第七話
サポーター組合の所長リデルの心配をよそに王都経済を手中に収める大物貴族アヴァールからの指名依頼を受ける事にしたソウタ達はその日、王都に来て初めて王城を守る城壁の内側へと足を踏み入れていた。
王都全体を守る外縁部の防壁とは別に王城と貴族の屋敷などを守る為の城壁が王都には備えられている。王都は王城を天辺とした緩やかな丘の周辺に築かれている、ソウタ達が普段活動の中心としているのは丘の裾野に広がるなだらかな平野部にある城下町である。王都の中心を南北に流れる水路をまっすぐ北に向かって進んでいくと坂の上には立派な闘技場があり、その裏手に城壁内部へと続く正門がある。正門を潜ると広々とした通りの正面奥に王城が、その左右手前に大きなお屋敷が王城を守るようにどっしりとした佇まいを見せている。正門からは城壁に沿って左右にも広い通りが伸びておりその先には貴族の屋敷が建ち並んでいるようである。
ソウタ達が正門の門兵を訪ねると話は聞いている、と随分あっさりと通された。正門を通過するとそこには教会の前で見たあの黒い馬車と身なりのきちっとした御者が待ち構えていた。迎えに来たというその馬車に揺られアヴァール侯爵の待つお屋敷に着いたのが十分程前の話、出迎えてくれた使用人の案内に従い屋敷のとある一室で仕事の為の準備を、と半ば強引に着替えさせられ現在に至る。
用意されていた服に袖を通したソウタとウシオ、それは使用人達の来ているものと同じでありエプロンドレスは自前のもので良いという事でウシオはとても満足げにくるくると回り何度もエプロンドレスの裾をはためかせていた。一方のソウタはと言うととても不満げな様子で――
「あの……何故ボクのも女性用のメイド服なんでしょうか……」
ソウタに用意されていたのもウシオと同じスカートの長いワンピースタイプのメイド服であった、おまけに何故かサイズもぴったりである。ソウタは元々可愛らしい中性的な顔立ちをしている為違和感はなく、むしろ似合いすぎているくらいなのだが……半ば強引に女装させられているこの状況に本人は納得が行かないと言った様子でここまで案内してくれた使用人の女性をやんわりと睨みつけていた。スカートを握りしめる両の手が実に愛らしい、涙目なら完璧だった。
「当お屋敷には女性用の使用人服しかございませんので、旦那様のご趣味……いえ失礼、ご指示でございます」
愛想にかける白髪交じりの使用人の女性は死んだ魚のような目で淡々と答えた……この人も苦労が絶えないのだろう。
「(あの変態エロ糞爺……)」
まさかウシオだけでなく自分にまで醜い欲望を向けられているとは思っておらず、ソウタは心の中で静かにアヴァールへの怒りを燃え上がらせるのであった。軽く咳払いをして気を取り直しソウタは使用人の女性に改めて依頼内容を確認する。
「それで……依頼というのはただ使用人服を着て欲しいという事でしょうか」
「詳しい事は伺っておりません、着替えさせた後旦那様のお部屋まで案内するようにとだけ仰せつかっております」
ご案内しますこちらへ、と言い残し使用人の女性は一人廊下へと出ていった。ソウタは念の為畳んだ自分達の服にオーラを込めてから使用人の後を追い部屋を後にする、盗難防止の為である。
広いお屋敷の中をひた歩き案内されたのは三階のとある一室。室内には綺羅びやかな調度品が節操なしに所狭しと飾られ、暖炉の上にはデカデカと盛りに盛られた自画像まで掛けられている……正直趣味の悪いの一言である。部屋の奥の机で仕事中の主人に向け使用人の女性が一礼をして部屋を後にすると、何やらしたためていた屋敷の主人はおもむろにペンを置きゆっくりとその濁った視線をソウタ達へと向けた。
「ほおぉ……実によくお似合いだ。ようこそ我が屋敷へ、歓迎しますぞ」
じろじろと浴びせられる不快な視線に苛立つ気持ちを抑え、ソウタは改めて依頼の内容を確認する。
「わざわざご指名頂きありがとうございます、依頼の詳細を伺いたいのですが」
無愛想に尋ねられた侯爵は傍らに置いていたグラスを手に取り注がれていた液体をぐいっと煽り一口で飲み干すと、軽い咳払いの後机に肘をついて依頼の詳細を話し始めた。
「なに、大した事ではないのですがね……あなた方は良くお掃除の依頼を受けておられると伺ったのでそれならばうちも是非、と思いましてね」
「掃除……お屋敷全体を、でしょうか」
この広いお屋敷全部を掃除するとなると何日掛かるかわからない、金に物を言わせていいようにこき使うつもりなのか……とソウタが邪推していると侯爵はいやらしい笑顔を浮かべたまま首を振ってこれを否定した。
「いえいえ、この部屋だけですよ。報酬についてはまた後ほど、もし今日中に終わるようであれば追加報酬も付けましょう」
道具はそちらを、と示され入ってきた扉の横を見ると一通りの掃除用具が揃って置かれていた、どれも新品同然である。ソウタは改めて部屋の中を見渡す、所狭しと並べられた調度品に埃らしい埃は見当たらない。主人の私室という事もあり掃除はきちんと行き届いていた。にもかかわらず掃除をさせる……ソウタは侯爵の意図をこう読み解いた。
「(豪奢な調度品の数々、上流貴族を前に緊張して一つでも傷を付ければ弱みになる。無理やり付け入る隙を作る魂胆か)」
「如何かな、先に報酬を聞いて気に入らなければ今から断って頂いても構いませんが?」
相変わらずの醜悪なオーラを身にまとい腹の立つニヤけ面を浮かべる侯爵の顔面に思い切り穿点をぶち込んでやりたくなる気持ちを何とか抑え、今は庶民を演じるべくソウタは出された条件を素直に飲みすぐに掃除に取り掛かった。
ソウタの読み解いた侯爵の思惑が当たっているかはさておき、この程度の事でミスをするソウタとウシオではない。中には小賢しくわざと壊れやすくなっている調度品もあったが、服の下に忍ばせていた人形を侯爵から見えないよう体で視線を遮り匠に操って順調に掃除を進めていく。ソウタとウシオの二人で連携を取りあっという間に部屋の六割を超える範囲の掃除を終えるとニヤニヤと呑気に眺めていた侯爵の顔にも焦りの色が浮かび始めた。どうやらソウタの読みは当たっていたらしい。突然ぱちぱちと拍手を始めると侯爵は作業中の二人に声をかけた。
「いやはや……お二人共見事な手際ですな、うちの使用人共にも見習わせたいくらいだ」
「ありがとうございます、この調子だとお昼すぎ頃には完了するかと」
結構結構、と侯爵は空になったグラスにお酒らしきものを注ぎ手に取るとグラスの中でお酒を回しながら再びいやらしい笑顔を浮かべこう切り出した。
「さて、ではそろそろ報酬の話をしましょうか。聞けばあなた方は渡航許可証をお求めだとか……もしよろしければ私が融通して差し上げましょうか?」
自分の方から切り出すつもりだった話を侯爵から出されソウタは思わず作業の手を止めた。
「……確かに渡航許可証は求めていますし、頂けるのであれば嬉しいのですが……どうしてそれを?」
「ふふふ……商いというものには情報が必要不可欠ですから、商会のトップなどやっていると色々と耳に入ってくるのですよ」
バカみたいなニヤけづらを浮かべるこの男をソウタはただの性悪だと見くびっていた事を自覚した。半月もの間何の動きもなかったのはソウタ達の情報を集めていたのだと、自分達が侯爵を警戒していたのと同じように侯爵もまた慎重にソウタ達を見定めていたのだとようやく気づく。
「……渡航許可証がこの依頼の報酬、と言う事でしょうか?」
「ええ、あなた方さえ良ければ。ああもちろん、追加報酬として小金貨をお一人一枚ずつお付けしますよ」
侯爵のオーラに嘘はなく本当に渡航許可証と小金貨二枚を出すつもりらしい。行き詰まっていたソウタにとっては願ってもない好条件だがここで浮かれている場合ではない、作業の手を止める事なくソウタはこの状況を侯爵の視点で捉えようと思考を巡らせていく。
自分達は流れのサポーター、ひと月の間早朝から晩まで働き詰めである。旅の事情を話した人も少なくない、知られていると考えていいだろう。行商の護衛に出たミルド、書庫で働く付き人、働き詰めのソウタとウシオは端から見ればさぞお金に困っているように見える事だろう。提示された報酬は小金貨二枚、二週間を要する行商護衛一回分に相当する。お金に困った普通の庶民であればこれだけ提示すればまず間違いなく飛びつくはず。
そこに加えてダメ押しの渡航許可証、安直に受け取ればさっさと王都から出ていけという事だろうか? ここ半月はずっと教会に入り浸っていた、目を掛けていたシスターに目障りな虫が付いた。しかしその虫はエステリアへの道を街中で聞き回り探している、であれば自らの手でリスクを冒すより渡航許可証を渡して出ていくのを待つ方が都合が良い。名指しで依頼を受けさせもし高価な調度品に傷を付ければそれはそれで思いのまま、どうとでも出来る。
ソウタはウシオと一緒に窓を拭きながらガラス越しに反射した侯爵へと視線を向ける。
「(今も見てる……ウシオにも興味はあるはずだけど……モニカに拘るのは何だ。ただの美人なら見飽きているか、それとも年齢か?)」
侯爵の真意に思考を巡らせてみたものの完全に把握する事は叶わず、ソウタとウシオは宣言通りお昼を過ぎる頃には掃除をやり遂げた。再び侯爵はぱちぱちと手を叩き二人へ賛辞を送る。
「いやあ実にお見事、これほど気持ちのいい仕事ぶりを見たのは久しぶりです」
「ありがとうございます、これで依頼は完了……という事でよろしいでしょうか」
掃除用具を元あった場所に片付けソウタが尋ねると侯爵はしばし無言でくるくると回していたグラスのお酒を一口飲みニヤけた顔でこう告げた。
「そうですねぇ……せっかくですからもう一つだけ、お願いしてもよろしいかな?」
立ち上る醜悪なオーラに警戒を強めながらソウタは何でしょう? とその内容を伺う。
「よくよく考えればこの程度の掃除に小金貨二枚と渡航許可証は大盤振る舞いが過ぎたと思い直しましてね、そこでなんですが……」
自分で決めた報酬にまでケチを付け始めた侯爵に内心呆れながらもソウタはじっと無愛想な目で侯爵を見つめ次の言葉を待つ。
「ここは一つ、可愛くおねだりなどして頂けますかな?」
「…………………………は?」
強く気を張りすぎていたせいかソウタは侯爵の言葉を理解するのに数秒を要した。侯爵はゆっくりと立ち上がると手を揉みながら机の前に立ち頬を高揚させながらセリフの指定まで考え始めた。
「侯爵様……いや旦那様……よし、『旦那様、渡航許可証を頂戴?』これがいい、これで行きましょう! 二人で可愛らしく、上目遣いも忘れずに!」
一人で勝手に盛り上がる気持ちの悪い侯爵へ憐憫の目を向けながらソウタは腹の奥に湧き上がるドス黒い感情を必死に抑え、大きく息を吐いて気持ちを落ち着かせた。目に映る侯爵からの情報はソウタ達をちゃんと見た目通りの子供と女性として認識している事を示している、腹の内まではバレていないとソウタはポジティブに考える事にした。
「……二人でおねだりをして依頼は完了、更なる追加はありませんか?」
ああだこうだと難癖をつけられてまた依頼を追加されてもかなわないのでソウタは先手を打ってその芽を摘み取りに掛かる。
「ええもちろん、これで最後だとも。誓って約束しよう」
気持ちの悪いニヤケ面だが一応嘘は言っていない。一つため息を吐きソウタは覚悟を決めた。この場においても穏やかな表情のウシオと顔を見合わせると侯爵の前に並び立ち、膝を付いたウシオと視線を合わせて驚天動地一世一代、ソウタは渾身のあざと可愛さを解き放つ――
「「――旦那さま、とこうきょかしょ……ちょうだぃ?――」」
「ぐああああああああああぁぁぁぁ……ッ!?」
侯爵は胸を抑えまるでゲームのラスボスの断末魔のような叫びを上げて派手に後ろへと倒れ込んでいた。後頭部を机に打ち付けもがき苦しんでいる。
女性用メイド服を着ているので見た目は完全に美少女であるソウタとスタイル抜群おっとり美人なウシオ二人による渾身のおねだりアタックは侯爵の癖にドンピシャで突き刺さり超ド級の破壊力を以ってその胸を撃ち抜いた。ソウタに関しては涙目のおまけ付き、体の一部機能を操作する事などソウタにとっては造作も無い事である。
気持ちの悪い侯爵の理不尽に耐えたソウタは心を落ち着ける為ウシオにもたれかかりしばしの間膝を付いて俯いていた。そんな中痛みの収まった侯爵がゆらりと立ち上がると呼吸を荒げ手をワキワキとさせながらジリジリとソウタ達の方へとにじり寄ってくる……その目はもはや獣のそれであり理性や知性はどこかへ吹き飛んでしまっていた。
「も、もう……我慢ならん……少し……少しだけ……へ、へへ……」
よだれを垂らし気持ち悪さに拍車の掛かる侯爵の手が今まさにソウタへと届くかというその瞬間、ソウタの中で何かがプツリと音を立てて切れた。
「もういい……『ウイ』」
ソウタが呟くように名を呼ぶとたちまちその場の三人を甘い香りがふわりと包み込んだ。香りを思い切り吸い込んだ侯爵は目をとろんとさせてその場に力なく座り込み、僅かに残った理性で香りの出どころを探そうとキョロキョロ目を動かしていた。
「ら……らんら……ころひほひは……(何だ、この匂いは)」
侯爵がゆっくりと視線を落としていくとソウタの足元にいる何かと目があった。白いふわふわの毛並み、まるっとしたシルエットにぴょこんと伸びる二本の耳、そして煌めく宝石のような赤い瞳……そう、ウサギである。
――ウイ(卯依)。ウシオと同じくフラッシュフォールによって異能を獲得した命あるウサギを依代とした式である。異能を持つ者の基礎身体能力は格段に高くなるがウイ自身の身体能力は能力者と比べても実はそれほど高くない。にもかかわらず、あまりにも強力無比な異能を持つが故に危険視され隔離されていた所を見初められウイは式となった。
彼女の能力は一言でいうと『愛される』というものである。彼女の発する甘い香りを吸い込んだ者は誰もが彼女を愛さずにはいられなくなる。生物としての知性も理性も本能すらも投げ捨てて、ただひたすらに彼女に愛を注がずにはいられなくなる……そんな異能である。大きな力を持つ能力者であれば抵抗する事も可能であるが、裏を返せばそれ以外に抵抗できる者はおらず出来る事はせいぜい匂いを吸わないよう気をつける事くらいである。
ウシオ以外の式は普段肉体を持たずソウタの中に控えている、この辺りも通常の人形とは明確に違う点である。式は普段思念体のような状態で眠りについており、ソウタの意思に呼応して顕現する事となる。ウシオ同様もちろん人の姿もあるが服を用意していないので今回は本来の獣の姿での登場である。
匂いの元がこのウサギであるとわかると侯爵はまるで赤ん坊でもあやすように優しくウサギに話しかけ始めた。
「ひぃかぁあいぃれしゅれぇ……♪(君可愛いですねぇ)」
見るに堪えない中年の醜態を薄汚い家畜でも見下すような冷めきった目で見つめながら、ソウタはゆっくりと立ち上がると侯爵へ向けて冷たく言葉を放つ。
「侯爵、アヴァール侯爵、依頼は完了しました……報酬を」
侯爵はソウタの声に僅かな反応を示すが甘い香りの影響で思考がとろけきっており、すぐにウサギに夢中になってしまっていた。
「はぁ……ウイ、頼める?」
ソウタが足元のウサギに向かって声をかけるとウサギは侯爵に向かってあどけない少女のような声で当然のように流暢に喋り始めた。
「ねぇおじさん? もうお仕事終わったしぃ……約束の許可証とお・か・ね、早くちょーだい?」
通常であれば突然小動物が喋り始めれば誰でも驚くはずだが完全に思考の溶けた侯爵にはもはやそんな知性や理性は残っていない。すぐに用意するから待っててねぇ、と気持ち悪くバタバタ机に戻った侯爵は引き出しから小さな袋と印章を紐で付けた折り畳まれた紙を一枚取り出しそのままウサギへと差し出して来た。どうやら許可証は事前に用意していたらしい、一緒に差し出された袋も確認すると中にはジャラジャラと小金貨が二十と数枚入っていた。ソウタとしては差し出してきた以上全部貰っても良かったのだが……
「ソウタ? 悪い事はダメ、ですよ?」
ウシオにたしなめられてしまったので約束通り二枚だけ頂戴する事にした。きちんと侯爵のサインが入っている事を確認しソウタは許可証を懐へしまおうとして……普段の服ではない事を思い出した。
「……依頼も終わった、さっさと着替えて帰ろう」
ソウタはため息混じりにウシオへ告げると足元のウサギを優しく抱きかかえ穏やかに労いと感謝を伝えた。
「ありがとう、ウイ。おかげで助かった」
ウイと呼ばれたウサギはソウタの腕の中で優しく撫でられ目を細めて気持ちよさそうにしていたかと思うと次の瞬間フッと、その姿を消してしまった。
忽然と消えた愛するウサギを探し求め部屋の中をウロウロと彷徨う侯爵を放置してソウタとウシオはそそくさと一階の着替えた部屋へ戻りパパッと元の服に着替えると逃げるように足早に侯爵邸を後にした。
城壁正門までの長い道のりをのんびりと歩きながらソウタとウシオはボソボソと小声で言葉を交わしていた。
「何をするつもりなのかと思ったら……ウイの事だったんですね。侯爵さん、あのまま放置してしまいましたけど大丈夫ですか?」
「短時間だったし……匂いを嗅ぎ続けていなければ三十分もすれば元に戻るよ。意識の溶けていた間の記憶は殆ど残らないし、もし断片的に残ったとしてもあの醜態は恥だ……大っぴらには騒げない」
ソウタは懐に入れた許可証を服の上からぽんぽんと叩いて確かに在る事を確認すると一つ小さくため息を吐いた。
「思い出すだけでも鳥肌が立つが……なにはともあれエステリアへの算段は整った、あとは教会の憂いだけだ」
「……私は可愛い格好のソウタもいいと思いますよ」
いつもの穏やかな表情でからかうウシオにソウタは勘弁してくれ……、とうんざりした顔を浮かべていた。
時刻は昼下がり、この日はソウタにとって忘れたくても忘れられない一日となるのであった。
王都の経済を牛耳るヴァール商会のトップを務める大物貴族アヴァール侯爵からの指名依頼を受けたソウタ達が侯爵邸を訪れ、欲に塗れた侯爵の理不尽な要求に振り回される事になった日から数日後。侯爵がまたすぐに何かちょっかいを掛けてくるのではないかと警戒していたソウタであったが存外何をしてくる事もなく、いつもと変わらない平穏で安穏とした日々を過ごしていた。当初ソウタが思い描いていた筋書きとは少々違ったものの無事エステリアへの渡航許可証も手に入れる事ができ、あとは教会の憂いを晴らすのみとなったソウタはこの日も午前中から協会を訪れ元気な子供達と仲良く戯れていた。
昼下がり、遊び疲れた子供達を二階の部屋に寝かし付けソウタ、ウシオ、モニカの三人は礼拝堂奥の食堂でお茶を飲みながら恒例となった大人トークの時間を楽しんでいた。いつも通り明るく笑顔を見せるモニカであったが、ウシオの目には不自然な違和感が、ソウタの目には揺らぐ不安のオーラが見えていた。半月ほど前の侯爵と初めて会った日からモニカのオーラに微妙な揺らぎがある事は気付いていたがこの日はいつにも増して大きく乱れている。
「モニカさん、何か悩み事がありますか?」
ソウタからどストレートに突然図星を突かれたモニカは一瞬固まった。
「……べ、別に、そんなっ……ぁ…………そ、んなに……顔に出て、ましたか……?」
気の抜けたような、あるいは愕然としたような様子でモニカは両手を頬に当て呆然としていた。本当は隠していたかったのかもしれない、知られたくなかったのかもしれない……それでも、ソウタは一歩、彼女の懐へと踏み込んだ。
「モニカさん、実は先日エステリアへ向かう準備がようやく整いました。今すぐというわけではありませんが、じきにボク等は王都を離れます」
モニカは呆然としたまま、ゆっくりとソウタの方へ視線を向けその言葉に耳を傾けている。
「その時にはお世話になった皆に、笑顔で見送って欲しい。だからもし、今モニカさんが心から笑顔になれない何かを抱えているなら力になりたい……ボク達では、頼りにならないでしょうか?」
呆然と聞き入っていたモニカの瞳からつうっと頬を伝い、大粒の滴が零れ落ちた。力なく首を振るも一度堰を切ってしまったそれを止める術はなく、その小さな身の内にどれ程のものを抱え込んでいたのか……ウシオに優しく抱きしめられながらモニカは子供達に聞かれぬよう必死に声を押し殺すように嗚咽を漏らし続けた。
どれだけの時間が経ったか……長年溜め込み続けたものを吐き出して少し落ち着きを取り戻したモニカはウシオの腕の中で、泣き腫らして真っ赤になった目元を拭いながら静かに語り始めた。
「侯爵様が食材を届けに来て下さったあの日、ソウタさん達が来る前の事です。侯爵様はその……私を、妻に迎えたいと……」
初めて会ったあの日に侯爵は既に動いていた、ソウタは静かに聞き入りながら敢えて踏み込まなかった自身の判断を悔やむ。
「初めはもちろんお断りしました。子供達の事もありますし、私なんかが不釣り合いだと……けれど……」
モニカはギュッとスカートを握りしめ肩を震わせていた。
「子供達も、引き取るつもりだと……一緒でいいと言われて……私は……迷ってしまった……っ」
再び瞳を潤ませ声を震わせて、モニカは懸命に言葉を紡ぐ。
「ぐすっ……覚えていますか? 依然、他のシスターや司祭はいないのかと、尋ねた時の事……」
ええ覚えています、とソウタは短く答え、初めて教会を訪れた日の事を思い出す。今は一人だと答えたモニカの複雑そうな感情を見てソウタは追求するのを躊躇ったのだった。
「本当は……居たんですよ……司祭様も、先輩の、シスターも…………だけどッ!」
突然語気を強めてモニカはより一層強くスカートを握りしめ嗚咽混じりに話を続けた。
「ある日突然っ……居なくなってしまったんです……二人共……っ」
再びウシオの胸に顔をうずめモニカは激しく泣きじゃくった、生まれたばかりの赤ん坊のように。
モニカが泣いているのでここから先はかい摘んで話そうと思う。
元々この教会は司祭とその妻であるマザーと呼ばれていた先輩のシスター、そして王都で教会に入信したモニカの三人で今と同じ五人の子供達と一緒に暮らしていた。王都におけるエステリア教会の経営はとても厳しく、僅かな寄付と施し、労働の対価によって何とか日々を繋いでいた。
そんなある日、司祭とマザーが揃って姿を消した。それもいつかの為にと少しずつ貯えていた教会の僅かなお金と一緒に……。始めは何か事件に巻き込まれたのではないかと心配し街の人に聞いて回ったりもしたらしい、しかし二人の行方を知る人はどこにもいなかった。いつかきっと戻ってくる、きっと誰か助けを呼びに行ったんだと、モニカは司祭とマザーを信じて待ち続けた。しかしその微かな希望はジェントの話で残酷にも打ち砕かれる事になる。
ジェントは司祭とマザーがいなくなる直前、二人が子供達を見捨てて逃げる相談をしているのを偶然聞いてしまっていた。二人がお金と一緒に姿を消したのはそのわずか二日後の事である。この話を聞いた時からモニカは弱音を吐かず涙を見せず、子供達を不安にさせないように常に気丈に振る舞い続けた。大人二人分が浮いた事によって皮肉にも日々の食事は少しだけ増え、街の人の支えもあって何とか今日までやってこれた。
今を生きる事でいっぱいいっぱいだったそんな時、侯爵から結婚の話を貰った。ずっと自分を押し殺して、自分だけは子供達の為にと全てを捧げる覚悟で日々を過ごしてきた。子供達も一緒に引き取って貰えるなら憂いはない、きっとそれは子供達にとっても幸せな事。きっと好きなものを食べられる、きっと好きな服を着られる、子供達の未来を思えばこんな幸運はきっともう二度と巡ってこない……そのはずである。
なのに迷った。迷ってしまった。迷う自分に気づいてしまった。その迷いが誰の為のものなのか、モニカは自分の心がわからなくなってしまった。ずっと子供達を最優先に生きてきた。自分は子供達を見捨てたあの人達とは違う、自分はあんなふうには絶対にならないと、そう誓って生きてきた。なのに……子供達の明るい未来を前に迷いを自覚した事で、モニカは自己矛盾を起こした。自分も結局あの二人と同じなのではないか、これまで信じてきた子供達への思いも覚悟も全部偽物なのではないか、そんな自責の念が重くのしかかりモニカを苦しめていた。
「わからないんです……自分が……どうしたらいいのか……っ」
とめどなく溢れる滴をもはや拭う事もなく、モニカは力なくその身の全てをウシオに預けていた。ソウタはすっかりと冷めたお茶を一口飲むと正面に座るモニカを見据え優しく語りかけた。
「ボク、実は人の心の色が見えるんです」
嘘じゃないですよ、と立てた人差し指を口元に当てながらソウタは笑みを浮かべ穏やかに続ける。
「モニカさん達と出会って、教会に通うようになって、まだまだ短い付き合いですがこれだけははっきりと分かります。子供達皆が、モニカさんを大好きだと」
モニカは潤んだ虚ろな瞳でまっすぐソウタを見つめ耳を傾けていた、ソウタの目に映る彼女のオーラに覇気はなく未だ不安定なままである。上辺だけの言葉ではきっと彼女の心には届かない、ソウタは慎重に言葉を選び紡いでいく。
「厳しい生活の中でも子供達の心がとても優しい穏やかな色をしているのは、きっとあなたが無理にでも笑顔でい続けたお陰だ」
オーラを見ての交渉術だけではなく、自身の心で感じた素直な思いを、心からの笑顔に乗せて、ソウタは目の前の少女へと送る。
「あなたが笑顔でいられる事が、きっと子供達にも救いになるんだと思います。あなた自身の幸せを、諦めなくてもいいんだと思いますよ」
ウシオの腕の中でモニカは再び涙する……虚ろな瞳に微かな光を湛えて大粒の涙をこぼすその姿に、普段のシスターの面影はどこにもない。
たった一人で背負い続けた、たった一人で戦い続けた、たった一人で抗い続けた、正直で、温厚で、謙虚で、勇敢で、誠実で、素直で、純粋で……そして優しくか弱い女の子が、ただ無邪気に泣いていた。
「すみません……お恥ずかしい所をお見せして……」
抱えていたもの全てを涙と一緒に吐き出し落ち着きを取り戻したモニカは顔を真赤にしながら縮こまっていた。冷めてしまったお茶を淹れ直し、ソウタもモニカへ謝罪を返した。
「大して深い付き合いでもないよそ者のボク等が深く踏み込んで良いものか、正直悩んでいました。お詫びと言うならこちらこそです」
申し訳ない、と長々と頭を下げるソウタへモニカはぶんぶんと首を振りながら取り戻したいつもの調子で言葉をかける。
「いえ、そんな、全然、お詫びだなんてとんでもないですっ……聞いて貰えて……全部言えて、少し楽になりました……ありがとうございます」
モニカはすっきりとした様子で恥じらいながらもいつもの笑顔を見せてくれた、ソウタとウシオもこれに笑顔で応える。
「それで、侯爵への返事は決まりましたか?」
ソウタの問いにモニカはしばし俯いて黙ると、意を決したようにお茶をぐいっと一気に飲み干し息を整えてこう告げた。
「やっぱり、きっぱりとお断りしようと思います。今夜侯爵様のお宅へ夕食に招かれているので、そこではっきりと伝えてきます!」
「今夜……!?」
モニカの言葉にソウタは目を丸くした。聞けば今夜求婚の返事を聞きたいとモニカ一人で侯爵邸での夕食に招かれているという、子供達の夕食も侯爵が用意し迎えの馬車が教会まで持って来てくれるとの事。モニカ一人を招いてあの侯爵が何もしないわけがないという絶対の信頼がソウタにはあった、何も手を打たなければ今夜モニカが帰って来る事はないだろうと容易に想像がつく。
ソウタはウシオと顔を見合わせしばし考え込むとモニカを守る為の策を講じる。人形を持たせるのが一番手っ取り早いのだが一応まだ人形の事は伏せている事もあり、代わりにウシオの糸で作ったリボンにオーラを込めお守りという口実でモニカの髪留めに使ってもらう事にした。
「こんな真っ白できれいなリボン、本当に頂いてしまっていいんでしょうか……?」
「ええもちろん、とても良く似合っていますよ。もうモニカさんは一人ではありません、ただ着いてはいけないのでそれはボク等の代わりのお守りに」
ソウタとウシオからのプレゼントをモニカはとても喜んでくれた、しかしそのオーラには未だ不安の色が残っている。ソウタは可能な限り彼女の不安を取り除けるよう手を尽くす。
「食堂の手伝いが終わったらもう一度子供達の様子を見に来ます、モニカさんの帰りを子供達と一緒に待っています」
「本当に、ありがとうございます。よろしくお願いします」
僅かに和らいだもののモニカの不安を完全に取り除いてあげる事はできなかったが流れのサポーター風情にはこの程度が限界である、あとは侯爵とモニカ、どちらにもソウタ達の正体がバレないようにリボンがモニカの安全を守ってくれるよう祈るのみであった。
その後目を覚ました子供達へ、モニカは侯爵から結婚の話を貰っていると正直に打ち明けた。お金持ちの貴族の子供になれる、そう喜ぶ子供達の反応を恐れていたモニカであったがその心配は杞憂に終わる。子供達は誰一人として侯爵との結婚を喜ばなかった。子供というのは存外人をよく見ているものである、侯爵から滲み出る腹黒い気配を子供達は皆本能で感じ取っていた。
口々に侯爵を罵る子供達をたしなめながらも、モニカの瞳からは一筋の嬉しさが頬を伝い零れ落ちていた。それからモニカは侯爵の迎えが来るまでの間、これまでの鬱憤を晴らすかのように子供達と無邪気に遊び、語り合い、大いに笑い合っていた。
やがて夕暮れ時、迎えの馬車が到着するとモニカはウシオに身嗜みを整えてもらい、プレゼントした純白のリボンを揺らしながら一人馬車へと乗り込み茜に染まる街の中侯爵邸へと出立した。
不安げに馬車を見送る子供達の中に一人、ことさらオーラの乱れた者がいた。ソウタはウシオに目配せして他の子供達を先に教会の中へ連れて行ってもらうと、そのしょぼくれた背中に声をかける。
「ジェント」
名前を呼ばれた少年は教会の扉に手をかけたまま振り向く事なくソウタへ言葉を返す。
「……なんだよ」
ソウタはこれまでジェントとはほとんど話した事がなかった、声をかけてもそっけなくあしらわれきちんと向き合って貰えなかった。始めは突然現れシスターや子供達と親しげに接するソウタへの嫉妬からかとも考えていた。しかし今回モニカから過去の話を聞いてその理由を理解した、この少年もまた傷を抱えていたのだと。大人の裏切りを目の当たりにした事、そしてもう一つ……彼の心を締め付けているかつての後悔を、ソウタは解いてあげたいと考えていた。その思いを以って、ソウタは少年の小さな背中へと優しく声をかける。
「シスターが一人で背負い込むようになったのは、君の所為ではないよ」
ソウタの言葉を聞いてもジェントは何も言わず、微動だにしなかった……見た目だけは。ソウタの目に映るオーラには動揺の色が滲んでいる。
「あれは彼女の性分だ、ジェントが責任を感じる必要はない」
「……何を言ってんのかさっぱりわからねえ、独り言なら他所でやれよ」
どうやら白を切り通すつもりらしい、先程まで乱れていたジェントのオーラが落ち着きを取り戻していた。まだ十三歳くらいだったはずの少年とは思えない精神力にソウタも思わず感心する。しかしソウタも簡単には引き下がるつもりはない、既に踏み込んでしまった以上中途半端は許されない。
「ずっと聞こえていたんだろう? こう言っては申し訳ないけど、この教会はもう随分とボロい……壁も床も隙間だらけで、二階にいても階下の声は届く」
ソウタ達が来ている時ジェントはいつも決まって二階に引きこもり寝た振りをしていた。大人トークの時間も子供達が寝静まっていればソウタ達の会話は聞こえていたはずである。
「司祭とマザーの話、シスターに伝えなければよかったと……それが後悔になっているんじゃないのか」
ここまで深く踏み込む事でジェントのオーラは再び揺らぎを見せ始めた……しかし同時に怒りの色も滲み出る。
「……お前に何がわかるんだよ……家族でも何でも無いよそ者のお前が、気安く首突っ込んでくんなよッ!?」
鋭く睨み激しい怒りを剥き出しにする少年を前にソウタは『強いな』と思った。モニカは一人で抱え込んだ結果ボロボロでいっぱいいっぱいになり、ソウタとウシオが踏み込み触れる事で溜め込んでいたものが決壊した。一人で抱え込んでいるという点においてはジェントも同じである。しかし彼はまだ背負ったものを下ろすつもりがない、これからも背負い続けようとしているのである。それが自分への罰であるとでも言うかのように、これからも自分を責め続けるつもりなのだろう。
しかしだからこそ、今ここで解きほぐしてやらなければならないと、ソウタも改めて覚悟を決める。
「もちろん全てを理解できるとは言えない。けれど、血の繋がらない者を家族とする気持ちならボクにもわかる」
ボクにも親はいないしね、とソウタは少し口元をほころばせながらジェントへ微笑みかけた。そんなどこか悲しげなソウタの様子にジェントの怒りも少し和らぐ。
「最初は、街で見かけた子供達が無性に気になって、その理由を知りたくて教会に通うようになった。子供達と触れ合っているといつも、とても懐かしい気持ちが湧いてくる」
ソウタはどこか遠い目で教会の壁をゆっくりと見上げながら、何かを思い出すように話を続ける。
「昔の事をよく覚えていないんだけど、多分ボクにも同じ様な兄弟や家族が居たんだと思う。たまに見る夢も、きっとその頃の記憶なんだろう」
ソウタはもう一度ジェントを見据え、今一度その心へ触れるべく手を伸ばした。
「大切に思う家族を自分の言葉が傷付けたかもしれない……もしそうなったら、きっとボクも自分を責めるだろう。ジェントもそうじゃないか?」
何も言わず、複雑な表情を見せる少年から目を逸らす事なくソウタは手を伸ばし続ける、彼が自らの意思で手を取ってくれる事を願って。
「けれどジェント……どれだけ自分を責めても、シスターは許してくれない。なぜなら彼女は絶対に君の所為にはしないからだ。誰にも許されないまま、これからもずっと自分を責め続けるのか?」
ジェントはソウタの言葉に静かに耳を傾けながら俯いていた。その瞳からはようやく押し留めていたものが溢れ始める。
「なら……どうすればいいんだよ……オレが黙ってれば……モニカはあんな……ッ」
自分を許せず、償い方もわからないままただ己を責め続けてきた強い少年に、ソウタはこれからの道を示すべくそっと手を差し伸べる。
「簡単だよ、シスターの力になってあげればいい。すぐ側で、彼女の笑顔を支えてあげればいい……君が自分を許せるようになる、その時まで」
ジェントはゆっくりではあったが差し伸べられたソウタの手を確かな自分の意志で取ってくれた。ソウタはもう片方の手で下を向きボロボロと涙を零すジェントの頭を優しく撫で続けていた。
こうして少しだけ歩み寄る事ができたジェントに子供達の世話を任せ、ソウタ達は食堂の手伝いの為一度教会を後にした。
ソウタ達が食堂で慌ただしく働いている頃――時を同じくして場所は侯爵邸。アヴァールからプロポーズを受けた教会のシスターモニカはその返事を伝えるべく招待を受けた夕食会に臨んでいた。
お屋敷に着いたモニカはまず使用人達にお風呂場へと連れて行かれそこでしっかりと身を清めた後、侯爵の用意したドレスへと着替えさせられていた。リボンも一度外されたが大切なものだと懇願し何とか着け直してもらった。古いものであれば勝手に捨てられていたかもしれない……モニカはリボンが綺麗な純白であった事に感謝しホッと胸を撫で下ろした。
その後案内された広い食堂には既に侯爵が待ち構えていた。侯爵は自身の用意したドレスに身を包んだモニカをうっとりとした目で見つめ感嘆の声を漏らした。
「おおぉ……実にお美しい……やはりあなたにはドレスが良く似合う」
「あ、ありがとうございます……」
モニカは不慣れな場に緊張した面持ちで、震える体を必死に抑えながらも呼吸を整えプロポーズの返事を伝えようと口を開いた。
「こ、この度は、この様な場に御招き頂きありがとうございます、侯爵様。あの……私は……」
「まあまあシスターモニカ……いえ、モニカさん。物事には順序というものがあります、まずは共に夕食を楽しもうではありませんか。お返事はその後で構いません」
さあどうぞお席に、と侯爵はモニカの言葉を遮って半ば強引に座らせると使用人に目で合図しすぐさま夕食会をスタートさせた。そのままペースを完全に侯爵に握られてしまったモニカは夕食会が終わるまでの間、ほとんど口を挟む事ができなかった。
夕食会は合間合間に侯爵の無駄話を挟みダラダラと二時間ほど続けられた。夕食会も終わりに近づきいらない話を一人で延々喋り続けた侯爵はようやくモニカにも口を開く機会を与える。
「如何でしょう、今夜のお食事はお口に合いましたかな?」
「は、はい、これまで口にした事のないものばかりで、とても美味しかったです」
それはよかった、と侯爵はわざとらしい善人ぶった笑顔で優しくモニカを見つめていた。しばしの沈黙が流れようやく機会が来たのだと、モニカは勇気を振り絞りプロポーズの返事を伝えようと口を開く。
「あの、侯爵様……私を、妻に迎えたいという、お話なのですが……」
「はい」
侯爵は穏やかな優しい表情で静かにモニカの言葉に耳を傾けていた。
「いつも、たくさんの寄付を頂いて、子供達の事も、たくさん気にかけて頂いて……」
「はい」
モニカはこれまでに貰ったたくさんの恩に誠実に向き合いながら心からの感謝を込めて言葉を紡いでいく。
「言葉に出来ないくらい、侯爵様には心から感謝しています」
「……はい」
首飾りを両の手で握りしめ、高鳴る鼓動に体を震わせながらモニカは意を決して思いを伝える。
「……ですが……ですがわたし、は……ぁ…………」
突如モニカの視界はぐにゃりと歪み、テーブルにもたれかかるとそれ以上声を出す事はできなかった。頭の中がぐわんぐわんと揺れ、高鳴る鼓動はドクンドクンとうるさく耳に響き、火照る体に朦朧とする意識は寄る辺を持たない。薄れゆく意識の中……ゆっくりとこちらへ近づいてくる侯爵の『はい』という言葉だけが……いつまでも耳の奥で反響し続けていた……。
モニカが何らかの薬を盛られ眠らされたその様子をソウタはリボンを通してきちんと見ていた。侯爵は眠らせたモニカを己の寝室まで運ぶように使用人達に指示すると一人どこかへと去っていった、とりあえず今すぐモニカがどうこうされる心配はなさそうである。いざとなればリボンもある、多数の使用人の目もあるのでソウタは今しばらく様子を窺う事にした。その後ソウタ達が食堂の手伝いを終える頃まで侯爵は戻ってこなかった、モニカも依然眠ったままである。
最後の客が帰ると食堂の女将アルから恒例となったいつもの声がかかった。
「坊やにウシオちゃんもお疲れ様、今日もありがとうね! また教会に行くんだろ? 持っていけるもん包んでやるからちょっと待ってなよ」
食堂の女将アルには事前にこの後の予定を伝えていた、ソウタは感謝を伝えつつ座るウシオの耳元に寄り周囲に聞こえないくらいの小さな声で状況を伝える。
「モニカが薬で眠らされてる、眠ったモニカと侯爵が二人になったらリボンを人形に変えて侯爵を脅しモニカを連れ戻そうかと思う」
「脅しでモニカさんを諦めてくれるでしょうか?」
ソウタはしばし考え込み自身の考えを言葉に変える。
「死を感じるほどの恐怖を覚えれば大丈夫だと思うんだけど……足りないかな。これまでずっとそれで済んだけど」
ソウタとウシオ、二人してうーんと首を傾げ他に良い方策がないものかと、料理を待ちながら頭を捻っていたそんな時である。営業を終えたあとは普段ほとんど人の声など聞こえないくらい静まり返るはずの外がにわかにざわめいていると気付いたその直後――
「――か、火事だああああぁぁッ!?」
住民の声と思われるその叫びを聞きソウタ達も慌てて外へと飛び出すとすっかり日の落ちた王都の空に向かってもくもくと立ち上る黒い煙をオレンジ色の光がゆらゆらと照らしていた。通りには焦げ臭い匂いが立ち込め微かにパチパチと弾けるような音も響いている。
「ソウタ、あっちは……ッ!?」
慄くウシオの声はソウタの耳に届かなかった。柱のように立ち上る黒とオレンジ色の煙、それを呆然と見つめるソウタの視線の先は……子供達が待っているはずの教会の方角だった――
第七話、お読み頂きありがとうございます。橘月りんごです。
作家さんの多くいらっしゃるこういった場でこんな話をするのもなんですが、物語を作っているとどうしてもやってみたくなる事があります。
感動、ですよね。自分の書いたもので人を泣かせてみたい、そんな欲が私にもあるようです。
実際に涙を引き出せたか否かはさておき、波乱の展開にソウタはどう決着を付けるのか。
心優しい少年少女達の一夜の激動を、今後ともよろしくお願い申し上げます。