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第八話

 ――声が聞こえる……子供達の声……また真っ暗だ……

 ――動けない……ああ……嫌だ……聞きたくない……

 ――皆を……誰か……○○○……


 「――ソウタッ!」


 ウシオの叫びで意識が現実へと引き戻される――気付けばソウタは激しく呼吸を乱し胸を抑えながら膝を付いて崩れ落ちていた。傍に寄り添いソウタを呼び続けているウシオの声すら遥か遠くのように感じる。周囲の状況は何一つ変わっていない。時間にして僅か数秒の白昼夢……しかし今度は夢では終わらない、今目の前の現実が、オレンジ色の光に包まれもうもうと黒煙を立ち上らせていた。

 ソウタは駆け出した。ウシオの手も声も置き去りにして一目散に走り出した。あらん限りの力を振り絞ってソウタは全力で走った。しかし体は思う通りには動かず……森の中を高速で駆け抜けた時のような速度は愚か、ごく一般的な速度すら微塵も出せていなかった。路地に点々と佇み煙を見上げる住民達の間をすり抜けながら、時にぶつかりながら、ソウタは脇目も振らずに教会を目指して走り続けた。方角が同じだけ、きっと燃えているのは別の建物で、子供達はきっと避難してる、そんな不確かな希望に縋りながら教会へと続く路地へと入る。ソウタは足を止めず、轟々と燃え盛るその建物を見つめ奥歯を噛み締めながら自問する……『なんでだ』……と。

 燃えていたそれは紛れもなく、教会だった。ここ半月もの間毎日のように通い詰めていた教会、シスターや子供達と戯れた、ほんの数時間前まで一緒に笑い合っていたその場所が……扉は焼け落ちて倒れ、割れた窓から真っ赤な炎を吐いて、ボロボロだが親しみのある佇まいはもはや見る影もなかった。


 直ぐ側にいるだけでもジリジリと焼き付けてくる程の熱を意にも介さず、ソウタは躊躇いなく燃え盛る炎の中へと飛び込んだ。周囲に集まった野次馬がどよめくもその声はソウタの耳には届かない。

 「テッリ! フラ! アデル、フィア! ジェント! ……どこだッ!?」

 子供達の名前を大声で叫ぶも返事はなく、ただ喧しく煌々と火が揺らめくばかりである。礼拝堂であった場所には天井だった板が屋根と共に崩れ落ち、整然と並んでいた長椅子を尽く巻き込み焼き尽くしていた。ソウタは礼拝堂右奥のまだかろうじて形を留めている扉に駆け寄り人形を使って手前に引き倒した。襲い来る炎を払いその奥に広がる食堂へと踏み込んだ瞬間、再びソウタの意識は刹那に硬直する。ソウタの目に飛び込んできたのは、大きなテーブルの周りを取り囲むように横たわる……五人の子供達の姿だった。


 ――目に映る全てがぐにゃりと歪んで見えた。何もかもが時を止めてしまったかのように思考が働かない。自分の身体の輪郭すらも、溶けて消えてしまったかのような気がした。


 「ソウタッ!?」


 そんな刹那の硬直を解いたのはウシオの声だった。いつからそこに居たのか、ウシオが背後からソウタの肩をガシッと痛いほどに力強く掴んでいる。

 「ソウタ、しっかり見て! まだ助けられますかッ!?」

 気が動転し冷静さを欠いていたソウタをウシオは厳しくも穏やかにたしなめた、もう出来る事はないのか、諦めるのか、と。

 ソウタは短く息を吐き乱れた意識を研ぎ澄ませていく、諦める気など当然あるはずがない。

 「ごめん、ありがとうウシオ」

 短く感謝を述べるとソウタは両の手で人形を作り出し子供達を火と熱、瓦礫から守るように大きく包み込んだ。

 「酸欠の心配もあります、長居はできませんよソウタ」

 「わかってる」

 ソウタは改めて子供達のオーラを確認する。子供達のオーラはは皆酷く微弱ではあるものの幸いまだ息絶えてはいなかった。すぐさま子供達を一箇所に集め全身に水をかけるようにウシオへ指示を出し、ソウタはすぐ近くに倒れていたフラとジェントに駆け寄り乱れたオーラを整えてゆく。ソウタの手が触れた瞬間ピクリとジェントが反応を示し閉じていた瞳がゆっくりと僅かに開いた。ソウタは顔を寄せ朦朧とするジェントを励まそうと声をかける。

 「ジェント! 大丈夫、誰も死なせない、必ず助けるからッ」

 ジェントはソウタを見て僅かに口を動かしていたが声は出せないようだった。するとゆっくりと首を動かし視線で何かを訴えようとしていた、同時に指を一本動かし視線の方向を示そうとしている。ジェントの示すその方向には建物の裏手に通じる勝手口の扉があった。何を伝えようとしているのか、ソウタが顔を寄せジェントの胸に手を置くとどこからともなく――気怠げな女性の声が聞こえてきた。

 「――……毒」

 声の主はジェントの胸に置かれたソウタの袖の中からスルリ――と細く白い体を滑らせ這い出ると、ジェントの口元から溢れた唾液をつぶらな赤い瞳でじいっと見つめながら先端の枝分かれした長い舌をチロチロと揺らしていた……白い蛇である。

 「――……神経系麻痺毒……経口摂取」

 「『ミト』……」


 ――ミト(巳解)。ウシオやウイ同様異能を獲得した白い蛇を依代とした式である。毒の研究をしていた施設で実験用動物として飼われていた際、投与された毒により死にかけていた所にフラッシュフォールの光を浴び異能を得て生き延びた。その後アークエイドに回収された際に出会い式となる。身体能力は並であるが変温動物であったからか元来の性分なのか、非常に面倒くさがり屋で出不精であり必要がなければ自ら積極的に動く事は滅多にない。ただ気まぐれでもあり時折こうして呼ばれなくても出てくる事がままある。

 その異能は『解毒』。元々毒を持っており、異能を得て身体機能が向上した事、そして式となって高い知能を得た事で自身のみならず他者の毒までをも解く事ができるようになった。様々な毒を作り与えるのみならず解毒もこなす毒のスペシャリストである。


 ミトと呼ばれた白蛇の言葉を受けソウタは食堂の中央に鎮座する大きなテーブルの上へと目を向けた。最初食堂へ飛び込んだ時は子供達に気を取られ目に入らなかったが、そこにはお皿に盛られた具沢山のスープのような料理が置かれていた。それは夕方モニカを迎えに来た侯爵の馬車が持ってきた……子供達の夕食のはずであった。

 「まさか……」

 ソウタが袖から伸びるミトをそのお皿に近づけると、ミトは料理に顔を近づけ再び舌をチロチロと揺らして残酷な事実を告げる。

 「――……これに相違ない」

 「…………ッ」

 言葉が出ない、急激に頭に血が上り爆発しそうになるのをソウタは必死に堪える……今やるべきはそれではないと己に言い聞かせ冷静さを保つ。

 「……ミト、子供達の毒を今すぐ解いて欲しい……毒が残っていると気を整えても意味がない」

 「――……承知した」

 ミトは毒の入っているであろうスープを一口、ペロリと舐めるとその体が仄かに光りだした。解毒には一度毒を取り込み成分を解析して中和物質を作らなければならない、その間にも周囲からはガラガラと焼け落ちた瓦礫の音が鳴り響いている。悠長にはしていられないが蛇が子供達に噛み付く所を衆目に晒すわけにもいかない為この場で処置を続ける。

 ミトが子供達の解毒をしてくれている間ソウタは片目を抑えモニカの方を確認していた。依然眠ったままのモニカであったがそのベッドの傍らにはいつの間にやら戻ってきた侯爵が立っており、お酒の注がれたグラスを片手に窓辺から燃え盛る教会の方をニヤニヤと薄汚い笑みを浮かべて眺めていた。

 血が滲むほど拳を強く握りしめ腹わたを煮え滾らせるソウタはふと、視界の端の床に落ちた火に目を留めた。焼け落ちた木片が燃えているのではない、燃えていたのは何らかの液体である。更にその燃える液体は点々と、勝手口の方へと続いているように見えた。ソウタは先程ジェントが勝手口を示していた事を踏まえ、あらかじめ王都のいたる所に配置していた鳥人形の視点を探った。勝手口の向こう、教会の裏手には無数の濡れた大人の足跡があった。その足跡を辿るとスラム街の通用口から地下水路へ入っていく三人組の男達を見つけ、すぐさまその後を一羽の鳥人形に追跡させる。

 ジェントが勝手口を指し示し必死に伝えようとしていたのは、侵入者による放火の事だとソウタは受け取った。確かに基礎が木造だとはいえこの火の回りはあまりにも早すぎる、火元が食堂としても礼拝堂への扉は閉まったまま健在だった、表の入り口まで火が回るにはもっと時間がかかるはずである。

 侯爵が子供達に毒を盛ったのは間違いない。そして毒に留まらずこの火事もまた、侯爵が関わっている可能性がある……これまで感じた事のない感情が心の奥底から湧き上がり、その小さな体を満たしていくのをソウタは感じていた。

 「――……良いぞ、ソウタ」

 ミトが解毒治療の完了を告げると同時にソウタは子供達五人全員のか細く弱ったオーラの流れを丁寧に整えてゆく。ウシオのミルクも飲ませてあげたいがまだ意識も戻っておらず火事の真っ只中にいる今は最低限の治療に留め脱出を優先する。

 オーラを整え終わるとソウタは子供達を優しく人形で包み、ウシオと共に教会正面の入口から蹴りの風圧と煙に紛れて表の路地へと勢いよく飛び出した。煙で姿が隠されている内に人形をしまい教会から少し離れた場所に子供達を寝かせる。集まった野次馬達は誰からともなくバケツを持って水を汲み消火作業に取り掛かっていた、大声での掛け合いが飛び交っている。ソウタ達が燃え盛る教会へ飛び込んでからものの一分余りしか経っていなかった。

 子供達を見事救い出したソウタ達に周囲から大きな歓声が沸き起こる中、人混みをかき分けてアルが駆け寄ってきた。

 「坊や、ウシオちゃん! 皆無事かいッ!?」

 アルは子供達の無事を確認するとホッと胸を撫で下ろし安堵していた。そんなアルへ、ソウタは俯いたまま視線を向ける事もなく絞り出すような声で子供達を託す。

 「アルさん、すいません……少しの間子供達を頼みます……」

 そう言うとソウタはアルの返事も聞かず、再び人混みの中をすり抜け駆け出した……向かう先はスラム街、地下水路への通用口である。


 王都には広大な地下水路が整備されている。下水と聞くと不衛生なイメージを持つと思うがこの王都の地下水路は精霊文字の効果もありそこまで劣悪な環境にはなっていない。兵士やボランティア、サポーターにより定期的に掃除も行われており清潔とまでは言えないが十分綺麗に保たれていると思われる。もしこの地下水路に何か問題点があるとすればそれは一つ、広すぎる事だろう。迷路のように複雑に入り組んだ地下水路は明かりも乏しく一度迷うと出られないと言われるほどである。地上の街の発展に合わせてその都度増築を繰り返してきた結果迷路のようになってしまったらしく、簡単な地図はあるが全体を網羅した完全な地図は未だに存在しない。


 放火犯と思われる男達を追うソウタとウシオは王都の繁華街からやや南に位置する南東部、田畑の広がる南部と住宅地の境界線付近に広がるスラム街に来ていた。スラム街は繁華街と比べ数メートル低い位置にあり、その段差の一角に地下水路への通用口が設けられている。通用口には普段鍵がかかっていて、不用意に立ち入って迷う住人を出さないようにしている。その鍵をソウタは人形を使っていとも簡単にこじ開けると一切の躊躇いなく内部へと踏み入っていった。

 通用口から長い階段を下り地下水路へ辿り着くともうそこに光はなく、水のせせらぎと微かな悪臭、そしてどこまでも果てしなく暗闇が広がるのみであった。

 ソウタはオーラを捉える目で微かな地形の輪郭を把握し男達の後を追わせた人形の位置を探る。男達が北に進んでいる事はわかった、しかし複雑に入り組んだ迷路のようなこの地下水路をどう攻略したものか……しばし考え込んでいたソウタはゆっくりとその口を開いた。

 「『ネネ』、頼む」

 「はいはーい☆」

 ソウタが新たな名を呼ぶとそれは軽快な返事と共にひょこっとソウタの首元から現れ小さな肩に乗った。茶褐色の毛並みに白いお腹。ソウタの握り拳よりも小さな体に丸みを帯びた耳と短い手足。そして体長と同じくらいのスラリと伸びた細長い尻尾につぶらな瞳……ネズミである。


 ――ネネ(子々)。ウシオ達同様異能を得たネズミを依代とした式である。とある山奥で異能によるトラブルを起こしていた所アークエイドが対処の為に駆けつけた際に出会い回収された後に式となった。兎にも角にも明るく元気で喧しく、おおよそじっとしている事ができないお転婆である。しかしそのすばしっこさと隠密性から諜報や偵察として頼られる事も多く、能力も相まって情報収集はお手の物である。

 その異能は『増殖』。自身の分身を作り出せる能力である。とある山奥でのトラブルというのもこの増殖の異能によって増えたネズミが山を覆い尽くしているというものであった。増殖できる数に制限があるのか定かではないほどに増える事ができ、また式となって知能を得た事により分身にも個別の意識が生じるようになった。本体と分身は任意で意識の共有が可能であり、お互いの見聞きした事を遠く離れていても伝え合う事が出来る。ソウタの人形の感覚共有に近いが集中もいらず距離の制限などもない、純粋な上位互換である。……ただし騒々しい事この上ない。


 「ネネ、今この地下水路にいる三人組の男達の所までのルートを探って」

 「おー安い御用だー☆ レッツゴー☆」

 ソウタの指示を聞くと肩に乗っていたネズミは元気よく喧しく返事と共に軽やかに肩から飛び降り、着地と同時に視界を埋め尽くすほどの大群となって暗闇に満ちた地下水路の奥へと広がっていった。圧倒的物量によるごり押し攻略である。

 ネネが男達に辿り着くのを待つ傍ら、ウシオはソウタの背中を見つめながらその心中を察し胸を痛めていた。

 「(ソウタ……)」

 なんて声をかけたらいいのかわからない……今止めるべきなのか……と、ウシオも答えを見出だせずに迷っていた。

 間違えないように見ていて――ほんの数日前そう語ったソウタの笑顔と声が、いつまでもウシオの胸に響いていた――。



 「はぁ……」

 一番後ろを歩いていた男が大きくため息を吐く。先程から何度も何度も、十歩歩く度に繰り返しため息を吐いていた。

 「……さっきっから何度も何度もはぁはぁはぁはぁ……いい加減鬱陶しいぞッ! なんだってんだッ!?」

 真ん中を歩く男が足を止め後ろを振り返り苦言を呈す。

 「まぁそうがなるな、今日のは俺も堪えた。ため息も吐きたくなるさ」

 一番前を歩く男も足を止めて振り返り真ん中の男をなだめる。

 「ふん、まったく……酷い仕事は今に始まった事じゃないだろう。いい加減慣れろってんだ」

 真ん中の男が治まりきらない不満を吐き捨てる、気が立っているようである。

 「……わかってるけど、何もあんな……せめてどこかに売り飛ばすとか……はぁ」

 後ろの男が再びため息混じりに煮え切らない思いを吐露する。

 「帝国への橋が落ちたからな、しばらくはこんなのが続くんだろう……仕方ない」

 前の男は首を振りながら諦めの境地を語った。

 「橋か……全く迷惑な話だぜ、どこの馬鹿だか知らねえがそいつの頭も吹っ飛ばしてやりゃいいんだ、どかーんとよ」

 真ん中の男はランタンを持つ手とは反対の空いた手でグーからパーへ、爆発を表現してみせた。

 「なにはともあれ、今日の仕事は終わった。こういう気分の悪い日は酒を飲んでさっさと忘れるとしよう」

 前の男が話を締めくくり再び歩き始める、真ん中の男もそれに続いて歩き出した。

 「あーあ……例のシスター、俺達んとこまで回ってこないかねえ? いい年頃の初物って話じゃねえの」

 真ん中の男が品のない話を始めると前の男もそれに便乗し始めた。

 「お前生娘が趣味だったのか? 俺は流れのサポーターとかいうあの女がいいな、ちらっと見ただけだが……あれ程のものは中々お目にかかれない」

 「流れの……? あーはっは、あのくっそでけえ女か……確かにありゃ男なら一度は埋もれてみてえだろうよ」

 品のない話を続ける前の男と真ん中の男を眺めながら後ろの男は再び大きくため息を吐いた。置いて行かれないよう歩き出そうとしたその時、ふと背後から物音が聞こえたような気がした後ろの男はランタンを掲げ勢いよく振り返った。しばらく目を凝らし耳を澄ませて暗闇の奥を探る……しかし聞こえてくるのはチョロチョロと流れる水の音だけである。後ろの男の異変に気づいた前の男が声をかける。

 「おい、どうした? 何かいるのか?」

 声をかけながら前の男と真ん中の男は静かに空いた手を武器に添える。しばし沈黙が場を満たすが何事もなく、後ろの男は申し訳無さそうに謝罪を口にした。

 「……いや、ごめん……気の所為みたいだ」

 後ろの男は小走りに前の二人に追いつくと再び三人揃って歩き出した。ダラダラと品のない話を続けながら真っ暗な地下水路を歩く三人の男達……その三人の背中を暗闇の中からじぃっ……と、白い和装の少年が見つめていた。



 そこはとても静かだった。全身を柔らかく包み込み肌にそっと触れる感触はとても滑らかで心地よくいつまでも微睡んでいたくなるが、微かに鼻孔をくすぐる嫌な匂いに否応にも意識が叩き起こされる。薄っすらと重いまぶたを開くと、薄暗い見た事もない景色がぼんやりと瞳に映った。朦朧とする意識を何とか引きずり起こし頭を動かすと、足元の方から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 「お目覚めですかな、モニカさん? ふふふ、我ながら実にいい頃合いだ」

 何とか視線を足元に向けると、霞む視界に微かな灯りに照らされたアヴァール侯爵のニヤニヤと憎たらしい顔が見えた。そうしてようやく自分の置かれた状況を思い出し、ここが侯爵の寝室である事を理解する。モニカは身体を起こそうと試みるも思うように力が入らず何とか寝返りをうつので精一杯であった。ガクガクと震える腕で必死に体を支え上体を起こそうとするがうまくいかない。

 「無駄ですよ、まだ力が入らないでしょう」

 侯爵はお酒の入ったグラスを片手にニヤニヤと笑いながらもがくモニカを眺めていた。モニカは乱れた髪の隙間から侯爵を鋭く睨みつけながらこの状況を問いただす。

 「侯爵、様っ……これは……どういう、事ですか……っ」

 問われた侯爵は悠々とグラスを傾け酒を一口飲むと、何の事はない、と悪びれもせず開き直った様子で答えた。

 「どうせ断るおつもりだったでしょう? 私は欲しいものは何をしてでも手に入れる主義でね、それだけの事ですよ。そんな事より……」

 おもむろに侯爵は手に持っていたグラスをその辺に置くと、モニカにも外が見えるように窓のカーテンを引きこう告げた。

 「一緒に夜の街でも眺めましょう、今夜は格別に……『良い景色』ですよ?」

 ニヤニヤといやらしい笑顔を浮かべる侯爵に怪訝な視線を向けながらも促されるまま、モニカは窓の外へと目を向けた。

 街の異変にはすぐに気がついた。月明かりに照らされた夜空に黒煙の柱がそそり立ち、下からゆらゆらとオレンジ色の光に染め上げられている。未だ力の入らない震える腕の力だけで何とか窓に身を寄せると張り付くように黒煙の根本を探る。街の情景と記憶を照らし合わせ道を辿っていったモニカの表情は次第に……驚愕と絶望に塗れていった。

 「ぁ……あ、あぁ……なん、で……止めて……だめ……っ」

 力の入らない手で必死に窓にすがりつきながら、モニカの瞳からはぼろぼろと大粒の涙が溢れては落ちていった。決して手の届かない場所にいる自分の事すらも呪いながらモニカの体を慟哭が満たしていく。しかしすぐさま涙を振り払い、モニカはすぐそこにいる侯爵へと助けを求めた。

 「侯爵様っ、お願いします! 私の事は好きにして構いませんっ……だからどうかっ……子供達を……ッ!?」

 「……いぃーい景色ですなぁ……そうは思いませんか、えぇ?」

 涙や鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしているモニカを差し置いて、侯爵は一人恍惚とした表情で火の手の上がる夜の街を眺めていた。普段とは余りにも違うその冷酷な表情にモニカも思わず言葉を失う。

 「……こう……しゃく、さま……?」

 「これでまた一つ、この王都からゴミが消えて綺麗になったわけですな。肩の荷が下りてあなたもスッキリしたでしょう、あまり手間を掛けさせないで頂きたいものですな……モニカさん?」

 侯爵は焼け落ちる教会を見つめていた視線をゆっくりとモニカの方へ向け、首を傾げて悍ましくニタリと笑っていた。ゾクリを背筋を凍らせる恐ろしさに全身を震わせながらもモニカは必死に声を絞り出した。

 「あな、たが……子供、達を……? どう、してっ…………どうしてそこまでっ……あの子達があなたに、何をしたと言うんですかっ!?」

 手近にあった枕や小物を無造作に掴みモニカは侯爵へと投げつけて糾弾した。しかしその腕に依然力は入らず、投げつけたものは自身の足元に落ちるばかりであった。そんな様子を鼻で笑い意にも介さず、侯爵はグラスに残ったお酒を一口に飲み干すと空になったグラスをポイッと放り捨ててこう言い放った。

 「ただいい女が欲しいだけなら、お前のような小娘など相手にはせんよ……ただの女には飽き飽きしとる」

 ニヤニヤと歪んだ口元から酒混じりの涎を垂らしながら侯爵はのそのそとベッドに横たわるモニカににじり寄ると、彼女の両手を押さえつけながら悍ましい顔を近づけて理由を話した。

 「今は何もかもを奪い取って、絶望に暮れる女をめちゃくちゃにしてやるのが一番の楽しみでねぇ……失うものがでかいほど、実にいい顔と声で哭く」

 言い終わると侯爵は今宵の獲物を前にベロリと舌なめずりをした。身じろぎ一つ出来ないか弱い少女を見下ろし興奮を高めている。そんな悪逆非道な侯爵の本性を知ったモニカは涙の滲む瞳でキッと睨みつけながら口を固く結び歯を食いしばって声を押し殺していた……今できる最大限の抵抗である。心の中では教会に残してきた子供達へ向け、何度も謝罪の言葉を繰り返していた。

 「(フラ、フィア、テッリ、アデル、ジェント……ごめんなさい……私の所為で……ごめんなさい……っ)」

 じわじわと近づいてくる気持ちの悪い侯爵の顔にモニカが目を背けると、視界いっぱいに純白のリボンが飛び込んできた。ソウタとウシオから貰ったお守り、そんなリボンを見つめモニカの瞳からは再び涙が溢れ出した。そしてそんなモニカの様子を、侯爵も決して見逃さなかった。

 「……そういえば……私の用意した髪飾りを断ったそうだね……そのリボン、大切なものだとか……?」

 侯爵はまたもニタリと不愉快な笑みを見せるとその純白のリボンを奪い取ろうと手を伸ばした。モニカもあらん限りの力を振り絞って必死に抵抗を見せる。

 「いやぁッ! これだけはっ、このリボンだけは絶対に渡さないッ!?」

 「これが最後の拠り所かッ!? さあ、いい声で哭いて見せろッ!?」

 侯爵の手がリボンをむんずと掴みモニカの悲鳴と共に力の限り剥ぎ取ろうとしたその時、ザシュッと何かが侯爵の掌を切り裂いた。

 「ぐぁッ!?」

 侯爵は苦痛に顔を歪めリボンから手を離して後ろへ、大きく尻餅をつくように仰け反った。リボンを掴んでいたその手からはポタポタと真っ赤な血が滴っている。一体何が起こったのか理解できないモニカは侯爵が離れた今のうちに少しでも侯爵から距離を取ろうと必死にベッドの上を這っていた。侯爵は血の滴る手を抑えながら鼻息荒くモニカを睨みつけていた。

 「お、おのれぇ……刃物でも仕込んだか……小癪な真似を……ッ!?」

 侯爵が再びモニカに詰め寄ろうとベッドの上で前のめりになったその瞬間、侯爵とモニカは視界の端で白い薄手のカーテンがふわりと吹き込む風に揺れるのに気付いた。

 「……? なんだ……?」

 扉も窓も全て鍵は閉め切っていたはず、と部屋の主が怪訝な表情で風に揺れるカーテンと僅かに開いた窓を眺めていると、窓から差し込む月明かりが微かに室内に立つ何者かの足元を照らした。驚いた侯爵は大きく声を張り上げ何者かに向かって叫んだ。

 「ッ……だ、誰だッ!?」

 ほぼ灯りのない部屋の暗がりの中からスッ――と月明かりのもとに進み出てきたのは、白い和装に身を包んだ少年だった。その後ろ、傍らの暗闇の中には同じく白い和装の上からエプロンドレスを身にまとった女性の姿もあった。侯爵をじっ……と見つめる少年の顔に生気は見られず、瞬き一つしないその様子はまるで精巧に作られた人形のようでもあった。

 「お、お前達は……なんだ、何の用だ……ここは私の部屋だぞ、一体どこから入った!」

 一瞬困惑を見せた侯爵だったがすぐに声を荒げベッドから降りて数歩詰め寄り、ソウタ達へ激しく怒鳴りつけた。モニカもまたソウタ達の姿をその瞳に捉えるとめいいっぱいに声を振り絞って叫んだ。

 「ソウタさん、ウシオさんっ……子供達がっ……この人が教会に火を……ッ!?」

 興奮した様子の侯爵と動転した様子のモニカ、そんな二人とは対照的にソウタはゆっくりと口を開くと眉一つ動かす事なく全く感情を感じさせない声色で淡々と声を発し始めた。

 「無事ですよ。子供達は皆無事です。今はアルさんに見てもらっています。この男が黒幕である事も知っています。全て聞きました」

 そう言うとソウタとウシオの更に後ろ、二人の影から大きな白い人影がぬっと顔を覗かせると、月明かりに照らされた場所へその手に持っていたものをぞんざいに放り投げて見せた。それは縛り上げられた三人の男達であった、動かず意識こそ無いものの小さくうめき声を上げている。

 「あなたの指示で教会に油を撒き火を放ったと証言しました、使い勝手のいいあなたの部下です。他にもいましたのでついでに眠らせました、お屋敷と地下水路……直接繋がっているんですね」

 「し……知らん、知らん知らん知らん! そんな奴ら私は知らん! おい、誰か! さっさとコイツラをつまみ出せ! ………………おいッ!? 誰かおらんのかッ!?」

 往生際悪く侯爵は白を切ると扉の外へ向けて大声で怒鳴り散らし人を呼ぼうと試みた。しかしいくら待てども人の来る気配はなく、使用人の返事すら聞こえてはこなかった。

 「誰も来ませんね、主人の理不尽に振り回されて皆様さぞお疲れなのでしょう」

 「ば、馬鹿な……ありえん、一体何をした……? この屋敷に一体何人いると思っている……ッ!?」

 侯爵は狼狽えた様子でヨロヨロフラフラと後ずさるとハッと何かに気付き再び不敵な笑みを浮かべソウタを睨みつけた。

 「ふ、ふふ、ふははは……い、いいのか? まだこちらにはこの娘が居るのだぞ? こいつがどうなってもいいのかッ!?」

 ベッドの上で身動きが取れないはずのモニカを指し示し侯爵はこれでもかと勝ち誇った顔をして見せた。これにソウタは尚も淡々と冷ややかに告げる。

 「この娘、というのは誰の事でしょう?」

 「は……はぁ? こいつだ、モニカの事に決まっておるだろうがッ!?」

 何を頓珍漢な事を言っているのだ、と侯爵は背後にあるベッドの上を指差しながら勢いよく振り返った。しかしそこにはグチャグチャと乱れたベッドしかなく、身動きの取れないはずのモニカの姿はどこにも見当たらなかった。

 「な、なぜだ……どこへ行った……? 動けるはずがない! 動けないように薬を盛ったんだぞッ!? 私のモニカッ!?」

 侯爵はドタバタとベッドの下や窓の外まで周りを探し回っていた。やがてソウタ達の方へ視線を向けるとようやくそこにお目当ての人物を見つける、彼女の姿は白い帯に包まれ天井からぶら下がっているように見えた。

 「な……? なん……何だ、それは……? どうなってる……何なのだあッ!?」

 理解が追いつかず侯爵は激しく取り乱し頭をガシガシと掻きむしっていた。そんな侯爵を冷たい瞳で見つめながらソウタは左手をスッとモニカの方へ伸ばす、すると袖の中から白い蛇がスルリと姿を表し差し伸べられたウシオの手へと移っていった。

 「ウシオ、ミトと一緒に彼女を子供達の所へ。ミトは彼女の解毒も頼む。ミルクも使って構わない、最大限の手当を」

 視線は侯爵へと向けたまま、ピクリとも動かずソウタは手短に指示を告げた。いつもは素直に指示に従うウシオであったがこの時ばかりはいささか逡巡を見せた。

 「……ソウタ、どうか間違えないで下さい。それに三人をこれ以上は……」

 「わかってる。目的も限界も、わかってる」

 ウシオの言葉を遮るように言葉を重ねたソウタはここでようやく目を閉じ大きく息を吐いた。そのままやや俯いて口を開く。

 「大丈夫、命までは取らない……速く行って……子供達が心配だ」

 「……はい。信じていますよ、ソウタ」

 ウシオは静かに頷くとリボン人形に包まれていたモニカを優しく抱きかかえ窓の方へと歩き出した。リボン人形はシュルシュルと元のサイズに戻り、今一度モニカの髪を彩る。ウシオにお姫様抱っこされたモニカは終始困惑した様子で声をかけるタイミングを窺っているようであった。そして侯爵もまた、連れて行かれるモニカを黙って見過ごすはずもなく、止めようとウシオ達の方へ駆け出そうとしていた。

 「ここは私の屋敷、私の部屋、私のモニカだ! これ以上の勝手はゆるさっぷぇあッ!?」

 ウシオ達目掛けて叫びながら猛突進を始めようとしていた侯爵は鼻血を撒き散らしながら盛大にひっくり返り背中を床に打ち付けていた、ソウタの放った顔面への穿点である。

 「モニカさん」

 弾いた指をゆっくり下ろしながら、ソウタは窓際のウシオに抱えられているモニカへと声をかけた。

 「後ほど、我々の事をお話します。ただできれば……誰にも言わないで下さい」

 モニカの位置からソウタの表情は見えなかった。しかしどこか寂しげにも見えるその姿にモニカは精一杯の感謝と誠意で応える。

 「はい、誰にも言いません。お約束します。助けに来てくれて、嬉しかったです……ありがとうございます」

 「……ウシオ、そっちはお願い」

 はい、とウシオはモニカにいつもの穏やかな表情を見せ、バルコニーから屋根を伝って子供達の待つ街へと夜の闇を駆けていった。


 柔らかな風の吹き込む部屋に二人、残されたソウタと侯爵は互いに鋭く視線をぶつけ合っていた。呼吸を荒げ鼻血と涎で綺麗な服を汚しながら立ち上がった侯爵が酷く興奮した様子で口汚くソウタを罵る。

 「小僧、貴様ぁ……私にここまでの事をしてただで済むと思うなよ下民のクソガキがッ!? モニカも貴様も連れの女もガキ共も、皆まとめて――」

 「黙れ」

 侯爵の罵詈雑言を遮りソウタは再びその顔面目掛けて穿点を撃ち放った。何度も顔面に見えない何かが叩きつけられ、わけも分からず侯爵はジタバタともがきながら鼻血と涎で汚い顔を更に汚し転げ回っていた。その無様な姿を冷たく見下ろしながらソウタは静かに語りかける。

 「こちらの事情がなければ、お前の薄汚い頭蓋などとうに吹き飛ばしている。まだ命がある事に感謝しろ」

 侯爵は鼻を両手で抑えながら尚もその威勢は衰える事を知らず、ソウタを指差し叫び続ける。

 「一体お前は何なのだ! 流れ者風情が一体何だというのだ! 何が目的だ!」

 「目的……そんなもの決まっている。お前のようなクズから大切な人達をを守る事……それだけだ」

 表情一つ変えず淡々とした振る舞いを続けるソウタの姿に荒ぶっていた侯爵も段々と冷静さを取り戻していった。

 「大切な人達だと? 笑わせるな、貴様らが王都に来たのはついこの間ではないか! ほんの少し関わりを持った程度の小汚いガキ共の為に、命をかけるバカがどこに居るッ!?」

 「お前如きに理解してもらわなくて結構。それに……元より誰も命などかけてはいない」

 侯爵はソウタを指した指を縦にゆらゆらと揺らし始めると、ここまでの会話を思い出しながら口元に笑みを浮かべた。

 「命はかけてない? ふっ馬鹿が、私の力を舐めとるな? 私ほどの貴族になれば王宮での発言権すら認められとるのだ、よそ者などどうとでも出来るわ! 貴様らを嬲り殺しにした後でモニカにはたっぷりとこの落とし前を払わせてやる……ふふふはははははッ!?」

 この期に及んでも醜い醜悪なオーラを立ち上らせ高笑いして見せる侯爵へ、ソウタは再び穿点の構えを見せるが侯爵はそれを見るや両腕で顔を隠しながら牽制した。

 「おおっと……! またそのよくわからん攻撃か? 何を飛ばしとるか知らんが無駄だ、大した威力もない上に私を殺せんのだろう? 貴様ごときに私を止める事などできんのだざまぁみろ、はっはっはっはっは!?」

 殺しはしないと言うソウタの発言に増長したのか侯爵は完全にソウタを見下し余裕を見せていた。そんな救いようのない侯爵を無表情に見つめていたソウタは静かに目を閉じてため息を一つ吐くと穿点の構えを解いた。袖の中から依代を一枚取り出しソフトボールほどの大きさの下級人形を作ると、高笑いを続ける侯爵の大きな口目掛けて思い切り投げつけた。下級人形は緩やかに形を変え侯爵の腕の間をスルリと通り抜けると鼻血と涎に塗れた汚い口の中へとそのまま突っ込んでいった。ソフトボール大の餅のような塊が口から食道を通って胃の中へ……侯爵は突然体内に侵入してきた異物を吐き出そうと何度も嘔吐いていた。

 「おぐっごえぇっげっぐげぇっっ……!?」

 しかし意思を持って侵入してくる異物を吐き出す事は当然叶わず、ソウタの人形は侯爵の胃の中へとすっぽり納まってしまった。人形の代わりに消化の進んだ夕食と直前に飲んだ酒をこれでもかと吐き出した侯爵は吐瀉物に塗れたままソウタに向かって強い口調で問い掛けた。

 「げぼっ……な……何をっ……何を飲ませた、小僧ッ!?」

 再び余裕をなくした侯爵を相も変わらず冷めた目で見つめていたソウタは、部屋の片隅に飾られていた花瓶の方へと歩きながら静かに語りだした。

 「ずっと考えていました。我々はいずれ王都を去ります。遠く離れた地からどうすれば子供達を悪の手から守れるのか、と」

 ソウタは花瓶から花を抜き取ると台の上にそっと置き、もう一度ソフトボール大の人形を作ってその花瓶の中へと滑り込ませながら話を続ける。

 「今あなたに飲み込ませたものは人形です。指示した通りに動き、形や硬さを自在に変化させる人形……例えば、こんな事が出来ます」

 花瓶の傍らに立ち侯爵の方へ向き直るとソウタは侯爵を見つめながら左手で花瓶を見るように促した。次の瞬間――シャキンッ!? と花瓶の内側から無数の白く鋭い棘が飛び出し花瓶は一瞬でウニのような先鋭的な姿となった。侯爵はギョッと目を見開いて棘まみれになった花瓶を見つめブルブルと震える手で花瓶だったものを指差しながらガタガタと震える声でソウタに尋ねる。

 「そ、そそそそそれ……を……わ、わた、私の……は、はは腹に……い、いいい入れた……のか……?」

 「はい」

 ソウタは短く冷徹に答えた。今この瞬間にも身体の内側から無数の棘が貫いてくるのかと想像した侯爵は恐怖に慄き再び嘔吐いて胃の中身を吐き尽くした。

 「はぁ……はぁ……ふ、ふざ……ふざけるな……ころ……殺せないんじゃ、なかったのか……ッ?」

 「今は殺したくない事情があるというだけで、殺せないわけではありません。子供達やモニカさんを守る為ならば致し方ありません……死にますか?」

 感情のない人形のようなソウタの冷たい瞳にようやく侯爵は自分が今際の際にいる事を理解したようだった。先程までの威勢はどこへやら……血の気の引いた真っ青な顔で侯爵は素早く土下座の姿勢を取るとガクガクと震えながら命乞いを口にした。

 「ま、待ってくれ! いや、待って欲しい! 教会の事もモニカの事も謝る、もう手を出さない! 金輪際関わらないと誓う! だからどうか命だけは……ッ!?」

 「足りません」

 額を床に擦り付けてまで懇願していた侯爵はソウタの返答にゆっくりと顔を上げると、よく聞こえなかったという様子で首を傾げ聞き返してきた。

 「た……足り、ない……?」

 「謝るだの、関わらないだのと、やって当たり前の事で許されるほど……あなたの罪は軽くない。まったくもって足りない」

 そう切り捨てるとソウタは侯爵の命を保証する三つの条件を提示した。


 一つ。燃やした教会を一日でも早く再建し、子供達やモニカに金輪際一切の関わりを持たない事。

 二つ。スラム街を再開発し、貧民街の住民も王都内で健全な生活ができるよう最大限援助する事。

 三つ。王都の治安維持に尽力し、今後一生涯をかけてただの一度も他者の尊厳を脅かすような罪を犯さない事。


 「この裁定はあなたの腹の中の人形が下します。一つでも破れば容赦なくその腹を刺し貫きますので心して下さい」

 「ま、待て……一つ目はともかく、二つ目と三つ目は私と何の関係もないではないか! 何故私が貧民共の面倒や治安維持など……な、なにより……一生こいつを私の腹の中に入れておくつもりか……ッ!?」

 侯爵はソウタの出した条件に納得が行かないと不満を露わにした、ここまで来てまだこの態度が取れる侯爵の図太さにはもはや感心すら覚える。

 「ボクからあなたへの罰です。本来なら殺されても文句の言えない所を見逃そうというのだから、つべこべ言わずにやれ。許してもいいと思えたら人形から解放します」

 「そんな……そ、そもそもだ……教会の再建だのスラム街の再開発だの、それだけの金が一体どこに……」

 侯爵が参った様子のか弱い弱者を演じながら嘘つきのオーラを滲ませているとそこに、黄金色の丸い物体を口に咥えた一匹のネズミがソウタの肩にひょこっと姿を現した。そのネズミから丸い物体を受け取るとソウタはネズミを撫でながら話しかける。

 「ありがとう、ネネ。どこにあった?」

 「あっちにも☆ こっちにも☆ お屋敷中いーっぱい☆」

 ネネと呼ばれたネズミは喧しく騒がしくソウタの質問に答えるとそそくさとソウタの首元から服の中へと入っていった。お疲れ様、と呟きソウタは侯爵を冷ややかに見つめ受け取った丸い物体を見せつける。黄金色に輝くそれは直径三センチほどはある大きな金貨であった。これまで見てきたコインの中で最大サイズである。表面にはモニカに見せてもらったエステリア教徒の証である首飾りと同じ模様が描かれていた。

 「初めて見ますがこれが大金貨でしょうか? たくさんお持ちのようで何よりです、条件は果たせそうですね」

 ソウタが大金貨と思われるコインをゆらゆらと揺らして見せると、侯爵はぐぬぬ、とあからさまにバツの悪そうな顔で悔しさを滲ませた。

 「次から次へと奇っ怪な……まさか貴様、人の姿をした魔獣ではないだろうな……ッ」

 「もしこんな魔獣がいるのなら是非一度お会いしたいですね。それはさておき、忘れていました。条件をもう一つ追加します」

 そう言うとソウタは四つ目の条件として、ソウタ達の事を一切他言しない事、と付け加えた。

 「今夜の出来事や我々に関する見聞きしたありとあらゆる情報を、他者に伝達する事を禁じます。書面に残すのはもちろん、暗号を使っても殺します」

 本当は胃の中にいる人形に何を書いているかなど分かるはずもないのだが、ソウタは少々大げさに侯爵へ脅しをかけた。侯爵は両手を強く握りしめ項垂れながら悔恨に打ち震えていた。やがて侯爵はゆっくりと口を開き絞り出すような低い声でソウタにある提案を持ちかけてきた。

 「……そうだ、金ならある……小僧、金ならいくらでもやる……一生遊んで暮らせるほどの金だ、それで……そ、そうだ! わ、私と手を組まんか! 何でも手に入るぞ、金さえあれば何でも……ヒッ!?」

 顔を上げた侯爵はソウタの顔を見た瞬間恐怖のあまり凍りついた。整ったきれいな顔からは想像もできないほどの昏い闇が、あどけない少年の瞳を黒く塗り潰していた。

 ソウタは穿点の構えを取ると手に持っていた大金貨を固めた気と一緒に床についた侯爵の手の甲目掛けて撃ち出した。キンッと甲高い金属音が小さく部屋に鳴り響くと同時に侯爵の呻き声が上がる。

 「っぐぅぅぅああぁぁっ……ッ!?」

 撃ち出された大金貨は侯爵の手の甲に深々とめり込んでいた。ソウタは花瓶に入れた人形と放火犯の男達を運ばせた中級を回収すると開け放たれた窓の方へとゆっくり歩きながら侯爵へ冷たく吐き捨てる。

 「金が必要なら自分で稼ぐ、貴様の薄汚い金など誰が受け取るものか。それだけ性根が腐っているなら放っておいてもすぐ死にそうだ」

 窓際に立ちくるっと振り返り姿勢を正すとソウタはうずくまり呻き続ける侯爵へ最後の言葉を贈った。

 「それではそろそろ失礼致します、アヴァール侯爵閣下。使用人は気を失っているだけなのでご心配なく……おやすみなさい、良い夢を」

 恭しくお辞儀をし吹き込む一陣の風にふわりとカーテンが揺らめくと、柔らかな月明かりに照らされていた白い和装の少年の姿は音もなく、まるで夢であったかのように消えてしまっていた。嵐のような暴挙にいいように踊らされ、ただ一人残された侯爵の唸るような慟哭だけが……キラキラと瞬く星空に吸い込まれていくばかりであった。



 侯爵邸を後にしたソウタは大きな鳥人形の背に乗り、遙か上空から夜の王都を見下ろしていた。教会の火は住民達の尽力の甲斐もあり既に鎮火され、夜風に巻き上がる煙は黒から白へと変わっていた。人気のない場所を探し人目につかないよう音もなく地上に戻ったソウタは一人、侯爵への対応に不足がなかったか、見落としがないかと歩きながら考えを巡らせていた。

 「(教会の再建、大人しく死を選ぶ潔さはあの男にはないだろう、やらざるを得ない。文書での犯行指示が穴だが試す度胸があるかどうか……)」

 「(やはり監視の目と万が一の備えは王都に残していくべきか。放火犯の一派も縛って置いてきたけど侯爵がどう処理するか、しばらく注視しないと)」

 小さなランタンの灯りが仄かに照らす暗い夜道をぼんやりと歩いていたソウタは、無意識の内に焼け落ちた教会へと続く路地に辿り着いていた。周囲に立ち込める焦げ臭い匂いがふわふわとしたソウタの意識を揺り起こす。はっきりとした意識の輪郭を取り戻すと暗い路地の先、焼け落ちた教会の前に立つ人影に気付く。宵闇の中寂しげに一人教会を見上げ佇んでいたのは、少し乱れたドレス姿のままのモニカであった。まだソウタの存在に気付いていない彼女へ、ソウタは一瞬の躊躇いを飲み込み穏やかに声をかけた。

 「夜道に女性一人で、不用心ですよ」

 突然かけられた声に一瞬ビクッと驚いた反応を見せ、モニカは声の方へ視線と灯りを向けた。

 「ぁ、ソウタさん……っ! よかった、心配してました……!」

 大変な目にあったのは自分だったというのに他人の心配をしている……普段通りのモニカにソウタは張り詰めていた緊張がゆるりと解けていくのを感じ、少しぎこちなく笑ってみせた。ソウタとモニカの二人が笑顔を交わしているとどこからともなく、気怠げな声が暗がりの路地に響く。

 「――……一人ではない、吾もおるよ」

 気怠げな声の主はモニカの純白のリボンからスルリと白く長い姿を見せ、チロチロと舌を揺らしながらソウタを見つめていた。

 「ミトが付いててくれたのか、ありがとう。子供達は?」

 「――……ウシオが見ておる、毒の心配はない。この娘もな」

 白い蛇ミトは答えながらシュルシュルとモニカの手を伝うとその細長いしなやかな身体を伸ばしソウタの方へと近づいてきた。ソウタが歩み寄り手を差し伸べるとシュッと素早く、いつもの袖の中へと滑り込んでいった。ソウタが労いの言葉をかける。

 「ありがとう、ミト。お疲れ様」

 「――……よい……が、あまりアレに心配かけるでないよ」

 そう言い残し、ミトは静かにソウタの懐の中へと消えていった。ミトの残した言葉にソウタはただ黙って頷き、物憂げな表情を見せていた。一瞬の静寂がその場を満たし気まずさを覚えたモニカがアワアワと口を開く。

 「あ……その、えっと……あ、改めてっ……お礼を、言わせて、下さいっ……すぅ……ふぅ…………助けて頂いて、ありがとう、ございました」

 深々と頭を下げ少し気恥ずかしそうにはにかんだ笑顔を見せるモニカへ、ソウタは伏し目がちに首を振って申し訳無さそうに答えた。

 「お礼を言われる資格などありません……初めて会ったあの時既に、あの男の本性には気付いていました。ボクがもっと早く行動していれば、子供達も教会も……そしてモニカさんも、もっとうまく守る手段はいくらでもあった。自分達の都合を優先した結果、ここまでの事態になってしまった……申し訳ありません」

 ソウタもまたモニカに対し深々と頭を下げ、そのまましばらく動かなくなった。慌ててモニカが否定しようと声をかける。

 「そ、そんなことありません! ソウタさん達がいなかったら今頃……」

 「――もし」

 モニカの言葉をソウタは少し語気を強めて遮った。下げたままだった頭をゆっくりと上げ、俯いたまま言葉を続ける。

 「もし……子供達に盛られた毒が、もっと強い、致死性のものだったら…………ボクはあの子達を救えなかった……間に合わなかった……」

 煤けた路地にポタリと一つ、雫が落ちた。ソウタの瞳からではない。それは強く握りしめられたソウタの拳から、赤く滴り落ちたものである。

 子供達と遊んでいる時とは違う、自分を励まし相談に乗ってくれた時とも違う、見た事のないソウタの姿に思わずモニカも言葉に詰まる。

 「ソウタさん……」

 「……迫る危険を察知しておきながら、何もかも後手に回って……何一つ、守れてやしない。運良く最悪を紙一重で避けられただけ……こんなものが……」

 ――こんなものが成果と言えるわけがない。ソウタの心は拭えぬ後悔でいっぱいだった。子供達に盛られたものが致死毒だったら。子供達にも油をかけられていたら。子供達が刺し殺されていたら。ウシオがいなかったら。ミトがいなかったら。アルがいなかったら。ネネがいなかったら。侯爵がすぐにモニカを襲っていたら。モニカが襲われるのと火事の順番が逆だったら……。

 何か一つでも歯車が狂っていれば、幸運に恵まれていなければ、モニカはともかく子供達の命は救えなかっただろう。侯爵の狙いがモニカだと断じモニカを守る、その事ばかりに気を取られ子供達の安全については全く考えられていなかった。侯爵の醜悪さを知りながら、そこまでの加虐性を見抜けなかった。そして何よりも……己の未熟さを理解しながら甘さを捨てきれなかった、その事がソウタの心に深く悔いを残す結果となった。

 後悔に押しつぶされそうになっているソウタを静かに見つめていたモニカは呼吸を整え意を決してソウタに歩み寄ると、俯いたソウタをそっと優しく包み込み穏やかに声をかける。

 「侯爵様と出会ったあの時からずっと、私達の事を心配して見守っていてくれたんですね、ありがとうございます」

 伝わってくるモニカの鼓動はとても落ち着いていて心地の良いリズムを刻んでいた。火事あとの焦げた匂いに微かに石鹸の香りが混ざり鼻孔をくすぐる。ややいじけた子供のような精神状態のソウタはそっと自分の頭に添えられたモニカの腕に手をかけた。

 「……必要ありません、どれだけ後悔した所で結果は何も変わらな――」

 ――ぎゅむっ!?

 ソウタは突然モニカの両手に挟まれ顔を押し潰されていた。あまりに唐突だった為ソウタの思考は少しの間停止した。モニカの手から力が抜け潰れた顔が戻っても尚呆然としていたソウタへ、両手をソウタの頬に添えたまま、モニカはウシオのような穏やかな笑顔を湛えてありったけの感謝を言葉に変えた。

 「もしもの話は今はいいんです。ソウタさんがいてくれたお陰で皆が無事だった、だから感謝します。守ってくれて、助けてくれて、ありがとうございました」

 自身に向けられたモニカの笑顔と真っ直ぐな瞳に居たたまれなくなり、ソウタはまた視線を逸らし俯いてしまった。それをモニカは頬に添えた両の手で強引に持ち上げ俯く事を許さなかった。

 「子供達にもこうするんです。下ばかり見ていると色んなものを見落としてしまうから、ちゃんと顔を上げて周りを見なさいって。……マザーからの受け売りなんですけど、ふふ」

 華奢な手に逃げ場を塞がれ今度はしっかりとモニカの瞳を受け止めたソウタは、拙くほんのりと口元をほころばせようやく笑顔で応えた。

 「良い教えですね……確かにあの子達はあまり下を向かない」

 頬に添えていた手を離し今度はソウタの手を取って、モニカは思いの丈を口にする。

 「過去は過去です、過ぎた事はどうする事もできません。それでも毎日朝はやってくるから、前を向きましょう。皆で一緒に」

 「……モニカさんは学校の先生とか向いてそうですね」

 学校という耳慣れない言葉に首を傾げているモニカにソウタは心から感謝した。たとえ上手くいかなくても、間違えても、失敗しても、次がある限り前を向く。人にはそんな色んな強さがあるのだと、この可憐な少女が教えてくれていた。

 「ボクからも感謝を、ありがとうございます」

 「? はい、どういたしまして?」

 笑顔で頭の上にハテナを浮かべているモニカへ、ソウタは改めて自分達の話を切り出すべく声をかける。

 「ボクらの事、ちゃんとお話しなければなりませんね。それとシスターの服も、侯爵邸に忘れたの……今から取ってこさせましょうか」

 そう言うとソウタは依代を一枚取り出しモニカの目の前で鳥人形を作って見せると、侯爵邸に向けて送り出した。始めは当然驚きを見せたモニカであったが、飛び立つ鳥をしばし見上げたまま何かを思案していたかと思うと夜空を見上げたままおもむろに口を開いた。

 「ソウタさん達の事、もちろん気になりますしたくさん知りたいと思うんですけど……なるべく知られたくない事なんですよね?」

 「まあ……そうですね、素性や事情はなるべく隠すようにしています」

 ソウタも同じように夜空を見上げたまま答えると、モニカはソウタの方へ向き直り可愛くはにかみながらこう告げた。

 「でしたら、今はいいです。もしいつか、気兼ねなく話せる時が来たら、教えて下さい」

 この申し出にソウタもモニカの方へ向き直り、真剣な面持ちで尋ねる。

 「その時が来る保証がなくても、ですか?」

 ソウタの真剣な問いにモニカは笑顔ではい、と頷いて答えた。その意志が固い事をオーラが物語っている。ソウタは少し呆れながらもその申し出を受け入れ、彼女の善意に笑顔で応えた。

 「わかりました、ありがとうございます。いつかお話できる日が来る事を願っています」

 「はい、その時は子供達も一緒に、お話頂ける日を楽しみに待ってます」

 二人で笑顔を交わし、その後五分ほど待って戻ってきた人形からシスターの服を受け取ると、ソウタとモニカは揃って子供達やウシオの待つ宿に向けて歩き出した。

 灯りの乏しい路地を煤けたやわ風が白い煙を踊らせながら走り去ってゆく。若くして大きなものを背負う者同士、肩を並べて家路を辿る。辿り着く先は違えども今はただ、共に歩める事に心を弾ませて――。


 宿に着くと待っていたのはアルからの強烈なお説教であった。それもソウタだけでなくモニカも含めて。子供が夜遅くにうろちょろするんじゃないだとか、女の子が夜道を一人でフラフラするなだとか、大人に心配かけるなだとかご飯はちゃんと食べろだとか。しこたまお叱りを受けたあと、アルはソウタとモニカを力強く抱きしめてくれた、とても愛情深い女性である。

 子供達は皆二階の空き部屋で眠っていた。幸いにも全員軽い火傷程度で済んだそうで、見にきてくれた医者も奇跡的だと驚いていたらしい。身の振り方が決まるまでは当面アルの宿で身柄を預かるという事で話がついていた。ソウタ達のお陰で経営には大分余裕ができたそうで、アルも主人のベルゴも快く引き受けてくれた。

 子供達の無事な姿を確認しホッと胸を撫で下ろした所でソウタはウシオの姿が見えない、とアルに尋ねた。

 「……部屋にいるよ。たくさん心配かけたんだろ? ウシオちゃんにもしっかりお説教されといで。終わったら下りといでよ、夕食の用意しとくからさ」

 そう言い残してアルはモニカと共に階下へと下りていった。

 二階一番奥の部屋。ソウタ達が借りている部屋の扉を開け中へ入ると、灯りも付けず暗い部屋の中でウシオがベッドに腰掛け待っていた。奥のベッドにはいつものように鏡餅のように折り重なった秘書と下級人形とスイカが静かに寝息を立てている。

 二人は何も言わず、扉を閉めウシオの元へ歩み寄ったソウタをウシオはそっと手を取り引き寄せると力強く抱きしめた。ソウタもウシオの背中に手を回し抱擁を返す。二人はしばし無言のまま抱き合うとどちらからともなく口を開き声を掛け合った。

 「……ごめんなさい」

 「……ごめん」

 ほぼ同時に同じ謝罪の言葉を掛け合い、同時にお互いの口元がほころぶ。

 「心配かけてごめん、ウシオ。いつも見守っていてくれてありがとう」

 「一人にさせてしまってごめんなさい、ソウタ。帰ってきてくれて本当によかった……」

 互いの心情をあえて言葉にして伝え合う事でソウタ達はお互いの理解を深めあってきた。そうする事が人と人との関係をより強く確かなものにするという事を、ソウタもウシオもこれまでの経験から学んできたのである。

 二人の間にわだかまりはないと確認するとソウタはウシオに侯爵への対処を事細かに話して聞かせた。不備や見落としがないかウシオの意見も聞き、今度こそ万全な対策を取ると決意を新たにする。

 それと同時にいよいよ近づく王都出発の件についても話しておこうとソウタが切り出した。差し当たって出発前にやっておきたい事としてソウタは二つ星への昇級を考えていると話した。理由としては二つ、受けられる仕事を増やす事とソウタのような子供が街の外へ出る不自然さをなくす為……というのが建前で、新しい出会いの度に試練だ何だと嘘の事情を説明する煩わしさを無くしたいというのが本音であった。

 「物資は特に必要ないとして……ウシオは何か買っておきたいものとかある?」

 「持っていきたいものではないんですけど、もし良ければ布をいくつか……何人かにエプロンドレスを作ってプレゼントしたいと思いまして」

 あまり高いものは買えないとしながらもソウタはこれを笑顔で快諾した。そしてソウタは奥のベッドに折り重なる鏡餅に視線を向けながらそれと……、と何かを話そうとした矢先、扉がノックされ外からアルの呼ぶ声が聞こえてきた。すぐさま返事をするとソウタ達は一旦話を切り上げウシオと一緒に揃って部屋を後にし階下へと下りていった。

 先にスープを飲んでいたモニカとアル、ベルゴ夫妻に見守られ食べ損ねていた夕食を頂きながら、ソウタはこの掛け替えのないひと時を噛み締めていた。しばらくすると匂いにつられたのか、眠っていた子供達も続々と目を覚まし食堂は一気に賑わいを見せる。小さい子供達は何故アルのお店で寝ていたのかと不思議そうな顔をしていた。ただ一人、ジェントだけが明確に不安げな顔をしている。ソウタはジェントを側に招きもう大丈夫だと、手を取り気を整えながら優しく微笑み伝えた。モニカもジェントに寄り添いもう心配いらないと優しく声をかける。気丈なジェントが涙を見せるまでそう時間はかからなかった。

 これから教会が焼失してしまった事など一晩の内に何があったのか、差し障りのない範囲で小さい子供達にも話さなければならない。教会という慣れ親しんだ拠り所を失った事実はさぞ子供達の心に重くのしかかるのだろう。しかし手を取り合える家族がいれば、支えてくれる友人達がいればきっと乗り越えて行ける。そう信じて、ソウタとモニカは笑顔を交わしいつまでも子供達を優しく見守っていた。

第八話、お読み頂きありがとうございます。橘月りんごです。

八話目と少々前置きが長すぎたかも知れませんがとりあえず一つ目の山場を迎えました。

もちろんこれで終わりではありません、ジャブです。次なる山場もすぐ目の前に迫っております。

この作者はどんなクライマックスを描けるのか、第一部前半の頂きを今後ともよろしくお願い申し上げます。

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