第三章・怨首の操り手《くらやみにうらみかなでるもの》
「ぅあーぁ……」
「んだよ顔よりデカい口開けて。また寝不足か?」
「まさか昨夜も一緒に寝るとは思わなくてさ」
「は?」
「あっ……なんでもない!」
屋上で腹を満たした途端、また睡魔が揉み手をしながら擦り寄ってきた。
「おいコラ誰と寝たってんだよ!」
「だからなんでもないって」
追及を適当に躱し、若彦は階段を足早に降りる。委員会の仕事とやらでパソコン室へ行かねばならない圭祐は、友の意味深な態度に些かの疑問を呈しつつ東棟へ向かった。
「……幽霊と同じベッドで寝てただけ、なんて」
言っても信じないだろう、と言い切る前にまた欠伸。涙もじわり。
1‐Fの前で立ち止まると、軽く呼吸を整え、そして心の準備も整えて、ゆっくりと教室内に足を踏み入れた。もうこの時点で、睡魔はつれない若彦に愛想を尽かして引っ込んでいた。新たに寄り添うのは、地雷原に踏み入る緊張感だ。
室内を見渡す。昼休みの中途、残っている生徒は半分もいない。幸運にも、いや残念ながら――その面々の中に瑞希と楓奈はいなかった。
「あーまのっ!」
窓際、若彦の席辺りで風を浴びつつ友人と話していた女子が呼びかけ、腕をぴんと上に伸ばして手招きした。細い手首には黒いビーズのブレスレット。丸園あおいだ。
「なに?」
招かれるまま窓辺へ歩く。あおいを取り巻く女子五人は、得体の知れない笑みを浮かべて若彦を迎えた。
「誰探してんの?」
「え……輪田さん……だけど、別に俺は」
「わーかってるって! 天野は女子にヘンなことできるようなヤツじゃないもんな」
「あぁ、まあね」
どことなく引っかかる物言いだが、間違ってはいないので苦笑した。するとあおいも声を上げ笑って、若彦の肩をぽんぽん叩いて女子の輪に引き入れた。嫣然とでも表すのだろうか、微笑む少女たちに囲まれた若彦は、額に汗を滲ませた。教室に入る前とは別種の緊張だ。
「ほとぼり冷めるまで近付くのはよしなって。また殴られるかもよ」
あおいが内緒話でもするような小声で言った。若彦はそれは困るなと応じる。
「なんなら瑞希の連絡先でも教えてあげよっか? あ、ダメだなバレたらアタシが殴られる」
「行方さん、やっぱまだ怒ってる?」
つられて若彦もひそひそ声で尋ねる。
「うーん、怒ってるっつか怪しんでるっつか……とにかく、天野を瑞希に近付けたくない感じだな。昨日は休んでたからアレだけど、今日は休憩の度に瑞希連れ出してるだろ?」
ああ、と若彦は納得する。だから瑞希と話す機会が得られないでいるのだ。謝罪と幽霊についての説明をしようにも、楓奈が睨みを利かせている限り、害獣は近寄ることもできない。
「しっかしさあ、おとといは何がどーしてあんな修羅場になったんだ?」
若彦の机に尻を預けたあおいが言った。例の瑞希号泣事件である。
「さあ、俺だって知りたいよ……完全な濡れ衣だから。あの日は丸園さんたちの視線が痛かったなぁ。色々終わったと思ったよ」
「あははっ、ごめんな! だって瑞希は突然泣き出して保健室行きだし、楓奈はえらい剣幕でアマノアマノ吠えてるしさ、あれじゃアタシらだって身構えるのもしゃーなしじゃない?」
「でも、私たちも一応謝っとかなきゃね。天野氏すんませんでした!」
「冷静に考えてみたら変な話だもん。ちょっと後味悪くなっちゃって」
「どうせ楓奈の早とちりでしょ? 天野君も災難だったよねぇ」
「二人揃って天然なトコあるからなぁ、あのカップル!」
美しい花たちは一斉に笑った。花園に迷い込んだ若彦は、自分の場違いさ加減に居心地悪さを感じている。だから、鞄に空の弁当箱をしまうと、そそくさ立ち去ろうとした。
「おぉい、どこ行くの?」
「ちょっと図書室に」
「マジメ!」
「そんなんじゃないって。じゃ」
「待ちなよ。もっとアタシらとも親睦深めようぜ。女の子キライかい?」
「いや、はははっ……」
直截的過ぎて答えづらい。煮え切らない態度の若彦を、あおいは笑って窘めた。
「んな消極的じゃ彼女もできないぞ? オンナは押しの強さとコミュ力で落とせるんだって。まあ雑談でもしようや天野。あのさ、アタシらさっきまで怖いハナシしてたわけ。怪談ね」
「はあ」
「ほれハナシを広げる草食系。グイっと! アタシらの肉に食いつかなきゃ」
「……ええっと、どんな怖い話?」
まさか教室に幽霊が出たなどと言い出すのではないだろうなと心配していると、あおいは唐突に弦楽器を爪弾く真似をしてみせた。 ……エアギター? 今どき?
当惑を無視して、あおいは低い声を出す。その横で、カチューシャで前髪を上げた不動みゆが口笛を吹き始めた。初めは意味が分からなかったが、文脈からして恐怖を煽るBGMのつもりだろう。ひゅうどろどろのひゅう、といったところか。
「ここ最近、流青界隈じゃ夜中になるとおかしな音が聞こえてくるんだって……みゆ口笛うるさい。コホン。誰が鳴らすのか、どこで鳴ってるかもわからない、物悲しくって不気味なリズムで……強い怨念を感じるような音なんだって」
「ギターの?」
「じゃなくてさ、べべんべェん――って。あの、ホーイチのやつ」
「ホーイチ……?」
「ホーイチだよ。あぁなんだっけほら、耳ちぎられる人!」
「耳……耳なし芳一か。ってことは確か」
琵琶――と若彦が言ったと同時に、あおいはぽんと手を打ってソレダッとヘリウムガスでも吸ったような声を出した。テンションの高さは史織に通じるものがあるな、と若彦は和む。
「やっぱしビワじゃん。誰だよ馬頭琴とか言ったスーホ!」
小学校低学年の思い出が白馬に跨り脳裏を横切ったが、今はどうでもいいことだ。
深夜に奏でられる琵琶の音。そんな妙な噂話は初耳だった。
「それって不審者?」
「夢を忘れた古い地球人かお前は! そこはウソでも幽霊⁉ とかって怖がれよ」
「幽霊なんていないでしょ」
我ながらよくこんな白々しい台詞が吐けるな、と心の中で冷笑した。
「や、アタシもしょーもない作り話と思ったんだけどさ、サンダルがホントに聞いたって」
彼女が言ったサンダルとは履物ではなく、クラスの女子でも抜きん出たバカ――もとい、お調子者である三田琉唯のことだ。サンダルは鼻を膨らませて、興奮気味に言った。
「ウソじゃないから! 夜中の三時にね、もう寝ようと思ったらビンビン聞こえてきてさ! カーテン開けて見ても外には誰にもいないの。でも音は五分くらい鳴り続けてた‼ もう」
きンもちわるかったあ! と、サンダルは大袈裟に震えた。一方の若彦は、ふぅんと無味乾燥な声を漏らしただけ。語り甲斐のない相手と思ったか、サンダルはがくりと肩を落とす。
なるほど、音はすれども姿は見えず、であるがゆえに怪談なのか。琵琶を弾く幽霊なり妖怪なりがいるのかも知れない。若彦は楽器を演奏してエキサイトする史織のイメージに頭の中を占領されていた。とことん怖くないが、瑞希だったら絶叫して逃げだしそうだ。
「まあ、実際に聞いてみないと正体なんて分からないね。それに音だけで実害がないなら闇雲に怖がることもないんじゃないかな。仮に幽霊や妖怪が夜中に琵琶を弾いてたとしても……ただのヒマ潰しだったりするのかも」
「呑気な解釈だなあ」
あおいが笑った。呑気なぐらいが丁度いいよ、と自分でもよく分からないことを言って、若彦はやや仰々しく掛け時計を気にしてみせた。
「はいはい本読みに行きたいのね……天野!」
何度も話を振られて嬉しいやら煩わしいやら、緩やかにあおいを見た若彦は、降り注ぐ昼下がりの陽光に目を細めた。
「瑞希と楓奈さ……詳しい事情までは教えてくれなかったけど、あの二人だって、きっと悪気があってあんたの名前を出したんじゃないはずなんだ。暴力ふるったこととか、謝るようにアタシらからもやんわり言っとくからさ、あんま悪く思わないでやってよ」
今までのあおいとは違って、心持ち不安の影がちらつく発言だった。
「わかってる」
若彦は小さく頷いて、穏やかに答えた。先程までのやりとりから、彼女らが自分を嫌っているわけでないと分かったのは大いなる収穫だった。気分も晴れやかに歩みだす。
昼休みはあと八分。目当ての本を探してくるだけの時間は、まだ充分に残されていた。
*
夜の帳が降り、日付が変わってからも随分経つが、築十四年の天野家二階、一人息子・若彦の部屋から灯りが消える気配はまだなかった。
「ねーねー若彦もう寝ようよー。夜更かしは美容の敵なんだよー?」
勝手に宿泊した挙句、独断で居候を決めこんでいる史織がベッドの上で音もなく跳ねた。
何が美容だ。とても幽霊の台詞とは思えない。
「一緒に寝ようよー。私もう眠いんだけど!」
困ったことに、幽霊は夜になると人肌恋しいなどと宣って、若彦のベッドに潜ってくるのであった。幽霊とはいえほぼ同年代、友人ならぬ友霊とはいえ女性、緊張なのか興奮なのかは判別がつかないが――若彦は寝たくとも寝つけなかった。昨日も、一昨日もそうだ。
もっとも、眠れない理由は他にもあったのだが。
「なんで本なんか読んでんの! 読書の秋にはまだ早いってば。睡眠の残暑だよ!」
なんだそれは。無視して頁を繰る。古い本の、湿気含みの匂いがふわりと舞い上がる。
「もー、今日も瑞希と接触取れなかったからって現実逃避はやめてよね!」
存在が非現実的な幽霊が何を言うかと呆れつつ、次々頁を捲ってゆく。
「若彦が事情話してくんないと、私いつまで経っても学校に遊びに行けないじゃない」
来なくていいのだが。
「あ、これかな? 閻羅王のつかいの……」
閻羅王の使の鬼の召さるる人の賂を得て免しし縁。
手を止め、内容を精読する。探している名は――。
「ねー、さっきから何読んでるの?」
幽霊も本に興味を持って、ベッドから若彦の背にひょいと飛び移った。首筋にひやりと冷たさを感じる。史織の手は、残暑の夜には丁度良い首巻となった。
手元の定規を栞代わりに本を一旦閉じ、史織に表紙を見せてやる。
「にほんれーいき?」
「日本霊異記ですよ史織さん。覚えてないですか」
「りょーいき……? どこかで聞いたような、聞いてないような」
史織が背後で首を傾げた。鬼、と一言ヒントを出してやる。
「オニといえばアザミとお鬼久と……あっ! 三麻呂が載ってるって本!」
「正解。載ってましたよ三麻呂さんのこと」
「えーっ⁉ それ元々は平安時代の本なんでしょ? あの三バカ、ホントに長生きしてたんだね……ハッタリかと思ってたよー」
史織のおかげで盆の夜の記憶を取り戻した若彦は、学校での騒動とお鬼久との再会を経て、三麻呂の経歴にも関心を持つようになっていた。鬼たちはミステリアスで疑問だらけ、だが彼らについては自分でも調べられる。〝できる問題から解く〟は、テスト以外でも活用すべき人生の鉄則だ。そこで学校の図書室から『日本霊異記』を借りてきたのである。
「どんなお話なの?」
よんで、と史織は幼児のようにせがんだ。若彦は再び本を開くと、要望通りに読み聞かせを始めた。ただし古文を適宜口語訳しながら読むため、ひどくたどたどしい口調だ。
さて、三麻呂が人類の手で初めて記録された記念すべき「閻羅王の使の鬼の召さるる人の賂を得て免しし縁」とは、概ね次のような話であった。
聖武天皇の時代のことである。
平城京左京六条五坊、大安寺西の里に楢磐嶋という者が住んでおり、寺の金を借りて商売を行っていた。だが磐嶋は越前敦賀の港で急病に襲われ、取引の後に単身出先から帰ることになってしまった。
馬に乗っての道中、磐嶋は己を尾行する三人組の存在に気付く。何者かと問えば、彼らは閻羅王、つまり閻魔大王の王宮からの使いで、楢磐嶋を召し捕りに来た鬼であると答える。
我らはお前を捜し、寺のための商いを終えるまで何日も待ってやったせいで腹が減った――そんな鬼たちの言い分を聞いた磐嶋は、彼らに糒を与え、更には家に連れ帰って料理を振る舞った。
鬼たちが牛肉を欲しがったため、磐嶋は牛二頭を与え、引き換えに延命を頼み込んだ。すると鬼たちは、お前を見逃せば我らが重い罪に問われ、鉄の杖で百回打たれる罰を受けると言う。だが彼らは磐島とある約束を交わし、身代わりとして彼と同い年の易者を冥府に連行した。
磐嶋は約束通り、大安寺の仁耀法師を訪ねると、三人の鬼――高佐麻呂、中知麻呂、槌麻呂の名を呼び上げて『金剛般若経』百巻を読誦してもらった。
三日後、再び鬼たちがやって来て、経の功徳で罪を免れたうえ、食事の量まで増やしてもらえた――と喜び、消えた。
結局、楢磐嶋は長寿を保ち九十余歳まで生きたという。
「うーむ……」
本を閉じると、眉根を寄せて史織が唸った。
「これはひどい!」
全くもってその通りである。
人間でいえば、公務員が賄賂を受け取って民間人の不正に加担し、剰え無関係な人物の権利を侵害したようなものである。世間からの袋叩き請け合いの醜聞だ。生年が同じだけであの世行きが決定した易者とやらは、完全なとばっちりで不憫極まりない。しかし食欲に負けて職務を曲げた三麻呂は、磐嶋の力添えもあって罰を受けるどころか食事が増える好待遇。
これでハッピーエンドか鬼たちよ。それでいいのか閻魔大王。だが――。
「このときは許してもらえた三麻呂さんも、後には地獄を追い出されるんだよなあ」
若彦は形容し難いしみじみとした感慨をこめて言った。バカだからねと史織が嘲る。
「どーせこの件で味を占めて、同じこと繰り返したんじゃないのー? 一回きりなら美談でも、何度もやらかしちゃタダの職務怠慢だよねー。クビにもなるよ。バカ丸出し」
大方そんなところだろう。あの迂闊な鬼たちが、食事目当てに規律違反を犯すのは想像に難くない。仏の顔も三度まで、普段から凄まじい形相の閻魔様が、お経の功徳で部下の不祥事を大目に見るのも三度くらいが限度と思われる。時は流れ、三麻呂はとうとう閻魔庁の使者という身分まで剥奪されて地獄から放逐、今では人間界で浪々の身ということか。
だから、地獄へ帰るために。
「人間界で功績を挙げて、閻魔大王に許してもらいたかったんだ」
「あーやっぱバカだ、三バカだよー。あのマヌケっぷりじゃ職場復帰も永遠にムリだって」
けらけら笑う声に紛れて、ぺん、という張り詰めた弦を弾く音が聞こえた――気がした。
瞬時に思い浮かんだのは、昼間教えられた妙な噂だ。
「ちょっと静かにして」
「あははっ、だーいじょぶだよ若彦! 私の声なんか誰にも聞こえないんだからさ。今頃お母さんもお父さんもぐっすりしっかり夢の中だよー。そろそろ私たちも夢のむぎゅ」
うるさいので手で口を塞いでやった。史織は初めの数秒こそじたばたしていたが、若彦の温もりが口元に伝わってきたことが嬉しいらしく、すぐに黙ってしまった。そうして、愛おしげに若彦の手を、自分の両手でぎゅっと掴まえて口に押し付けた。
「史織さん……!」
これでは掌への熱い接吻だ。気まずく思い始めたとき、再び空気の振動が、殆ど幻聴のような幽かさで奏でられた。また一音だったが、今度は長く揺れるような暗く、重い音だった。調律でもしているのだろうか。
いやに耳に残る音色である。まだ少し蒸し暑い夜だというのに、背に鳥肌が立った。
史織と若彦は顔を見合わせる。
「三味線かなー?」
「琵琶ですよ」
若彦は、自分の昼休みには似つかわしくない、あの華やかな窓際を思い起こしていた。
大層らしく抑揚をつけて、アシンメトリーなショートボブの髪をかき乱し、三田琉唯は何と言っていたか。琵琶は、奏者の姿が見えないのに鳴り続けると言ったのではなかったか。
怖いもの見たさが若彦を突き動かした。
椅子から立つとためらいなく窓辺に進み、さっと青いカーテンを引いた。
見下ろす景色は無機的な住宅街の夜そのもので、アスファルト道に立つ者はいない。昏黒とは名ばかりの、街灯の白光が作り出す中途半端な薄暗がりが味気なく横たわっているだけに思える。無人の街路をしばし観察しつつ耳を澄ませていたが、三度目の琵琶は鳴らなかった。姿なき琵琶打ちが去ったか?
誰か来たよと言って、史織が窓に映った若彦の胸板を指差した。
目を凝らすと、斜向かいの家のブロック塀の前を横切る人影が確認できた。暗灰色の路上、こんな季節にロングコートを着て出歩いている。その姿を見た途端、若彦の頭には衝撃の電流が走った。
秋嘉だ!
急いで窓を開けると身を乗り出し、美少年の名を呼ぼうとした。だが。
「うぉえー!」
いきなり史織が頓狂な声でえずいた。袖で鼻と口を隠し、涙目になって窓しめてと連呼する。若彦はわけも分からずに窓を閉め、ついでにカーテンも閉めた。秋嘉は遠ざかってしまっただろうと秘かに落胆したが、急に取り乱した史織のことも気になった。今度はヤバイヤバイと繰り返して、落ち着きなく部屋の中をうろうろしている。
「史織さん、史織さん! どうしたの、何かあった?」
「若彦わかんなかったの? 外の空気ヤバかったのに!」
「どういうこと?」
はしゃいでいるのではなさそうだ。幽霊はむしろ、何かに怯えている。
若彦ははっとした。酷似した状況を経験していると気付いたからだ。盆の夜起こった、あの悪夢より悪夢的な惨害も、こうしたやりとりの直後に発生したのだ。
「……地獄がまた来るのか」
煮え湯の気泡のごとく止め処なく湧いてくる血の記憶が、胃と心臓を締めつけた。絞り出した一言に、史織は跳ね回るのをやめて無言で頷いた。
緊張が高まる。
体中で太い血管がどくどく呻いていた。闘争か逃走か、血流に乗って駆け巡るアドレナリンが頻りに決断を迫る。顔中に脂汗を浮かべて、若彦は考えた。
「地獄……炎……化物……琵琶……秋嘉……封じる……俺は、怖いのか……?」
どうする? どうしたいんだ、考えろ。じっとしてたって――死ぬだけだ。
幽霊は、ぶつぶつ呟く少年の意思に去就を委ねて、結論が出るのをただ待った。
「よしッ!」
若彦は掛け声と共に両頬を手で叩いた。そして固唾を呑んで見守る史織を気にも留めず、パジャマのボタンを外して胸をはだけた。
「わーっ! 若彦まってまって私にも心の準備とかあるからイキナリそゆのはちょっと!」
早とちりした史織が、生きた人間のように頬を赤く染めて慌てた。可愛いのだが――そう思う心のゆとりはない。Tシャツに着替えジーンズを履き、携帯と財布をそれぞれポケットに押し込み、腕時計を巻き、ベストを羽織り、最後に眼鏡をくいと上げた。これぐらいの装いでなければ、外出するには心許ない。準備を整え、ようやく史織に声をかけた。
「行こう!」
「行くって、どこへ?」
「とりあえず秋嘉を追いかける。まだそう遠くには行ってないはずです!」
「……わかった。私も行く!」
こうして二人は親に断りも入れず、自転車で夜の街へと躍り出た。
既に深夜二時十分、草木も眠る丑三時を迎え、流青は魂が抜けたように静まり返っていた。
自宅から遠ざかるにつれ、街は異界の妖気を濃厚に漂わせた。車輪が回転するごとに家々に灯る光は消え、近くを走る車の気配さえもなくなった。異様な静寂は、まるで廃墟。
少し進んだところで、突然後ろのタイヤから勢いよく空気が噴き出して、ペダルがひどく重たくなった。
「こんなときにパンクかよ!」
見れば、建設現場に落ちていた釘を後輪が運悪く踏んでいる。これではすぐには直せない。若彦は仕方なく自転車をその場に置いていくことにした。
ひとまず駅や大通りがある方面を目指し、東へ歩く。もしまた炎が噴き出して、あの筋肉の塊にも等しい鬼が出現した場合、狭く入り組んだ路地にいるよりは逃げ回りやすいと考えたからだ。
住宅地を抜け、街の中心部へ近づくに従って、道路脇に大きくもないオフィスビルや小売店が増え始める。深夜営業の店舗や街灯はよそよそしく輝きを発し続けているが、いまだに生きた人間の活動を確認できない。本当に、街中から自分以外の全員が忽然と消えてしまったのではないかと不安を覚えるほどだ。真夜中とはこんなものだろうか。無自覚に品行方正な生活を送ってきた若彦は、夜の街を知らなかった。
信号機が陰火のように明滅して、赤い眼を開いた。止まれと訴える縦長の瞳。
「誰もいないんだから渡っちゃえばいいのに」
ダッコちゃん人形。過去の遺物めいた比喩がふさわしい体勢で腕にしがみつく史織に、ですよねと言って同意はしたものの、やはり若彦は横断歩道の前で動こうとしない。
「でも、交通ルールを守りましょう、ですよ。こんな夜にバカげてるかも知れませんけど」
規範観念で自縄自縛に陥っているのと、待っている間に自動車の一台でも横切らないかという期待がそうさせるのだ。こんな自分を少し滑稽だと思った。
「とーおりゃんせ、とおりゃんせ……」
ここはどこの細道じゃ。信号機にイメージを喚起されて史織が歌いだした。
秋嘉はどこへ行ってしまったのだろう。見当もつかないので、何気なく上を向いてみた。夜空はくすんでいる。星空でも月夜でもなく、どろどろ流れる排ガスと煙草の混合物のような雲がひたすらに邪魔な、無感情に濁った空だった。白湖の空をもう一度見たくなる。
信号がちょっと親しげにウインクして、眼の色を変えた。
「そーっととおしてくだしゃんせ」
御用のないもの通しゃせぬ。
そうか、きっと用がないから他の人たちはいなくなってしまったのだ、と若彦は夢想する。いよいよ後戻りもできはしないと実感した。
白黒の縞の中程で、ふと背後に気配を感じて振り返った。当然のごとく、そこには何もいない。ただ先程よりいくらか濃度を増した暗闇が、風に揺れているだけだった。
市道に沿って歩き続ける。秋嘉の動向も、地獄の炎の前兆も、分からない。凡庸な、十六歳と四ヶ月の少年にとっては、漠とした恐怖が延々続いているようなものだった。
「行きはよいよい」
帰りはこわい。
「こわいながらも」
と、お、りゃんせ、通りゃんせ。
若彦は徐に拍手をした。史織の歌声は、意外と澄んでいて耳触りが良い。だが。
「絶妙に不気味な選曲でしたね」
「えへへっ。じゃあ次は明るい曲いってみよーか。何がいい?」
そうですね、と何か言おうとしたとき、急に空がガラゴロと唸った。雲の上で大岩を転がし擦り合わせたような音だ。史織と若彦は空を見上げて身構えた。
「まさか、今度は空から?」
炎が噴き出したらすぐ逃げなければならない。怪音は間断なく鳴り続けながら音量を増していき、不安と緊張を使役して若彦の鳩尾辺りをぐいぐい突き上げた。吐きそうだ。
そして――。
西の空に、雲を裂いて真一文字の切れ目が入った!
空中の細隙は瞬時に伸び、赤く禍々しい輝きを発する。遥か虚空から照射された光により、地上の少年と幽霊は緋色に染め上げられた。裂け目の長さたるや、目測で軽く五十メートル以上はある。
「裂けたッ!」
天が裂けた!
以前よりずっと長大な、この世ならざる場所への出入り口。炎と共に降りてくるのは、果たして鬼か、もっと恐ろしいものか。
赤い裂け目は、自身の輪郭に沿う暗雲の襞を作りながら拡張していき、やがて血の滲む重度の挫創にも似た細長い楕円に形を変えた。こちら側を呑もうとする大口だ。
若彦は逃げるのも忘れて、裂け目の向こう側に広がる世界に釘付けになっていた。
峻峭な、巖の松毬とでも形容できそうな大山を包み込むように、逆巻き燃え立つ無限の紅炎。炎の合間、岩の隙間で絶え間なくうねる夥しい胡麻粒は、終わりなき無上の苦しみに咽び泣き、あるいは狂い叫ぶ、膿血に彩られた堕地獄亡者の群れであろう。
「あれが……地獄」
次の瞬間。空中の異界の、そのまた内部の空中で煤を噴き上げていた溶岩様の雲が、わっと発光したかと思うと、鼓膜が千枚あっても悉く劈いてしまいそうな凄まじい大音響を伴って爆発を起こした。直下の街並みに、尾を引いて燃える隕石のような物体が数えきれないほど降り注いで、人間たちの築いたちっぽけな建造物を完膚なきまでに破壊しつくしていった。
「うわああっ‼」
隕石に次いでこの世まで到達した衝撃波は、周囲にあった全ての窓ガラスを叩き割り、電線を引きちぎると、若彦自身の体からも自由を奪い、後ろ向きに吹き飛ばした。
ここまで、地獄が口を開けてからほんの数秒の出来事である。真夜中の街は、今や炎のため白昼よりもなお明るい。けれども、人の気配はぱったり絶えたままだった。
若彦は無意識のうち史織を胸に抱き込み、間近にあった郵便ポストにしがみつくことで体勢を維持していた。そして自分が辿ってきた方角を顧みて、まさに茫然自失の最中にあった。
爆心地――そんな言葉がまず浮かぶ。
先程まで人間の住まいだったものは、灰色の瓦礫と化している。無意味なるコンクリートの塊、折れた木材、飛び出た鉄筋で破壊られた死のモニュメント。少し前まで本を読んでいたというのに、その自宅は今や跡形もなく崩れ去り、どこにあったかすら分からない有様。当然、街はそこに暮らす人々諸共崩壊したに違いなかった。父母も友も隣人も、みな炎の嵐で焼き尽くされたとみえる。苦しむ間もなく、助けを求める時も与えられずに。
死!
見渡す限りの、死。
「なんだよこれ……死んだのか? みんな、父さんも母さんも」
瓦礫の山は、死骸を隠し抱いて黙々と煙を吐いた。地上の炎は、西から勢いを増してこちらへ伸びつつある。足元に至るまでのアスファルトは無残にひび割れ、めくれ上がっていた。
ファーストインパクトの後、世界は少しの静けさを取り戻していた。空中の地獄からは相変わらず熱風が吹きつけてくるが、飛来する火山弾と衝撃波は先の一度きりだった。
震える脚で立ち上がった若彦は、涙混じりの悲愴な声で叫んだ。
「だれかーッ! いるなら返事してくれ! どうして……どうしてこの街に、俺たちしかいないんだ! そんな、ふざけた話が、あるのかよおーッ‼」
SOSは隣の幽霊以外に聞く者もなく、若彦を余計な失意に追いやるだけだった。
寄り添う史織がぴくりと動いて、無彩色の残骸を見やった。
死の丘の向こうから、揺らめく火炎のオーロラを越えて近づく複数のものがいる。背丈からして人間ではない。きっと四足歩行の獣だ。犬、と若彦は呟いたが、影絵クイズの答えは生憎誰も教えてくれなかった。
困惑も束の間、火と粉塵と瓦礫を突破して接近する獣の全貌は、すぐに鮮明となった。
筋肉質な、狼に似た四足獣たちは、明らかに若彦を目指して疾駆していた。金属光沢のある黄味を帯びた体毛はそれだけで充分に威圧的だったが、何より恐ろしいのはかれらが剥き出している牙だった。ずらりと生え揃った錐形の凶器は、エナメル質でなく炎によって構成されている。獣たちは、炎の牙で罪人を食い殺す地獄の使者だったのである。
くそッ――若彦は柄になく悪態をついて、逃げようと史織に言った。
「でも若彦、ガラスが!」
見て見ぬふりをしていたことだが、先程から疼く右足の甲には、三角形の鋭利なガラス片が靴を貫き刺さっていた。スニーカーに真っ赤な血が染みている。若彦はガラスの上端をそっと摘み、歯を食いしばって一気に引き抜いた。
「うぐぅッ……‼ なんてね、骨が見えてないから大丈夫さ。行こォあああッ‼」
痩せ我慢で押し切って走り出したはいいが、一歩目にして耐え難い激痛に襲われた。若彦はその場に倒れて蹲った。泣きっ面に蜂、今度は頬を擦り剥いた。心配する史織に言う。
「先に行って!」
「私より自分の心配してっ!」
若彦の痛々しい姿に、史織は今にも泣き出してしまいそうだ。肉体が滅んだ幽霊でも、心は変わらず生きている。友を見捨てて逃げることなどできない。そんな彼女の想いを自然と読み取れたからこそ、若彦は意地でも生き延びてやろうと決心した。
止まっていたら命はない。再び立ち上がると右膝を抱え込み、片足跳びで前に進んだ。着地の衝撃が、一歩ごとに気を失いそうなほどの鈍痛に変換されて襲いくる。この方法も数歩が限界だった。五メートル程度進んだところで、また体がぐらついた。先導していた史織が手を伸ばすが、届かない――。スローモーションで猛獣が迫る。
そのとき。
「よっ!」
「ほっ!」
「はっ!」
細い腕と太い腕、そして並の腕が伸びて、若彦の胴をしっかり受け止めた!
史織が歓喜して、突如現れた三人を呼ぶ。
「高佐麻呂、槌麻呂、ナントカ麻呂!」
「中知麻呂だっつの!」
「ぶははは! まだ覚えられておらん!」
「笑ってんじゃねェよボンレスハム男!」
「たわけ、若彦殿の前で下らん言い合いはやめんか!」
口喧嘩の応酬もそこそこに、縦列を組んだ鬼たちは若彦と、彼に抱き着く史織を御輿のように担ぎ上げ、一目散に走りだした。これが存外、早い。あっという間に獣の群れを撒いて、破壊を免れた大通りのど真ん中を、三麻呂トレインが爽快に駆け抜ける。
「三麻呂さん、ありがとう!」
「こないだの詫びと思ってくれ! しかしお前もツイてねえぜ、また地獄見るなんてな!」
中知麻呂がここまで頼もしく見えるとは思いもしなかった。史織が興奮して言う。
「スゴいよ三麻呂、鉄の鞭で叩くのはやめたげるね!」
「おお、読まれましたか『日本霊異記』! そもそも最初に牛肉を欲しがったのは槌麻呂でして、私は不正はイカンと再三再四忠告しておったのですが――」
「無駄口を、はぁ、叩くな!」
最後尾の槌麻呂は息が上がっている。あのリンゴ型肥満体で走り続けては無理もない。
「ひはーッ、ふへーッ」
「まだ一分も走ってねぇだろうがよ!」
「日頃メシをどかどか喰う割に燃費が悪いではないか!」
仰向けに担ぎ上げられた若彦は、頭を上げて後ろの様子を見た。獣が二頭、三麻呂との距離を詰めながら猛追している。追いつかれそうだと案じていると、また空が鮮烈な赤光を発し、燃える塊を吐き出した。今度はこちらにも飛んでくる。
「三麻呂さん危ないッ!」
「屈め!」
三麻呂の真上を、一抱えもあろうかという隕石がごうと通り過ぎた。隕石は、先日若彦が友人らとステーキ定食を食べたファミレスにぶち当たって、凄まじい爆発を誘引した。戦争だ。火花と破砕物が横殴りの暴雨となる。地獄からの絨毯爆撃。航跡雲が空でまだ燃えている。
若彦は新たに落ちる隕石の軌道を目で追った。街灯と電柱を薙ぎ倒し、二つに割れた火の玉の片方が、ほど近くにスライディングして鎮火した。燃える隕石の正体は、炎を纏って真っ赤に焼けた分厚い金属片だった。
あれは鉄の塼――金属片を迂回し、先頭を走る高佐麻呂が言った。
「――やはり後ろの獣どもは野干ですな!」
「ヤカン?」
史織が薬缶を想定した口調で訊き返す。高佐麻呂がここぞとばかりに長広舌を振るった。
「野干とは仏典にみえる獣で元はジャッカルを音訳したもの! 本邦においては狐や狼と混同されることもありますが、この手の獣が地獄にもおるのです。我らを追いかけておるのがその野干! しかも連中は炎の牙を持っております。降り注ぐ鉄の塼が打ち砕いた罪人の肉に群がる恐ろしい獣ですな! つまりこの度この世に口を開け災厄を齎しておるのは、阿鼻地獄眷属十六別処の一つ鉄野干食処! 仏像、僧房、臥具を焼き払った者が堕ちる地獄です!」
「全然わかんない!」
「なんとぉ!」
いつの間にか後方の野干は一頭増え、三頭になっている。
「これから一体どうなるんです⁉」
若彦が訊いた。中知麻呂が自信満々に答える。
「心配ないさ。野干をみんな片づけたら、我らが地獄封じが元に戻すって!」
「地獄封じ? それって、秋嘉のことじゃ」
「いかにも! 秋嘉殿は日夜この世を地獄の業火から守るため活躍しておられるのです。今宵もこの街に来ておることでしょう、街に降りた野干さえ捕らえれば、後は――」
もっ、もお限界じゃあぁ――高佐麻呂の講釈を遮って、槌麻呂が力なく言った。同時に若彦の体はがくがく揺れ始め、無造作に路面へ投げ出された。偶然にも受け身をとれて追加の負傷はなかったが、どうやら槌麻呂の体力は限界を迎えたらしい。仲間二人が立ち止まって振り向くと、肥満の鬼は餅のように地面にへばりついていた。
「おいっ、へたばってんじゃねーよ槌麻呂って、おわ!」
遂に野干に追いつかれてしまった。一頭は強烈な頭突きで転倒させた中知麻呂を足蹴にし、もう一頭は単身逃げ出した高佐麻呂を更に追い立て、残る一頭は――。
脂肪分過多の槌麻呂には洟もひっかけず、最も美味そうな若彦に飛びかかってきた。
「うわぁ俺かよっ! やめろ、やめろぉ!」
人間を押し倒した野干は食欲に舌を躍らせて、熱い蝋のような涎で獲物の顔をべとべとにした。必死で抵抗する若彦は野干の腹を何度も殴ってみたが、己の拳が熱くなるだけだった。若彦の胸と野干の腹の間には幽霊が潜り込んでいるが、こんな状況下では何の助けにもならなかった。まず頭に食らいつこうと凶獣は牙を剥く。若彦がすんでのところで首を動かし躱したため、野干は二度三度と空を噛んだ。翻弄され、怒りのボルテージが急上昇した野干は、前足で小賢しい人間の額を押さえつけた。もう避けられない。史織が泣き喚く。
「嫌ァ! やめてよ若彦食べないでよぉ新鮮だけどおいしくないんだからぁ!」
無我夢中でもがいていると、右手の指先に硬いものが触れた。鉄の塼が砕いて飛ばしたコンクリ片だ。腕を目一杯伸ばしてそれを掴むと、満身の力を籠めて野干の目頭に打ちつけた。熱湯のような血のシャワー。眼を潰された野干は犬のように弱々しくきゃんきゃん鳴き、もんどり打って苦しんだ。
今だ! 若彦は胸元の史織を遠く投げ放って俯せになると、野干の下から這い出ようとした。しかし獰猛なハンターは許さない。隻眼となっても獲物を逃がすまいと、燃える爪を背に突き立てた。
「うわああああああッ!」
ベストとシャツがずたずたに破られて襤褸布となったが、なんとか若彦は脱出に成功する。上半身裸で血まみれ――渡螺山に出現した地獄にて、鬼に叩き潰された女の姿がフラッシュバックし、頭の中は真っ白になった。
「逃げて!」
史織の声で我に返った若彦に、野干が後足で立って覆いかぶさった。もはや捕食ではなく、報復として息の根を止めんとしている。また仰向けに転がされる。胸に爪が食い込み、胸骨ごりごり削られた。貴重な武器も手放してしまった。
万事休す。
そう思った時、一発の爆発音に近い乱暴な銃声が響き、輝きが一直線に走った。
隻眼の野干は、土手っ腹に風穴を開けられて横様に倒れ、白目を剥いて痙攣した。間もなく銃創から火が出て、血がぱちりと爆ぜた。若彦は体を起こして状況を確認する。
腹を撃ち抜かれた一頭の野干。他の二頭は、既に堅い金色の縄で足と口を縛られ、動きを封じられていた。中知麻呂がガス欠の槌麻呂を苦心して起こし、帰還した高佐麻呂は、拘束されてすっかりおとなしくなった野干の背を撫でている。そして史織はまた若彦の胸に戻る。
弾丸が飛んできた方向には、ひしゃげた大ぶりの拳銃を構えて立つ者がいた。
暗灰色のロングコート、黒いブーツと指抜きグローブ。左手に薙刀、同じく左の肩に紐をかけ、美麗な卍崩しの袋を背にぶら提げている。性別不詳の美少年、地獄封じの秋嘉。蓮根のように複数の銃口が連なる奇妙な銃は、銃把以外が黒く焼け焦げて破損しており、もう使い物にはならない様子だ。
「あ、秋嘉……!」
呼びかけには応じない。大いなる後悔を噛み締め、秋嘉は銃を放り棄てた。銃は宙で完全に炭化し、地に落ちる前にばらばらになった。そして、今にもサードインパクトを起こしそうな空を見上げ、秋嘉は深く息を吸う。いかにして封じるのだろう、目を見張った。
秋嘉は虚空の裂傷をきっと見据え、右手を伸ばして、人差し指と中指で炎の本拠を指し示す。同時に、瞳がルビーに変わって紅く輝いた。
「薊手、封じよ」
殆ど口を動かさず呟いた言葉を合図に、肩にかけた袋が膨らんだかと思うと、ひとりでに紐が解け、中から二つの細長い物体が飛び出して天へと飛んだ。宙に舞いあがったそれは、地獄の炎に照らされ、美しい姿を少年たちに披露した。
袋から飛び出したのは、二本の白い腕だった。
肘の辺りで切断され、断面に包帯を巻かれた女の腕だ。紅い爪が艶かしい。
若彦は息を呑んだ。あの細くしなやかな腕は、きっと。
手は全ての指をぴんと揃え、裂け目に向かって飛翔した。矢にも劣らぬ猛突進だ。
「ロケットパンチだー!」
史織の喩えは言い得て妙だった。紅い光の尾を引いて上昇する腕は、さながらロケット噴射を推進力とする兵器のようだ。ただこの生身の腕が飛ぶ姿は、勇猛なだけではなく荘厳でもあり、何より優美に感じられた。
「鬼の手……」
秋嘉の眼。アザミの眼。手を使わずに生きるアザミ。全てが繋がる。
あれはアザミの腕だ!
力強い噴射光は迸る火花のように、あるいは止めどなく溢れる鮮血のように煌めき、地獄が浮かぶ夜空を彩った。二本並んで飛んでいた腕は、ぱっくり開いた裂け目の端まで舞い上がると二手に分かれ、互いに交差しあいながらジグザグに動き始めた。鬼の手があの世とこの世を何度も何度も行き来して、空に紅い×の連なりができあがる。同時に裂け目が狭まって、空に蔓延する炎が異界に吸い寄せられていく。
痛みも忘れて封印の儀式に見入っていた若彦は、鬼の手の役割を理解した。
「裂け目を縫い合わせてるんだ……!」
腕は針。放つ光はすなわち糸。
この世に生じ、火炎の血を吐く巨大な傷を、鬼の両手で縫合する。
それが地獄封じ。
針は反対側の端まで行き着いた。きれい、と史織が呟いた。
雲さえ燃え尽きて真っ暗になった夜空の中心に、真紅の縫い目が神秘的に浮かび上がっている。幻想の極致を見る思いがする、妖しい美しさだ。
「薊手よ、戻れ」
秋嘉の眼から紅玉の輝きが失せた。掲げた右手を素早く静かに下ろすと、鬼の手は上空からまっすぐ帰還した。腕が袋に収まり、またひとりでに紐が締まった。天の縫い目は、地上から見る星よりも小さな粒子となって闇に散り、数秒で跡形もなく消えた。
驚くべき現象はまだ続く。縫い目が消えた直後から、周囲の景色は二重写しとなったのである。オーバーラップするのは、衝撃波と熱鉄の塼に破壊される前の、平穏無事な街並みだ。入れ替わりに瓦礫と火煙に包まれた廃墟が、幻となってフェードアウトした。
こうして世界は修復され、全ては元通りになった。おまけに若彦の胸や足の傷まで癒え、いや消えて、血に染まったはずのスニーカーも元の白さを取り戻した。何も知らずに焼き尽くされた両親たちも、再生されて寝床に還ったはずだ。けれど野干に破られた服は戻らず、若彦は半裸を晒し続ける羽目になった。その理由は――恐らく野干が地獄に返されなかったからだろう。あの世とこの世の関わりを全て絶つのが肝要なのではと、若彦は秘かに推理していた。封印が中途だと再生も半端になるのだろう。
秋嘉は重傷を負った獣の、命の灯を危ぶんでいる様子だ。自分が撃った野干を見つめたままで、若彦に言った。
「歩けるね。いまに街へ人の心が戻る、早く家に帰るんだ」
憂いを帯びた顔、感情の籠らない声。
「あの、俺の服は」
そう問われて初めて、秋嘉は若彦を直視した。やっと服を着ていないと気付き、秋嘉は動揺して俯いた。男の裸で恥じらう――少女のように。
「回復が不完全だった……すまない、いずれ元に戻すから、その」
「いやいいんだ! 助けてもらえただけで充分なんだ、はは……二度目だね。ありがとう」
二度目、という発言に秋嘉が反応した。少しためらうも顔を上げ、若彦に言う。
「君は……。あの夜のことをまだ覚えていたんだね」
「もう一度君に会いたくて外へ出た。俺、天野若彦っていうんだ。山では俺も混乱してて……今夜はちゃんとお礼を言い直そうとおも」
「言ったはずだ。礼は要らない」
「えっ」
「地獄を封じ、巻き込まれた人を守って世界をリセットする、それが僕の義務なんだ。当然の義務を果たしただけの者に礼を言うなんて、ナンセンスだよ」
話すうち、また秋嘉は先程までの無愛想な少年に戻ってしまった。隣に浮遊する史織は、カンジ悪いと言って舌を出した。なんとも正直なことだ。
「今夜の僕は、むしろミスを咎められるべきだった」
秋嘉はそれきり若彦との対話を打ち切って、今度は三麻呂に向かって言った。
「あなた方に頼みがある。傷付いた野干を地獄へ連れ帰ってもらいたい。僕の使いだと言えば門番も閻魔の庁へ通してくれるだろう。現世に降りた野干は全部で八頭、残り五頭は脚の腱を切ってこの先の公園に集めておいた。どうか、かれらが息絶える前に」
「よしッ!」
回復した槌麻呂はぱんと膝を打ち、腹を撃ち抜かれた野干を背負い立ち上がった。他の二人も依頼を引き受けることに異論はなく、縛られた野干を優しく抱き上げた。
「んじゃ行くかな。久々に閻魔様にお目通りがかなうぜ!」
「ここから最も近い地獄への道といえば、うむ、富士の人穴ですかな。急げば朝には着く」
「ええ。では頼みます、高佐麻呂さん、中知麻呂さん、槌麻呂さん」
全ては再雇用のために。お任せあれ、行ってくるぜ、お安いご用――鬼たちが三者三様に返事をして、公園へ向かおうと西を向いた時のことだった。
音が。
琵琶の音が。
空気を震わせ近付いてきた。
ぴん、ぴんと軽やかな音に重なって、複数の低域音階が出現し、言い知れぬ想念が宿る撥を巧みに打ちつけて、じゃんと弾き鳴らす哀音が連続した。絃が生む音色は意味を持った調べに変化して、幽玄というより勇壮な、それでいてどうしようもなく不安をかき立てるような、鬼気迫る旋律で一同を硬直させた。
来たのは、誰だ。
「琵琶法師かいな」
「バカ、今のご時世んなもんがフラフラしてっかよ!」
「実におどろおどろしい琵琶ですな――あっ! あああっ!」
能天気に話していた高佐麻呂たちが急に慌てだした。幽霊と高校生と謎の少年は、何事かと鬼に目を向ける。彼らが背負い、また抱きかかえていたはずの野干が、何者かの力によって地上数メートルの濃い闇の宙に浮揚していた。
この怪現象は明らかに第三者の介入によるものだ。その証拠に、拘束されたままの野干たちが異様に怯えて毛を逆立てている。
闇が野干を吊り上げている。若彦にはそう見受けられた。だから前方の暗闇を具に観察した。地獄が封じられた今、電灯に囲まれた街の大通りがこんなに暗いわけはないのだ。何かが行く手を遮っている。よく見ていると、細かく闇が蠢いているのが視認できた。密集する漆黒の縄暖簾だ。その向こう側に、琵琶の奏者が控えているらしい。
突如として闇のカーテンが左右に分かれた。
慌てふためく三麻呂も左右に跳ね飛ばされ、道路の中央には歪な人影が現れた。
路上で胡坐をかき、小刻みに震えて――恐らく琵琶を弾いている黒き影を前に、秋嘉は極めて明確かつ深刻に動揺した。逃げろ、と震える声で若彦たちに言う。
相手に悟られないよう静かに薙刀を握り直して、臨戦態勢となる。
琵琶が止む。影はかっと正円の目を開けた。
「地獄封じ秋嘉、遺恨ありッ!」
男の濁声だ。月明かりが差し、異形の者の姿がはっきりとした。
総身を黒い体毛に覆われた獣人! 大きく膨らんだ毬藻の頭部、獰悪にぎらぎら光る、黄色く円い眼、目の上と頬から伸びる飴色の洞毛、裂けた口には鋸状に生え揃った細かな牙。上端が尖った耳は側頭でひくひく痙攣し、大蒜型の低い鼻は湿気を帯びている。胴と手足は頭と不釣り合いに矮小で、骨と皮ばかりの三指には銀の爪。みすぼらしい橙の衣を纏った妖怪は、覆手と半月の装飾が泣き顔を象る琵琶を抱え、怒りを身一杯に漲らせていた。
「まさか、生きていたとは……!」
秋嘉は旧知の妖怪の名を苦々しく呼んだが、声は琵琶にかき消されて聞き取れなかった。妖怪は歯を食いしばった威嚇の笑顔を見せたあと、唾を散らして秋嘉に言い放った。
「お前への怨みで百年生き延びてきたわッ! 今こそズタズタに裂いてくれる!」
両者にただならぬ因縁があることは若彦にも分かった。秋嘉は嫌悪感も露わに返す。
「悪いが君と争う気などない」
琵琶を弾き続けながら妖怪は大笑いした。
「ぐわッははははッ! では、これならどうだ?」
曲調ががらりと変わる。健康な精神を鑿で削り取るように、邪悪な音色が響き渡る。
黒いカーテンをかき分けて、そこかしこに白い縦長楕円体が浮かび上がってきた。若彦はそれが何であるか確かめようと目を凝らして――理解した途端に見たのを後悔した。
女の生首!
蒼白い顔で、眉のない女の首がいくつも浮いて、口を閉じて笑っている。しかも皆同じ顔。通りを塞ぐ黒いカーテンは、生首どもの長い頭髪だったのだ。黒髪は、独立した生物のように動き続けている! 衰弱した野干を吊っているのは、彼女らの強靭な髪だった。
うひゃあぁ――悲鳴を上げて三麻呂が飛びのく。
「やれ女首ッ」
生首たちの髪がするする伸びて、浮かぶ野干の頸や脚の付け根に巻きついた。
よせ! 秋嘉が叫ぶ。
「やめろ!」
「問答無用ッ‼」
絃が激しく振動した。同時に、獣を捕らえる黒髪が猛烈な力で引っ張られた。
ばつん――ゴムがちぎれるような音を立てて、獣の肉体は崩壊した。
胴と頭と足と尾が、女首たちによってぞんざいに投げ捨てられた。
ぽとり。
眼球が一つ、若彦の足元に落ちた。捥げた肉体に命の熱はない。
ふふ。
ふふふ。
ふふふふ。
「なんなんだ、こいつら……!」
野干を惨殺した首の群れは、何が楽しいのか笑っていた。黒い妖怪が吠える。
「どうだ秋嘉ッ! 犬ころは死んだ、死んだのだッ!」
これがお前の望んだ世だぞッと、妖怪は怒気を叩きつけた。
「なぜ野干を殺した!」
秋嘉も怒りに震えて言った。目が潤んでいる。無残に死んだ野干を、心から悼んでいる。
「僕への報復なら、僕を狙え! 君が抱いた遺恨とやらは、僕だけで晴らせ」
「笑わせるな裏切り者。お前を一思いに殺して晴らせる怨みと思うか? 違うぞッ! これは俺と、俺の同志の怨み! お前に裏切られた全ての妖怪どもの怨念だッ!」
次はお前がこうなる番だ。妖怪が宣戦布告し、琵琶が鳴る。生首の毛が逆立った。
「生憎使命があって死ぬわけにいかない。君が退かないなら、退けるまでだ」
薙刀の鋒を冷淡に向けられて、妖怪は憎悪に顔を歪めた。曲調が更に激しくなる。首の怪異が四方に拡散し、秋嘉を迎え撃たんとする陣形を作った。
「同志は戦に敗れ消え失せ、志を捨てて去った。お前の、お前の裏切りのためになッ!」
妖怪が怨嗟の言葉を吐くと、首たちは髪を大蛸の触手のごとくうねらせ、秋嘉を絡め取ろうと不気味に飛んで接近してきた。八つ裂きにしろッと怒号が飛ぶ。
薙刀を振るって、秋嘉は首どもの陣地へ果敢に切り込んでいった。
若彦と史織は少し離れた場所で、コートを翻し戦う秋嘉の姿に見とれていた。
地獄封じの戦いぶりは、やはり華麗の一言に尽きるものだった。一切の感情を排し、敵の髪が身に触れようものならば、迷うことなく斬って落とす。演武のようだ。進路はまっすぐ、ほんの十メートルほど先に胡坐をかく、敵将たる黒い妖怪。
「秋嘉ァ! 小手先の戦法では勝てんぞッ!」
女の生首は大挙して飛来し、撓う長髪を鞭として地獄封じを襲った。鞭が叩きつけられた路面が抉れているあたり、髪というより鋼だ。あんな打撃を食らったらひとたまりもない。やがて秋嘉も髪だけを斬ることにこだわらなくなっていった。容赦なく女の顔面を両断する。
その頃、三麻呂もまた戦闘を傍観していたのだが、槌麻呂は手柄を立てるチャンスと気付いて、他の二人の背を押した。
「こりゃ高佐麻呂、中知麻呂! 化物はかの賊の残党だぞ!」
賊? どうやらこの鬼たちもまた、黒い妖怪の素性を知っているものと思われる。うおおぉと声を上げて女首の群れに殴りかかった三麻呂を、妖怪が目聡く見つけて罵声を浴びせた。
「役立たずは引っこめッ!」
三麻呂は女首の鞭に打ち据えられ、まとめて無様に地に転がった。
「あちゃーカッコわるい……」
額を押さえ呆れる史織の横で、若彦は秋嘉が劣勢に転じたことを悟った。
四方八方から乱れ飛ぶ攻撃に苦戦を強いられるばかりではない。薙刀で切り裂けば首は消えるが、黒い妖怪の周囲が泡立って、また新たな首が湧き出ては、秋嘉のもとへ飛ぶ。無限ループだ。どれだけ倒しても敵の総数が減ることはないばかりか、増殖して襲い掛かってくるのだ。体力が削られていくだけで、敵将には何の打撃も与えられない。
「ははははッ! 秋嘉よ、これが怨念の力だ!」
妖怪が笑った。秋嘉が睨むと、焦燥を煽るように首たちも冷笑を浴びせた。
ふふふ。
ふふふふ。
ふふふふふ。
一体の首が回転しながら飛び来て、髪の鞭を秋嘉の腰に叩きつけた。バランスを崩しながらも、秋嘉は首を斬り伏せる。首は真っ二つに割れて血飛沫と共に消え、遠くでまた新たな首が湧いた。続いて三体が逆さに落ちてくる。けらけら笑って、首の断面を見せつけながら秋嘉に迫るも、蹴り飛ばされて地面に転がった。
「あのお化け女ムカつく! どうして何度でも蘇ってくるの?」
「そうか。きっとそうだ」
「なにが?」
「史織さん、琵琶ですよ」
秋嘉の勝利を祈りながらの観戦が、怪の性質に関してある結論を導き出した。
「琵琶……が、どしたの?」
「生首の動きを見ながら、よく聴いてみて」
史織は言われるまま、乱舞する首の怪の動作を、演奏に注意して追っていった。
「……首のお化け、アイツの演奏にノッてる?」
しばらく経ってそう問うた史織に対し、若彦は黙って頷いた。恐らくそれが正解だろう。
女首は、黒い妖怪の琵琶で動かされている。法則を完全に読み取れはしなかったが、首の攻撃は琵琶の音色に連動しているようだった。曲調はそのまま戦闘傾向に反映されている。
では琵琶の演奏をやめさせれば、一体どうなる?
黒髪が剛力をもって薙刀の柄を絡め取った。力比べの末、薙刀は折れて秋嘉を囲む陣の外へ落ちた。これで秋嘉は完全に武器を失った形だ。黒い妖怪までの距離はまだ五メートル以上ある。徒手空拳だけでは、到底生首のフィールドを越えられまい。
せめてまだ、野干を撃った高威力の銃があれば。若彦がヘマをしていなければ、あの必殺武器を今こそ使ったに違いない。思えば、妖怪が現れたのは秋嘉が発砲して間もなくだ。息を潜めてチャンスを窺い、戦力低下の時を見計らって攻め込んだのだろう。遺恨とやらを晴らすため、秋嘉を確実に殺すつもりだ。
まずい。
丸腰の秋嘉は高速のハイキックで首に応戦する。しかし多勢に無勢、数の暴力の前では圧倒的に不利だった。次第に秋嘉の手足に幾筋かの毛が絡み、動きが鈍りだす。
若彦は髪をがしがし掻き毟り、必死になって考えた。
やるべきことはただ一つ、取り得る策は――。
「あわわ……大変だよ若彦、秋嘉がお風呂の排水口みたくなっちゃってる!」
体のあちこちから人の頭をぶら下げて、秋嘉は妖怪の前へ進み出ようとする。黒い復讐者は、もはや勝利の確信という食前酒に舌鼓を打って、悪意による満面の笑みを湛えていた。
ははははは、ふふふふふ。妖怪たちの笑いが秋嘉と若彦を挑発する。
一体の首が眼前に来ると、くすくす笑って髪で秋嘉の頬を叩いた。そして、その他の百に及ぶ首たちが寄り集まって、一束にした髪を体の各所に巻きつけて微笑んだ。
屈辱が秋嘉の眉間に深い皺を刻む。
「あァん? どうした秋嘉、なんだその目は。苦しい助けてくださいという目か?」
「君も……零落たな。理想はどうした」
「黙れッ! そんなものはもうない。ある意味がない‼」
頭上にいた女首が、過酷な往復びんたを食らわせた。両手首と足首を締め上げたまま、越冬する天道虫のように残りの首全てが凝集し、腕を吊り上げ胴を縛り脚を捩じって体を持ち上げる。手枷足枷を施された秋嘉の頸に、絞首縄までがかけられた。
完成したのは、髪と人面が形作る黒い処刑台だ。
妖怪が笑い、奏でる曲の躍動は最高潮に達する。頸にかかる縄は一段ときつく締まる。女首はにたにた笑って顔を密着させ、秋嘉の鼻から垂れた血を、舌で器用に掬い取った。
「ぐ……ぁ……!」
拘束に苦しむ秋嘉へ妖怪が言う。
「縛り首か牛裂きの刑か。どちらが苦しいのだろうなぁ? 俺はお前の細面が、痛みに歪んで醜い化物になるところが見たいのだ」
「君は哀れだよ……。悪魔的な復讐心だ。妖怪なら、もっと楽しく生きればいいものを」
「なんだそれは、時間稼ぎか。袋の中の鬼の手が、癒えて動くのを待っているのか?」
「まさか。この手は命を奪う手なんかじゃない」
「吐かせッ!」
「うぅっ」
拘束がまたきつくなり、声帯が圧された。秋嘉は沈黙を強制される。
使命感に突き上げられ、若彦の胸のビートもピークに達していた。自分が行動しなければ秋嘉は死ぬ。路上で伸びている三麻呂の助けは望めない。どうする?
「玉砕覚悟で特攻……? ははっ」
いつぞや史織がくれた冗談みたいなアドバイスが、ふと記憶の水面に浮かび上がった。乗ってやろうじゃないか。史織さん、と呼びかけて、若彦は幽霊に耳打ちした。
「えぇー⁉ 本気なの、手出ししなきゃ何もされないのに?」
「俺たちは無事でも秋嘉が殺される! 頼むよ史織さん、俺に力を貸してくれ」
「……若彦の頼みだもんね」
「ありがとう」
若彦は忍び足で路肩に寄る。恐怖を紛らすため言い聞かせる。俺は優秀な奇襲隊員だ。
「……よし、まずは腕をちぎってやろう。嬉しいか? あの女と同じ姿だ」
絃が揺れ動くと、腕を拘束する女首たちが左右へと離れた。強い力で腕が引っ張られて、袖の付け根がみちみちと裂ける。破れ目からぞろりと髪が侵入し、腕や肩に直接巻きつき食い込み膚を裂いた。血が髪を伝って女の顔を飾る。
「うああぁ……ッ‼」
もがくことすら許されない秋嘉の両腕を、遂に怪首が引きちぎろうとしたとき、靄のような少女が黒い妖怪の視界に割って入った。
「こらーっ! やめなさい変態お化け!」
「ん⁉」
変梃な幽霊の邪魔が入ったせいで、妖怪は呆気にとられ撥を持つ手を止めてしまった。
同時に、秋嘉を捕らえる女首がみな無表情になった。我が意を得たりとばかりに、史織がにやりと笑う。
「幽霊風情が邪魔をするなッ!」
「うっさいバーカ! アホ! 変態! ブサイク! 毛玉! ダサい服の三頭身! 幽霊は幽霊でも私は美少女よっ! それに比べてアンタときたら、真夜中に道のド真ん中座りこんで得意げにヘッタクソな琵琶なんか弾いちゃってさ、近所迷惑のナルシスト! なーにがイコンアリよっそんな蟻がどこにいんのよっ! 若い子縛り上げて楽しむなんてドヘンタイ、SMプレイはその手のお店に行ってプロ相手にやりなさいってお母さんに教わらなかったの⁈」
思いつく限り出鱈目に罵倒。妖怪は彼女が虚勢を張っているだけと気付いてしまった。
「ふ……ははははッ! なかなか可愛い小娘だが、腰抜けは俺の好みじゃあないッ!」
見ろ、バラバラにしてやるぞ――再び撥で絃に触れようとしたとき、真っ向から前傾姿勢の若彦が走ってきた。
「終わりだバケモノぉおおおおお‼」
妖怪は、人間の手に握られた刃物にぎょっとした。折れた薙刀の片割れだ。若彦は史織の体を通り抜けて走り、逃げんとする妖怪の琵琶に刃を突き立てた。
「きさまあッ!」
刃は全ての絃をたちどころに断ち切り、その先の撥面にまで深く刺さった。傷から赤黒い血がどろどろと溢れ出る。妖怪は上部の柱を握って、腹立ち紛れに琵琶で若彦を殴りつけると、鼻息荒く後ずさった。円い眼を余計丸くして、驚愕を隠さず若彦を見ている。
あ。
あぁ。
嗚呼。
生首の群れは口々に驚嘆の声を発し、シャボン玉のようにぴちぱち弾けて消えた。縄を解かれた秋嘉の体が、どさりと力なく地に落ちる。敵勢は瓦解した。
「琵琶が……俺の琵琶が!」
驚きは瞬く間に憎悪へ塗り替えられ、妖怪は血の滴る琵琶を抱えて歯を食いしばり、震えて絶句した。若彦の後ろでは、ゆらりと立ち上がった秋嘉が妖怪を鋭く睨む。そのまた後ろで、へっぴり腰の三麻呂が縄を手にして待ち構えている。
「お前たち……見ておれ。この復讐は必ず遂げるぞッ!」
捨て台詞を吐き、妖怪は脱兎のごとく駆けだした。情けない敗走の背中は、みるみる小さくなって暗闇に埋もれようとしている。
「おう追え中知麻呂!」
槌麻呂が中知麻呂をどんと押した。
「ちくしょー、ひと遣いの荒いデブめ!」
不満たっぷりの様子で槌麻呂に一瞥をくれると、中知麻呂は妖怪の後を追って走った。
黒い妖怪と無個性な鬼の行方が分からなくなって、今度こそ深夜の異常事態は終わりを迎えたのだろう。どっと疲れが出た若彦だが、秋嘉の負傷を確かめるべく駆け寄った。
「平気だ」
秋嘉は右の掌を向けて若彦を制した。左手で鼻血を拭って言う。
「大した怪我はしていない。それより、いつまでも車道にいては撥ねられる」
秋嘉が目で合図を送ると、高佐麻呂は周囲に散らばる野干の残骸を拾い、槌麻呂が懐から出した風呂敷の上に集めていった。
歩道へ渡りながら秋嘉は言った。
「君たちのお蔭で助かった。だけど、あんな危険なことはもうしないでくれ」
「ぶー!」
史織がふくれっ面になって秋嘉の前に回った。若彦と話すときより高く浮いて、秋嘉を見下ろそうとしている。謎の対抗意識の表れだ。
「あのさ、前から思ってたんだけど、なんでそんな愛想ないわけ? 若彦が体張って助けてくれたのに、その言いぐさはないんじゃないのー?」
「よしなよ史織さん」
「だってそうじゃん! 危険だとかより先に、ありがとうでも言ったらどうなのよ?」
秋嘉は思惑通りに史織を見上げると、なんだか怠そうに溜息をついて、言った。
「……ありがと」
言い慣れていないのか、少し舌足らずなお礼だ。若彦は笑って応じる。
「いや、礼なんていいんだ。でも教えてもらいたいことは色々あって」
「断る」
即答だ。秋嘉は正面に立つ裸の若彦をちらりと見て、すぐ目を逸らす。
「……そんな義務はない」
また義務か。繰り返されるにべもない返答には、さすがの若彦も反感を覚えた。
「義務、義務ってなんなんだよ。義務付けられてなきゃ何もしてくれないのか? 俺は二度もあの裂け目を見た。そして秋嘉、君に助けられた。君は何者? 地獄ってなんだ? どうしてあんな大惨事を誰も知らない? なぜ俺も地獄を忘れてた? それにさっきの妖怪は誰? 袋に入ってるのは、アザミさんの腕なんじゃないのか⁉ 教えてくれたっていいだろう!」
だが、秋嘉は頑なだった。
「君が疑問に思うことじゃない。今夜のことも早く忘れるといい」
「どうして!」
「知れば戻れなくなる!」
叱りつけるような強い口調だった。
「本当に忘れたくなっても遅い。火炎と怪物のトラウマが君を苦しめるぞ、死ぬまで」
脅迫じみた忠告には若彦もたじろいだ。
道路の肉片を片付けた高佐麻呂が、槌麻呂を伴い公園へ歩きだす。その際、長身の鬼は己の風呂敷を若彦に渡すと、風邪をひきますぞと言って去っていった。
鬼がいなくなると、大通りを四トン車が、思い出したように喧しく通り過ぎていった。
二の句が継げず黙っていると、史織がいつになく落ち着き払った声で反論した。
「違うよ」
秋嘉は黙っている。史織は続けた。
「若彦の記憶は私が呼び戻したんだから。今なにを聞いたって、私が離れていけば自然と忘れる。あんただって若彦には借りができたでしょ。だからお礼として、若彦にもう少し悪夢を見せてあげればいいじゃない。それで私たちは納得するの」
まるで別人の物腰だった。幽霊と地獄封じの視線がかち合う。両者の間では、見えない火花が散っていることだろう。若彦は唐草模様のマントを羽織り、静かに推移を見守った。
「わかった」
遂に秋嘉が折れた。かくして解説が始まる。
「君が今までに見た炎――」
ゆっくり歩きながら、秋嘉は語った。
「あれが地獄の業火だ。前にも言ったが、メタファーなんかじゃない、本当の地獄だよ」
「地獄っていうのは、地の底にあるんじゃないのか?」
「僕らが立つ閻浮提の地下一千由旬に、罪人が死後堕ちる地獄の第一層があるという。由旬とは古代印度の距離を表す単位――一由旬の正確な距離は不明だけれど、およそ十四キロメートルではないかとする説があってね。つまり地下一万四千キロ地点に広さ一万由旬四方の等活地獄があり、更に黒縄衆合叫喚大叫喚焦熱大焦熱無間と続く。これが八熱地獄。今夜この街と繋がった鉄野干食処は無間すなわち阿鼻地獄に付属する小地獄だ。罪人の身の上に火の燃ゆること十由旬――諸々の地獄の中にこの苦最も勝れり、と伝わる。地獄の中でもトップクラスのデンジャラスゾーンだったというわけだね」
高佐麻呂にも引けを取らない知識量、しかも途方もないスケールの話だ。若彦も史織も、口を挟む余地がなかった。饒舌になった秋嘉は付け加えて言う。
「ただし、単純に土を掘っていけば地獄へ辿り着くというわけでもない。だってそうだろう? 地獄なんてどこにもないのだから」
「待てよ。さっきは地下何千キロにあるって言ったじゃないか」
「そう。つまりあるけどないんだ。君はあの盆の夜まで、本当に地獄という世界があって、罪を犯した人間が死後そこへ堕ちると信じていたかい?」
「……いや」
「それが普通だよ。輪廻転生なんてない。地獄なんて虚構だと考えるのが、科学に拠って立つ世界ではスタンダードでマジョリティなんだ。間違ってると言いたいんじゃない。そんな世界では、地獄も極楽も、実体のない幻燈なのさ」
秋嘉は小難しい講義に頭を抱える、青息吐息の史織を顧みた。
「幽霊や妖怪だって迷信扱いだろう。存在を頭から信じる方がどうかしてる。だけど、存在しないわけじゃなかった。位相が異なっている、ただそれだけのことなんだ」
虚構、幻燈、位相――秋嘉の示すヒントを拾って、若彦は自分なりの理屈づけを試みる。
「異次元とか、パラレルワールドってことかな。しかも、すごく特殊で……人間の考え方次第で近くも遠くもなる。地獄も妖怪もないと考えるから、ないことになる? ううん、それを嘘だと捉える世の中では実在してなくても、時と場合によっては、俺が史織さんたちに会えたみたいに、まかり間違って見てしまう人間もいる……こんな考え方でいいのかな」
秋嘉が歩みを止める。若彦は二、三歩追い越してから、慌てて回れ右をした。
「……違う?」
「いや、なかなかいい線だと思う。正直言って僕にもはっきりとしたことは言えない。だから歯切れの悪い説明しかできないのだけれど……なぜ山が燃え上がり、あるいは街が破壊されたことを誰も知らないのか。僕が思うに、感受性の問題だね」
「センシティビティー……ええっと」
横文字だらけ、と史織が不満げに耳打ちしたので、若彦は苦笑した。違いない。
「人はそれぞれアンテナを持ってる。霊感という言い方もあるのかな。好むと好まざるとに関わらず、その感度には個人差があって、高いほど日常に異なものを見出しやすいけれど……そんな能力は、この時代を生きる上でノイズにしかならない」
輪田瑞希に思いを馳せて、秋嘉の意見に心底納得した。彼女はさぞ高感度なアンテナの持ち主なのだろう。普通は感じ取ることのできないモノを敏感に感じ取り、結果いらぬ騒ぎを招いてしまった。
「常識ある人間からしてみれば、異常でしかないもんな」
「ああ。いわば自己防衛として、人は現代の理屈の埒外にいる僕らのことは認識しないし、干渉もできない。知れば普通ではいられなくなるから。だけど君のように、偶然の神秘によって非常識な存在に出会う常識人もいる」
皮肉っぽい物言いに、史織がむくれて言い返す。
「非常識で悪かったわねー。出会っちゃったもんはしょうがないじゃない。信じるも信じないもないわよ、運命なのー。ね、若彦?」
訊かれても困る。
秋嘉は幽霊に生暖かい視線を送り、まあそうだねと一応の同意を表明した。
「強引にこちら側へ引き込まれた形だ。こんな場合に人は、夢嘘幻覚見間違い、空想幻想夢想妄想と片付けてしまう。あるいは忌むべき記憶として封印し、忘れる」
「忘れる……か。道理で」
数日前までの自分を思い返して、若彦は気抜けてしまった。脳も余計な世話を焼いてくれたものだ。史織と再会できなければ、今頃ベッドで安らかな眠りを享受していただろう。
バス停までやって来た。真夜中、バスを待つ者は無論いない。残りの質問にも答えておこうと言って、秋嘉は悠然とベンチに腰を下ろした。自動車が疎らに行き交う車道を眺める。
「人はまず怪異に遭遇しない。遭遇しても認識しない。認識しても記憶しない。これが原則。こうして隔絶され平穏を保つ世界同士だが、何らかの要素をトリガーとしてリンクしてしまうこともある」
「わかった! 裂け目でしょ」
今更な史織の解答に、秋嘉は敢えてこくりと頷く。
「これを見るといい」
秋嘉は肩から紐を外した。袋の口を手で拡げ、納めていたものを恭しく取り出す。
秘密の開示。
若彦の胸は、期待と背徳の興奮で高鳴った。
「アザミさんの手だな」
秋嘉が頷いた。
「裂け目を封じる力がある」
それは、見るも無残に焼け爛れた女の手だった。地獄の業火に飛び入ったせいだ。
「どこかに水はないかな」
「あ、待ってて!」
近くの自動販売機まで走り、ミネラルウォーターを買って戻った。思わぬところで財布が役立ったと、若彦は内心ほくそ笑んだ。
秋嘉はすまないと言ってペットボトルを受け取る。秋嘉は水をほとんどベンチに置いた鬼の腕に注いで、最後に一口だけ飲んだ。水程度でどうにかできる火傷ではないと思ったが、腕は一滴残らず水を吸収し、また元の白くきめ細やかな肌を取り戻した。
生きているように瑞々しい。いや、生きている。とかく驚異的な再生能力である。
「僕が切り落とした」
唐突に秋嘉が発した一言は、若彦の心臓に強烈なフックを叩き入れた。
「君が……⁉」
「彼女の肘の関節めがけ、大きな鉈を振り下ろし、腕と体を分離した。そうして、僕は彼女から手を借りたんだ。つまり、僕は鬼の手の借り手なんだよ」
「借りたって……意味がわからない」
実物の手を貸し借りするなんて、ありえないことだ。
「契約なんだ。閻魔王を媒として、僕とアザミとの間に交わされたコントラクト。彼女は僕に腕を貸す。僕はそれを使って、この世に現れた地獄を封じる」
ベンチの後ろに突っ立って話を聞いていた若彦は、それが義務かと呟いた。
「アザミさんの同意もあったっていうのか?」
「でなければ契約とはいえない。切断などしない」
もっともだ。むしろ同意があっても、そんな残酷な行為が並大抵の覚悟でなせるとも思わなかった。秋嘉も感情を抑えて語ってはいるが、それでも顔に浮かぶ苦しみの翳りを隠せてはいなかった。本意ではなかったのだろう。かれらの過去に何があったというのか。
「どうして君たちがそんな契約を結ぶ?」
「……他に道はなかった。僕が逃げ出せば、この世は地獄から溢れた炎で隅々まで焼き尽くされていた。他の誰かに負わせるには、少々重すぎる役だ」
史織は先程からベンチ前に屈んで、頻りに鬼の手の断面を見ようとしていた。包帯が巻かれていて傷を窺うことはできないが、そうする内にある考えが浮かんだようだった。
「ねえ秋嘉。さっきの黒いお化け、もしかしてあんたがアザミの腕を切り落としたことに怒ってたの? アザミってお姫様なんでしょ、だから恨みを買ったんじゃないの」
しかし秋嘉は首を横に振った。
「むかし、罪を犯した。契約、地獄、復讐……僕の身に降りかかる全ては、その罰さ」
「罪ってなによぉ!」
史織がベンチに飛び乗って反発した。
「罰ってなによ。その前に、あんた自身のことがさっぱりわかんない。人なの、妖怪なの? 男の子みたいだけど女の子っぽいトコもあるし、歳もいくつか知らない!」
「史織さん」
止めてはみたが、この程度で諦める幽霊ではないことは百も承知だ。それに、史織の疑問は若彦のそれと完全に同調していた。本心では秋嘉の反応が気になって仕方ない。
だが、秋嘉は答えず、鬼の手を再び袋に納めて立ち上がった。
「話は終わりだ。もう語るべきことはない」
「待てよ!」
若彦は思わず、去ろうとする秋嘉の腕を掴んだ。
「――っ!」
秋嘉が痛みに身を強張らせたので、若彦は慌てて手を放した。
「ごめん……! 傷、痛むよな」
「すぐ治る」
立ち止まりはしたが、秋嘉はもう振り向かなかった。
見えない壁が二人を隔てていた。
破れない? 破りたい。
若彦は思いの丈を打ち明けた。
「なぁ秋嘉……俺、もっと君のことが知りたいんだよ。二度も命を救われたんだ。いや、俺だけじゃない、数えきれないほど多くの人を、陰ながら救ってくれてる。恐ろしい出来事は忘れろって言うけど、それじゃまた秋嘉のことまで忘れてしまう。何も知らない自分に逆戻りなんて、もう嫌なんだ。これからも君と関わっていたい。力になれることはないのか?」
「ない」
やはり即答。完全敗北である。壁はびくともしなかった――かに見えたが。
「……君は変わり者だ」
秋嘉がぼそりと言った。真意は掴めない。背を向けたまま、穏やかに語りかける。
「その誠実さはどうか、明日も忘れないでほしい。だけれど、もう僕に関わってはいけない。僕にも君たちと関わる資格はない。僕は罪人で、あの妖怪の言った通り裏切り者でもある。しかも罪なき姫君の腕まで切断した。誰より苦しむべき存在なんだ。その事実を君が覆すことはできないし、炎から助ける以外には、僕も君にしてやれることはない」
秋嘉はゆるりと頭を上に傾けた。夜空を漂う雲の奥に消えた、あの炎を見つめているような気がした。若彦はベンチの傍に立ち尽くしたまま、謎めく少年の次の言葉を待った。
「目指したのは世界の統合」
秋嘉の語り口はしばしば難解だ。脳内の単語帳を大急ぎで捲って、若彦は尋ねる。
「国境とかをなくすってことか?」
「そんなちっぽけな話じゃないさ。あの世とこの世、他にも分け隔てられた世界を一つに繋いで、生死の境界線を消し去る。神も仏も人も鬼も、花も草木も禽獣虫魚も、あらゆる命が等しい永遠の理想郷を創る。そんな夢を見てた」
まるで神話だ。
でもね、と秋嘉は言った。
「理想郷はどこにもない場所なんだ。人が、自然が、妖怪たちが、気の遠くなるような時間をかけて築き上げた枠を取り払うことは、世界中の誰にも対応できない無秩序が訪れることを意味していた」
すぐ発言を打ち消すように、秋嘉は首を横に振った。
「言訳だね。本当は失うものに気がついて怖くなったんだ。ひどい臆病者だと笑ってくれ。屑だと罵ってもいい。石を投げられたって怒らない」
独白に近い真情の吐露だった。
心の奥底に秘めた傷を敏感に察知した若彦には、この鬼の手の借り手が憐れに思えてならなかった。きっと、耐え難く重い十字架を背負ったまま、孤独に闘い続けてきたのだろう。
「お別れだ」
秋嘉が歩きだし、コートが夜風に翻った。
「秋嘉!」
若彦は叫んだ。
「関わる資格がないわけないだろ! 君の心は何のためにあるんだ!」
歩みは止められない。
「俺は忘れない!」
止まらなくてもいい。
「君ともっと話がしたい!」
ただ聞いていてくれたなら、届いていたなら、それで。
「これで終わりになんかしたくないんだ!」
そんなのは納得がいかないのだ。遠くなる背に呼びかける。
「諦めないからな!」
結局、秋嘉は最後の訴えでも心を開きはしなかった。
地獄封じは平穏を取り戻した世界から、去った。
若彦は無力感に打ちひしがれ、その場を動くことができなかった。
史織はそんな彼の背後に回って、頬に冷たい手を押し当てた。
「熱いねー。生きてる証拠だ」
幽霊なりの慰めだろうか。無性に愛おしくなって、若彦は頬の手を取って強く握った。
「わ」
「史織さん」
「えと……なに、かな?」
「史織さんは、まだいてくれるよね?」
「……ありがとう」
何を思ったのか、幽霊は少年の背にぴたりと身を寄せた。背中に当たる双丘は確かな愛情で満たされた、柔らかで甘美な感触だった。生命の熱を帯びていなくとも、充分あたたかい。
腕時計が示す時刻は午前四時前。
そろそろ家へ帰ろう、と若彦は思った。