悲しみのどん底、涙
怪我の手当のため、ふたばたちは地下へ戻っていた。
勢いよく出て行っておいて戻るなんて格好悪いが、仕方ない。
二人を待つふたばに、今にも割れそうな、ひびの入ったカップで茶が出されていた。なにが入っているのか、茶色の液体からはあまりいい香りがしない。
「ふたば、お茶なんてここじゃ高級品なんだよ」
ヒューンルはやれやれと小さな肩をすくめながら言う。
「それを出してもらえるのは王様か、この世界をなんとかしてくれる救世主くらいのもんだよ」
どうやら最初にこの部屋に通された時には、ふたばはまだ救世主ではなかったらしい。
「あのさ」
「なあに、ふたば」
「もうちょっと詳しく聞かせてよ。ここがどうなってるのかとか、……千華がなにをしようとしてるのか」
カップを口に寄せると、たまらなく苦い香りがしてふたばは顔をしかめた。喉は乾いているが、結局お茶には手を付けられない。
「わあ。とうとうやる気になったの?」
精霊はぴょんぴょんとテーブルの上で飛び跳ねている。
そんなんじゃない。
少女の呟きは、とても小さい。
けれど、来てしまったから。
騎士と少女の二人ではまるで歯が立たない敵も、自分ならば腕の一振りだけで撃退出来たのだから。
「どうせ勝手には戻れないんでしょ?」
「うん、そうだよ! もっとジタバタするかと思ったら、案外観念するの早かったね!」
すっかり毛の抜け落ちた哀しい姿で、ヒューンルが笑う。
「じゃあ、どこから話したらいいかなあ。ちょっと長くなるかもしれないけど……」
精霊はふたばの前にちょこんと座ると、話し始めた。
メーロワデイルには、人と、魔物と、精霊が暮らしている。
魔物は人を襲う。森の中、洞窟の奥、谷の底から湧き出してきては人を襲った。いつの時代からか続いていた、人と魔物の争い。魔物は数が少ないが、強い。人は数が多いが、弱い。意思の疎通も文化の共有もできない、異次元の相手との戦いだった。
普通の人間は魔物には決して敵わない。戦えるのは、精霊に力を与えられた者。ひとつの精霊が力を与えられるのは一人だけで、勇気のある人間が選ばれ、力を与えられる。選ばれた人間は立ち上がり、魔物と戦って仲間を守る。
こうして、人と魔物は戦い続けてきた。互いの領域を作り、それを守り、奪い合いながら歴史を刻んできた。
「ところがねえ、魔物の力がちょっと強くなってきたんだあ」
四年くらい前かなあ、とヒューンルが呟く。
「人間側がすごく押されちゃってね。特に、ロローノッカって国がひどくやられたんだ。お城が魔物に包囲されちゃったりしてさあ。あの時は、他の国もみーんな協力して、なんとか追い払ったんだよ」
しかしピンチは続く。
人と魔物、その歴史の中で、時折どちらかが力を増す時間が何度かあった。それは季節が巡ってやってくるのと同じ、大きな世界の流れの中にある「必然」だ。過去に何度も訪れた危機を、人は乗り越えてきた。だから、先人たちと同じように乗り越えられるはず、と人々は手を取り合った。
力を増した魔物を倒すために。各国の代表が集まり、知恵を出し合って、人の暮らしを守るために話し合いを続けた。
「頑張ってたんだけど、今回はちょっといつもより強かったみたいでね。それで、ふたばのいる世界にも出張し始めちゃったんだ」
よその世界に迷惑をかけてはいけない。しかし、戦士たちはメーロワデイルだけで精一杯。
「それでとりあえず、僕が行ったんだ。まだ、誰とも契約していない精霊だった僕がね!」
「で、わたしと出会ったの?」
「そうだよー。それで驚いたんだけど、地球の人はすごく強いんだ。メーロワデイルの人よりもずっとね」
この発言に心を動かされ、ふたばは下に向けていた視線をちらりとヒューンルへ向けた。
「強い?」
「そうなんだ。元々持っている力が強いから、だからねえ、精霊一体につき一人っていう常識を超えられたんだ。僕の力をふたばに分けても、まだもう一人分余った。だから、千華にもわけちゃったんだよ。強い力を持っている戦士が二人ってすっごいお得だもん。地球へ行った魔物を倒してもらった後、メーロワデイルに力を貸してもらえないかっていうセコい気持ちがあったのは確かだね」
聞いてもいない裏事情まで話して、ヒューンルは勝手にうんうんと頷き続けている。
「というわけで、メーロワデイルはずっとピンチだったんだ。魔物達の地球への出張も止められなかったし、ふたばが戦いを辞めた後はそれどころじゃなくなったし」
千華――。
長いストレートの髪を靡かせた、凛々しい横顔がふたばの脳裏に浮かぶ。
「ライラックムーンはこっちに来るなり、精霊を次々に殺していってたんだ」
余りにも衝撃的な言葉に、背筋が凍った。
「なに?」
「こっちでは精霊狩り事件っていわれてるんだよ。本当に恐ろしい出来事だったー」
小さい体をぷるぷると震わせているものの、ヒューンルに悲しげな様子は見えない。
「もしかしてからかってんの?」
「そんな訳ないでしょ。被害者は僕の仲間なんだよ? 冗談で言えるわけないよね!」
だったらその態度はなんなのだ、とふたばは思う。そんな思いに気が付いているのかいないのか、精霊の最後の生き残りはこう続けた。
「とにかく、精霊は僕以外みんないなくなった。だから、力をもらった戦士たちもみーんな弱くなっちゃった。それで今、メーロワデイルはこのザマだよ」
「あんたやっぱりふざけてるんでしょ」
「僕はありのままを話してるんだよ、ふたば」
「その通りです」
いつの間に来たのか、部屋の入り口にロクェスが立っていた。鎧の下に着ている厚手の服の、右袖が破けたままになっている。服にも、中から覗いている包帯にも赤い血のあとが滲んでいた。
「精霊は希望でできています。だから、落ち込んだり後ろ向きな発言は絶対にしません」
「はあ?」
微かに顔を歪めながら、ロクェスはふたばのむかいに腰を下ろした。椅子ではなく汚れた樽の上に座って、まっすぐに「異世界からきた戦士」を見つめている。
「精霊たちが滅ぼされ、我々は魔物に対抗する手段を失いました。たった二年で世界は一変し、人は魔物の支配を受けています」
「……人質取られてるっていうのは?」
「ライラックムーンも、精霊の力を奪われると困るのです」
「どうして?」
「精霊とのつながりが切れれば、力を失います」
ロクェスの言葉に、ふたばはゆっくりとヒューンルへ顔を向けた。
「だったら、今すぐ力をなくしちゃえばいいじゃない」
「それがダメなんだよねー。今ライラックムーンの力をなくしちゃうと、魔物が好き勝手に動き出しちゃう。そうなったら、千華もそれで倒れるだろうけど、魔物の近くにいる他の大勢の人たちまでみーんな死んじゃうんだよね」
魔物を率いたライラックムーンに占領されて、人々は奴隷のような扱いを受けているのだとロクェスは話した。人も魔物も一ヶ所に集められ、ごく近い位置で暮らすよう強いられている。
精霊から与えられた力を千華が失えば、今、彼女の指揮下にある魔物は暴走を始めてしまうだろうとヒューンルは言う。
「どうするの、そんな状況で……。どうしろっていうの?」
「そりゃあ、ふたばが行って、千華をボコボコにして改心させる以外ないでしょ?」
考えていたよりもずっと重い責任を負わされているのだと知らされて、ふたばは茫然と瞬きを繰り返した。
魔物がぞろぞろと巣食う世界。ほんの少し歩いただけで怪しげな敵が襲い掛かってくる場所を抜けて、千華のもとまで行き、戦わなくてはいけない――。
「無理じゃない?」
「まあ無理だと思うよね。でも、僕は知ってるよ。ふたばはとても強いんだ。僕が選んだ、正義の心を持ったオンリーワンなんだから。千華はあくまで君のオマケだよ。彼女もとてつもなく優秀だったけど……。でも、君には敵わないはずだ。全力で戦えば、絶対に勝てるから」
瞳の中に浮かぶ光が弾け、精霊の周りにキラキラと浮き出していく。
変わり果てた姿の向こうに、白いふわふわの愛らしいヒューンルが見えていた。あの日、夢をかなえてくれた可愛らしい精霊。魔法の力でふたばと千華、二人の女子中学生を楽しませてくれた陽気な白い異世界の生き物。
「本当に?」
「さっきロクェスも言ったけど、精霊って基本的に希望だけでできてるんだよね。人間みたいにこれはダメだって考えたりしないし、落ち込んだりしない。すべてを前向きに捉えて明るく話しちゃうんだって」
確かに、ヒューンルが後ろ向きな発言をしたことはなかった。どんなピンチが訪れても必ず、大丈夫だと言っていたとふたばは思う。かつて一緒に魔物退治をしていた日々。何匹もいっぺんに敵が現れた時だって、ケタケタ笑いながら「大変だねー」で済ませてきた。そんな思い出が頭の隅から次々と湧き出してきて、ふたばは思わず、両手を強く握りしめていた。
「勝手に連れてきてしまい、本当に申し訳ありません。ですがコーラルシャイン、我々に残された希望はもはやあなただけなのです。どうか、手を貸して下さい」
ロクェスは床に膝をつき、絞り出すような声をあげている。
どうすべきなのか。
ふたばの心はまだ、定まっていない。
メーロワデイルの事情はわかった。
命を落とすかもしれない。一か月もかかる道のりを無事に乗り越えられるのか。
だが、もう戻れない。三年間、自分を包んでいた固い固い殻の中に戻るという選択肢は、存在しない。
悩めるふたばの脳裏に浮かんできたのは、慶太が置いて行ったスイーツの箱だった。
玄関の前に置き去りになったケーキ。今日の天気はどうだっただろう?
クリームが溶けて、乗っていた苺は傷み、もう腐り始めているだろう。もしかしたら隣人が気が付いて、既に捨てられているかもしれない。
めちゃくちゃになってしまったゴミの集積場に、近所の住人は怒っていないだろうか。
十七歳の娘が姿を消したと、母はいつ気が付くだろう。一人きりでいたいわがまま娘の生活費のために仕事をしていた。弟の世話だってあるのに、ふたばのためだけに自分の時間を犠牲にし続けてきた。そんな茶番が終わりを迎えたのはいいが、今度は行方不明だ。優しい母親は娘の行方を追うだろう。
もしもこんな異世界でのたれ死んだら……。
(今更すぎる)
母への感謝をもっと早くに告げるべきだった。持ってきてもらったケーキは笑顔で受け取って、慶太を招き入れて一緒に食べれば良かった。部屋の掃除はまめにして、家に閉じこもってばかりではなく外に出て。たとえ学校へ通わなくても、勉強も、高校受験も出来たはずだ。
普通の女の子として暮らすチャンスはいくらでもあったのに。
こんな事態に巻き込まれてようやく――。
(遅いよ)
しかも、もう戻れない。
そう知ってなお、自分がやらなくてはならないと知ってなお、自分に責任が少しくらいはあると知ってなお、まだ、なんとか何もせずに済ませられないかと思っている。
(バカじゃない?)
体を芯から震わせて、ふたばは泣いた。
久しぶりにフル回転させた頭の中に浮かんでくるのは、自分のしてきた卑怯なふるまいの数々。後悔、逃避、責任転嫁。マイナスばかりで、それが悲しくてたまらなくて、情けなくてたまらなくて。
なにを言われても、なにを差し出されてもふたばの涙は止まらず――。
救世主の旅立ちは、翌日に延期になった。