また、ここから旅立つ
窓の外で、優しい風が吹いている。
花びらをすべて散らせた桜の木の、大きな葉が通学路に影を落としている。新学期が始まって一ケ月、連休も終わって、ようやく本格的に始まった授業に子供たちも慣れてきた頃。
「私が将来なりたいのは魔法少女です。魔法を使える正義の味方になって、悪い人をやっつけたり、困っている人たちを助けるのです!」
「しょうらいのゆめ」というテーマで書かされた作文を、ひとりずつ順番に読み上げていく、三時間目の授業。二年一組の教室で今、笑顔で声を張り上げているふたばに教師は軽く苦笑している。
「私が好きなのは、マジカルガール ミミ・ミ・ミラクルに出てくる、ミミです。ミミはとっても優しくて、強くて、カッコいいです。お友達のために一生懸命走り廻って、みんなはいつの間にか困っていたことがなくなっていても、ミミがやったと気が付きません。でも、ミミはいっつもニコニコしています。みんなが喜んでくれたらそれでいいと言って、自分がやったんだなんて絶対に威張りません!」
魔法の杖を振り、力を使う。敵を倒し、今日も誰かの笑顔を守る。
ミミの活躍の素晴らしさ、彼女の偉大さを語り尽して、ふたばはこう締めくくった。
「私は魔法少女になれたら、絶対にミミのようになります。ありがとうって言われたら嬉しいけれど、言われなくても誰かのために戦って、平和な世の中を守っていきたいです!」
「はい、ありがとう遠山さん」
笑顔で担任の教師に手を叩かれ、ふたばは満面の笑みを浮かべている。
三つ隣の列の一番後ろに座る千華は、その笑顔の中に潜む小さな棘に気が付いていた。子供らしい、可愛らしい夢。まだまだ現実とアニメの区別のつかない子供の「幸せな空想」だという思い。
それがやけに悔しく思えて、千華は誰よりも大きく手を叩いた。ふたばがどれほどまっすぐで友達思いか、どれほど一生懸命か。千華にとって、ふたばは既に「ミミ」だった。魔法が使えないだけ、まだ魔法少女ではないだけで、もう「正義の味方」だと千華は知っていた。
「ふたばちゃん、さっきの作文すごく良かった。ふたばちゃんらしくて、すごく良かったよ!」
授業が終わった後の、五分間の休み時間。千華は自分の席を立つと急いでふたばのもとへ行き、力強い口調でこう告げた。
「えへへ、千華ちゃんありがとう! 良かった? 本当に良かった?」
「うん」
だらしなく顔を緩めて、ふたばは笑っている。
千華も微笑む。周囲の男の子が鼻で笑っていても、そんなものは軽く睨んで吹き飛ばしてやる。彼らは千華の大人びた表情に気圧されて、廊下へと去って行く。
「ふたばちゃんなら、絶対になれるよね」
「そうかなあ。へへ、そうだよね。私もそう思う!」
魔法少女なんてテレビの中だけにしか存在しない。空想の産物であり、どの作品にも「原作者」がいる。どこかの誰かが作り上げた、子供のための啓蒙番組に出てくるいちキャラクターに過ぎない。
努力、友情、勝利。誰かを傷つける敵は退け、苦難に負けず、手を取り合って乗り越える。世の中の「尊いもの」ってこういうことだよと、子供たちに刷り込むための存在だ。
毎年、名前と顔をすげかえただけで同じような番組が同じ時間帯、同じチャンネルで流れていく。
それは、少年と少女が飽きて、次の新しい何かに移行するまでの止まり木のようなものにすぎないのだと、千華は承知している。
承知していても、口にはしない。純真な心をキラキラと輝せている大切なともだちのために。ふたばにいつまでも、明るい笑顔を浮かべていて欲しかったから。この先もずっと、正義の味方でいて欲しいと思っていたから。
(いつだったかな……)
そんな思いが胸のうちから消えたのは、いつだったのだろう?
目を閉じて思い返していっても、ちっともわからなかった。
狭い六畳ほどの部屋の中。千華は膝を抱えて座っている。久しぶりに味わう畳の感触、匂い立つい草の香り。異世界から持って帰った紫色のドレスは、古びた畳の上にはまるで似つかわしくない。
他に考えなくてはならないことは山ほどあるのに、浮かんでくるのは遥か昔の思い出だとか、くだらない雑念ばかりだ。
座った場所のすぐそばに、はずしたアクセサリが乱雑に投げ出されている。閉められたカーテンの隙間から入ってくる細いあかりは太陽のもので、腕輪の金色を輝かせている。
遠くから聞こえる、車が通る音。誰かが階段を下りていく足音。学校へ向かっているであろう子供たちの話し声。かすかに響いてくる、朝っぱらから繰り広げられる夫婦の言い争い――。
三年ぶりに嗅ぐ、地球の香り。
(帰って来ちゃった……)
途方に暮れている。
剣が振り下ろされ、斬られたあの後。
息も絶え絶えのヒューンル、イーリオとエランジの二人の視線、大きな扉の向こうから現れた金色の騎士の言葉。
抱えた膝の上に額をこつんとぶつけて、ため息。この部屋に来てから一体何度目だろう。うっすらと埃の溜まった部屋。隅には畳まれた布団があって、てっぺんに枕が乗せられている。綺麗に片付けられた部屋。プラスチックでできた収納に、安っぽいグレーのゴミ箱、冷蔵庫が時折小さく唸りをあげる。ここは、恐らく。
(ふたばの、部屋だ)
一人暮らしを始めるために引っ越したと言っていた。あんなにも優しい家族がいるのに、孤独を選ぶなんて――。
それだけ自分の言葉に、威力があったのだ。
知っていた。自分がどれだけ、ふたばにとって大きな存在か。あんな風に言えばどうなるか、わかっていたのに。
またため息。小さく、誰にも聞こえないように。部屋の隅で、千華はひたすらにうなだれている。それ以外にできない。空腹だけど、冷蔵庫のところへ行く気力がわかない。喉が渇いたけれど、水道まで歩いていく力がない。これから先、どうしたらいいのか。なにも、わからない。
ふいに聞こえてくる、誰かの笑い声。朗らかな響きが窓の向こうから届いて、千華はまた更に身を縮ませた。十四年間過ごしてきた場所、自分もかつては同じように、誰かと一緒に歩いていた道。
すぐそこに待っている、窓ガラスの向こうにある世界に戻りたい。けれど、戻れない。どうやって戻ったらいいのか、どうやって足を動かして、どうやって歩いたらいいのかがわからない。
歩き出せない理由は一つ。千華のすぐ前に倒れている、ふたばだ。少しでも動けば目を開きそうな気がして、恐ろしくて仕方がない。自分の戸惑い、躊躇い、不幸、苛立ち、否定、そのすべてを引き受けて、彼女に最も似合わない色を身に着けて、行ってしまったふたば。
今もなお、ふたばは黒く染まっている。可愛らしいピンクだったはずなのに。
狭い部屋の中に、二人でいる。
突然自分を包んだ光、それが消えて見え
てきた場所。畳、窓ガラス、ありがちな白いクロスの壁。
閉まっているカーテンを開けたい。外はきっと朝だから。晴れているから。まばゆい光を部屋に入れて、埃の匂いを追い出すために窓を開け放ちたい。けれど、出来ない。世界と繋がるのはまだ怖いし、ふたばを目覚めさせるなんて、とてもじゃないけれど、恐ろしくて、怖くて、たまらない。
ふたばは動かない。生きているのかどうかすらわからなかった。
彼女は走って走って、深い谷へ魔物をすべて突き落した。ヒューンルの話は恐らく真実だろうと思う。うるさくてうざったい精霊だが、嘘をいうキャラクターではなかった。なんでもかんでも、いつだってズバズバと真実を口にしていたから。
(あの時も……)
ふたばと決裂した三日後の夜、部屋の窓の外に白いものが浮かんでいて、千華は驚いたが、すぐに正体に気が付いてすぐにヒューンルを中へ招き入れた。
ため息混じりでなんの用か聞く千華に、ヒューンルはケタケタと笑った。
「棘があるなー、千華! もうちょっと可愛げがないと、男子にはモテないぞっ」
精霊だとか妖精なんてものは、愛らしいばかりだと思っていたのに。
眉間にしわを寄せる千華に、ヒューンルはいつもより少しだけ大人しく、こう切り出した。
「あのねえ、千華。ふたばと喧嘩したじゃない? ふたば、すっごい落ち込んでるんだ。ごはんも全然食べないし……。千華のことばっかり考えてるよ。どうしてあんなに怒ってるのか、どうして嫌われたのか、一生懸命考えてる。きっとね、すぐにふたばはわかると思うんだ。千華とどうやって付き合っていったらいいか、新しい道が見つかると思うんだよね」
(そんなわけない)
無理だ、と千華は思う。あのふたばだ。そんな控え目な付き合いができるとは、とても思えない。
「だからね、それまで……。ほら、魔物が出ちゃうじゃない、まだ、ね? あんまり解決してないでしょ、魔法少女的活躍周辺についてはさ。だから、ふたばがもう一回立ち直るまで、千華、戦ってくんない? 僕も手伝うし」
「嫌よ!」
即答に、さすがのヒューンルも驚いたらしく身をすくめている。
「好きでなったんじゃないのよ? ……これまでも、ずっと嫌だったの。こんなくだらない役目をどうして引き受けなきゃいけなかったのか……」
怒りで身を震わせる千華に、精霊は黙る。やがて静かに、ヒューンルはこう呟いた。
「わかったよ。ごめん、……嫌なんだもんね。じゃあ僕は、ふたばを立ち直らせるのに全力を傾けるよ」
あれが最後だ。精霊の姿を見た最後。
ふたばに怒りをぶつけた後、最初に間違えた選択だった。ヒューンルと共に行動していれば、異世界へひとり飛ばされなくて済んだだろう。
(まただ)
後悔なんて、なんの役にも立たない。豚の餌にすらならない。そう思うと怒りが湧いてきて、千華は歯をぎり、と鳴らした。静かな部屋にその音が響いて、ふたばが目を覚ますのではないかと、千華は焦る。
しかし、倒れたふたばは動かなかった。
どれだけ時が過ぎても、ぴくりとも動かない。
恐れの色が変化していく。
「そこにふたばがいる」から、「そこにいるふたばが、動かない」に。
両腕が真横にだらりと広げられ、足もまっすぐに放り出されていた。長い髪はくねくねと曲がりながら、畳の上に流れている。顔はまっすぐ上に向いて、睫毛もぴんと伸びて、天井に向かって立ち上がっている。
そのすべてが動かなかった。長い間見つめ続けていたが、ふたばはちっとも動かなかった。
心を染めていた黒が、青へと変わっていく。
夏の空や、南の海のような清々しい青ではなくて、まるで深海のように昏くて冷たい色だった。
千華を包んでいる不安の霧は一向に晴れない。
それどころか、ますます濃くなっていく一方で。
「……ふたば」
ようやく、声が出る。
掠れて震えた不安げな声に、自分が出したものだというのにますます不安を掻き立てられていく。
手を伸ばして、ふたばに触れたい。そう思うものの、まだ怖い。
「ふたば」
弱々しい声に、ますます震える。自分の出しているこの頼りなさが、ふたばの命を奪っているようにも思える。
ガクガクと大きく震える右手を、千華は左手で抑え込んだ。
どうして震えているのか、何故恐ろしくてたまらないのか。心が目覚めていく。今、目の前にあるもの。これが自分の世界だ。怪しげな異世界へ行っていた。あれは夢ではなく、実際にあった出来事だ。あの時、ふたばがやってきたのも、去って行ったのも、すべてが「本当」。今、目の前で動かないことすらも――。
涙が落ちていく。震える唇からようやく息を細く吐いて、ぼろぼろと涙を落としていく。部屋の輪郭がぼやけ、辺りの音が聞こえなくなっていく。
「ふたば」
ずっとずっと、恐ろしかった。後悔の海の中に居たけれど、今が一番恐ろしい。目の前で、人生で一番大切なものが失われていく光景。それを目の当たりにしていく時間。部屋の中に時計はないが、一秒一秒が刻まれていく音が聞こえているような気がして、それはやたらと遅くて、重々しく心の中に響いてきて。
真っ白い肌に血の気はない。
まっ黒いスカートは、よく見るとあちこちが小さく裂けていた。
腰の後ろから伸びた長いリボンの裾がほつれて、糸が長く伸びている。
スカートのあちこちについている小さなリボンも、一つ欠けている。まるで無理矢理引きちぎられたかのような跡がついていて。
「ふたばっ!」
両手で顔を覆って、泣きながら叫ぶ。
けれど、答える声はない。
このままではいけない。
ようやく生まれた心の声に従って、千華は立ち上がった。
玄関へ走って向かい、はたと立ち止まる。
(この格好じゃ、駄目だ)
振り返って部屋の中を探し、自分とふたば、二人分の着替えを探していく。
出てきたのはどれも、信じられない程大きなサイズのものばかりで。
着替えに何時間もかけてようやく、千華は一ケ月の間閉ざされっぱなしだったドアを開けて、外へと飛び出して行った。




