王の間、邂逅
ずっと気になっていた。
大地の門で、精霊に告げられたあの言葉が。
――彼女はあなたと同じ。同じように、運命に耐えているのです。
千華の「現在」について、精霊はそう言った。
ふたばに与えられたのは、コーラルシャインとして戦う運命。
一度は放り出してしまった責任を果たすために、今、異世界に立っている。
千華に与えられた運命は、どんなものなのだろう?
扉が開き、光が差し込んでくる。ふたばたちはそれぞれ武器を構えたまま飛び出して、辺りの様子を窺った。そばに魔物の影はない。精霊たちが短い手を挙げて、四人は一斉に駆ける。城へと続く扉を手早く開けて、まずロクェスが飛び込み、辺りの様子を窺うと、三人を中へ招き入れた。
城の中にはところどころ、小さな窓から日が差し込んでいる場所があるが、充分に明るいとは言えなかった。ふたばは手の中にステッキを呼んで光らせ、用意のいいエランジも光る石を出して辺りを照らす。
静かだった。床には埃が積もり、大小さまざまなサイズの足跡がでたらめにつけられている。
「この階段を下りれば、王の間に出る」
イーリオたちはまず西の塔へ向かう。彼らは、このまま廊下をまっすぐ進む。
ここでお別れだ。恐らくは、永遠の別れ。生真面目な銀の騎士と、無口な射手の姿は二度と見られないだろう。
「ふたば、ありがとう。我々はふたばを決して忘れない。どのような結果になっても、それは神の思し召し。世界に恵みをもたらした戦士に、精霊の王と、神の特別な加護があるように」
銀の騎士の籠手がキラリと輝く。これまでにない複雑な動きのジェスチャーを、イーリオとエランジの二人が揃ってふたばに向ける。
胸をいっぱいにして、ふたばも答えた。
「イーリオ、エランジ、気を付けて」
「大丈夫だ、精霊がいる」
黒い妖精メダルトの小さな頭を撫で、イーリオは微笑みを浮かべると身を翻し、走り去って行った。
あっさりと背中が遠ざかっていく。切ない気持ちもあるけれど、別れは案外、このくらい簡単なものがいいのかもしれないとふたばは思った。
「行きましょう」
ロクェスの言葉に小さく頷いて答え、銀の騎士の言葉を胸の中で噛みしめる。
(どのような結果に、なっても……)
彼らは受け止める。もし失敗しても、恨まない。すべて受け入れ、もしも良くない状況に陥ったとしても、与えられた試練として乗り越えようとするだろう。
それが「メーロワデイル」だ。
(すっごいポジティブ)
かつての自分のように。
ただひたすら自分の気持ちを人に押し付けるだけの、空気の読めない子供。
迷惑極まりない存在だろうと、ふたばも思っている。
けれど、今はこうも思う。力があるはずだ、と。
(否定されるよりも、絶対に……)
「ふたば、ふたば、大丈夫。僕も完全体になったからね! 見てよこの毛並みを。ふわっふわで可愛くって、あったかいでしょう? 今ならなんでも出来そうだよ。空も飛べるかもしれない!」
「ニティカとメダルトは飛べたもんね」
「そうだよ。ひよっこたちにできて、僕に出来ないはずがない!」
明るいヒューンルの声に、笑いが漏れる。
そして、ふたばは足を踏み出した。王の間へと続く階段を、灯りを掲げながら。
静かな城内に、足音が二人分響いていった。
軽やかな音と、金属のあたる響きが、ゆっくりと階下へ向かって降りていく。
そしてとうとう、二人と二匹は大きな緋色の扉の前に立っていた。
豪華な装飾を施された、いかにも「王の間」を思わせる扉だ。
無言のまま、扉に手をかけて開ける。おもいがけないほどに、扉はあっさりと開いた。
天井は高く、並んだ窓から光が降り注いでいて、明るかった。
部屋の左右は魔物でびっしりと埋まっている。壁沿いに大小さまざまなサイズの獣と悪魔が並んでいる。彼らは動かず、突然やってきた客へ黙ったまま視線だけを向けている。
悪鬼でできた壁の間を、ふたばも黙ったまま進んだ。
まっすぐ先、正面に少し高くなっているところがある。深い紅色の絨毯が敷かれ、その上に、大きな椅子が置かれている。そこに、誰かが座っている。
その誰かに向かってまっすぐに、ふたばは進んだ。
やがて、見えてくる。
薄い紫色のドレスの裾が、床に広がっている。
王座の周りには、金色と銀色の煌めき。たくさんの宝飾品が、窓から入る光を受けて輝いている。
女王様は気だるげな様子で、ぼうっと、明後日の方角を見ていた。
冠や首飾りに囲まれているが、本人はそういったものを身に着けてはいないらしい。長い髪を背中に垂らし、長い脚を組んで、右手で頬杖をついていて、やってきた客にはまるで気が付いていない。
ふたばは黙ったまま進んで行く。
(ああ)
姿がくっきりと、見えてくる。
(千華だ)
三年ぶりのその姿。
(相変わらず)
憎たらしいほどに綺麗だ。
物憂げな視線にかかる長い睫毛。つややかな髪は、腰まで伸びている。少し鋭い瞳が見ているのは、どこなのか。すぐ前にふたばが辿り着いてもまだ、ぼうっと遠くを見ているままで、千華の顔にはなんの表情もない。
「千華」
あと三歩の位置で立ち止まり、ふたばは声をかけた。
びくりと千華の体が揺れる。焦点の定まっていなかった目が大きく開き、ゆっくりと、ふたばへと向く。
信じられない。そんな表情を浮かべたまま、千華は凍り付いてしまったかのようにしばらく動かなかった。
ふたばはただ、黙って待つ。ロクェスも、ふたばの後ろで動かない。陽気な精霊たちも口を閉ざしたまま、じっとそれぞれの肩の上に留まっている。
やがて、千華が動いた。唇をわなわなと震わせて、何度も何度も開いては閉じてから、ようやく一言、声が放たれる。
「……ふたば?」
小さな、自分を呼ぶ声に、ふたばは大きく頷く。
「うん」
返事はまた、しばらくの間なかった。
王の間の両サイドを埋め尽くしている魔物達も、動かない。
千華の目はふたばに向いているが、見つめてはいない。揺れて、泳いで、直視できないようだった。
「ふたば、どうやって、ここに来たの?」
「ヒューンルに呼ばれたんだ」
ふたばの落ち着き払った返答を聞くと、千華は右手の爪を噛んで俯いた。
どうしたんだろう、とふたばは思う。メーロワデイルの女王なのに、この怯えたような反応の理由がわからない。
「千華、迎えに来たんだよ。一緒に帰ろう。その前に、この魔物たちをなんとかして」
「……迎えって? そんなの、頼んだ覚え、ない」
「私も頼まれた覚えはないよ。千華にはね。だけど、メーロワデイルの、ここの人たちは困ってる。これ以上、好き勝手させるわけにはいかない。これまでのことはもう仕方ないから、今、現時点で一番いい方法を取ってほしいの。千華、魔物を全部、森とか山とか、奥の方に引っ込めて。今すぐに」
人差し指の爪を噛みながら、千華はふたばの声を聞いていた。だが、終わると同時にまた下を向き、いらいらとした様子で今度は足を震わせ始めている。
美しい装飾が施された靴のつま先がせわしなく、絨毯の毛を踏みにじっていく。
「ヒューンル、どうなってるの?」
「わかんない……」
頼みの綱の精霊は肩をすくめるジェスチャーをしてみせた。振り返って金の騎士に目を向けてみると、こちらも困惑した表情だった。
(運命に耐えている……)
あの時、精霊の王とやらに確認できていれば良かったけれど。
諦めながら、ふたばは再び問いかける。
「ねえ千華、教えて。どうやってここへ来たの? いつ、なにがあったの?」
千華の瞳の中で、光が揺れる。
相変わらず答えはないまま、時間だけが流れていた。痛いほどに静かなカルティオーネの王の間で、ふたばと千華はただ、向かい合っている。左右に控える魔物たちもただ静かに、呼吸を繰り返しているだけだ。時の流れがひどく遅い。
招かれざる客であるはずのふたばとロクェスを襲えと言えばいいものを、千華はひたすら遠くばかりを見て、足を震わせている。
「千華、私は、ヒューンルに呼ばれたの。あの日、千華に……絶交された日からずっと、ずっと、ひたすら閉じこもってた。三年もだよ。卒業式だって出なかった。外に出たのは一日だけ。実家に居たくないから、一人で暮らしたいんだってわがまま言って、用意してもらったアパートに引っ越ししたの。だから、私は千華がどうしてたのか、全然知らない。聞きたくなかったし、誰も私には言わなかったから。その間、調子に乗って引き受けたコーラルシャインの仕事はほったらかしだった。地球に来てた魔物はなんとか、こっちの世界の人がやっつけてくれていたって、最近になってようやく知ったんだ」
ふたばは真正面から千華を見つめたまま、一歩前へ進む。しかし、反応はない。
「ヒューンルと、後ろにいるこのカルティオーネの国の騎士、ロクェスが突然やって来たの。そして言われた。千華が、ライラックムーンがメーロワデイルにやってきて、ほとんどの国を滅ぼしてしまったんだって。千華に力を与えるきっかけになったのは、私が、どうしても千華と一緒にやりたいってわがままを言ったから。だから、責任を取ってくれって言われて、こっちに来たの。千華をやっつけて、メーロワデイルを元通りにしてくれって。魔物を街から追い出して、人質を、集められて働かされている人たちを解放するようにしてほしいって。千華をなんとか出来るのは、私だけだからって」
もう一歩前へ。もう、すぐ目の前に千華がいる。足を組んだ姿勢でいらいらと体を揺する女王の視線は、まだ定まらない。
「千華、もう終わりだよ。どうしてここに来たのか、どうしてこんなことしてるのか、言いたくないならそれでもいい。だけど、一緒に帰る。魔物を追い払ったら、すぐに帰るよ」
更にもう一歩前へ。つま先とつま先が触れる。そこでようやく、千華の視線は動いた。目の前にいるかつての友人を見る瞳の中には、ふらふらと光が揺れていた。
「どうして泣いているの?」
答えはなく、やがて千華の瞳から涙が噴き出した。だぁっと突如溢れたそれに、ふたばはただ、驚くばかりで。
「なんで、泣いてるの?」
答えはない。唇をわなわなと震わせ、千華はひたすら、大きな瞳から涙を流し、ふたばを見つめている。
千華の涙の理由が、ふたばにさっぱりわからない。
まるで自分が苛めているかのような今の状況に、戸惑っている。
「千華」
震える千華の前にしゃがみこみ、ふたばは手を取った。ひんやりとしている。細長い指は相変わらず美しく、白い。左手の中指には紫色の石が嵌った指輪が輝いている。つややかな爪は磨かれて輝きを放っているけれど、ひどく力のない指先に哀しい気持ちにさせられて、ふたばは握った手に力を強く込めた。
「ねえ、千華。わかんないよ、どうして泣くの?」
再び訪れる沈黙。
長い長い一分が過ぎ、ようやく、女王が口を開いた。
「……できない、そんなの。魔物をどうにかするなんて、私には、できない」
下がった顔が、力なく振られる。
「どういう意味?」
「私は、ここに来たくて来たんじゃない。どうしてこうなったかもわからない。ずっと帰れないまま、言葉もわからないまま、いろんな人の悲鳴や恨む声を聞かされながら、ずっと……」
嗚咽交じりの独白をどう解釈したらいいのか、ふたばにはわからない。
助けを求め振り返ると、ロクェスは今までにない厳しい表情で千華を見つめている。
(なんなの)
弱々しい千華の言葉。メーロワデイルを支配する魔物たちの王。城へ攻め込み、人質を取り、自分だけのために人々を働かせてきた史上最悪の女王様。
(知らないってなんなの)
自分はなにもしていない。勝手に魔物がそのようにしてきたのだろうか。そんな展開が、あり得るのか?
(あったとしても)
「許されないでしょ」
心の中の呟きが、外へ漏れ出る。小さな小さな声だったが、静かな王の間にはひときわ大きく響いた。勿論、千華の耳にも届いて、投げかけられた小さな波紋は二人の心を大きく震わせていく。
「ふたば」
「知らないとか、わかんないとか……。こんなに酷い状況になってるのに、あり得ないよ」
「だって、本当にわからない! 私は……あの日」
「あの日って?」
鋭く返されたふたばの問いに、千華ははっとした表情で口を閉ざした。
「答えて。千華、駄目だよ。教えて」
突然、瞳が細められた。千華の、憧れの、切れ長の瞳。長い睫毛のかかった、鋭い視線。
慌てて手を離し、ふたばは立ち上がって一歩下がった。
怯えが消え、代わりに浮かび上がって来たのは苛立ちだ。
腹立たしげに歪んだ千華の口元から、部屋中に緊張が広がっていく。
「千華」
「話す義理なんてない。ふたば、言ったはずだよ。私はあんたが大嫌い!」
傷だらけの思い出に、心が疼く。「あの日の記憶」が作った大きなかさぶたが少しはがれて、ふたばの心に血が滲む。
けれど、メーロワデイルの勇者は怯まない。その程度では動じない。
ふたばはまっすぐに立ち、千華に向けて叫んだ。
「知ってるよ。でも今は、そんなの関係ない! 私はこの世界を元に戻すって、決めたんだから!」




