まっしょーめん
差し出された食事を受け取ったものの、ふたばはそれをただ握りしめるだけで動けない。
水を少しだけ口に含んで、ぐったりとうなだれている。
必死で駆け抜けて、たどり着いた場所。
森の奥にあった誰もいない小屋の中に、四人はいた。
子供たちは眠っている。兄のジャンドは十歳、妹のリムラは六歳なのだとロクェスが話したが、その声はふたばの耳を素通りしていく。
久しぶりにまともな屋内に身を落ち着けた。ドアは壊れ、窓からは風が吹き込んでいるけれど、粗末ながらもベッドがあり、子供たちはそこで並んで横になっている。
その上に埃っぽい毛布をかけて、ロクェスはふたばの隣に座った。
「ふたば」
緊張が走り、体がびくりと動いた。
なにを言われるのか、怖い。なにを聞かれても、答えられる自信が、ふたばにはない。
「……ありがとうございました」
しかし騎士から出てきたのは意外にも、こんな言葉だった。
「なにが?」
「ジャンドとリムラを助けて下さった」
ふたばには返す言葉がない。何故ロクェスが礼を言うのか、まったく理解できなかった。
(その前に)
光り輝く騎士に恋焦がれていた、勇敢な少女について。
彼女がいない理由を聞くべきだし、どのような最期を迎えたのか知りたがるべきだし、彼女を置いてきてしまったと悔やむべき時間だろう。
胸の底から悲しみが湧き出してきて、ふたばの心を苦い水で満たしていく。
「……ニティカ」
ごめん、と呟いたら、また涙があふれてきて、ふたばは震えた。
「ふたば、仕方ありません」
「なにが仕方ないの!? あんなところに、あんな姿のまま、置いて来るなんて!」
わかっている。あの場からすぐに離れなければいけなかった。できる限り生き延びられる道をと、リムラを探しに行く前に決めたはずだ。
「ははは」
要するに、自分の「覚悟」はとても半端だった。そう思い知らされて、心が乾ききってぴしぴしと音を立て始めて、その空虚な感覚にふたばは笑った。悲しくて悲しくて、悲しみ切れないし、自分のマヌケさや世界の無慈悲さに対する怒りも酷過ぎて空回りを始めている。
「ひどいよ、なんなのこれ。どうなってんの?」
世界には、なにもしなくたって生きていける場所がある。そんなところでぬくぬくと、ひたすら時間と金の無駄遣いをし続けていた自分に対する憤りで、今度は吐き気まで感じてしまう。
「ニティカ、ごめんね。ニティカ……」
もしかしたら、生きていたかもしれないのに。とうとうその可能性に気が付いて、ふたばは床に突っ伏し、また泣き始めた。
置いてきてしまった。
確認すらしなかった。
もしかしたら、今この瞬間も苦しんでいるかもしれない。
「大丈夫、それはないよー」
床に額を擦り付けるふたばの後頭部を、ヒューンルが叩く。
「もう死んでいたからさ。だから、不幸中の幸いってヤツだよ、ふたば」
自分の頭を撫でていた精霊をむんずと掴み、ふたばは思いっきり床に叩きつけた。
「なにが幸いなの! 信じられない、あんた、不謹慎にも程度ってもんがあるでしょうよっ!」
あいたたあ、と呑気な声をあげながら、ヒューンルは起き上がって腰をさすった。
「痛いよ、ふたば」
唇がわなわなと震えて、言葉が出ない。なにを言ったらいいのかわからないし、なにを言っても後の祭りだとわかっているし、ヒューンルの言葉が真実であると心の隅では理解していた。少なくとも、あの暗い場所で一人、命が消える苦しみの時間を味わっていたのではないのなら、それは幸いだっただろう。
でも、だからって、だからって、だからって。
「ふたば、ふたば、落ち着いて下さい。ニティカを一人で行かせたのは私、つまり彼女の死は私の責任です。あなたはあなたの戦いをした。リムラを探しに行って、ジャンドを救ってくれました。あなたは悪くないのです。あの後リムラがひょっこりと現れて、ジャンドは安心したのか私にしがみついて泣き始めてしまった。だから、ニティカがあなたを探しに行ったのです。彼女が行くと言い、私は頼むと答えてしまった。私の油断が招いた不幸なのです。私は死んだ後、この失敗について神から罰を与えられるでしょう」
ロクェスは床に膝をつき、ふたばの手を取ってこう続ける。
「祈って下さい。……ニティカの魂のために。メーロワデイルの者は命を全うした後、王の膝へと召されます。高潔な魂は選ばれ、勇敢な戦士としてまた生まれてくるのです」
汚れにまみれた黒い指が、ふたばの手を強く握る。同意を得ないまま、ロクェスは静かに言葉を紡ぎ始めた。
「大地の門に、ニティカという娘が参ります。地の底を抜け天の入口に立ち、ロイアエイを待っています。槍を持ち、勇敢に戦ったニティカの魂を特別に覚え、次の命でフーペニッタをお与えください」
途中に挟まれた謎の固有名詞に顔をしかめつつ、ふたばは、最後には黙って目を閉じて、ロクェスの祈りに耳を傾けた。
(生まれ変わったって……)
こんなにも希望の無い世界で再び生を得て、意味があるのだろうか?
「すべての命は地へ還り、清らかな魂は王の兵に。平安を乱す邪悪を討つあなたの忠実な僕として、再びこの世界へ遣わして下さいますように」
ロクェスの手が右へ、左へ動く。なんの動作なのかふたばにはわからなかったが、それで祈りは終わったらしい。小さく息を吐くと、騎士は閉じていた目を開けて、ほんの少しだけ微笑んでみせた。
少し休みましょうと言って、ロクェスは部屋の隅にあった椅子に腰かけて目を閉じている。
子供たちと横になってはどうかとうながされたもののそんな気にはなれず、ふたばは枠だけになった窓のそばに佇んでいた。
少しでも心を動かそうとすれば、たちまち後悔と罪悪感ばかりが湧き出してきた。蒼黒いものが心を満たして凍らせていくようで、ただただ虚しくて、なにも考えられない。
そんな自分が情けなくて、ますます涙が溢れた。
けれど、大声で泣いたりは出来ない。近くに魔物が居れば戦いになる。並んで眠っている小さな子供たちに何かが起きてしまったら、今度こそ立ち直れないだろう。
(お父さん)
平凡な家族だった。ごく普通で、特筆すべき点のない父と母、そして弟。その中でも最も接点が少なく、興味のない相手である父の姿をふたばは思い出していた。
どんな人かと聞かれたら、優しいお父さんだよと答えると思う。父はいつでも優しかった。感情的に怒鳴ったり、子供に手を挙げるような事件は一度もなかった。毎日会社に出かけ、夜になったら帰ってくる。それだけの存在だと思っていた。けれど今、ふたばは何故か父を思い出している。
(なにも言わなかった)
三年の間、一度も会わなかった。母や弟は時折ふたばの部屋を訪れていたが、父は来なかった。どうして来ないのか。薄情ではないかと思っていた。
(でも、責められもしなかった)
諦められていたのか。
それとも、信じて待ってくれていたからなのか。
窓枠の外から冷たい風が吹いてくる。
枠の向こうに見えているのは暗闇と、その中にぼうっと浮かぶ木々の影だけ。
空には月のようなものが浮かんで、静かに世界を照らしている。
大きな月と小さな月。親子のような二つの円。
だから、父を思い出したのだろうか。ふたばはぼうっと空に目を向けたまま、想いを馳せていく。
(厳しすぎるよ)
外の世界に再び出ようとは思っていた。
しかし心の準備が出来ていないまま、しかも、突然始まって。
社会復帰のちょうどいいリハビリになるかも、と思っていた、異世界への旅。ファンタジックで少し強引だなんて、夢のある設定じゃないかとどこかで思っていた自分が恥ずかしい。
(無理すぎる)
このままでは潰れてしまう。心も体も、なにかも。
そう考えた瞬間、魂の中心がぐわんと震えた。
つま先から頭のてっぺんにかけて、体にビリビリと電流のようなものが走り抜けて行く。
(だからこそ)
本気にならなくてはいけない。
(考えたふりはもう、終わりだ)
本当の本当に、真剣にならなくてはならない。こうしなくては、こうあらねばならない、メーロワデイルに来てから考えてきた「自分の目指すべき姿」。それを「考えているつもり」でいるのはこれで本当に終わりにしなくてはならない。
それが到底許される時ではないと、心の底から思い知った。
――生きるか死ぬか。クールな響きの、テレビゲームだのアニメだので散々見てきた言葉。容赦ない二択を今、現実世界で突き付けられている。傍観者としてではなく、自分自身の人生の上に。目の前でやり取りされる命の応酬は、とっくにバーチャルなものではなくなっているというのに。
真正面から向かいあっている風を装いながら、焦点をぼかし、目を逸らしていた。
そんな小賢しい自分では、きっと、すぐに命を落とす。
(よくもまあ、こんなにもフワフワしていられた)
自分の中にあった鈍くさい、甘い部分はすべて吹き飛んだ。
後は、真剣にやるだけだ。生きるために、命を失わせないために、家に帰るために。そしてなによりも、こんな非情な世界を作り上げた極悪人に天誅を下すために。
ふたばはそっと視線を降ろして、自分の体の真ん中部分、腹の辺りを見つめた。
(この、ぶよぶよ)
自分の中に溜まっている、「甘え」という名の毒。三年の間、人に頼り切って、だらだらと傷ついた自分に酔い続けた、情けない十七歳の少女を象徴する贅肉をスパーンと叩き、振り返る。
「ヒューンル!」
「うわぅ、あまっ、チョッコレート!」
「なに寝ぼけてんの」
子供達が寝ているベッドの隅にちょこりんと横たわっていた精霊が、目をこすりこすりふたばの下へ飛んでくる。
「夢だったあー。んもおー、ふたばのとこからチョコ持ってくればよかったあー」
「ホントに呑気だね、あんたって」
呆れてため息をつきながら、ふたばは腕で涙を拭いて。
「ちょっと確認させて。どんな力があって、どういう効果がどこまで有効なのか」
「どういうはなしー?」
「ニティカが来た時、なにを言ってるのかわからなかった。あれがメーロワデイルの言葉なんでしょ。あっちも私が言ったこと、わかってなかったし」
「え、ほんとう? それは予想外!」
ひょえーっと反り返る精霊のオーバーリアクションに、ふたばは冷たい視線を向ける。
「予想外って?」
「いや、範囲内だと思ってたからさあ。うーん、でも当然か! 僕の力、前より弱ってるんだね」
小さな手で親指をビシっと立ててキメるヒューンルに、ふたばは心の底から呆れた。
「なにをカッコつけてんの」
「いやいや、僕もほら、長い長い昏睡から目覚めてまだちょっとしか経ってないって言ったでしょ? 本調子じゃないなあとは思ってたよ。やっぱりそうだったのかって気が付いたんだ。たった今! ふたばのお蔭で!」
「それはよかったね」
「棒読みだあ!」
ケラケラと笑い、やっほーと両手をあげて、精霊はふたばに告げる。
「尻尾も切られ、毛もむしられ、挙句に片目ほじくり返されちゃったんだから! 僕も弱体化してるんだね。わあ困った! ちょうどいいから、ひとつひとつ確認しよう。ふたば、ナイス提案だよお!」
このテンションに慣れる日が来るだろうか。
そんな不安を感じるふたばの隣にロクェスがやってきて、二人と一匹は改めて「精霊の力」の確認作業を始めた。




