さよなら
カルティオーネの城下に、人々の声が響き渡っている。
魔物達に汚された部屋の掃除をし、壊れた個所を修繕していく。
地下に閉じ込められていた王子たちが救出され、無事が知らされ、戻って来た人々の心は沸いている。
「ロクェス! ロクェス・ウルバルド!」
破壊された街の見回りをしている金の騎士に、人々はいちいち声をかけてくる。イーリオも同様だ。滅びかけた世界にあって、たった二人、精霊に再び選ばれた存在はひたすらに眩しい。物理的にだけではなく、これからの復興にあたって精神的な支柱になる存在だった。
そのすべてに手を挙げて答えながら、ロクェスは歩く。
魔物が漆黒の橋を渡って去って行ってから、七日が経っていた。
あちこちに集められていた人々は解放されて、故郷への帰還が始まっていた。カルティオーネにも多くの民が戻ってきて、街はにぎわい始めている。
金の騎士と銀の騎士は各地を飛び回り、魔物が消え去ったと報せる役目を負った。多くの人間が魔物の大移動を目撃していたが、初めての「脅威のない世界」を信じられず、半信半疑の状態で戸惑うばかりだったという。
なので、輝く精霊の騎士が現れると、人々は歓声をあげてこれを迎えた。希望の象徴である高名な騎士が現れ、自由が戻ったのだと高らかに宣言していく。北へ、東へ、西へ、南へ。ロクェスは南へと飛び、仲間達にも世界が取り戻されたと告げた。地下の秘密基地で命を落とした者もいたが、生き残っている者の方が多かった。
「あのふとっちょが、やってくれたなんて」
痩せこけた男がぼそりと呟くと、皆が笑顔を浮かべて頷いた。
やる気のない態度のあんまりな姿の救世主に、期待をしていなかったらしい。しかしロクェスはそれを責めず、彼らをリパリーガントまで送った。大きな街には人が集い、食料が集められている。各国の要人たちも解放され、休む間もなく働き始めていた。
メーロワデイルは、息を吹き返し始めていた。
世界中を駆け巡り、ようやく帰ってきたカルティオーネで、ロクェスは精霊の姿を探していた。
胸に大きな傷跡を残した白い毛の精霊。ヒューンルは、東の塔のてっぺんでぼんやりと空を眺めている。
「ヒューンル、ここに居たのか」
「ロクェス」
小さな頭がぴょこんと下がり、お疲れ様です、と告げる。神妙な態度に微笑みを浮かべ、ロクェスは精霊の隣に腰を下ろした。
遥か下から、大勢の声が聞こえてきていた。ようやく祖国を取り戻した人々の喜びが溢れ、そこらじゅうで弾けている。
「楽しそうだね」
陽気そのものなはずの精霊には、元気がない。明るさのかけらもない、悲しげな瞳で空を見ている。
けれど、はっきりとした声でこう呟いた。
「もうすぐだよ」
それにロクェスは頷く。心待ちにしてる実りは、すぐに訪れるであろうと感じている。
「そろそろイーリオが戻る。メダルトがそう伝えてきた」
「そっか。それじゃあ、今日、いけるかな」
「勿論だ。見ろ、大勢が戻ってきている。これだけ多くの者がいれば、必ず足りる」
言葉をかけてもヒューンルの瞳に輝きは戻らない。ただ、力なく頷くだけだ。
呼ばれて慌てて戻って来たロクェスが見たのは、髪をバッサリと切り落とされた千華、頬を腫らしたエランジと、短剣を持つイーリオ、そして、胸に矢を受けて倒れているヒューンルだった。
「ヒューンル!」
まず最初にしたのは手当てだった。ロクェスが矢を引き抜くなりニティカが飛び降りて、ヒューンルの傷を癒す。
考えを巡らせていく。千華の髪を切ったのはイーリオだろう。矢はエランジが討った。狙う相手は千華しかおらず、では、ヒューンルは彼女を庇ったに違いない。
悲しい気分になっていく。エランジの思いはわかる。これまでに彼がどれ程多くのものを失って来たか。それはロクェスも同じだ。イーリオも、いや、メーロワデイルのあらゆる人間が皆そうだった。仕える主であるカルティオーネの王子は救えたものの、この城にあるべき大勢の姿はない。何処かへ連れ去られたか、閉じ込められているのか、それとも戦って命を落としたか。
最初に起きた激しい戦いの中に、ロクェスもいた。精霊たちを奪われて力を失くしたが、それでも戦いを続けていく方法が何処かにあるのではないかと再起を誓って、後ろ髪を引かれながらもここを出たのだ。
ふたばの姿が去って行く様を、ロクェスは城の屋上から見ていた。
振り返らずにまっすぐに南へ駆けていく。腕を振り上げ、禍々しい黒い橋を架けて、魔物を引き連れて、ふたばは去って行ってしまった。
なんという魂だろうとロクェスは思う。元いた世界に戻るだけをよしとせず、メーロワデイルのために身を焼くなんて。自分に同じことができるか、と自らの心に問う。だが、返事は聞こえてこない。
追って、止めたかった。だが出来なかった。余りにも強い心を持った彼女を止められる自信がなかった。そして呼ばれた。戻った王の間には、仲間と震える少女がいるだけだった。
踏み荒らされ汚れてはいるが、城は取り戻されていた。
「出海千華、あなたはもう魔物の王ではない」
イーリオが彼女の髪を切り落とした理由が、ロクェスにはわかった。
彼女を斬りはしない。けれど、その体に刻み付けたのだろう。世界を、そして彼女にとって大切な友であった、ふたばを踏みにじったことを。
友の思いを汲みながら、ロクェスは静かに言葉を紡いでいく。
「ヒューンル、二人を帰すんだ。そうすればふたばを救えるだろう」
胸の傷はゆっくりとうまっているが、ヒューンルは白い毛を赤く染めて、まだ苦しげに息をぜえぜえと吐いている。
「駄目だ、もう、間に合わないよ……」
「まさか」
先ほど発ったばかりなのに。
ふたばを黒く染めていた禍々しい力。彼女は今、自分たちの想像を超える恐ろしい力を有しているのかもしれなかった。
「駄目だ、駄目だよ、僕はもう、ふたばを助けられない」
その言葉に、千華が大きく体を震わせている。イーリオもエランジも目を伏せ、手を胸に当てている。
「何故そんなことを言う。精霊のお前が、何故そんなことを言うんだ!」
小さな体を掴んで揺さぶり、ロクェスは吠える。
「だって」
涙をこぼすヒューンルを掴んだまま、ロクェスは振り返った。
小さな体から感じるのは、哀しみばかりだ。
精霊は嘘をつかない。
(ふたば)
無理やり連れてきてしまった救世主。不満を丸出しにしたまあるい少女との道中が頭の中を駆け巡っていく。
(ふたば、もしも、本当にもう遅いのなら……)
ロクェスはゆっくりと千華へ向き直り、告げた。
「出海千華、あなたは自分の世界へ戻って下さい。そして、あなたのすべきことをして下さい。ふたばはやりました。彼女に出来うるすべてを。……あなたも自分の心に沈めている希望を探して、育てて下さい。それが、必ず、あなたとふたばの力になります」
掴んでいた手の力を緩め、ロクェスはヒューンルをそっと千華の前へ置いた。
悲しげに涙をこぼしながら、震えながら、精霊は短い手をゆっくりと回していく。
光に包まれて、千華の姿は消えていった。
あれから、休むことなく駆けまわっていた。翼を生やした精霊に乗って、東と西、北と南にわかれてイーリオと共に巡った。魔物はすべてプロレラロルの渓谷へ落ちていったらしい。イーリオの作った隠れ家で、そうチュードやジャンドたちから聞いていた。
「来たよ、ほら、イーリオだ。ピッカピカだね」
空に現れた眩い光はまっすぐに東の塔へ飛んできて、メダルトから飛び降りるなり、イーリオはロクェスの頬を掴んで額をつけてきた。互いの労をねぎらい合い、二人は階段を降りていく。
王城の前、大きな扉を背に並んで立って、人々に集まるように呼びかける。
金の騎士と銀の騎士。カルティオーネに仕える最強の二人が姿を現して、人々は大きく沸き立った。精霊の力は失われたと聞いていたのに、彼らも死んでしまったのではないかと思っていたのに。その輝く姿を再び目の当たりにして、歓び叫んだ。
人々の声を聞いて、二人の騎士は大きく頷く。
「皆、聞いてくれ!」
城の上には彼らの主であるカルティオーネの王子も姿を見せていた。それに気が付いた人々は、ますます喜びの色を強くしていく。カルティオーネは死んでいなかった。精霊の騎士に守られ、王家は続いていた。爆発する喜びを手で制し、ロクェスは続ける。
「魔物はメーロワデイルから去った! 完全に、最後の一匹までいなくなったかはわからない。だが、ほとんどの魔物はプロレラロルの深い谷の底へ消えた。それはすべて、ある一人の精霊の戦士の力によるものである」
人々は一斉に、手を胸にやり、もう一方の手を前へ突き出した。
「彼女の名はふたば。この世界の者ではない。強い力と魂を持って、精霊を蘇らせ、魔物をすべて追い払ってくれた。……我々は不幸な時間を過ごした。大勢の命が失われ、国を追われ、苦しい日々を送った。しかし、代わりにこれまでで最も平和な時代を手に入れたのだ! これからは魔物に怯えることなく暮らしていく! それはすべて、精霊の戦士ふたばの働きによるものだ!」
ロクェスの言葉を受けて、人々は呟く。自分たちを救って去って行った、異世界からやってきた救世主の名を。
(ふたば、ふたば、目を覚ましてください)
金の騎士が手を胸に置き、もう一方の手をくるくると回す。
「精霊の国、大地の門までを救ったふたばに、感謝を!」
銀の騎士も同じように、手をくるくると回していく。
人々も目を閉じ、精霊の戦士を称えた。最上級の平和を与えてくれた戦士の名を覚え、これからの日々を、用意された試練を乗り越える決意をしていく。
「ああ、すごい。これはすごいや」
東の塔のてっぺんで、ヒューンルが呟く。
精霊はようやく起き上がると、ぶるぶるっと体を震わせて、一気に飛んだ。
向かったのは精霊たちの故郷。草原を抜け、大地の門をくぐり、蘇った美しい森の中を行く。
「精霊の王ーっ、ねえー、帰ったよお!」
生気を取り戻した巨木の前に、たくさんの芽が生えていた。これほどたくさんの芽吹きは初めて見るもので、ヒューンルも思わず息を飲む。
「おかえりなさい、ヒューンル」
呼んでおきながら、答えてくれた王を無視して、ヒューンルはつぼみのひとつひとつを確認し始めていった。
「この中にあるはずなんだ、ねえ、教えて! ふたばはどこにいるの?」
「その、赤いものですよ」
「え、どれ? 赤って結構あるじゃん。早く教えてよ!」
ヒューンルが文句を言うと、赤いつぼみのうちの一つがきらりと光って場所を教えた。
優しい風が吹いて、葉がざわめく。何をするつもりなの、とヒューンルへ問いかけてくる。
「これかあ。確かになんだか、ふたばっぽいや」
助けに行けなかった。メーロワデイルで命を落としたふたばのことを思うと悲しくて堪らなかった。
下ばかりを向いて苦しみ悩むそんなヒューンルへ、ロクェスはこう告げた。
「ふたばはきっとフーペニッタを受けるはずだ。彼女はこの世界の人間ではないが、誰よりもメーロワデイルを思い、魂のすべてを捧げたのだから」
勇敢な命は、再び生を得る。選ばれて生まれ変わり、新しい勇者へと力を貸す精霊になる――。
「ねえ、精霊王様。これ、ふたばだけはなんとか地球に送りたいんだ。飛ばしてくんない?」
あっさりと無理難題を言ってのける精霊に、王は小さく首を振って答えた。
「それは無理です。まだ、そこまでの力が私にはありません」
「ケチ!」
できるくせにと毒づくと、胸の傷が疼いた。千華を庇って受けた矢が深く刺さって、癒されはしたもののまだ痛む。
「帰してあげなきゃさあ、ふたばが可哀想だよ。それに千華だって、本当はふたばが好きだったんだ。ほんのちょっと、行き違いがあっただけなんだよ……。普通の女の子として生きていれば、きっとそのうち自然と、元の二人に戻れたはずなのに」
ブランニューな自分になった時に見えた、千華の心の中。渦巻く感情はさまざまな色をしていたが、その最も奥にあったのは、散々育んできた「二人の友情」だった。
「しかしヒューンル、無理なものは無理です」
「じゃあさあ、じゃあ、僕の命を全部使っていいよ。なんてったって、すっごいパワーアップしたんだからね!」
「あなたは、それでいいのですか?」
まっすぐ正面から問われ、ヒューンルの心に一瞬、影がよぎる。
そう感じて、精霊は小さく笑うと、こう答えた。
「僕はもう、全然メーロワデイルの精霊じゃないんだ。なんでだろうなあ、やっぱりメーロワデイルの人じゃなかったからなのかな、ふたばが。遠い世界の人に力を与えたから、だから……もう全然、精霊らしくないんだ。嫌なことを考えたり、落ち込んだり、悲しくなったり、謝ったり。そんなんばっかりなんだ。力を与えた相棒もいないはぐれ者になっちゃったわけだし、僕はもうメーロワデイルで生きていくのは難しいと思うんだよね」
地球に辿り着いてから、大勢の人を見た。あの時は驚いた。感情の色の種類が多いのはいいが、暗いものの方が多いと感じたから。
だから初めてふたばに会った時には、本当に嬉しかった。ヒューンルはそれを思い出して、にっこりと笑う。
「あんなに明るい精霊みたいな子は初めてだって思った。メーロワデイルにだっていない、僕そっくりな素敵な子だって」
もしかしたら、恋でもしてしまったのかもしれない。そう考えるとなんだかおかしくなってきて、ヒューンルはまた笑う。
「ふたばを助けられたら嬉しいし、ふたばが助かれば千華だって嬉しいはずだ。僕はもういいよ。次はそうだな、人生を楽しくエンジョイできちゃう超絶イケメンに生まれ変わらせてくれたらそれでいいからさ」
「次の命については教えられません。けれどヒューンル、あなたがいいと言うのなら、願いは聞き入れましょう」
「じゃー、やっちゃって! 絶対、ふたばを助けてよ!」
わかりました、と精霊王が答えて、ヒューンルは慌てて赤いつぼみのもとへと飛んだ。
「ふたば、ふたば、生まれるよ。みんなが喜んでる。お蔭でほら、精霊が沢山生まれるよ。君ももうすぐ生まれるよね。だけど君の役目は精霊じゃない。ちゃんとふたばに戻るんだ。君の生きる場所はここじゃなくて地球だよ。メーロワデイルを救いたいって思ってくれて本当にありがとう。もういいからね。もう大丈夫だから、安心して君のいるべき場所に帰るんだ。散々な三年間を過ごしてきたけど平気だよ。全部元通りになる。家族も友達も、みんなが君を待ってるからね」
ゆっくりとつぼみが開いていく。ふんわりと開いて、中から明るく光が漏れてくる。
「ふたば、僕は君が大好きだよ! 消えちゃうけどずっとそばにいるからね! ずっとそばにいる的な存在になるから! だから、たまにでいいから、思い出してね!」
明るく眩く、精霊の世界に光が溢れていく。
その光景をふたばは見つめていた。
美しい白にうっとりとしながら、幸せな気分に浸っていく。
暖かくて、優しい。手に誰かが触れている。
瞳を開けると、そこは何の個性もない、つまらない白い天井が見えた。
右手を握っている誰かが気になって、ゆっくりと、顔を動かしていく。
手を繋いでいる相手は千華で、長い指に握られている自分の腕は、細い。
それを見たら嬉しくなって、こう呟いた。
「やった……。痩せたままだ」
か細い掠れた囁きに、千華が、伏せていた顔を上げた。




