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鬼の手borrower  作者: 志方正樹
1:地獄封じ編
6/21

第六章・鬼手の借り手《すべてをつなぐてをにぎるもの》

無人の教室に戻ってきた天野若彦は、嶋谷圭祐の机から一冊のノートを抜き出した。借りたなら直接返しに来いよ、とメールのそっけない文面を思い出し、呆れる。

退室しようと思った矢先、控えめな音を立てて戸が開けられた。

「お」

「わ!」

 ポニーテールが揺れた。

「えっあっまま、あまのくん……えっ? なんで⁈」

 若彦の姿を認め無闇におどおどしている女子生徒は、なんと輪田瑞希その人だった。

「輪田さん! ……いや、これ圭祐に貸してたんだ。一旦帰った後で思い出してさ」

 ほら明日課題提出だし、と言い、若彦は古典のノートを見せた。瑞希は目を泳がせながら、私も、と応じて歩み寄ってきた。錆びついたブリキ人形の足取りだ。

「い、委員長に数学のノート貸してて。さっきあっちですれ違ったとき、返すの忘れてたって言うから……私取りに行くからいいよって」

「輪田さんも? なんだよあいつ委員長のクセに……」

 再び机を覗き込んではっとした。これは圭祐の策略だ。以前の何気ないぼやきから、かの友人の灰色の脳細胞は想像力豊かに推理を働かせ、若彦が瑞希と仲良くしたがっていると踏んだようだ。折しも女子剣道部のホープ行方楓奈が試合で公認欠席の今日、圭祐が若彦と瑞希から借り物をして、放課後まで一向に返さないでいた。作為を疑わずにはいられない。勘違いも甚だしい余計なお世話ではあるが――これは(ぎょう)(こう)だ。現に、〝あの事件〟から二五日以上を経て、ようやく対話が叶ったではないか。

「はいこれ」

 目当てのノートを発見して、瑞希にそれを差し出した。が、彼女はあるものを恐れるあまり近寄れないでいる。強張る顔を見て、若彦はすぐ付け足そうとした。

「そんな怖がらなくても、ゆ――」

「こっ怖がってなんかないの! ぜんぜん!」

 怖いのは天野若彦ではなく天野若彦に憑いている女の幽霊なのだが、天野若彦の姿を見ると同時に幽霊に追い回された記憶が喚起され背筋が寒くなるし幽霊がまたも天野若彦の背後からひょっこり顔を出すのではないかと怯えてしまうため客観的には天野若彦を怖がっているようにしか見えないが決して悪感情を抱いてはおらずむしろ謝罪したく思っているくらいなのでどうか気分を害さないでほしい――と伝えたいのに、歯の根が合わずもごもご言うのみだ。説明したところできっと理解もしてもらえない。そんな瑞希に、若彦は笑って言う。

「心配しなくても幽霊はいないよ」

「はぁよかった……」

 安心した。

「ありぇ?」

 何か重大なプロセスを飛ばした気がする。

「いま、幽霊いないって言った?」

「……うん」

「それは幽霊が実在するかどうかのはなしで」

「じゃなくて……輪田さんだけに見えてた幽霊のこと」

 取りあえず平常心にさせられたろうか、と若彦は胸を撫で下ろす。

「あ、天野くん……心が読めるの?」

「なんでだよ」

 天然ぶりに鋭いツッコミが入る。俺にも見えてたんだ、と気を取り直して打ち明けた。

「え、ほんとに⁈」

 心底驚いた様子でずいと近寄る。急速な接近に、若彦は少し緊張し始めていた。

「うん。不本意ながら」

「全然気づかなかった! 幽霊が何してもお構いなしだから、見えてないんだとばかり」

「学校では無視してたんだ。真っ昼間から幽霊が出たとか騒ぐ奴なんて、頭がおかしいと思われるのが関の山だしね……あぁごめん!」

「だよね……。うぅ、浅はかな自分が恥ずかしい」

 冷静な判断に感心して、瑞希は頬に手を当てた。顔が火照っていたのだ。改めて災難に見舞われた同級生を見ると、今度は深々と頭を下げた。

「天野くん、本当にごめんなさい! 私のせいで楓ちゃんに殴られて、クラスの女の子にも白い目で見られたって。ちゃんと説明しようと思ったけど、怖くて言い出せなくて! さ、散々迷惑かけたくせに都合よすぎって怒ると思うけど……」

「あぁもうストップ、頭あげて! いいんだ輪田さん、もう過ぎたことだからさ。確かに行方さんの一撃はこたえたけど、他の女子からの疑いは多分もう解けてるし。だから気にしないで。俺の監督不行届きも原因だしね。俺からも、いつか話そうとは思ってたんだ」

「天野くん……ありがとう。楓ちゃんにも、天野くん怪しくないよってまた話すから」

「うん、頼むよ」

 行方さん、常日頃から俺を怪しい怪しい言ってるんだ――と思い苦笑を禁じ得ない若彦だったが、同時にすっきりと気持ちが晴れてもいた。問題がまた一つ解決したのだ。

 瑞希の方は、他にも幽霊が見える人間がいたと知り、先程から秘かにうきうきしている。

「……あ、あの。天野くんも見えちゃう人だったんだね! だったら、小さい頃キャンプ場の川で(あず)()を洗う狐に会ったり、修学旅行でお寺に行ったら変なお婆さんに砂かけられたり、古い椿(つばき)から話し声が聞こえたり、猫が女の子に変身するところを見たり、くろ――」

「いやいやいや! 幽霊なんて見たの史織さんが初めてで……あ、あの幽霊の名前ね。まぁあの()()と会ったのがきっかけで鬼とかコウモリのお化けなんかにも遭遇したんだけど、俺、本来アンテナの感度はさほど良くないんだ」

「名前まで知ってる⁉ それに鬼⁉ し、史織さんとは、な、なかよしなの?」

「うーん。仲がいいというか、一緒に暮らしてた」

「えーっ‼」

 困り顔で答えた若彦に、瑞希は卒倒しそうになった。幽霊と同棲など、考えただけで血の気が引く。彼は平凡な見かけながら非凡な胆力の持ち主ではないだろうか、と(きょう)()する。

「怖くないの⁉」

「はははは、怖さとは無縁だから。親戚が泊まりに来てるような気分だったね」

「そ、そうなの? 信じられない……でも、もういなくなっちゃったの?」

「あー……うん。なんか、用事ができたとか言ってさ」

 その点については若彦も理解に苦しんでいた。

 史織をメッセンジャーとして数回の打ち合わせを経た上で、九月八日の深夜――正確には九日になってから――作戦は決行された。しかし、若彦は結果の成否をいまだに知らない。翌朝目覚めると、机に〝急用ができたのでしばらく留守にします しおりっち〟という、これまたそっけない置き手紙があるだけで、幽霊は半月以上天野家に帰っていない。岩屋に行こうかとも考えたが、このところ休日も変に忙しく、なかなか機会を作れないでいた。

 秋嘉の心は動いたか、適当に理由をつけ母に作ってもらった弁当は効果があったか。とても気になっている。答え合わせの時は近いというアザミの言葉だけが心の拠り所だ。

「……あの、ど、どうかしたの……かな?」

「えっ? あ、ちょっと考えごと! 怖がらなくていいから!」

 腰が引けている瑞希に言った直後、若彦はえもいわれぬおかしさを覚えて笑いだした。瑞希にとっては意味不明な展開で、更に恐怖と混乱が増す。泣きそうになっている。

「天野くん、なっ何がおかしいの……?」

「あっははは、いや、ごめんごめん。よく変なモノ見てきた割には怖がりなんだなぁって」

「ひどい……怖いものは怖いもん! 慣れたりしないよぉ」

 恥ずかしさとちょっとの反抗心が同居した仕草は、既に多感な青年の心を(とりこ)にしている。いつか圭祐が言っていた、日傘を差して並木道を一緒に歩きたくなる清楚さとか、身を挺して凶弾から庇って死にたくなる可愛さという修辞の意味が、落ちゆく陽と混ざり合って身に染みた。要するに()()(よく)をそそるのだ。そうだ、と思い出す。

「はい、ノート。輪田さんなんで残ってたの? 部活……なんだっけ」

「うん、吹奏楽」

 瑞希はノートを胸に抱いて恥じらった。入学以来、男子とこれほど会話するのは初めてだったのである。優秀な親衛隊員が睨みを利かせ、悪い虫とやらを寄せつけなかったためだ。

「なんの楽器?」

「えっ、あの……フルート、です。中学の頃から続けてて、それで」

「すごいなあ。俺なんて楽譜もまともに読めないから、尊敬しちゃうな。き」

 聴いてみたいな――と言って、若彦はひどく赤面した。これでは口説いているみたいだ、と思った。丸園あおい曰く草食系の若彦は、当然異性と話すことなどあまりなく、どんなふうに話をすればいいのかも知らなかった。瑞希とどうこうなりたいなどとは毛頭考えてはいないのだが。手探りで明後日の方向へ行きつつあるのではないか、と思うと背に汗が滲む。

 若彦の焦燥とは裏腹に、瑞希は彼への認識を改めつつあった。凡庸で淡白な()()めいた同級生だと思ったら、実は気さくで理性的な好青年だ。自分に興味を持っているらしいことが嬉しくて、弾んだ声で答えた。

「文化祭で演奏会があるよ! 今その練習してるの。よかったら……き、聴きにきて」

 ああ。なんだかデートにでも誘っているみたいだ。言った(そば)から恥じらい悶える奥手な少女に、もちろんそんな経験はなく、おつきあいなど自分にはまだ早いとも思っている。若彦と瑞希は、互いに自意識の無駄な躍動に煩悶していた。

「……そっか。そうなんだ。じゃあ、聴きに行こうかな」

「うん……ありがとう」

 二人ともそれだけのことを言うのに、変に勇気を要した。気の利く空は茜色のベールを用意して、青春の淡いときめきを味わう二人の顔を隠してやる。

「文化祭か。あと一ヶ月もないんだよな」

「なんか……早いよね。月日の流れがどんどん早くなってる。大人になるって、こういうことなのかな」

「心理的な時間の長さは年齢に反比例する――ジャネーの法則だっけか。圭祐の受け売りだけどさ。自分だけが進んでく時間に置き去りにされたまま生きてるような気分になることもあるよねって、ははっ、俺なに言ってるんだろ」

 (ひと)()のない夕方の教室は、居残る生徒をナーバスにする魔力がある。

「わ、私もね……そんな感じのこと、思うときあるかも。この間だって、あおいちゃんと花巻(はなまき)くんが付き合い始めたって聞いて……あっ」

 慌てて口を押えたがもう遅い。若彦は瑞希の心境を察して、知ってるよと言い添えた。

「智哉たちはなぜか認めようとしないけど、多分みんなわかってる」

「……バレバレだもんね」

「だね」

「天野くん……には、いるのかな」

「なにが?」

「だから、か……彼女さんとか」

「まさか!」

 若彦は大袈裟なまでに手と首を振って否定した。

「俺が彼女いる顔に見える?」

 これでは向こうだって答えにくい。話題が恋愛事情に移ってしまうと、いよいよ気まずい。もう帰ろうと決めた。

「お、俺そろそろ帰るね」

「あっ、私も、音楽室の片付け手伝わなきゃ」

「じゃ、また――」

「あぁ、待って!」

 瑞希に先んじて教室を出ようとしたが、なぜか呼び止められてしまった。

「え……まだ何か?」

 戸に指をかけたまま、見返って瑞希に尋ねた。ずっと気になってたことがあって、と瑞希は切り出す。

「いい機会だから、教えてほしいなって」

いったい何を訊かれるのかと、若彦が少々身構えていると――。

「天野くんって、どうして若彦っていうの?」

「……名前の由来?」

 瑞希は頷いた。変とは言いたくないが個性的な名だ。どんな意味が籠められているのか、好奇心が頭を(もた)げ、不意に訊いてみたくなったのだった。楓奈が帰ってきたらこんなことも気軽には訊けない。若彦は(とつ)(とつ)と語る。

「十三年前に亡くなった(ひい)()()さんが名付け親なんだ。 ……人間、誰でも歳をとっていくよね。若い間は〝成長する〟っていうけど、だんだん〝老いる〟にすり替わってく。心が年老いてしまうと、やりたいことがあってもデメリットやリスクばかり気にして行動しなくなったり、前へ進むことに対して臆病になる。妥協とか諦めとか、そんな本心を押し殺した無難な生き方つまんないだろ! なんて持論の人だったって。だから、いつまでも若々しい心でいるように、若彦。あぁ、彦は優れた人って意味らしい。まあ変な名前だと思うよね」

 ううん素敵な名前、とすかさずフォローが入った。

「それにね、私と似てるかも。いつも心に瑞々しい希望を――だから瑞希。意味するところは同じじゃないかな」

 瑞希がどんな顔でそう言ったのか、薄闇に遮られて若彦には分からなかった。なるほど()(かれ)、話す相手の顔も判然とせぬ時分だ、得心がいった。

 黄昏。夕暮れ。昼と夜との境目。

境目には怪異が湧く。逢魔時という(かん)(げき)(ひゃく)()を呼び寄せるそうだ。


 べん――と琵琶の音が聞こえた。

「きゃっ! なに⁉」

 ポニーテールが跳ねた。

「天野……くん? いま、変な音したよね……?」

 瑞希が怯えだすと、禍々しい音色がもう一度聞こえた。音に脈打つ怨念が若彦の(ずい)を撫で、総身に(あわ)が生じた。

 殯坊が来た?

 いったい何のために学校へ来るというのだ。

「ど、どこにいるんだ!」

 当てなく声を上げた。返答の代わりか、琵琶がまた鳴った。ひゅう、と風が吹いて――。

 窓をすり抜け、雲のような物体が飛び込んできた!

「わっかひこおぉーっ! にげてにげていますぐにげてえぇーっ‼」

「ぎゃぉわああああ‼ ゆうれええっ‼」

 驚異的瞬発力をもって瑞希が飛び退()き、若彦に抱きついた。たわわに実った果実が押し当てられたが、感触を楽しむ余裕など消し飛んでいた。薄白い塊は叫びながら、(きり)()み飛行で教室を激しく旋回している。水槽を引っかき回され大暴れする金魚のようだ。聞き馴染みがありながら既に懐かしくなりつつあったその声は、幽霊少女史織のものだった。

「史織さん!」

「若彦ぉぉおお! はやく逃げてヤツが来るからもう来てるから! に、げ、てっ‼」

「いやァあああああああッ‼」

「うぉーっ瑞希は今日も叫び声がすばらしいぃーっ!」

「んあ゙あ゙あ゙あ゙あっ‼ おばけイヤな゙のぉ゙おぉっ‼」

 瑞希の悲鳴が人間の言語体系を超越し始めた。鼻水も垂れそうだし、これはまずい。

 判断を迷っていると、窓ガラスが一斉に割れた――いや、外から叩き割られた!

(おん)()()()ッ! (ごん)()(じょう)()ッ‼ 見つけたぞ見つけたぞ見つけたぞおォッ‼」

 窓の外に、(りゅう)(てい)の琵琶を抱え(あぐ)()をかいた黒い妖怪が、寄り集まった無数の女首に乗って浮上した。じゃらじゃらと琵琶をかき鳴らしている。次に窓枠の下から、横一列に並んだ生首の群れが飛び出した。狂わされた女の亡霊は、一様に異常な笑みを浮かべている。

 ぷつり。何かの糸が切れる幻視。若彦の腕の中で、ぐにゃりと瑞希が脱力する。突然の常軌を逸した展開、恐怖が過ぎて絶叫及ばず気絶したのだ。

「嘘だろ⁈ 輪田さん! おい気絶してる場合じゃないって!」

 二度三度揺さぶっても頬をぺちぺち叩いても、瑞希は起きない。完全無防備。

若彦は喜色満面の殯坊を()めつけた。

「死ねいッ!」

 妖怪と琵琶が叫喚する。もう、なるようになれ。若彦は力任せに戸を開け、瑞希を背負ってがむしゃらに走り出した。行き先など知ったことか。妖怪から逃れなければ!

「若彦、来てるよ!」

 後ろから史織の声が聞こえたが、敢えて若彦は振り向かなかった。気配で分かる。

 校内に侵入した(あま)()の生首が、凶器の髪を振り乱し追っている!

「くそッ! こっち来るなあっ!」

 髪を脚とし、ずるずる這い寄るを(とう)(そく)(るい)を蹴散らして走る。ここは四階、(あやま)てばすぐ追い詰められてしまう。今度の相手は地獄でなく地上の妖怪、失敗は再生なき死に直結する。

「逃げるのか⁉ 逃げられるのか若造ッ! ぐわははははは‼」

「ふざけんな!」

 生首の()輿(こし)で迫る殯坊の挑発が、若彦の闘争心を煽った。前方にも後方にも溢れ、廊下を埋め尽くさんとしている首どもを遠慮なく踏みつけ、勢いに任せて階段を滑り降りた。三階にはまだ幾らか生徒が残っていた。パチンコ玉のごとくざらざらなだれくる生首という、ホラー映画も裸足で逃げ出す光景が、生徒たちの精神を一瞬で潰した。

「みんな逃げてくれ化物だ!」

 若彦の訴えはかれらの耳に届くはずもなかった。強靭かつしなやかな髪の鞭に弾き倒され、上級生らは残酷にも横転した。打撃音と生徒の悲鳴に、背中の瑞希が目を覚ます。

「うぅ、なにこ――い、いっやあぁああああっ‼ ふぁああー‼」

「輪田さん! 落ち着け、暴れないで!」

 錯乱状態の瑞希を必死で抑え、懸命に走って二階にまで降りた。

 これ以上の犠牲者は出せない。人通りが少ないルートの選択を強いられて、髪に上履きを剥ぎ取られた足は(とく)(べつ)(とう)の方向に動いた。だが、これは致命的なミスである。若彦は今が放課後であるとすっかり失念していた。昼休みなどは無人に近くなる特別棟も、放課後は多くの文化系部活動が使用する。帰宅部と揶揄される無所属者の悲哀――気付いても時既に遅く、首の軍勢によって退路は絶たれていた。更に悪いことには、若彦の体力にも限界が訪れたのである。人ひとり背負っての全力疾走は、火事場の馬鹿力を加味しても楽なものではなかった。余計()()(くそ)になって開け放たれた教室に飛び入る。

 ――美術室!

 この世の終わりのように泣き喚くトランス状態の女子を背負った男が乱入し、それを数十は下らない首のボールが弾んで追ってくる。一歩間違えばスラップスティック・コメディだが、紙一重で絶望的な恐怖が持ち込まれた美術室は、息つく暇もなく修羅場と化した。

「やめろおぉっ! 手を出すな!」

 乱舞する女首の怪に呼びかけは無意味だった。今の彼女を動かすのは、ただあの欲望の調べだけなのだ。首はけらけら笑いながら、室内にいた五人の美術部員全員を鞭で(こん)(とう)させた。画材が散乱し、アグリッパの(せっ)(こう)像が床に落ち真っ二つに割れた。水入れが宙を舞い、降り注いだ色水は負われた瑞希の背をぐっしょり濡らした。透けた下着は、薄桃色だった。

 ゆらゆら伸びてくる髪に絡め取られまいと後退したため、若彦たちは美術室の中心に追いやられる形となった。首に囲まれた三人は、まるで(デッ)(サン)のモデルにでも選ばれたように、情念を孕む視線を注がれている。

「はっははははは……もう観念したのか、若造!」

 御輿から降りた殯坊が、余裕(しゃく)(しゃく)の面構えでやって来た。怨霊がざっと動いて道を空ける。

「助けなど来ないと心得ろッ!」

 これだけの騒ぎが起きているのだから、教師が束になり駆けつけて当然だ。人間による救援がないということが、若彦たちが日常から隔離されてしまった事実を雄弁に語っていた。

 背後で怯える瑞希に意識が回って、若彦は自分の手が、彼女の濡れた(でん)()を鷲掴みしていることに気がついた。死に物狂いで逃げていたのだから、きっと許してくれるだろう。そっと腰を屈めると、降りるように促した。その間も、殯坊からは視線を外さない。

「そうか。邪魔されたのが気に食わなかったんだな、殯坊! だから俺を殺しに来た」

「俺の名を知っていたのか」

 殯坊が歯を剥き出して笑った。

「だがその答えで(まる)はやれん、落第だッ! 若造、俺の復讐の相手はな、秋嘉とお前と」

 その幽霊と小娘だッ! 黒い妖怪は瑞希らを指差してがなり立てた。なんと理不尽な――。

「おい! 史織さんはまだしも、この()になんの関わりがあるんだよ!」

「まだしもって……そうよ! 瑞希は関係ナシでしょこの仕返しバカ!」

 史織も激しい見幕で殯坊を責めた。瑞希は妖怪たちの異様な姿に絶句している。

「ふッ、ふぐ……ぐわはははッ! 関わりがないものか、しらばッくれるなら言ってやる。俺は知っておるのだぞ小娘ぇッ‼」

「ひィっ」

 殯坊は撥を握りしめて三人ににじり寄った。首も断面を床に擦りつけ、じわりと前進する。

「この小娘はな……俺が無様に逃げるさまを、家の二階から悠々と眺めておったッ! 蔑むように、(きたな)いものを見るようにッ! 屈辱だ、惨めだあぁーッ‼」

 妖怪は憎悪の牙を突き立てるように言い放った。両の(まな)()は瑞希を捉えて放さない。

「……は?」

 バカじゃないのか――若彦は呆れ返った。金縛りに遭って泣きじゃくる瑞希の肩を掴んで自分と向き合わせ、殯坊を視界から外し確認する。

「あの妖怪、見たことあったの?」

「あのっ、あのね……前に、そ、空が燃えて、そのあと、お化けが走ってて……」

 大方の経緯は察した。彼女はあの夜、琵琶を壊され(とん)(そう)する殯坊の姿を目撃していたのだ。常人には見えない史織が見えるぐらいなのだから、地獄の裂け目や妖怪の行動を感知していてもまったく不自然ではない。盲点だった。が。

「逆恨みじゃないか!」

 見下げ果てた(しょう)()の持ち主だ。過去を知り、少しでも同情したのが愚かだった。

 瑞希が妖怪の前に出て、何を思ったか深々と頭を下げた。

「ご、ごめんなさい! 私、蔑むとか……そんなつもりじゃなかったんです」

「問答無用ッ!」

 糾弾の琵琶と同時に、一体の首が瑞希に髪の鞭を打ち入れようとした。

「やめろ!」

 (しゅん)(こく)、瑞希を突き飛ばし、若彦は己の背を盾にして(べん)()を受けた。

「ああぁーっ‼」

 思った通りだ。これは――痛い!

 手加減なしだ。生首の群れの中へスライディングした若彦は、まともに立ち上がれもしないまま、苦痛に声を上げる。背中を横一文字の灼熱感と(とう)(つう)が襲っていた。天野くん、若彦――二人の少女が呼びかけ、駆け寄った。呼吸が整わず、返事もできない。

「俺に盾突く愚かな人間め(くび)り殺してやる。幽霊はもう一度死にたくなるまで滅多打ちだ!」

 殯坊が恨みがましい濁声を発する。首の環視に晒され、若彦は考えた。史織が騒いでいる。

「変態に滅多打ち⁉ 嫌よ絶対イヤ!」

「黙れッ! お喋りはここまで――」

「待ってくれ殯坊、俺と取引だ!」

 びゅう、びゅおぅ。吹きつけた風が、窓の隙間に潜り込んで唸った。(もが)()(ぶえ)だ。

「取引ィ……? 面白い命乞いをする奴だ」

「乗るか乗らないかだけ答えろよ」

 気遣う瑞希と史織を押し退けて起きた。恐れを見透かされないよう、強気に構える。

「この二人を解放するんだ。代わりに俺を三人分いたぶって殺せ」

「そんなのだめ!」

 史織がすぐさま叫んで止めようとした。天野くんやめて、と瑞希も涙ながらに訴える。対照的に、殯坊は顔をくしゃくしゃにして笑った。

「ぐわッはははははッ! なかなか肝の据わった若造だッ! いいぞ、(おとこ)()に免じて時をくれてやる。三十! 俺が三十数える間に、娘二人はどこへなりとも逃げるがいい!」

 いくぞ、一――殯坊が絃を一打ちする。カウントは間髪入れず始まってしまった。

「若彦ぉ!」

 抱き縋ろうとする史織を手で制し、若彦はわざと冷徹なトーンで言う。

「時間がない。輪田さん連れて逃げてください」

 二! 琵琶が鳴る。

「でも!」

「このままじゃみんな死ぬ」

 三! (ギャラ)(リー)たる生首が足元で嘲笑する。

「私死なないもん! だから私が代わりに!」

「だめだ」

 四! 逃げる時間が削られていく!

「そんなことさせられない。文句言わないで!」

「やだよ……やだよぉ」

 五! 史織の涙は見たくなかったが、仕方ない。

「史織さん! あなたが輪田さんを守るんだ。輪田さんも、もう少し我慢して逃げて」

「天野くん……あまのくん!」

「若彦!」

 六! 若彦だってこのまま命をくれてやるつもりはない。

「いいから行って。行けよ、走れ‼」

 七! 瑞希と史織が、やっと手を取り合った。

「若彦……幽霊なんかになっちゃ、ダメなんだから!」

 八! 二人が走り出した。

 九! 史織が戸をすり抜けた。瑞希は手を引かれて戸に衝突する。何してるんだ。

 十! ひとまず安心だ。今度は自分の身を案じ、脂汗がわっと出た。

 十一! 若彦は袖の内側に隠し持つ、細身の(スクレ)(イパー)を握った。転んだ時に拾ったものだ。

 (わる)()()きかも知れないが、()(しゅう)する首に捕えられさえしなければ、勝機はある。

 カウントアップは無慈悲に続いた。十五、十六、十七――。数え上げられる時間は粘度を増して纏わりつき、無限にも思える(いと)わしさを与えた。直立不動で死に怯える若彦の姿を観賞するため、殯坊は悪趣味にも計数を()らす。

 二一、二二、二三。

 じっと琵琶だけを見て逆転のを好機を待った。

 二七、二八、二九!

「さあぁぁあんじゅぅぅぅうッ‼」

 今だ!

若彦はスクレイパーの(せん)(たん)を、(あい)(こく)する琵琶に突き出した。あと一歩進めば絃を切断できると思った瞬間――。

 ぺん。軽やかな中音ひとつ。刃先に首が湧いた。画材が女の眉間にさくりと刺さり、赤黒い血が()(りょう)を伝った。上唇に行き着いた滴を舐め、女は(にこ)()と笑いかけた。

 殯坊は手を叩いて浅ましく笑った。徹底して若彦を辱めようとしている。鋼の(へら)を突き立てたまま、首は天井まで浮き上がった。

「あ……」

 終わった。絶望の暗雲に眼前が覆い尽くされた。円月が狂喜に輝く。

「同じ手を二度も喰うか愚か者ぉーッ!」

 さあ、(うたげ)の始まりだッ! 殯坊が咆哮した時、外から飛来した(ダー)(クグ)(レー)(やじり)が、美術室の窓を粉砕した。(ガラ)()(つぶて)を伴って、鏃――薙刀を担いだ地獄封じの秋嘉は、真っ黒い妖怪の頭部に鋭い飛び蹴りを叩き入れた。

「ごァっ秋嘉ぁッ⁈」

 ()(たお)されて()()く殯坊を無視して、秋嘉は若彦の襟首を掴み引っ張った。

「逃げるんだ!」

 秋嘉の後を追って、割れた窓から黒い(カイト)が飛び来た。凧は、琵琶を抱えて起き上がろうとする殯坊の顔面に貼りついて、目鼻口を一挙に塞いだ。飛倉だ!

「この()(ぶすま)がッ!」

 殯坊は飛倉を乱暴に引き剥がし、絵画の乾燥棚に投げつけると周囲を見回した。既に怨敵二人は失せている。血走った眼が飛び出るまで(りき)み、額の流血もお構いなしに撥を振るった。

「追え女首ッ! 絞め殺せ突き殺せ(なぶ)り殺せえええぇーッ‼」


 薙刀を担いだ秋嘉は、若彦と足並み揃えて廊下を駆け抜けた。

「来てくれたんだな、秋嘉!」

 (こん)(こん)と湧く勇気に、若彦の声も弾んだ。

「話は後だ。(グラ)(ウン)()へ案内してくれ、決着をつける!」

 髪が二人の足元に追撃をかける。また生首の大群が来た!

 ここで諦めてたまるか。若彦の脚は、決して速度を落とさなかった。



     *



 ポーニーテールが急停止した。

「瑞希っ! なにやってるの!」

 人の生気が隠れ、廃墟の装いとなった(げん)(きょう)の校舎。瑞希は西棟一階の職員室前で立ち止まり、握った幽霊の手を逆に強い力で引っ張り寄せた。

「わ! わたしっ、やっぱり天野くんを置いてはいけません!」

「瑞希……! でも、私たちじゃどうにもできないよ」

 幽霊でさえ弱気になる窮状に、瑞希は震えた。その(しん)(せん)が彼女の記憶領域の片隅を刺激して、ある(イメ)(ージ)を想起させた。

 これはいったい誰の笑顔だ? 沈んでいた記憶が、なぜ今になって浮上したのか。

「だから! もう逃げるしかないの、わかって!」

 ポートレート? ロケットペンダント? いや違う、あれは。

 笑顔、黒髪、楕円形。モザイク文字列ネックレス。どこで見た。何を知った。

 思い出せ!

「瑞希!」

 取り乱した幽霊が手を引く。幽霊が――。

「そうかっ!」

「ひゃい⁉」

「ししし、しぉ……史織さん!」

「どしたの、瑞希……?」

 やっと幽霊の名を呼べた。ぽかんと口を開けた史織に、瑞希は高鳴る胸を押さえて告げた。

「私、あの(ひと)知ってる!」



     *



「僕はここで殯坊を迎え撃つ! 君は下がってろ!」

 不思議にも運動部員ただ一人いない運動場。ここは最早、切り取られた荒野の決闘場だ。(タン)鹿(ブル)(ウィ)(ード)の生首が回転する。中央まで走り来た秋嘉は、薙刀を構えて振り返った。若彦は()けつ(まろ)びつ、肘を擦り剥き砂にまみれて体育倉庫まで走り、雑草繁る裏手に身を隠す。

 校舎から通じるコンクリートの階段を、無数の女首が転げ落ちてきた。首は運動場に侵入すると、一糸乱れず整列して次なる指示を待った。

「ああぁいかあぁぁぁあッ‼」

 再編成した首の御輿に乗り、殯坊が空に上って叫んだ。御輿は地上約五メートルの所で静止し、秋嘉の手出しを拒絶する。獣人は(しん)()も露わに膨れた頭をふるふる揺らし、(てき)(がい)(しん)(たぎ)らせて琵琶を見せつけた。

「お前が悠長なことをしておる間に、この通り琵琶は直したわッ!」

「君の(スロー)(リー)さが幸いして、僕も武器を新調できた」

 涼しい顔で秋嘉が応じると、殯坊は側頭部を掻き(むし)って(かん)(しゃく)を起こした。

 薄闇の中にあってなお(しゃく)(ぜん)たる存在感の暗灰色。毅然たる瞳。(さん)(ぜん)たる魂の秋嘉は、かつての同朋に刃を向けて宣言した。

「殯坊! 僕は冥府からの(パーミッ)(ション)を得た地獄封じ、鬼の手ボロワーだ! かつて世界の破壊を企て、裁きの場から逃亡した君を、今ここで捕らえる!」

「黙れ閻魔の犬ッ! 俺と争う気がないと吐かしたはどの口だ」

(プラ)(イオ)()(ティ)が変わったんだ。僕以外を傷つける君を見過ごせはしない!」

 毛を逆立てて殯坊が(なじ)る。

「勝手なものだなァァァッ‼ 表向き()(よく)(てん)(たん)な面をしておった癖に、結局は情に(ほだ)されたのか! 人間に味方をしてもらえて嬉しかったか? 百年の孤独が癒されたか。愚か者、あの若造はお前の本性を知らんのだ。数えきれぬほどの仲間を裏切ったお前の残忍さを!」

 勝手なのはお前だ――壁にもたれかかった若彦は、肩で息をしながら悪態をついた。

「確固たる意志もない(おお)(うつ)()がッ! 死のなき国を創ることに下らぬ疑いを抱き、挙句血迷って全てを台無しにしたッ! 数多の同志の(ふん)(れい)努力を踏み(にじ)ってお前が得たのはなんだ? こんなつまらん、腐って病んで醜い世界を(じん)()(らい)(ざい)守る苦役がッ! お前の幸福なのかッ⁉ ()いた娘の腕を切り落とし道具として使うのが、それほど心地良いのか秋嘉ッ!」

 聞き捨てならない暴言だった。若彦は疲弊し、感覚もない足で倉庫内へ向かう。

「俺は昔の俺ではない。復讐鬼だ! 閻羅人に追われるうち理想は棄てた。残ったのは怨みだけ。お前は死ねばどうなる、また閻魔様の特別扱いで生き返るのか、あぁ?」

「チャンスは二度もない」

「はッ‼ ならば殺す! 殺してやる。ただ殺すだけではない。親愛の情を抱く若造も、纏めて穢い肉の(こま)()れにして、お前が守ったこの世に撒き散らしてやる、どうだッ!」

 悲愴な沈黙。そして秋嘉は口を開いた。

「無駄口を叩くな。かかってくるがいい」

「そうやって……そうやって悲劇の英雄ぶるところが、腹の底から気に食わんわぁッ‼」

 やれえぇッ――最終決戦の火蓋が切って落とされた!

 今まで以上に狂暴な動きで、女の首が次々と襲い掛かってくる。髪を鞭として回転しながら飛び来る者もあれば、逆立てた髪の束を(ランス)(トラ)(イデ)(ント)として振る者もある。正確無比の薙刀捌(さば)きで、秋嘉は続々と強襲する敵を倒した。だが連戦の疲れか、以前より動きは些か鈍重だ。

 若彦も倉庫の金属バットで加勢した。秋嘉を狙わんとする首を、フルスイングで一体ずつ叩きのめす。人の頭部を殴打するのは実に恐ろしく、今更ながら戦いの過酷さに身震いがした。

 秋嘉は浮上している首を虚空の踏み石とし、敵の大将目指して駆け上がった。陣形が変わる前に首から首へと飛び移り、御輿の殯坊に当身を食らわせた。秋嘉と殯坊は共に地面へ落下する。琵琶の音がやんだために、首どももぽろぽろ空から落ちた。

 殯坊は琵琶も手放し、落下の衝撃に身悶えしていた。秋嘉も薙刀を取り落して這いつくばっていたが、懐から(ぬき)()の短刀を出して、逆手に握ると(かたわ)らの琵琶を狙った。

「させるかぁッ!」

 (ふくら)(はぎ)に殯坊の爪が突き刺さった。妖怪は脚の肉を裂いて秋嘉を引き倒し、そのまま地を這い(もつ)れ合う。肉弾戦の途中、秋嘉の短刀が殯坊の手の甲を貫通した。殯坊はもう片方で土を握り、苦し紛れに秋嘉の目に()り込んだ。共に苦しみの声を上げて間合いを取る。

 若彦がバットを叩きつけに行くより先に、殯坊は琵琶を奪い返して胸に抱き込む。

 引き抜いた短刀を若彦めがけ投げつけると、再び撥を手にして胡坐をかく。

 死ね――幾度となく吐いた(じゅ)()の言葉を、妖怪がもう一度発したときだった。

「待ちなさァーい!」

「観念せよ(ぎゃく)(ぞく)め!」

「とっとと(ばく)に就け!」

 出来損ないの(やま)(いも)みたいな(こん)(ぼう)を手にした三麻呂が、(ほこ)(まさかり)を担ぐ十数の()()()を引き連れ、校門から勇ましく走ってきた。閻魔王庁よりの援軍だ!

「邪魔者は(みなごろし)だッ!」

 首の怪と鬼たちが激突する。もうここは運動場でも決闘場でもない、戦場だ。

 若彦は獄卒の強さに目を見張った。鍛え抜かれた筋肉の鬼人は、敵に傷を負わされることを恐れない。得物を振るって相手を狩ることにだけ、ぎらぎらと燃える喜びを感じている。首は急速に駆逐されていったが、殯坊の怨恨が尽きないため、依然増殖は止まらない。

「お――おおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉッ‼」

 怒号は感情がメーターを振り切った音であり、警告音でもあった。

校庭の土が大きく隆起する。更に殯坊の周囲が、地下世界から何本もの槍で突いたように盛り上がり、円錐形の(せん)(とう)がいくつも現れた。さながら()()のコーンだ。

「どういうことだ……⁉」

 さすがの秋嘉も動揺を隠せなかった。暴れる首を避けて薙刀を掴み、次なる動きに備える。

 (コー)()の先端が一斉に破れて、中から大きな鳥たちが現れた!

 鋼の爪と嘴、(おこ)る瞳、羽毛の間からも炎が漏れ出す()(ぎょう)(からす)だ。怪鳥が飛び立った後の円錐からは、バーナーのように炎が噴射されている。これは――地獄だ! 秋嘉が驚愕する。

「イレギュラーすぎる!」

 地獄封じは言っていた。あの世とこの世は、何らかの要素をトリガーとしてリンクする。

 だとすれば、今日この地獄を呼び寄せたのは、殯坊の激烈極まる怒りと憎しみだ。

「地獄が俺に味方したッ! 燃えよッ! 焦がせッ! おおおおおッ‼」

 異郷の地に召喚された烏は、目に映る者全てに襲いかかった。秋嘉も首も、仲間であるはずの馬頭鬼たちにも容赦なく爪と嘴を立て、眼や肉を(ついば)んだ。もう人間の戦えるレベルではない。若彦は襲いくる怪鳥を叩き伏せ、体育倉庫側へ走った。戦線離脱するよりない。

「薊手! (てつ)()を押し戻せ!」

 秋嘉の眼が輝き、卍崩しの袋から鬼の手が急発進。左右それぞれ烏を捕えては、皮膚が焼け爛れるのも構わず円錐の頂点に押し入れる。

 乱闘は更に加速した。

 美術室にて息を吹き返した飛倉が舞い上がり、狼のように遠吠えをした。不気味にして厳かな声に呼び寄せられたのは、空を埋め尽くす膨大な数の(こう)(もり)(むささび)(ももん)(がぁ)。妖獣は飛倉の指揮のもと、大軍勢で烏と女首に組み付いて墜落させていった。

 若彦は体育再び倉庫の陰に身を潜め、自分を狙う敵だけに応戦していた。バットはもうぼこぼこで、手首も多大な負荷のため激痛が走っていた。

 そんな中ふと朝礼台を見やると、あの貒までがやって来て参戦しているのが窺えた。渡螺山にいたときとはまるで違った鋭い目つきをして、鼻先に飛んできた蝙蝠に息を吹きつけている。すると蝙蝠は弾丸のような速度で一直線に射出され、首や烏をたった一匹で撃墜した。吐息が与えた力であるのは明白だ。

 ()(でっ)(ぽう)かッ――殯坊と高佐麻呂が同時に声を張った。

 ヘルタースケルターは収拾の気配がない。嘴が秋嘉の肩口を切り裂き、髪の鞭が頬を打つ。次いで髪の拳が鳩尾を打つ。嘴がコートを裂く。薙刀は手から弾き飛ばされ、秋嘉は今回もまた武器を失った。足を引いて倒され、地面を引きずり回される。笑う首たちが群がり、俯せの秋嘉を取り押さえる。我慢できず助けに走ろうとした若彦も、頭突きを食らってあえなく沈んだ。腹にボウリング球をぶつけられたような鈍い衝撃だ。

 乱戦を掻い潜り、秋嘉は敵将殯坊の前まで連れ出された。耳元に妖しい笑いをかけられ、グロッキーになった秋嘉の頭を、殯坊が踏みつけた。食い込む爪は頬の皮膚を破り、美少年の顔を血で汚す。(コント)(ロール)を失った鬼の手が、無機物のように砂上に転がる。殯坊は巻き舌で言う。

(しょう)(ろう)(びょう)()(りん)(でん)して際なく(さん)(がい)(ごく)(ばく)は一つとして願うべきものなし。秋嘉! なぜ頑なに死を守るッ⁉ この(じょく)()を見ろ。死肉だけでなく世の全てが腐り落ちる様を! 死に怯えて利を(むさぼ)り他を害する地上の()()()()(もう)(じゃ)を! ()()の闇に覆い尽くされ何もかもが偽りに塗れ、痛み苦しみに蝕まれておる! この世で堕地獄あの世で堕地獄。救いがどこにある!」

 地に伏す秋嘉は、それでも調子を乱さぬ声で答えた。

「救いはないかもね。でも殯坊、僕は……あの頃の僕らは明らかに検討不足だったと思う。死さえなければ救われるとは、実に(シンプ)(リステ)(ィック)な発想だ」

「ほざけッ! お前の行いは意味を成さんぞ、守ったとて人の世は滅ぶ! 開化を目指さぬは即ち全ての世を地獄にすること。人も獣も死に絶え滅ぶ日が()ようぞッ!」

「君たちが、いや僕たちが滅ぼす予定だった」

「新しい世を切り開こうとしたのだ! この世はいずれ自滅するッ!」

(カタ)(スト)(ロフ)の回避は、この世だけに生きる者たちの仕事だ。この世の(ことわり)に従って成さねばならない! 理に外れた禍は僕が封じる。なお滅びゆくなら、それもまた道と知れ、殯坊!」

 これほど言っても分からんかッと猛り狂って、殯坊は秋嘉の頭を蹴り飛ばした。

「き、君は……真正のサディストだな」

「人間は()()だ。死ぬ者はみな大馬鹿者だッ! ……俺は、お前を()いておったに」

 心底愛想が尽きた。仰向けになった秋嘉に、生首の槍部隊が狙いをつける。

 そのとき。

「いい加減にしなさいよこのバカぁ!」

 運動場に面した東棟三階の窓が開けられて、瑞希と史織が顔を出した。パソコン室だ。

「にぇ……ぁ……か⁉」

 逃げたんじゃなかったのか⁉ と言いたかったが、若彦の枯れた喉は発声を拒絶した。起死回生の策を期待して、親愛なる幽霊の姿に祈る。

「幽霊! 口を挟むなッ!」

「あんたじゃないわよタコ! そのバカ女に言ってんの!」

 聞こえてるんでしょこっち向きなさいよ――史織の呼びかけは、校庭に(ひし)めく女首に向けられたものだった。殯坊が呆気にとられている間に、秋嘉は身を引きずって離れていく。

「ムシするなコラー! あんたねー、さっきから見てりゃモグラ坊主にいいように踊らされてばっかで、恥ずかしくなんないの? 髪の毛ぶん回してバカみたいじゃない!」

 最後に残った烏が矢のように飛んだ。瑞希の心臓を狙った嘴を、飛倉が身を挺して止める。()(かい)()んず(ほぐ)れつ花壇へ墜落した。史織は血を吐くような必死の呼びかけを繰り返す。

「こんなのに好き勝手使われっ放しで悔しくないの? あんた自身の怨みはどこ行ったのよ! なんのために化けて出たのか、ちゃんと思い出しなさいよぉ‼」

 首の亡霊は艶かしい微笑を崩さない。だが驚くべきことに、複数の彼女は、一斉に向きを変えて史織に注目した。殯坊の指示ではない。つまり、これは。

「い、いつまでもニヤニヤするな‼ なんにもおかしくないんでしょ、本当は琵琶みたいに泣いてるんじゃないの、こんなことしたくないって叫んでるんじゃないの⁉」

 女から表情までが消えた。獄卒らも戦いを忘れ、校舎の少女に注目した。苛立った殯坊は琵琶を弾き鳴らす。窓辺に新たな首が湧いて、髪で史織を張り倒した。横にいた瑞希も驚いて転び、校庭の面々の視界から消える。

「あるんでしょ……ほんとの怨念が! 死んでも死にきれない想いが!」

 窓枠を掴んで起き上がった史織は、やはり無表情な間近の首をきっと見据えて言い放つ。

「忘れてなんかないはず!」

 琵琶が鳴る。髪が撓う。史織が転ぶ。

 それでも、起き上がる。訴える!

 そして、邪悪な琵琶を浄化するように透き通った音色が、暗い校舎から奏でられた。

 フルートだ。

 瑞希がフルートを吹いている。無心でショパンの『別れの曲』を――。

「戦いなさいよ! あんたを縛るもん全部とっ‼」

 目尻に光る涙は、痛みのためばかりではないだろう。若彦は史織の手に握られた紙に気付いた。何かが(プリ)(ント)されている。

「明日が三回忌! 自分を取り戻して!」

 叫びよ、どうか怨霊の心に届いてくれ!

 史織は紙を広げ、哀れな霊に突きつけた。

 そこには、明るく笑う生前の彼女がいた。

 とどめに史織が、彼女の名を告げる――。

 だが、またも先程の(てつ)()が飛翔して、油断していた若彦の顔面に真っ向から激突した。頭部が西(すい)()のように砕けて、少年は怨霊の名を聞き取れず即死した。


 あらゆる音が消えた。


「今だ薊手! 傷を縫いとめ現世を繋げッ!」

 薙刀を捨て、地獄封じが高らかに指令を飛ばす。

 再着火。紅の閃光を噴き上げ、鬼の手が地面すれすれで風を切って唸る!

 蝙蝠が、獄卒が、地獄の烏を噴火口へ()じ入れる。針は数々の円錐を貫き、光の糸で口を縛り上げていった。地獄のバーナーは華麗な(はや)(わざ)で消滅し、地面は平らになり、焼け死んだ蝙蝠たちと首なし屍体の若彦が、ここで見事に蘇生した! 残るは首と殯坊だ。

「ぐおおおおッ‼ 俺に従え、女首!」

 回復する世界の中で、殯坊は撥を絃に押し付ける。

 撥は、真っ二つに割れて飛んだ。

 絃が――髪が鋼鉄のように堅く張りつめ、妖怪の奏でる手を拒んだのだ。

 史織の呼びかけが功を奏した。遂に女の怨霊が、自分を取り戻すため殯坊に背いたのだ。

()()()れめッ!」

 撥を失い、殯坊は力ずくで絃を掻き毟った。満身の力を籠めても絃はびくともせず、爪は折れ、指先からは血が散った。

「問答無用、お前は、俺の、道具だああああッ‼」

 殯坊の左手は、毛髪の絃との熾烈な争いに敗れた。指は残らず切断されてぱらぱら落ちた。だが、その代償のために絃はばらばらに震えだし、複数音程の絶叫を響かせた。

 それはもう、音楽の体をなしてはいなかった。

 飛び散るように(りん)()大の女首が無数に湧き出し、髪を振り乱して秋嘉の方を向いた。これまでとは打って変わって、苦悶の表情を浮かべている。殯坊が操る、五欲の不協和音に打ち()とうとしているのだ。集まった誰もが戦うべき相手は、今やこの黒い妖怪のみだった。

 林檎たちは殯坊と秋嘉の間に寄り集まり、個々の境を失くして、象より巨大な一個の(ひと)(がしら)へと姿を変えた。怨念の集合体、従順な武器としては破綻間際の最終形態だ。後ろでは殯坊が狂った()(ほう)(ノイ)()を響かせている。

 大首はどす黒い(けつ)(るい)を流し、重低音の悲鳴を上げた。()(なまぐさ)い息が吐き出される。

その子を解放してあげて――史織が秋嘉に懇願する。

 秋嘉は。

「これが最期だ。秋嘉を食い殺せッ‼」

 秋嘉は、砂塵を巻き上げ一直線に疾走した。

 右手をコートに差し入れる。取り出したのは、一撃必殺の(ふく)(じゅう)(しん)(せい)(はつ)拳銃。前回のものより大きく、銃口も増えている。

(おん)(えん)()()()()()

 真言を呟き、(トリ)(ガー)を引く!

 閃光。銃身が張り裂け、複数の弾丸が目も眩む電光を帯びて(はし)る!

 破壊の稲妻が、大首の真暗な口に飛び入った。

 炸裂‼

 背丈の倍はあろうかという大首が()ぜ砕けた。

 衝撃波。耳を(つんざ)く大音響。

 赤い烈風が、肉片の幻と熱砂を巻いて吹き荒れる。

 女首の(かけ)()が炎に包まれ、弾け飛び、瞬時に燃え尽きた。圧倒的火力。

 残るは黒幕。

 殯坊が()える。琵琶に指なき拳を叩きつける。

 秋嘉は(グリ)(ップ)を投げ捨てた。左手をコートに入れる。

 引き出したのは新たな銃。狙いを定める、(しゅ)()の迷いもなく!

(ごう)()!」

 再び銃が火を噴き、残光鮮やかに翔ぶ弾丸。

 衝突。

 爆砕‼

 琵琶が断末魔を上げた。木片が、髪が、血が骨が皮が、欲望が燃えてゆく。

「ぐぎゃあああぁぁーッ‼」

 衝撃をまともに受け、殯坊は体育倉庫の壁まで吹っ飛んだ。

 ぼきりと背骨の折れる音がして――。

 地獄封じと復讐鬼の勝敗は決した。

 歯向かう余力もなく、焦げた衣と煙に包まれた殯坊。

 倉庫の壁に(もた)れて座り、もう動かない。


 ――うれしや。

 ――うらめしや。

 煙とも影ともつかないものが、誰にも知られず()(むらさき)の空へ立ち(のぼ)った。


 獄卒と貒が駆け寄り、殯坊を包囲する。遅れて秋嘉が歩み寄ってくると、三麻呂が道を空け、殯坊との対面を許した。(つく)(ぼう)を持つ馬頭鬼が遠慮がちに近づく若彦に目を留めた。獄卒は彼を戦友と認め、黙って腕をぐいと引くと、己の横に立たせて成り行きを見届けさせた。

 ぐったりした殯坊は、正面に立った秋嘉を上目遣いで見ていた。

「……二丁拳銃など、俺は聞いておらん」

 暗灰色のコートが、透明な風に膨らんだ。

「スマートなやり方ではなかったね。切羽詰まっていて、攻略法も浮かばなかったんだ」

 秋嘉は、またも涼しげに答える。眼差しには勝者の傲慢も敗者への(けい)()もなかった。

「殺せ」

 夢も復讐心も砕かれて、殯坊は投げやりに言い捨てた。

「僕はもう丸腰だ」

「嘘だ、まだ鬼の手がある! その手で、俺の頸をへし折れッ」

 卍崩しの袋を差した殯坊の右手に、指はなかった。

「憎まず、殺さず、(ゆる)す――この鬼の手は、命を奪う道具じゃない」

 妖怪の手がぱたりと落ちた。殯坊は半目になって溜息をつく。

「正義の味方気取りか……ほとほと呆れたわ」

 最後の一言は、ほんの少しだけ嬉しそうだった。結局は殯坊も解放されたのだ。

 獄卒たちに重い鎖をかけられ、殯坊は火の車で閻魔の庁へ連行される運びとなった。かつて打倒閻魔を企てたこと、今日までの復讐で迷える魂を(しいた)げたこと、二つの罪で裁かれる。

 去り際、槌麻呂は若彦と秋嘉に手を振り()()(たい)(しょう)し、高佐麻呂は長身を折って一礼した。戦い疲れて眠る貒をおんぶした中知麻呂は、得意顔でこう言った。

「お嬢様方が上でお待ちかねだぜ。早く行ってやんな」



     *



 室内の蛍光灯は消されたままだった。点けようとも思わなかった。

「若彦!」

 史織がひしと抱きつく。枕を受け止めたようだ。ちょっと重くなっただろうか? そんなわけはないか。

「天野くん……生きてて、生きててよかったぁ」

 腰を抜かし、壁際にへたりこんでいた瑞希が泣き声を出した。いじらしいものだ。

 追随してパソコン室に入ってきた秋嘉は、若彦の胸板に頬擦りしている史織に言った。

「よく死霊の正体を突き止めたね」

「あっ秋嘉! 瑞希が見つけてくれたんだよ!」

「ひぐっ」

 瑞希はびくりと身を縮めた。怖がることないよと若彦が言う。

「秋嘉っていうんだ。見てたよね? 俺たちを助けて戦ってた」

「あ、あいかさん?」

「呼び捨てで構わない。君は、どうやら随分と(けん)()(さい)()けているようだ。それに」

 いい演奏だった。

 秋嘉は物柔らかに言った。若彦はごく自然に瑞希の手を取って立ち上がらせる。スカートの乱れを直した瑞希は、秋嘉の疑問を察し、問われる前に真相を語った。

「私、あの頭だけの人……どこかで見た覚えがあったんです。でも直接会った記憶なんてなくて、なんだろうって考えたら……あれでした」

 秋嘉は史織から例の紙を受け取った。それは行方不明になった女子大生の家族が作成した、情報提供を求めるビラだった。生気に満ちた笑顔――この利発そうな女性が、あの奇怪な怨霊に化けたのか。信じ難いことだ。彼女が消息を絶ったという日付を見て、二人は史織が言ったことの意味を汲んだ。瑞希が補足する。

「少し前、偶然ネットで情報を求める記事を見てたんです。これ、今も出回ってます。だから……家族の(かた)はきっと、この人がどうなってるのか、まだ知りません」

 (あん)(たん)とした(もや)が心に湧いた。

「連絡……するべきかな」

「その必要はないだろう」

 秋嘉が言った。

「彼女はもう解放された。真相は現実の事件に回帰し、時を待たずして明るみに出る。(てん)(もう)(かい)(かい)()にして漏らさず、罰を受けるべき者は、いずれ必ず」

 唐突に瑞希が進み出て、深々とお辞儀をした。

「天野くん秋嘉さんしし史織さんっ! 助けてくれてありがとうございましたっ!」

「おぉう、苦しゅうないぞ瑞希!」

「ひょああ!」

「へっへへへ、よいではないかよいではないか!」

「いひえぇえ!」

 史織が瑞希にじゃれついた。暗がりでそんな(きょう)(せい)を出すのはいかがなものか。

「あまのくぅん、たすけてよぉ……」

「害はないから大丈夫だよ」

 幽霊に抱きつかれ涙目の瑞希に、若彦は笑って言う。

「……噛まない?」

「犬じゃないんだから」

 きぃ、と窓辺で声がした。サッシに留まった傷だらけの飛倉が、物欲しそうに瑞希を見ている。瑞希は恐る恐る飛倉に触れ、頭を優しく撫でてやった。

「こうもりさんも、ありがと」

 浮気者の野衾は満足げに喉をごろごろ鳴らすと、破れた翼で窓から飛び立ち、蝙蝠たちと合流した。浮気者め。

「アザミさんに言いつけてやる」

 聞こえないように若彦は呟いた。すぐ暗闇に四散してしまったかれらは、もうどこにいるのか曖昧だ。

「僕は謝らなければ」

 秋嘉は瑞希と若彦に言った。

「大切な(まな)()を壊してしまった。僕には弁償できないが――」

「いや、いいんだ! それより本題に入ろう」

 待ちに待った答え合わせだ。結果はどうであれ、秋嘉の真心を受け止めよう。

「あぁ……君、やっぱり変だよ」

「変?」

「だって、これではまるで」

 (ラブ)(レター)じゃないか――秋嘉はコートの内ポケットから、一枚の便(びん)(せん)を出した。


 〝 秋嘉

    君のことを考えると夜も眠れない

    どうしたって君を忘れられない 君をもっと知りたい

    秋嘉 もう一度たのむ どうか本当の心を教えてくれ

                              天野若彦 〟


「食べ物で釣った上にこれだ。君もひどい策を(ろう)するね。言葉を失うほど」

 おいしかったよ。

「新しい光が見えた」

 秋嘉はそう言った後、きっと顔を引き締めた。

「君の想いはアザミからも聞いた。いいかい、僕はこれからも地獄を封じる日々を送り、時には今日のように不毛な戦いを繰り返すだろう。人間世界の感覚からすれば、恐ろしく、醜く、凄惨で、残虐だ」

 若彦は頷いた。少女らも声に耳を傾けている。

「僕と関わるというのは、知らない方が幸せだった景色を知ってしまう(リス)()を伴う行為だよ。そして何かを語ることは、誰かの記憶に僕を刻むことだ。鋭利な刃が相手の心を傷つけるケースだってある。隠されていた(クライ)(シス)を知って、君は耐えられるか?」

 それでも僕を、友だと言ってくれるか。

 表情を崩さず問うても、不安な心は透けて見えた。

 若彦はじっとり汗ばむ握り拳をほどいた。答えは決まっている。

「地獄がなんだ。トラウマもトラブルも構うもんか。そんなの君の存在を忘れ去ってしまうのに比べたら、タンスに小指をぶつけた程度だ。秋嘉、俺の心は決まってる。受け止める覚悟をしたんだ。あとは、秋嘉の覚悟だけ」

「……言ってくれるじゃないか」

 秋嘉が、手を差し伸べた。

「よろしく、若彦」

「よろしく、秋嘉」

 二人は固い握手を交わした。

 秋嘉の手は陶器のように冷たかった。だが心は――言うまでもない。

 横では二人を真似て、史織と瑞希が手を取り合った。

 にやりと笑って若彦は言う。

「やっと名前呼んでくれたな。秋嘉、また一緒にご飯でも食べよう」

「……その誘惑には勝てそうもない」

 手を放すと、秋嘉は照れ隠しでそっぽを向いた。もう限界だ。若彦は声を上げて笑った。

 すると秋嘉も同じように、声を上げて笑いだした。年相応の飾り気ない笑顔、とても良い笑顔ではないか。地獄封じの中の五雲秋嘉が、この時完全に甦った。

 ぶつっ。祝福するように、穏やかな旋律がスピーカーから流れる。

 ドヴォルザーク交響曲第九番『新世界より』第二楽章。

「下校時間だ」

「では、僕も行くとしよう」

「帰るのか?」

「僕は()()(シネ)。帰る場所なんてない。近く、遥か北に現れる裂け目を封じに行くのさ」

「そっか……」

 ――遠き山に日は落ちて。

 ――星は空を散りばめぬ。

 あぁ、と思い出したように秋嘉は付け加える。

「史織さん、長い間の見張り役ご苦労さま。今度若彦と岩屋へ行くことがあったら、アザミにお礼を言っておいてくれ。飛倉たちが協力してくれたのは、(ひとえ)に彼女のお蔭だ。それと僕からの伝言を――いつか必ず、鬼の手に頼らず地獄を封じる方法を見つけ出す、と。僕は借り手だから、返す義務を負ってる」

 秋嘉、と呼ぶ。若彦も訊きたいことを一つ思い出した。

「最後に教えて。君は……男なのか、女なのか」

 男の子だったの、と瑞希が驚く。秋嘉は背中越しにくすくす笑って、言った。

「そんなに(インポー)(タント)かな? どっちでもないよ」

 そうか。秋嘉が言うなら、それで充分だ。

 過ぎ行く香りはフローラル、(アン)(ドロ)(ギュ)(ヌス)の美少年は、これ以上の追及を拒んでいた。

「秋嘉! 気をつけて行けよ。俺は()()にいるから」

「また会おう」

 秋嘉は小さく手を振って、パソコン室を後にした。

 こつ、こつ、こつ。硬い靴音はすぐ消えた。


 現実に引き戻された流青高校には、いつしか人の気配が戻っていた。

 若彦と瑞希はパソコン室の窓から、最前までの戦いの場を見下ろした。電灯に照らされる校庭には、髪や武器によって抉られた跡がいくつも残っていた。下校する生徒の中には異変に気付いて驚く者もいれば、女首に襲われ気絶していた者たちもいた。

「よかった。みんな平気そう」

「殯坊の奴、手加減してたのかもね」

 一応の分別はあったのだろうか。

 瑞希はほっと胸を撫で下ろした。各教室の惨状もだが、悪戯だ犯罪だと騒がれるのは精々二日か三日だろう。何しろ犯人は異界に潜める妖怪たち、嘘と(まこと)の間に遊ぶ奴等の仕業は、今の世では記憶の外へ追いやられてしまうのだ。

 若彦は(いたわ)りの言葉をかける。

「あんなに怖がってたのに、戻ってきてくれて本当にありがとう。輪田さんの勇気が俺たちとあの幽霊を救ったんだ、きっと」

「天野くんが、か、体を張ってくれたから……私もがんばれた」

 か細い声で瑞希が答えた。

「いやー、おふたりさんっ!」

「きゃ!」

 二人の間に幽霊が割って入った。やけに嬉しそうだ。

「二人だけのヒミツができたじゃないのっ! 青春だねぇ」

 幽霊越しに二人の目が合う。

「俺たちお化けに襲われました、なんて……」

 瑞希がはにかんだ。

「うん……誰にも言えないね」

 なんだ、なんだこれ、な――。

 なんだこの、(みなぎ)ってくる感情は!

 何かに落ちる感覚を得て、若彦と瑞希は息を呑んだ。

「じゃ、俺、もう帰るから!」

「あ……! 待って!」

 いたたまれず立ち去ろうとした若彦を、瑞希が呼び止めた。

「い、いっ、一緒にかえろ」

 ひとりじゃこわいから。

 信じられない誘いだった。しかも()じらいつつ言うのだから、たまらない。承諾一択。

「えと、あの……校門で待ってて。カバン取ってくる!」

 駆けだした若彦の背中には、彼の勇敢さを示す勲章があった。

「優しいね瑞希。あんな破けたワイシャツで独り帰るのは、ちょっと恥ずかしいもん」

 私も生きてたら――瑞希と同じ(うそ)(つき)は、()()(いろ)の人魂になって窓の外へ飛んだ。

「史織さん?」

「んじゃ、あとは若い二人でよろしくやって!」

 蛍火が消えるように、ぱっと人魂はいなくなった。

 友達になれるだろうか? 幽霊や、天野若彦と。

 きっとなれる。

 彼らをもっと深く知りたいという瑞々しい希望が、彼女の行く道を照らしていた。


 心を弾ませ、若彦は走る。

 ――いざや楽し夢を見ん。

 ――夢を見ん。

 曲が終わり、全ては幻想の彼方へ遠ざかった。

 だが不思議が終わったわけではない。

 そして、もう忘れはしない。

 だから――。

 瑞希が平常心でいてくれるなら、帰りは新しい友について語ろう。

 そう思った。

 


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