこの場所だった。先日みた優太と卓哉のプレイに刺激されたこともあったかもしれない。こんなに少人数で来るのは初めてだし、優太や希美も誘って以前の賑やかな雰囲気を再現したかったが、麻衣子だけでも来てくれて本当に嬉しい、と切々と雪乃は語った。
『こんなに友達に喜ばれて、なんちゃって令嬢まで体験できるんだから、高原の別荘は本当に凄い!』
朝からいたく感動してしまう麻衣子だった。




