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鬼の手borrower  作者: 志方正樹
1:地獄封じ編
2/21

第二章・日常の騒ぎ手《ふしぎにふれてこえあげるもの》

「若彦久しぶりーっ! こんなところにいたんだね!」


 九月一日。午前八時前。快晴。

 新学期の気怠さと期待を鞄に詰めて玄関を一歩出た天野若彦を待ち構えていたのは、いつかどこかで見た覚えのある、白装束の若い女だった。頭には三角の布、そして足がない。

「ゆうれい……?」

「やだなーもう。そういうボケはいらないって初対面じゃあるまいし」

「え……?」

「もしかしてホントに忘れちゃったの……こんなに可愛い私を? ひどいようぇぇん」

 幽霊はわざとらしく嘘泣きをした。

あ! 

このふざけた雰囲気! 

 どっと――頭の押し入れから記憶の布団がなだれ出た。

「うわっ、史織さん⁈」

「えへん」

幽霊の史織は誇らしげに胸を張った。

 全体像は、カメラのピントが合うように明瞭になった。大したドラマもなく、案外あっさり記憶は復活した。それは丁度半月前、八月十五日深夜の出来事。今日この時まで、非現実的だが確かに現実として体験した諸々の殆どを、綺麗さっぱり忘れていた。覚えていたのは眼鏡を紛失したことだけ、これについても失くした場所がどこなのか、ずっと分からないでいた。

 脳内にはあの夜目撃した、凄惨な〝地獄〟の光景が再生される。手と背中に冷汗がわっと出た。心が(そよ)ぎ動悸が激しくなったので、若彦はこれだけをまた頭の(ひき)(だし)に片付けた。

「顔色悪いよ、低血圧? あ、コレ。もういらないかもだけど」

「俺の眼鏡じゃないですか」

 史織は眼鏡の残骸を両掌に載せて渡した。レンズが割れ、フレームも(いびつ)になっている。若彦は哀れな姿になり果てた以前の相棒を丁重に受け取った。玄関先の幽霊は、そんな若彦を観察して満面の笑みを浮かべている。

「新しい(ふち)なしも似合ってるよ。制服姿もサマになってるねー」

「やめてくださいよ、照れるから。って、わざわざこれ届けに来てくれたの?」

「そうだよー。若彦が帰っちゃって、私また独りで山の中をふらふらしてたの。そしたら偶然見つけてさ。一応、届けておかなきゃって。結局探すのに半月かかっちゃったけどね!」

「いや、でも大したもんですよ。だって隣り合う市の端と端なのに」

「ま、名探偵だからねー。若彦が乗って帰ったのと同じ()()()がある家の表札を、(しらみ)潰しに確かめてたの。意外と近くて助かった!」

「近くないと思いますけど。幽霊って暇なんですね……ご苦労さま」

 若彦が両親と暮らす(なが)(らお)市は、盆に滞在した(びゃ)(っこ)市の東にある。共に東西に長い市であり、天野家がある市街地と、祖父母宅がある()()(やま)付近とは、それぞれがほぼ東端と西端の位置関係だ。史織はそれだけの距離、ポピュラーな国産車を所有する家々を回る作業を一人延々と続けていたらしい。人間としての責務がない幽霊はとことん自由、言い換えれば暇を持て余していたのだろう。

 学校行くの、と史織が問う。

「行きますよ」

「私も!」

「お断りします」

「えー! やだやだやだやだ行きたい行きたい行きたーい!」

「だ、め」

 自宅前を横切った老婦人が、(エイ)(リア)()を見る目で(いぶか)った。うっかり失念していたが、史織は他の人間には感知できない存在なのだ。(はた)から見れば玄関先で中空を相手にぶつぶつ呟く気持ち悪い高校生だ。若彦は赤面しつつ(ガレ)(ージ)へ行き、自転車を出して(またが)った。

「若彦がなんと言おうと私ついてくからねっ。保護者だもん!」

「誰が保護者ですか。来たって退屈なだけでしょうが」

「幽霊の視点から現代的教育のあり方を見つめ直すべきです!」

「気が散るからやめて下さい」

「んもうカタいこと言わないの! どーせ誰にも見えないんだからさっ」

 若彦の意見を無視して、暇人幽霊は自転車の前カゴに下半身をすっぽり収めた。

「ほらET!」

「はいはい」

 仕方なく史織を乗せてペダルを()ぎ出す。

 真夏に比べれば(せみ)の声こそ勢いを弱めたものの、依然暑い。学校には五分もあれば着く。

 史織のさらさらで半透明の髪が風に(なび)いていた。流れてゆく景色を楽しみながら言う。

「私、流青って初めて。落ち着いた雰囲気の素敵な街だねー」

「そう……かな? よく分からないや」

 住み慣れた街の評価というのは、どうもピンと来ないものだ。

 若彦は極力小さな声で史織に応対することにした。周囲の者には史織の姿は見えず、声も聞こえない。だから、客観的には不機嫌に独り()ちながら自転車を漕ぐ不審人物である。

「そういえばさ、あの夜お母さんとか心配してなかった?」

「うん。今考えると不思議なくらいにね」


 あの夜――数時間の失踪が母親に勘付かれなかったのは、実に幸運だった。過保護な母はいつまで経っても息子の安否を過剰に心配する癖が直らず、今朝も家を出るときには、久々の登校だから自動車に注意しなさいだの、調子が悪くなったら迎えに行くからすぐ連絡しなさいだのと言って若彦をうんざりさせた。そこまで注意力散漫でも貧弱でもないのだから、いい加減にして欲しいところだ。心配してくれるのはまあ、ありがたい。けれどもこの心情の発露の仕方は何とかならないのか、と常々思うのだった。だからもしあの夜、若彦が無断で、それも深夜に家を出ていたとなれば、父と親戚連中を巻き込んで上を下にの大騒ぎとなっていたことは必定なのである。最も望まない展開だ。そんな母が、若彦が風呂にも入らず縁側で眠りこけていたことに違和感を持たないというのも、変な話ではあったのだが。

朝になると、三麻呂が滅茶苦茶にした生垣が祖父らに発見された。泥棒でも入ったのではと若彦は周章したが、祖父は鹿か猪(シシ)が荒らしたものだと断定した。趣味で育てている園芸作物を食いにやって来ることがあるそうだ。若彦も数分前までは、その説を信じ切っていた。

 いま最も不可解なのは、夜中の火災を知る者が誰もいなかったことだ。あれだけの大災害、騒ぎになって当然だが、人間たちは関知していなかったらしい。幽霊と同じく、限られた者にしか知覚できない現象だったのか。あるいは、何らかの手段をもって火災の発生そのものがなかったことにされたのか。若彦でさえ今まで不自然に記憶が薄れていたのだ。思い起こせば、あの秋嘉とかいう少年が炎を鎮めた直後には、齎された被害は残らず回復していた。世界の一部をリセットしたとでもいうのだろうか? 


 通学路最後の(かど)が近付いてきた。ここを曲がればすぐに校門が見える。

「……史織さん」

「なーに」

「本当について来るんですか?」

「えぇー⁉ いいじゃん。あ、もしかして若彦って学校じゃネコかぶってるタイプ? それとも机に突っ伏して寝たフリで休み時間やり過ごしてるとか? やだぁ」

「はぁ……」

「真剣にめんどくさそうな顔されるとしーちゃん傷付いちゃう!」

「午後は普通に授業ありますけど」

「二学期初日なのに?」

「はい」

「いいよ。授業参観してあげる! 幽霊授業参観、略してゆれょさん!」

 なんだそれは。

どうあっても高校に入り込むつもりらしい。というか、もう着いてしまった。若彦は自転車の速度を落とし、他の生徒らと校門を抜けて駐輪場へ向かう。

 県立流青高等学校。夏季休業中に外装の補修工事を済ませた校舎が、朝の日差しに映える。

 自転車の施錠をしながら若彦は(ささや)いた。

「しょうがないなぁ……邪魔はしないで下さいよ」

 後にこの()(かつ)な一言を大いに後悔するのだが、若彦はまだそれを知らない。



     *



 おかしい。絶対におかしい!

 体育館の一角で、()()(みず)()は恐怖に震えていた。

 始業式である。

 ずらり並べられたパイプ椅子に、自分を含む生徒一同が座っている。

 壇上では校長が、甲子園がどうのこうのと長々くどくど語っている。

 話の終着点が見えない恐ろしさもあるにはあるが、まあいいだろう。

 ここまでは普通の始業式だ。普通すぎてあくびが出る。出てないが。

 だが一つ、たったの一つだけ、()にありうべからざることがあった。

 浮いているのだ。

 ゆ――。

 幽霊が!

 隣列、同じ(クラス)の男子が座っている上を、白装束の女が物理法則完全無視で漂っている。

 極めて非合理な光景である。

 こわい!

 ふわふわ漂う女の体は半透明で、頭には三角の布を付けている。しかも足がなく、下半身は物凄く機敏なナメクジのようにつるつる(うごめ)いている。あからさまにお化け、(まご)うかたなき幽霊! なのに、瑞希以外は誰も気に留めない。すなわち姿が見えていない。

 極めて不条理な事態である。

 こわい‼

 幽霊だ。間違いなく。

 間違いないが、死後も残留する人間の魂――幽霊などが果たして存在するだろうか。

 するのだろう。 

 するからこそ、こうして幽霊が浮遊しているのではないか。

 ただし世間一般には、霊など存在しなくて当たり前という風潮がある。本来的にはその考え方こそが正解だと、瑞希だって百も承知だ。幽霊、妖怪――お化けなんて非科学的で非現実的で非論理的、()()(もう)(まい)な旧時代人の幼稚で安易で愚劣な空想、いや唾棄(だき)すべき妄想の産物に過ぎない。でなければ現代文明を支える科学は崩壊する。(いの)()の営みは意味を失う。

 それでも時々、瑞希には見えてしまうのであった。

 霊感とかいう胡散臭い能力が自分にあるとも思えない。けれど瑞希は、こうした変な奴らを目にした経験が幾度もあった。瑞希の感覚は正常だが、これを周囲と共有したいと望むようになれば、その時点で異常となる。霊が存在して、なおかつ常人には見えないそれらが自分には見える――そう主張した途端に、良くて(アウ)(トサ)(イダー)として避けられ、悪ければ(きち)(がい)のレッテルを貼られ蔑まれる。だからこそ、沈黙は(きん)。きゃあとかひゃあとか叫びたいのを必死で(こら)えている。加えて瑞希は、()(ラー)には極端に耐性がない。実際今にも心臓が張り裂けそうだ。

 反面、これが現実ではないという可能性もまだ捨てきれないでいた。高校生の頭上を古臭い恰好の幽霊が飛ぶという()()()()な光景は、ベッドの中の夢だったとオチがつく方が自然ではあるのだ。本当の始業式はこれからだ! と続く展開かも知れない。今日から新たに始まる物語の、壮大にして無意味な前振りであると――。

 期待を込めて、スカート越しに(もも)を思い切りつねってみた。

「い……ったぁ」

 明確な痛覚。思わず上げた小さな声を聞いたのか、幽霊が振り返ってきょろきょろする。

 生徒が一斉に立ち上がり、間もなくピアノの演奏が始まった。スベりにスベった校長の()式辞はいつしか終了して、校歌斉唱の時間となっていたらしい。ワンテンポ遅れて瑞希も立つ。一学期に覚えたはずの耳慣れない和語を満載した歌詞は、継続する恐怖で粗方抜けていた。

 幽霊は高度を下げ、脇に立つ教師らの顔を――主に鼻の穴を覗き回っていた。当然彼らは無反応。瑞希は歌うことだけに意識を集中して目を(つぶ)った。見たら呪われる。



「瑞希、どうかした? 顔色悪いぞ」

 生徒たちが集まり、次第に賑やかになってきた教室。出席番号三六番、廊下側最後尾の席で深呼吸を繰り返していた瑞希を心配そうに覗き込んだのは、例に漏れず(ふう)()だった。

「ごめん(ふう)ちゃん、先戻ってた」

「気分悪いのか?」

「平気。ちょっとノド乾いただけだから」

 嘘は言っていない。机の横にかけたミニトートから水筒を出し、カップを外してお茶を注いだ。楓奈は相変わらず、瑞希をじっと見ている。熱視線で穴が開きそうだ。

「具合悪くなったらすぐ言いな、保健室までつれてくからさ」

「ありがと」

 親友が瑞希を気にかけるさまは、時に度を超えている。本人は至って真剣なのだが、これには瑞希も苦笑を禁じ得ない。過保護ぶりは周囲に常々からかいのネタとされているほどだ。案の定、今日も二人のやりとりに目を留めたクラスメイト三人が近寄ってきた。

「いやぁ今日もアツいですねぇお二人さん!」

「よかったねー楓奈、今日からまた毎日瑞希とベッタリじゃん!」

「バカ。そんなんじゃないって。あおいも()()もいい加減にしろ、(ひろ)()も何笑ってんだ!」

「んふふっ、ほんと二人は仲いいよね」

 なんだか瑞希も照れ臭くなってしまって、(うつむ)いてカップに口をつけた。

 友人たちと歓談していると、休憩終了を告げるチャイムが鳴った。この頃になると、もう始業式での恐怖体験も(ひと)(とき)の幻影のように思えていた。廊下に出ていた生徒がぞろぞろと戻ってくる。瑞希は何気なく、教室になだれ込む男子たちを眺めていた。すると――。

「ぶッ」

「うわ、瑞希大丈夫か⁉」

 瑞希が茶を噴き出すと、すかさず楓奈が綺麗に畳まれたハンカチを取り出した。その(よど)みない動作に、周りの三人が爆笑する。

「笑いごとか! 瑞希がむせたんだぞ!」

 笑いごとだよと返す余裕は校門の彼方へ飛んで逃げ、瑞希は恐怖の再来を味わっていた。

 ええぇ……?

 男子生徒の背に、あの幽霊がくっ憑いている!

 背を(さす)る楓奈に()()られないよう、咳き込みながら男子の様子を窺う。幽霊を背負って委員長と何やら話していた同級生は、窓際――つまり左端先頭にある席に着いた。あれは天野若彦だ。名前だけは個性的なので記憶していたが、話したことはない。天野は、今度は後ろの席の(うえ)(まつ)くんと談笑している。当然ながら、幽霊にかまう様子はなし。

 幽霊は顔を耳元に近づけてぼそぼそ天野に囁きかけているが、やっぱり反応はない。天野だけではなく、瑞希以外の全員が、いつもと変わらぬ教室で過ごしているつもりだ。

「……何見てるんだ?」

 緊張を察知した楓奈が窓の方を見やる。しかし、彼女には平凡な風景としか映らない。

「なななんでもないのっ! いい天気だなぁなんて思ってただけ」

 自分の不審な動作が親友を殺気立たせることを、瑞希は知っていた。だから慌てて笑顔で首を振ってみせた。だが楓奈はこれを余計に怪しみ、隠し事をしているのではとの疑いを抱き始めている。瑞希にだってそのぐらいの心境は察することができた。疑心暗鬼に陥りかけている楓奈を見兼ねてか、友人の一人である千穂が助け舟を出した。

「瑞希夏休みボケじゃん!」

 空気を変えねば。乗らない手はない。

「な、なのかなぁ? きっとそうだね、あははは……」

 笑ってごまかすのが最善の策だろう。言い訳するほど不信感は増すものだ。

 瑞希が空虚な笑みを浮かべていると、担任の(くさ)()が教室へ入ってきた。生徒たちが皆自席に着いたため、楓奈も払拭しきれない疑念に首を傾げつつ離れていった。

 ホームルームでは、まず日下が新学期を迎えるにあたっての心構えを説いた。この若いが硬派な教師が、入学当初から定番の台詞「高校は義務教育ではない」を発すると、何がおかしいのか一部の生徒より笑いが起きるのがお約束だ。瑞希はといえば、相変わらず教室に居座り続ける幽霊が気に懸って、微塵も話に集中できないでいた。じっとしているならまだしも、幽霊は時間が経つにつれて教室のあちこちに飛ぶようになったのだ。掲示物を見たり、日下の隣に浮いてみたり、果ては天野から順に生徒の顔を覗き込んでいったりもした。自分の所まで来たらどうしようと気を揉んでいると、中間地点あたりで観察に飽きたか、天井近くに上がって旋回し始めた。実に落ち着きがない。

 見てはいけないと思いつつ、つい気になって顔を上げた。その途端。

 ゆくぞぉッ――と叫ぶと、幽霊は片手を突き出して天井にめり込んだ。

「ゎあ!」

 短い悲鳴を押さえ切れなかった瑞希は、たちまち注目の的になってしまった。生者どもの当惑をよそに、死霊は尻尾で空気をかいて天井に埋もれていった。石膏ボードを難なくすり抜けて、屋上へ移動したらしい。幽霊は去ったが、瑞希には猛烈な羞恥が訪れた。

「……すいません」

 顔が熱くなるのを感じた。視線が痛い。

「寝言……か?」

 困惑した日下教諭のバリトンボイスが教室内の静寂を助長し、それが一瞬の間をおいてから大きな笑いを生んだ。委員長が便乗して軽口を叩く。

「おいなんで誰も教えてくれないんだよ! 俺だって瑞希ちゃんの寝顔見たかったのに!」

 楓奈が立ち上がり、斜め後ろから剣山のように(とげ)(とげ)しい声で非難を浴びせた。

「瑞希が授業中に寝るわけないだろ!」

 ツッコミ所はそこではない。

 ともかく、全ては笑いごとで済んだ。一件落着。か?


 諸々の説明や取り決めが済んで、昼休みが訪れた。

 もう幽霊はいない。学校に飽きてどこかへ消えた違いない。平穏が帰ってきたのだと信じよう。安堵して、手洗いに行こうと教室を出た瑞希の前を、天野が横切った。

 首筋に幽霊を伴って。

「ひぃッ」

 不意打ちは卑怯だ!

 幽霊の耳がぴくりと動いた。小さく短い悲鳴を聞き逃してはくれなかったようだ。

 白い女は、かっと目を見開いてこちらを向いた。ぞっとするような生気のない顔だ。

 ふっと廊下を生暖かい風が吹き渡ったように思えた。自分の時間が止まって、瑞希は絡め取られるような錯覚に陥る。死者の(うつ)ろな眼は、既に臆病な彼女を捉えていた。瞳の黒は底無しの井戸を覗き込んだように深い。幽霊は口の端をくいと上げた。薄笑いを浮かべている。

 自分だけ、一瞬が永遠のように長い。周りの人間たちは平然と動いているのに、瑞希だけは恐怖のために動けない。あらゆる音が(とお)退()く。世界から引き離されていく。幽霊を連れてきた天野若彦の姿は、もうここにはない。

 嫌、だめ、みんな行かないで――。

 幽霊は両手を胸の前でだらりと垂らし、言った。


「うらめしや」


 外貌通りのか細い女の声だった。冷たい霊気を帯びた恐ろしい声だった。それでいて死の想念を濃厚に含む声だった。それはこれまで聞いたどんな声より瑞希を戦慄せしめた。

 もう平静を装うのは、限界。

「ぎゃあああああああああああっ‼」

 他人の目がなんだ。怖いものは怖いのだ!

 瑞希は他の生徒を押し退け廊下を全力疾走した。飛んだり跳ねたり、どこへ行く?

 どこだっていい。幽霊がいない場所だ!

 だが、不気味な幽霊は嬉々として追いかけてくる。人混みも障害物もすり抜けて。

「やあぁああっ‼」

 階段を転げ落ちるように降りて、二階のトイレに飛び入った。個室に走ってすぐさま(かんぬき)をかける。アイボリーのドアが外界に漂う霊気を遮断し、瑞希はほんのひと時だけ安息を得た。

「はぁ……」

「ばーっ!」

「んやあああぁ‼」

 幽霊がドアを通り抜け、頭だけを突き出した。動転した瑞希はびくともしない戸のために大いに取り乱して、個室内をスーパーボール並みに跳ね回った。

「みてみて! 鹿の剥製!」

「うわあああぁ! シカぁあ! わあぁーっ‼」

 恐慌状態の少女に、心肺停止級死人ギャグは通用しない。やっと閂に考えが及んだ瑞希は、幽霊ごとドアを壁に叩きつけるよう勢いよく開けて、今度は別棟に逃げだした。渡り廊下の継ぎ目を越えた辺りで、こわごわ後ろを窺う。後方には不思議そうに瑞希を傍観している上級生が数人だけだ。

「……いない?」

「いるよ」

 幽霊が逆さになって、天井からべろりと降りてきた。

「ばぁー!」

「うきゃああぁーッ‼」

「うら」「おわあああああぁ」「め」「ぁあああ」「しや!」「ぁああああああぁー‼」

「イイ! イイよおッ!」

「んのぁあ! ひょわああぁ‼」

 渡り廊下を行ったり来たり。瑞希が悲鳴を上げる度、ひょこひょこ追ってくる幽霊は目を輝かせて喜んだ。ガッツポーズさえとっている。

「こないでええぇぇぇぇ‼」

「待ってよぉー」

 とにかく瑞希は逃げ続けた。全ての廊下を走破してしまいそうだ。幽霊も負けてはいない。執拗に、るんるん弾む心と体で彼女を追跡する。ゆえに瑞希の叫びもエスカレートして「ほぎゃあぁ‼」から「うおわああァーっ‼」を経て「にゃあああぁー‼」「っちゃああぁっ‼」になり、果ては文字に起こすのが不可能な域まで到達していた。良心ある者なら見なかったことにしてやりたくなる乙女の醜態だった。

 耳を()めてくる幽霊を肩から振り払い、瑞希は一階の職員室前を横切った。だがエントランスを抜けて外へ出ようとしたとき、誰かが放置した空き缶を踏んで、哀れにも(つまづ)いた。

「あっ」

 ビターン――(むな)しい音がこだました。

 ゲーム終了。タイルが体を冷やす。必死の逃走を試みた結果、惜しくも敗北を迎え倒れた少女に、床が贈るせめてもの(ねぎら)いだった。

「も…だめ……」

「むっふふふ!」

 幽霊は本当に楽しそうだ。空中で小犬みたいに尾を振っている。瑞希はただただ恐ろしいばかりである。呪われる祟られる取り憑かれる耳舐められるおしり触られる――。

「……おっと、これ以上やると若彦に怒られる。そろそろ行こう」

「ふえぇ……」

 若彦。天野若彦のことだ。これはやはり彼に憑いている悪霊なのだ。

「さらば愛しき友よ! またねっ!」

 幽霊は手を振ると、一瞬にしてその場から消え失せた。

 二度と――二度と会いたくないくらい、怖かった。失禁しそうだ。

「はあぁ……はああぁ……じょうぶつして……」

 線香代くらいなら、出す。

 三度目の正直で幽霊が姿を消し、瑞希は号泣していたことにやっと気が付いた。はらはら落ちる涙は止めようもない。

「瑞希っ!」

 血相を変えて、ドーピングされた発情期の駿(しゅん)()のごとき楓奈が駆けつけた。廊下の壁にもたれかかり脱力していた瑞希の肩を掴んで、幾度か揺さぶり問い(ただ)した。

「どうした、何があった⁉」

「楓ちゃん……うえぇ……」

「怖い目に遭ったのか? ……誰がそんなひどいことを!」

「お――おば――け、ゆっ、う、え――が」

「なんだって? 瑞希!」

「あ、あまも。天野くんに」

 幽霊が憑いている――と言い切る前に、楓奈は(きびす)を返して廊下の人混みへ消えていった。



     *



「やっぱ似合ってねえ!」

 (しま)(たに)(けい)(すけ)は若彦をまじまじと見て、飽くまでこう主張した。

「しつこいなぁ。俺はこっちのが気に入ってるんだって」

「いやいや、お前は(くろ)(ぶち)が似合う顔なの。それがなんだ、いきなり貧弱なフレームなしのに替えやがって。俺の中の若彦像が崩れるだろうが。委員長権限で前のに戻させる!」

「どんな権限だか……前のはほら、壊れたんだって」

 若彦は胸ポケットから黒縁眼鏡だったものをつまみ出した。

「なんで持ってんだよ……」

「色々あってね」

 顎から汗の(しずく)が落ちた。グレンチェックのハンカチを首筋に当て、暑いなぁとぼやく。

(しん)(とう)(めっ)(きゃく)すれば火もまた涼し。俺なんて滅却しまくってるから涼しくってしょうがねえぜ。涼しすぎて逆に汗かいてるくらいだわははは。いただきます!」

 圭祐は適当なことを言って、通学路に面した弁当屋で買ってきた幕の内を開けた。

 屋上は昼休みになると開放される。若彦は入学間もない頃に親しくなった圭祐と、こうして西棟屋上のコンクリートベンチに腰かけて昼食を摂るのが習慣となっていた。

「竜田揚げかあ。おいしそうですこと」

 圭祐が羨ましげに弁当を横目で見る。母が毎朝腕を(ふる)う結果、若彦は恥ずかしいまでに出来の良い弁当を持参する。若彦にとってはこれが(スタン)(ダード)だが、高校生にして親元を離れ、質素な一人暮らしを送る友にはとても豪華な昼食だ。嬉しいやら照れ臭いやら、そっけなく答える。

「……欲しいならあげるよ」

「サンキュー。お礼にかまぼこをやろう!」

 圭祐の割り箸が、弁当箱の隅にかまぼこを置いた。友が竜田揚げを口に放り込んで幸福そうにしているので、若彦はほんの少し母の料理の腕を誇らしく思った。

 真白い雲の浮かぶ空を眺めながらだし巻き玉子を(かじ)り、ふんわりとした食感を当然のように味わう。こうして見ると本物の空も書き割りのようで、一向に現実味がない。現実味がないといえば――現実に存在すべきでない史織はどこへ行ったのだろう。後ろにいたかと思えば、暇を持て余して別の場所へ飛んでいってしまう。誰にも見えないからどうでもいいのだが。

 西棟と東棟を繋ぐ渡り廊下の辺からは、絶えず騒がしい声が響いていた。奇声を発して走り回っているのだろうか、この暑い日中に元気な女子もいたものだ。

 梅干しの種を弁当箱へ吐き出して、圭祐が問う。

「そういえばさ、お前アレなんて書いたよ。進路希望」

「ああ……」

 ホームルームで配られた、進路希望の調査票のことだ。

「気が早いんじゃないかな。まだ一年の二学期なのに」

「ジャネーの法則っつってな、三年なんて案外すぐなんだとよ。今日の後に今日なし、歳月人を待たずッ! ってコーイチも言ってたろ」

 コーイチとは、若彦たちの担任である日下教諭のことだ。本当は(きみ)(かず)というのだが、なぜか生徒の間ではヒノシタコーイチで通っている。

「とりあえず……進学」

 そうなるわなと圭祐は応じた。

「でも俺はまあ、一応教師志望って目標があるけどな!」

 圭祐は少し照れ臭そうに言った。

「圭祐は意外としっかり目標持ってて偉いよな。俺は……まだ、分からない」

「未定ってヤツか」

「正直言って想像もつかないよ、将来のことなんてさ……なんか、今日を生きるのに精一杯って感じ?」

 冗談めかして言ってみたが、それは若彦にとって半ば真実だった。

 何事かに追われているということもないが、何がしたいのかも分からない。時は無情に流れ続けて、今日はやがて昨日となり、一昨日となり――そうなって初めて、自分は時間を浪費したのではないか、と焦燥してみたりする。本当にやりたいことや考えるべきことを、精神の奥底辺りに置き去りにして、上辺だけで生きている。余分な思考で心の内が一杯に膨らみ、日常を(いたずら)にぶつ切りにしている。今まで通りの、悪い意味でドライな在りようでは、永遠に明日のビジョンなど描けないのではないか。地獄を見たあの日の記憶が蘇った今、そんな危機感を微かに抱いていた。

 要は薄っぺらい奴なのだ。若彦は自嘲した。

「いいっていいって、モラトリアムだからさぁ」

 友人はふにゃりと笑った。彼は現代社会の授業で出てきたこの単語がいたく気に入ったようで、ことあるごとに口にしている。

「なんだっけモラトリアムって」

「支払猶予――社会的な責任を負わないでいい青年期。つまり今だろ? だからさ、この時期に自分がいったい何者なのかを見極めればいいわけ。いいこと言うなぁ俺」

「自分が何者か……ふっ、崇高なテーマすぎてピンと来ないな」

「ははーっ、だよな!」

 この真面目なのかふざけているのか判らない雰囲気こそ圭祐の魅力だ。だから若彦は彼と話すのが好きだった。気兼ねはいらず、妙に安心感を得られるのだ。

 食事を終えて弁当箱を包み直していると、出入り口の重い扉がいやに勢いよく開けられた。

「天野ォ! どこだ天野‼」

 単身屋上に飛びこんできた女子が声を張り上げた。天野という奴を捜しているようだ――。

「おおっ、なめちゃん!」

 女子生徒は立ち止まり、能天気に手を振った圭祐をきっと睨んだ。

「なめちゃんはやめろ!」

 ショートヘアとスカートが風に揺れた。ファッションモデルのように均整の取れたプロポーション。なめちゃんなる奇妙な(あだ)()、ただし本人は猛烈に嫌がる。その正体は。

「な……(なめ)(かた)さん?」

 同級生・行方楓奈は怒っていた。それはもう物凄く怒っていた。湧き立つ怒りのオーラが今にも具現化しそうな剣幕だ。彼女が火山だったら、間違いなく噴火の真っ最中だ。しかもボルケーノ楓奈は若彦を捜してここに来たというから、当然怒りの矛先も若彦に向けられているのが自然である。というわけで、若彦は身の危険を感じて頭の(てっ)(ぺん)から足の先まで戦慄した。

 友人の不用意な呼びかけが災いし、楓奈は若彦を発見した。地獄の鬼もかくやあらん、憤怒の形相である。(げき)(りん)に触れることでもしただろうかと記憶を(はん)(すう)してみたが、思い当たる節はないどころか、入学以来彼女と話したことさえないのだった。

 謎の憤激に燃える楓奈はつかつかと歩み寄り、片手で胸倉を掴み上げた。気分は猛禽に捕えられた憐れな子鼠だ。

「天野、きさま……!」

 獲物は助けを求めるように隣へ視線を送った。圭祐は不測の事態に驚き呆然としていたが、すぐに友人の危機が迫っていると判断して、慌てて楓奈に問いかけた。

「なめちゃん待った! 若彦が何したってんだよ」

「委員長は黙ってろ! なめちゃんもやめろ!」

 楓奈は憎き男子をドリルの視線で睨みつけたまま答えた。既に二人は、屋上にいた生徒たちの注目の的となっている。怒りを込めて楓奈は言う。

「答えろ、瑞希に何をした!」

「はぁ⁈」

 神経を逆撫でしてしまいそうな声が出た。だが本当に意味が解らなかったのだ。非難されるいわれはない。ないが、胸倉を掴む手の力は明らかに増したので、窮鼠は危機感を強めて従順になる。そもそも〝瑞希〟が誰なのか、少し考えなければ分からなかった。きっと楓奈とよく一緒にいるポニーテールの同級生――輪田さんのことだ。

「な、何もして、ません」

 荒ぶる楓奈は、間近にいると敬語にならざるを得ない迫力があった。遠くで外野がひれ伏す真似をしてふざけている。(アマ)()(ネス)は空いている拳を堅く握りしめ、鉄拳制裁の準備中だ。

「いや、待ってなめ、行方さん。ほんとに意味が解らないから!」

「瑞希が急に泣き出した。訳を訊いたらお前の名前を呼んだんだ! まだ(しら)ァ切るつもりか⁉」

 お許しくださいお()(ぎょう)様ぁ――茶化す外野は気楽でいい。横では圭祐が、口を押えて蒼褪めていた。

「やっちまったか若彦……」

「何をだよ! バカなこと言ってないで止めてくれよ」

 圭祐は肩を(すく)めて、やァれやれ――とわざとらしく言った。こいつも明らかに楽しんでいる。

「なめちゃん、まずは落ち着け。ともかく落ち着け。いいから落ち着け。な?」

「あたしは落ち着いてる!」

「これは失礼、俺が慌ててただけみたいね。だったら次はその握り拳をどうにかしないか? ほら、可愛いコにゃしかめっ面とファイティングポーズは似合わない」

「か、かわいいとか、言うな……」

 圭祐の得意技である歯の浮くような台詞は、実は()()な楓奈には効果覿面だった。たちまち若彦のシャツを掴む手の力が緩くなり、もう片方の拳もほどけた。

「よぉしそれだけで何倍も素敵になった。で、改めて訊くが若彦が何をしたって?」

「何かは知らない。けどこいつが何かして瑞希を泣かせた。だから殴りに来た!」

 束の間の安息は終了、再び両手に力が入る。首が締まって息苦しい。交渉にも熱が入る。

「証拠! 証拠でもあるのか? 裁判の基本は疑わしきは罰せず(in dubio pro reo)。瑞希ちゃんの証言だけで信用するってんなら、俺だってこいつを信用してる。絶対に女の子を泣かすような酷い野郎じゃない。むしろ虫も殺せないような優しい奴だ。だろ若彦?」

「あー……え?」

「聞けよ!」

 友の心震わす賛辞が耳に入らなかったのは、いつからか楓奈の背後に浮いていた白装束の知人、もとい知霊に気を取られていたからだ。

史織は指の輪っかを目に当て、ばっと両手を振り上げると、ムンクの「叫び」みたいなポーズをとり、最後に厳かに合掌という、意味不明なジェスチャーを繰り返している。呼びかけたいのを抑えて、表情だけで苦境を伝えた。舌を出し、気持ち申し訳なさそうにする史織を見て、若彦は大体の事情を把握した。合掌は謝罪の意だ。

 信じがたいことだが――自分が殴られる寸前であることも納得がいった。幽霊が存在して、自分にだけそれが見えて、しかも学校までついてきたら、自分以外にも〝見える〟人間と出くわしてしまったという、信じがたいことのミルフィーユ仕立てだ。()()すぎる。

 圭祐は若彦と楓奈の間に入り、二人の距離を押し拡げた。怒りの収まらない楓奈はなお食い下がり、仁王立ちの圭祐を困らせる。

「あんなに瑞希が泣いたのは小学校の修学旅行でお化け屋敷へ入ってゾンビに追いかけられたせいで迷子になったとき以来なんだぞ。何もなかったはずがない!」

「はいはい親密アピールはいいからさ」

「うるさい‼ とにかく一発殴らなきゃあたしの気が済まない。言い訳はその後だ!」

 もうただの八つ当たりだ。待て待て待てと再度圭祐が繰り返す。

「なめちゃん暴力はんたーい!」

「なめちゃんはやめろって言ってるだろ!」

「なめ……そうか、ダメか」

 圭祐はふっと息を吐いて、いつになく精悍な顔つきになって言った。

「よせよ楓奈」

「な……!」

 楓奈の頬は一瞬にして紅潮した。

「名前でも呼ぶなぁ‼」

 花も恥じらう乙女は、照れ隠しで渾身の一撃を放つ。

 圭祐は見事に張り倒され、次いで若彦も軽やかな(うら)(けん)を食らって、屋上の床に崩れ落ちた。

 楓奈が走り去った後、こういうの青春ってんだろうな――仰向けの圭祐が呟いた。きっと彼にとっては、ビンタもご褒美だったのだろう。若彦は友にマゾヒストの素質を見た。

 幽霊は誰にも聞こえない声でごめんねと言って、笑った。反省してない。

 とんだとばっちりだ。青空に溜息を吐くと、陽射しが僅かに同情してくれた。



     *



「ねぇ許してよー、本当に反省してるんだってばー」

 ちょっとだけ若彦は怒っていた。頭上をしょんぼり蛇行して飛ぶ史織を無視して、自転車を押しながら(れん)()の路地を進む。まったくとんでもない厄日である。

 (たつ)()(どお)りは高校からもそう遠くない場所にあるアーケード街だ。戦前からこの地域最大の商店街として知られており、規模は縮小したものの、現在でも百貨店と共存して人気を博し続ける(しに)()も多い。いまだに全国ネットのテレビ番組が取材に来る程だから、とかく衰退が取り沙汰されがちな商店街の中では栄えている部類に入るものと見える。昨年には〝たつこん〟なるマスコットキャラクターまで誕生した。今日も視界の悪そうな着ぐるみが、暑さにも負けず練り歩いている。

 母に頼まれていた来客用の菓子を買った若彦は、そろそろ反省の色が見え始めた史織と話してやってもいい頃合いかと考えていた。スマホを耳に当て、通話中を装う。

「もしもし、史織さん?」

「はい! はーい!」

 飛びつくように返答して、着物の裾をぶんぶん振って肩に取り(すが)る。人懐こい犬のようだ。

「あのっ、若彦、学校ではその、ほんとにほんとにスイマセンでしたっ!」

「はあ……もう過ぎたことだし。俺より輪田さんが心配です」

「あぁ瑞希……結局保健室から戻って来なかったの?」

「早退しましたよ。トラウマになっちゃったんじゃないかな」

「うあーしまったー。反応があまりにもいいもんだから、ついつい調子に乗っちゃってさ。叫び声がいいんだよね。グギョワーって! ンホォォって! うぇへへへ」

「笑わない」

「はい」

「あれから針の(むしろ)だったんですからね……」

 思い出すだに裏拳をぶち当てられた左頬が疼く。いたたまれない二時間半だった。

 教室に戻った若彦は、女子生徒から疑惑の目を向けられる憂き目に遭った。楓奈の、()いては史織のせいだ。これほど人畜無害な奴は、自分を除けば金魚飼育が趣味の()(うら)君ぐらいしかいないと思っていた若彦にとって、この扱いは極めてショッキングだった。輪田瑞希を傷つける言動をとろうはずもない。しかし影の薄い存在であったことが巡り巡って、異性には「あいつならやりかねない」との感想を抱かせる結果になってしまったのは、皮肉な運命の悪戯といえよう。悲運なる瑞希が学校中を逃げ回ったために噂も大いに駆け巡り、最終的には一年でも指折りの美少女が変態に追い回されたという腹立たしいデマに変貌を遂げ、校内に拡散した。若彦は帰り際に友人たちからこの話を聞かされて、個人名が出ていなかったことについてだけは安堵した。

 それにしても――変態呼ばわりは遺憾である。アブノーマルなのは圭祐だ。

「うーん。瑞希には私から謝っとくよ!」

「また怖がらせちゃうからダメ」

「ぬ……」

 こんな(まん)(じゅう)より怖くないヘボ幽霊に追いかけられて寝込むのだから、輪田瑞希という女子は相当な怖がりだ。彼女ともやはり話したことはない。席も離れているし、真面目で成績優秀な、ポニーテールの女子生徒という印象しかなかった。一学期の水泳の時間に圭祐が、瑞希の体型と清楚な雰囲気を激賞し興奮していたこと、そして今日の授業中に突然声を上げたことが、彼女に関する数少ない記憶だ。親友行方楓奈は常に瑞希を気に懸け、守ろうとしている。現状、彼女の認識において、若彦は瑞希に非道な行いを働き泣かせた断罪すべき大悪党なのである。証拠不十分を理由として引き下がってはくれたものの、警戒心を解く気は毛頭ない様子だった。若彦の名を口にしたというからには、瑞希本人は史織と若彦の関係をある程度分かっているだろう。分かっていてほしい、と希望的観測。

 史織は口元を押さえ、(こら)え切れない笑みを隠そうとしている。不謹慎なヤツめ。何がおかしいものか。若彦が冷めた眼差しを送ると、今度は開き直って空中で笑い転げた。

「んふふふははー! 思い出すと嬉しくなっちゃうんだよねぇ。今日は若彦にも会えたし、いいことって続くもんだねぇへへへへ。二度あることは三度……まだ何かあるかな?」

「これ以上災難が続くと不登校になりそうです」

 若彦は(しゅん)(じゅん)していた。明日以降どうするべきか。楓奈からの疑いをいかにして晴らすか。幽霊を見てしまった瑞希に事情を話しておくべきか。いくら考えても良案は(まと)まらなかった。

「若彦! 悩んでたってしょうがない。男なら玉砕覚悟で特攻だよーっ!」

「砕けること前提の素晴らしい助言どうも」


 堂々巡りの思案に()み疲れた若彦が、ほぼ骨董品の域に達した古着を大量に売る自称雑貨店の前を横切った丁度そのとき、聞いたことのある柔和な声が呼び止めた。

「若彦さん!」

 声の主は反対側から歩いてきた中学生くらいの小柄な少女、左手に「おさがめ屋」の紙袋を提げ、右手を小さく振ってこちらに微笑みかけている。パステルカラーのワンピースと、頭に載った小ぶりの(スト)(ロー)(ハッ)()が可愛らしい。吸い込まれそうなほど澄んだ瞳はオレンジ色で、口元から覗く八重歯は、若彦の大脳半球の内側を刺激した。あの子は。

「お鬼久さん?」

 八月十六日未明、岩窟の住居で若彦を介抱してくれた鬼の少女は、人と全く変わらぬ出で立ちでそこにいた。史織が飛び上がって小躍りする。まさに(きん)()(じゃく)(やく)の様相だ。

「お鬼久ひさしぶりーっ! ほら若彦、三度目もあったじゃない!」

「まあ、史織さんもご一緒だったんですね」

 お鬼久は実に意外そうに、そして嬉しそうな表情になって会釈すると、足取り軽く歩み寄ってきた。自分のことなど()うに忘れているとでも思っていたのだろうか。まあ、実際今朝までお鬼久の名も顔も忘却の彼方だったのだが。若彦は言う。

「驚いたよ……今日は着物じゃないんだね」

「角も隠せませんし、あの恰好で外へ出ると目立ってしまいますから。ふふっ、普通の女の子みたいですか?」

「ええっと……うん」

 普通と呼ぶにはもったいないくらい可愛いと思うが、例によって口に出すのは(はばか)られた。

「若彦さんは? 学校の帰りですよね?」

「そうだよ。家も近くなんだ」

「素敵。流青には色んなお店が沢山あって楽しいです。洋服屋さんや大きな古本屋さん、おさがめ屋さんもありますしね」

 お鬼久は親子亀の紋がプリントされた赤い紙袋を、大事そうに胸の高さまで持ち上げた。

「煎餅、好きなの?」

「はい! (よろず)せんべい大好きなんです」

「あぁ、あのかったいやつ!」

「あの歯応えがたまらないのですよ! だって、わたし鬼娘ですから」

 お鬼久はにっこり笑って歯を見せた。おさがめ屋は老舗揃いの竜子通りでも一番の古株と目される煎餅屋で、創業は江戸時代だという。お鬼久が買った萬せんべいは昔からの売れ筋商品、屋号の通り亀の甲羅のごとき硬さで歯が立たないと評判の代物だ。華奢な顎に秘められた侮りがたい鬼の咀嚼力の前では、硬さの魅力もいっそう引き立つ。

 お鬼久の脇へと飛んだ史織は、小鳥のように視点をあちこちへ移していた。

「史織さん、どうかなさったんですか?」

「うーん、アザミは来てないんだね」

「……はい。アザミさまは出られませんから」

「えっ?」

 出られないとはどういうことか。史織が少し悩んでから尋ねた。

「引きこもりなの?」

「ちがいますよぉ」

 シリアスな空気に移るかと思いきやこれである。幽霊はぶれない。若彦は軌道修正を図る。

「何か理由があるのかな?」

「ある事情のために、アザミさまは岩屋から出てはいけないことになっているのです。でも、わたしは詳しいことをお話しできる立場ではないので……」

 ごめんなさい、とお鬼久は頭を下げた。アザミを気遣い、同時に二人に申し訳なく思うがゆえの寂しげな口調が、彼女の健気さを表していた。幽霊は若彦の元へ戻り、こう提案する。

「今度また二人で遊びに行こうよ!」

「本当ですか? 若彦さんと、史織さんが?」

「うん。だって退屈でしょー? 私なら家にいるだけの生活なんて三日と()たないもん」

「史織さん俺にも予定ってものが」

「次の日曜のお昼がいいかな。どうせ若彦もヒマだしさー」

「どうせって」

「よし決まりっ! 五日はアザミの家に遊びに行く、と」

 呆気にとられている内に、予定はほぼ勝手に決定。確かに日曜に用事はないし、お鬼久が目を輝かせてありがとうございますと言っているのだから、断る理由はどこにも、ひとつもありはしなかった。嫌なのではない。むしろ行きたい。人間でないとはいえ、女の子の家を訪問するとなれば、若彦だってそれなりに高揚感を覚えるものだ。そんな自分を浅はかだと恥じてもいる。だから素直に喜ぶそぶりは見せられず、眉を八の字にするのだった。

 お鬼久はぺこりとお辞儀して、ずり落ちそうになった帽子を慌てて押さえた。

「では、今日はこれで。そろそろ帰らないとアザミさまが心配しますから。日曜日に渡螺山でお会いできるのを楽しみにしていますね!」

「うん。またねー!」

 お鬼久さん、最後に一つ――若彦は鬼娘を呼び止め尋ねる。

「俺たちを助けてくれたあいかって人のこと、何か教えてもらえる?」

 あの無愛想な子かと史織が呟いた。

 秋嘉。人か、鬼か。あの夜出会った者たちの中で、最も謎めいた存在。

岩屋のアザミは素性を知っている様子だった。となればアザミと同居するお鬼久もまた(しか)り、だろう。

 向き直ったお鬼久は(いく)(ばく)か残念そうに答えた。

「わたしは……やっぱり勝手にお話しできる立場にはないんです、ごめんなさい」

「……そっか」

「でも」

 お鬼久の瞳は一瞬上に動き、ふさわしい言葉を探し出すと、また若彦を捉えた。

「これだけは言えます。秋嘉さんは、この世界を守っているかた」

 アーケードを爽やかな風が通り抜け、人ならぬ少女らの髪を撫でていった。

 さようならと言って、鬼娘は少年と幽霊にまたお辞儀をすると、くるりと回って歩きだした。小さな後姿はすぐ雑踏に紛れた。若彦はそれきり、群衆の中に(くだん)のワンピースを見つけ出せなかった。(そぞ)ろに心細さを覚え、後を追うように商店街を抜けた。


「世界を守ってる……か」

 不思議な気分だ。

日常と非日常が、いよいよ境を失くして入り混じりだした。同級生は幽霊に(おのの)き、商店街では鬼娘に再会。地獄が迫ってきた恐怖と不安もあるが、静かに大きく動き始めた世界の雰囲気に酔い痴れ、若彦は心を躍らせている。

 ともかく、今日は素直に家に帰ろう。

 なんだか甘酸っぱい思いが募るようで、若彦は意味もなく鼻をこすってみた。

「史織さんはこれからどうするの?」

「若彦ん()に泊まるよ」

 幽霊はこともなげに答えた。

「そうなんですか……え⁈」

「ふつつかものですがよろしくおねがいします」

「ええー……」

 どこかの電柱から、(ひぐらし)が甲高い声でせせら笑った。


 日曜にはまたお鬼久やアザミに会える。アザミは何を抱えているのだろう。洞窟に幽閉された鬼の姫君?

 なぜ出られない。なぜ語れない。なぜ秋嘉を想ってあれほど哀切な目になる?

 目。眼――力を秘めたルビーの瞳。あの眼があれば、手を使わずとも――。

「ねえ若彦、アザミのこと覚えてる?」

 前カゴに下半身をすっぽり収めた史織が、靡く髪を押さえながら不意に言った。

「今朝思い出しましたよ」

「手、ないのかもね」

 ぽつりと出た一言は、若彦をひどく動揺させた。

 本当は同じ結論に行き当たっていた。彼女は手を使わなくてもいいのではなく、使えなかったのではないかと。冒涜的に感じられて知らず知らず封印していた発想が、史織の言葉で顕在化した。不自然なまでに肘から下の動きが乏しかったのは、そこに何もなかったからだ。だとすればアザミが外出を禁じられているのと、腕の欠損は密接に関わっていて、秋嘉もまた秘密に深く関与している。根拠はなくとも、妙な確信があった。

 全ては繋がっている。

 ――礼は要らない。

 ――裂け目を封じ、巻きこまれた人を助けるのは僕の義務だ。

 あの冷々たる態度の美少年は、若彦たちの礼を、謙遜でなく真に拒絶していた。

 義務とはなんだ?

 何を抱えている?

 好奇心の胎動はもはや抑えられない。

 アザミに会いたい。 

 秋嘉にもまた、会いたい。


 少年と幽霊は、沈黙したまま家を目指した。



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