この世界を構築しているもの
濃霧に阻まれ、周囲の様子はよく見えない。
ふたばの前にあるのはただ、ゴツゴツとした表皮の大樹だけだ。枝を何本も力なく垂れさせている様は柳に少し似ている。そう思っていたので、上からふわりと白くて丸いものが落ちてきて、ふたばは心底驚いた。
「ひゃあん!」
思わず声を上げて倒れ、尻餅をつく。
爆音を奏でだした心臓の音を聞きながら目で正体を追うと、それはゆらゆら、ふらふらと揺れながら、ゆっくりゆっくり落ちてきた。
(あれ)
白く細い毛で覆われているような、愛らしさを感じる「それ」。頬ずりしたくなるような様子に、呼吸が落ち着いていく。正体はわからないが、怨念、無念の類ではないように見える。
白いふわふわは長い時間をかけてようやく、暗い地面にぺたりと落ちた。
ちらりと輝き、そして、吸い込まれ消えていく。
(なんだろ……?)
白い何かが消え去って、ふたばはゆっくりと立ち上がると、また周囲を見渡した。相変わらずよく見えない。ただあるのは、枯れてしまった木と静寂だけ。
そっと手を伸ばして、表皮に添える。
冷たかった。手袋越しに感じるのは乾きばかりだ。この木は、死んでいる。そう思わされるばかりの巨木に触れている指の先から、寂しさが体の中へしみ込んでくるようだった。
ぽろぽろと涙の粒をこぼしながら、ふたばはなぜか、目の前の枯れ木に抱き付いていた。
(なんて悲しそうなんだろう)
木はなにも語らない。けれど、なにも「感じない」ものだろうか?
こんな場所で一人ぼっちで、この木はどれだけ寂しいだろう。センチメンタルで、妙に少女趣味的な思考だと思う。花や木に共感した覚えなど、今までにないはずなのに。そう思うのに、ふたばの涙は止まらなかった。
(ああ、そうか)
抱きしめているうちに、わかってくる。
(私と同じなんだ)
かつて、傷ついて閉じこもっていた自分と重ね合わせている。
一人ぼっちで、誰にも気が付かれずに、寂しさの中で溺れている。
(大丈夫だよ)
もう、一人じゃない。
「一緒にいるよ」
「いいえ、いつまでもここに留まっていてはいけません」
耳元に突如届いた声に、ふたばは慌てた。木から離れ、声の主の姿を探すが、視界の中には誰もいない。
ゆっくり後ろへ下がり、少し悩んでからふたばは木の周囲をぐるりと回った。ざり、と地面を踏む音だけしかない、霧の中。
「誰かいるの?」
「ええ、います。ふたば、あなたの目の前に」
足を止め、ふたばは見上げる。
(もしかして、この木?)
「ここは精霊の国。ようこそ、ふたば」
はっきりと声が響いてきて、戸惑いながらもふたばは、じっと目の前の巨木を見据えた。
「精霊の国って?」
「あなたがくぐったのは大地の門。命を終えた人間の中でも、特に勇敢で輝かしい魂を持った者だけが訪れる、特別な場所です」
それは、決して神話の中で語られている「作り話」ではなかったらしい。
つまり、では、自分は――。
「ふたば、あなたは死んではいません。目の前で命を終えた男の後を追い、その旅路の供についてきてしまっただけです」
「メダルトの後を?」
そんなことができるのかと、ふたばは首を傾げる。
「ええ、あなたはあの命にとって特別な存在でした。ですから、魂の行く末を見届ける権利があります」
(……ファンタジーだなあ)
今、見て、耳にしているすべてが真実なのかどうか、ふたばにはわからなかった。もしかしたら死の間際にあって、救いのある内容の夢を見ているだけなのかもしれない。そんな風に思いながら、目を伏せる。
「勇敢な魂は、再び命を得ます。ほら、そこに」
そこに。それはどこなのだろう。指を差す手もない木の言葉に、なぜかふたばは振り返って、背後にひっそりと生えている花を見つけた。
色褪せた世界で唯一、青々と葉を茂らせ、まっすぐにピンと茎を伸ばした花がある。まだ咲いていないつぼみがふっくらと膨らんで、あと少しで開きそうだった。
「花になるの?」
「新しい命を得るのです。もうすぐ生まれそうなのですが、あと少しだけ、栄養が足りません」
新しい命はもう芽吹いている。黒くひび割れた地面から生き生きと命をアピールするその若い花は、ふたばの乾いた心に久しぶりに希望を感じさせるものだった。しかし。
「栄養ね」
そんなものはありはしない。濃霧に阻まれて、日の光は届かない。地面はカラカラに乾いていて、とても養分を与えさせるようには見えなかった。
「ふたば、あなたから、わけてもらえませんか」
「私から?」
背後からかけられた声に、訝しげに振り返る。
すると木の前に、ぼうっと影が浮かび上がった。白い、小さな姿。なんとなく、ハゲる前のヒューンルに似た、愛らしい精霊のような輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
「精霊は希望や幸福など、『人々の満たされた気持ち』で出来ています」
ちょこんと、白い輪郭が動いた。それは、頷いたのか、手を動かしたのか。
「この世界からは一度、それらはすべて失われました。満ちているのは諦め、歎き、怒り、そして悲しみばかりです」
精霊がすべて狩られ、魔物が攻め込んできた時。
(千華……)
ふたばの脳裏に、涼しげな横顔が浮かぶ。
「それで精霊たちは皆いなくなりましたが……。でも今は、少しずつですが取り戻されているのです」
「希望が?」
「そうです。ふたば、あなたがやって来てくれたから。あなたが出会い、この世界は救われるであろうと信じる者たちの中に、希望が生まれました」
ぶる、と体が震える。
「ごらんなさい」
ふわりと、なにかが舞った。
ふたばの周りには、いつの間にか小さな光がいくつも浮かび上がっている。
「これは、あなたに命を救われた少年の想い」
青く輝く光の中に、ジャンドの姿が見えた。
「これは、憧れの人と共に行くことを許された少女の幸福」
(ニティカ――!)
温かい橙色の光が舞う。
大粒の涙をぼろぼろと流しながら、ふたばは歯を食いしばって立つ。
これは、美しく可愛らしい物をもらった、少女の喜び。
これは、尊い人の救出の希望を得られた騎士の感謝。
これは、勇者を助けることができた、戦士の歓び。
これは、救いに来てくれた戦士に、子供たちが与えられた勇気。
鼻をすすりあげる音と嗚咽で、もう声が聞こえない。しかし、光は増えてふたばの周りを嬉しそうに舞い続けた。その中にメーロワデイルで出会った人々の顔が見えて、ふたばは両手を強く強く握りしめて。
「新しく戦士が生まれます。もう既にそこに芽吹いていますが、もう少しだけ足りないのです。ふたば、あなたの中にあるその余りある幸福を分け与えて下さい」
「私の中にある、幸福?」
「あなたがこの三年の間に与えられた、愛のことです」
それは一体、なにをさすのだろう。
戸惑うばかりのふたばに、白い影ははっきりと指を向けた。
「ふたば、いいですか?」
わからない。
わからないけれど、考える。
浮かんできたのは父と母の顔だった。
引きこもり続けてきた三年の間に、千華との友情の無残な結末について悩み苦しんできたが、それ以外についてなにひとつ不自由はなかった。
(愛、か)
ふたばを生かしてきたものは確かに、両親から与えられてきた愛情なのだろう。誰とも会いたくなかったし、外へ出るのは怖かった。しかし、死んでしまいたいとまでは考えなかった。消えてなくなってしまいたいという思いはあったが、でも、それはふたばにとって「死」なんていう生々しいものではなかったはずだ。
それは、ふたばに帰る場所があったから。絶対に迎え入れてくる人がいるとわかっていたからだ。
「わかった……」
それが、希望になるのなら。
世界を救うために必要ならば。
「いいよ。使って」
けれど、ほんの少しだけ不安もある。
「私、どうなるの?」
「心配要りません。ふたばはふたば、あなたのまま、戻るだけです」
力強い答えにふたばが頷くと、空気が突然輝き始めた。
光の粒がふたばを包んでいく。白く細かな煌めきが少女を包んで、ふたばの体も光を放ち始めた。
(あったかい)
うっとりとした気分で目を閉じれば、視界は黄金色に染まっていく。
とてもとても、幸せな気分だった。
(わけてあげてるのに)
吸い取られて嫌な気分になるかと思いきや、むしろその逆で。
(嬉しいなあ)
満たされていく。自分がこれほど優しさに包まれていたとは。愛されていたとは。
(お父さん、お母さん……)
いて当然の二人。自分を育て、守るのが当たり前で。いや、考えたこともなかった、ふたばの世界の大地であり、海であり、空であった両親という存在。
(絶対、帰るよ)
この人生を勝手に終わりにする権利など、自分にはない。
体がゆっくりと溶けていく。身を包んでいる光と一つになっていくような感覚。愛や希望が精霊を育てるならば、この満ち足りた感覚は間違いなく彼らを育てる糧になるだろう。
「ふたば、ふたば」
ゆっくりと目を開けると、そこはもう青黒い場所ではなかった。
霧は晴れ、空は青い。大地は荒涼としているが、さっきまでとは明らかに違う。地を裂いていたひびはなくなっていて、木々も少しばかり潤いを取り戻しているように見える。
「見て下さい。花が咲きます」
見通しのよくなった大地には、花が二輪、並んで咲こうとしていた。霧のせいでもう一輪が見えなかったのか、それとも今、与えられた希望で芽を出したのか。
つぼみがくるくると回って、花びらを広げていく様をふたばはしゃがみこんで見つめた。
左の花は、白い花。
右の花は、黒い花。
まるで早送りのように、花びらが一気に開いていく。ふわりと優しい香りが振りまかれて、ふたばは微笑みを浮かべる。
そして、花が咲く。
一気に開いて、ぽん、と音がして、中から飛び出してきた。
「やっほほーい!」
「いやっほー!」
白い花からは、白いふわふわの毛をした、丸い耳をした、大きな瞳の精霊が。
黒い花からは、黒くて固そうな毛をした、ぎざぎざ耳の、目つきの鋭い精霊が。
二体の精霊は楽しげに飛びながらくるくると踊っている。
その愛らしい姿の中に、ふたばは見た。
「ふたば、あなたが名を付けて下さい」
まだ枯れた木からした声に、黙って頷く。すると生まれたての精霊はぴたりと止まって、少女の前に並んで立った。
(わかる)
どうしてこの二体の精霊が生まれたのか、一目でわかった。
ふたばはまたポロポロと涙をこぼしながら、まずは白い精霊の頭を撫でる。
「あなたの名前は、ニティカ」
そして隣の、黒い精霊の頭も同じように優しく撫でた。
「あなたは、メダルトだよ」
名を与えられたのが嬉しいのか、精霊たちはきゃっきゃとはしゃぎ、またくるくると回りながら宙を舞う。
勇敢な魂は大地の門を抜け、再び命を与えられる。
人々は精霊に生まれ変わって、愛する者を守って来たのだろう。
そのために、人々には希望が必要だ。もっともっと、メーロワデイルに希望を――。
「ふたば、ありがとう」
感謝の言葉はきっと、この場所にもう用はないという意味なのだろう。
命の息吹を取り戻した光景を見渡し、ふたばは頷く。
「こっちこそ、ありがとう」
「ふたば、こんな過酷な運命を受け入れてくれて、本当に感謝します。どうか、この先にあなたを待ち受けているものをも受け止め、恐れないように」
「……それってもしかして、千華?」
「そうです。彼女はあなたと同じ。同じように運命に耐えているのです」
霞んでいく。
肝心な話はいつだって最後まで教えてもらえない。こんなシーンにお似合いのお約束通り、景色が遠ざかっていく。
「ねえ、待って」
願いの言葉は虚しく、差し出した手は空を切る。
目に入った、白い手袋。
「あれ?」
そして、納得。
(そういうことか)
次に目に入って来た光景は、荒々しい戦場だった。
急ごしらえのバリケードが破られて、激しい音を立てている。テーブルも椅子も長い棒も、すべてが魔物の腕の一振りで折れ、破片が陰から矢を打っていたエランジへ降り注いでいく。
「おおっ!」
雄々しい声を上げているのはロクェスだ。一番前に立ち、剣を振っている。その横にはイーリオも居て、こちらは槍を突き出していた。それは先頭にいる魔物の茶色い毛皮を裂いたが、致命傷にはなっていない。
怒号が洞窟の中に響き渡っている。戦える者は皆、狭い通路の途中で魔物と向かい合っていた。小さな魔物が一体、騎士たちの間をすり抜けて奥へと進む。血の飛沫があちこちへ飛んで、戦いに慣れていない男たちを混乱に陥れていく。
「落ち着け、落ち着けーっ!」
イーリオは振り返らない。彼はただ前を見据え、魔物の見せる一瞬の隙を突くべく身構えている。ロクェスが出れば下がり、イーリオが出ればロクェスが下がる。金の騎士と銀の騎士の息はぴったりだが、魔物の大群の前には無力だ。
だがそれも今、この瞬間まで。
「戻ったよ!」
激しい戦いの繰り広げられているバリケードの少し後ろに着地し、ふたばはすぐさま、侵入していた魔物を光の鞭で打った。禍々しい体を吹っ飛ばしたらすかさずビームを撃って、一直線に貫いてやる。光が通過した場所はもれなく削り取られて、魔物たちは消え去るか、体の一部を失ってバタバタと倒れていった。
「ふたばか!?」
振り返ったイーリオが驚いた顔で叫ぶ。
「……ふたば!」
ロクェスは慌てて左手を胸にあて、右手を前へ突き出す。
「ふたばぁあああ!」
そしてバリケードのかけらの中からヒューンルが飛び出してきて、自分が力を与えた少女へ飛びついた。
「ばかふたば、どこへ行ってたんだよおー! なんで、なんで、いきなり痩せてるんだよおー!」
スラリとした手足を見せびらかすようにくるりと回って、ふたばは笑った。
「お裾分けしてきたんだ」
その笑顔の影から生まれたての二体の精霊が現れて、まるで踊るように舞いながら、それぞれ、力を与えたい騎士たちの下へと飛んだ。




