第一章・幽怪sudden death
信号器が鳴ってからは、徹底的な孤独だ。
敵の背を求めれば、追い抜いたとき目標を見失う。追い抜かれたとき動揺する。過去の自分の幻像でさえ、思い描けば障害物だ。身に着けた大学の名もコーチの期待も、今は忘れよう。
人間と争うのではない。この四〇〇メートル、時間と風に挑むのだ。タイムトライアルは孤独と同義に違いない。
疾走を目前に控えた時、彼はいつもそう考える。限界を突き破るべく、神経を矢の鋭さまで研ぎ澄ませながら。
小気味よい発砲音が晴天に打ち上げられた。ほぼ本能に押し出されるようにして力強い一歩目を踏み出した瞬間に、地面に不自然な震動を感じた。
なんだ?
動揺もまだ形にならない、一秒にも満たない間。彼の真横を閃光が過った。
赤い光!
それは彼らの足元、走路に風の速さで生じた大きな亀裂から発せられていた。
背後で野太い絶叫が聞こえた。反射的に振り向くと、そこには目を覆いたくなるような光景が広がっていた。
拡張してゆく裂け目から飛び出た細長い突起物――銀色の大針に股間から頭頂までを刺し貫かれた一人の選手が、同じく裂け目から噴き出した炎に焼かれて火達磨となっている。頻りにもがく手足は一切の役に立っていない。その向こうでは、別の仲間が蹲って悲鳴を上げていた。
助けなければ!
青々としていた空は煤で真黒く変色していた。走路が隆起する。赤い地割れから次々と針が伸びてくる。尋常ならざる異変の中で、彼の精神に訴えかけていたのは、いつか助けた子供達の泣き声だった。
コースを果敢に逆走し、怯える青年に手を差し伸べた。
「いまいくッ」
仲間の腕を掴んで引っ張ろうとした彼の前に、無情にも炎が立ちはだかった。差し伸べた手を焼かれて彼は仰け反る。燃え移った火は意思を持っているかのごとく急速に全身を包み、肉体を容赦なく焼き尽くしていった。苦しみ悶え、一歩二歩と後ずさる。跨いでしまった裂け目から驚異の速度で出た針が、背から脇腹に貫通した。体内から溢れ出た血を吐いて、それきり彼は前進も後退もできなくなってしまった。血の滴る手が痙攣している。
体が崩壊する感覚。己の精神を覆う物質が、全て灰になり崩れゆく自覚。
そして。
炎の中から、異形の腕が伸び出てきた。三本の指の先に生えた金色の鉤爪が、焼け焦げた彼の胸倉にざくりと突き立てられた。
魂を抉り出されるような強烈な苦痛を覚えて、彼は。
彼は。
*
天野若彦は心配していた。
何しろもう一週間である。
腰を捻って対角線上にある空席を見やる。
出席番号三六番。輪田瑞希は、今日も学校に来ていなかった。
今度は自分たちのせいではない――はずなのだが。
「今度は私のせいじゃないと思うんだけどなー……」
視界の上の方で、白いものがちらちら揺れている。
「そんな怖がらせたりしてないから。ただ」
この白い何かは、この教室では若彦だけにしか見えない存在なのだ。
「後ろからいきなり囁きかけてみたりー、天井からいきなりぶら下がってみたりー」
そしてこの愛嬌ある声も彼にしか聞こえない。
「あとはカバンの中にすっぽり収まって驚かせてみたぐらいだからね、私」
ああ、自信がなくなってきた。
「おっぱいも触ったけど許容範囲だよねっ!」
今度こそ自分についているコイツのせいで、彼女は不登校になってしまったのではないか。
「いや、タッチ程度だからほんとに! 揉んでないから!」
揉んだな。
朝から憂鬱な話だ。ずれた眼鏡をくいと上げる。若彦は中指と親指で両端を上げる派だ。
何を隠そう――いや隠していることだが――天野若彦には幽霊が憑いている。光沢ある黒髪、左前の白帷子。手には手甲、額には三角の紙冠を付け、窄まった足元は尾のようだ。先程からちらついていたのはこの先端なのである。どんな機材と方法を使っても恨めしさを検出できそうにない、人懐こい小動物めいた好奇心を宿した眼を持つ幽霊は、名を史織という。
今からほぼ三ヶ月前、八月半ばのことだ。若彦は偶然の神秘に助けられて幽霊少女と遭遇し、以後立て続けに奇怪な事件に巻き込まれる羽目になった。現世を侵食する地獄、腕を断たれた鬼の姫、復讐に燃え怨霊を操る妖怪、業火を封じる救世主――。
いずれ人間が知り得るべくもない出来事だった。知っても忘れ去る運命にある出来事だった。
語ることも許されない幻想だった。
だが、そんな秘密を共有してくれる人間が、若彦の身近に現れた。それが現在欠席中の瑞希なのである。類稀なる見鬼の才に恵まれていた彼女は、いかなるときも我が身に迫る怪異を感知できた。つまり若彦などよりは余程怪異を見慣れていたわけだが、彼女は常人を遥かに上回る怖がりでもあった。初めて史織に追い回された時などはショックで寝込んでしまったほどだ。お蔭で若彦は瑞希の親友からあらぬ疑いをかけられ、苛烈な鉄拳制裁を受ける憂き目にも遭った。いや、この濡れ衣に関しては今もなお継続して――。
「おわ」
後ろの戸から入ってきた鷹の目を持つ行方楓奈と視線がかち合って、若彦は咄嗟に前を向いた。彼女こそ瑞希の親友であり、若彦の天敵である猛禽系女子だ。
楓奈は攻撃的な視線で若彦の背筋を脅かしたが、すぐ悄気返ったように項垂れて、とぼとぼと自分の席まで歩いていった。様子がいつもと違う。当然、原因は欠席続きの瑞希だろう。
「うわちゃー、楓奈しおれてるなー。あ、何度も言うけど私のせいじゃないよ」
信憑性皆無な憑依霊の虚偽証言は完全無視でスルーした。
誰より堪えてんの行方だろ、と言って、丸顔の男子生徒が後ろの席に鞄をどんと置いた。
「あ、植松君おはよう」
「よ。つかさぁ、今日も休んでんのな輪田。出席ヤバいんじゃね」
植松猛は跳ねた後髪を撫でつけながら腰を下ろした。声から表情から、とても眠そうだ。彼はいつも夜更かしが過ぎるのである。
「なんで休んでるの?」
「俺がそんな女子のデリケートな事情に首突っ込めると思うてか若彦ちゃん。なんかあんだろよ、色々と。塞ぎ込んでるって噂だしな。あぁ、けど俺も休みてぇ。一〇〇時間ぐらい寝てぇ」
そういやさ、と植松は無気力に言葉を継いだ。
「圭祐が一階で呼んでたぞ。なんか配布物持って上がんの手伝えとか」
「それ植松君に言ったんじゃないの」
「いや俺疲れてるし。毎日部活とか頑張ってるからね俺」
「植松君幽霊部員じゃん」
「あー」
「あーって」
「いや俺体力ないし。植松さんカバン一つ提げてくるだけで息上がっちゃうからねえ。重い物を持つ仕事はするなってのが先祖代々の家訓で」
丸ごと嘘である。
「なんという怠け者……しょうがない、行ってくるか」
若彦は机に手を突いて立ち上がった。その勢いで戯れに史織へ頭突きを食らわせると、彼女は嬉しそうにへらへら笑って宙を漂った。
女子たちを横目で窺いながら廊下へ出る。一名を除いて、皆いつもと変わらない明るさだ。それもそうか。いくら親しいといったって、四六時中心配してもいられない。
だが。
だったら自分はなんなのだろう。学校が禍々しい戦場に変わり、共に危機を潜り抜けたあの日以来、確かに瑞希と話す機会は増えた。しかし増えたと雖も微々たるもので、友人未満の会話量と言って差し支えない。なのに、今日などは学校に着いてから殆ど瑞希のことしか考えていない。なんだこれは。
自分たちのせいで体調を崩したのかも知れないから? いや、それだけではない。
瑞希のことを考えるとき、若彦の心中には必ず他の感情が介在していた。
だけど、一体なんなんだ。俺は輪田さんをどう思ってるんだ?
階段を降りる。乱れ気味の思考はそのまま歩調に表れていた。
踊り場で、とんと肩に軽いものが当たった。ぼんやりしていて気が付かなかったが、下から来た誰かとぶつかったらしい。反射的にごめんなさいと言って、相手の顔を見る。髪がはらりと揺れて――。
「ごめんなさい」
彼女は若彦の言葉を反復するように謝った。聞き慣れない声だった。
「あぁいや、俺がよそ見してたもんだから」
「よそみ」
若彦より拳ひとつ分低い背。飾らないがふわりとした髪。長い睫毛に縁取られた優しげな垂れ目、左の目尻に泣き黒子。小さな鼻に柔らかそうな頬。口元は白黒のマフラーで隠され、少し大きめのブレザーの下にはベージュのカーディガンが見える。スカートの丈は校則遵守。脚は黒いタイツで完全防備。寒がりなのだろうか。
踊り場できょとんとしている姿を真正面から見続けて、ようやくその名を思い出した。
どことなく不思議な雰囲気を纏う彼女の名は、誉由羅。
「おはよう」
同じF組の生徒で、若彦が買った恨みの巻き添えを食って、生首の怨霊に襲われてしまった美術部員の一人である。勿論、彼女自身にその記憶は残されていない。それでも若彦は申し訳なくて、菓子折りでも差し出したくなった。
由羅の鞄には、瑞希が着けていたのと同じキーホルダーがぶら下がっていた。最近巷で妙に人気の、竜子通り商店街のマスコットキャラクター・たつこんだ。
無口で内気な由羅だが、瑞希とは交流があるらしい。いつだったかの帰り道、話題に上ったことがある。心に描いた通りの景色を絵にできた時、あまり感情を出さない由羅の声が弾んでいたと。その喜びを、ただ瑞希にだけ、そっと教えてくれたという。
誉由羅なら、ひょっとして何か知っているのでは。
「……あのさ誉さん、輪田さんのことなんだけど」
「輪田さん」
由羅は目をぱちぱち瞬いて首を傾げた。一秒ほどの間を置いて、瑞希、と名を呼ぶ。
「今日も休み」
「えっ、あ、そうなんだよ。誉さんなら欠席の理由知ってるかなぁ……と思って。いやあの! 別に何かやましいことがあるわけじゃないんだけど、その、俺、前にもいざこざがあった手前ちょっと気になるっていうか、あんま聞き回るのもよくないかと思って、でも、えっと」
「前にも。気になる」
先程とは反対の方に首を傾げた由羅は、うろたえる若彦の顔を上目遣いで見つめていた。
「……行方さんが怖いから?」
「別にそういうわけじゃ……ううん、殴られるのは嫌かな」
「やっぱり」
由羅とここまで会話が続いた男子はそういないだろうと思う。そもそも休み時間の騒々しい教室では、この繊細な囁き声を聞くこと自体稀なはずだ。
「私も、知らない。連絡とらないから」
「えっ」
何を思ったか、由羅はぷいと横を向いて答えた。
「家庭の事情でお休み。先生はそう言う。でも本当はどうか分からない。きっと誰も」
「本当の理由は違うってこと? それはどういう」
「気になるんだったら」
そこで彼女は再び若彦を見た。綺麗な瞳に若彦は息を呑む。
「確かめに行けばいい。と、思う。だって」
瑞希の家知ってるでしょ。
「あ……」
これは参った。バレていたのか。
ほんの少しだけ由羅は目を細めた。笑ったのかも知れない。
「チャイム、鳴っちゃう」
物静かで底知れない同級生はくるりと背を向け、軽い足取りで階段を上っていった。
「ありがとう誉さん!」
由羅は止まることもなく、前を向いたままこくりと頷いて教室へ向かった。左右に揺れる鞄のたつこんが、なんだか若彦を小馬鹿にしているようだった。
「あれも面白いコだねー。由羅っち」
いつの間にか頭に載っていた白い相棒が言った。
「史織さん」
「うん?」
「俺なんで下降りようとしてたんだっけ」
「さぁ?」
まあいいか。
*
傾く陽の下、足は自然と輪田家の方角へ向いていた。若彦は自転車を降りて瀟洒な住宅街を行く。BGMはカゴに収まった幽霊の鼻歌だ。なぜか『ジョニーが凱旋するとき』である。
由羅の一言は存外心に響いた。気になるなら確かめに行けばいい、か。そりゃそうだ。
何日も休み、クラスメイトとも碌に連絡を取り合わず、楓奈までがあの弱りよう。単なる用事や体調不良とは到底思えない。下手に嗅ぎ回るのは得策ではない。だからこそ、一度、直接、訪ねてみるしかない。そう思った。
そうして触れるべきでない事情が窺えてしまったならば、見なかったことにして静かに引き下がればいい。自分のような半端者がとれる最善の策はこれしかないのだ。
「ふふふんふふー……あぁ若彦、そこ曲がるんじゃないの?」
「そうでしたね。ってよく知ってますね行ったことない癖に」
「ふっふっふ、私はかつて幽霊カーナビの史織様と呼ばれたほど方向感覚に優れて」
「もういいです」
どうも瑞希宅までの道が覚束ない。知っているといっても、訪れたのは一度きり。思い出深いあの日だけなのだ。
途中まで一緒に帰ろうと言ってくれた瑞希は、別れる段になって不意に心細そうな顔を見せた。ほんの数十分前まで身の毛もよだつ魑魅魍魎の危機に晒されていたのだから、恐怖の残響もたやすく耳元から去りはしないのだろう。そう察した若彦は、家の前まで送るよと申し出たのだった。瑞希は大丈夫だと言い張ったが、どうにも心配で仕方がなかった。下心が欲を出す余裕もなく、純粋に労わる一心で彼女を家まで送り届けた。この寄り道のせいで自宅に着く頃には外は真っ暗、おまけにワイシャツの背が知らぬ間に派手に破けていたため、母にとんでもなく心配されてしまった。危うく警察沙汰である。転んで木の枝に引っかけたとかなんとか、急拵えの言い訳で取り繕った覚えがある。
「たしかこの辺でしたよね。輪田さんの家」
「そう言ってたねー。タイル張りの塀があってさ、なんかこう、キレイな家だったって、若彦言ってたねー! また行きたいって、今度は瑞希の部屋まで覗きたいって!」
「最後の方捏造しないでくださいね。うーん。だいたいどこもキレイなんだよなぁ……」
この通りであることには間違いないはずだ。家々の表札を見て歩く。
森川、里田、木崎、大悲心――。
「ダイヒシンって変わった名字だねー」
「そうだ、前にも同じこと思って……ん、あれは」
次なる家に視線を飛ばす前に、視界に制服を着た女子高生が割り込んできた。モデル並の長身と短めの髪。タイル塀の家――輪田家の二階を不安げに見上げている。
後姿だけで判る。あれは行方楓奈だ。
まずい。
迂闊だった。ここで彼女と出くわすなど予想だにしていなかった。考えてみれば当然の成り行きではないか。楓奈と瑞希は紛れもない親友同士だ。親友が塞ぎ込んでいると知って、そっとしておくべき期間を過ぎたなら、家まで様子を窺いに来たって少しもおかしくはない。むしろ瑞希へ愛情に近い友情を感じている楓奈が、若彦以上にじっとしていられるわけもない。
若彦は調査対象を尾行中の探偵よろしく、電柱の陰に身を隠そうとした。だがしかし、慌てた探偵は押してきた自転車のペダルに足を引っかけ、転倒した。がしゃーん。情けない。
突然の物音に、楓奈の背中がびくりと反応した。振り返った時にはもう、いつも通りの刺々しい臨戦態勢の表情が戻っていた。安堵するやら戦慄するやら。
「天野⁉ なんでこんな所にいる!」
ああ、焦ったばかりに下手を打った。楓奈が肩を怒らせつかつかと近付いてくる。
「ひぃ……」
若彦は自転車の下敷きになって目を回しながら、己の失態を後悔し、この近衛兵に血祭りに上げられる数秒後の未来を想像して恐怖していた。
「あわわ若彦、ご愁傷様です!」
カゴから抜けた史織の縁起でもない冗談は、彼女が幽霊なだけに洒落にもならない。
やっと立ち上がった若彦の胸倉は、やはり白い手で乱暴に掴み上げられ、そのまま楓奈の顎辺りまで引き出された。もはや逃げる術はない。どうか、痛くしないで。
「天野……お前また瑞希を!」
「いやいやいやいやいや! いや‼ 違うって行方さん!」
受ける打撃は最小限に、と若彦も必死だ。猛烈に首を振って誤解を振り払おうとする。
「何が違うんだ。どうしてお前がこっちでうろうろしてるんだ? いいか、私は小学生時代から何度も何度も瑞希と一緒にこの道を歩いてるんだ。ここでお前なんか一度も見かけたことはなかったぞ。何をしに来た。私の瑞希に今度は何を――」
夕暮れの闇が陰影を作って、楓奈の顔は凄味を増していた。どうかすると鬼より怖い。
「だ、だから俺は何も、ぐ、ぐるじ、手はなして……」
助けに来てくれ圭祐、仲裁してくれ丸園さん。全ては願うだけ空しかった。
楓奈による拷問まがいの詰問は不条理にもエスカレートする。両手で胸倉を掴まれ、何度も前後に揺さぶられ、若彦はもう体と魂が分離しそうだ。
「お前が何もしてなかったら誰が何をするんだ! 何もなかったら瑞希があんなに休むわけないだろうが! 何もなかったら!」
「ぐええぇ」
「わー若彦ォォ! 楓奈やめて首絞まってるヤバイヤバイ‼」
「何もなかったら……」
史織の声が届いたわけでもないのに、楓奈は急激にトーンダウンした。解放された若彦は糸が切れた操り人形のごとく路上に頽れた。寿命が三日は縮んでいそうだ。
「……どうして私にも会ってくれないっていうんだ」
呼吸を整えた若彦は、おずおずと楓奈に尋ねてみる。
「本当なんだね。輪田さんが塞ぎ込んでるって」
「こんなの初めてだ……。瑞希が私に何も話してくれないなんて、六歳の頃から今まで、全然なかったことだ。学校には来ない、電話やメールも返事がない……日曜も土曜もこうして訪ねた。だけど……インターホン越しにおばさんが言うんだ。悪いけど今は会いたくないらしい、ってな。なっ、なんかしたのはわ、私なのかな。ケンカとかした覚えはないけど、私、き、嫌われちゃったのかな……うぅっ」
途中から声が震えだしたと思ったら、楓奈はいつしか涙目になっていた。
「み、見るな!」
こんな姿を若彦ごときに見せるなど、きっと彼女も本意ではなかっただろう。それでも涙を自制できないほどに心が弱っているのだ。諸方面、まずい事態になりつつある。何しろ涙を零しているのだ、あの鉄人とでもいうべき精強さを持つ、行方楓奈が。若彦の心根に眠る優しさも揺れた。男というのは、こういう状況に弱いのだ。
「行方さん……」
楓奈は袖で目元を拭って、むしゃくしゃするから一発殴らせろ、と涙声で言う。いじらしい強がりだった。だが若彦はキリストではないので、片頬といえどやすやすと差し出せはしない。
けれど言葉をかけることならできる。心の踏み石程度にはなれると良いのだが。
「大丈夫。行方さんは嫌われてなんかないさ。ほら、嫌いじゃないからこそ言えないことっていうのもあるだろうし。女の子だし、悩みの種類も俺たち以上にあるかと思うんだけど」
楓奈はぐすぐす鼻を鳴らしていたが、若彦は敢えて続ける。史織はイイこと言うねーなどと気の抜けた感想を漏らしていた。
「とにかくさ、自分の中だけであれこれ考えてマイナス思考になっちゃって、負のスパイラルに陥るのが一番よくないと思うんだよね。今回に限らずさ」
ふんふんふんと幽霊が頻りに相槌を打つ。スパイラルという単語に反応して回転している。
鬱陶しい。
「そう……だな。でも」
「いや分かってる。だから行方さんだって確かめようとしてたんだよね。けど会えなかった」
「やっ、やっぱり嫌われたんだ! 天野と同類になってしまったんだ! うわああぁ」
絶望の楓奈はヒステリックに髪を掻き毟った。
「同類ってどういう……いやだから違うって! 違わないかもしれないけど違うんだって! 猫なんだ、シュレーディンガーの猫なんだよ。輪田さんに会うまで嫌われてるかどうかは五分五分の確率で重なり合ってる。ひょっとしたら俺が原因である可能性もあるわけで」
言うに事欠いてシュレーディンガーの猫とは。若彦は内心で自嘲した。
「天野……」
我に返った楓奈は、乱れた髪を撫でつけながら若彦を見た。
「お前やっぱり心当たりがあるのか!」
「なんでだよ。ないから殴らないでくださいお願いしますあぁちょっと待って!」
埒があかないなー、と言って、若彦の傍にいた史織がふっと浮き上がった。
「えぇ⁉ 待って、しお……行方さん! と、とにかく行こう! 行ってみよう!」
突然あたふたし始めた若彦に、楓奈は余計な苛立ちを覚える。一方で、無責任な幽霊は着物の裾を振って輪田家に飛んでいく。おい止まってくれ行くな。
「だから、とりあえずもう一回っ……ちょ、確かめに行ってみて、あぁ」
ちょっと待て。勝手に行ってもらうと事態がややこしくなるというのに。
楓奈を宥める一方で、若彦は何度も史織にしかめっ面を向けた。が、肝心の史織はこちらを一顧だにしない。吸い寄せられるように、その姿は輪田家に近付いていく。
「あーもう! 待ってって言ってるでしょ!」
とうとう幽霊は玄関をすり抜けて邸内に消えた。瑞希と史織の急な遭遇は避けたい。
「おいこら天野、お前さっきから誰と話してる?」
若彦は自転車を路肩に置くと、困惑する楓奈を置いて大慌てで門まで走った。
「とにかく訪ねてみるんだ! 夜だし急ごう! ほら行方さんも早く!」
焦りの籠る指先でステンレスカバーのインターホンを押す。
ピン、ポーン。
悠長な音が鳴り終えるか終えないかといった、その時に。
「ギャーーーッ」
遅かった。
「み、瑞希ィィ‼」
屋内からの悲鳴と楓奈の呼び声が、若彦の鼓膜と胃袋に痛烈な一撃。
「今助けるぞ瑞希ィィッ‼」
「わあぁ行方さん冷静に! 柵よじ登らないで!」
スカートの内が覗けそうで止めるに止められない。
「ギャーーーーーッ」
「瑞希ィィィィ‼ うおぉ離せ天野ぉ!」
楓奈は驚異的な身体能力を発揮して柵を越えると、絶叫轟く輪田家の敷地内に侵入してしまった。現実逃避したくてたまらない若彦は、門前で静かに頭を抱えた。
「ああ……どうしていつもこうなんだ」
あの幽霊、帰ったらお仕置きだ。
およそ一分後――。
肩口に悪戯者をくっつけて、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした少女が玄関のドアを開けた。無論楓奈を迎え入れようとしたわけではない。いきなり現れた幽霊から逃げようとしただけだ。
「瑞希! 瑞希いい!」
楓奈は涙声を上げて、虫を捕らえる蛙の舌のような勢いで瑞希に抱き着いた。
「うひゃわあああ‼ ……あれ? えっ楓ちゃん⁉ どうして? 今日も来てくれたの?」
「瑞希無事か⁉ 叫び声が聞こえた! 何があったんだ⁈」
瑞希は見慣れた短めのポニーテールを解いて髪を下ろし、部屋着の上には暖かそうなパーカーを羽織っている。
そして意外にも、彼女は眼鏡をかけていた。クリアレッドの可愛らしいフレームだ。学校ではコンタクトをしていると聞いてはいたが。
――これはこれで。
いやいや。そんなことに萌えている場合ではないのだ。
「うあぁ会いたかったんだぞ瑞希ぃ! わっ、私のこと、嫌いにならないで……ぐすっ」
「楓ちゃん……? 私、楓ちゃん嫌いになんかならないよ」
「だったら、ひぐっ、ど、どうして今まで会ってくれなかったんだよぉ」
若彦は門前に突っ立ったまま、涙ながらの熱い抱擁を呆然と眺めていた。
なんだこの取り残されてる感。
「ごめんね。楓ちゃん、ほんとにごめん。私、色々あって」
「病んでたのか⁉ 病んでたのか瑞希!」
楓奈本人は至って真剣なのだろうが、若彦は言葉選びのセンスに吹き出しそうになっていた。
「それにさっきの叫び声! 怖い目に遭ってないか? 怪我はないか?」
「だ、大丈夫だよぉ。目の前にゴキブリが出てきてびっくりしちゃったの」
「ゴキブリか! そうだよなゴキブリ気持ち悪いもんなぁゴキブリなんて絶滅すれえばいいんだよ! いや私がいつかさせてやる! だから心配しないでいいぞ瑞希!」
ゴキブリとはひどいなーとぼやいた史織に、若彦はとうとう吹き出してしまう。 抱きついたまま離れようとしない楓奈に、瑞希がそろそろ困惑してきた頃、彼女の背後に浮かび上がった史織は何か声をかけると、門の方を指差した。
すると、レンズ越の両眼がぱっと若彦に向けられた。
「天野くん!」
「や、やぁ」
少し驚いた表情で名を呼ばれ、若彦はぎこちなく片手で挨拶した。
ごめんね、今開けるねと言って、瑞希が門まで小走りで寄ってくる。
「あいつはいいよ」
玄関の柱にもたれかかった楓奈は、不機嫌そうに口を尖らせた。逢瀬を邪魔して悪うございました、くらいの皮肉は言ってやりたかったが、引っぱたかれるので止した。
「天野くんも来てくれたなんて……ごめんなさい。心配かけちゃって」
鍵を捻りながら言う瑞希の後ろで、したり顔の史織がサムズアップを見せつけている。
「うちの幽霊がご迷惑をおかけしました……」
「ううん、いいの。久しぶりだからびっくりしちゃったけど、落ち着いたから」
「ちょっと若彦! 私が突破口を開いたようなもんなんだからねー」
「はいはい。それより輪田さん、何かあった? なんて何もないわけないか、ごめん」
見かけより軽やかに門が開かれた。自分から訪ねておきながら、迎えられた若彦はいま何が起こっているか上手く呑み込めなかった。
「……心配しないで。なんでもないの」
冷たくなってきた夕風に靡く髪を押さえ、瑞希は言う。
「よかったらお茶でもどうぞ。クッキーもあるから」
大きく、柔らかいソファ。落ち着いた色調のインテリアと観葉植物が目に優しい。輪田家のリビングは寛ぐには最適の場所であるはずだったが、若彦たちの内心は緊張に戦いでいた。
温かいミルクティーの入ったカップを片手に、向かいに座る瑞希と楓奈の出方を窺う。因みに、もう片方の手は史織の尾を握りしめている。
客人を迎えた瑞希は、もう眼鏡を外し髪を束ねていた。休む前と比べていくらか痩せたようだ。少しではあるが目の下に隈もできている。だが、挙動は至って健康そうに見えた。楓奈はそんな親友に熱烈な視線を送っている。そしてあのな瑞希――と口火を切った。
「天野が邪魔で話しづらいか? 追い出そうか?」
やはり辛辣だ。とことん嫌われていて涙が出そうだ。
そんなこと言っちゃだめだよ、と瑞希もさすがに軽く咎めた。
「わ、私と天野くん、仲悪かったり、トラブルあったわけじゃないから。ね? 楓ちゃんと同じで心配して来てくれたんだから、酷いこと言わないで」
「……わかった」
口ではそう言うものの、顔は全然納得していない。それでも若彦がこの場に居続けられたのは、楓奈の彼に対する不信感より、瑞希と会えた喜びの方が数段上だったからだろう。クッキー食べたいと涎を出す史織は無視した。
「私ね」
問われる前に瑞希は言った。
「風邪こじらせちゃって。ずっと熱でぼーっとしてて、電話にもメールにもあんまし返事できなくて。楓ちゃんが来てくれてたのも知ってたんだけど、感染しちゃいけないと思ったから」
会いたくないってそういう意味か、と楓奈は胸を撫で下ろす。
「早とちりかよ……」
「うるさい!」
「すいませんでした」
楓奈は心底安心した様子だ。
「あれ、でも日下に訊いたら家庭の事情で休みだって……」
「え? あっ、そ、それはね。確かにうちの親は、お付き合いがある人の所へ法事に行ってたけど。でも私は寝込んでて……そのあたり事情がうまく伝わってなかったのかなぁ」
どこか空虚な弁解を聞きながら、若彦は電話台に載った写真立てを見ていた。白砂青松を背景にして、家族旅行の記念写真だろうか。両親らしき人物に挟まれて微笑んでいる、現在より少し幼い瑞希。隣にいる背の高い彼は誰だろう? そういえば兄がいると聞いたような覚えがある。だが今は、瑞希以外の家族はいずれも留守にしているようだ。壁には新しい額が飾られていた。入っているのは感謝状だ。クッキーよこせと喚く史織は無視。
「大変だったんだな瑞希。それなのに私は自分が嫌われたかどうか気にするばかりで……恥ずかしいよ。ごめん」
「ううん。私がちゃんと話すべきだったの。天野くんもわざわざありがとう」
私も来たよーとはしゃぐ史織はやっぱり九割方無視された。一割反応してしまうのが瑞希の臆病さと良心の発露だ。
「いや、俺は別に……誉さんも心配してたよ」
誉由羅の名を出すと、女子二人は揃って意外そうな顔をした。
「お前、由羅と話したのか? 珍しい」
「そっか……由羅ちゃんが。他のみんなにも心配かけたこと、謝らなくちゃ」
「明日は来れそうなのか?」
「えっと、そうだね。もう大丈夫だと思う」
どうも歯切れが悪い。
「いや! やっぱり無理はするな瑞希。辛いならゆっくり休めばいい」
「でも」
「単なる風邪といえどしっかり治さないとな。私にできることがあればなんでも言ってくれればいいからな! あ、授業のノートはしっかりとってるから」
見ている方が恥ずかしくなるほど緩みきった顔で楓奈は言った。
「もう安心しきっちゃってるなー。分かりやすい」
そう言って、史織も苦笑している。
空のカップを受皿に戻した時のかちゃりという音を聞いて、楓奈はさっと若彦の方を向いた。
「帰るか天野!」
「え? もういいの?」
「なに言ってんだ。瑞希は病み上がりなんだぞ。長居は迷惑だ。さあ帰ろう」
やけにはきはき喋り出したなー、と史織が若彦の気持ちを代弁すると、楓奈は両手で膝を叩いてすっくと立ち上がった。若彦は改めてそのプロポーションの良さに感心する。
「じゃあな瑞希。また明日!」
登校しようがするまいが、楓奈は明日も瑞希に会う気満々だった。
上機嫌の彼女は返事も待たず、若彦を置いてそそくさ玄関へと去ってしまった。
外は寒いだろうし、このソファに寝そべりタオルケットでも被ってひと眠りしたいような気分だ。だが、他人の家でそんなわがままも言えない。いや、こんなことを考えたのは、まだ瑞希と同じ空間にいたいからだろうか?
「あーこのソファ寝心地よさそうなのにー。ホントに帰っちゃうの?」
わがままな幽霊の尻尾を引いて、若彦が腰を上げた時のことだ。一瞬、ほんの一瞬だけだったが、瑞希が奇妙なそぶりを見せた。周囲になんの異変も起きていないにも関わらず、耳に手を当て、硬く目を瞑ったのだ。
「輪田さん……?」
「え? な、なに?」
「なにって、頭痛いんじゃ……まだ調子悪いのかな」
「おい天野! 早くしろよ」
既に靴を履いたらしい楓奈が玄関から呼んだ。言う通りにしなければならない気がして、若彦は慌てて瑞希に別れの挨拶をする。
「今行く! ……輪田さん、今日はびっくりさせてごめん。俺も帰るよ。また学校でね」
「うん、またね」
顔にかかった前髪をかき上げた瑞希は、いつもより大人っぽく、儚げに、そしてそこはかとなく恐ろしく映った。彼女の瞳の奥から読み取れる、冥い何かがそう感じさせたのだ。
そうして、若彦は消化不良の想いを抱えたままで輪田家を後にした。
*
幽霊は夜道で淡く発光しながら、自転車を押す若彦の一メートル先で不満げに浮いていた。
「正直言って若彦の鈍感さにはガッカリだよ。クッキーもくれないしー」
「クッキーぐらいでむくれないでください子供じゃないんだから。だいたい史織さんが無茶するからいけないんです。そりゃゴキブリ扱いもされますよ。ゴキブリ幽霊」
「だーかーらー、そういう微妙に的外れなトコ。男の子ってそんなもんなのかなー」
「は?」
発言の意図が読めない。史織は何を批判しているのだろう。
「ミルクティーも欲しかったんですか?」
「ばかばかばか! 違うって言ってるでしょ! 欲しかったけども!」
「どっちなんですか。わけわかんないよ」
「敢えて言わなくちゃダメなのかなー。私じゃなくて、瑞希のこと」
「輪田さん?」
「瑞希、つらそうだった」
いつもより低めの声で史織が言った。
「でも女優だよ。友達の前では精一杯明るく振る舞ってたもんね。だけど隠したキモチの中にある、行き場のない悩みは隠せない。心の窓から覗いてたでしょ」
くるりと振り向いた史織は、指で己の目を差していた。
瞳の奥の冥い何か――。
若彦も確かに感じ取っていたことだ。
今にして思えば、あの瞳の闇には得体の知れない怯えも含まれていたようだ。
「ねぇ、休みの理由がウソだっていうのは若彦も気付いたよね?」
「……不自然だな、とは思いました。でも」
話したくない事情だってあるでしょ、と若彦は言った。
「俺みたいに大して親しくもない奴にはなおさら」
無理に問い質すこともあるまいと考えている。
「まだ本調子じゃなさそうだったし」
「はあぁぁぁぁぁぁぁぁ」
「なんですかそれ」
「溜息だよー。なに遠慮してるわけ? そんな中途半端な踏み込み方でいいの? 女の子の心の隙間を埋めるのが男の役目でしょーが!」
「それは」
痛い所を突かれ、若彦は言い淀んだ。
ふと、先程の楓奈の言葉が甦る。
――大変だったんだな瑞希。それなのに私は自分が嫌われたかどうか気にするばかりで……恥ずかしいよ。
ああ。若彦は額に手を当てて自分を恥じた。俺だって行方さんと同じだった。結局、自分の思いと立場に囚われて右往左往してきただけだ。
「ダメだな、俺は」
本気で接していれば、もっと気持ちを汲み取ってやれたのに。後悔は踵に取りついて、次第に足取りを重くした。このまま素直に帰宅して良いものだろうか。帰路は知れているのに迷子になったように不安だ。
予想以上に若彦が萎れて慌てたか、史織は母親のような優しげな口調になって言った。
「ま、若彦は奥手な方だからね。悩んでる女の子との接し方なんてまだ分からないよね。楓奈たちもついてるわけだし、気にしなくたっていいよ。大丈夫大丈夫」
「史織さん……かえって傷付きます」
「ありゃ、どうも失礼いたしました。あははははっ」
笑う史織に呆れ顔を向けた時、若彦の右太腿に小刻みな振動が伝わってきた。
帰りが遅いのを心配した母か――携帯を出して画面を見れば、そこには〝輪田瑞希〟の名があった。どきりとした。これには史織も唖然としている。
「瑞希じゃない! 早く出なよ」
促されて、緊張に強張る指でアイコンをタップする。
「もしもし。輪田さん?」
「天野くん……!」
縋りついてくるような震えた声と吐息には、涙が混じっているのが明らかだ。
「ごっ、ごめんね……顔合わせたときにはろくに話さないで、別れてすぐまた電話なんて、迷惑だったよね。変だよね。わ、わたしどうしちゃったんだろ。ごめんなさい、切ります」
「待ってよ! 電話かけておいてすぐ切るなんて、それこそ変だ」
瑞希が泣く理由など、若彦にはただ一つしか思いつかない。
「俺に話したいことがあるんでしょ」
電話の向こうで、瑞希は黙って涙を啜りあげた。その息遣いから、いつかの震える胸元が思い出される。
「もう一度行こうか? まだ近いからすぐ着くけど」
「ええと、いや、あの……大丈夫。お母さん、帰ってきてるから」
ためらうだろうなとは思っていた。若彦は自分の中の迷いを断ち切るつもりで言った。
「そう。いいよ、話して。ゆっくりでいい。大丈夫、俺と輪田さんと幽霊だけの秘密だから」
ここでちゃんと聞くよ。優しさを可能な限り声に乗せて送る。
「あの場では言い出せなかった、行方さんには言えないことだね」
それは――。
「こわいはなし、してもいい?」
電話に顔を寄せてきた史織と共に、若彦は瑞希の声に耳を傾けた。
「ああ、いいよ」
「……ありがと。じゃあ、聞いて。でも何から話せばいいんだろう」
心なしか瑞希の呼吸が落ち着いた。
「あったことを順番に教えてくれればいい」
暗い路傍に吹く木枯らしが身に染みた。今日は平年より寒いそうだ。先程のミルクティーと暖かいリビングが恋しくなって首を竦めた。決して寒いとは言わない。言えば瑞希が心配するに決まっている。今の若彦は聞き役に徹することを誓っていた。
*
「……ありがと。じゃあ、聞いて。でも何から話せばいいんだろう」
今しがた帰宅した母とは顔も合わせず、瑞希は自室に逃げ戻っていた。
「あったことを順番に教えてくれればいい」
「……うん」
彼女はベッドの上で胎児のように身を丸め、顔のない聞き手に真相を語り始めた。
始まりは先週の日曜日、八日前の昼過ぎのことだった。
珍しく何の予定も用事もなく、瑞希はこの部屋で背に陽光を浴び、音楽を聴きながら翻訳小説を読み耽っていた。時間はとろとろ心地良く流れ、いつしか穏やかな眠りに入っていた。
「そうしたらね、夢を見たの。すごく怖い夢」
現実の平穏とはうって変わって、その夢は瑞希を苦しめた。酷く恐ろしい夢だったが、記憶は覚醒と共に埋没し、思い出そうとする頃には夢を見ていたかさえ曖昧になっていた。
だが、こうして魘され目覚めた時から、彼女の身体に異変が起こった。
暑くもないのに額には汗が浮かび、動悸は無闇に激しくなって、手足には力が入らなくなった。戸惑っているうちに体温はみるみる上がり、日が暮れる頃には四十度近い高熱を発して身動きもとれなくなった。呼びかけに応じないことを案じた母に発見され、ぐったりしていた瑞希はすぐさま近くの病院まで運ばれた。
三時間経って、体調は嘘のように回復した。点滴が驚くほど効いたのだろうと、帰りの車中で母と笑い合った。医師の勧めもあり、翌日は大事を取って学校を休むことにした。
「それでね、お母さん、私が体調崩したことをお兄ちゃんに報せようとしたんだって」
「お兄さん? って、リビングの写真に写ってた人でいいのかな」
「あ、見てたんだ……。うん、私より五つ上で、名前は勇希」
勇希と瑞希か、なるほどなーと軽い声がした。幽霊の声も電波となって届くようだ。
聞き手は問うた。
「お兄さんはなんて?」
「電話には出なかった。お兄ちゃん、大学で陸上部に入ってて、その日は記録会に出てたんだけど……しばらくしてお母さんの携帯にね、瑞希大変だったんだなってメールが来た。それから、家にいてやりたいけどゼミの研修旅行に行くからって」
「旅行? 急に?」
「急にだよ。変だとは思ったけど、言うの忘れてただけで前から予定されてたんだって。いつ帰るのって尋ねたら、未定だって。それきり返事はなくなっちゃった。それでね」
兄はその日から今日まで、一度も家に帰ってはいないのだ。
詳しい行先も告げず、誰と行くのかも告げず、消えてしまったかのように、勇希は行方知れずとなった。けれども友人などとの遠出は稀なことではなかったので、両親や瑞希も深く追求しようとはしなかった。ただし、幾許かの違和感は誰の心にも痼として残った。
月曜の夜、瑞希は妙な胸騒ぎのために寝付くこともできないで、何度も寝返りを打っては羊を数えていた。翌日の体育について考えたせいで百を超えた羊が散り散りになってしまい、再び一匹目から脳内牧場の柵を跳ばせ始めた時だ。
――瑞希。行くな。
「……声が聞こえた? お兄さんの?」
「聞こえたっていうより頭に響いてきたって感じだった」
いるはずのない兄の声。ぼうと頭の内側に広がった声質自体は聞き慣れたものなのに、どこか無機質な冷徹さを帯びていた。最初は夢だと思った。
飛び起きた瑞希の上半身を照らすのは天井灯の豆電球。
凍りついてしまいそうな心臓に手を当てて深呼吸しながら、瑞希は思った。
「お兄ちゃんに何か、大変なことが起きたのかも」
「えぇ……⁈」
聞き手は――天野若彦は驚きの声を上げた。
「あっ、ごめん。変だよね。やっぱり。これじゃ伝わらないよね」
こんな結論を出した瑞希自身、大いに混乱している。だが断ちがたい血の繋がりからくる直感は覆せない。きっと兄はどうかして命の危機に晒されて、どこか遠くから呼びかけているのだ。そう思ってしまった。
「そうか。それで分かったよ輪田さん。声は今日まで聞こえ続けてたんだね」
聡明な聞き手として、若彦は瑞希の告白を助けた。
「さっき耳を押さえたのは、不意の呼びかけに驚いたからだ」
「お兄ちゃんは、行くなって言ってる」
「学校に? だから今日まで休んでたんだね」
「ううん。分かんない。私、自分でも分かんないよ。お兄ちゃんが言うから行かなかったのか、声が怖くて引きこもってたのか」
――行くな。瑞希。
――外は。危ない。
――いる。来るんだ。
――瑞希。
――恐ろしいものが。
声は明らかに瑞希に呼びかけていた。断続的に、前触れもなく、突然声は聞こえる。父母と食卓を囲んでいる時に、あるいはバスルームで髪を流している時に――。
お兄ちゃんなの? どこにいるの? 何があったの?
何を呼びかけようとも会話は成立しなかった。
「他の家族は声を聞いてないの?」
「私だけみたい」
――この街は。
――狙われてる。
――いつか襲われる。
言葉の魔力とは恐ろしい。こんなこと誰に相談できよう。何度も兄の携帯に電話をかけた。メールも数えきれないほど送った。SNSにもメッセージを書き続けた。反応は一切なく、瑞希は追い詰められた気分になって、結局体調が思わしくないと言って学校を休み続けた。実際また微熱が出て、四日ほどはまともに食事も喉を通らなかった。父も母も、現実的な意味で息子に何かあったとの確信を強めていた。警察に相談に行ったとか聞いたが、それでどうにかなるとは思えなかった。
――行っちゃいけない。
――瑞希。すまない。
――やっとわかったよ。お前のことが。
段々と兄の声は苦しげになっていった。短い一言でさえ発するのが辛そうだった。
――行くな瑞希。どこにも、行くな!
楓奈と若彦が去ろうとした折の言葉だ。
「もう限界なの。私、これ以上嘘をつき続けられない。でも本当のことなんて誰にも言えない! 怖いよ天野くん。私お兄ちゃんの声が怖いの……!」
「輪田さん……」
はっとした。電話の相手は多分、返答に窮している。敢えて無視していた罪悪感が顕在化して瑞希を責めた。彼らにだってどうしようもないことではないか。
「ご、ごめん。天野くんだってこんなの聞かされても困るだけなのに、私、わたし……! もう切るね! 全部忘れて。まだ熱があるから、こんなこと言ってるだけだから。じゃあね!」
独りきりになって、瑞希は涙も止められなかった。
――瑞希。
「お兄ちゃん……どうして?」
*
若彦と史織は話の雲行きが怪しくなるにつれ、険しい表情となって顔を見合わせた。
「怖いよ天野くん。私お兄ちゃんの声が怖いの……!」
「輪田さん……」
「ご、ごめん。天野くんだってこんなの聞かされても困るだけなのに、私、わたし……! もう切るね! 全部忘れて。まだ熱があるから、こんなこと言ってるだけだから。じゃあね!」
「待って輪田さん! 輪田さ――切れてる」
若彦は携帯電話を握った手を下ろし、先程の史織のように長い溜息をついた。
「……俺はダメだ」
「若彦?」
「信じてあげたいのに信じられなかった。この世の中に不思議なことが起こり得るって知ってるのに。だって俺は輪田さんと一緒に妖怪を見てるんだ。今も幽霊に語りかけてるんだ。輪田さんは俺を信じて話してくれたっていうのに、俺は信じなかった! それに気付いたから切ったんだ、頼り甲斐のない奴だって」
瑞希の語った怪異が、空想の奇譚のようにしか聞こえなかった。所詮は他人の幻覚、自分自身の実体験とは現実味が違っていたのだ。かつて妖怪による襲撃を経験しておきながら、また街が襲われるという予言はどうしても受け入れられなかった。
「ずっと今みたいな思いをしてきたんでしょうね。キャンプ場の川で小豆を洗う狐に会ったり、お寺に行ったら変な婆さんに砂をかけられたり、古い木から声が聞こえたり、猫が女の子に変身するところを見たりしても、驚きや不安を呑み込んできたんじゃないか。信じて貰えないなら黙ってた方がマシだって。その生き方でもどうしようもなくなったから俺に相談してきたってのに、俺は……! あぁもう史織さん、叱ってくださいよ。俺は情けない奴だ」
自己嫌悪の重石を背負って失意の沼に飛び込んだ若彦の頭を、史織はぽんぽんと撫でた。
「まーまー。若彦はさ、良くも悪くも常識人なとこあるから、そう思っちゃうのも仕方ないわよ。でも自分のダメなとこ責めてるだけじゃどうにもならないよ。瑞希の力になりたいなら、何ができるか考えようよ」
もし本当に勇希くんに何かあったなら、と幽霊は続けた。
「そういう気配を感じ取れなかった私も同罪だよ。語りかけてくるのは幽霊だったかもしれないのに」
「それって……」
顔を上げた若彦は、淡く優しく光る史織に尋ねてみた。
「声だけの幽霊なんているんですか」
「どうだろうね。どこか離れた場所から声だけを伝えてるとか。私はやったことないけど、想いが強ければできちゃうのかも」
「なぜ離れた場所から? 幽霊なら簡単に家まで帰れるんじゃ」
「うーん……そうだね、姿を現せば話は早いのよね。ごめん若彦、私幽霊だけど幽霊に詳しいわけでもないから分かんない。こんなことなら幽霊大事典みたいなの読んどけばよかったなー」
ディスカッションは早くも暗礁に乗り上げた。その一方で、幽霊大事典というふざけた単語が、若彦にある光景を思い起こさせてくれた。そうだ。
「俺たちだけで悩むことはないですよね」
「どういう意味?」
まあ見ていろとばかりに携帯の画面上に電話帳を開き、速やかに瑞希の名を選び出した。
呼び出し音が一回、二回、三回、四回――。
まだだ。出てくれるまで待ち続ける。
「……もしもし」
ようやく応じた瑞希の声は、先程より更に弱々しくなっていた。憔悴している。
「もしもし」
若彦は意を決して言う。
「俺は輪田さんと一緒に悩むよ」
「あ! 私もね!」
意図を察した史織が口を挟んだ。
「俺には輪田さんの直感を共有できない。だからまず何が起こってるのか把握したい。お兄さんがどういう状況におかれてるのか、流青に何がやって来るのか」
「そうそう。気が楽になるかは分かんないけどさ、瑞希と一緒に受け止めるからねー。だから謎を解き明かそうよっ!」
「天野くん、史織さん……」
瑞希の反応を受けて、若彦は彼女を更なる異界へ誘う。
「それから他にも、あと二人くらいに悩んでもらおうよ。明日も学校休めるかな?」