5:湖までの道中で
5:湖までの道中で
質素な部屋に置かれた寝台には、一人の少年が横たわっていた。水を張ったたらいを室内に持って入ると、咳をしていた彼はゆっくりと上体を起こす。
「――私の世話なんかしていると、病気がうつりますよ?」
「心配しないでください。あたしには火の精霊さまがついていますから、熱病にはかからないのです」
そう答えて、幼いアリスは少年に優しく微笑んだ。
小さな頃のことを夢に見ていた。まだ一番下の弟が生まれる前の出来事だ。
アリスの故郷は大きな宿屋も病院もないような町なので、年に一回行われる視察を担当する王宮魔導師は町の一般家庭に寄留する。どこの家で世話をするのかは持ち回りだ。その年にやってきた王宮魔導師の少年はルヴィニの家で世話をすることになっていた。
だが、彼は任務の途中で熱病に倒れてしまう。身重であった母に代わり、まもなく九つになるアリスが彼の看病にあたっていたのだ。
「火の精霊が?」
彼は目をまるくして聞き返してくる。
「はい。――あたし、魔法なんて習ったことないんですけど、炎を出すことができるんですよ。ただ、制御がうまくできなくってみんなに迷惑をかけちゃうから、外に出るのも控えていて……」
「そんな、もったいない」
残念そうな顔をして告げたのち、彼は激しく咳き込んだ。
「あ、横になっていてください。身体を清めますから」
促すと、彼はしぶしぶ横になった。アリスはたらいに張った水に布巾を浸す。
「――魔法の勉強をしたいとは思わないのですか?」
汗ばんだ首筋に固く絞った布巾を当てると、彼は力のない声でそう問うてくる。
「思いますよ。勉強することができれば、制御も上達するんじゃないかって」
「でしたら――」
「でも」
彼の台詞を遮るようにして、アリスは続ける。
「もうすぐあたしには弟か妹かが増えます。今でさえ二人の幼い弟の面倒を見ていて手が離せないんですから、自分のことは後回しですよ」
苦笑を浮かべて、そう答えるのが精一杯だった。アリスは作業を続ける。
「……君はもっと自分の幸福について考えるべきです」
「あたしは充分に幸せですよ?」
思いがけない台詞に、アリスは驚きながらも即答する。
少年は小さく首を横に振った。
「君は知らないだけです。今以上の幸せがあることを」
はっきりと言い切って、彼はアリスの手を掴む。衰弱しているはずなのに、彼の手には力がこもっている。
「身体を拭いてくださってありがとうございます。とても気持ちが良かった。――今日のお礼に一つ、魔法の使い方を教えましょう。他の人にこのことを喋ってはいけませんよ」
彼はアリスを見て穏やかに微笑む。そして、内緒話であることを示すように耳打ちをして、火炎魔法の制御の仕方をこっそり伝授してくれた。
献身的な介抱の成果か、彼の容態はすぐに安定し、大事にはならずに回復した。彼は本来の仕事を短期で片付けると王都に戻っていったと記憶している。
――彼の名はなんと言ったかしら……?
微睡みから抜けたとき、ウラノスの整った顔が目の前にあって心底驚いた。びっくりし過ぎて飛び退いたほどだ。
「おや、ようやく目が覚めましたか。寝坊助さんですね」
「お、おはようございます、エマペトラ先生」
小さな心臓が早鐘のように鳴っている。身体から飛び出してきそうだ。
寝坊助だと指摘されたが、窓の外は朝焼けが広がっている。動物たちもまだ寝ていそうな時間帯だ。
ウラノスはすでに旅の準備を終えているらしく、外出用のローブに袖を通していた。
「そろそろ王宮を出ますよ。アリス君は特に支度などないでしょうが、他の人に気づかれないように注意だけは怠らぬよう」
「はい。承知いたしましたっ!」
アリスは元気に返事をする。身支度の必要はネズミの姿では特にない――そう思いながら周辺を見て、自身にハンカチがかけられていたのに気づいた。どおりでぬくぬくと心地よく眠れるはずだ。
――先生がかけてくれたのかな……?
口を開けば一言多いし、冷たい表情ばかりの人であるが、根は優しいのかもしれない。
――悪い人じゃないってことは充分にわかったわ。この人を頼れば間違いない。
これからの旅に期待して、アリスは気合いを入れたのだった。
フィロに見送られ、馬を走らせてどのくらい経っただろうか。陽射しは高いところから降り注いでいる。
「うぅ……酔う……」
アリスはローブのポケットの中にいた。もちろん、ウラノスのローブの、である。
しかしそのローブにはアリスが昨日見た水の精霊の紋章は入っていない。上官に嘘をついて出てきたため、身分が知られないようにそれを着ているのだ。
「文句を言うなんて贅沢ですね」
ウラノスは聖水が湧くと言われている湖に向かって馬を走らせている。現在は森が深くなる街道を通っているはずだ。
「――目的地まで魔法を使うわけにはいかなかったんですか?」
昨日のように鷹の姿で目的地に向かった方が簡単に違いないと思いながらアリスは問う。
「よくそんなことが言えますね。君は王宮魔導師の規則が頭に入っていないようだ」
ため息混じりにウラノスは指摘する。彼は手綱を握り、馬をさばきながら話を続ける。
「――王宮魔導師の規則には魔法の使用に関して三つの決まりがあります。
一、訓練時は上官のいる場所でのみ使用を許可する。
二、上官の命令があるとき、その使用を許可する。
三、命の危機が迫っている場合、例外的にその使用を許可する。
――何故そんな決まりがあるのか、君は理解していないらしいですね」
ウラノスはトゲのある口調で厳しく諭す。
「わ……わかってますよ。王宮魔導師は魔導師の中でも優秀な者の集まり。国に所属するそんな人間が、むやみやたらと魔法を使うと困るんでしょ?」
腹を立てたアリスはムッとした気持ちを乗せて答える。いちいち癪にさわるような言い方をしなくてもいいのにと思わずにはいられない。
「全然足りていませんね。君はその程度しか理解していなかったということですか」
はぁ、とため息をついたあとでの台詞。落胆っぷりをここまで誇張する必要はいかほどあるのだろうか、とアリスは思う。
「――王宮魔導師は国王に仕える存在であり、国を守る義務があります。ですから、万が一誤った使用をされると国が責任を取らねばなりません。状況によっては国の存続に関わることになりかねない。ゆえに、責任を取ることができる人間の前でしか魔法の使用を許可しないのです。これは大事なことです。覚えておきなさい」
「はーい」
怒られてばかりで面白くない。アリスが気の乗らない声で返事をすると、ウラノスの手が伸びてきた。そしてポケットから出ていたアリスの鼻先をピンと弾く。
「痛っ! 女の子の顔を弾くだなんて信じられないっ! 傷になったら、どうしてくれるのよっ!」
「王宮魔導師に性別は関係ありません。必要だと思ったから、それ相当の罰を与えただけ。女性だからといって手を抜けば、王宮魔導師全体の質が下がります」
ぎゃあぎゃあ騒ぎ立てるアリスに、ウラノスは当然とばかりにきっぱり返す。
「――しかしそうですね。傷が残ったので責任を取れとおっしゃるなら、きちんと代償を払いますよ? 責任を取る覚悟なくして人の上に立つなかれ、です」
「じゃあ、そのときは遠慮なく請求させてもらいますからっ」
ふんっと鼻息荒く言ってやると、アリスは前足で鼻をさする。ヒリヒリ痛むところからすると、赤くなっているのかもしれない。
「やれやれ――ん?」
何かに気づいたらしい。ウラノスは急ぎ走らせていた馬を止め、視線を背後に向ける。
「どうしたんですか?」
様子がおかしいのを不審に感じ、アリスはポケットの中から頭を出す。そして、ウラノスの視線の先に目を向けた。
見えるのは平凡な街道だけである。道行く人々も違和感に気づかず行き交っている。
「こちらに何かが向かってきます」
そりゃ道なんだから人も馬も通るわよ――そうアリスが返す前に、ウラノスが何に気づいたのか理解した。煙のようにあがる砂埃が目に入ったからだ。
「――暴走しているのか」
ウラノスはそう呟くと、すぐに呪文詠唱をはじめる。浮かび上がる魔法式、編まれる魔力。その力を前にアリスの身体は小さく震えた。
やがて向かってくるものの正体――四頭立ての馬車が見えてくる。馬の制御がきかなくなり、真っ直ぐの街道をひたすら全力で走り続けているらしい。さすがに周囲の人々も察したらしく、道の端に寄るなどして行き過ぎるのを待っている。
「――太陽の使者よ、彼の者の目を覚めさせたまえ!」
錯乱状態の者の正気を取り戻す呪文。ウラノスの魔法は視界に捉えていた暴走馬車に向かって放たれる。
魔法の力を受け、馬たちは次第に鎮まってゆく。ウラノスたちの脇を通る頃になって、なんとか馬車は停止した。
自然とわき上がる拍手の中、暴走馬車の御者が下りてきてアリスたちの元へやってくる。そして深々と頭を下げると礼を告げた。
「ありがとうございました。あなたのおかげで助かりました。どう礼をしたものか」
「礼など滅相もない。人として当然のことをしただけですよ。この先もお気をつけて。――では急ぎますので」
対外用らしい優しげな笑顔を御者に向けると、ウラノスは馬に命ずる。御者は口を開きかけたが、何を言おうとしていたのかはわからぬまま遠ざかっていく。
――礼はいらない、か。
格好いいことを言うな、なんて見直しながらアリスはウラノスの横顔を見る。少し頬が赤い。
――あ……ひょっとして、照れ屋さん?
だとしたらかなり面倒な人物だ。
アリスがそんなことを思っていると、視線に気づいたのかウラノスが喋り出した。
「――言っておきますが、今は上官に嘘をついて出かけている身なんですからね。私がここにいると知られるとよろしくないのです。また、王宮魔導師は支給以外に他人から物品を受け取ることを禁じられています。賄賂だと思われないために、ね」
「もうっ! なんでそこでそういう言い訳じみたことを言うのよ!」
アリスの不満な気持ちが台詞の熱に変わる。
「君が勘違いしないようにという理由以外になにもありませんよ。しいて言うなら、こんな機会でもなければ、規則の説明はできませんからね」
「だからって――」
「実体験を通じて学んだことは頭だけじゃなく身体にもしみつくものです。機を逃すのは愚か者のすることだと思いますが?」
「もういいっ!」
アリスは話を切るとポケットの中に潜り込む。話せば話すほど幻滅しそうで、それが怖くて嫌だった。
「全く、アリス君はわかっていませんね」
ウラノスの小言はアリスが隠れてしまったあとも長々と続いたのだった。
夜中、アリスは声に気づいて目を開けた。目と鼻の先にウラノスの寝顔があって、アリスは焦る。
――えっと……この状況は……?
かけられていたハンカチから抜け出て、きょろきょろと辺りを見回す。
夕食を終えて宿泊している部屋に戻って来たのは覚えている。アリスを部屋の隅にあった机に載せ、彼はその机で書き物をしていたはずだ。
――途中で寝てしまったのかしら……?
薄暗い室内。ランプはすでに消えている。机の上に開かれているのは雑記帳だ。こうして間近で見ると、アリスが長年愛用している雑記帳とよく似ている。月明かりに照らされて、かろうじてその文字や記された図形が読み取れた。
――この魔法式から考えると、自分以外の姿を変える方法かな。あたしのために調べてくれているの……?
昨夜も彼は調べごとをしていた。この様子からすると、変身魔法について調べていたのだろう。
――エマペトラ先生、あたし、必ずあなたに恩を返しますから。
アリスはウラノスの寝顔を見ながら心に誓う。仕方なくやっていることのように彼は言うが、真剣に取り組んでくれているのはわかる。ウラノスが生真面目な性格であるから手を抜かないのだとしても、困り果てていたアリスにはありがたいことだ。
――綺麗な顔よね……。
眼鏡を外して月影に照らされている横顔は、とても心を惹きつけられる。
――眼鏡をかけていないのって新鮮だなぁ。
寝ているときまで気が張っているはずはなく、無防備な姿は蠱惑的だ。見れば見るほど、もっと近付いてみたくなる。
小さな身体を少しだけ寄せて顔を覗き込む。すると、記憶の中にある影と重なって見えた。太陽の光と同じ色のサラサラの髪が逆光の中でもはっきりと感じられる。
『私の名前を覚えていてください――』
ひだまりのように暖かで、あどけなさが残る声が記憶からぼんやりと蘇る。あの幼き日、出逢った少年魔導師との思い出。
――あれ?
ウラノスの顔を見ていて気がついた。彼の長い睫毛の先がしっとりと濡れている。
――涙? でも、どうして?
おろおろしていると、彼の唇が動いた。
「お母様……私を独りにしないで……」
かすかに聞き取れる台詞。
寝言だ。彼の寝言が聞こえたから目が覚めたのだとアリスは思い至る。
――どんな夢を見ているのかしら?
もっと近付けばわかるだろうか。アリスはウラノスの顔にそっと頭を寄せる。
再び、彼の口元が動いた。
「……ネズミなんていなければ……」
――ネズミなんて?
聞き間違いだろうか。絶望さえ感じられる低い声は、しかし確かにそう呟いたように聞こえた。
――お母様とネズミに接点を感じないんだけど……。
詳しく知りたいと興味が湧く。だが、彼の目蓋がぴくりと動いたのに気づいて、アリスはハンカチの中に素早く戻った。寝たふりをして様子を窺う。
ウラノスは目を覚ましたらしかった。衣擦れの音がして、そのあと眼鏡に手が触れたらしい物音がした。
「アリス君がそばにいたせいかな……」
憂鬱そうな声が頭上でする。ハンカチの位置を直し、ウラノスは寝台へと移動した。寝ぼけているのか、足音が不規則だ。やがて倒れ込む音がして、寝息が聞こえはじめる。
昼間の様子からは感じなかったが、どうも疲れているようだ。アリスが寝ていると信じて、気が緩んだに違いない。
――夕食のときまでいろいろ厄介ごとが続いたんだから、当然よね。エマペトラ先生だって人の子なんだし。
だけど、とアリスはハンカチから抜け出て思う。
――彼は一体なんの夢を見ていたの?