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鬼の手borrower  作者: 志方正樹
1:地獄封じ編
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第一章・現世の守り手《このよとこころをとざすもの》


 まるで別物。

 見上げた夜空のことである。

 暗い無限のキャンバスに、散りばめられた無数の宝石。そこにあるのは自分の街と同じ空。なのに、美しさはまるきり違っている。今にも降り注ぎそうな(あま)()の綺羅星は、地上の灯りの乏しさを示していた。人工の光が邪魔をしないこの場所なら、これだけ星の(またた)きを受け止められる。覚えるのは静かな感動。星はいつもと同じく輝いているだけなのだ。ただ自分の居場所と視点が変わるだけで、これほど世界は煌びやかになるのか。同じ星なのに、空は別物。

 田舎も悪くないな――と(わか)(ひこ)は繰り返して思う。

 縁側に腰掛け、ぼんやり空を眺めているだけでも、不思議なまでに感覚が研ぎ澄まされる。(せん)(ざい)から聴こえる蛙と虫の歌声。山の湿気でじっとり暑いなか、川のせせらぎが涼しげなイメージを運んでくる。蚊取り線香の煙は鼻先を撫でて舞い上がり、赤黒の金魚が描かれた風鈴を鳴らした夜風は、蛙たちに静かなエールを送って向かいの山へ飛び込み、木々の枝葉をさらさら揺らす。

 ここは父の故郷、若彦の故郷ではない。なのに、(ノスタ)(ルジア)をかき立てられ心が(くすぐ)ったい。

 本当に、たまにはこういうのもいいものだ。


 さて。

 なぜ少年は(がら)にもなく、()()(カル)に、不自然なほど自然に思いを馳せていたのか?

 直面している現実が理解不能。それが第一の、いや唯一の理由だ。

 視線を徐々に、頭の高さまで戻そう。

 月、星、山、塀、井戸、幽霊。

 幽霊。

「ゆうれい……?」

 そう。若彦の真正面に浮かび、なおかつこちらを凝視している女は、たぶん幽霊なのであった。いつからいたのか定かではない。気がつくと目の前にいた。煙を吐かなくなった()(やり)(ぶた)もそ知らぬ顔をしているし、(にわ)かには受け入れがたい出来事ゆえに軽く現実逃避していたのだ。

 彼女は顔立ちから判断して若彦と同年代、つまりは十代後半辺り。()()ある黒いミディアムヘアと、大きな眼がそれなりに愛らしい。じっと見つめられていると緊張こそするが、決して怖くはない。全然怖くないのだ。

「えっ⁈」

 驚きの声を上げたのは少女の方だった。眼前に堂々と出てきておいて、なぜ声をかけられたくらいで戸惑うのか。物凄く周りが見えないタイプの人なのか。若彦はそんなことを考える。

 ところで、彼は期せずして現れた見知らぬ少女を即刻幽霊認定するほど、斜め上で明後日を向いた思考回路の持ち主ではない。理性的な現代っ子が彼女を幽霊と言い張るのには、相応の理由がある。

 彼女は(ひだり)(まえ)の白い(かた)(びら)を身に纏い、額に三角の布を着けていた。誰がどう見ても死装束、(ステ)(レオ)(タイプ)()()()()な幽霊の恰好で、(てっ)(こう)で覆った両手をだらりと垂らしている。

 このあからさま服装! この露骨な手つき!

 こんなものが夏の夜の野外に(たたず)んでいるとなれば、幽霊と判断したくなるのが人情だ。けれども、装いだけなら生者だって真似できる。八月半ばの今ならば、この手の(コスチ)(ューム)など珍しくもない。若彦自身、最初はどこか近くで行われた肝試しの脅かし要員がうっかり迷い込んだのではと考えた。が、それも違った。

 彼女の(から)()は透けていたのだ。背後にあるべきハイビスカスの鉢植えが、少女の体越しにうっすらと見える。皮膚も内臓も骨までもスケルトンで、服ごとシースルーなびっくり人間がいるわけもない。更に、これは目を背けたい事実であるが、彼女には足がなかった。地面に近づくにつれ帷子の裾は(すぼ)まり、輪郭は(もや)がかかったようにぼやけている。接地しているべき足は見当たらない。何から何まで()(フォ)(ルメ)された幽霊のお約束を踏襲している。駄目押しで全身から淡い光を放ってさえいる。ああ、もう確定ではないか。

 おばけなんてないさ♪ とは言っていられない。

 おばけだ。

 若彦は超常現象など信じないし、死後に霊魂とかいうものが残るとも思っていない。それでも理解しがたい存在が今ここにいるのは紛れもない事実で、これを幽霊だと解釈すれば不本意ながらも状況の説明はついてしまう。だから幽霊だろ、幽霊でいいや――もう投げやりだ。

 少年と少女は見つめ合って沈黙している。と表現すればいくらか(ロマ)(ンチ)(ック)だが、双方とも何を話すべきか分からず呆然としているだけ、少女に至ってはポカンと口まで開けているので、間抜けと形容する方が実情に近い。(コメ)(ディ)のテンポなのである。ちっとも背筋が凍らない。

 突如として前栽の蛙が歌を打ち切った。若彦は思い切って口を開く。

「あの」「ねぇ」

 同時に幽霊も言葉を発し、互いに遠慮してまた沈黙した。つくづくタイミングが悪い。

「ゆ、幽霊さん先にどうぞ」

「ども……」

 幽霊少女は(うやうや)しくお辞儀をしてみせ、その後はっとして顔を上げた。

「いま幽霊って言ったよね⁈ 私のこと幽霊って!」

 案外砕けた口調だ。身を乗り出して己を指差すので、顔と顔の距離がまた詰まった。

「はい」

 取りあえず返事をする。普通に意思の疎通がとれているのが、どうも釈然としない。

「ってことは、私が見えてるのよね?」

「はあ、まあ……見えてますよ。目の前にいるんだから」

 バカにしているのか、と心に少し不愉快の影が差す。

「――よっしゃあっ!」

「は?」

 ますますわけが分からない。喜ぶ要素はないだろうに。

「うらめしやー‼」

 思い出したように幽霊は(はつ)(らつ)と叫ぶ。

「んな元気いっぱいに言われても」

「……うらめしやぁ……」

「トーン落として言い直されても」

「もー。じゃあ少年はどんなのが怖いわけ?」

 幽霊の少女は、勝手に不機嫌になって頬を膨らませた。本物の癖に怖さは仮装以下でどうしようもない。悪ふざけにしか見えないのだ。

「あ! ちなみにね足だけにもなれちゃったり!」

 ぎゅうと身を縮めるとにゅうと下半身が伸びた。腰から上が消え、脚だけばたついている。

「うわ気持ち悪い」

「わーん、ひどいー!」

 元に戻って幽霊は泣いた。

 怖いのはよくて気持ち悪いのはダメなのか。なんなんだよ。

「成仏してくだ」

「やだ!」

 即答である。

「っていうかホントに不思議なんだけど! どうして私が見えるんだろう?」

 面倒臭くなって黙っていると、元気な幽霊は更に詰め寄ってきた。

「ちょっと聞いてる? ねぇメガネくん!」

「あの、そういう呼び方はちょっと、やめてもらいたいっていうか……」

 幽霊の指摘通り、若彦は眼鏡をかけている。没個性的な黒フレーム、裸眼視力は〇.〇五。眼鏡を特徴と捉えてもらうのは一向に構わないが、メガネを代名詞にされるのは嫌だった。

「だって名前知らないもーん。あ、私は()(おり)ねっ。歴史の史に機織りの織」

 ご丁寧に漢字まで教えてくれた。あっこれ本格的に自己紹介の流れだ、と悟る。

「しおちゃんって呼んでいいよ」

「呼びません」

「むぅノリ悪いー。まいいや、私は名乗ったからね。君は?」

(あま)()です」

「なまえも」

「天野……若彦」

「わかひこ。へえ、いい名前だね!」

 意外だった。史織という幽霊は、屈託なく笑って少年の名を褒めた。奇妙な名前だと直接は言わないまでも、怪訝な顔をされるのではないか、天野若彦はそう予想していた。

「若彦いくつ? 見たとこ私より年下だよね」

「下……ですか? 十六ですけど」

「やっぱし」

「そういうゆうれ――史織さんはいくつなんですか」

 女性に歳を訊くのはマナー違反だったか。そう反省するより先に史織の馴れ馴れしい態度が気になって、妙なおかしさと反抗心が芽生えてきた。何しろ会って数分で呼び捨てである。

「私は享年二十歳!」

「おお」

 幽霊らしさ全開だ。なぜ自慢げに言ったのかは分からない。

「意外と大人なんですね」

「若く見えるー? おだてたってなんにも出ないよっ」

 締まりのない笑顔になった史織が指を弾くと、頭上にポンと青緑の(ひと)(だま)が出た。

 こっちまで死にそうになるほど下らない冗談なので無視すると、史織はまたむくれた。

「ほら火の玉! ちょっとは怖がってよ! これ凄いんだよー触っても熱くないんだから」

 史織は火の玉を掴んで若彦の鼻先に突きつけた。アピールすべきはそこなのか――と困惑しながらも、可哀想なので何度か指で(つつ)いてやる。

「あ、ほんとだ熱くない」

「でしょ! びっくりした?」

「あー、うん」

 若彦の生返事にも史織は無邪気に喜んだ。何かと精神年齢の低い享年二十歳である。

 史織がもう一度指を鳴らして火の玉を消したのと同時に、若彦の後ろで障子戸が開いた。

「ヒコ、誰と話してるの?」

 赤いフレームの眼鏡をかけた女が顔を覗かせた。勿論こちらは生きている。

「母さん!」

 座敷から出てきた母に、不審人物と対話している珍妙な状況をなんと説明したものか。

 史織は若彦にしたのと同じように、目を皿にして母に注目している。幽霊と会話中だとありのまま言えばいいのか。果たして母は納得するだろうか、いやしない。困った。面倒だ。

「……変なの。誰もいないじゃない」

 母は若彦だけを見て首を傾げている。反射的に若彦は答える。

「いや、ここにいるって」

 腰かけていた場所を退き、史織が母の視界にも入るようにした――つもりだったが、首の角度は戻らなかった。否応なしに幽霊が目に映ったに違いないのだが。

「それ何かの冗談?」

 困ったような微笑を浮かべて母が尋ねた。その問いが、若彦に史織の発した問いかけをも思い出させる。推測はほぼ確信に変わって、若彦の思考を加速させた。

「若彦ママ美人さんだねー! スタイルもいい! スポーツやってる? 歳いくつ?」

 史織が騒いだが、母はやはり気にも留めない。普段の母なら、褒められるなり満面の笑みになって照れなければおかしいというのに。何も聞こえてはいない証拠だ。

 若彦は機転を利かせ、ズボンのポケットから機種変更したばかりのスマートフォンを取り出した。そして笑顔を(つくろ)って、おどけ混じりに母に示す。

「ここに……いたんだよ。さっきまでね」

 母は怪訝な顔をしたが、間をおいて納得したように幾度も頷いた。

「ああ、電話ね!」

「うん、(けい)(すけ)から」

「びっくりしたじゃない……お化けでもいるのかと思った。お風呂どうするの?」

「先入らせてもらいなよ。俺、後でいいから」

 そう、と言うと、母は障子を閉めて縁側から遠ざかっていった。

「ははっ、お化けね……俺以外には見えてないし、声も聞こえないってわけか」

 ふうと一息つく。元いた場所に座り直し、より小さな声で話を再開した。幽霊との秘密の対話だ。史織は嬉しげににやにやしている。まったく、陰気さのかけらもない。

「鋭いねー」

 語尾をだらしなく伸ばすのが彼女の喋り方の特徴らしい。若彦は訊く。

「どうして? 俺、霊感ないよ。っていうか信じてもなかった。まさか気が狂ったとか?」

「だーいじょぶ正常だよ。理由は私にもわかんないや。ま、時の運でしょ。そもそも私あんまし人に見つけてもらえないんだよねー。最初は若彦にも見えてないと思ってたし」

 時の運なんて簡単な一言で解決してしまうのか。なるほど感覚が鋭敏になっているような気はしたが、だからといって突然霊が見えるようになるとは発想の飛躍もいいところだ。若彦にとっては(はなは)だ疑問だったが、とにかくそうとでも考えなければ話は進まなかった。

「つまり、私という美女を発見できた若彦はとっても幸運なのです」

「じゃあ、天文学的確率の偶然で史織さんが見えちゃったと……まあそういうことにしよう。だったら史織さんはどうしてこんな所にいたの? 祟る、それとも取り憑く?」

「わーっ、ちがうちがう! 私がそんな極悪幽霊に見えるー?」

「全然」

「でしょー。私はね、ただこの(うち)から賑やかな声がするから、楽しそうだなーと思って近寄ってみただけなの。幽霊探偵しおりんの推理によれば、ここは若彦のうちじゃないね?」

 若彦は拍手のつもりで三度だけ手を打った。ご明察、というわけだ。

「父さんの実家。ほら、お盆だから。親戚一同この家に集まってるんだ」

「ほほー。昔ながらの大きくて立派な家だもんね。親戚も沢山いるんだ?」

「だけど、高校生は今は俺だけ。若いのは大体成人したか、まだ義務教育終わってないか」

「子供は寝る時間。で、お酒飲んで騒ぐ大人たちにも素面じゃ付き合いきれない、と。息抜きしようと縁側に出てきたら、幽霊と視線がかち合っちゃったーってな感じねー」

「あ、もしかして史織さんもお盆だからこの世に帰ってきた幽霊だったりする? たしか祖先の霊たちが帰る日なんだよね。キュウリに乗って……」

「ちがうよ」

 史織は首を軽く振って、若彦の推理を否定した。

「生身と別れてこの(かた)ずうっと、風の吹くまま気の向くままに、山へ海へと西から東、娑婆に迷うて渡り鳥。さすらい枯れ尾花の史織姐さんとはあっしのことで――」

 がさ。

 生垣の葉が、不自然に揺れた。

「静かに!」

「えっ」

 史織の止まらぬ軽口を掌で制した。

 何かが隠れている? こんなことにもすぐ気づくとは、やはり敏感になっているのかも知れない。今度はいったい何が来た? 獣か、不審者か。また幽霊か。若彦はずれた眼鏡をくいと上げ、生垣を注視した。

 次の瞬間。

「よっ!」「ほっ!」「はっ!」

 ばらばらの掛け声と共に、人影が三つ飛び出した。昔の猟師のような、毛皮の(ベス)()を着た男たちだ。彼らは驚く史織とたじろぐ若彦に駆け寄り、(ふところ)から何かを引っ張り出した。それがささくれ立った荒縄の束であることはすぐ分かったが、急な事態に心身が対応しきれない。史織も目を白黒させ、(こん)(にゃく)みたいにぶるぶるするばかり。どう対処するべきかなど考えつく余裕もなかった。男たちは縄を振りかざし、それぞれ声を発する。

「ゆくぞ!」

「それ行け!」

「やれ縛れ!」

 不穏な号令が飛んだかと思うと、ぐいと若彦の腕に縄が食い込んだ。

「ちょっ、何するんだ! やめろ!」

「ええい黙れ!」

 若彦は痩せた男に押さえつけられ、相方に縄で雁字搦めにされていった。抵抗する暇もない早業だ。もがきつつ視線を隣に移すと、太った髭面の男が史織にせっせと縄を巻いていた。幽霊を捕らえている? なんだこれ! この男たちも尋常な存在ではないのは確実だ。

「ぎゃーっ! やめて離して縛らないでよヒゲオヤジ! あっちいけー‼」

「だ、誰か! 誰か来てくれ!」

 幽霊遭遇の比ではない非常事態。喚く史織を見て、若彦は屋内に向かって大声を発した。しかし、障子の先で異変に気付く者は誰もいなかった。

 皆、眠ってしまったのか? そんなバカな。

 二人はあっという間に縛り上げられてしまった。縄をかけた男が、若彦を逆さに背負う。

「出発進行!」

「猪突猛進!」

「焼肉定食!」

 三者三様に適当なことを言って、男たちは走り出した。痩せた男を先導役に、史織を背負う太った男、若彦を背負った男が続く。彼らは生垣を強引に突破して、一目散に山の方へ駆けていった。若彦は声を張り上げて訴える。

「待って! ストップ! 止まってくれ!」

「止まったら逃げるだろ!」

「ワギャー! 縄ほどけー‼」

 史織の絶叫を無視して男たちは激走する。既に山へ入ろうとしている。

「逃げないから、とにかく事情を話して! 無理ならせめて普通に背負ってくれよ!」

「断る!」

「ウギャーなんでなのおぉぉ‼」

 泣く史織を無視して一行は獣道に突入した。走る速度は変わらず、細い木の枝が鞭のように容赦なく若彦を打つ。なぜこんな仕打ちを受けているのか。次第に腹立たしくなってきた。

「なんでだよ! 何がしたいんだよっ!」

「迷わず成仏しろ! お前たち幽霊は(えん)()様のお裁きを受けるのだ!」

 太った男が野卑な声を発した。

「エンマやだああっ」

 三人は聞く耳を持たず、獣道を抜けて斜面を駆け上る。よく考えると大した脚力だ。

 ――ん? 待て。

 若彦は違和感を覚え、はたと冷静になった。「お前たち幽霊」とはなんだ。まさか、こいつら。もしそうなら呆れたものだ。呼吸を整えると、力一杯叫ぶ。

「俺はまだ生きてるーっ! 幽霊じゃ、なあああああい‼」

 三人の脚がぴたりと止まった。

 直後、逆さまだった視界が正常に戻ったかと思うと、再び引っくり返って暗転した――。



     *



「本っ当にッ!」

「申し訳!」

「ございませんでしたあッ!」

 急展開にも程があるだろう。

 真夜中、山中のどことも知れぬ場所で、若彦はげんなりしていた。光源は幽霊の火の玉と史織自身だけ。視界では三人の男が平伏している。額を地面に(こす)りつけ、物凄い勢いで謝罪している。何度も。若彦は本気の土下座というのを初めて見た。

 必死の訴えを聞いた三人は大いに動転ならびに派手に転倒し、駆け上っていた山の斜面をもつれ合いながら滑落していったのだ。若彦と史織も巻き添えである。

「あの……もういいですから。顔上げて」

「ダメだよ若彦! 反省が足りない。か弱い女の子の幽霊と善良な少年をいきなり縛って(さら)って走って滑って転んで土下座ってなんなの? 恨めしいよ。ユーカイ罪で死刑だよー!」

「死刑って……。あの、三人とも本当にいいですって。山で延々土下座されても困ります」

 不審人物どもは遠慮がちに顔を上げた。向かって右から太った男、痩せた男、さして特徴のない男。幽霊は空中でふんぞり返って三人を睨んでいる。例によって膨れっ面だ。

 まあ、史織の言い分も(もっと)もではある。若彦だってこの変な男たちの行いに少なからず憤慨したし、動機も気になっている。乗りかかった舟、もう散々状況は(こじ)れているのだから、気になることは積極的に訊くことにした。

「はい、みんな立ってほら。じゃ、事情聴取。当然答えてくれますよね?」

(おお)せのままに」

 三人は促されて立ち上がる。甲高い声で返答したのは、淡いベージュの毛皮を着た長身痩躯の男だ。年の頃は三十前後に見えるが、髪は八割がた白くなっている。

「まずあなたたちの名前を教えてください」

 職質中の警官よろしく、高圧的な態度で尋ねてみる。しかし、実のところ、若彦は怒るのが苦手だ。和を以て(たっと)しとなしているのである。

「私の名は(たか)()()()と申します。先程はまことに失礼をば致しました」

 長身の男がぺこりと頭を下げると、次に右の男がくぐもった低い声で名乗った。

(わし)(つち)()()。とんだ勘違いをしてすまんかった!」

 肥満短身いがぐり頭。肥えている割に彫りが深く、しかも口周りから顎までびっしり髭が生えているから、異様なまでに顔が濃く暑苦しい。顔面高密度の男は虎の毛皮を羽織っていた。

 最後に、膝の土を払っていた左側の男が、至って普通の声音で名乗る。

「あっ俺、(なか)()()()な。さっきはゴメン!」

 中肉中背。上着は赤地に焦茶(まだら)の毛皮で、若彦には何の獣だか分からなかった。個性的な二人と比べると、この男だけやけに凡庸だ。あえて挙げるとすれば、二人より幾分若く見えるところが特徴だろうか。

 史織が宙で跳ねながら言う。

「マロマロマロって覚えにくいよモンブラン! まとめて三バカの三麻呂でいいねっ!」

 適当である。酷い。しかし三人とも古めかしく聞き慣れない響きの名で、少々紛らわしい。

 若彦は三人――三麻呂に確認する。

「ええっと、背が高いのが高佐麻呂さん、そっちの髭の人が槌麻呂さん……で……」

 なんだっけ。

「な、か、ち、ま、ろ、だよっ!」

「普通すぎて覚えられんのだ。がはははは!」

 槌麻呂が大口を開けて豪快に笑った。(しゃく)に障ったのか、中知麻呂が猛然と反論する。

「普通で悪いかこのヤロー肉団子みてえな体型しやがって。そう言うテメーは個性が暴走してんだろーが!」

「な、なんだと普通麻呂!」

「文句あんのかブタ麻呂!」

「こらこらお前たち、人が見ておる前で(いさか)いはよせ」

 見兼ねた高佐麻呂が止めに入ったので、喧嘩は表面上収まった。三麻呂に調子を合わせていると著しく脱線していきそうなので、若彦は咳払いで仕切り直し、質問を重ねた。

「……あなた方も幽霊なんですか?」

「へ?」「は?」「違いますな」

 まともな答えを発したのは高佐麻呂だけだった。話の通じる相手に的を絞る。

「確かに見た目は人間っぽいですけど、ただの人間とは思えないな」

「ええ。いかにも我らは人間ではありません。驚くなかれ、地獄の閻魔大王にお仕えしておった鬼なのですな」

「……おに、ですか」

 若彦は嘆息した。

 いきなり幽霊に出会って、今度は鬼ときた。まったく世界はどうなってしまったのか!

 今更オニが本当にいるのいないのと議論しても始まらない。怖くない幽霊がアリなら角のない鬼だってアリだろう。若彦は見識を曲げることにした。我ながら潔し、(あっ)()れ。

「オニぃ? 角ないじゃんヘンなのー」

 史織はけらけら笑って出端を(くじ)いた。三麻呂は、独特な服装を除けば人間そのものの外見である。白髪、肥満は個性の範疇だ。角はない。中知麻呂が史織を見上げ言う。

「あのな幽霊ちゃん、鬼ったって色んなカタチがあんの。角のない鬼もまた鬼だ」

「中知麻呂の申す通り。確かに近頃の人は鬼と聞けば頭に角を生やし虎皮の(ふんどし)を着けた筋骨隆々たる獣のごとき原色の獰猛な大男を思い浮かべられるのでしょうが。我らが鬼と名乗っても分かり難いのは、当然といえば当然かも知れません」

 嘆かわしいことである! と高佐麻呂の横で、槌麻呂が腕を組んで頷いた。正直なところ、三麻呂の話にはついていけない。何が悲しくて夜の山で土埃にまみれて鬼談義をしなければならないのか。知識をひけらかしたくてたまらない高佐麻呂は、お構いなしに喋りつづける。

「そもそも陰陽道における鬼門が北東すなわち(うし)(とら)の方角にあったことから鬼は牛の角に虎の毛皮を得たわけですが、それ以前、太古の昔から我らも含めて多様な姿の鬼があったのですな。もと本邦における鬼というものはモノ――」

「やめろやめろ。お前が喋りだすと夜が明けちまうよ」

 高佐麻呂の講釈を遮って、中知麻呂が前へ出た。

「あー、若彦だっけか? とにかく俺たち三人は鬼で、幽霊を捕まえようとしてたんだ」

「理由は?」

「理由……は、その」

 口籠った中知麻呂を押し退()けて、次は槌麻呂が出て胸と腹を張って言った。

「地獄へ帰りたいからだッ!」

「みっともないからバラすなよ!」

 槌麻呂を押し返しつつ中知麻呂が小声で言う。さっぱり子細が分からない。

「帰りたい、なんて言うからには帰れないってコトだよねー?」

「なんで俺に訊くんですか。っていうか地獄も()るんですね」

 もう驚くとかより呆れてしまう。きっと(かっ)()とか(てん)(てんぐ)もそこらにいることだろう。狸や狐も人を化かすし、嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるのは言わずもがな。どこの昔話だ――とツッコミを入れたくてたまらない衝動に駆られるが、耐える。

 若彦と史織はしばし槌麻呂と中知麻呂の小競り合いを傍観した。高佐麻呂は仲裁を早々に投げ出して、困り顔で二人に寄ってきた。

「いやはや、面目ない……我らは昔からこうなのです。しかし腐れ縁というのは恐ろしいもので、千年以上こやつらと組んでおるのですなあ」

 さらりととんでもない年数が口から出てきた。これには史織も驚いて、せんねん――と抑揚なく繰り返した。若彦は脱力していくばかり。好きにやってくれ。

「三麻呂、長生きしてるんだねー」

「それはもう。我らのことは『()(ほん)(りょう)()()』にも載っておるほどで」

「りょーいき……って何」

「おや、ご存じありませんかな。日本霊異記――正式には()(ほん)(こく)(げん)(ぽう)(ぜん)(あく)(りょう)()()と称する書物ですが、(もっぱ)ら略して日本霊異記と呼ばれますな。奈良朝末期から平安朝初期成立とみられる日本最古の仏教説話集で著者は奈良西(にしの)(きょう)薬師寺の沙門(きょう)(かい)。全三巻に異聞、因果譚、発心談など合計百十六の説話が変則的な日本風漢文で書かれており、まず上巻にはですな――」

「長いぞ!」「くどいぞ!」

 後ろで口喧嘩を続けていた二人の鬼が、この瞬間だけ意気投合して高佐麻呂を(そし)った。

「あのなお前たち、私は――おや」

 苦々しい顔を作り反論を仕掛けようとした高佐麻呂だったが、なぜか途中で沈黙してしまった。示し合わせたように槌麻呂と中地麻呂も口を(つぐ)んだかと思うと、史織までもが落ち着きのない様子となってゆらりと地に下り、(りん)(こう)(ともしび)をも消してしまった。

「えっ……何? どうしたの三麻呂さん、史織さん?」

 暗闇の中で心もとなく光るのは今や史織だけ、状況が全く呑み込めない若彦の心には、漠然とした不安と疑問ばかりが積もってゆく。

「何かあったんですか?」

 若彦は問うた。

 四人の唐突な沈黙が、次に展開する何事かの前触れであることには薄々勘付いていた。けれども、どのようなことが起こるのかは一切予測不能だった。そのせいで若彦は急な疎外感を覚えている。考えてみれば、この集団の中でまともな人間は若彦ただ一人だけではないか。

「しまった」

「これは来るぞ」

「まずいなぁ」

 半分夜に呑まれてしまった鬼が、口々に不安を表明した。先程までの冗長な雰囲気は既にして消し飛んでいる。若彦には分かんないの、と史織が狼狽気味に尋ねた。

「ヤバイくらいにヤな感じがする」

「なんです? 俺には全然分からない。三麻呂さん!」

 若彦は三麻呂に説明を求めた。鬼たちが史織の淡い光に浮かぶ。三人ともいやに強張った表情だ。また高佐麻呂が第一に語りだす。

「よいですか若彦殿に史織殿! 間もなくとんでもないことが起こりますぞ」

「とんでもないこと?」

「ええ、実はこのぉ、んむぅ――」

 中知麻呂が背後から手を回し、高佐麻呂の口を押えた。替わって槌麻呂が言う。

「ごちゃごちゃ喋るな鬱陶しい! いいな二人とも、明るくなったら走れ!」

「えっ?」

 槌麻呂の指示を理解できないでいる内に、その時はやって来た。


 ぎしゃぁあああ!

 薄い鉄板を刃物で荒々しく裂いたような音が合図となって、前方の太い(ひのき)の幹と幹の間に走る、赤い輝きを発する一本の長い(スリ)(ット)

 まるで空間が裂けたようだ。

 一秒も経たない間に、そこから目も(くら)むほどの閃光が噴出した。放射状の陰影が世界に刻まれて、漫画の集中線が現実に現れる。金属の板を強烈な力でくしゃくしゃに潰していくような奇怪な音が響き続けた。人間の感覚では捉えられない禍々しい何かが、裂け目の向こうに広がる異空間から、凄まじい勢いで流入していた。

「うわあッ‼」

 若彦はのけぞり、掌で目を覆った。〝裂け目〟から放たれた閃光が網膜に焼き付いて、視界が隈なく真っ白に輝いたまま戻らなくなったのだ。

「目が、目が!」

 取り乱して叫ぶ。

 光は視神経から頭の芯まで達し、突き刺さるような痛みで若彦を襲った。まともに立っていることもできない。視力を奪われて、不安が心底から湧き上がった。

「若彦っ!」

 心配した史織が肩に纏わりついたらしい、ふわりと綿でも押し付けたような感触だ。

 ごうごう、どうどうと周囲で何かが渦を巻く音がし始めた。白い世界の中で正常な思考力を失った若彦は、嵐の海に投げ出されたような錯覚に陥り、呑まれ沈む恐怖を味わっていた。

「若彦殿!」

「逃げるぞ!」

「早く来いっ!」

 怒号に近い呼びかけの後、若彦の両手が握られ、強い力で後ろに引っ張られた。

 明るくなったら走れとはこのことか――指示をこなせなかった不甲斐ない人間を、槌麻呂と中知麻呂が助けてくれたらしい。

「若彦しっかりして!」

 肩口の綿が喋った。いや違う。これは綿よりなお軽い、この世にいないはずのもの。

「史織さん!」

 そうだ。夢見心地でいる場合ではない。後ろ向きに引きずられながら、激しく頭を振って、若彦は自身の覚醒を促した。数回の波を経て頭痛は和らぎ、白一色だった視界にも色彩が走り始める。次第に景色が見えるようになった。

「えっ……」

 いきなり幽霊に会っても、いきなり鬼に攫われても自分の意識というものを信じていた若彦であったが、流石(さすが)に今度ばかりは我が目を疑った。

 赤い。どこを向いても、全て赤く輝いている!

 そして熱い。皮膚がじりじりと()ける。

 そう。

 それは全て炎だったのだ。

 どうなってるんだ! 若彦は絶叫した。

 山中のあらゆる木が、草が、石までもが、見たこともない灼熱紅蓮の炎に包まれている。

 三麻呂と史織は、火炎に包まれた山中を駆け抜けていたのだ。

 火炎の渦は、若彦たちが先程までいた辺り、即ち謎の裂け目が生じた場所から轟々と噴き出し、まるで目撃者を追い詰め焼き殺さんとする意思があるかのように五人に迫っていた。烈々たる熱風が、(だいだい)色をした炎熱の吹雪を全身に浴びせかけてくる。

「史織さんなんなのこれ⁈ どうして燃えてるんだ、三麻呂さん!」

「はっ、話は……後だ。まずは、逃げ延びることっ!」

 息も絶え絶えに中知麻呂が言った。

 若彦は己の足で立つタイミングが掴めず、まだ二人に引きずられている。視力はもう殆ど回復していた。回復していたがゆえに、捉えた像の意味を把握することができないでいた。

 〝裂け目〟の生じた方角、猛り狂う炎の中から何者かが飛び出した。

 半裸の女だ。

 知らない女。鬼でも幽霊でもないが、同じ人間であるとも思われない。

 若彦たちを追って――いや、同じく炎から逃れようとして、女は長い髪を振り乱して必死に走る。あちこちに生傷を作って血と泥で汚れ、(むな)()も露わに半狂乱の(てい)で駆けている。

 いったい何者だ?

 間もなく、女の背後に巨大な(かな)(ぼう)が立ち上がった。それはすぐ振り下ろされて、女を頭からぺちゃりと潰した。女は鮮血を噴き上げ、無惨に(ひしゃ)げた。

 ()れたトマトを地に叩きつけたように、血でずるずるになった肉片が散った。(しぶ)()が若彦の眼鏡にまで飛ぶ。残骸は炎に包まれ、間もなく無感動に消えてなくなった。

 何が起きたのか、脳は理解を拒んだ。

 人が、人の形をしていたものが一瞬にして、いとも簡単に潰されたのである。

「うぅわああああああっ!」

 どす黒い恐怖心に支配され、悲鳴を上げずにはいられなかった。悪夢だ。これは悪夢以外の何物でもない! そうであってくれと願った。

「おいっ若彦暴れるな!」

「あああっ、人が! 人が潰されて!」

「若彦落ち着いて!」

 パニックに陥る若彦を(なだ)める術はなく、鬼たちは迫り来る炎から逃げるより他に道もなかった。山全体が猛火に呑まれる前に、なんとしても脱出せねばならない。

 今度は右の方で老齢の大木が()ぜた。若彦はしがみつく史織ごと爆風に吹き飛ばされ、まだ火に蹂躙されていない繁みに倒れ伏した。火花の豪雨が降り注ぐ。眼鏡は外れてどこかに転がり、服は焼けて細かな穴だらけになっていた。熱い、苦しい、恐ろしい。

 泣き叫んで全て投げ出したくなる気持ちに耐え、(くさむら)から這い出す。若彦は火の粉のかからない所まで逃れ、(はぐ)れた三麻呂を探した。連中はどこに隠れたのか、あるいはもう骨まで焼き尽くされてしまったのか、とにかく燃え盛る山林には鬼の姿を見出せなかった。

 もうダメだよ逃げよ、燃えちゃうよと言って、史織が地に膝を突く若彦の手を引いた。そのとき進行方向に、炎を纏った赤剥げの木がめきめき音を立てて倒れ込んできた。

「きゃっ!」

「しまっ――た――」

 熱い空気に喉が灼かれて、まともに声さえ出なかった。顔や腕がひりひりと痛む。今ならまだ横たわる幹を跳び越えられる。一刻も早く進まなければ本当に逃げ道がなくなってしまう。とにかく、立たなくては。だが。

「行こって、わ!」

 再び手を引いて浮かび上がろうとした史織を、若彦は逆に引き寄せた。胸元で史織が風船のように跳ねた。

「どしたの?」

 史織の問いかけに若彦は答えなかった。膝を突いたまま、驚愕と失意の入り混じった表情で真正面を見据えている。それもそのはず、二人に唯一残されていた道には、もう脱出を阻む何者かが回り込んでいたのだ。大きな黒い影が、燃え上がる倒木の先に立つ。

「嘘でしょ……」

 史織は文字通り色を失って透明になった。

 影の身の丈は若彦を遥かに超えている。二本の足で立ってはいるが、よもや人間ではあるまい。若彦は一歩後ずさろうとして、すぐに足を引っ込めた。背水ならぬ背火の陣、炎の壁が(そび)え、天まで焦がそうとしているのだ。追い詰められてしまっている。逃げ場は、ない。

ぐうおお――!

 人とも獣ともつかない、野太い雄叫びが響いた。耳も(しび)れる(あく)(せい)だ。

 怪物は燃え盛る炎をものともせず、こちらへ歩を進めてくる。

 どうあれ、この場でじっと死を待つ道理はない。

「史織さん!」

 史織の儚い手を力いっぱい握り、若彦は無理矢理に立ち上がった。目眩がしたが、休んでいる余裕はない。影はいよいよ真の姿を明らかにした。

 優に三メートルは超えているであろう体躯。四肢には盛り上がった(たくま)しい筋肉と、浮き上がる太い血管。炎を照り返す(しゃく)(どう)色の硬質な肌。手足の指には人などたやすく八つ裂きにできそうな鉤爪。(ふん)()(くま)()られて血走った大きな目。逆立つ白銀の頭髪。下顎には上向きの鋭い牙。(ひょう)(もん)の褌と藍の首巻を纏い、右手には炎を噴き出す(とげ)付き鉄棒を握っている。先程女を叩き潰した凶器だ。そして額から側頭部にかけて、大小三対の角が生えている。

 それは紛れもなく鬼だった。見た者の心を恐怖で圧し潰すのに充分な(おぞ)ましい姿だ。

「鬼いぃー⁉」

 史織の金切り声に刺激され、鬼は倒木を蹴転がして咆哮した。

 若彦は叫ぼうにも声が出ず、ただその威容に圧倒されるばかり。化物をぎりぎりまで引きつけ、隙を()いて一目散に走る気でいたが、足が(すく)んでまともに動くことさえできなかった。

 炎の中から現れた大鬼は、ぎらぎら輝く両目で二人を睨みつけた。恐怖心が心臓を握り潰そうとする。殺意を超越した害意を、若彦の直感が察知した。

 鬼は勢いよく鉄棒を振り上げ、二人に狙いを定めて打ち下ろした。

「危ないっ!」

 咄嗟に史織を抱き込んだのと同時に、骨と肉とが引き剥がされそうな程の衝撃を受け、若彦の体は横に飛ばされた。そのまま火のついた叢を何メートルも転がり、炎上を免れた古い(いし)()(ぞう)に背をぶち当てて、ようやく止まった。


 史織は若彦の腕の中、流れてきた温かな血を(ほお)で受け止め我に返った。

「若彦? ねえ若彦しっかり!」

 固く抱きしめていた腕が緩んだので、史織はするりと抜け出し若彦の顔を確かめた。

 息がある。死んではいない。

 しかし史織は(あお)()めた。

()(おい)さん、血が()てるの?」

 左手で背を(さす)りながら上半身を起こした若彦は、まだ異変には気づいていなかった。

 残酷な告知の役目は、幽霊が担っていたのである。

「若彦……顔が」

「え」

 右半身に覚える違和感の正体を確かめようと、若彦は左手を動かした。利き手である右は痺れて動かなかった。頬を拭おうとしたところ、じゅくじゅくした膜のようなものがずるりと剥がれ落ちて、どういうわけか指先が濡れた歯に当たった。

「……え」

 掌を見る。

 一面に血糊がべっとりこびり付いていた。

「わぁ……」

 頬がない! 

 歯が剥き出しになっている。鬼の一撃は右の頬と頭皮をごっそり削いだ上、肩から腕にかけての肉も、骨が覗くまで(えぐ)っていた。

「嘘だ、うそだ、うそだうそだ――うあああああああッ‼」

 悲痛な声は、少年の精神が崩れてゆく音だった。

「ああああああああっ! おあぁ……うわああ……」

 傷と血から目を逸らそうと、若彦は()った首を懸命に動かして上を向こうとした。

「夢だ……ぜんぶ夢だよ……うそなんだろぉ」

 悲観と恐怖が伝染し、史織は泣き出しそうな顔で耳を塞いだ。

 (むご)たらしい姿にされたことへの絶望と、断続的な激しい痛みが若彦の心を限界に追いやる。史織のような(かそけ)き霊には、もうどうしようもない事態だ。自分を庇ってこんな傷を負ってしまったという事実に対する罪悪感は、死を過ぎた少女の心を徹底的に叩いた。一方の若彦は生還の可能性を捨て去っていた。いっそ殺してくれ。自暴自棄になり、完膚なきまでの肉体破壊を待った。そうでなければ、苦しみが終わらないと考えている。

 炎のベールを潜って、再び鉄棒を担いだ鬼が近付いてきた。

「来ないでっ! 私たちが何したっていうのよ!」

 若彦と鬼の間に浮かぶ史織は、目を(つぶ)り声を限りに訴えた。

 すると鬼は立ち止まり、凶悪な牙が並ぶ口を開いて、咆えた。

「お前たちは、罪人だ!」

 雷のような声が轟いた。これだけで勝負は決まったようなものだ。

「わっ、私たちなんにも悪いことしてないじゃない!」

 虚勢を張っても史織は無力。地に落ちて、(うずくま)ってぶるぶる震えだした。

 鬼は充満する火炎を心地良さそうに浴びながら、鉄棒を振り回して直進する。二人との距離は次第に詰まっていく。大きな歩幅で、だが(いた)()るようにゆっくりとした足取りだ。

「いやだよぉ、来ないでよぉ」

 史織の泣き声は、迫る鬼の嗜虐性を喜ばせてやまない。

「しおり、さ――」

 若彦は朦朧とする意識で考えていた。幽霊とは死ぬものだろうか?

 死なないのなら、この化物によって、死ぬより辛い目に遭わされるのかも知れない。もしそうなら、可哀想だ。

 感覚を失った血(まみ)れの、小指と薬指のない右手を伸ばし、史織のしっぽを掴んだ。

「ひゃっ!」

 小さな声が上がる。

 いきなり足元を触られたら、そりゃあ驚くよな、仮にも女性だし――若彦はひどく日常めいた場違いな感想を抱いた。普段の半分も力が入らない。残念だが、助けられそうもない。

 ごめんよ史織さん――。

 鬼は目的地に到着すると、牙を剥いて鉄棒を振り上げた。

 終わった。

 完全なる諦めの境地。若彦は目を閉じた。というよりも、(まぶた)が重くなって自然と下りた。放っておいても死んでしまいそうだ。

 鈍い打撃音がした。

 叩きのめされたのは史織か、自分なのか。待ってみても回答の(とき)は訪れなかった。

 若彦は恐る恐る目を開ける。


 視界の隅、(ダー)(クグ)(レー)の何かがはためく。それが誰かの纏う衣服だと分かったのは、数秒の間をおいてからだった。

 鬼が(うめ)いて炎の中へ倒れた。暗灰色の救世主が飛び蹴りを入れたのだ。

 若彦の最期は、またしても急に現れた見知らぬ誰かが先延ばしにしたらしい。

闖入者の出現に鬼は怒り心頭に発し、すぐさま起き上がって鉄棒を振り回した。大量の火の粉が周囲に吹き散らされる。炎のシャワーを浴びても、小柄な暗灰色の救い手は臆せず、自分の身長の倍以上ある鬼へ果敢に立ち向かっていく。鉄棒の乱撃を身軽にかわし、何度も蹴りを入れて鬼を後退させていった。

 若彦は痛みを、史織は恐怖を忘れ、両者の格闘に見入った。蝶のように舞い、蜂のように刺す。使い古された文句だが、そんな言葉がぴったり合う戦いぶり。華麗だ。

 すごいよあの子、と寄り添ってきた史織が言った。ダークグレーのコートを羽織った救世主は、どうやらまだ大人ではない存在らしい。

 俊敏な敵に苛立つ鬼が喚いた。

「罪人! 叩き潰す‼」

 未成熟の戦士は応えて言う。後姿からは余裕さえ感じさせつつ。

「地獄の釜の蓋も()く。君も(ホリ)(デー)を楽しんだらどうかな?」

 少年とも少女ともつかない澄んだ声。そして凛々しい声だった。

「さあ、あの世へ帰れ(ごく)(そつ)!」

 最後の一撃、真直ぐな蹴り足を鬼の(みぞ)(おち)に叩き込む。

 鬼は炎の中へ押し戻されて、再び大きな影となった。吠える声が遠くなっていく。

「封じよ――」

 若彦の視界を、不意に二本の(あか)い光の筋が横切った。赤い炎に満ちた山中にありながら、鮮やかに脳裏に焼き付く(くれない)の輝きだ。その光もまた炎の中へと消える。一体何が起きようとしているのかと思った矢先、世界を覆っていた凄まじい火炎が、まるで霧が晴れるように薄くなり、消えた。それは鎮火というより消失の様相を呈していた。

 雲散霧消、世界が逆回転。

 驚くべきことが起きた。

 焼き尽くされた草木が元通りになり、虫までがまた鳴き始めた。寸前までの地獄絵図が丸ごと嘘のようだ。どうなっている? いつしか若彦の半身の痺れと痛みさえ消え失せて、右腕には生き生きとした感覚が蘇っていた。顔も服も綺麗に修復されている。

 全ては終わった。

 事態を収束させた(ヒー)(ロー)が振り返って、若彦を見た。

 栗色に輝く髪、(せい)(かん)な顔立ち、毅然とした瞳の少年。いや、少女か?

 (ユニ)(セッ)(クス)な美しさは、異常な出来事から解放されたばかりの若彦には神々しくさえ映っていた。

 ゆっくりと意識が遠のいてゆく。

 時間の流れが緩やかになってゆく。

 たまらなく心地良い。

 夏草の青い香りに包まれて、若彦は気絶した。



     *



 幸せ含みの匂いと肌触りの布団に(くる)まれ、若彦は平穏な(まど)(ろみ)を享受していた。


 なんという茶番。

 幽霊と遭遇して、鬼と名乗る変な三人組に捕まって、謎の裂け目から出た大災害を()の当たりにして、本物の鬼に殺されかけて。

 そんな危機は、ロングコートの救世主によって、なかったことにされた?

 軒並み荒唐無稽。どの(つら)()げて現実と言い張るつもりか。

 夢だ。どう考えても。

 冗談としか思えない突拍子もないハプニングの続発、しかしながら、それらを怪しみもせず受け入れてしまう自分。なんとご都合主義的な展開! 一転して()()(きょう)(かん)の凄惨醜悪な状況に陥るのも、悪夢のそれと同じである。夢の品評会があるなら悪夢部門に出したいくらいの出来だ。

 分かっていれば恐れたりしなかったのに。夢の自分は客観的に見て、さぞ滑稽だったろう。現実では(うな)されていたかも知れない。だが所詮(ゆめ)(まぼろし)だ、バカバカしい。

 全て夢であったに違いない。いま布団で(おう)()していることこそ、何よりの証拠だ。

 でも。

 夢にしては、あまりに現実感が満ち満ちていたではないか。

 あれほどまでに五感が刺激され、第六感までじんじんするリアルな夢があるだろうか。

 夢ではなかったのか? あれ?

 夢ではなかった。断じて夢ではない!

 大体いつの間に自分は布団に入ったのだろう? そもそもここはどこだ? 

掛布団を跳ね()けて身を起こした。

「あっ!」

「ん?」

「若彦!」

「若彦殿!」

「え?」

「起きたか! 酷い目に遭ったなあ!」

「えぇ?」

「目が覚めたのね」

「あの……?」

 覚えある顔と声四つ。

 初めての顔と声二つ。

 疑問符つきの語尾は若彦だけ。現実という名の夢はまだ続いていて、ただ場面が変わっただけだったらしい。怒濤に巻かれて、笑止の至り。

()けた周囲を見回す。滑らかな岩肌の壁。天井の所々から、鍾乳石が下がっている。

 布団が敷かれているのは、大きな洞窟を改造して住居にしたような場所だった。灯りは天井で揺れる複数の(おに)()。穏やかに揺らめく(ウォーム)(カラー)はちょっと神秘的で、怪談の(おもむき)はない。

 岩肌とは甚だミスマッチな()()の延べられた床、枕元には史織と高佐麻呂、少し離れて中知麻呂と槌麻呂が、巨大な握り飯を頬張っている。

 そして、起き上がった若彦と向き合うようにして座っているのは、見知らぬ和服の鬼ふたりだ。鬼といっても三麻呂のように人間と変わりない容姿ではなく、かといって若彦に重傷を負わせた怪物然とした(デモン)でもない。

 姿形はほぼ人間、だが頭部から二本の角が生えている少女、いやさ美少女だった。

 ひとりは頭の上から丸く小さな肉色の角が、もうひとりは額の生え際辺りから細長く鋭い、象牙のような色合いの角が伸びている。

「大丈夫、もう全て元に戻ったのよ」

 何も心配はないわ――細角の鬼が言った。いかにもお嬢様という口調と声だ。

 瞳の色は()()()()(レッド)。繊細な(うるわ)しさを(そな)えた薄紫色の髪は、緩やかなウェーブを描きつつ彼女の腰まで伸びている。花と炎の刺繍が施された赤い小袖(こそで)の上に、(さん)()(ほう)(じゅ)を配した黒に近い藍地の(うち)(かけ)を羽織って手を隠している。凛として大人びた容姿だが、どこか幼い雰囲気も(あわ)せ持った、不思議な少女だった。

「お()()、お茶をお出しして」

「はい、ただいま!」

 お鬼久と呼ばれたのはもう一人の(おに)(むすめ)だ。慌てて立ち上がり奥へ駆けていく。(うす)(べに)の地に菊柄の着物が可愛らしく、邪気のないオレンジ色の瞳と、八重歯が覗く口から発せられた柔らかい声には、若彦も心惹かれるものがあった。お鬼久の外見は中学生くらいに、もう一人は若彦より少し年上に見えたが、鬼のことだから実際は(いく)()か知れたものではない。

 お鬼久が横穴にかけられた()(れん)を潜って、その先にあるらしい別室へと向かったのを見届けると、若彦は相変わらず得体の知れない非人間の集団に話しかけた。

「ええっと、何がなんだか分からないや。とりあえずみんな無事だったみたいでよかったですけど……誰か俺の眼鏡拾ってない?」

「見つかんなかったんだよねー。私たち随分走り回ってたみたいでさ」

 答えたのは史織だった。相変わらず死んでいるのに元気そうだ。

「ま、私は走ったんじゃなくて飛んでたけど、あはは」

 眠っていた時間を勘定に入れても半日と経ってはいないだろうに、もう史織とは長い付き合いであるように錯覚してしまう。今まで通りの明るい表情で、より安心した。

 しかし、参った。眼鏡がないと単純に不便だ。

「ここはね、アザミの家なんだよ!」

 史織は快活に言いながら、わざと三麻呂の顔の前を横切り、鬼の少女の隣へ移った。

「アザミ……さん?」

「ええ。そう呼ばれているわ」

 (アザ)()はにこと若彦に微笑みかけた。名を知れば、なるほど髪の色もアザミの花のように思えてくる。どこかのお姫様と(あい)(たい)しているようで緊張した。

「怖い目に遭ったわね。でも、もう何も心配することはないのよ」

 事態が呑み込めないままに、改めて頬を撫でてみた。傷らしき(おう)(とつ)、一切なし。

「あの……」

「姫様はこの(いわ)()で、あのお鬼久という娘と暮らしておられるのですな。ここも若彦殿が気を失った場所から、あまり離れてはおりません。山中の、知る人のなき洞窟です」

 あの炎は何だったのかという問いは、高佐麻呂に遮られてしまった。問い直そうとするより先に、白髪の鬼がアザミを姫様と呼んだことが気になった。

「姫様? やっぱりお姫様なんですね」

「気にしないで。私はただの鬼よ」

「ただの……鬼、なんですか?」

「違うのかしら……? あまり変な姿ではないと思っていたのだけれど」

「あぁいや、そういうつもりで言ったんじゃないですよ。全然変じゃないです」

むしろとても綺麗だ、と面と向かって賛美する度胸はなかった。偽りない気持ちではあったが、仮にも異性に対して、そんな(うわ)ついた台詞を吐く自分は想像できないのだった。

 結局この話題は、お鬼久が香ばしい茶の薫りを伴い戻ってきたため中断し、うやむやになってしまった。また疑問が増え、若彦には混乱ともどかしさが(つの)る。

「はい、どうぞ。熱いですから気をつけてくださいね」

 お鬼久は盆に載せた人数分の湯呑みを、丁寧に渡していった。若彦がようやく布団を抜け出し茣蓙に座り直した頃、槌麻呂はもう茶を飲み干して、満足げに吐息を漏らしていた。

「相変わらず鬼久(ぼう)()れる茶は美味いなあ。また握り飯が欲しくなる!」

「やだ、坊は余計ですよ槌麻呂さん。もうおにぎりもあげません」

 くすくす笑って言ったお鬼久は、次いで若彦と史織に、お口に合いますかと尋ねた。二人は口を揃えておいしいと答える。普段は茶の味など意識したことがなかったのに、お鬼久の淹れたものは驚くほど若彦の舌を楽しませ、喉を潤した。

 ふとアザミに目をやると、なんと彼女は手を使わずに茶を飲んでいた。湯呑みが宙に浮いている。瞳が光を当てたルビーのように(きら)めくと、湯呑みはひとりでに傾いて口元に運ばれる。この鬼の姫は、(テレ)(キネ)(シス)の使い手だったのである。

「なにそれすごい超能力?」

 早速幽霊が食いついた。

「眼で動かせるの?」

「手を使うまでもないのよ」

「スゴいかっこいい!」

「あらあら」

「それに比べて三麻呂ときたら――」

 史織は急に低い声になり、皮肉たっぷりに三麻呂を(あざけ)った。

「ムダに長生きしてるクセに、幽霊と人間の区別もつかずに山へ攫っちゃうなんて。おかげで若彦なんか死にかけちゃったよ。ホント立派だよねー!」

 軽蔑の籠った薄笑いを浮かべる史織。ああ、限りなくバカっぽい。

 失態を暴露されて三麻呂は凍りついた。この事実は姫君には伏せられていたらしい。お鬼久は盆で口元を隠して後ずさる。いわゆるドン引きの状態である。アザミも怪訝そうに眉根を寄せる。三麻呂は弁解を強いられることとなった。

「そこを突かれると痛いんだが……いや待てよ」

「どうした中知麻呂よ」

「いいか槌麻呂、高佐麻呂。元はといえば(コイ)()のそぶりが紛らわしいせいで、俺たちゃ若彦を幽霊と間違えたんだ。怖がらせるでもなく軒先で世間話してんだもんよ、どっちも幽霊だと思うのが普通だっての!」

「なるほど、一理も二理もある。なあ高佐麻呂」

「言われてみればそんな気もしますな」

「だろう。そこな幽霊はこの世で死んだ身でありながら、()()もなく世間をふらふらしておる不逞の(やから)。元閻魔王庁の鬼としては取り締まるのがスジというもんだ」

「なるほどなるほど……」

 怪しい雲行きを察して、史織はアザミの後ろに身を隠した。

「ひ、卑劣な論理だよっ……! 私は理由もなくフラフラしてるんじゃないし! ちゃんとこの世に未練があるから化けて出てるんだし! いーっ」

「んん、こいつ儂をおちょくっとるのか!」

「まぁ待てよ槌麻呂、血管が詰まるぞ。理由があるってんなら訊いてやろうじゃないの」

「うっ」

 中知麻呂が回答を促す。史織は黙って目を泳がせている。

 ひょっとして、本当に理由(わけ)なく幽霊として現世をさまよっているのではないか。若彦は少し心配になってきたが、直後に自分が心配する筋合いはないと気付く。

 史織は苦し紛れに言った。

「ほら……若くして死んじゃったから、自分探しでもしてみようかなーと。へははっ」

 そんな無趣味な大学生の(たわ)(ごと)みたいな非成仏理由ってあるだろうか。

「なんですかそれは」

「いい加減すぎる」

「不良幽霊を捕まえろっ!」

「ぎゃああ! ユーカイ犯!」

 洞窟の住居で、鬼と幽霊がどたばたふわふわ追いかけっこを始めてしまった。

騒がしい連中が自分の棲み処でむやみやたらに暴れ騒ぐのを、アザミはにこにこして眺めている。若彦は呆れるばかり、お鬼久に至っては少々頭に来ている様子だ。

「ここはアザミさまのおうちですよっ! あまり暴れないでください! もう、アザミさまも笑ってないでなんとか言ってくださいよぅ」

「あら」

 呼ばれてアザミはきょとんとした。どうして怒っているのとでも言いたげだ。

「そうね……高佐麻呂、中知麻呂、槌麻呂。史織を連れて行くのはやめてくれないかしら」

 追手はぴたりと動きを止めた。その隙に史織は洞窟の天井に貼りつく。ぺたり。

「しかし姫様」

 抗議しようとした鬼たちだが、続く言葉は見つからず、ただしゅんとして押し黙った。これぞ姫君の威光、若彦は感心する。

「たとえどんなものであろうと未練は未練。死んでも死にきれない思いのありようは人それぞれだわ。このままあの世へ連れて行かれてしまっては、それこそ浮かばれません。()(なた)たちだって今は地獄を追い出された身でしょう? 無理強いはできないはずよ」

 指摘を受けて、高佐麻呂と中知麻呂が悔しげに口を歪めた。若彦と史織は、これで三麻呂の一連の行為の真意をようやく察した。紙のように薄くなった天井の史織が嘲笑した。

「ぷっ。あんたら地獄でヘマやらかして閻魔様に追い出されたんだ。だから手柄を立てて地獄に帰ろうとしてたってわけねー」

「いかにも! 儂らは地獄を追い出されたのだ!」

「ふんぞりかえって言うことかよ!」

「嘘をついたって仕方あるまいよ。アザミ様が仰るんだから幽霊も放っておくべし。うん。やめやめ。走り回ると腹が減るしな」

 槌麻呂が髭を撫でた。

「ちぇっ、調子のいい太っちょだなぁ」

「よいではないか中知麻呂。史織殿も心残りが多かろう。我らとて、功を()くばかりに狭量になっておりましたな」

 史織は三麻呂を丸めこんだ姫に(いた)く感銘を受け、鬼火を跳ね除けて彼女の胸へダイブした。目をきらきらさせて、アザミの胸で愛しげに頬ずりをする。

「アザミ! さっすがだよぉー!」

「あら、私は何も」

「ううんすごいよ! ありがと、大好き! ちゅー❤」

「まっ」

 鬼の姫は顔を赤らめた。

 お鬼久は二人の(たわむ)れを、恍惚の(とろ)けた笑みで眺めている。美女の胸元で繰り広げられる和やかな交流に辟易し、明後日の方を向いて他のことを考えようとしているのは若彦だ。つまり本当は気になっているのだ、物凄く。むっつりスケベと(くさ)してくれるな、いるわけもない(オーディ)(エンス)への釈明を心中で試みる。若彦だって男で、しかも思春期なのだから、悔しいことに豊満な胸に関心がないはずがないのであった。

 胸といえば――あの炎の中で叩き殺された女は上半身裸で逃走していた。切羽詰まった状況だったし性的な意味での興奮などしようもなかったが、果たしてあれは誰だったのか。そして若彦は、今の自分が最も知りたいのは〝裂け目〟と炎のことだと今一度思い至る。

「アザミさん!」

「どうしたの若彦。壁に私はいないわよ?」

「すいません……教えてください、俺たちが見た炎について。知ってますよね?」

 そう言いながら向き直ると、幸い史織はアザミの膝に載ってじっとしていた。

「あの炎は――」

 アザミの表情が僅かに(かげ)った。お鬼久や高佐麻呂も何か言いたげに口を開いたが、結局判断を姫に任せて沈黙した。この質問はタブーだったのか? 僅か、焦る。


「地獄だよ」


 答えたのは鬼でも幽霊でもなかった。

(メタ)(ファー)じゃない。本当の地獄が、現世の壁を引き裂いて現れ出たんだ」

 一同は岩屋の出入口を見やった。

 外界へと通じる穴。遮る(すだれ)を片手で持ち上げ、月明かりを背に立つ少年。ダークグレーのレザーロングコート。眼鏡がないせいで(ディ)(テール)は分からないが、間違いない、あれは炎の中で自分たちを救った――。

(あい)()!」

 名を呼ぶアザミの声が弾んだ。秋嘉という小柄で中性的な容姿の美少年は、表情を変えないまま横を向いた。そして抑揚なく言う。

「彼が無事か確かめに来ただけだよ」

 ひどく無愛想だ。外見から勝手に抱いたイメージと反していたので、若彦は肩透かしを食った気分になった。だが、この少年に窮地を救われたことは確かである。何もできないが、ひとこと礼だけは言っておきたかった。

「あの、さっきは危ないところをありがと――」

「礼は()らない」

 答える時も若彦の顔さえ見ようとしない。まるで関心がないか、拒絶するような態度だ。

「でも俺を助けてくれたじゃないか」

「裂け目を封じ、人を助ける。全て僕の義務だ。礼を言われる筋合いはない」

 私は霊だけど――史織が小声で背筋も凍るつまらない(しゃ)()を言った。お鬼久が(うつむ)いて小刻みに震えた以外、誰も反応しない。若彦はというと、義務の二文字に妙な違和感を覚えていた。

 少年はようやく若彦に顔を向けた。炎の中で見たのと同じ、毅然とした眼だ。

「今夜のことは忘れるといい。あんな恐ろしい光景は、生きてる内に見るものじゃない」

「忘れるって」

「端的に言って、夢。もうすぐ夜が明ける、目覚める時が来た。炎の中で望んだ通り、みんな夢にしてしまえばいい。君が戻らなければ、家族も心配することだろう」

 秋嘉がそう言った途端、急な眠気が若彦にのしかかった。起きたばかりなのに、どうしてまたこうも眠いのだろう。朦朧とする意識、脳裏に浮かんだのは父や母、親戚達の姿だった。そうだ、帰らなければ。

 無力な心身は、夢という名の現実を抱えて、平凡な日常に回帰することを望んでいた。長く、そして異常な夜が終わりを告げようとしている。

「三麻呂さん、彼を家まで送ってくれないか。あなた方にもトラブルの原因はあるんだから」

 秋嘉が冷ややかに言った。

「すまん、秋嘉!」

 槌麻呂が手を合わせて()びた。高佐麻呂と中知麻呂が言葉を継ぐ。

「若彦殿は我らが送り届けますから、安心してお()ち下さい」

「秋嘉、俺たちも礼を言うよ。尻が燃えそうになってたんだからな」

 少年は背を向け、洞窟の簾を下ろした。

「礼なんて、要らない」

 少年は去っていった。草を蹴る静かな足音と共に。


 秋嘉を見送るアザミの顔は、とても寂しげで切なかった。

「若彦、さようなら」

 鬼の姫は若彦にも別れを告げる。

 この場を去るときが来た。

 繰り広げられた幻想の舞台に、瞼の幕が下りてゆく。

 最後に一言、史織に何か言って欲しい。

 あの幽霊のくせに陽気で、親しみの湧く声を聞かせて欲しい。


 だが、ささやかな希望も果たされることなく、全ては嘘の絵空事となって、暗闇の先へ遠のいていった。

 光が消え、風が消え、音が消え、記憶が消えた。



 翌朝、祖父母宅の縁側で目覚めた天野若彦という少年は、なぜか眼鏡が失くなっていることに首を傾げた。そして自分を探しにやって来た母に、(ゆう)()は星が綺麗だったと話した。どうして夜空など見上げようとしたのか、本人にも分からない。星を見ている内に眠ってしまって、支離滅裂極まりない夢を見た気がするが、その記憶も(ばく)に喰われて起床直後から(おぼろ)げ、朝日を浴びると色褪せて影もなくなった。

 ()べて世は事もなし。

 日常は何もかも昨日までと変わることなく、平穏だった。

 乱れた生垣から、まだ嘴の黄色い、小さな雀が飛び立っていった。


 


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