谷底の記憶
食料と水の入った袋を背負って、穴を出る。
目的地までは歩いて三日。最後に得られた情報はそれだけで、洞窟の入り口辺りからもう言葉は通じなくなっていた。
(質問がいっぱいあるのに!)
「オールルプラーレ。ふたば、ルーケ オーセ ミジャヤーク!」
「何言ってんだかわかんないよ」
困った顔で呟くふたばの肩を、メダルトは笑いながら叩いてくる。
(ギャグじゃないっつーの)
しばらくメダルトの謎の言葉は続いたが、結局なにひとつふたばには理解ができなかった。
やがておしゃべり髭野郎も無言になり、三人は渓谷の影の間を黙ったまま進んだ。でこぼこと盛り上がった山の間を縫うようにして、前へ。エランジの動きは軽やかで、進みが早い。ふたばはぜえぜえ言いながら、それになんとかついていく。
夜になってようやく、休憩が入った。
(休憩っていうか、今夜はここで休むんだよ……ね?)
一切を確認できないこの状況の深刻さときたらどうだろう。ふたばはここにきて、ヒューンルのありがたみをしみじみと噛みしめていた。彼がいれば言葉は通じるし、水は飲み放題。髪を洗えたし、汗だって流せた。なにより、用を足すときにも最大級に便利だった。
(いっつもウザいって思っててホントにごめん)
大切な相棒である精霊の姿を思い浮かべると、ふたばは深くため息をついた。水袋を取出してふたを開け、のどを潤していく。
だが突然横から腕が伸びてきて、袋は奪われてしまった。
驚くふたばの顔面に突き刺さっているのは、エランジの鋭い視線。
「なに?」
エランジは黙ったまま首を振る。
(なんだろ)
ふたがしめられ、袋は無事にふたばの手に戻る。
(そっか。飲みすぎたら無くなっちゃうんだ)
つい先ほど、精霊のありがたみについて考えていたのに。気が付かなかった自分の迂闊さを反省しつつ、水袋をしまう。
(っていうか)
エランジは無口だ。いや、無口を通り越して「無言」だった。ふたばは彼の声を聞いた覚えがない。メダルトに散々話しかけられているのに、一言だって返さない。
(しゃべれないのかな)
その反応の無さをメダルトは気にしていない様子だ。メダルトが気にしない性格なだけなのか、結局なにもわからない。
「ふたば、デーザイー ニー アッツァ」
メダルトが笑顔で渡してきたものは、黒ずんだ何かだった。
茶色がかった黒いその正体はこれまた謎だが、二人はそれを口に運んでいる。
(ごはんか)
かじってみると少し固いそれの味わいに、ふたばの中に大きな衝撃が走った。
「お肉じゃん!」
ロクェスたちと食べたパンのような、小麦系っぽいなにか。喜びの無いパサつきと、なんとなーく塩気があるようなないようなぼやけた味のアレに比べて、恐ろしく「美味い」。
思わず夢中でむさぼるふたばに、メダルトが笑う。
「ブイッツ ソニメレーテ ヨーヨーガ!」
「だってお肉が出てくるなんて思わなかったんだもん!」
もしかしたら笑われているかもしれなかったが、構っている場合ではない。肉だ肉だ。祭りだ祭りだ。小さな干し肉をちびちびと噛みしめて、口の中に広がる旨みにしばし酔う。
「ヨーヨーガ、ヨーヨーガ」
「はいはいヨーヨーガヨーヨーガ」
笑うメダルトを軽くあしらい、ふたばは目を閉じる。メダルトは猟師だと話していたはずだ。森の中に住む獣を狩って、肉を捌いたりできるのだろう。ぐっと上がった食料レベルに、ふたばは思わず、ニヤニヤしたまま手を右に左に振った。
(神様お肉をありがとう)
そしてこの日は、渓谷の中にある深い横穴の中で眠りについた。
「マジでここに入るの?」
次の日、横穴の奥へ進んで、ふたばは顔をしかめていた。どんどんと細くなっていく道の奥、その更に奥に、人が一人ギリギリで進めるであろう細い穴が開いている。どうやらそこを通って行くらしい。
一番先頭をエランジが行く。彼は小さなかごを持っていて、中に光り輝く石を入れている。イーリオたちのアジトを照らしていた、謎の石だ。
エランジは無言のまま、さっさと狭い穴の中に入って行ってしまう。
「ふたば、クットネーゴ ロー ミーミーヤ」
遠ざかっていく後姿を指差し、メダルトが話す。
(次は私が行けって?)
「狭いよ」
「クットネーゴ、ふたば」
(行けるかな)
行きたくないわけではなくて、この狭い穴の中を抜けられるかどうかが不安だった。ふたばは大きく息を吐き出して覚悟を決めると、ステッキを手の中に呼び出して光らせ、穴の中へと入りこんでいく。
(超狭い)
案の定、キツイ。
(ちょっとくらいは痩せたと思ってるんだけど)
むちむちとした自分の体が憎い。これ程憎いと思ったことがない。
(くっそう)
そして後ろにメダルトが続いてくるかと思うと、更に気分が落ち着かなかった。どこかに細くなっている場所があって挟まったりしたら。二人に引っ張られたり押されたりするような羽目になったらと思うと、たまらない。
狭い穴を必死で進みながら、恥ずかしいやら悔しいやら。すっかり雑念に支配されていると気が付いて、ふたばは焦った。
(馬鹿、私の馬鹿)
これから先、厳しい戦いが待っている。
幼い子供たちが不安に震え、飢えに苦しんでいる。
それを救わなくてはいけないというのに。
(忘れてどうする)
頭の中に置いておかねばならない気持ちはたった一つ、戦意だけだ。
自分の蒔いた種が芽吹いて花を咲かせたその結果、蹂躙されているメーロワデイルを救わなくてはならない。
人々が安心して夜眠れるように、家族が共に暮らせるのが当たり前の世の中にしなければ、この世界にやってきた意味がない。
ふりふりのスカートが石壁に当たってこすれる音がする。ひらひらの縁につけられたリボンが一つ、欠けている。
(リムラ)
小さな女の子に無茶をさせてきた。騎士たちのいる安全なところで、ちゃんと休めているといいけれど。
(ジャンド)
妹のために、そして憧れの騎士の前で気を張っていたしっかり者の兄は大丈夫か。
(ロクェス)
かつての友人と再会し、連れてきた救世主が旅立って、金の騎士はどうしているだろう。
(ヒューンル)
自分が戻らなければあの陽気な精霊の命は終わりだ。そうなれば、更に悲劇が起こる。千華の力が失われて魔物達が暴走し――
(そうなれば、千華も、死ぬんだ)
ようやくそんなことに気が付いて、ふたばは大きく震えた。
(千華)
千華に対して、かつての愛情があるのか。考えてみたが、ふたばにはわからなかった。
彼女はふたばを憎んでいる。
では、わたしは千華を憎んでいるのか?
(ヘンなの)
家の中に引きこもり続けてきた三年の間、この世のすべてが憎かった。
平和に暮らしている人々。心配してくる家族。楽しげに学校へ通う同級生たち。テレビの中で能天気にはしゃぐアイドルたち。訳知り顔でニュースに苦言を呈するコメンテーターたちも。
みんなみんな、なにひとつ理解していない。理解できない。ふたばがなぜこんなに苦しんでいるのか「わからない」。
(でも)
千華を憎んではいない。彼女に対する気持ちは、違う。
(じゃあ、なんだろう)
あの日、教室で繰り広げられた悲劇の第二幕。
らくがきだらけになって傷がつけられていた机。泥まみれになった教科書。花瓶の中身がぶちまけられて、美しい顔に浴びせられた水。
その中で笑顔を浮かべていた千華。
「あんたってホント、幸せだよね」
蘇る記憶に、ふたばは思わず目を閉じた。手と足だけは動かしてじりじりと狭い穴を進みながら、あの時の、視線の鋭さに、震える。
(ねえ、千華)
あそこで理解すれば良かった。
自分が見ていたのは、自分で作り上げた幻であって、本当の「千華」ではなかったのだと。それをせめてあの瞬間に理解できていれば、あそこまで大きな諍いにはならなかったのに。
(ホントに私は、馬鹿だったんだ)
出海さんって本当に感じ悪いよね。いつも気取っててさ、ふたばちゃんのこといじめたんでしょ? あんな女にこれ以上構わなくていいよ。今だってほら、……ホント、最悪だよね。あの表情! 何様のつもりなの? ちょっと美人で頭がいいからって、私たちを馬鹿にしてるんだよ! いつだって上から目線でさ!
女子生徒たちの輪唱が続く。そうだそうだと同意をする数人の塊、そうではない者たちは離れた場所で、冷めた目で成り行きを見守っている。
「やめて、千華はすごく優しくって、強くって、本当に頭が良くって……、それで、ちょっと恥ずかしがり屋なだけなんだよ。あんまり表に出さないだけで、友達のために一生懸命になってくれる人なんだよ! みんな誤解してるよ。千華は、なんにも悪いことなんかしてないの……」
教室の冷たい床に落ちた教科書を拾っていく。濡れて汚れてもう使い物にならなくなっているそれを何冊も拾い上げると、ふたばはぎゅうっと抱きしめ、千華のもとへ駆け寄った。
「私の見せてあげるから、今日は、ね、大丈夫だよ。みんな勘違いしてるだけだから。あの、先週さ、私がちょっと、泣いてたから。それで心配して、考えすぎて、こんな風になっちゃったのかなあ……、あはは……」
声は教室の静寂の中に吸い込まれていく。
一気に静まり返って、耳に痛いほどだった。
「どうしたらわかってもらえるかな、ふたば」
凍りついた時間を砕いたのは、落ち着き払った千華の声。
「もうやめてほしいって、どうしたらわかってもらえるのかな、あんたに」
「なにが? 意味がわかんない」
「だから」
歯を食いしばって、狭い狭い抜け穴を進んでいく。何度も思い出してきたあの時の言葉。ベッドの上で、布団を何枚もかぶって、うずくまった姿勢で、思い出したくないのに思い出してきた、あのセリフ。
――私が、あんたを、大嫌いだってこと。
言葉をそのまま受け止めれば良かったのに。信じられなくて、認められなくて、冗談かなにかだと本気で思い込んで、半笑いで聞き返してしまった愚かな自分。
いつまで経っても理解をしないふたばの頬を、千華は思いっきり打った。ふたばが軽く吹っ飛んで、誰かの机をひっくり返してしまう程度に強く。
悲鳴が上がり、倒れたふたばに何人もの女生徒が駆け寄ってくる。支えられてよろよろと立ち上がるふたばの前にまた千華が立って、今度は反対の頬を打つ。
そして。
「あんたのことが大嫌い! ずっとずっと大嫌い! いつもいつもまとわりついてきて、邪魔をして、干渉してきて! ずっと我慢してきた! でももう限界! あんたの友達なんてもう嫌! 勝手に人をこうだって決めつけて、勝手に私を作り上げて満足して、支配しようとするのはもう」
やめてよ!
魂の底からの絶叫が、学校の廊下中を響き渡っていった。
クラスメイトたちがふたばを支え、先生を呼びに走り、千華の口を塞いでいく。
「ふたば、ふたば! リリッチェー ダッケールォ!?」
メダルトの呼びかけにはっと意識を取り戻し、ふたばは再び手足を動かし始めた。
あの時の言葉はいつも心を凍らせ、動けなくさせる。
(あの後……)
覚えていない。余りにも強烈な憎しみをぶつけられて、溜め込んできた怒りをぶつけられて、真っ白になっていた。気が付いた時には保健室のベッドの上にいて、母親が心配そうな顔で覗き込んできていた。
「ふたば、大丈夫? 千華ちゃんと喧嘩したんだって?」
(喧嘩なんて、生やさしいものじゃない)
自分という存在のすべてが否定されたような、そんな感覚だった。
世界で一番大切な友達だったから。
千華は、ふたばにとって、すべてだったから。
(そっか)
憎いのは千華ではなく、その向こうにいる、愚かな自分自身だ。
人生で一番不幸な記憶を思い出したのは、今進んでいる暗い道の息苦しさのせいだろうか。
(よく、似てる)
あの後ふたばが落ちた絶望と、今進んでいる狭くて出口の見えない道は、よく似ていた。うすら寒くて、ほの暗くて、先が見えなくて。
(でも、今は、進んでいる)
手も足も、動かせている。
だから、大丈夫。
自分にそう言い聞かせながら、ふたばは薄暗い道の先にある岩を掴んで、また進んだ。




