第二章・鬼の手lender
「なーにがフォローよろしくだ。あの哀愁漂う背中をどうしてやれるってんだ」
屋上のコンクリートベンチ一基を独占した嶋谷圭祐は、そこに寝そべって愚痴を零していた。今日はいつもより雲の流れが速い。なんだか無性に落ち着かない。
「え? どういうことだ?」
「うるせーよ幼馴染の美少女でもないのに覗き込むんじゃねーよイカ臭いからあっち行け」
視界を遮る花巻智也に悪態をついて、圭祐はもう一度、柵に手をかけ物思いに耽る行方楓奈の背を見やった。圭祐の思案にもお構いなしに、智也はいつも通り問いかける。
「おい、最近俺に冷たくね? なにお前怒ってんの?」
「あ? 友情は不変だが色恋が絡むと話は別だってシェイクスピアも言ってるだろうが。お前はさっさと教室に帰って彼女と乳繰り合ってりゃいいんだよ」
「ちょ、やめろよぉ。そんなんじゃないんだって! ほんとまだ何もないから嫉妬すんなよぉ」
「まだってなんだよ何もってなんだよ。おぉい、頼むから消えてくれ智也よ。俺となめちゃんは青春の寒風に吹き晒されてナーバスになってるんだ」
圭祐は今、この長身の美男を追い払いたくてたまらないのであった。だが花巻智也という友は、そういう意図を一貫して汲み取らない男だ。
「行方寂しそうだなぁ。今日も輪田さんは休みだったしな。あ、ナーバスってそういうこと?」
「声がでかいんだよバカ」
心配をよそに、楓奈は男たちに構う様子はない。絵に描いたような心ここにあらず状態だ。
「そうだ、あおいが言ってたけどさ」
「呼び捨てかよ」
「圭祐だって呼び捨てだろ。だからあおいがな、昨日行方が輪田さんの家まで行ったらしいって言ってた。で、会って話もしたんだって」
「いいねぇ女どもの情報網へ気軽にアクセスできる奴は。で? まだ調子悪そうだったのか」
「今日は来れそうみたいなこと言ってたんだって。期待が外れて余計寂しいのかなあ」
あ、と言って智也はぽんと手を打った。そのわざとらしい動作で圭祐の眉間に皺が刻まれる。
「わかったぞ。お前も若彦が早退したから寂しいんだ」
「……はぁ。お前さ、本気で言ってんの? よっ」
圭祐は身を起こしてベンチに座り直すと、呆れ口調で智也に言った。
「彫りの深い顔に生まれた割りに脳味噌はツルッツルなのな。いいか、若彦が早退だの欠席だの体調不良だの、今まで一度だってあったか?」
「ないなぁ」
「なのに今日に限ってだ。どうして二時間目終わって早退しちまったんだ」
「だから調子悪くなって」
「バカバカアンドバカ。ピンピンしてただろうが。仮病しか考えられんだろ白々しい。帰り際に行方さんのフォローよろしくときたからな、その時に確信したさ」
「えーと……何を?」
「俺の灰色の脳細胞が導き出す真実はこうだ。若彦は瑞希ちゃんの所へ向かった。早退は親の目を欺くための策。端から休めば迂闊に外出はできない」
「あー。若彦のお母さん心配性なんだってな。美人なんだからそれくらい我慢しろよっていう」
「それな。だから一旦登校した上で体調不良を装い、事情は自分から話すとでも言って帰れば、あとは学校側はノータッチだろ。こうして若彦は瑞希ちゃんとどこぞで落ち合うって寸法だ。どうよワトソン君」
へえぇ、と言うと頼りない智也は首を前後に揺らして感心を表した。ハードボイルド小説の登場人物になって圭祐は語る。
「ほれ、夏休み明けの珍事。あれ以来さ、若彦も瑞希ちゃんが気になってんのよな。じわじわとだが話す回数が多くなってきてるのも俺は見逃しちゃいねえ。瑞希ちゃんがこう休み続けてると、恐らく野郎は俺たちより心配してたわけだ。だからここで一念発起、自分が出向いて悩み相談に行ってやろう、と。瑞希ちゃんはこう思う、天野くんって地味だけど優しいのねステキっ……! あわよくばそのままナニだぜ。ちくしょうふざけやがって、お前に続いて若彦までが俺を置いて女作って天国行きかっ! ぬおおおぉ」
「いや、それはないだろ」
精々ただの友達――智也はあっけらかんと言った。
「だって若彦と輪田さんだろ? なんかさ、ミスマッチ」
圭祐は虚を衝かれ二の句が継げないでいたが、やがて我に返ってこう応じた。
「それもそうだな。冷静に考えりゃ」
いつの間にか、楓奈の姿は屋上からなくなっていた。
舞い降りた二羽の雀が、誰かの落としたパン屑を咥えてまた飛び去った。
*
四方智、とりわけ白湖市は伝説の多い地だ。いや、白湖は殊に多くの伝説が採集され、報告されている地だというべきか。滝にまつわる悲恋の物語に豪傑の化物退治譚、頓智に富んだ和尚の逸話、そして取るに足らない山村の口碑、俗信まで。これらの伝承が今に伝えられているのは、その大部分が湖畔大学初代学長にして稀代の好事家・山下巌生の功績であるという。
瑞希は薄暗い山道を上りながら、先程構内で見た、なんとも人が好さそうな白鬚の老紳士を模った銅像を思い出す。
白湖にかつてあった粢村で幼少期を過ごした博士は物理学の分野で頭角を現す一方、歴史学や民俗学その他諸学問にも傾倒し、趣味研究と称して様々な活動をしていたらしい。四方智――白湖、流青、亀守、鳳川の民話や伝承の調査もその一環だ。特に故郷への思い入れは強く、他地域よりも綿密な調査を行ったとみえ、報告された事例数も群を抜いている。
たとえば、いま歩いているこの渡螺山。この山には昔、大海で千年を過ごした巨大な法螺貝が渡ってきたという伝説がある。法螺貝は山で更に千年の時を経て、遂に勇壮な竜と化して天に昇ったそうだ。法螺貝の棲み処は洞穴となって遺され、これが俗に渡螺の洞抜けと称されて、一時期は信仰の対象にもなっていたという。ところが、山下博士存命の時期には既に場所すら定かでなくなっており、彼は随筆で伝承の途絶を大いに嘆いている。
さて、現在は火曜の午後一時五十分頃である。学校はどうしたと問われれば、サボったと答えるよりない。だが心強いことに、もう一人サボり仲間がいる。天野若彦だ。彼は怪事に見舞われる瑞希をどうにか救おうと、さっそく行動を開始したのである。
休んだのか早退したのか、若彦も私服姿で現れた。駅で合流した二人――とお供の幽霊は、まず勇希が在籍する教育学部が置かれている、湖畔大学流青キャンパスに向かった。正門前で何人かの学生に声をかけてみたが、勇希の行方を知る者はいなかった。勇希を知るある男子学生からは逆に、あいつがいないせいで先日の合コンがお通夜状態だったと苦情を入れられてしまった。兄でも合コンに行ったりするのかと、瑞希は少し驚いた。身内から見ても秀でた容姿の持ち主であり、いつも色恋を求める女たちから敬慕の情を向けられてきた勇希だが、当の本人はあまり恋愛に熱を上げる気質ではないからだ。
次いで訪れたのは大学の白湖キャンパスである。消息を絶った日、勇希が出場した記録会はここの競技場で行われた。冴えない風体ながら気さくな宿利という学生に助けられ、今度は校舎内まで入って聞き回ってみた。すると、数人の証言からある事実が明らかとなった。
どうやら件の記録会に関わった者の多くが、この一週間ほど音信不通となっているらしい。いなくなってしまったのは勇希だけではなかったのだ。更にその記録会自体、開催がうやむやとなって自然消滅となったらしい。異例の事態といえる。
若彦と瑞希は、そして史織は、ついでに宿利氏も、不可解な事実に首を傾げた。
どうにか関係者と接触を図ろうと、生者と死者が分担して構内を探すこと小一時間。
結局有力な情報は得られなかった。共に妖怪に関わった経験が豊富な二人の高校生は、ますます事件の裏に怪しいものが介在している疑いを濃くしていた。この世の理屈で計れない怪異が絡むと、人の記憶は酷く弱々しくなる。講義がある時間にも関わらず案内役を務めてくれた宿利氏に礼を告げて別れ、一行は電車で白湖へ、そして渡螺山行きのバスに乗った。
目指すのは、姫鬼小夜薊の岩屋だ。
山に近付くにつれて、瑞希の心にはじわりじわりと恐怖が迫ってきた。車中で改めて岩屋の主について聞かされたせいである。
日本中の妖怪たちにその名を知られた古今無双の鬼王・泰平童子のひとり娘で、齢百歳を超える真紅の眼をした鬼女。時空の破壊と修復を自在にこなす両腕を切断された上で洞窟に幽閉されていながらも、なお魔物を封じ続ける魔力と物体を自在に操る眼力を有している。
マイナスに振り切れた瑞希の想像力では恐ろしい姿しか思い浮かべられなかった。長い角鋭い牙振り乱した髪真っ赤な眼耳まで裂けた口身長五十メートル体重三万トン口から破壊光線――。アザミは美人なんだよーとは幽霊の弁であるが、これも悍ましい暗喩に聞こえて震えた。
なぜ、そんな恐ろしげなものに会いに行かなくてはならないのか。
とうとう登山道に踏み入って、瑞希の心はますます硬く、足取りもいよいよ重くなっていた。
「……っかしいなー。ねぇ若彦、もしかして迷っ」
「ってないですよイヤだなあ。いつもと同じ道通ってるじゃないですか」
「それにしてはさっきから同じような所をぐるぐるぐるぐる」
「はははは、いや……きっと俺たちの気のせいです」
「でもさ」
「迷ってないですって」
「いつもの倍くらいは歩いてないかなー?」
「う……」
「迷ったなー!」
「なぜだ……」
前を行く少年と幽霊はじわじわ焦り始めていた。きょろきょろ辺りを見回して、時々瑞希の様子をちらちら窺う。やがて史織が低い声を出す。
「瑞希! こりゃ迷ったみたいだね。遭難だよ! このまま日が暮れても山から出られないで、私たちは狼の餌食になっちゃうんだよー! うわああああ‼」
「ひっ、ひいぃぃ!」
なんで狼がいるんですかと若彦が冷静に言う。
「こーいうのは気分の問題でしょー。うわああ遭難したぁ死ぬーマミちゃん出てきてぇー!」
マミちゃぁーん、と呼んでウインクする史織に、やはり若彦は来ないと思いますけどと冷淡に言う。マミちゃんって誰、と瑞希は呆気にとられてしまう。
「ちぇっ、ホントに来ないやー。役に立たないなーあのねぼすけタヌキ」
「そうだ。史織さん、山の上まで飛んで見てきてくださいよ」
「えー? もうしょうがないなぁ。じゃあ待ってて」
そう言うと、史織は垂直に空高く浮かび上がり、すぐに青空に溶け込んで見えなくなった。やりとりを黙って見守っていた瑞希は、姉弟のような二人が微笑ましいのと同時に、不在の我が兄を心配して、ずきずきと心の痛みも感じていた。
それっきり。
十分、二十分と待ってみても、幽霊は戻ってこなかった。飛び上がったのはいいが、そのまま迷子になってしまったとでもいうのか。
「え……」
頼れるパートナーが不在となって、若彦は力なく空を仰いでいた。
「あの、天野くん」
「お、おかしいな……今日が四度目なんだけど、なんで迷っちゃったかな」
若彦はもう狼狽を隠しきれないでいた。だが、本当になぜ迷ってしまったのか分からない。道を間違える要素などないのに。確かに道なき道ではあるものの、自然の目印はいくつも記憶していたのに。瑞希は勝手が分からない山中で、適切な思考回路も動作しない有様だ。
後ろを顧みると、何か草木が急によそよそしい態度で揺れているように思えた。若彦はやり場のない不満と不安と失態の羞恥に、首をジャケットの襟に埋めた。
そんな時、瑞希の頭蓋の内側に、今日初めての霊の声が反響した。
――み、ず、き。
幻聴めいた勇希の声は、息も絶え絶えといった様子で妹の名を呼ぶに留まった。
不意打ちの恐怖シーンを直視したホラー映画の鑑賞者のように身を縮め、足を滑らせた瑞希に気付いた若彦は、無様な戸惑いを捨てて彼女に駆け寄り、倒れるその身を抱き留めた。
「大丈夫?」
「……うん」
接触はすぐ解かれ、二人の間にまた距離が生まれる。
「声、だよね。やっぱり俺には聞こえなかった。輪田さんだけに呼びかけ続けてるんだ。なんて言ってたの?」
「私の名前を読んだだけ。すごく苦しそうだった」
骨が抜けたように瑞希の脚は脱力した。スカートが汚れるのも構わず、その場にへたり込んでしまう。
「なんなの……もう……」
若彦は言葉もなく、悩める少女から苦々しく目を逸らした。また泣き出しそうだったからだ。ただ気の毒なばかりで、慰める言葉すら紡ぐこともできない己を責め、拳を握った。
「せめて話ができれば……私の言葉が届けば、こんな怖い思いはしなかったのに」
爪が掌にきつく食い込んだ。不安で一杯の瑞希をこんな山の中に連れ出した挙句に迷って二人きり、自分の行為は全くの逆効果だ。こんなことでは怖がるばかりで――。
「ん?」
待てよ。そうか。初歩的なことだった。暗い部屋に蛍光灯が点いたように、はっきりと頭の中に進むべき道が示された。いくら歩けど岩屋に辿り着けなかった不思議、その原因は瑞希自身にあったのだ。
「輪田さん! 輪田さん、俺を見て」
若彦は地面に片膝を突いて瑞希と目線を合わせると、力強い口調で呼びかけた。
そう――。
初めて鬼の岩屋に赴いた日の帰り。小夜薊の侍女お鬼久が好意の表れとして、そっと教えてくれた渡螺山の秘密。強大な魔物を封じる楔の役目を果たし、かつ命を狙われてもいる姫君を守るために、渡螺山は呪術的要塞と化しているのだ。至る所に隠された魔除けの類が、小夜薊に危害を加える虞のある者の正常な通行を妨害する。
この防御システムが、まだ会ったことのない妖怪への過剰な恐怖心に反応しているのだとしたら。延々迷い続ける幻術に嵌められて、いつまでも岩屋に辿り着けないのだとしたら。まず瑞希から鬼姫に対しての警戒を解かねばならない。
脱力して俯いたままの瑞希。若彦は腹を括って、そんな彼女の両肩に手をやった。
「輪田さん!」
「びぇ」
驚いた瑞希は反射的に若彦を見た。思惑通り。
「大丈夫! 俺を信じて。まず深呼吸しよ」
ありったけの誠意を籠めて瑞希を見つめた。すぅ、はぁと空気が出入りする音と共に、瑞希の瞳孔がぎゅっと大きくなる。
「考えてみればさ……輪田さんの知ってる鬼っていえば、前に校庭で殯坊と戦った獄卒たちくらいなんだね。そりゃ、まぁあの姿は怖すぎる。俺だって背筋がぞっとした。本来は地獄で罪人を痛めつけるひとたちだから、人間に恐怖を与えるよう外見も進化してる」
でも、と若彦は続けた。
「微力ながら一緒に戦って、俺はあの獄卒たちと心が通じたと思った。だから輪田さんとアザミさんだって、きっと通じ合えるはずなんだ。あのひとは外見も中身も、獄卒たちよりずっと優しい。だから最初の警戒もいらない。先入観なんて捨ててしまえばいい。恐れる必要なんてないんだ」
全然ない、と強調し、だから、と駄目押しで言う。
「俺と、俺が信じてるアザミさんを信じてついてきて欲しいんだ。悪いようにはしないって約束するから」
「……わかった」
想いが通じ、瑞希は緩やかに首肯した。
若彦はもう特段の躊躇もなく瑞希の手を取って立たせた。随分冷えてはいたが、彼女の手は人柄を表すがごとく柔らかかった。恥ずかしそうに唇を結んでいた瑞希だったが、数歩進んでから若彦に問うた。
「でも迷っちゃったんでしょ?」
「心配ないよ」
若彦はそれまでとは別人のように泰然と、前方の笹藪を指差した。
風にそよぐ笹の葉。藪は左右にかき分けられており、その向こうに様々な秋の花が咲く野道が伸びていた。二人は岩屋のすぐ近くまで来ていたのだ。
「行こう」
*
「あっ、いらっしゃいませ!」
「やっときたよー遅かったなーもー!」
「待っていたわよ」
洞窟には、先に到着してすっかり寛いでいた幽霊と、茶を出す準備を整え待っていたお鬼久、そして封印された魔物の頭を押さえつける大岩の上に座すアザミこと小夜薊がいた。
若彦に促されて入ってきた瑞希は、直立不動の姿勢からいきなり腰を折り、深々と礼をした。
「はじめましてお、お、お邪魔しますッ! わだし、わた、だ、輪田瑞希ともうしましゅ!」
「あらあら、緊張しているのかしら?」
微笑みを持って瑞希と若彦を迎え入れた姫は、いつもと同じく赤い着物に藍の打掛を纏い、美しい薄紫の髪を垂らしていた。両手は切断され、今ここにはない。顔を上げてその容姿を捉えた瑞希は、恐らくは予想とは完全に違っていたその美貌に見惚れて呆然とした。
「あの、私の顔に何か付いているかしら。この角は元から生えているものだけれど」
靴を脱ぐ途中の若彦と急須から茶を注ぐお鬼久は一緒に吹き出し、史織はへらへら笑った。
「えっ?」
「どうしたの?」
案外いい組み合わせだ。なんでもないよと言って若彦が茣蓙に上がると、瑞希も彼に倣って靴を脱いだ。すると奥の部屋から丸々肥えた四足獣――貒が駆け寄って、少女の脚に纏わりついた。驚いた瑞希が転ぶと、小妖獣は大喜びでじゃれついた。
「わっ⁈ きゃ⁈ ぅなあぁぁあ!」
とても初の来訪者に接する態度とは思えない人懐こさだ。
「きゃ! やだ、もう、くすぐったいよ……」
跳ねるポニーテールを横目に、俺の時とは大違いだと言うと、天井からカチカチと歯噛みする音が聞こえた。鬼火の照明の間にぶら下がった蝙蝠型の妖怪・飛倉がいかにも不満げに歯を剥き出していたので、若彦はまたお鬼久と苦笑い。
「お、今日は双々もここにいたのか」
若彦は岩の下にじっと佇む青い三頭獣の双々に言った。双々は相変わらずクールで、しゃんとそっけなく鳴いた。またきたのね人間さん――と言ったかどうかは分からないが、彼女は直後に三つの頭で欠伸の輪唱を披露した。史織は若彦の所まで飛んでくると、ちゃんと連れてこられたじゃないとまたしてもしたり顔。呼びに来いよ、という感じである。
一方、貒を抱き上げた瑞希は物珍しそうに岩屋内を見回していた。
「ここがアザミさんのお家……なんですよね。なんだかすごい」
「いいでしょう。特にあの灯りが気に入ってるの。色も変えられるわ」
アザミがぱちりと瞬きをすると、白っぽかった鬼火がぱっとネオンブルーになった。次の瞬きではエメラルドグリーン、その次はレモンイエロー。LED顔負けの鮮やかさだ。
「すごい!」
瑞希は素直に感嘆した。すっかり不要な恐怖は取り払われている。鬼火が元の色に戻ると、お鬼久が笑顔で茶を差し出した。岩屋での彼女はいつも、美しい菊柄の和服を着ている。
「どうぞ」
「ありがとう……えっと、あなたは?」
「お鬼久と申します。アザミさまのお手伝いをしている鬼娘なのです」
「おにむすめ……!」
瑞希が頭部の袋角に釘付けになっていると、お鬼久は恥ずかしいですよぅと照れた。
更に、アザミの念動力で卓袱台がふわふわ飛んでくる。
「今日は薩摩の轆轤首が作ったお団子があるわ。どうぞ召し上がれ」
茶と団子で小腹も満ちて一息ついたところで、瑞希は若彦による補足付きで経緯をアザミらに打ち明けた。
二人が語った怪事と、人々の奇妙な失踪の話を、アザミは黙って、しかし時折思案するように眉を寄せつつ聞いていた。若彦に言ったのと同様、兄の身が危ない気がすると瑞希が言うと、アザミは沈痛な面持ちで目を伏せた。
全てを聞き終わっても、磐上の姫君はしばらく言葉を発さなかった。思考を巡らせているのだろうか。あるいは、何事かを言うべきか否か逡巡しているようでもある。
「そう……単なる神隠しや人攫いの怪ではないようね。瑞希、私の持てる限りの知恵を用い、あなたの身に起きたことを考えてみましょう」
口を開いたアザミに、卓袱台を囲む一同の注意が集まる。
「でも、私が語ることは、あなたにとっては辛い現実と向き合うことを強いるかも知れない。それでもいいわね」
瑞希はこくりと頷いた。目が潤んでいることに気付いたお鬼久がおろおろしたが、そんな鬼娘を止めるように史織もまた深く頷いた。が、両手に串団子を握っているので様にならない。ともあれ承諾を得て、アザミは語る。
「離れた場所で過ごす親、きょうだい、友人――そこにいようはずもない者の姿や声をふと感じ取る。そういう不思議な出来事は多くの人が体験しているようね」
たとえば、とアザミは繋ぐ。
「今から四十年より前のことと聞くわ。ある寺の住職が運転する自動車が、山中の急なカーブに差し掛かった時、突然夜道に彼の母親が現れたの。慌ててブレーキを踏んで外の様子を見に行ったところ、前方の崖が崩れていると知れた。母の姿に驚き止まらなければ、自動車ごと崖下へ真っ逆様に落ちていたというわけね。寺へ帰ってみると、門前で母親が子を心配して待っていたそうよ」
警告か、と若彦が口中で呟いた。瑞希の体験とも合致する。史織は腕組みをして、生霊ってやつよねと付け加えた。
お鬼久は少し離れて、人間たちに魂の怪異を聞かせるアザミをじっと見ていた。滔々と語ってはいるが、姫が本物の自動車を見たことはないのもよく知っている。
「強い嫉妬や思慕により、魂が己の体から抜け出す。『源氏物語』の六条御息所は知っているかしら。平安の都人は魂が体を離れ出歩くことを、あくがるという言葉にした」
瑞希が頷いて言った。
「たしか、憧れるの語源になったんですよね。学校で習いました」
「ものおもへば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る。魂は抜け出るもの。驚くことを魂消る、魂上るというのも似た考えによるものね。眠りに落ちると魂が身を離れてしまう病も、古い書物に記されているわ。五臓のうち肝が邪気に冒されてなるとも、強い欲求が体と魂を分離するとも。……一つ、考え得ることとして。あなたのお兄さんは、あなたを強く想い、何か危険を伝えるために声を送っている。その場合、お兄さんは自由に居場所を離れられない状態にあると推し量れるわね」
ただしこれは生きている場合、と敢えて冷徹にアザミは言い放つ。
「こんな例もあるわ。江戸が東京と名を改められてしばらく経っての話。小川町に住むある人が、陸軍兵士として台湾へ赴いた義理の弟の死を知るの。彼は悲しみに暮れ、どうにか気を落ち着かせようと書斎に籠った。すると縁側で物音がし、見れば外で義弟がいつもと変わらぬ様子でにっこりと笑っていた。兄貴ただいま帰りました――と言う声に驚き逃げ出した彼が、もう一度戻ってきた時、そこには既に誰の姿もなかった。これなどは死霊、幽霊でしょうね」
死霊、と史織が暗い調子で繰り返したが、すぐ打ち消すように声を張り上げた。
「でもさ! 死霊だったら、その話みたいに姿も見せれば済む話じゃない。声だけ聴かせるなんて、変じゃないかなーって思うんだけど」
この反論にも博雅の姫君は動じなかった。
「足音だけが訪問する、戸を開ける音だけが聞こえてくる、三味線が、笛の音が、歌声が、そして呼び声だけが聞こえたという話も沢山あるのよ。霊のあらわれ方は幾通りもあるのが常。史織、あなただって様々な形をとれるのでしょう」
「う……まあね」
若彦と瑞希は、ともに史織の変容を思い出していた。いつもは漫画みたいな姿だが、その気になれば光の球や、足だけにも変身できるのだ。更には生前と変わらないのであろう、四肢が揃ったあの艶やかな――いけない、こんな時に不謹慎だと若彦は記憶を頭の外に振り飛ばす。
「それじゃあ、やっぱりお兄ちゃんは……も、もう死んでるんですか?」
瑞希の震えた問いかけに、アザミは目を伏せるのみだった。
「私にも分からないわ。生きているとは言い切れず、かといって死んだとも思えない。死霊ともなれば移動は生者よりも自由であるはず。どうして声だけ? 必然性が見出せないわ。それに全てを伝え切らない、妹と言葉を交わせない……理由がなければおかしいのよ。あなたたちが以前関わった首の怨霊のように何者かに捕らわれ、自由を奪われて、それでもなんとか迫る危険を妹に伝えようとした結果だとしたら……いえ、あのような技の使い手が立て続けに現れるなんて」
切断されていなければ、きっと腕組みをして考え込んでいるところだろう。見兼ねたお鬼久があのぅ、と言って小さく挙手した。
「どうしたのお鬼久」
「わたしはその、瑞希さんのお兄さんはよく存じあげてないですし、幽霊についても詳しくないのですけれど……どちらでもない状態というのはないのですか?」
「どちらでもない⁉」
若彦、瑞希、史織、アザミが全く同時に訊き返してきたので、お鬼久はわぁと言って盆で顔を隠した。恥ずかしいのだ。
「あわっ、そんなに注目されるような話では……」
「教えて、お鬼久ちゃん!」
瑞希に切望されてしまっては断れない。お鬼久は控えめな態度のまま推理を話す。
「さっきのアザミさまのお話に出てきたのにも似てますけど、人が亡くなる直前に魂が出歩くってよく聞きませんか? 夜道で人魂を見た何日か後に裏のおじいちゃんが……とか」
「あー。誰もいない部屋から妙な物音がしてイヤーな予感がしたから実家に電話かけてみたら、たった今おばあちゃんが……とか?」
「そういうのです。あっ瑞希さん泣かないで。こわい話はもうやめますから。あのっ、だからどっちでもないっていうのはですね、生霊というには死へ近付きすぎてて、でも死んではいないので死霊ともいえないような、そんな魂なのです」
何か思いついたアザミが顔を上げた。
「そうね……そうなのかも知れないわ。陸奥には面影と呼ばれる怪異がある。また、あまびととも思くとも。死の間際の魂が体を抜け出し、その人の姿となって親しい者の前に現れたり、音を立てたりする」
「死の、間際……?」
「あなたのお兄さんが、もう何日も瀕死の状態におかれているとすれば説明がつきそうよ。まず、記録会の場で何かが起こった。その場にいた者たちは誰かに、どこかへ連れ去られた。メールというのは……本人でなくとも送れるのでしょう? きっと偽装工作というものね。そしてお兄さんは遠く離れた場所で、病か傷かで刻一刻死に向かっている。そんな中で妹のあなたを守ろうとしている。残る力を振り絞った懸命な呼びかけよ。声が苦しげになっていったというのは、やはり弱ってきているからだと思えば納得できるわ。そうならば、瑞希の直感はぎりぎりの所で外れていたと、私は信じたい」
「そ、そんな」
瑞希は頭を抱えた。姿なき勇希の言葉が渦巻いている。恐ろしいものがいる。街が狙われている。瑞希、どこにも行くな。そんな、そんなことばかり言って。また 涙がじわりと湧いた。
「お兄ちゃん……死にそうなのに私の心配ばっか……た、助けてって、瑞希助けてくれって言えばいいのに……どうして、自分のこと何も……居場所だけでも、教えて欲しいのに!」
そしてまた今、新たな呼び声が響いた。
――もうすぐ、来る。
「お兄ちゃん⁉」
若彦、それに史織とお鬼久は当惑するだけだったが、アザミは眼に紅玉の輝きを灯して真実を見極めようとした。たとえ聞き取れずとも何かが見える可能性はある。
「勇希ね。どこにいるの? 何があったの? まだ……生きているの」
答えて。
待ってみても、やはり返答はない。岩屋の中で瑞希の震える息遣いだけが聞こえる。
洞内をぐるりと見回した後、残念そうに眼の輝きが消えた。
「やはりここには来ていないようね。声は別の場所から送られたものだわ」
「手がかりが尽きたか……!」
皆、意気消沈して黙り込んだ。最早これ以上の追究は不可能だった。静かに涙を拭う瑞希に向かって、アザミは優しく、かつ凛々しい口調で語りかける。
「瑞希。あなたの名にもお兄さんの名にも、希の文字が入っているわ。あなたを守りたいという強い希が声を届けたのなら、あなたはそれを受け取りなさい。そして兄にまた会いたいのならば、その希望を捨ててはだめ。生きているとすれば、いいえ、万一そうでなかったとしても……血を分けた兄妹、やすやすと引き離されてたまるものですか」
ききぃと勇ましく鳴き声を上げ、飛倉がひらりと舞い降りた。黒い野衾の怪は卓袱台の前に音もなく着地すると、小夜薊に、次いで瑞希に恭しく頭を垂れた。
「言わずとも分かってくれたようね。飛倉、かれらの街に何が起こるか、しっかり見張っていてちょうだい。瑞希たちが危ないときには守ってあげて。ただしこの間のような無茶はいけないわよ。いいわね?」
念を押すアザミに向かって、飛倉は大きく翼を広げ胸を張った。お任せ下さいと声が聞こえそうだ。若彦はこの時、以前の死闘で小さな英雄の負った傷がほぼ癒えていると気付いた。
貒は黙って瑞希に身を寄せた。精神を磨り減らす霊能の少女にとっては、妖怪たちの心遣いは些細でも大きな救いとなった。
「アザミさん、こうもりさんに貒ちゃんも……ありがとう。本当にありがとうございます」
私諦めません、瑞希はきっぱり言った。
「またお兄ちゃんに会うんです。何が起こるのかは分からなくて、すごく怖いけど……私、独りきりじゃないですよね?」
「その通りだよっ!」
史織が両腕をぶんぶん振った。よく分からない感情表現だが、瑞希を励まそうとしているのは伝わる。
「なんたって幽霊界一の美女と鬼のプリンセスが味方なんだからねー」
「少し遠いけれど、心細くなったらいつでも岩屋へいらっしゃい。お鬼久の淹れるお茶は心が安らぐでしょう?」
「紅茶やコーヒーでも大丈夫なのです!」
「あと若彦も一応いるからいつでも相談してね!」
「一応って。……うん、輪田さん。俺じゃ頼りないかもだけどさ、一応いるから」
この中で役立たずなの自分だけだろうな、と若彦は内心無力感に苛まれる。それでも同じ秘密を共有する人間として、話し相手ぐらいにはなれるかと期待もしている。
聞いている間、瑞希は何度も頷き、その都度生気を取り戻していった。しまいには笑みもこぼれるようになり、岩屋の面々は一安心するのだった。
若彦はふと腕時計に目を落とした。三時四十分。その仕草に気付いたお鬼久が言う。
「そろそろ山をお降りになった方がいいのかも。陽が短くなってきましたからね」
そうだねと答えて若彦は胡坐の膝を立てた。
「輪田さん、今日のところは帰ろうか」
「うん、あぃたた……」
ずっと正座していた瑞希は足が痺れてうまく立てない。楽にしてればよかったのにと史織が偉そうなことを言うと、アザミもそうよと同意した。この邸の主は訪問者の礼節をあまり気にしない。ふらついている瑞希に若彦が手も差し伸べられないでいると、実なる鬼娘がすっと手を取り助けてくれた。ありがたいやら情けないやら、若彦は泣き笑いのようになる。考えてみれば異性の同級生と出かけるなど、これが初めての経験だ。瑞希がこんな状態なのだから、自分はもっと積極的になるべきだったのでは。でも瑞希が嫌がるのではなかろうか。あぁまた何を考えてるんだ。禅僧に警策で散々に叩かれる幻像が浮かんだ。要は雑念まみれなのである。
直立したものの足裏の感覚がなく、いまだふらふらしている瑞希だが、岩屋を辞するに際して、また深々と主へ礼をした。それを見た双々は後足で首を掻き、奥の部屋へと下がった。お前にしたんじゃないぞ、と若彦は思う。
どうか更なる禍に晒されぬよう、と言って、大岩の上でアザミはこう唱えた。
「――東海の神名は阿明西海の神名は祝良南海の神名は巨乗北海の神名は禺強、四海の大神百鬼を避け凶災を蕩う。急々如律令」
「黴臭ぇ呪文だ」
不意に外から男の声が聞こえたかと思うと、洞窟の入口にかかる簾が荒っぽく引き上げられた。茣蓙にすらりとした影が伸びる。
振り返った若彦は我が目を疑った。なんだ、この男は?
「珍しいわね。あなたがここへ来るなんて」
無造作で短めの黒髪、濃い黄色の虹彩、不機嫌そうに歪んだ口には茶色いフィルターの咥え煙草、ただし火は点いていない。歳は三十前後だろうか。派手な白い背広に、ノータイで柄入り、第二鈕まで開けた葡萄酒色のシャツ。首元には金と銀のネックレスが二重にかかり、袖口から覗く腕時計もまた、金。モンクストラップの革靴は黒光りしていた。
突如として乗り込んできたこの男。
まるで。
ヤ。
「ヤクザがこんなカッコできるかよ」
横目で若彦を睨みつけ、凶悪な相貌の男は言った。見透かされている、いや、相当に間違われ慣れている? 鋭い目に射られ、若彦は身が縮み上がった。
「なんだこのガキどもは」
男は驚きのあまり棒立ちの若彦たちに一瞥をくれると、無遠慮に岩屋へと上がり込んできた。
「私や秋嘉の友達よ」
「友達ィ?」
一拍置いてからアザミが答えると、男はなんとも不可解そうに語尾を上げた。
「おいおい、いつの間にお友達なんぞ作りやがった? 僕は罪人だァとかほざいてふてくされてたんじゃねぇのかあのクソガキはよ」
クソガキ。まあ、文脈からして秋嘉を指しているのだろう。
秋嘉――五雲秋嘉。若彦の清廉誠実なる友にして、この世を裂いて顕現する地獄の炎を封じる役目を負った少年だ。夏の日に出会い、復讐に狂った妖怪殯坊との戦いを共にして、若彦と秋嘉の間には深い絆が生まれていた。
今の口ぶりからしてこの男、若彦より前から秋嘉とも知り合いらしい。
いや、そもそも誰なんだ。
「あ、あなたいったいなんなんですか?」
裏返った声を男の背に投げかけて、若彦は反応を待った。彼はそれを全く無視して、上着の内ポケットから封筒を出してアザミに示した。
「今月分だ。遅れたからわざわざ届けに来てやったぜ感謝しな」
お鬼久が素早く回って封筒を受け取ると、ありがとうございますと言って奥へ引っ込もうとした。茶はいらねぇぞと謎の男が呼び止める。急停止してこちらを向いたお鬼久には、特に物怖じする様子はない。
「こんな洞穴に長居する気はねぇ」
なにあの失礼なヤツ、と史織が反感を露にする横で、瑞希は新たに現れた不安に後ずさりしていた。わけが分からない。この岩屋には、ただの人間は踏み入れないはずだ。
ただの人間ではないのか。
「いつもすまないわね。このお金はありがたく頂いておきます」
アザミの謝辞が若彦の記憶を呼び起こす。
――人間の世界で働く親切な妖怪がいて、私たちにお金を分けてくださるのですよ。
これもまたお鬼久の言っていたことだ。まさか、こいつが生活費の提供者? 妖怪には見えないし、まして親切そうには全然見えない。だが難なく岩屋にやって来て現金入りの封筒を渡すとなれば、そうとしか考えられないのもまた事実。若彦たちの懐疑をよそにアザミが問う。
「仕事で遠出をしていたの? 朔日から留守だったと聞いたわ」
「西へ東へ大忙しよ。警察はろくな仕事持ってきやがらねぇ」
「その分、実入りは多いのでしょう?」
「それとこれとは話が別だ」
人間たちの方に戻って来たお鬼久は、悪い人じゃないんですよと若彦に耳打ちした。
「とてもそうは見えないけどー?」
「うるせぇ心太だ」
「うぇっ⁈ な……誰がトコロテンよ!」
やはり幽霊が見えていた。男は三白眼で史織を睨んでいる。そしてズボンのポケットに手を突っ込んだかと思うと、ガスライターを出して煙草に火を点けた。
「あの、あなたは」
白い煙と匂いが立ち上ると、早速史織が突っかかる。若彦の問いは遮られた。
「ちょっとー! 未成年と私がいるトコでいきなりタバコはないでしょー!」
「うるせぇとっとと肺癌になって死ね」
「はぁー⁈ もう死んでますから! もう死ねませんからぁー!」
「おい鬼ども、なんだってこんな鬱陶しいもん連れ込んだ?」
言動がいちいち刺々しいというか凶暴である。冷静に応対していたアザミも、この態度には不愉快そうに片眉を吊り上げた。
「いきなり喧嘩腰だなんて感心しないわ」
「けッ。てめぇの感心なんぞ一文にもならねぇんだ」
「……仕方がないわね。でも、丁度良いところへ来てくれたわ」
アザミが先程から怯えっ放しの瑞希に顔を向けた。男の方は無関心な態度で、白目を剥いたり舌を出したりで愚弄してくる幽霊を眺めていた。アザミは言う。
「そこにいる子の兄たちが行方知れずとなって、どこかから頻りに声だけを届けてくるの。それも街が危ない、恐ろしいものがいるといった類のね。あなたはどう見る?」
「アザミさん……!」
若彦にはアザミの意図が少しも読めなかった。どうして彼に瑞希の悩みを伝えてしまったのだろう? こんな奴に話したところで、何かが分かるわけでもあるまい。
「どう見るって、どっかで死にかけてんじゃねぇのか」
「何日もずっとだそうよ」
「そりゃ妙だ。オマクだのなんだのは死ぬ直前か直後で長引きゃしない」
あれ――。
「さっ、さっきの話、聞いてたんですか⁉」
若彦が言うより早く、瑞希が驚いて尋ねた。男は怪訝な顔で返す。
「んなもん聞くかよ」
今度は瑞希に暴言を吐くのではと、若彦は静かに首から肩を強張らせていた。史織はさっと瑞希の真横に移動する。二人とも抱く考えは似通っているのだ。
「ま、お前の兄貴か? ただごとじゃねぇだろうな、そいつの身に起こったのは。恐ろしいものとやらが絡んでると見るのが妥当だろう」
「その恐ろしいものって、いったいなんなのですか?」
どこに置いていたのか、お鬼久が灰皿を差し出しながら訊いた。男は知るかとにべもない答え。落ちた灰が火を失って白くなる。
「人か妖怪か、あるいは地震雷火事親父。舌っ足らずでどうとでも取れるわな」
瑞希が身を乗り出して尋ねる。
「私のお兄ちゃ、あ、兄は今どうなってるんでしょうか……?」
「多分、死んではねぇ。だが死んでねぇってだけだ。とどめ刺されんのは時間の問題だろうな」
男は、敢えて残酷な言い方を選んだようだった。
「そんな! だったら、あの、私どうすれば」
「おっと。話はここまでだ」
男は手を翳して問いを止めた。手元から散った煙に瑞希が顔を背ける。
「用があったら相談料持参でここまで来な」
「相談料?」
男は左手をまた上着の内ポケットに潜らせた。そして一枚の名刺を取り出し、瑞希にぐいと突き出した。丁寧にも瑞希はそれを両手で受け取ってお辞儀までする。
「きゅう、せい……」
「九生だ。九生妖怪退治社」
若彦は瑞希の手にした名刺を覗き込んだ。そこには真面目くさったフォントで〝九生妖怪退治社・代表取締役社長 ライコウ〟とあった。当然、住所や電話番号も。
「ライコウ……?」
なんだこれは。
「芸名ですか?」
「本名だ馬鹿野郎」
変なガキだなと白いスーツの男――ライコウが言うと、あんたの方がよっぽど変よと史織が返した。変な奴ばかり集まっているんだなと若彦は笑い飛ばしたくなった。
「妖怪退治社ってことはなに、妖怪退治でお金取ってんの? 妖怪退治なんてできんの?」
終始不機嫌だったライコウは、この時初めてにやりと笑った。
「俺をそこらの詐欺師と一緒にするなよ。できなけりゃこんな阿呆な名刺は刷ってねぇ」
阿呆な自覚はあるのか。どうやら肩書は自信の表れらしい。
「よ、妖怪が妖怪を退治するんですか。人間の依頼で?」
ライコウは若彦の問いに答える代わりに、よく知ってるなと言い煙を吐いた。
「確かに俺は妖怪だが、そんなことは関係ない。人間だって人間を殺すしな」
かつて出会った角を持たない鬼たちのように、人間社会に溶け込んで収入を得る妖怪たちも多いと聞いている。だが、よりによって妖怪退治を生業にするとは。
「ん、そっちの小娘は気付いてなかったか。まぁいい。眼鏡のガキは自分たちが例外だってのも弁えてるようだ。おい小夜薊、あまり秘密をばらすと後悔するぜ。蟻の穴から堤も崩れる」
「みな信頼できる人間よ。あなたにとやかく言われる筋合いはないわ」
「そうかい。さすが姫様は人を見る目がおありで」
皮肉っぽく言って、ライコウはお鬼久の灰皿に吸殻を放り入れた。
「邪魔したな」
「ちょっと待って下さいよ!」「待ちなさいよ妖怪退治屋!」
若彦と史織が慌てて呼び止める。退治屋を名乗る男は気怠そうに二人を見返した。
「あんた、なんか色々知ってるみたいじゃない。もっと協力してよ!」
「お願いします……ライコウさん」
「わ、私からもお願いします……兄を探す手がかりが欲しいんです!」
石の框に腰を下ろして靴を履きながら、笑わせるなとライコウは言う。
「俺は慈善事業屋じゃない。報酬なしには動かない。ガキだからって頼み込めばなんでもしてもらえると思ったら大間違いだぞお前ら」
史織が怒りを剥き出しに、腕組みをして高く飛んだ。彼女なりの威嚇だ。大抵の場合、全く威嚇にはなっていないのだが。
「だったらいくら出せってのよ!」
「三十万」
「さっ……⁉」
史織は目を白黒させ、ライコウは嘲笑うように口の端をくいと上げた。大きく尖った犬歯が覗くと、男の顔立ちは獣の雰囲気を帯びる。
「三十でたじろぐようじゃ話にならん。俺は犬と貧乏人が嫌いでな。優しいお友達と協力して解決してみやがれ」
不敵な男は悠然と立ち上がり、簾を上げて岩屋から出て行ってしまった。
「ケチ! ドケチ! 超弩級ケチ!」
幽霊の捨て台詞は、ただただ空しく岩屋の天井に響いて消えた。
「……ごめんなさい。ライコウというのはああいう男なのよ。何か力を貸してくれるかと思ったのだけれど、だめだったわね」
小夜薊が溜息をつくと、お鬼久もかくりと肩を落とした。
「悪いひとでは、ないんですけどね」
どうだか。若彦も、今回ばかりは鬼たちが寄せる信用に抱いた疑義を捨てきれなかった。
ともかく、危険から身を守ることを念頭に置いて、少年と少女はそれぞれの家に帰る。
「お鬼久、バス停まで送ってあげなさい」
はいと元気よく返事をして、お鬼久が奥の部屋へ着替えに走っていった。
若彦はちらと瑞希の様子を窺う。
やはり悲しそうだ。失意と悲観の暗雲が、純粋な心に翳りを生んでいた。