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 慌てて階段を駆け降りると、その足音に驚いた母がリビングから顔を出した。

「センセーが家の前にいるから、ちょっと出てくる」

「あら、そうなの? よかったら入ってもらったら?」

「分かった。言ってみる」

 母とそれだけを伝え合って、わたしはサンダルをつっかけて外に出た。

「やっほー」

 まだ繋がったままの携帯電話から聞こえる声と実際に耳に届く肉声とで、先生の声がステレオのように頭の中に響く。

「やっほーじゃありません。こんな所で何をしているんですか」

 のんきなあいさつに、言い知れない疲労を感じずにはいられない。

「そりゃもちろん、可愛い彼女の顔を見に来たに決まっているでしょうが」

 携帯電話を切りながら、先生が小首を傾げる。長身の成人男性がそんなポーズをしても、可愛いどころかはっきり言って不気味だ。

「かっ、かわっ、って、人をからかわないでください」

「からかっていませんよ。可愛いから可愛いって言っているんでしょ」

 なにがどうして決まっているのか分からないけれど、とにかく言われ慣れないその言葉を連呼され、わたしは大いに狼狽えた。

「まったく、あんたは」

 困ったように笑うその顔が、いつもの童顔をさらに幼く見せる。ああもう、なんだかなあ、と思う。こんなさりげない仕草で心を鷲掴みにされてしまっている自分が、少しだけ悔しくなった。

「あ、そうだ。母が、よかったら上がってくださいって言っていましたけど」

 どきどきとうるさい鼓動を無視して、取ってつけたように思い出した事を口にする。先生は右手を口元にあてて少し考え込む仕草をし、上目遣いでこちらを見た。

「お父さんは?」

 そこはかとなく漂う色気に気押されながらも、そんな事を知られたら何を言われるかわかったものではないと、必死に顔に出さないように努力する。

「いますけど、母がどうぞと言っているので」

 けれどどうやら先生は、それどころではないらしい。眉根を寄せて小難しい顔をして、うんうんと何事か唸っているようだ。

「お母さんはともかくねえ。お父さんは苦手なんですよ」

 ぼそぼそと、ようやく聞き取れる程度の小声。

「でもねえ。せっかく声をかけてもらっているのに、知らん顔はできないしねえ。うーん」

「往生際が悪いですよ、センセー」

 そう言うと、先生がややむっとした顔をする。

「センセーじゃないでしょ、センセーじゃ」

「で、でも、卒業しても、センセーはわたしの先生ですから」

 ほんの一ヶ月あまり前までは、教師と教え子だったのだ。卒業したからといって、その関係に変化はない。はずだったのだけれど。

「元、がつくでしょうが。まったくもう。いつになったら、恋人らしくなるんですか、あんたは」

 恋人。その言葉に、どきりと心臓が跳ねる。

「あらららら。真っ赤になっちゃって。可愛いねえ」

「う。な、なに、をっ」

 赤くなっているのは、頬の熱さで自覚しているのに。改めて指摘されてしまい、さらにその熱が顔全体に広がって行く。

「あー、ほんと、可愛い。これが家の前なんかじゃなければ、食べちゃいたいくらいなんだけどねえ。そうもいきませんからねえ」

 そう言いながら頭をぽんぽんと撫でられる。何か言い返そうと思うけれど、先生を言い負かせられるような言葉が見つからなくて、むっと口を閉じてしまった。

「男の前でそういう顔はしないようにね。理性的な僕だからいいけど、他の男だったら、襲われても文句言えませんよ」

「は? なんで、ですか」

 ただ単に悔しいから口を噤んだだけで襲われるなんて、わたしの顔はどんな凶器なんだろうかと考える。

「ちょーっとずれてますよ、いろいろと」

「は? え? 何が、ですか」

「いや、まあ、いいですけどねえ。僕の気の休まる時がないって言うだけですから」

 だから、どうしてわたしの顔と先生の心の平安が繋がるのかが分からない。

「あまりお待たせするのも申し訳ないし、お邪魔させてもらいますよ」

 頭を撫でていた手が肩に下りて来て、くるりと体の向きを変えられる。そのまま背中に回った手に、ぐいっと前に押し出された。

「なんなんですか、いきなり」

「いや、あんなに熱い眼差しで見つめられると、応えないわけにはいかないでしょ」

 先生が指さす方向を見たわたしは、ああなるほど、と納得する。そして一言、叫ばずにはいられなかった。

「なに、見てるのよ! おとーさんっ」

 リビングのカーテンの隙間から、父の顔だけが覗いているのが、見えたのだ。




「夜分遅くにすみません」

「いいえ。まだそんなに遅くありませんから、大丈夫ですよ。どうぞ、二階に上がってくださいね」

 玄関に入ると、先生と母が一般的な挨拶を交わしている。と思ったのだけれど。

「お、おかーさん、二階にって」

「だって、こっちはお父さんが晩ご飯中だし、まだあと小一時間はかかるもの」

「それはそう、だけど」

 はっきり言って、父の晩酌は長い。缶ビールから始まって、熱燗二合または焼酎のお湯割りを大きなグラスに一杯、時にはその両方だったりもする。その後お茶漬けを食べ終わるまで、少なくとも一時間、下手をすると一時間半はかかるのだ。外で飲んで来られるよりましだわ、なんて母は言うけれど、いつまでもキッチンが片付かなくて困る。

「だからご挨拶をしに出て来てね、って言ったんだけど、意地を張っちゃってねえ」

 いい年をして困ったものよねえ、と、母が朗らかに笑った。

「それじゃあ、ご挨拶だけでも」

 先生がそう言うと、母がリビングへのドアを開けた。中には入らず、そこで父に

「こんばんは。お邪魔します」

などと言い、父はああ、とかうむ、とか偉そうに返事をしている。

「先生はコーヒーでよかったかしら」

「はい。すみません、お食事中なのに」

 それを言うなら、わたしだって食事中だったのだ。たとえ八割方食べ終わっていたのだとしても。大好物のエビの天ぷらを最後に食べようと思って取っておいたのに、あれはきっと、母の餌食になるに違いない。

 コーヒーは後で母が持って来てくれる事になり、先生と一緒に二階にあるわたしの部屋に向かった。

「へえー」

 初めて見せるわたしの部屋をぐるりと見渡して、先生が声を上げた。

「案外シンプルだねえ。うん、でも、あんたらしくていいんじゃないですか」

 緑とアイボリーを基調にした抑えめのトーンで統一しているわたしの部屋は、カーテンにはレースやフリルなどついていないし、ふわふわのクッションもない。勉強机と本棚とベッドと小さなテーブルを置いただけの、至ってシンプルな見栄えなのである。

 母は可愛いピンクや白で統一しろとうるさいけれど、あいにくそれはわたしの趣味じゃない。

「そう、ですか?」

 普段外でしか会わないからか、自分のテリトリーに入られるのが、妙に気恥かしく感じられる。なんだか緊張までして来るのだから、困ったものだ。

「んー? ああ、英語ですか。一回生の間は、一般教養ばっかりだからねえ」

 まっ先に勉強机の上をチェックするあたり、やはり腐っても教師なんだと感心する。腐っているわけではないけれど、自称不真面目教師だから。

「専門科目なんて、三回生くらいにならないと始まらないでしょ。って、今は僕の時とはカリキュラムが変わっているのかもしれないけどねえ」

「そんな事言って、センセーが卒業したのも、最近じゃないですか」

「最近って言っても、三年も前ですからねえ。すっかり浦島太郎の気分だよ」

 たった三年とも言えるけれど、高校生活が三年間だった事を考えると、決して短い時間ではない気もする。

「そういうものでしょうか。あ、てきとーに座ってください」

「うん。じゃ、てきとーにさせてもらいます」

 先生はそう言って、どっこいしょというオヤジ臭い掛け声とともに、ベッドとテーブルの間に腰を下ろした。ちょうどベッドが背もたれになるそこは、実はわたしの指定席だったりするのだ。

 仕方がないので、テーブルを挟んだ先生の向かい側に座った。

 何を話せばいいのか思い浮かばずに口を噤んでいると、先生が髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回しながら大きな溜息をついた。そしてじっとりとした上目遣いでこちらを睨んで、ゆっくりと口を開く。

「やっぱり、怒っているでしょ」

 何を言われるのかと思ったら、さっきの電話の続きだったようだ。

「いや、だから怒っていませんって」

 先生はまだ疑いの滲む目つきをしているけれど、本当に怒ってなどいないのだから仕方がない。

 お付き合いをする事になってから、もうすぐ二ヶ月。久ぶりと言うかむしろ初めてとも言えるデートが中止になってしまい、少なからずがっかりはしたのは本当だけれど。

「いいや、怒ってる。絶対に怒ってる」

「だから、怒ってなんかいませんってば」

 しつこく言い募る先生に、少しだけイライラして来る。それが顔に出てしまっていたのか、先生が

「ほら。怒った」

と、わたしを指さした。 「だからこれは、先生があんまりしつこいから」

 あまりお行儀が良くないなあと思いつつ、言い知れない脱力感を感じる。

 その時、ドアをたたく小さな音が聞こえて来た。開いたままのドアの外に立っているのは、コーヒーとお茶菓子を乗せたトレイを持った母だった。

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