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鬼の手borrower  作者: 志方正樹
1:地獄封じ編
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第五章・大飯の喰い手《いのちをうるおしみたすもの》

「あー、あの辺が燃えたらしいな」

 圭祐がいきなりそんなことを言ったので、若彦はどきりとした。

「燃えた?」

「火事だよ火事。今朝あの辺りの家から火が出たんだと」

 西棟屋上。柵の向こうに広がる景色は、いつもと変わりない。

「半焼程度だけど、二階に赤ん坊が取り残されてたらしくてよ。事故渋滞で消防車の到着は遅れるし、まぁ絶体絶命だわな。そこに偶然ジョギング中の大学生が通りかかったんだとか。で、勇敢な大学生氏は危険を顧みず炎を潜り、見事に赤ん坊を救出したってわけ。ニュースに飢えたローカル局が早速取材に行ったらしいぜ。感謝状が出るとかどうとかって」

「すごいなあ」

 素直に感心した。人ひとり救ったのだから、こうして称賛され感謝され、記憶に刻まれるものだ。つまり、秋嘉も(たた)えられて然るべきなのだ。重なるイメージは白湖で見た星。確かに輝いているのに、ここからは観測できない。隠れた英雄は今、どこで何をしているだろう?

「おい、美味そうな弁当持ったままボーっとすんな。俺の満腹中枢が混乱する」

 そういえば昼食の最中だった。今日の主菜は豚肉の梅しそ巻きだ。

「……ほしい?」

「上目遣いで甘美な誘惑をするな若彦よ。いただきます!」

 圭祐は大抵、食欲には従順である。ほくほく顔でやっぱ美味いなあと喜んだ。

()()()さん調理師免許でも持ってんのか?」

 違うし名前で呼ぶな、と返す。

 どんな話題になっても、気に懸るのは秋嘉のことだった。友達になると宣言したものの、一体どうすれば、あの頑なな少年と打ち解けられるだろうか。

「また上の空。お前最近変だぞ? 瑞希ちゃんに嫌われたのがよっぽど堪えたか」

「な、何を根も葉もないことを……輪田さんに嫌われてるかは未確定だろ」

「なめちゃんには確実に嫌われてるってか。へへっ、だから話しかけないのか?」

「しばらく近寄らないことにしたんだ、丸園さんのアドバイスに従ってね」

 はあぁ、と圭祐はわざとらしく溜息をついた。

「そうだよあおいだチクショー」

「どうかした?」

「衝撃の事実な。あいつ(とも)()に惚れてやがる」

「は⁈ 嘘?」

「嘘なもんかよ。一昨日お前が来なかったから、俺と智也と()(もと)のアホで集まってエビカツバーガー食ってたんだよ。土曜のバイトのコが可愛いくってさ。まぁ」

 そこでの雑談でな――圭祐は苦虫を噛み潰したような顔になった。

「丸園がやたら話しかけてくるのは(ぬぁに)か理由があるのかナァ――なんて吐かしやがったぜあの鈍感バカ。詳しく聞いてみりゃ、どう考えてもあおいからのアプローチじゃねーか」

(ぼく)(とつ)なところに惹かれたのかなあ」

「けっ、なにが朴訥だよ。あおいも見る目がねぇやなぁ。中学三年間、俺みたいな男前と同じクラスだったってのに。根元のクッソくだらねえアドバイスのお蔭さまで近い内に恋はめでたく成就して、智也はあおいと一緒に大人の階段を登っちまうこったろうさ。お、俺は智也が」

 あのカラダを自由にできると思うと胸糞悪くて仕方がねえ――と、やっかみ半分に凄まじく下品な発言をした後、圭祐はがっくり(うな)()れ舌打ちした。若彦はそれを鼻で笑う。

「悲観しちまうぜ。せっかく美女揃いのクラスにいるってのに、どんどん他の男どもに取られていってんだぞ! 千穂も(りつ)()ちゃんも(ぬく)()さんも、遂にあおいまで陥落だ……」

「元気出せよ。圭祐にも出会いがないとは限らないじゃないか」

「高校卒業まで童貞だったら、俺お前と付き合うわ」

「気味悪いこと言うなよ……」

 平然としているようで、若彦も多少は動揺していた。一人の友人が、なんだか遠い所へ行ってしまったように思えたからだ。恋愛と無縁な環境でも年頃でも、決してない。

「若彦はどうなんだよ。気になる女子とかいねーの? そういや、お前とはこんな話しねーよな、あんまし。女っ気なさすぎるとあらぬ疑惑がかかるぜ」

「俺は……うん、恋愛なんて小っ恥ずかしいもんじゃないんだけどさ、気になってる奴はいるんだ。もっと仲良くなりたいなって思ってる」

 圭祐は失望したように口をあんぐり開けた。

「お前まで裏切るか」

「だから違うって。恋人じゃなくて友達になりたいだけなんだ。でも方法が分からない」

「友達に? ああ、そういうことか」

 圭祐は独り納得してにたにた笑ったが、見当外れなのは言うまでもない。

「難しく考えるこたぁない。俺との出会いを思い出せや。メシ食って話せば打ち解ける!」

「メシ食って話す、か」

 口の中に、しそと梅の香りがさっと広がって満ちた。



     *



「ネタバレなんてひどいですよ……」

 と、携帯を構えながら言う。例によって、本当は隣を飛ぶ幽霊に話しかけているのだが。

「えへへー。つい言いたくなっちゃう悲しい(さが)なんだよねー」

 照れることではない。校門で若彦を出迎えた史織は帰路に同道し、今日一日の行動を()()(さい)穿(うが)って報告したのである。まだ蝶が飛んでいて面白かったとか、花壇のコスモスが綺麗で和んだとか、車内でキスするカップルを覗いて呆れていたとか、そこまではいい。史織は次に、今週公開が始まったばかりの映画を観てきたと語った。人気シリーズの最終作だが、まず間違いなく無賃鑑賞(ただみ)だ。あろうことか簡潔かつ要点を押さえた国語的に優秀なあらすじ紹介までしてくれた。そのせいで若彦は早々に映画の結末を知ってしまい、ひどくがっかりした。

 割と楽しみにしていたのに。

「っていうか若彦さ、これ違う道じゃない?」

「そうですよ。毎日同じじゃなくてもいいでしょ」

 今日は公園を通り抜けて帰ろうと思っていた。ただなんとなく、そうしたくなる(そぞ)ろな気分だったのである。

 (たつ)()(いけ)公園は名前の通り、中心部に小さな池を有するだだっ広い公園だ。池の他には樹木と芝生か石畳。以前は申し訳程度にあった遊具の類も、今や完全に撤去されてしまった。とはいえ地域住民の憩いの場であることに変わりはなく、今日も小学生や幼い子供連れの母親、散歩に出てきた愛犬家、(イー)(ゼル)を立て平凡な景色を描く老爺などが集まって、秋空のもと平和で安らかな空気感を醸し出していた。行く先には(せき)(れい)が尾を振っている。

「ほれほれ早く出さんか!」

「腹減った!」

「ええいやかましいぞ!」

 自転車を押す若彦を追い越し、騒がしい三人の男が、どたどたベンチまで駆けて行った。

 ()()()を着た三人組は、痩せぎすの白髪と、髭面の肥満と、あともうひとり。

「あーっ!」

 聞こえないはずの叫びに反応して、三人は若彦の方を見た。一斉におぉ、と声を上げる。

「三麻呂さん……どうしてここに。そしてなぜツナギ?」

「や、丁度あるばいとを終えたところでして。公園で軽く食事でも、と思いましてな」

 高佐麻呂は手に提げたビニール袋から、たこ焼きのパックを出して仲間に渡した。

 さっそく槌麻呂が蓋を開けた。漂うソースの匂いが、若彦の腹の虫まで起こそうとする。

「儂ら、飯代は真面目に働いて稼ぐようにしておるのだ。でないと閻魔様に許してもらえんからな。はふ、これは美味い。外はカリカリ中はトロリ、美味いタコ焼きの手本のようだ!」

「いいなー、私も欲しいなー」

「やらんぞ! (ちゅう)麻呂から貰え」

 槌麻呂は寄ってくる史織からたこ焼きを遠ざけた。大人げない。やや不機嫌になって中知麻呂が言う。

「チューマロって誰だよ馬鹿野郎。ほら史織、一コだけ。あーん」

「あーん……ん! ホントだおいしい。もいっこ!」

「やらねえっつの」

 若彦も自転車を停めて一休みすることにした。

「高佐麻呂さん、これ。ありがとうございました」

 鞄から出して渡したのは、服を失ったとき貸してもらった風呂敷だ。いつ会っても返せるよう、常に持ち歩いていたのである。たこ焼きを頬張って、高佐麻呂は風呂敷を受け取った。槌麻呂などはもう食べ終わって、今度は見ているだけで胃もたれしそうなサイズの大福餅を取り出している。中知麻呂は今川焼だ。

 公園の入り口付近には、色褪せた木のベンチが横並びに三つ。三麻呂はなぜか一つのベンチに押し合って腰かけている。若彦はその隣に行き、端に座る高佐麻呂と向き合った。

「殯坊はどうなったんですか?」

「おや。あの化物の名をご存知ですか……とすれば、姫様に会いに行かれましたな?」

 若彦が頷くと、インテリの鬼は残念ながら逃げられましたと言った。中知麻呂が繋ぐ。

「腹が減って追跡は中止したんだ。わははは」

「役立たずの没個性麻呂め」

「言いにくいだろいい加減にしろ!」

 高佐麻呂は雑音を無視して続ける。

「野干の死骸を地獄まで届けたあと、我らも殯坊の(ねぐら)を探したのです。しかし居場所はさっぱり分かりませんでしたな。まだ(いず)()かで復讐を狙っておることでしょう」

 執念深そうな顔してたもんねー、と史織が中傷する。しかしですな、と鬼は言う。

「奴も秋嘉殿の実力は十分承知しております。琵琶が直るまでは手出しをせんでしょう」

 無数の女の首を操っていた、泣き顔を模したような琵琶だ。殯坊の素性を知っていたアザミでも、あのグロテスクな楽器のことは知らなかった。

「あれから私は考えておりました。あの琵琶で、なぜ生首の化物を操ることができたのか」

 長話が始まるぞぉと中知麻呂が茶化した。大福をも平らげた槌麻呂は、ボールで遊ぶ(おや)()を見てへにゃへにゃ笑い、子供はかわええのうなどと言っている。

「こら。ふやけた(つら)をすると変質者に間違われるからよせ」

 事実ではあるが酷い言いようだ。さて――と高佐麻呂は話を戻す。

「あの琵琶ですが。まず()()(ぼく)(ぼく)という妖怪を彷彿とさせるような、人の顔のごとき装飾がまず印象に残りますな。そして(げん)です。かの琵琶は五絃琵琶でした」

「へぇ。よくそんな細かいとこまで見てましたね」

「観察してしまう性分なのですなぁ。ともかく、絃の本数にも意味があるはずと考えるわけです――()(かい)()(いん)()(けい)()(すい)()(とく)()()()(りん)()(げん)()(がく)()(しょう)()(じょう)()(うん)

 どれもしっくりきませんでしたな、と高佐麻呂は首を捻る。若彦には追えない思考だ。

「思案の末、私はあの絃が意味するところは()(よく)ではないかとの考えに行き着きました」

「ごよく? 五つの、欲ですか」

「いかにも。(しき)(しょう)(こう)()(そく)あるいは(ざい)(よく)(しき)(よく)(おん)(じき)(よく)(みょう)(よく)(すい)(みん)(よく)の五つ、人間が持つ欲望の代表ですな。思うに、絃の一本一本がそれぞれ欲を司っており、振動を用いて刺激するのでしょう。即ち死人の欲望を操ることで、霊をこの世に縛りつけておるのです。事実、若彦殿が絃を切ったと同時に、首どもは姿を消しました」

「あの女の生首が人間? 幽霊ですか?」

 史織を横目で見て尋ねた。高佐麻呂は深く頷いてはいと答えた。

「相当の(しゅう)(じゃく)を持った悪霊と思われますな。何者かに強い怨みの念を抱いてこの世に留まっておったのでしょうが、それを殯坊に利用されてしまった。しかし、あれほどの力を持つ怨霊です。殯坊ごときにやすやす操られる(たま)ではないでしょう」

 では殯坊はいかにして女の霊を操るのか? 高佐麻呂が高らかに問いかけた。

「興味が湧きませんかな?」

 わかないわかないと中知麻呂が言った。どこからかやって来た野良猫を撫でている。

「えぇ……まあ、あるかな」

 若彦が答えると、長身の鬼の目はいっそう輝いた。そこに史織が口を挟む。

「殯坊自体はショボい妖怪で、琵琶が凄いだけじゃないのー?」

「ご名答です史織殿! 私もそう睨んでおります。素材が肝要なのでしょうな。はっきりとは見えませなんだが、あの絃……おそらく髪でできております」

「かみ?」

 若彦と史織が訊き返す。史織は己の髪を指でくるくる巻いて(もてあそ)びながら、再度問うた。

「かみって、この髪?」

「はい。その髪です。へあーですな。諺に女の髪は()()をも繋ぐとありますが――」

「ちぎれちゃうよ!」

「ですからものの喩えですな。こりゃ、まあ女というのはどんな男でも惹きつける、魔性の魅力を持っておるということです。で、(なに)(ゆえ)その喩えに髪を用いるのか。別に美しいのは髪だけではない、目だって口元だってうなじだって構わんでしょう」

 うなじ美人たまらんなぁと言って、槌麻呂が野卑な笑いを発した。髭が大福の粉まみれだ。高佐麻呂はそんな反応にうんざりした様子で続ける。

「何が言いたいかというとですな、髪は特別なものであったということです。殊更女の髪は、他の部位にはない霊力めいたものが宿っておると考えられていた節があります」

「髪は女の命っていうもんねー。あっ!」

 史織が何かに気付いた。高佐麻呂の推理に追いついたらしいが、若彦たちは取り残されたままだ。中知麻呂と槌麻呂は難しいだのわけわからんだのと不平を垂れている。

「髪は女の命、霊性を秘めておるともいえましょう。殯坊はどこぞで不幸な女の屍を見つけ、頂戴した髪を加工し絃とした。場合によっては骨や皮まで琵琶の素材としたやも知れません。命ともいえる髪を縛りつけた琵琶で奏でる音色を以てすれば、あるいは霊を操ることが可能なのかと。音楽を用いて霊や鬼神の心を慰めるは古来の伝統。この作法を逆用して、怨霊を好き放題勝手放題に操っておると考えれば()(てん)がいきます」

 若彦は今回もまた、語られたことを自分の言葉で捉え直す作業に入った。

「まず……どこかに化けて出たくなるほどの怨みを抱いて死んだ、女の人がいた。殯坊はその人の死体で琵琶を作り、怨霊を捕まえて、五欲の力で道具にした。それで、憎い相手に向けられるべき怨念や、怨霊自身の欲望は、みんな秋嘉に対する復讐に向けられてしまった。本来は全く無関係であるはずなのに」

 なるほどッと言って槌麻呂が膝をはたいた。

「そりゃいかん。道理に反したあくどい行いだ!」

「だな。あの女は殯坊のせいで、自分の恨みを晴らせないでいるんだ。同情しちまうぜ」

 中知麻呂が真面目な口調で言った。高佐麻呂は渋い顔で告げる。

(ずる)(がしこ)い殯坊のことです。まだ琵琶の材料を蓄えておるでしょう。あれを完全に壊してしまわねば、女が呪縛から解き放たれることもありますまい。哀れなものですな」

「ひどい……!」

 史織は静かに怒りを燃やしていた。同じ幽霊として許せないのだろう。

「でも、どこの誰なんだろねー、あの幽霊。みんな知らないの? 有名人だったりしない?」

 さあと若彦は答え、槌麻呂と中知麻呂も知らんと言う。そして。

「ああーっ! 槌麻呂、私の分の大福を残しておけと言っただろう!」

 高佐麻呂が絶望の籠った悲鳴を上げた。

「すまん! うまかった」

「ああああぁ……!」

 三麻呂はホントに食いしん坊だねー、と史織がからかった。彼女は餓死したのではないし、これ以上死ぬこともないから、空腹を感じない。食べ物はあくまで嗜好品だと以前聞いた。

「人間の作るもんはうまいんだよなぁ」

 中知麻呂が言った。

「なに、お化けのごはんってマズいの? だからあんたたち人間にご馳走してもらってたの?」

「我らの食事がまずいのではありません。人間の食事が()()すぎるのですな」

「いかにも!」

 困ったように高佐麻呂が返すと、槌麻呂が偉そうに同意した。

 鬼は白い髪を掻いて、しみじみと語った。

「やはり美味いものを作ったり面白いことを考えるのは、限りある生を楽しもうとする心の表れでしょうなぁ。人間は――というよりも生き物は、寿命があるのが常です。あれやこれや複雑なことを考える生き物は大抵、死にます。門松は冥途の一里塚とは一休禅師の歌ですが、こうして喋っておる内にも生ける者は刻一刻死に向かっておると、まあそういうわけですな。そういう有限の生命が発展を促すのです。ところが」

 (われ)()は死なぬのです、と高佐麻呂は言った。

「お化けは死なない! 病気もなんにもない」

 どこかで聞いたようなフレーズだ。

「つまり寿命はないと?」

「老衰で死んだ妖怪の話なぞ、まず聞きませんな。豪傑や高僧に退治でもされぬ限りは、のんべんだらりと生き続けるのです」

 モラトリアムだと思わず呟くと、猶予どころか免除ですなと返された。

「体が死んでも霊魂は残ってたり、ちょっとしたきっかけで蘇る奴も沢山いるしなぁ」

「死にがたく生き返りやすいのだ!」

「ですが……ときに妖怪も人を羨みます。我らから見ればごく限られた、短い寿命の中で、激しく争い過ちを繰り返し、一方で己をとことん(たの)しませ()を深く愛し、時として驚くほど頑強な絆を紡ぐ。人の世は激動の物語に満ち満ちております。綺羅星のごとき物語が始まっては終わり、伝えられ受け継がれ、歴史が織り上げられてきた。これは我らには成し難いことです。ゆえに妖怪は人真似が好きで、人と関わるのを楽しむのでしょうな」



     *



 ぽた。

 ぽたぽたぽたぽた。

 天井から雨のように注いだ水滴は、浴槽の中で一つに結集して人の形となった。

「ん?」

 ざばーっ。(たゆ)()う水面から湯気の中に飛び出す濡れ髪、透明な肌、華奢な手。

「う、うわあぁ‼」

水滴の人形は、若彦の前でいたずらっぽく笑った。

「じゃーん。正解は史織ちゃんでしたっ! ……て、なんでそっぽ向くの⁈」

 緊張しているし赤面もしている。たぶん発汗もしているし、何より困惑していて、他にも色々な心身の活動が起こっていたが、もう把握できない。

「なっなっなんで風呂まで来てるんですかぁ⁉ それになんで……!」

 なんで服を脱いでいるんだ! と言いたいが舌は回らず、直視もできない。

「だってお風呂では脱ぐもんでしょー。ハダカの付き合い!」

 白装束も(ひたい)()()()も取り払った史織は、もうただの美少女である。

「わゎ悪ふざけはやめてくださいっ。し、史織さんだってそのおッ、女の子なんだから」

 声に力が入らない。だが体には変に力が入っていたりする。

「わ、嬉しいなー。異性として見てくれちゃったりする感じなのかな?」

 のぼせているが上がるに上がれない。でも心拍数は上がり続けている。

「ホラおっぱいおっぱい! 瑞希やアザミほどはないけど楓奈ってコよりは断然おっきいし、お鬼久と比べても……おっ」

「どどどどこ見てんですか!」

「どこって……。えっへへへ、わかひこー!」

 あろうことか、史織は硬直している若彦の背に抱きついた。ちょうど流青が地獄と化した夜と同じ恰好だが、今度は柔肌の感触が(じか)に伝わってくる。熱い血潮で心臓が爆砕しそうだ。追い打ちをかけるように、乱れ髪の幽霊は二本の脚を絡めてきた。昇天しそうだ。

 これではまるで――睦み合う男女の姿。理性まで失いそうな若彦に、史織は言った。

「これがほんとの私だよ」

 あの夜と同じトーンだ。背後にいる本当の史織は、(ナイ)(ーヴ)で儚げで、大胆さを持ち合わせた大人の()()だった。

「私ね、若彦と一緒にいられて幸せだよ。家族といるみたいに落ち着いて、恋人といるみたいにドキドキするの。なんでか分かる? わかんないよね。ふふっ、私にもわかんないや」

「どうしたんですか、いきなり。なんか……変だよ」

「あのね。私は幽霊だから若彦の彼女にはなってあげらんないけど、若彦がしてほしいことで私にできることなら、なんだってするつもりでいるよ。居候してるし、おやつとかもらってるし、一緒に寝てくれるし……せめてものお礼。みたいな」

 湯が冷めてきて、若彦にもいくらか冷静さが戻る。史織がいきなりこんなことを言いだしたのは恐らく、日常の(エアポ)(ケット)に陥ってしまった少年への、体を張った思い遣りの発露だった。

 あの夜と同じように、若彦はもう一度史織の手を握る。

「あっ」

 目を瞑り、今日一日の出来事を静かに思い返す。

 見えざる星――友の助言――妖怪の心――幽霊の献身――。

 これか。

 (しょ)(こう)が差した――のか? いずれにせよ妙案ではあった。


「史織さん」

 纏わる史織の四肢は生命の拍動を伝えないまま、沈思する若彦に寄り添っていた。

「な、なにかな」

 これだけの迫り方をしておいて、()()(おと)()のごとく尋ねる。

「なんでもしてくれるんだよね」

「え……? うー、いや、あの、いきなり過激なのはちょっと!」

「もう遅いです。断るのはナシ。行ってもらいますよ、お使いに」

「せめて最初はキスから……おつかい?」

 本物の水滴が(つむ)()に落ちた。

 冷たい。



     *



 鬼の手が(はく)()の夜空に(くれない)の螺旋を描く。

 ()(つう)(ばん)(たん)の世界が閉じ、地上に至って(ごう)(ごか)となった(ごう)()が掻き消されてゆく。

 (ふん)(しょう)の轟音も最早聞こえない。消えゆく罪の断末魔に、丘の上の秋嘉は悔恨を噛み締める。

 いま()(ごく)できたなら、さぞ救われることだろう。

 螺旋が溶けた。丘陵の先に広がる街は、何事もなかったように人工の(ともしび)を輝かせている。いや、あそこで暮らす人々にとってみれば、本当に何事もなかったのだ。それでいい。

 白湖、流青、(かめの)(もり)(おおとり)(がわ)――かつて()()()と総称された地域で立て続けに生じた裂け目も、これが最後だった。秋嘉は地獄十王の一人、()(どう)(てん)(りん)(おう)に与えられた鋭敏な感覚で、現世に迫る災禍の気配を察知できた。次は北を目指す旅が始まる。

 深く息を吸う。炎の中で灼けついた臓腑が浄化される思いがした。

「薊手、戻れ」

 腕は目下の小川を潜って火傷(やけど)を癒し、弧を描いて借り手の元へ飛ぶ。

 いつものごとく袋へ戻るかと思われたが、手はなぜか秋嘉の眼前でぴたりと静止した。

「……アザミ?」

 わけも分からず爪を見つめていると、鬼の右手が前後に揺れ始めた。

 手招きをしている。

 岩屋の中から自分の手を操っているのだ。

 右手は頻りに秋嘉を招き、左手は秋嘉に掌を向けている。

 胸が疼いた。本当は()つ前に、一目でいいからアザミに会いかった。


 秋嘉は小さく頷き、ここにはいない鬼姫の手を取った。誘惑に逆らえなかった己を恥じて。



     *



 小夜薊は読書で気を紛らせていた。紅玉の光を帯びる眼の動きが、頁を捲る指の代用だ。今宵も火焔と針山模様の赤い小袖に、(おと)(ひめ)から贈られた龍宮の衣を羽織っている。いずれも(そう)(ぬい)模様、危急の折に持ち主を守る(じん)(つう)(りき)が籠められた妖衣である。

 洞窟の外で、繁みをかき分ける物音がした。訪問者は限られている。

「では、手筈どおりに」

 姫がお鬼久らに言った。はいと答えはしたが、お鬼久にできることはもうない。これから訪れる客は、茶を出しても飲んだ(ためし)がない。もう、黙って主の想いが通じるのを祈るのみだ。一礼して奥の部屋へ下がる。

 茣蓙で眠りこける貒を双々が前足で適当に叩き起こす。二頭の妖獣も地下に隠れた。

 簾が持ち上がった。

 小夜薊は眼の光を消して本を閉じた。

“Преступление и наказание”

 秋嘉は無言で純真の鬼姫を見上げる。鬼火が一つ降りてきて、秋嘉の顔を照らした。

「待っていたわよ秋嘉」

「なぜ呼んだ」

 ()(けん)(どん)な問いへの答えはなく、代わりに小夜薊は岩の上ですっと立ち上がった。

 また紅玉が発光する。

 するりと打掛が落ちた。次いで帯も躊躇なく解かれていく。

「よっ、よせ!」

 脱衣は止まらない。土間で慌てふためく秋嘉を意に介さず、小袖も、そして(じゅ)(ばん)までもが小夜薊の身を離れた。鬼の姫君は岩の舞台上で、無防備にも素肌を余すところなく晒した。

 秋嘉に見せつけるためだ。だが、肝心の秋嘉は目を瞑って、裸像を視界から排除している。

「わぁ、は、はやく服を着ないか! 風邪をひくし虫に刺されても困る! ああっ」

 しどろもどろである。ミロのヴィーナスは磐上で微動だにしない。

「アザミっ!」

「直視できないほど私は醜い? それとも恐ろしいのかしら。答えるまで(このまま)よ」

 詰問は脅迫の響きとなって秋嘉を畏怖させた。仕方なく瞼を上げる。

 薄闇に罪悪のシンボルを見出した瞬間、意識は遠い過去へと飛ぶ。



 幅広の寝台に(おう)()する半裸の小夜薊。(あき)(らめ)か覚悟か、その目は虚ろで魂なき人形のよう。魔物が封印された岩屋で、(めい)()らが見守るなか儀式は執り行われた。

 鈍い輝きの大きな(かく)(なた)を握りしめた秋嘉は、両脇に立つ馬と鹿の獄卒に促され、震える足を一歩一歩進めた。腕を広げて横たわる小夜薊の枕元に立って半時、遂に鉈を振り翳した。

 ばん――。

 異様な音と共に断ち切ったのは、()()なる少女の骨肉。肘から先が切り離された途端、夥しい血が溢れて止まらなくなった。痛みのあまり姫は豹変し、獣の叫びを上げてもがいた。だんだんだんだん(かかと)を寝台にぶつけて呻く。白衣単眼の(おうな)が、寝台に転がる血染めの手を絹で(くる)み、苦しみが長引きまする、と残る右手の切断を迫る。

 暴れる野獣を獄卒が二人がかりで押さえつけた。半狂乱になって鉈を振るう。ぶつり。肉を裂き骨を断ち切る感触が腕を伝い、秋嘉の脳髄を侵した。絞り出された叫び声は地獄に巣食う怪鳥より悍ましい。

 鮮血が岩肌に飛び散った。返り血を全身に浴びた。両眼に飛び込んだ血の飛沫は、秋嘉の視界を残らず真赤に染めて、この瞬間少年が犯した大罪を突きつけた。()(だま)が燃えるように熱くなる。秋嘉は鉈を取り落とし、その場に(うずくま)った。目頭を押さえ、歯を食い縛って苦しみに耐えていると、小夜薊の命が己に()()れこむような倒錯的な充足感に覆い尽くされた。

 血盟は結ばれた。

 秋嘉は寝台に縋って立ち上がり、(れい)(けつ)を吸って輝く瞳で小夜薊を見た。

 小夜薊は――。

 紅玉の眼から(ダイ)(ヤモ)(ンド)の粒を落とした。悲愴な輝きは秋嘉の心を抉り、叩き、擂り潰して、微塵に刻んだ。岩屋は惨状、血と涙に満ちて痛み苦しみの逃げ場もなかった。唇が(わな)()く。

 ――ちちうえ。たすけて。

 ――ころして。

 ――もう、ころして。

 息も絶え絶えに言って、小夜薊は死に限りなく近い眠りに落ちる。

 ――うおおおおおぉッ‼

 (まなこ)が熱い。絶叫と破壊衝動は止められず、赤い手が跳ね回って岩屋の内を滅茶苦茶にした。

 この時こそが五雲秋嘉の幸福の終着点、そして地獄封じ秋嘉の絶望の出発点だった。



「君の美しさを……僕が(スポ)(イル)してしまった」

 肘の傷口に巻かれた包帯は真新しい。腕を(うしな)った姿は、極めて痛々しい。

「だけど! 醜くはない。僕は君を恐れてもいない」

 秋嘉の回答は到底納得できるものではなかった。だが小夜薊は上がりなさいと告げて、脱ぎ捨てた衣服を元通りに着直し座った。秋嘉が安堵して息をついたのが、少しおかしい。

 岩の前に来た秋嘉は、用件はなんだとまた訊いた。

()(ぜわ)しいわね。近く裂け目が現れるの?」

「北に微かな気配を感じるけれど、向こう(ひと)(つき)は来ないだろう」

「だったら構わないわね、お話をしましょう? 秋嘉、私は」

 ここで敢えて一呼吸置く。沈黙は聞き手の注意力を喚起するのに効果的だ。

「あなたが好き」

「な……!」

 秋嘉はしばし、口を開けたまま絶句した。

「なにを、突然何を言い出すんだ」

「だから他のひとにも、あなたを好きになってもらいたいの」

「……ライクか」

 安心? 落胆? 秋嘉は自分の心境が分からないまま動揺した。

「私の友達とも友達になって欲しいのよ」

「君の友達?」

 即座には思い浮かばなかった。お鬼久は侍女、飛倉は(ボディー)(ガード)、双々はペット、貒は――よく分からないが馴れ馴れしい野良動物であって、やはり友ではない。

「いったい誰だい」

「若彦と史織よ」

 秋嘉が疑問を差し挟む前に、ここへ来たのと小夜薊は続ける。

「お鬼久も入れて四人で、色々な話をしたわ。とても楽しかった」

 あの若彦とかいう青年――平凡なふりをしているが実に頑固な変わり者だ。岩屋を訪ねてきたということは、まだ彼が妖怪や地獄について記憶を保っている証でもある。あれほど残虐苛烈な幻影を垣間見ておきながら、なぜまだこちら側に拘泥するのか。秋嘉にはまるで理解できなかった。人間が(おの)ずから鬼の岩屋を訪問するなど、前代未聞だ。

「よかったね」

 迷った挙句、突き放すように言った。小夜薊は目を丸くして問う。

「それだけ? うらやましくないの?」

「僕には必要ない」

 人間や幽霊の訪問も、小夜薊に対する悪意がないなら一向に構わない。彼らとの触れ合いが終わらぬ隠遁生活の不満や孤独を和らげるなら、むしろ歓迎すべきかも知れない。

「嘘よ」

「嘘じゃない」

 強情な態度に呆れて、小夜薊は嘆息する。天井にぶら下がる飛倉は、愛しの姫君を困らせる秋嘉を警戒して、疎ましげに歯をカチカチ鳴らした。

「いいわ。きっとそう言うと思っていたもの。だからこそ呼んだのよ」

「参ったな。テーマが見えてこない」

「お説教よ。なぜ友達が要らないの」

「なぜって……理由なんてただ一つだ。君を深く傷つけた」

「これのこと?」

 両腕を広げると、余った袖がだらしなく垂れた。秋嘉には痛々しい姿に映る。

「やめてくれ」

「何よ。やっぱり醜いと思っているのね、恐ろしく見えているんだわ! 鬼だものね、人間のあなたにとっては、目を背けたくなるのも無理はな――」

「違う! 違うんだ。人間らしさなんて捨てた気でいる。でも、だからこそ不可解なんだ。アザミ、なぜ君は僕を憎まない? 君の腕を切り落としたのは僕だ、父君や眷属を滅ぼしたのも僕が属した(グル)(ープ)だ! 万死に値する罪だよ。なのに、君は昔と変わらず、僕に優しく笑いかけてくれる。今の僕らの関係は、借り手(ボロワー)貸し手(レンダー)でしかないはずなのに……」

 苦悶に歪んだ顔と、殺してという懇願だけが真実だと、秋嘉は信じ切っていた。

 小夜薊は俯く美少年を哀れんだが、まさに心を鬼にして詰問を容赦しない。

「私への償いとして人の心を捨てるの?」

「償いにはなり得ない。これまで何度も言っただろう。僕は幸福を手に入れる資格を失った」

「何度聞いても承服しかねる答えだから、また訊くの。敢えて己を追い込む強引な論は、道理とはいえないわ。私は今のようなあなたのあり方を望んでいません」

「君が望んでいようがいまいが――」

「罪を知った者は喜んだり楽しんだり、笑ったりしてはいけないの? 感謝もされてはいけない? 絶えず憎しみに晒されて苦しみ続けるべき? 違うわ。人の世を守ろうとするあなたが、どうして人の心を失わなければならないの!」

 鬼姫が(まく)し立てると、秋嘉は激情の濁流に肩を震わせた。小夜薊は癒えない心の傷を感じ取る。百年前に深く傷ついたのは、むしろ秋嘉の方だと思っていた。

「こうでもしていなきゃ耐えられないんだ。僕の行いが君を苦しめている現実に!」

「違うわ。私は苦しんでなどいないもの。たとえ眼の力がなかったとしてもそう」

 私の手があなたの心と共にあるから――小夜薊は慈愛に満ちた声で慰めた。

「あなたは自分で思っているほど、本当の心を隠すのが上手ではないわ」

「……何を言ってる」

「寂しいでしょ」

「まさか」

「そう? 私には、孤独に震えて救いを求める声が聞こえるわ。きっと若彦にも聞こえていたのでしょうね。だから捨ておけなかった。いいのよ。誰かと交われば、地獄の恐ろしさを記憶に刻みつけてしまう。そんな(おもい)(やり)もあって人を避けるのでしょう」

 秋嘉は返答しなくなってしまった。

「否定はしないのね」

「……人々の心に無用なトラウマを残したくない。望まずして酸鼻極まる(せめ)()の世界を目撃し、剰え(ごく)(ねつ)の業火に我が身も焼かれてしまう。そんな記憶、消えてしまえばいい」

「あなたと一緒に……ね」

「構わない」

「でも、辛いでしょう。どれだけ手を尽くして救っても、相手はあなたの存在さえ知らない」

 僕は――と、秋嘉は語気を荒らげた。精神を覆う鉄壁に、ごく僅かな(ひび)が生じている。

「彼の心が壊れてしまうくらいなら、忘れ去られた方がましなんだ……!」

 そう言ったきり、また黙り込んだ。確かに秋嘉は、自分の仕事に対して(アン)(ビヴ)()(レン)()な感情を抱き、小夜薊には心中を見透かされていると自覚もしていた。しかしながら、これしきでぐらつく(ポリ)(シー)ではないとの固い誓いも持ち合わせていた。

 小夜薊とて、この決意がたやすく揺らぐものでないことは百も承知だ。だがここで諦めてしまっては元の(もく)()()。今夜こそ、秋嘉の心を閉ざしている(いわ)()をどける腹構えでいた。

 ()(しゅ)(ぶっ)(しん)。全ては秋嘉を救いたいがための言動だ。

「あなたの考え方では遠からず立ち行かなくなるわ。殯坊に襲われたときだって、若彦と史織の勇敢な行動がなければどうなっていたのかしら。独りで勝てたの?」

「少なくとも、手足と首は()ぎ取られていただろう……僕が救えなかった野干のように」

「たった一人での戦いには限界があるのよ。心ある者ならば誰だって支えを必要とする。そして心があれば、独りで闘う者を(たす)けたいと願うものよ」

「か、彼に何ができる? この間は偶然の神秘が味方して勝機を掴んだが、彼は本来(フラジ)(ャイル)な人間だ。僕にとっては助けにならないじゃないか」

 秋嘉――窘めるように名を呼んだ。戦う力のあるなしではないわ、と続ける。

「支える力や癒す力だってあるのよ。あなたの助けになるのは、若彦の持つ世界を(ひら)く力」

「世界をひらく?」

 真意が読めなかった。秋嘉にとって世界を開く力といえば、小夜薊の手が持つ魔力だった。

「人間なら誰しも持っていると確信したわ。あなたが私の世界を拓いたように、若彦がきっとあなたの世界を拓いてくれる」

「僕が、君の?」

 放心気味の秋嘉に、ゆかしき鬼の姫君は穏和な眼差しを注ぐ。

「箱根山での日々。外にて花鳥風月に親しむばかりの私に、内にて凡百の書物を読み耽る()(らく)を与えてくれたのは秋嘉、あなたよ。書物を通して私は知った。遊んだ花や小鳥の名、山から見渡す景色のその先、人の世に溢れる歌と物語――数え上げることなどとてもできない。私の世界は、あなたという友を得て大いに広がったのよ!」

 秋嘉は友だと小夜薊は言った。その言葉は、秋嘉の心の(つり)(がね)を目一杯打って響かせた。過剰な自己否定に凝り固まった永遠の少年の内面に、清浄なる波紋が広がっていった。

「秋嘉がいたから今の私がいる。私を傷つけたと言うなら、あなたからは受けた傷以上の温もりも貰って、救われ、満たされたと言い切れるわ」

 だから、と敢えて強く言って、小夜薊は岩戸に手を触れる。

「痛みを自分だけで抱え込もうとしないで。私たちのことも頼って。泣きたいときには胸に飛び込んでくればいい、笑いたいときには一緒に笑いましょうよ!」

「アザミ……」

「若彦だって同じ想いよ。あなたが一度この世を去ってから一五〇年を過ぎてなお、人の世にありながらあなたを案じる者がいる。これは素晴らしいことではないかしら?」

「彼が」

 いずれ忘れ去る(さだ)()にある、薄弱な偽善と信じて()退()けた、あの言葉。

 ――君の心は何のためにあるんだ!

「僕の、心……?」

 ――俺は忘れない!

 ――君ともっと話がしたい!

 ――これで終わりになんかしたくないんだ!

「彼の言葉を、安い(シン)(パシー)(キュ)(リオシ)(ティー)によるものと切り捨てた。だって僕なんかに! 僕のような奴に……どうして、優しくするんだ……!」

 ここへきて後悔がこみ上げ、涙声になった秋嘉はがくりと膝を突いた。

 己は蔑まれて当たり前の罪を犯したと信じ、日々は黙して成し遂げる他に道なき苦役――長きに(わた)る心の孤独の果てに、人間が元来持つ情愛を忘れかけていた秋嘉、その歪んだ世界に、今はっきりと流入する健やかな息吹があった。

「秋嘉」

 アザミの眼が紅く輝いた。

 岩の後ろから浮上して、ふわりふわり飛び来たのは(アプリ)(コット)の布包みだった。それは秋嘉が差し出した手の上にそっと落ちて動きを止め、結び目が解かれるのを静かに待った。

「……これは?」

「新世界への鍵、かしら」

 その一言で、これが若彦からの贈り物だと分かった。膝に載せた、ほのかに温かい包みを解く。楕円形の容器に載った、二つ折りの紙がひらりと舞った。秋嘉は容器の蓋を開ける。

 (かぐわ)しい匂いが立ち上った。宝石箱に詰まっていたのは――。

「あぁ」

 震える息を漏らした秋嘉の口内に、じわりと唾液が湧いた。ソースのかかったメンチカツ、柔らかそうな玉子焼き、(フレッ)(シュ)なミニトマトとポテトサラダ、可愛らしい飾り切り(タコさん)ウィンナー、真白いご飯の上には胡麻塩と大きな梅干し、デザートには輝くゴールデンキウイ――。

 小さな楽園が、そこにはあった。

 添えられた割り箸を無意識のうちに割っていた。絶えず鼻腔を(くすぐ)る芳香の誘惑に耐える術はなかった。添えられた箸を取り、メンチカツを口に入れた途端、甘辛く芳醇なソースとさくさくの衣が舌上で踊り、秋嘉の内側を幸福感で一杯にした。噛むごとに肉汁が湧き、とめどなく満ちて溢れた(しあ)(わせ)は、心を塞ぐ大岩を粉々に砕いて吹き飛ばしてしまった。


「……おいしい……」


 一口、二口。咀嚼を止められない。押し寄せる深い味わいを楽しまずにはいられない!

 目に溜まった涙は、いつしか綺麗な水の粒になって、頬を伝ってはらはら落ちた。

「おいひぃよ……!」

 それでも箸は止められなかった。何の変哲もない玉子焼きが、どうしてこんなにおいしいのだろう。食事なんて当たり前のことをしただけで、どうしてこんなに幸せなのだろう!

 実に百年以上ぶりの食事だった。

 秋嘉の心に在り続けた(わだかま)りが、今ようやく解きほぐされた。

 無我夢中で弁当を食べる秋嘉を見守っていた小夜薊は、もらい泣きを堪えて立ち上がった。

 秋嘉はあっという間に弁当を食べ切った。口の中いっぱい、胸の内いっぱいに広がる余韻に涙を流していると、慈愛と母性に満ちた腕が、秋嘉をぎゅっと抱きしめた。

「え……?」

 袋から音もなく抜け出た腕が、まるで繋がっているように小夜薊とひとつになって、秋嘉を抱き寄せている。(かた)()だけだが、昔の姿が甦っていた。

「秋嘉、今までよく頑張ったわね。私のために、みんなのために。本当にありがとう。でも……もう(スト)(イッ)()になりすぎなくてもいいんじゃない?」

「アザミ……」

 (きた)るべき時が、来た。

「う、わああっ、わあぁあん!」

 幼子のように声を上げて、秋嘉は泣いた。聖女の豊かな胸に顔を(うず)め、花の香りに包まれながら、百年の寂しさを晴らすように泣いた。アザミ、アザミと名を呼んで思い切り甘えた。

 胸に耳を当てると、心臓の鼓動がとくとく聞こえた。涙も止まって、ひどく安らかな気分になった。そうだ、小夜薊は凛と咲いている。無残なる()()られ花ではなかったのだ!

 はっとする。胸を遠慮がちに押して遠ざけ、秋嘉は袖で涙を拭った。思わず甘えてしまって(おも)()ゆい。鬼の手は秋嘉の羞恥を察して、すうと再び袋に潜った。

 秋嘉は小夜薊の足元の、滑り落ちた紙切れを拾い上げた。

「これは――」


「どうぞ」

 秋嘉の前に、湯呑の載った盆が差し出された。お鬼久だ。驚いたことに、彼女の後ろにはあの幽霊――史織が控えていた。そのまた後ろで、貒と双々が目を細めている。

「君たち! まさか」

「ふふふ! なーんも見てないよー。ね、お鬼久?」

「はい」

 微笑むお鬼久の目尻には、涙の跡が見てとれた。


「ありがとう」

 秋嘉は湯呑みを受け取って、初めてお鬼久の茶を飲み干した。

「なるほど……確かにおいしい。ごちそうさま」

「わわっ、ありがとございましゅ!」

 驚きのあまり舌足らずの礼を言って、お鬼久は秋嘉に頭を下げた。空の湯呑を受け取ると、姫にウインクを贈った史織と顔を見合わせ、(こお)(どり)して奥へ下がっていった。珍獣も後に続く。


「僕は思い違いをしてたのかもね」

 幸福なのに寂しくて、小夜薊に包まれて嬉しいのに切ない。自分の内側が空しく満たされている。今までよりずっと、満たされている。

 秋嘉は――秋嘉はようやく思い出した。喜怒哀楽揃って心となるのだと。

「あ……誤解のないよう言っておくが、別に食べ物につられて考えが変わったわけじゃないからね。ほ、ほんとに気付いたことがあって」

「もういいわよ」

 慌てる秋嘉がおかしくて愛しくて、小夜薊の口元は(ほころ)んだ。秋嘉もぎこちない苦笑でそれに応えた。ずっと味わうことのなかった喜びの中に、ふたりはいた。初めて出会った頃のように温かい気持ちになっていた。

「行かなくちゃならない」

 秋嘉は名残惜しくも笑いを収め、言った。小夜薊も精悍な表情で次の言葉を待った。

「あの夜、殯坊が去り際に言ったことを思い出した」

 ――お前たち……見ておれ。この復讐は必ず遂げるぞッ!

「殯坊は、確かにそう言ったのね?」

「ああ」

 空気が張り詰めた。ふたりとも過去の交流から、殯坊の性癖はある程度承知していた。狡猾(こうかつ)で執念深く、一方で歪んだ愛情をも包含する、自己矛盾を抱えた(サディ)(スティ)(ック)(ネク)()(フィ)()()

 (こん)(ぽん)が不変であったなら、新たな復讐は充分に考えられる。

 危機は近い!

「彼とはいずれ話をする。だが、まず復讐に決着をつけてからだ」

 袋の緒をきりりと締める。新たな決意は、秋嘉を延々続く戦いの現実へと引き戻していた。もう迷っている暇はない。迷う気もない。

行くのねと小夜薊が言った。

「気をつけて。殯坊が操る首の怪異は手強いわ」

「負けない。彼らと、僕のために勝つ」

 いつものごとく、背を向けて答えた。今や背負っているのは罪と任務だけではなかった。

「アザミ、君の手は必ず返す。借り手(ボロワー)(ライアビ)(リティ)だ」

 小夜薊は友人たちの心身の無事だけを祈って答える。

「待っているわ」


 勇ましき()(しゅ)の借り手――開眼した地獄封じは(ぎょう)(あん)に発った。


 


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