3:ようこそ王宮へ
3:ようこそ王宮へ
まもなく、周囲を森で囲まれた広大な土地と、そこにそびえたつ立派な建造物――クリスタロス城が見えてくる。アリスが目指していた王宮だ。
夕陽で赤く照らされている城やその周辺の景観は美しく、地上から見上げるものとは雰囲気が異なっている。空を飛ぶための魔法を扱えないアリスにとって、貴重な体験だ。
――まさか空から王宮に入るとはね……。
城の側に建っている背の低い屋敷群。その中にある一つの部屋に窓から侵入すると、鷹はアリスを解放した。どうやらこの部屋は彼の私室らしい。
窓にはたっぷりと装飾が施されたカーテンが掛かっている。部屋の奥には天蓋つきの大きな寝台。窓から明かりを取り込める場所には執務用と思われる大きな机が置かれ、廊下側には背の高い本棚が並ぶ。収まっている書物の背表紙はどれもぼろぼろで使い込まれている様子が見て取れた。毛足が長い真っ青な絨毯で床は敷き詰められ、調度品も青い色が多く使われている。統一感のある素敵な部屋だ。
アリスが下ろされたのは窓からの景色を臨めるように置かれた木製テーブルの上らしかった。椅子が二脚あるのを見ると、来客があったときなどにここでお茶でもするのだろう。
部屋の様子を見ていたアリスに、ウラノスは告げる。
「全く……どこで道草をくっているかと思えば、一体なにをやっているのですか?」
トゲトゲした冷たい口調で言い放つと、鷹は発光し姿を変えた。
太陽と同じ輝きを持つさらさらの髪、眼鏡を通して見えるのは空と同じ色の瞳。羽織っている質の良いローブは、水の精霊を模したネロプネブマ王国の紋章入りである。彼は整った顔に苛立ちの色を濃く乗せて、アリスを見下ろした。
「えっと……ですね……」
畏縮してしまって言葉が出て来ない。
「初日に遅刻という事態がどういうことなのか、わかっていらっしゃるでしょうね?」
怒鳴られているわけではないが、落ち着いた声で責められるとじんわりと肝が冷えてくる。
「は、はいっ! もちろんですっ!!」
「ならば、さっさと術を解いて土下座して謝るくらいしたらいかがです?」
腕を組んだ高圧的な態度で、なかなか手厳しい提案をしてくる人だ。
アリスは迫力に負けて身を縮めると、ウラノスを見上げた。申し訳ない気持ちを込めて。
「それが……望んでこの姿になったわけじゃありませんでして……」
「見習いといえど、そのくらいできなくてどうするのです?」
ギロリと向けられる冷やかな視線。それを直視し続ける気力が保たなくて、アリスは顔をそらす。
「う……あたしが変身魔法を苦手にしているのを知っているくせに……」
呟きをしっかりと捉えられてしまったらしい。彼の方からいっそう冷たくなった視線を感じる。
「ほう……口答えしますか? 君の直属の上司である私の前で」
アリスはその台詞を聞いて口をあんぐりと開けた。
――よ、よりにもよってこの人が先生っ!
面接のとき、アリスは確かに彼ができる人だとは思った。信念をしっかり持った指導者に足る人物に見えたからだ。
実際、二十代前半の年齢でありながら王宮魔導師の師範代を務めているのである。選考中に出会った師範や師範代の肩書きを持つ人の中では一番の若手だ。それ相当の能力があるに違いない。
しかしそれは遠く憧れる分には良くても、身近で接するとなると話は変わる。彼は自他ともに厳しい性格で少々説教好きなのだ。これは他の受験者たちから聞こえてきた意見とも一致しているので、アリスに対してというわけではないだろう。
「アリス君、私は情けないですよ。自分で君を選んだことを恨みますね。これほど出来の悪い生徒だとは思いませんでした。君にはがっかりです」
――そ……そこまで言うっ!?
大仰に額を押さえて言うウラノスの前で、アリスはむっとする気持ちをなんとか堪える。口にしたら何倍になって返ってくるかわかったものではない。
「今年こそは心穏やかに自己紹介をして、和やかな気持ちで指導をはじめることができると期待していたんですよ?」
「え……?」
トゲトゲした口調は相変わらずだったが、思いがけない台詞にアリスは鼓動が跳ねる。
「無事に一人前の魔導師に育てることができたら師範代を卒業できると聞いていたので、優秀な人材を選んだはずだったんですがね! この私の落胆に対し、どのような責任を取ってくれるのですか?」
「って、結局自分の出世のためじゃないっ!」
損したと言わんばかりにアリスは叫ぶ。
――なによなによ。こっちこそがっかりよ! もっと志が高い人だと思ったのに!
アリスの文句に対し、ウラノスは眼鏡の位置を直して続ける。
「当然ですよ。出世以外に何があるのです?」
「国のためとか、陛下のためとか、国民のためとか、いろいろあるじゃない!」
「そのためにも地位や名誉は必要ですよ? やりたいことをやれる身分になるためには、手段を選んではいけません」
――な、なんか真っ当なことを言っているように聞こえる……。
心が動かされそうになるが、アリスは最後とばかりに言ってやる。
「じゃ、じゃあ、師範代であるあなたは何が望みなのよ?」
やりたいことをやれる身分になりたいのだと彼は言った。つまり、彼は上に立って成したいことがあるはずだ。ウラノスの目的が気になる。
「君に言ったところで何も変わりません」
しかしアリスの問いは、蔑むような口調であっさり切り捨てられる。そんな態度で言い返されるとは思っていなくて、アリスは無性に腹が立った。
「なによっ! 協力できることがあるかも知れないじゃない」
「協力する気があるなら、いつまでもそんな格好をしていないで下さい」
「だから戻れないのっ! ロディアに呪われて、解除呪文もまともに発動できないんですってばっ!」
「偉そうに言うことですか? 恥を知りなさい」
突き刺すような冷たさを持つ視線がアリスを貫く。おかげで冷静さを取り戻した。
「お……仰るとおりです……」
反論する余地はない。ウラノスの言葉は至極もっともな意見だからだ。
「目上の人間に対する態度もなっていませんね。困っているというわりには威勢が良いようで?」
指摘されて、アリスははっとする。
――そうよ。この人ならこんな呪いなんて、ちゃちゃっと簡単に解けるんじゃない?
アリスは彼がこの事態を解決してくれる存在であることに気づき、背筋を伸ばす。
「し、失礼いたしました! 咄嗟のことに取り乱しておりまして、申し訳ありません」
「何を今さら」
心を入れ替えて謝るも、ウラノスの態度は冷たい。それでもアリスはめげずに続ける。
「もし、王宮魔導師見習いの権利がこのあたしにまだあるなら、必ず立派な魔導師になってあなたを師範にしてみせます! ですから、この呪いを解いてはいただけませんでしょうか?」
「そんな情けないドブネズミの姿になってどうしようもない君が、私を師範にする、と?」
言って鼻で笑う。
しかし、アリスは必死に訴えた。
「しますよっ! だってあなた言ったじゃないですか。優秀な人材を自分の目で選んだんだって! あたしを信じろとは言わない、あなた自身の目を信じてくれれば充分よっ!」
「ほう……」
感心するかのような呟き。そして口の端を笑みの形に歪めた。
「――良いでしょう。その意気込みだけは買います」
だけ、の部分を強調して言うと、眼鏡を外して片目を細めて続ける。
「しかし、ドブネズミの姿でそれを言われても格好がつきませんけどね」
くっくっと喉を鳴らしてウラノスは笑いだす。
そんな彼に対しアリスは頬を膨らませた。文句は言いたいが、ここは黙っているのが得策だ。
「――さ、からかうのもこの辺でやめるとしますか」
――か……からかうって……っ!
噛み付いてやりたい衝動は、しかしウラノスが見せた柔らかな微笑みで消し飛んでしまった。
眼鏡を外している影響なのだろうか。冷たさがない美麗な顔は、心を奪うに充分な魅力を持っていたのだ。
――物語に出てくる王子様みたい……。
誰かを見てうっとりしたのは初めてのような気がしたが、胸の奥で何かが引っかかった。
――あれ? 前にもこの感覚はあったような……?
ウラノスは美男子と言われる人を集めたとしても、おそらく上位に入るだろう美貌の持ち主だ。人を近付けまいとするような冷たい気配さえなければ、彼の周りには女の子が群れているに違いない。そんな相手にうっとりするのは女の子だから仕方がないと感じるアリスではあったのだが――。
――うっとりするくらいの男に出会ったことがあるってこと? いつの話よ、それ?
交友関係が極端に狭いというのに、全く思い至らない。不思議なこともあるものだ。
「改めて自己紹介をしておきましょう。ドブネズミ相手と言うのも滑稽ですが」
――一言多いっ!
一瞬で現実に戻ってきた。むっとしているアリスに対し、彼は王宮にいる人間に相応しい所作で応じる。
「私は魔法部隊所属のウラノス=エマペトラです。魔導師の育成が現在の主な仕事で、位は師範代。今日からアリス=ルヴィニの指導教官になる予定でした」
「指導をはじめる前から過去にしないでよっ! ――一応、この姿で失礼しますが、あたしはアリス=ルヴィニ。今日からお世話になります」
アリスは自分の指導教官であるウラノスに頭を下げる。
「……って、人間に戻してもらってからの方が良かったんですけど……」
不満げに呟くと、ウラノスはクククと小さく笑う。その声を聞いて、ウラノスの意図を察した。
「なっ! わ、わざとねっ!」
「こんな事態は滅多にありませんからね。ドブネズミで王宮入りだなんて、後世まで残る笑い話だ」
――つくづく失礼なっ!
「しかし、それは他人の話なら、です」
ウラノスはアリスを見下ろした。冬空のようなピンと張りつめた空気が辺りを包む。
「自分の選んだ生徒がそんな状態でやって来たとなれば、私の経歴にも傷がつく。早急に対処すべき事象だ。――従って、今回は特別に呪いを解いて差しあげましょう。証拠隠滅も兼ねて」
――結局自分のためかいっ!
動機はさておき、人間に戻れるかもしれないこの機を、ウラノスの機嫌を損ねることで失わないように沈黙を守る。文句はそのあとだ。
一方、ウラノスは魔法を使うために両目を閉じて意識を集中させはじめていた。周囲に幾何学模様で構成された複雑な魔法式が浮かび、魔力が編まれてゆく。
――すごい……。
肌がピリピリと痛む。それはウラノスの魔力に起因する現象だ。
「――月の使者よ、この者にかけられし呪いを取り除きたまえ」
紡がれた呪文に呼応して、魔法式が一つの円陣を引き出す。高位の浄化魔法だ。
アリスの足下に展開された美しい光の円陣は――しかしすぐさま闇の炎によって打ち消された。
「え……?」
「あれ?」
予期せぬ事態に、二人してほうけた声を出す。何が起きたのか理解できない――いや、受け入れたくなかったのだ。
「あの……、エマペトラ先生……?」
説明を求めて声をかけると、低い笑い声になって返ってきた。見れば、かけ直された眼鏡越しに映るウラノスの目の奥に不気味な光が宿っている。
「――どうやら彼女もまた優秀な魔導師のようですね」
「へ?」
アリスは首をかしげる。
「私の魔法が効かないように細工がされていたんですよ――君が私に助けを求めると予想していたのでしょう」
「ええっ!? じゃ……じゃあ、あたし、戻れないのっ!?」
「いえ、方法なら他にあります」
その一言にアリスはほっと胸を撫で下ろす。
「他の魔導師に依頼するのが最も手っ取り早いですが、それは私の威信にかかわるので却下します」
「ちょっ……!」
「なので、手間にはなりますが、聖水を取りに行きましょう」
――なんだ……ちゃんと方法はあるんじゃない。
アリスが安心していると、不穏な笑い声が耳に入る。ウラノスに意識を向けると、彼の凄みが増した。青い瞳がいっそう冷え冷えと光る。
「これは私に対するロディア君の挑戦だ。この程度のことでは決めた方針を変えることなどないのだと示す必要がありそうですね」
――この人は絶対敵に回しちゃいけない!!
イライラした感情を微塵も隠さずに告げるウラノスはなかなかに迫力があった。
「――都合をつけてきます。君はこの部屋で待っていなさい。くれぐれも、部屋の物をいじらぬように」
言って、ウラノスはローブを翻してさっさと部屋を出てしまう。
一人になると、少しだけ客観的に出来事を振り返る余裕が出てきた。人間に戻る手立てが見つかったお陰だろう。
――あんな喋り方しかしないけど、結果からみれば案外と面倒見のよい教官なんじゃない?
全体を俯瞰して、アリスはふとそんなふうに感じた。