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 晴れて大学生になったわたしは、新しい事尽くめの毎日にてんてこ舞いだった。さっさと新しい環境に慣れてしまわなければ、落ち着いて学業に勤しむ事もできないからだ。

 幸いにも、時間割を決めるためのガイダンスで知り合った同じ学部の数人とは仲良くなれ、そういう意味ではまずまずのスタートを切る事ができたと言える。

 ただ一つを除いては、なのだけれど。

「今から帰りか?」

 友人と肩を並べてキャンパスを出ようとしていたわたしに、背後から声がかかる。聞き覚えのあるその声に、またかとこっそりと溜息を吐いた。隣では友人が興味津々といった目でこちらを見ている。

「うん、そう。副カイチョーも今帰り?」

 そこには、高校二年生から三年生にかけての時期に生徒会を一緒に勤め上げた知人が、気さくな笑顔を浮かべて歩み寄って来ていた。

「その副カイチョーっての、いい加減やめてくれって。これからバイトだけどな」

「相変わらず忙しそうだねえ。カイチョーも一緒だっけ?」

「あいつとはシフトが違うから、今日は別」

 キレ者でその名を学校中に轟かせていた元生徒会副会長殿は、この春からわたしと同じ大学に通っている。もっとも、あちらは法学部こちらは国際文化部と、頭の出来にはかなりの差があるのだけれど。

 進学先が同じだなんて知らなかったから、入学式で声をかけられた時には本気で驚いたものだ。その事を報告したら

『あんた、本当に迂闊だねえ』

 と、いつもののほほんとした口調で呆れられた事を思い出す。当然の事ながら、先生は副会長の進路を知っていたらしい。それなら教えてくれてもよかったのにと不満を口にしたら、

『個人情報なんだから、教えるえわけにはいかないでしょ』

と、もっともらしい事を言われた。

「まーた、あいつの事、考えているだろ」

「え。あー、うん。ごめん」

「そう素直に謝られてもね。俺的にはいろいろ複雑なんだけど?」

「うん、だから、ごめん」

 もう一度謝罪の言葉を告げると、元副会長の肩ががっくりと落ちた。

「あのさあ。俺、まだ諦めていないって、言ったよな」

 そういえば入学式の日にそんな事を言われた。さすがに先生には報告していないけれど、たぶん知っているんじゃないだろうか。なにしろ元副会長がおむつをしていた頃からのご近所さんだそうだし、恋愛の相談まで持ちかけていたらしいし。

「うん。覚えてる。でも、ごめん」

「悪いと思っていないだろ、本当は」

 じろりと恨みがましい目で見られ、僅かに狼狽してしまう。

「え? そ、そんな事はない、よ?」

「目が泳いでるぞ。ま、いいけど」

 え。いいの? びっくりして元副会長顔をまじまじと見ると、なんだか不機嫌そうに眉を顰められた。

「じゃ、行くわ」

「うん。カイチョーによろしくね」

「いや、だから今日は会わないって」

「あれ、そうだっけ」

 呆れたように溜息を吐きながらもひらひらと手を振って立ち去る背中に、わたしも同じように手を振り返した。

「なになに、知り合い? 諦めていないとかなんとかって、もしかしてコクられたとか?」

 それまで黙ってわたし達のやりとりを見ていた友人の目が、好奇心にきらきらと輝いている。これは簡単には許してもらえなさそうだなと溜息を吐きながら、思わず見上げた空には、ぽっかりと白い雲が浮かんでいた。




 新学期になって忙しいのは、何もわたしだけではない。むしろ教師の方がよほど多忙なのだ。

 今年度はやっと生徒会顧問を免れたらしいのだけれど、その代わりに光学部の副顧問を押し付けられたらしい。副とつくからには正顧問がいるわけだけれど、それがまた無気力無感動で有名な社会科のベテラン教師で、結果ほとんどの責任を押し付けられているようだ。同じ社会科だし力関係で敵うわけがないからこそ、半ば強引に副顧問にされたのだと思う。

 そんなわけで、せっかく一年越しの恋を実らせたというのに、なんだかんだとお互いの予定が合わないうちにずるずると日が経ってしまっていたのだ。

 先生の仕事が終わってから外で夕食だけとかなら何度かあったけれど、ゆっくり二人きりの時間など、週末でも取れるはずもなく。それでもお互いの時間を繰り合わせてようやく約束できたのが、五月も終りに近いこの時期だったのに。


≪光学部の学園祭の準備に、付き合わされる事になっちゃいました≫


 携帯のメール画面を開いて見えたその文字の羅列に、瞬時思考が止まってしまった。

 光学部は通称「デジタルカメラで遊ぼう会」といって、見て字の通りデジカメで好きな物を撮りまくろうという人達の集まりだ。中には真面目に一眼レフを構えている人もいることにはいるようだけれど、自分で現像までするほどの熱心さはないようだ。その一眼レフも今の時代はすっかりデジタルが優勢らしい。

 そんな光学部が学園祭でする事と言えば、写真の展示くらいなもので。写真屋さんに頼んでパネルにしてもらうほどの力作も多少はあるけれど、せいぜいがプリンタで引き延ばしたA4サイズの物がほとんどだ。その展示自体も非常に地味で、いつも閑古鳥が鳴いていた。しかし閑古鳥が鳴いていようがアホウドリが巣を作ろうが、部が存続する限りはその成果として展示をしなければならず。という事情を、生徒会書記をしていた身としてはとてもよく分かっている。分かってはいるのだけれど。事情が分かるから文句は言えない。でも分かりたくないと思っているわたしもいて、女心はいろいろ複雑で難しい。

 何と返事を送ろうかと散々悩んだけれど、あまり時間を空けるとかえって送り辛くなりそうで、とりあえずひと言だけ返す事にした。


≪分かりました≫


 味も素っ気もないなと思いつつ、けれどもっと長くなると恨み事になりそうだからこれだけにしたのだ。困らせたいわけでは、ないから。

 送信ボタンを押して携帯電話を畳んで、ふうと大きく息を吐く。

 予定がなくなった明日はさて何をして過ごそうかと考えてみるけれど、建設的な考えは浮かんでこない。もともとこれといった趣味を持たないわたしの事、買い物に行くくらいしか時間を潰せないのだ。あとはせいぜい図書館に行くくらいだろうか。つくづく寂しい人生だなと、もう一度大きな溜息を吐いた。




 夜になって、マナーモードにしていた携帯電話が震えだした。

「携帯、出なくていいの?」

 母に訊かれてポケットの中から携帯電話を取り出して見ると、サブディスプレイに「先生」からの着信を知らせる文字が見えている。

「先生からじゃないのか」

 友人達との連絡ならばメールが主で、携帯同士で電話をかける事はあまりない。まだまだ親の脛かじりの学生の身では、お小遣いから電話代を引かれるのは辛いのだ。

 家族には、先生とお付き合いする事になった事は話してある。と言うか、春休みの間に一度だけ、先生が家に挨拶に来たのだ。両親はもちろんとても驚いて、特に父は教え子に手を出すなんて正気の沙汰かと、先生を罵倒したりもした。きちんと話し合って、実際にお付き合いをする事になったのは卒業後の事なのだと納得してもらうのは、なかなか大変だったのだ。

 今でも諸手を挙げて賛成してもらえてはいないけれど、とりあえず面と向って反対される事はなくなっている。

 高三になってからわたしが情緒不安定だったり学園祭の頃には体調を崩していた事を覚えていた母は、賛成はしないけれど応援はするという、ちょっと矛盾した立場を取っている。けれどわたしにとっては、それだけでもずいぶん心強くてありがたかった。

「うん。急ぎじゃないと思うから、後でいい」

 などと言っているうちに携帯電話の振動が消えた。と思ったら、またすぐに震え始める。

「急ぎみたいよ」

 からかうような口調で母に指摘され、さらに電話に出ないのは失礼だろうと父にも指摘され、仕方なくリビングを後にする。さすがに両親の前で先生と電話するのは、恥ずかしすぎるから。

 部屋に向かいながら、通話ボタンを押す。

「はい」

『あ。やっと出てくれた』

 ほっと息を吐いたのがこちらに伝わって来る。どうやら電話に出ないのは、予定をキャンセルした事をわたしが怒っているからだと思っていたらしい。電話越しにごめんねと謝られてしまい、リアクションに困った。

「お仕事だから、仕方ありませんよ」

『でも怒ってるでしょ、その声は』

 とりあえず無難な言葉で怒っているわけではない事を伝えても、先生は半信半疑で納得してくれない。

「怒っていません」

『いや、怒ってる』

「怒っていませんって」

『いーや。絶対に怒ってるでしょ』

「だから、怒っていませんってば」

『でもほら、声に険がありますよ』

「だからそれは、センセーがしつこいからです」

『うん。だからねえ。あんたが怒っていなくても、僕が勝手に申し訳ないと思っているんですよ』

 突然声のトーンを落として、落ち着いた優しい響きになる。ああ、もう。やっぱり先生はずるい。そんな声でそんな事を言われてしまえば、怒る気などなくなってしまうではないか。

『ちょっと、窓から顔を出してみてクダサイ』

「窓、ですか」

 いきなり何なんだと思いつつも、言われるままにカーテンを開けて外を覗く。

「って、センセー、なんでそんな所にいるんですかっ」

 お向かいの家の塀の前で、携帯電話を耳にあてた先生が、満面の笑顔で手を振っていた。

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