第四章・過去の語り手《とびらのかぎをさがすもの》
大きな松の太い枝から、彼は下着姿で吊り下げられていた。
荒涼とした砂漠。じりじりと暑い。松の他には何もない。彼の他には誰もいない。
幾筋もの髪の毛で、腕と胴を縛りつけられている。下半身はぶらりと垂れている。
足をばたつかせても地面には届かない。半端な高さだ。
地平で揺れているのは、陽炎でなく本物の炎だ。その炎の中から、ジャッカルの群れがわっと飛び出した。ああ、ここは地獄か――と分かったときにはもう遅く、野干は競って脚に食らいついた。肉が裂ける。痛い。ひどく痛いのに気絶もできない。
雑巾を絞ったように血が滴り落ちて、残らず無限の砂粒に吸われて消えてゆく。
飢えた獣は爛々と異様に眼を光らせて、新鮮な人肉を求め奪い合った。
わあああああああああ。
あああ。
あああああああああああああ。
喉が破れるまで叫び続けた。
膝から下はもう、ない。血を吸った砂上に、貧弱な骨が落ちていた。
腿にも食いつこうと野干たちがジャンプを繰り返している。
ううああああああああああああああああああああ。
ああああ。
あああ。
ああ。
あ。
血を吐きながら叫喚した。
黙るのだ罪人――と、地平の向こうから怒声が響き、砂塵を巻き上げて鬼が走ってきた。
獲物を取られまいと荒々しく哮る野干の群れをいともたやすく蹴散らして、鬼は松の幹に拳を叩き込む。筋肉をめきめき盛り上がらせ、二本角の大赤鬼は、頭がドラム缶ほどもある金槌を片手で振るった。
ぼぐ。
罪人の少年は一撃のもとに頭から打ち砕かれて、肉食獣の餌になった。
溢れ出た脳漿から青白い女の幽霊が現れて、捨て去られて久しい名を呼ぶ。
「わかひこ!」
*
「ほらほら渡螺神社前、終点だよー!」
現実に帰還した若彦は、史織に急き立てられて降車した。バスが引き返したのを見計らい、幽霊は魘されてたねと若彦に言った。続けて、怖い夢でもみたのと問う。
「史織さんの夢ですよ」
「じゃイイ夢だ?」
「ですね」
若彦は鳥居を古びた石鳥居を潜って境内に踏み入った。小さな社殿へ続く短い参道には、生きた少年と死んだ少女の他に参拝者の姿はない。閑散として長閑な、田舎の神社である。
ぴいひょろろ。鳶が空で輪を描く。そこから流青が見えるかい――史織が歌った。
「ほーいぃのほい♪」
ここは渡螺神社。渡螺というからには、白湖市渡螺山のほど近くにある社であった。
あれから――。
自転車を押して帰った若彦は、寝不足であるにも関わらず目が冴えてたまらず、帰宅してから一睡もできなかった。ベッドに腰掛け、膝枕で眠る史織の髪をさっと撫でたとき、一筋の光が暗雲立ちこめる心に差した。夜が明けたら、アザミの岩屋を訪ねよう。即断即決。
秋嘉が敢えて語らなかった過去を、そして若彦が求める何かを、アザミはきっと知っているはずだ。そう思うといてもたってもいられなかった。善は急げ。今日という日を精一杯に突き進むのだ。無駄遣いはしていられない。
朝九時を回った頃、羽織っていた風呂敷の下にシャツとベストが戻ってきた。高佐麻呂と槌麻呂が、野干を連れて地獄へ着いた証だった。目覚めた史織と徹夜の若彦は、阿吽の呼吸で進路を決した。行こうと言えばうんと答える。
かくして若彦は圭祐たちと会う約束を蹴って、電車とバスを乗り継ぎ、アザミの岩屋を目指し一路邁進した。断りなく予定を前倒しにするからには、心ばかりの手土産も持参している。
快晴の土曜十一時前、寂れた社殿の佇まいは、どこかアンニュイな空気を漂わせていた。
からからと鈴を鳴らし、賽銭箱に五円玉を投げ入れる。箱はころりと笑って喜んだ。
二礼、二拍手、一礼。ここでも阿吽の呼吸。動作のタイミングがぴったり同じだ。妙なもので、若彦はこの居候幽霊に家族のような愛着を抱くようになっていた。
「さて……」
二人は途方に暮れ、賽銭箱と鳥居の間を何度も行き来した。
アザミの岩屋はどこだろう?
思えばあの夜、若彦は行きも帰りも意識を失っていたのである。岩屋は渡螺山にあるらしいが、標高千二百メートルの山からどうやって洞穴一つを特定しろというのか。
「史織さん覚えてないんですか⁉」
「いやもう何日も前だし、夜だったし、山の中なんて似たような景色ばっかだし」
だめだ。史織がおずおず言う。
「やっぱ、明日にする?」
「ここまで来てそれはないでしょう……って、なんだアレ?」
いつからいたのだろう、賽銭箱の前にころころ太った獣が鎮座していた。
「タヌキだー! かわいい!」
狸か? 少し違うようだが。眠そうな顔をした謎の動物は、近寄ってくる二人を交互に何度も見て、ついてこいとばかりに短い尻尾を振って、短い足でのしのし歩き始めた。
「神様のお使いかな?」
首を傾げながらも史織が続く。円らな瞳の太った狸は、先程の仕草からして普通の動物とは一味違うようだ。ここでうろたえているよりましだと、若彦も後を追って鳥居を潜る。
小さな案内者は神社を出ると、すぐ近くにある渡螺山登山道へ入っていった。時折、若彦らが来ているのを確認するように立ち止まってぷいと振り向き、また軽快に山を登る。やがて、獣は登山道を外れて笹藪の中へと進んだ。史織は難なく動物を追うが、若彦にとって獣道は悪路である。取り残されないよう懸命に足を動かした。こうして、二十分も歩いただろうか。急に視界が開けた。澄みきった空が浮かび上がる。
「わあ、すっごい!」
史織の歓声を引き出したのは、渡螺山中腹からの素晴らしい眺望だった。人間たちの暮らしの舞台がミニチュアになって、冴え渡る空気の向こうにくっきりと見える。
「史織さん、着いたみたいですよ」
肩を叩いて、下界を望むように開いている洞穴を指し示した。入り口には御簾がかけられ、注連縄も張られている。貴鬼の住む岩屋に違いなかった。
獣は平然と御簾を潜り、洞窟の中に姿を隠した。
「おお。若彦いこっ!」
「うん。お邪魔しまーす……」
史織に急かされ、若彦も簾に手をかけた。特にためらいもなく引き上げたところ――。
「あっ」
「えっ⁈」
否応なく視界に飛びこんできたのは、アザミの白い素肌だった。
全裸だったのである。
抱き締めたい衝動に駆られる丸みの肩へ流れる、滑らかな鎖骨のライン。豊満で左右対称の乳房、頂には桜色の宝珠。ほどよく引き締まった腹には縦長の臍。芸術品のような体は、綾なす薊の花の髪が這うことで、いっそう艶かしさが引き立てられ、そして――ああ!
一瞬で目に焼きつき一生忘れられない魅惑的な体つき。若彦は息が止まりそうだった。
洞窟の奥に台形の大岩があり、その上に一糸纏わぬ姿で座るアザミは、角の先まで真っ赤になって俯いてしまった。彼女の身体には、恵まれた胸を隠せる腕がなかった。
隣ではお鬼久が狸を抱いたまま、驚愕の表情で固まっている。
これはどうやら、やらかした。
「ごめんなさッうぼぁっ!」
天井から大蝙蝠が降ってきて、若彦の顔面に貼りついた。キーキーと怒りの声を上げながら爪を立ててくる。気が動転した若彦は、そのまま洞窟外へ転げ出た。
「ごめっ、覗いたわけじゃなくてぎゃあ! もごっ、ちょ、やめ……!」
力いっぱい引っ張っても蝙蝠様の妖怪は顔から剥がせなかった。あまりに密着しているので息苦しくてたまらない。洞窟の奥から、アザミが待ったをかける。
「やめなさい飛倉! 悪い人ではないのよ」
鶴の一声。あれだけ強固に、接着剤を塗布したようにへばりついていた獣はぺろりと剥がれて、山の斜面をすうと滑空し、梢に留まり翼を畳んだ。ふてぶてしいやつめ、と若彦は思う。
一息ついて思い出す。綺麗な身体だった――。
「わーっ若彦まえかがみ!」
「なってないっ! なってないです!」
からかわれて辟易していると、今度はひとりでに簾が巻き上げられた。入ってと声がする。
「お、お邪魔します」
「ええ、いらっしゃい……ごめんなさいね。き、着替えを、していたものだから……」
平静を装っているが、語尾がまだ羞恥に震えていた。頬も赤い。岩の舞台上で潤んだ眼を光らせるアザミは、以前と同じ着物と打掛の装いに戻っている。
静かに簾が降りた。改めて見る岩屋の内部は、涼やかな神秘の雰囲気が満ち満ちていた。
円形の空間は、高校の教室より少し広いくらいだろうか。一段低い土間より先には、模様入りの茣蓙が敷かれている。以前、若彦はここで眠っていたのだ。誘われるままに靴を脱いで前へ進む。奥の壁寄りに置かれた大岩には注連縄が張られ、壁のあちこちに見たこともない護符が貼りつけられていた。天井では絶えず鬼火の照明が揺らいでいる。
和装のお鬼久が降りてきて、客人二人を出迎えた。なんだかそわそわした様子だ。
「若彦さん、史織さん、いらっしゃいませ!」
「ごめんね。約束は明日だったけど、事情があってさ」
約束? と、岩の上でアザミが怪訝そうに言った。お鬼久がびくりとする。
「お鬼久! 私に内緒で二人を呼んでいたのね」
「だって、きっとアザミさまは反対なさるから……」
若彦と史織は互いに互いを見た。
「私たち迷惑だったかな?」
耳聡く聞きつけたアザミは、そうではないのと慌てて否定した。
「ただ……そう、驚いただけ。約束しても、本当に来てくれるなんて思わないもの」
「そっかー……? あのね、そのタヌキが道案内してくれたんだよ!」
「あら、貒が?」
太った狸改め貒という獣は、鬼娘の胸で早くも寝息を立てていた。
「そうだ。よかったらこれ食べて下さい。ケーキです」
「まぁ、わざわざありがとうございます!」
お鬼久は貒を茣蓙に降ろすと、若彦から紙袋を受け取った。本当に嬉しそうだ。
「いま準備をしますから、一緒にお茶でもいかがですか? ……でも、どうして一日早くいらしたんでしょう? なにかご用でしたら、無理をなさらなくてもよかったのに」
「違うんだ」
一瞬迷ったが、若彦は単刀直入に言おうと決めた。岩の上に座すアザミを見上げる。
「俺たち、手を見たんです……秋嘉が借りてる鬼の手を」
空気が一変した。重苦しい雰囲気が両肩にのしかかり、いやに気まずい沈黙が訪れた。
皆、誰かが発言するのを待った。やがて一同の期待は、鬼の手の貸し手である姫君に集束した。それを察してか、やっと唇の蕾が開いた。
「不思議ね、こんな巡り合わせがあるのかしら。いいわ、すべて話しましょう。私たちの間に何があったのかを。若彦、史織、こちらへ来て。お鬼久はお茶の用意をしていて頂戴」
楚々と立ち上がり、アザミは大岩の背面に彫られた階段を降りた。若彦と同じ高さに立った姫君は、岩の真裏の壁に開いた横穴を目で示す。暖簾が勝手に捲れて、客人を奥へと招いた。細い隧道は、地下の別室に繋がっているようだ。
アザミについて進んでいると、二匹並んで壁を這う、八つ目の白い蠕虫とすれ違った。あれは石虫よとアザミが言う。鍾乳石などを好んで喰う怪虫で、この隧道や奥の部屋も石虫一族の食事の副産物だという。先程のかれらはまだ若い番いだそうだ。虫といってもグロテスクではなく、ぬいぐるみのようにもこもことして愛らしい。
細道を塞ぐ木の扉が現れた。紅玉の瞳が閂を上げ、扉はぎいと軋んで姫君に服従する。
こうして若彦たちが行き着いたのは、左右の壁が本棚となっている部屋だった。
「すっごい! 図書館みたい!」
史織がはしゃいで飛び回った。何メートル伸びているのだろう、消失点までずらりと本が並ぶ景色は壮観だった。革装、和綴、上製本にペーパーバック、巻物から文庫本、辞典に雑誌、文学全集、写真集、歴史書語学書哲学書、医書地図統計電話帳、漫画艶本絵本まで――古今東西ありとあらゆるジャンルの書物が、節操ないまでに揃えられている。知恵の坩堝だ。
「ここが私の世界を識る場所」
アザミがぽつりと漏らした。
お鬼久の言葉が蘇る。姫は岩屋の外には出られないのだ。
部屋に設えられた石のテーブルの下から、三つの頭を持つ、狛犬のような獣がのそりと出てきた。中華風ミニチュアケルベロスとでも表現したい奇怪な姿だが、真っ青な毛並は非常に美しく優雅だ。しばし見惚れていると、獣はしゃんとハスキーな声で鳴き、ふさふさした尾を揺らしながら隧道へ抜けていった。若彦は問う。
「あれは何?」
「双々。大陸の獣よ。知らない人が来て驚いたようね」
並ぶ背表紙を視線でなぞりながら進んだアザミは、テーブルの傍で立ち止まった。
「……順を追って説き明かすのがいいでしょう。すべてを知ってもらうには、まず昔話をしなければならないわ」
穢れなき瞳の持ち主は、真実を欲する訪問者たちに淡々と過去の物語を語り聞かせた。
*
異国から黒船が渡って来るより少し前、ざっと一七〇年ほど昔がはじまり。
ある年の秋、初冬のように冷たい風が吹く朝、五雲という武家にひとりの子が生まれたの。既に老境に差しかかっていた父親の喜びは一入で、彼はその子に秋の嘉び、秋嘉という名を付けたわ。
「秋嘉⁉」
ええ。この子があなたの出会った秋嘉よ、若彦。
秋嘉は人間なのよ。あなたからしてみれば、きっと教科書の中にしかない遠い昔に生まれた、ね。
乳飲み子の頃は病弱で、医者からも長い命ではないと言われるほどだった秋嘉は、それでも懸命に生きた。父と母、そして父と病死した先妻との間に生まれた、歳の離れた姉からの愛情を一身に受けて育ったわ。成長した秋嘉は学問に励み、薙刀の稽古で心身を鍛え、いつの日にかきっと世界が広く開け放たれると信じ、羽ばたいてゆくことを夢見てやまなかった。
けれど……秋嘉は死病に取り憑かれてしまったの。
薬も効かず、祈りも届かず、容態は悪化の一途を辿って、やがて床から出ることも叶わなくなった。この若い人間は、病の床で己が死んでゆくことを悟ったの。まだ知りたいこと、やりたいことが沢山あったのにも関わらず、もう生きられない。ままならぬ思いに深く悲しんだでしょうね。きっと、変わりゆく世の中を見届けることさえできない、己の弱さを恨みもしたでしょう。
願いも空しく、五雲秋嘉は齢十六で可惜命を落としたわ。
「そんな……それじゃ秋嘉は、私とおんなじ?」
いいえ史織、今の秋嘉は真っ当な生者ではないけれど、幽霊でもないのよ。
話を続けましょう。
かつて箱根山には、日本中の妖怪に知られた大力無双の鬼がいたわ。稀なる強さを持ちながら争いを厭い、人間の暮らしに関わることも望まない。棲み処を追いやられた妖怪がいれば救いの手を差し伸べ、迷い込んだ人間がいれば無事に人の世へ帰した。名もない鬼は、いつからか泰平童子と呼ばれるようになったわ。童子は眷属からの信望篤く、横道なき鬼の王と讃える者もいたほどだった。童子はあるとき、天女・夜嵐君を娶って妻とした。
秋嘉がこの世を去った年の夏、暴風雨の夜のことよ。童子に娘が生まれたの。名は小夜薊。
「さよ……あざみ?」
……ええ。私は鬼の姫として、父やその家来に護られて育ってきたのよ。母は私を生んだ時に亡くなってしまったけれど、それを悲しく思わないくらい、幸せで満ち足りた日々を過ごしてきた。ああ、もちろんその頃は腕もあったのよ?
私が、そう、たしか十五になった年のこと。積もった雪を踏み締めて、科なくして追われる身になったと自称する妖怪の一団が、父に助けを求めてきた。総数は百余り、かれらは自分たちのことを開化冥党と名乗っていたわね。その中に一人だけ、人間の幽霊が紛れていた。
「それが秋嘉なんですね」
そうよ。秋嘉は死後、閻魔大王の裁きを受ける前にこの世へ逃げていたの。冥党の妖怪たちの手引きでね。なんのことはない、追手とは地獄の閻羅人たちだったのよ。なぜ追われるかといえば、かれらには陰謀があったから。
……どうしたの、若彦?
「世界の境目を壊して、生と死のボーダーラインを消し去る。秋嘉が言ってた」
話が早いわ。その通りよ。命ある者が生まれ変わり死に変わり、悲しみ苦しみが絶えないなら、並び立つ世界をみな一繫ぎにしてしまえば良い。かれらはそう考えて、世界の枠を壊そうと企てた。計画を成し遂げるため、かれらは力を求めていた。だから父を仲間に引き入れようとした。
いえ……父よりも欲しかったのは私。見たでしょう、私の手には異能がある。世界を縫いとめるだけではない、逆に切り裂く力も秘められていたの。生まれ持った因果な力。
「じゃ、そのナントカ党の妖怪は、アザミの力を利用して世界を壊そうとしてたのね」
「泰平童子は、冥党に加わったんですか?」
いいえ。父が世界の仕組みを変えてしまう愚行に賛成するはずがなかった。だけれど、冥党の妖怪を追い出すこともしなかったの。逃げ込んできた妖怪の多くが傷を負っていたのは事実だから、湯治でもしろと言ってね。あの頃の父は……人にも妖怪にも優しすぎたのよ。
開化冥党は泰平童子を仲間にすることを諦めて、彼を敵視する飛州の悪鬼の頭領と秘かに結託し、一方で私を籠絡するために、ほぼ同じ年恰好の秋嘉を近付かせたわ。
秋嘉は――今と変わらず強く優しい心を持っていたわ。色んなことを知っていて、私に本を読む楽しさを教えてくれた。青空の下で遊び、屋敷では本を読み、よく笑い合ったものよ。
「笑った?」
ふふ、今の様子からは想像もできないでしょう。でも嘘じゃない、本当の秋嘉は表情豊かで、素敵な笑顔の持ち主なんだから。見てみたい? 私も、また見たいわ。
秋嘉と出会って三年が過ぎた。冥党の妖怪の中には、相変わらず箱根山に潜伏し続ける者もいたわ。閻魔大王の監視も厳しくなって、かれらの計画は遅々として進まなかったようね。
「うーん、エンマ様には会ったことないけどさ、地獄のエライひとだよね。そんなひとからしてみれば、そいつらがやろうとしてるのって刑務所の塀をぜんぶ壊そう! 門は開けっぱなしにしちゃおー! みたいなコトでしょ? ムチャクチャだよ」
一旦全てを解放したうえで新たな統治を行うと謳ってはいたけれど、そんな大それたことが実現できるとも限らないものね。秋嘉は箱根で私たちと過ごすうち、段々疑問を感じるようになっていたのかも知れない。だからなのか、結局私を冥党の道具には仕立てられなかった。
やがて痺れを切らした冥党の天狗が飛州の鬼に働きかけて、打倒閻魔王庁・泰平童子、並びに小夜薊奪取を掲げ、大きな戦を起こしたわ。激しい血みどろの戦いが、龍宮や仙境まで巻き込んで、昼夜を問わず繰り広げられた。もっとも、人間は自分たちの戦で手一杯、私たち妖怪の異変にまでは気が回らなかったようね。だから伝説にはならなかった。
「お父さん、当然勝ったんだよね? 鬼の王様だもん」
「アザミさん……?」
……ごめんなさい。大丈夫よ。そうね、勝ちも負けもない戦いだった、痛み分けよ。
私の心を動かせなかった開化冥党は、手の力を奪い取るために、呪力を持った木偶人形を創造していたの。そして私と人形を合一させて、自分たちの思惑通りに動かせる魂魄を有す、恐ろしい魔物を完成させようとした。戦の最中、私は攫われて天狗の隠れ家へ連れ去られてしまったの。
裸に剥かれて、それは途方もない大きさの、山を引っ繰り返したような鉄鍋の前に立たされた私は、煮え立つ混沌に浴する木偶人形を見たわ。忘れもしない、いかにも嬉しそうに笑みを浮かべて、首吊り柳の女縊鬼が、私を鍋に突き落としたのよ。
「ひどい……何が等しい命よ。そんなの本末転倒じゃない!」
ああ、この混沌に犯されて、魔物の体と溶け合って、私というものはいなくなるのだと、全て諦めかけた時だった。颯爽と現れた一人の美しい少年が、薙刀を振るって妖怪たちを斬り伏せていった。すぐ秋嘉だと分かったわ。秋嘉が、私を助けに来てくれたの。
仲間だったはずの妖怪を退けて、秋嘉は煮え滾る混沌に飛び込んだ。そして、煮崩れしてしまったような私を引き揚げ、針の山を踏み越えて奈落の底から逃げ出したの。
「秋嘉がアザミさんを助けた? 裏切り者ってそういうことだったのか……! じゃあ、秋嘉の行動が契機になって、戦いは終わりに向かっていったんですよね」
結果としてはそうでしょうね。でも、まだ終わりではなかった。
混沌の激流に取り残された木偶人形。禍を凝らせて造った魔物の肉体、私の命が宿るはずだった場所には、誰のものでもない、魔物自身の魂が湧いたのよ。失ったものを取り戻すよう、足りないものを補うように爪を伸ばし、毒の息を吐いて、怒りに血走る目を日月のごとく燃やして立ち上がった。
「人形が自分の意思で動きだすなんて……」
「そいつはどっちの味方なの?」
虚ろなる物には魂が宿りやすいのよ。金色の王魔は敵味方の別なく大いに暴れ、私から写し取った力で世界を切り裂き、裂け目から地獄の炎を噴き出させた。
裂け目は閻魔大王を始めとする地獄の十三王や三十獄主たちが死力を尽くして塞ぎ、魔物は父と……相討ちになり封印された。冥党の生き残りは見つかり次第、地獄の羅卒に捕えられたわ。こうして熾烈な戦いは終わりを迎えたのよ、数多くの魑魅魍魎を犠牲にして、ね。
「アザミさんは、お父さんや家来を亡くしてしまって……それでお鬼久さんとふたり、渡羅山へ移って暮らすことになったんですね」
「待ってよ。だったらどうして両腕を切られてまで、今も外出できないの? 開化ナントカの生き残りが、アザミにも仕返しを企んでるとか?」
「……魔物を倒して、それで全て解決したわけではなかったんですね」
ええ。禍根が残った。
史織が言ったように、私への意趣返しを目論む輩もいたわ。でも一番の理由は別。
魔物は、死んではいなかったの。その昔、金毛九尾の狐が死して石と化した後も毒気を吐き続けて人畜に害をなしたように、この魔物も封じられていながら周囲に禍を呼び寄せたわ。岩盤の下で力を蓄え、遠からず封印を破って甦ると考えられた。そうなれば本当の破滅よ。
悲劇を食い止めるには、魔物の力の母である私が、封印をより強固にする楔の役目を果たす必要があった。最初の部屋にあった大岩を見たでしょう? あの下に魔物が埋まっているのよ。この岩屋は私の棲み処であり、同時に魔物を押さえつける結界でもあるの。
「ええっ⁉」
うふふっ、驚いた? でも大丈夫、私が外へ出ない限り、魔物は決して目を覚ましたりしないもの。だから心配しないで。
もう察しがついたかも知れないけれど、地獄の裂け目というのは、魔物が世界の境界をずたずたに引き裂いた後遺症、この世の古傷なの。古傷は往々にしてまた開き、痛みを生んだ。炎ばかりでなく、地獄の鬼や獣が迷い出たり、亡者が逃げることもあるわ。それらは本来この世のものではないから、完全に封じ込めてしまえば、被害はなかったことにできる。最初の頃こそ王たちの力で塞いでいたものの、それが彼らを消耗させ、職務執行の妨げとなっていった。
このままでは立ち行かないと、地獄を封じる者として駆り出されたのが、秋嘉。
秋嘉はあの動乱の後、閻魔王庁の七重の牆壁、七重の欄楯に囲まれた牢に入れられて、特別の裁きを受ける日を孤独に待っていた。叛乱鎮圧の功労者とはいえ、直前まで開化冥党に与していたのだから、やむを得ないことでもあったのよ。だから……いわば温情判決として、地獄封じの役目が与えられた。断ることもできたのだけれど、秋嘉は引き受けた。迷っている暇もなかったのでしょう。こうして秋嘉は不老の肉体を得て、この世に舞い戻ったわ。
「アザミさん! わかったよ。アザミさんは外に出られない。でも地獄の裂け目を封じるには、あなたの力を使うのが何より効果的なんですね。だとすれば、だとすれば……」
ありがとう、あなたも優しいのね。平気よ、私の口から説明できるもの。
岩屋から出てはならない私に代わって、秋嘉は地獄を封じる。そのために私は秋嘉に手を貸す。そういう契約を結んで、腕を切り落とさせた。
この世とあの世という枠組みを守るためだけに力を行使する。かつて所属していた組織の理念とは反対をゆく行為ね。肯定する気はさらさらないけれど、昔の仲間から恨みを買うのも仕方ないといえるわ。秋嘉自身にも忸怩たる思いがなかったとはいえないでしょうね。
噴き出る炎に負けないように、地獄の獣の革で作った服を纏い、六尺の薙刀と一度限りしか撃てない手製の銃を携え、裂け目を捜してさすらう日々が始まった日から、秋嘉は己を罪人だと責めるようになった。自分の軽率さが私たちを苦しめることになったと苦悩し、一切の喜びを捨てようとしていたわ。他者と深く関わることを避け、何も歌わず、何も食べず、何も楽しまず。
心を癒す道を塞いで。
地獄を封じるたび、人間らしい心までも封じてきたのよ。
*
鬼姫小夜薊の告白が一区切りして、若彦は言葉にできない切なさに胸を締めつけられた。
「アザミさんは強いな……」
運命に翻弄され続けてなお気丈に振る舞う彼女は、逞しく美しかった。秋嘉は言っていた。失うものを知って怖くなったと。最も恐ろしかったのは、この無垢な姫鬼がいなくなってしまうことではないか。世界から死が消える代償としても、あまりに大きかったのだろう。
「昨日のこと、なんだけどね」
今度はしんみりとしてしまった史織が、昨夜の出来事をぽつりぽつりとアザミに教えた。
話が進むごとに、姫君は沈痛な面持ちとなって口数も減った。
幽霊が語り終えると、鬼の瞳が輝いて、視線が書架から一本の巻物を引っ張り出した。巻物はまっすぐ飛んで若彦たちの前で静止し、紐が解けてするすると中身が展開された。
化物盡の絵巻物だ。横並びに妖怪の姿が数十体描かれ、脇に各々の名前のみが崩し字で記されていた。以前テレビの特集で見た覚えがある、狩野派の筆致だ。
スクロールする紙を眺めていると、コイツだっと幽霊が叫び、ある絵姿を指差した。黒い毛むくじゃらの獣人で、橙色の衣を纏った――昨夜の妖怪に相違なかった。
「アザミ、このブサイクお化けなんなの? コイツがゆうべ秋嘉を襲ったんだよ!」
さもありなん、といった表情でアザミが目を閉じた。
「これは開化冥党に属した百鬼の写し絵。二人が見た妖怪の名は、殯坊」
アザミは、殯坊は元来、京の帷子辻界隈に出没した化物だと説明した。
「夜更け、野に捨てられた無縁仏の前に現れては幽かな歌声を響かせていたと聞くわ」
「悪趣味!」
殯坊に関することはとりあえず非難する方針だ。史織は殯坊をよほど嫌っているとみえる。
「まあ……妖怪のすることだから大目に見て欲しいのだけれど。そうすることが存在意義でもあったのだから。ともかく殯坊は来る日も来る日も屍の前に座り、朽ちていく様を眺めながら、嗄れ声で寂しく歌い続けた。そして殯坊は、ある頃から考えるようになった。なぜ人は死んでしまうのだろう。生前どれだけ美しくとも、死して野晒しになれば腐り膨らみ破れて溶けて醜い骸となり、散らばった骨もやがては土に還って跡形もなくなる。生きた証は儚く消えて、風前の塵と忘れ去られてしまう」
若彦は思う。史織も秋嘉も、元々の肉体は露と消えて久しいのだろうと。こんなに近くにいるのに、史織との間にまで越えがたい壁を感じた。史織はどう感じているだろう。
「諸行無常――現実は全て移ろいゆく。世に形を得たものは必ず滅する時が来る。一つの世界に根を下ろし生きる人間は、この理には抗えない。異端の殯坊はね、これを激しく憎んだのよ。棲み処を離れて放浪の末、同じ思いを持つ者と徒党を組んだ。でも、裏切りに遭って望みは潰えてしまった。追手から逃れ、どこかに隠れて復讐の機会を窺っていたんだわ」
浅ましいこと――アザミは、僅かに殯坊を憐れむように言った。たしかに可哀想な奴だともいえる。だが、それが復讐を正当化する事由になるとは思わなかった。
絵巻は巻き取られ、ふわふわと移動して再び書架まで流れ着いた。
「生首の怪異を操る術を身につけて復讐に来たとは、驚いたわね。今更復讐しても、どうにもならないというのに。冥党の生き残りは皆、詮ないことばかり考えているわ!」
「秋嘉が昔の仲間に襲われたのは、あれが初めてじゃないんですね」
「幾度も無用な戦いを強いられてきたはず。でも自分からは語らない。私が知るのは、いつも後から人伝で」
きっとアザミは、秋嘉の優しさを誰より知っている。腕を切断したことから罪の意識に責め苛まれ、感情を押し殺していることを悲しんでいる。秋嘉もアザミの心の美しさを知り、一切を独りで抱え込もうとしている。己は他者と関わるべきでない罪人だと断じている。
でも、それは間違いだ。寡黙なる義務の遂行だけが、小夜薊への償いになるとは思わない。
もし自分に役目があるのならば、それを秋嘉に気付かせることだ。
「秋嘉……あいつ」
どうすればいい? 若彦は核心に触れつつあった。
ずっと燻っていた思いに火が点き、熱い想いが口から零れる。
「俺、やっと分かったよ。昨日は秋嘉のことを忘れるなんて絶対嫌だと思った。命の恩人なのに、誰もそれを覚えてない。あいつはあいつで感謝も一切受け取らず、昔の仲間から恨まれても、独り闘い続けてる……何が罪で何が罪じゃないかなんて俺には判らないけど、変だよこんなの。おかしいよ。だからせめて、人間のうち俺だけでもいいから、世界を守る秋嘉のことを覚えていて、応援してたいって心から思った。力になれるなら、なりたい。でも……俺は無力だった。秋嘉みたいに強くないし、アザミさんみたいに守る力があるわけでもない。史織さんやお鬼久さんがいてくれなきゃ、記憶さえ保っていられなかった。平凡で弱い、ただの人間なんだ。でも! 諦めきれなかった。忘れたくない、もっと話したい、近付きたい! 俺にできること……いや、俺が今、本当にやりたいのは何か。かけがえのない今日を精一杯生きるためには、それをはっきりさせなきゃならない。答えが欲しくてここに来ました」
曇りなき瞳は、若彦の心を捉えた。意図を汲んでアザミは問いかける。
「答えを教えてもらおうかしら」
若彦は力強く頷く。
「秋嘉と友達になる!」
冷ややかとも受け取れる静寂。天井に並ぶ鬼火が、順に瞬きをした。
史織が優しく微笑した。
「シンプルイズベスト、だよね」
「我ながら青臭いなとは思うんですけど」
「ううん、きっとなれるよ! アザミやお鬼久とは友達になれたんだもん!」
二人の言葉が、アザミの胸を打って震わせた。
「若彦、史織」
名を呼ぶだけで胸が一杯になった。小夜薊の瞼は、感涙で決壊する寸前だ。
「わっ、わかひこさぁん!」
だが先に情けない涙声を発したのは、扉の陰から飛び出してきたお鬼久だった。
「お、お鬼久さん?」
「カンゲキですぅ。こんなにもす、すばらしい方たちがいるなんてっ! うぅ……」
お鬼久は若彦の両手をぎゅっと握って、大粒の涙をぼろぼろ零して喜んだ。彼女の手は心と同じ温度で、主人に対する想いの深さが知れた。一方のアザミは、そんな侍女の様子に首を傾げていた。そして、あることに気付いて口を尖らせる。
「お鬼久! 盗み聞きしていたのね」
「お、お茶の用意ができたので、お呼びしようかと。ほんとですよぅ……あっ」
無意識の握手を知覚したお鬼久は、頬を赤く染めて若彦から離れた。照れくさくなって若彦もそっぽを向いたが、お鬼久の掌の柔らかさは、離れた後から染みてきた。
史織がきょとんとして言う。
「鬼の目に涙かー」
「また下らないことを……あれ」
号泣していたはずのお鬼久が、肩を震わせ笑いを堪えている。ツボだったようだ。
アザミの袖がゆらりと揺れた。
「ありがとう若彦。あなたの想いはきっと通じる。答え合わせの時は近いわ」
*
「アザミさまは仰ってませんでしたけど――」
オレンジの木漏れ日が差す山道を、お鬼久はストローハットを押さえて下る。
「秋嘉さんの使う〝手〟が傷つけば、アザミさま自身にも痛みが伝わるのです」
慣れた足取りだ。帰り道でも若彦はついていくのが精一杯である。
「痛みが? じゃあ……秋嘉が、はあ、地獄を封じたら、その度に……ふぅっ」
飛べる史織は行きも帰りも楽なものだ。ずるい。
「はい。でもアザミさま、このことを秋嘉さんには内緒にしておられます」
「俺たちにも黙ってたってことは……まぁ、どういうつもりかは分かるよ」
お鬼久の足元には身を寄せて並走する貒がいる。彼女には特に懐いているのだ。
「言ったら秋嘉に余計罪悪感がつのるから、か。アザミは強いなー」
史織の姿は夕陽を照射されて、若彦からはほとんど見えなくなっていた。代わりにお鬼久の顔を見やって、若彦ははっとして言う。
「いいの? こんな大事なこと、俺たちに勝手に喋っても」
お鬼久は何を思ったか、切ない微笑を僅かに浮かべてこう返す。
「だって、わたしだったら……耐えられません。手が激しく動けば、血が出るときだってあります。ゆうべの裂け目は大きかったから、傷口から繰り返し血が滲みました。おふたりがいらっしゃったときも、また汗をおふきして包帯を換える最中だったのです」
「そうだったのか……」
アザミとの対話の後、若彦たちは地下書庫を出て、魔物の眠る部屋へ戻った。そして大岩の上に置いた卓袱台を囲んで、他愛ない世間話とティータイムを楽しんだ。お鬼久の淹れた紅茶は格別の風味、茶席はどちらを向いても美少女がいる。圭祐が知ったらさぞ羨むだろうな、と優越感に目尻も下がった。
アザミは若彦の何気ない日常の話題を興味津々に聞いた。外出が許されない姫にとっては、平凡で無刺激な高校生の日々にも宝石のごとき輝きがあったのだろう。
幸福感に包まれたひとときはあっという間に過ぎ、落日の足音が岩屋にも聞こえてきた。妖怪たちと話し込んでいた若彦は、名残惜しいながらも帰ることにして、今に至るのであった。
爽やかな夕風にそよぐ藪をかき分けて、三人と一匹は進む。
ねぇお鬼久さん、と呼ぶと、なんですか、と応える。つくづく健気で可愛らしい鬼娘だ。
「お鬼久さんは、人間の街で買い物してるんだよね……? そのときのお金ってさ、どうなってるのかなと思って」
「え……」
「あ! いやいや別に盗んでるんじゃないかとか疑ってるわけじゃなくて!」
「ふふふ。本物のお金を出していますよ。あとで見たら葉っぱになってた、なんてこともありません、わたしは狸さんではありませんから」
お鬼久は思わせぶりに笑ってみせた。
「お察しのとおり、わたしは外へ出て働くわけにいかないので、本来ならお金なんて手に入らないのです。でも、人間の世界で働く親切な妖怪がいて、私たちにお金を分けてくださるのですよ。お買い物に不自由しないのは、そのおかげです」
うらやましいなあ、と空を漂う幽霊がぼやいた。確かに。
「今でもアザミさんを助けてくれる妖怪はいるんだね」
「昔とは比べようもない少なさですが、ありがたいことです」
「アザミはいい子だもん! 力にならなきゃウソだよ」
史織のアザミに対する信頼は並々ならぬものがある。
お金の心配までしてくださるなんて、本当に優しいかた――お鬼久は含み笑いをした。愛くるしい目つきは、若彦の心をたびたび射抜く。
「竜子通りでお見かけしたとき、思い切って声をおかけしたのは大正解でした。あのとき若彦さんがわたしをお忘れになっていたら、今日というすてきな日はありませんでした」
こればかりは史織の手柄であることを否定できない、と思っていると、幽霊は空中からウインクを飛ばしてきた。感謝の意を込めて、若彦は軽く頷いた。
「お二人の気持ちがアザミさまにとっても癒しとなりました。だから、わたしも幸せです」
ようやく笹藪を突破して登山道へ出た。バス停まであと少しだ。お鬼久が言う。
「わたし、とっても嬉しいんですよ。お礼というのではありませんけど、おふたりにはもう一つ秘密をお教えいたしますね。きっとアザミさまも許してくださいます」
「秘密?」
「はい。岩屋の入り口の注連縄や、壁に貼られたお札をご覧になりましたか?」
「見たよ。アザミさんの話を聞いてから、あれが魔除けだって分かった」
「じつはアザミさまを守るために、渡螺山の至る所に呪いとお呪いが施されているのです。土の中や木の上に隠されていて……それらの力で、アザミさまに対してよくないことを考えるものは誰であろうと入山できなかったり、山にアザミさまがいることにさえ気がつかないのです」
頭上で史織が感心する。
「ふーん。つまり岩屋に辿り着けるかどうかが、アザミへの気持ちを試すテストってわけ」
「でも俺たちタヌキ……じゃなかった、貒の案内であっさり着いちゃったけど」
「ですからわたしも驚きました! 貒が自分から人間に近付くなんて初めてなのですよ。若彦さんと史織さんが特別という証拠に違いないです。わたしたちのようなお化けを嫌う方ではなくて、ほんとにほんとによかった……!」
「嫌う理由がないって。飛倉には驚かされたけどね」
「あはは、飛倉さんはアザミさまのボディーガードですから。血は吸われてませんか?」
さらりととんでもないことを言う。吸うのかよ、血。
一行は登山道を抜けた。お鬼久は歩き疲れた貒を抱き上げ、波打つ背中を優しく撫でた。貒は目を閉じ、満足げにむきゅぅと鳴く。史織が呆れ気味に言う。
「甘えんぼだなー……」
「ふふっ、ほんとですね。甘えんぼといえば、アザミさまも。今日はおふたりがいらしたからあんなでしたけど、わたしとふたりきりだと甘えんぼさんです。一緒にお風呂に入ろうとか、一緒に寝てほしいとか……困っちゃいますね、んふふ」
岩屋には温泉の湧き出す浴室や氷室もあると聞いた。加えてお鬼久の寝室なども用意されているそうだ。それにしても――言葉とは裏腹に、お鬼久はとても嬉しそうである。恍惚ともいえる表情ではないか。だが彼女は、自分の緩みきった表情筋にはまだ気付いていない。
「今朝も、おいしいさつまいものお料理が食べたいなんてわがまま言って。また今度って言ったのに、どうしても今日食べたいだなんて、えへへぇ……こほん!」
気付いた。
「わ、わたしの方がおねえさんなんだから、ちゃんと言うこと聞いてもらわなきゃ、ですねっ」
「えっ、お鬼久さんのが年上?」
意外だ。姫の外見は自称享年二十歳の史織より大人びているというのに。
「あっはい。わたしは安永生まれですから」
いつだよ。若彦とは百歳以上の年齢差があるのは確実だった。
何か言いかけたとき、仰々しいエンジン音と共に空色の市営バスが来て、三人の目の前に停まった。今日のところはこれにてお別れ、ということか。
「若彦さん、史織さん。今日はどうもありがとうございました!」
貒を抱いた鬼娘が、丁寧にお辞儀をした。いきなり押しかけてごめんねと言って、若彦はむくりと起き上がった白い肢体の幻想を押さえつける。お鬼久を前に、ばつが悪いことだ。
「あの、アザミさまが最後におっしゃったこと、どうか忘れないでください」
岩屋を出る際、アザミは意味深長な忠告を発していた。
――逢魔時には用心して。
――妖怪は、黄昏の薄闇から姿を現すものだから。
逃げた殯坊が、今後どのような行動に出るかが気懸りだ。再び復讐が遂行されるより先に、秋嘉の傷が癒えていれば良いが。
夕陽照り映える茜雲に向かって、烏の群れが飛んでいく。
「カラスが鳴くからかーえろっ!」
バスの運転手は気を利かせて、若彦が別れの挨拶を終えるのを待ってくれている。かの中年男性の目には、自分とお鬼久はどのような関係に映っているのだろう? まだ開いたままのドアをちらと見て、お鬼久に問うた。
「また来てもいいかな?」
「もちろんです!」
お鬼久は満面の笑みで即答した。
「じゃ、またねお鬼久!」
「お気をつけて!」
少年と幽霊は鬼娘に手を振って、田舎のでこぼこ道には不似合いなほど小奇麗なバスに乗り込んだ。料金は一人分、死者はノーカウント。
山並みに沈む太陽は、妖魅を蹴散らす光の塊か、あるいはこの世に滲む地獄の業火か。どうか前者であって欲しいと願う。
ブザー音が高らかに鳴った。バスが動き出し、渡螺神社前のバス停も、脇に立って見送るお鬼久も小さくなっていく。
がたごと、がたごと。
乗客も疎らな車内、シートに身を鎮めた若彦は、今日という日の充実感を噛み締めていた。
当面の目標は定まった。
秋嘉の友達になる。
こんなに簡単で、こんなに難しいことはないだろう。完全なる安眠はまだ遠い。
秋嘉――。
人間であって人間でない。
罪人であって罪人でない。
少年であって少年でない。
「あ」
「ん、なんか忘れ物?」
吊り革で体操選手の真似をしていた史織が、ぱたりとシートに落ちた。
独り言のように若彦は言う。
「大事なことを訊き忘れた……」
性別。
こうなったら、本人に直接確かめるしかない。
三度秋嘉に会うときを夢見る胸の内には、声を上げて走り出したくなるように初々しく新鮮な、青春の期待と不安が去来していた。