第五話
異世界六日目の朝――ソウタとウシオは護衛の仕事で一人街の外へ出るミルドを見送る為一緒に東城門前広場に来ていた。まだ空が白み始めたばかりの早朝であったが周りには出発を待つ馬車が列を成し、開門の時を待っている。王都で仕入れたものをたんまりと馬車に乗せ、これから砦を経由し二週間かけて隣の港町まで街道をひた走る事となる。王都から遠く離れる為人形の遠隔操作や視覚共有も使えなくなる。完全にミルドが一人で仕事を全うしなければならない。考えうるあらゆる状況に対処できるよう事細かに指示をしたがここは異世界、これまでも想定外は何度もあった。出発のギリギリまでソウタは頭をフル回転させて想定外をなるべく潰していく。
やがてどこかからガランガランと大きな鐘の音が聞こえ城門脇に控える兵士が高らかに開門を告げると重厚な扉がゆっくりと、軋む音を鳴き声のように響かせながら開かれその奥にある落とし格子もまたゆっくりと持ち上げられていく。馬車がくぐれる程度まで持ち上がると兵士の呼びかけで先頭の馬車から順番にゆっくりと街の外へ向け動き出した。すぐにミルドの乗る馬車も動き出す、最後まで不安は拭えなかったもののソウタはミルドを信じその背中を見送った。
宿に戻ったソウタは調理場を尋ね食堂の主人ベルゴに火の起こし方を見せてもらっていた。竈の中にも精霊文字があると組合の所長リデルから聞いていたソウタは前日の夜にベルゴに見せて欲しいとお願いしていたのだった。
実際に火を入れる所を見せてもらうと、ソウタの想像していたものとは少し違っていた。竈の中には精霊文字の刻まれた金属板が置いてある。精霊の力を借りて直接火が付くのかと思いきや、金属板が熱くなりその熱で藁やおが屑に着火するという仕組みだった。使われる精霊結晶はクズ片と言われるとても小さなもので、充電式電池のような扱いで精霊を使い切り空になった結晶を業者に返すと替わりの精霊の入ったクズ片と交換してもらえるらしい。精霊という未知の存在に同情を覚える事になろうとはソウタも思っていなかった。
その後組合が開くまでゆったりとした朝を過ごすと女将アルやリコの声援を背中に受け、サポーターとしての初仕事に臨むべくソウタ達は張り切って組合を訪れた。中に入るとそこには受付嬢と共にリデルの姿もあった。
「おはよう、来たね。ミルドさんは無事出立できたかな?」
「おはようございます。はい、早朝出立しました。昨日はお世話になりました、今日からよろしくお願いします」
ソウタは恭しくお辞儀をして挨拶を交わすと早速掲示板の前に立ち貼り出されている依頼を眺める。報酬の良いものは早々になくなってしまうがソウタが狙っていたのは依頼人とゆっくり話ができそうな報酬の低い依頼だった。理由は単純、報酬の低さゆえ焦らなくても取られる心配がない。食堂の手伝いでも報酬は貰っていたのでそこまで稼ぎに拘る理由がソウタにはなかった。適当に自身の分を見繕い、例の蔵書整理の依頼も合わせて受付へ持っていくと受付嬢にもリデルにも、周りのサポーターからすら驚かれた。
「ソウタ君これ、本当に受けるのかい? いや、所長の私がこんな事言うべきではないんだけど……」
「見聞を広げる事が我々の旅の目的なので願ってもない依頼です。お願いします」
朗らかに語ってみせるソウタにリデルも受付嬢もそれ以上何も言えず、手続きを済ませたソウタと秘書は無事それぞれの受託証を受け取る事ができた。受託証を懐にしまいながらソウタは聞きそびれた質問をひとつ、リデルへ尋ねる。
「そういえば、同時に三件まで受けられるという事でしたけど、一日の内に何件も受ける事はできるんですか?」
「ああ、できるよ。特に期限などが指定されていない依頼であれば日暮れまで手続きを受け付けている」
わかりました、と感謝しソウタ達はまず大書庫を目指してリデル達の声援を背に組合を後にした。
大書庫に着くと入口の前には昨日の老人が立っていた。待ちきれず早朝から待っていたのだという……この御老人見た目よりずっと元気である。受託証を見せ正式に依頼を受けてきた事を伝えると老人は深々と頭を下げて感謝を述べた。
「昨日は名乗りもせずに失礼した、儂とした事があまりの事にうっかりしておった……改めて名乗らせておくれ。儂の名はレーヴ、ここのしがない司書をしておる」
ソウタ達も改めて名乗ると自分達も別の仕事があると告げ、秘書を置いていく旨を伝えた。
「存分にこき使ってやって下さい、手が空いた時は我々もお手伝いに来ます」
大書庫の司書レーヴと秘書に別れを告げソウタ達が来た道を戻り階段を降りていると、書庫の中から精導術から行きましょう! と意気揚々の秘書の声が外まで漏れ出ていた。意地でも人形の手伝いを得たいらしい。正直な所ソウタにとっても人形が問題なく使えるようになる事は喜ばしい事である、作業効率は格段に上がるので秘書には是非とも頑張って欲しい、とソウタは密かに期待を寄せていた。
ミルドと秘書をそれぞれの仕事に就かせ、いよいよソウタも自身の依頼人の元へと訪れた。そこは何の変哲もない街中の民家、ソウタがサポーター最初の仕事として選んだのは『掃除の手伝い』であった。詳しい依頼内容を聞く為扉をノックすると、二階から人が降り近づいてくる気配が感じられた……いや、気配ではなくけたたましい音がだんだんと近づいてきた。どたばたがらがらばたーんどどどどがっしゃーん……と到底朝の民家から聞こえてくるものとは思えない音を振動と共に響かせている。人の家のはずなのだが猛獣でも飼っているのだろうか……等と考えているとようやく扉が開くとよれよれでシワだらけの服を着ただらしのないぼさぼさ頭の今起きましたと言わんばかりの見た目の若い男性が埃と一緒に出てきた。ソウタは依頼人本人であるかどうかを確認する。
「……サポーター組合より依頼を受けて参りました、『掃除の手伝い』依頼人の方でお間違いありませんか?」
「けほっけほっ……あ……ああ、受けてくれる人いたんだ。あー……変わった格好だね……まあその、とりあえず中に……入れないね」
肩をすくめる男性の背後、家の中はもうよくわからないくらいモノが散乱していた。火を付けたら粉塵爆発を起こしそうなほど埃も舞っている。何十年と放置された倉庫の方がまだ綺麗かもしれない。
「うわー……きったなーい……私外で待ってるー……」
家の中を見たスイカはテンションダダ下がりでうんざりといった表情を見せ、早々に見切りをつけると一人屋根まで上ってひなたぼっこを始めた。気を取り直してソウタは男性に依頼内容を確かめる。
「ご依頼内容はこのお家の中の掃除、という事でよろしいでしょうか?」
「あー……うん、そうなんだけど捨てるのとかは無しで……全部、大事だから。あと一階だけ、二階は大丈夫」
二階はダメ、と男性はジェスチャーも交え強く念を押してくる。ソウタとウシオは顔を見合わせ頷き合うとウシオが懐から出した布をマスクと頭巾にし完全防備で事に臨む。
いざ中へ踏み込むも文字通り足の踏み場もなく、倒れた家具が別の家具の上へ、アスレチックか積み木のように折り重なっていた。呆れたソウタがため息混じりにうんざりした目を依頼人に向ける。
「どんな生活をしたらこうなるんでしょう……」
「いやあ……普通に暮らしてるだけなんだけど、おかしいよね」
おかしいのはあなたの方だ……と突っ込みたい気持ちを抑えソウタはウシオと協力してまず手近な小物から一度外へ運び出す。道を作り窓を開け換気をして埃を追い出し、外へ出せない大きな家具は壁際から起こして使えるスペースを増やす。先程外から見た時は壊れた家具もあるように見えたのだが、よくよく見てみると不思議な事に折れたり割れたりと言った破損はほとんど見られなかった。
「思ったより全然壊れてたりはしませんね」
「まあ……大事にしてるからね」
どの口が……と突っ込みたい気持ちを抑えソウタとウシオはテキパキと掃除を進めた。二人共流石の手際の良さで、およそ二時間ほどで家の中は見違えるほど綺麗になった。片付いた部屋の中を見渡しているとソウタはふとある事に気がついた。
「ここはお一人で暮らしているんですか? まるでお二人で暮らしてるような感じがしますが」
テーブルに椅子は二脚、食器なども二人分、誰が見てももう一人いる事を匂わせる。
「まあ、今は僕一人だよ。ここは昔じいちゃんとばあちゃんの住んでた家だから、二人分あるのは当然さ」
話を聞くと男性は祖父母が亡くなった後この家を引き継いだらしい、祖父母が大好きだったので残されたものはなるべく捨てたくないのだと言う。
「じいちゃんはまだサポーター組合ができる前から街の外に出て魔獣と戦ってたようなすごい人で、この王都でも結構有名だったんだ」
そう語る男性はまるで自分の事のようにとても誇らしげな表情をしていた。
「その時の稼ぎなんかを結構残してくれて、この家もそう。お陰で恥ずかしながらだらしない毎日を送ってるよ」
男性はぼさぼさな髪で目元を隠しぽりぽりと頬をかきながら照れた様子を見せていた。
「それで大切にされてるんですね……であれば、二階も掃除した方が良いのでは?」
ソウタが階段の方にチラリと視線を送ると男性は慌てて階段を身を挺して塞ぎ、しどろもどろになりながら断固拒否した。
「だめだめだめだめ絶対だめ、上にはなんにもないから、じいちゃんの残したつまんない魔獣の本とかしかないから」
男性のこぼした言葉にソウタはピクリと反応した。長年魔獣と戦っていた人物の残した魔獣の本、これは是が非でも見てみたい。ソウタは男性に事情を話しその本を見せて欲しいと熱心に頼み込んだ。始めは若干渋られたが二階の掃除で脅……説得し、男性の祖父が残したという魔獣の本を見せて貰う事ができた。
内容を要約すると主に王都周辺の魔獣の生息域、生態や習性、戦う時の注意点や得られる素材の使い道など、おじいさんが長年積み重ねた魔獣の知識が克明に記録されていた。それだけでも十分過ぎるほど価値のある内容であったが、ソウタはその中に非常に気になる一文を見つけた。
「魔獣の体内から精霊結晶を取り出す際は周囲の安全を十分に確保し、結晶を傷つけないように慎重に……」
「あー……精霊結晶の詳細な位置とか注意点だね、結晶は砕ける時蓄えた精霊を放出するんだって。まあ僕は精霊なんて見た事ないけど、砕けた時の衝撃は結構すごいらしい」
精霊結晶は魔獣の体内にある――ソウタはスイカと出会った時に見た野犬のような魔獣の持つオーラの塊を思い出していた。
「(あの気の塊はそういう事か……馬にはそれらしいものは見られなかった、そこで魔獣との見分けがつけられるか?)」
思いがけない収穫を得て静かに本を閉じるとソウタはこの本がどれだけ価値あるものであるかを男性に切々と説いた。これほど素晴らしいものであるのなら王立大書庫に収蔵されていても不思議ではない、いや収蔵されるべきである! とオーラを見ながら巧みな話術で男性をその気にさせ、祖父の残した様々な書物を書庫へ持っていくように仕向けた。
すっかり気を良くした男性に受託証のサインを貰い別れを告げると、ソウタはひなたぼっこしていたスイカと合流し早速組合へと戻っていった。時刻はまだ正午前である。受付にてサイン入りの受託証を渡すとすぐにその場で報酬を受け取る事が出来た。
『掃除の手伝い』――報酬、銀銭二枚。
食堂での一人分の食事代と同じ金額である。二人がかりで二時間もかけて一食分、割に合うかどうかは微妙である。サポーターとしての初仕事を終え受付嬢からお祝いの言葉を貰ったソウタは感謝の言葉を返しすぐに次の依頼を探す。この時間になると報酬のいい依頼はほぼ残っていないがソウタにはあまり関係ない、残り物から一つを選び手早く手続きを済ませると急いで次の依頼人の元へと元気よく駆けていった。
ソウタが二つ目に選んだ依頼は『農場の手伝い』、街の南西部に点在する農家の一軒を訪ねていた。周囲はとても長閑で草と土の匂いを乗せた風が穏やかにソウタ達の鼻先をかすめて流れていった。
依頼人と顔を合わせるとソウタは礼儀正しく挨拶をした、のだが……最初の反応は微妙なものだった。というのも農家の仕事は力仕事が多い為大人の男性が来てくれるのを期待していたらしい。そこに訪れたのが子供と女性である、がっかりするのも無理はなかった。だがソウタもウシオもその力は常人のそれを遥かに凌駕する。納屋の整理や古くなった柵の建て替えなど、重い木箱も丸太も難なく軽々と運んで見せるとすぐにくるっと手のひらを返しソウタ達への対応は随分と良くなった。少し作業をして遅めのお昼休憩を取ると言うのでそのついでに色々と話を聞かせてもらう事ができた。
農家の方曰く、何でも少し前から隣の国への行商が行えなくなっているらしい。ミルドの向かった港町から更に北東に進んだ所には隣の帝国との国境に面した関所街があるという。その国境というのは山脈から流れてくる川を境界線としており、王国と帝国を結ぶ大きな橋がかかっている。この橋が何らかの理由により通行できなくなり現在帝国への道は閉ざされてしまっているのだと困っている行商人から聞いた、との事であった。
「その橋以外に帝国へ行く道はないんですか?」
「そごだけだなぁ、北は越えらんねえ山があるし……あどは船で向ごうがら遠回りしがねえべか」
港町からは船で東側に渡る事ができるらしい、陸続きにもなっているが帝国領を通る必要があり現状船しかないという。だが――
「船も許可証ば必要だって贔屓の行商が嘆いでたっげなぁ、王都で仕入れでも高ぐ売れんのは向ごう岸だで首回んねえと」
港町から対岸へ渡る船は基本商品を運ぶ貨物商船であり人を運ぶものではないらしく、特別な許可証を持っていないと商人すら乗れないという事だった。その許可証の入手手段についても尋ねてみたのだが農家には縁のない話である、当然知るはずもなかった。
「(いつか王都を出る際に帝国へ行けるようになってればいいけど……船も気になる、対岸にも街があるという事か)」
最悪飛んでいく手もあるがこの世界には現状空飛ぶ乗り物の類は見当たらない、万が一にも目撃されないよう注意する必要がある。いずれにせよ当分先の話になる、ソウタは頭の片隅に置いておく程度に留める事にした。
その後作業を再開したソウタ達は順調に依頼を終えると、受託証のサインと一緒に少しの作物を分けて貰っていた。ありがたく頂戴し感謝と一緒に別れを告げるとソウタは組合に向け元気よく駆け足で帰っていった。途中食堂に寄り道し女将のアルへ頂いた作物をプレゼントした、旬のものらしく喜んでもらえたようである。寄り道を済ませ足早に組合に着くと受付で受託証を渡し本日二度目の報酬を受け取る。
『農場の手伝い』――報酬、銀銭三枚……プラス少しの作物。
ソウタとウシオの二人がかりで休憩込み三時間と少し掛かっているのでこれも恐らく常人一人では割に合わない仕事である。仕事を二件片付け時刻は午後三時頃、日暮れまでまだ時間はある為三件目を探すつもりのソウタだったが思い直し、一度書庫の様子を見に行く事にした。
突然で申し訳ないが三面六臂という言葉をご存知だろうか。三つの顔と六つの腕を持つ阿修羅像に由来すると言われている言葉で、一人で数人分もの働きがある事を意味する。何故いきなりそんな話を持ってきたかと言うと今まさに、ソウタは三面六臂を目の当たりにしていたからである。
書庫に着いたソウタが扉を開くとそこには腰を抜かし恐れ慄く老人の姿があった。一体何事かと駆け寄りソウタが老人の視線を追った先に……それはいた。恐ろしい速さで書物を整理していく阿修羅の如きその男が……。阿修羅はソウタ達に気が付くやいなや何冊かの書物を手に恐ろしい形相のままじりじりと近づいてきた……その刹那、ソウタは反射的に右手でデコピンの形を作り驚異的な速度で指先にオーラを固めると迫る阿修羅の顔面目掛けて躊躇わずに撃ち放った。
「――ぷぇぁいッ!?」
反射的に放たれた穿点に顔面を撃ち抜かれ奇妙な鳴き声を上げてびたーんとひっくり返った阿修羅は顔を両手で抑え痛みにじたばたともがいていた。やがて顔を覆っていた手を離し上体を起こすとソウタへ向けて叫ぶ鼻血を垂らした秘書が現れた。
「何するんですかぁ! せっかくいい報告があったのにぃ!」
「……ごめん、異形の魔獣かと」
少し離れた所で老人レーヴの介抱をウシオに任せソウタは気を取り直して秘書の持ってきた書物を手に取り内容を確認していく。その書物は精導術によるある検証とその結果が記された資料のようであった。
「見て貰いたいのはこれです、これ! 精霊に体を与える検証実験!」
それは身体となる素体、精霊を収めた結晶、そして精霊文字を組み合わせる事で精霊に動ける体を与えようという試み。目に見えない精霊と意思の疎通を図る事ができれば精導術のみならず社会の発展に大きく貢献する、そんな可能性を追求する検証実験である。
「……なるほど、素体、精霊、文字の最適な組み合わせが発見できず一時保留、と」
確かにこれであればその組み合わせを発見したという体でソウタの人形も説明はつきそうである。……が
「……未発見となると目立つかな、高位の術士は宮仕えだというから王宮に目をつけられても嫌だし」
面倒事は避けたいとソウタが渋い反応を見せると秘書はあからさまにがっくりと肩を落とした。落ち込む秘書を放置してソウタはレーヴの元へ歩み寄ると藪から棒に一つ問いかけた。
「レーヴさんは精導術についてどの程度御存知ですか?」
唐突に投げかけられた質問にもレーヴは落ち着いた反応を見せる。
「精導術か、君らは随分精導術について熱心じゃの。ふむ……若い頃チラリと見た程度じゃが、精霊の偉大さを示すに十分なもんじゃったの」
あれは奇跡じゃ、と老人は過去を振り返りしみじみといった様子で答えた。ソウタはやや思案しながらもう一つ尋ねる。
「精霊が体を持って動く、そういった精導術の研究もあったようです。動く精霊を見たらどう思いますか?」
「動く精霊か……ほっほ、それは生きてる内に是非見てみたいのう」
レーヴの反応やオーラを確認するとソウタはでは見てみましょうか、とおもむろに袖から一枚の依代を取り出し力を込めて下級人形をレーヴの目の前に出して見せた。突然現れた白いモチモチとした球体にレーヴは目を丸くしたが、存外冷静であった。
「これは……たまげたの……こんな事ができたとは」
ソウタは長になる為の試練の旅という自分達の設定を打ち明け下級人形を村に伝わる門外不出の秘術であると説明し、決して口外しないで欲しいと告げた。
「こちらでは精導術というようです。多くの人に知られ騒ぎになって王都に居られなくなれば書庫の仕事もできなくなります、どうかご内密に」
人差し指を立て口元に添えてソウタがお願いすると、レーヴは笑いながらそれを了承した。
「ほっほっほ……見た目に似合わず中々どうして、強かじゃのう。儂にはここが全てじゃ、お前さんの言う通りにしよう」
説得と言うよりは脅迫。ソウタは素直に謝罪と感謝を述べるともう何体か人形を出し、以後書庫の整理に人形をつけ作業の効率化を図る事にした。
夕暮れ時までソウタ達も蔵書の整理を少し手伝い、段々と暗くなっていく空の下揃って帰路に着く。昼はサポーターとして依頼をこなし、夜はウシオがエプロンドレスをはためかせ食堂を手伝い、一日の終りに時計のゼンマイを巻いて眠りにつく。そんな日々を数日繰り返した異世界八日目の夕方、帰路についたソウタ達は女将アルから食堂を追い出される秘書に遭遇した。急ぎ駆け寄り声をかける。
「うちは飯屋だ、そのままじゃ入れるわけにはいかないよ! さっさと行っといで!」
「何をやらかしましたか?」
食堂の前で腕を組んだアルと道端に正座する秘書の元へ駆け寄るとソウタは事情を尋ねる。
「臭いだよ、坊や達は気にならないかい? ……全然臭わないどころか、いい匂いだねウシオちゃん」
ウシオに顔を近づけクンクンと鼻を鳴らす女将は驚いた表情で穏やかに微笑むウシオと顔を見合わせていた。異世界に来てから忙しすぎて失念していたと、ソウタは申し訳無さそうな秘書を見つめながら胸の内で反省する。
「すいません、忙しくて忘れてました。どこか体を拭ける場所はありますか?」
ソウタも申し訳無さそうにアルへ尋ねると、アルはすごいドヤ顔で答えた。
「あるよ、王都自慢のとっておきのいい所が。あんた達も一緒に行っといで」
自信満々なアルを前にきょとんとした顔でソウタはウシオや秘書と顔を見合わせていた。
アルに教えて貰った場所は大通りの北側、街の中央を流れる水路沿いの坂道を少し上った場所にあった。白い建物の至る所から白い湯気がもわもわと溢れ出ている。
そう、日本人の心であり魂の洗浄――風呂である。
水の豊かな王都には古くからお風呂の文化が根付いているのだと受付の人が教えてくれた。お値段は一人あたり銀銭三枚で共同浴場、四枚で個室の貸切風呂が使えるらしい。一食が銀銭二枚である事を考えると中々贅沢な代物である。一階が共同浴場、二階と三階に個室の貸切風呂がある。入り口を入ってすぐの受付で支払いを済ませると一人一枚小さなタオルを貸してくれた、タオルと言っても地球で言うふわふわなものではなくさらっとした手ぬぐいと言った感じである。
秘書を一人共同浴場に向かわせソウタとウシオは個室のお風呂へと案内してもらう。個室は中が覗けないような造りの折れ曲がった通路の先に脱衣所があり、部屋中央の衝立で隔てられた向こうに湯船がある。湯気がこもらぬよう天井付近には木の格子が付いた窓もあった。建物全体が白い石材を切り出したブロックで出来ており綺麗にカットされたブロックが隙間なく滑らかに並ぶ湯船は実に見事なものである。壁には湯を吐く猛々しい獅子の彫刻が刻まれ、異国どころか異世界でありながらも情緒を感じさせてくれる。
「思っていたよりもずっと立派なお風呂ですね」
ウシオの体は汗をかいたりしない為入浴の必要性はなかったが、それでもやはり久しぶりのお風呂にとても嬉しそうにしていた。
「これに入るの? 熱くない?」
スイカも初めてのお風呂に興味津々といった様子である。早速ソウタ達は脱衣所の籠に衣服を畳んで入れ、かけ湯して汚れを落としタオルで全身を磨いてから湯船へ。スイカには深すぎるので人形で作ったスイカ専用の風呂桶を用意してあげた。
「「「はぁぁぁぁぁぁ……」」」
湯に浸かるとどうしても漏れてしまう溜め息でハーモニーを奏でソウタとウシオは八日ぶりの、スイカは初めての入浴を堪能していた。
「これきもちいぃぃぃぃ……水の妖精になっちゃうぅぅぅぅ……」
「やっぱりお風呂はいいですねぇ」
「少しぬるいけど……悪くない……ここにも精霊文字があるんだな」
湯船の床の石材には水路と同じ浄化の精霊文字が刻まれていた。精導術、便利なものである。ややお値段は張るものの週一くらいならいいかな、とソウタは久しぶりのお風呂に寛ぎながら王都を拠点にして良かったとしみじみと思うのであった。
久しぶりのお風呂を存分に堪能した後湯船から出るとここで一つ問題が発覚した。
「このタオルで水気を拭き取るの大変ですね」
そう語るウシオの手にあるタオルは吸水性に乏しい小さな手ぬぐいタイプ、既に濡れている上拭いて絞ってを繰り返すのも一苦労であった。するとソウタはウシオからタオルを受け取り、こうしたらいい、とタオルにオーラを込めるとタオルの人形を作った。タオルの素材は植物の繊維である事がほとんどで、普段用いている紙の依代と同じようなものである為ソウタの力とは親和性があった。人形になったタオルは大きくなった上に勝手に動きじっとしているだけで体を拭き上げてくれる……だけでなく、水気を絞る作業も一人でやってくれる何とも便利なものになった。ウシオの色々と大きな体も、ソウタの小さな体も、スイカのもっと小さな体もあっという間に全身の水気を拭き取り二人はさらっと着替えを済ませた。ウシオとスイカを入り口で待たせソウタが共同浴場の方へ秘書の様子を確認しに行くと、そこには服を眺めて立ち尽くす全裸の秘書がいた。お風呂に入って体は綺麗になったのだが……服に染み付いた臭い問題が未解決だった。
「ど、どうしましょう……?」
「……少しそのまま待っていろ」
ため息混じりに引き返すとソウタはウシオに糸で小さな布を一枚作ってもらいそれを人形化する事で一時的に服を作りその場をしのいだ。秘書の衣服も用意しなければならないのか……とお風呂からの帰り道、当面の出費を心配するはめになり体は綺麗になったのに心のモヤモヤは晴れないソウタであった。
異世界九日目の朝――食堂の裏手を借り自身の汚れた服の洗濯を済ませ書庫へと向かう秘書を見送ったソウタは、ウシオと共に宿の部屋であるものの到着を待っていた。しばらくすると開いた窓から白い小鳥が二羽、部屋の中へ飛び込んできた……小鳥型の人形である。鳥人形はソウタの腕に止まり次の指示を待っている。
「それ、あの時飛ばした人形ですか?」
ウシオが尋ねるとソウタはそうだよ、と頷きテーブルの上に鳥人形を降ろした。テーブルの上には他にも事前に用意しておいた紙とペンが置いてある。
「これでこの世界の地図を作る、とりあえず今いるこの大陸だけだけど」
この二匹の鳥人形はソウタが巨大樹の島を離れ、農村を見つけて森へと降り立つ直前に飛ばしていたものである。与えていた指示は二つ、海岸線に沿っての飛行と地形の記録である。二匹を時計回りと反時計回りにそれぞれ飛ばし所要時間を半分にした。
ミルドが喋れる事から推察出来たかも知れないがソウタの人形にはちゃんと知能がある。物理的に脳のない下級や中級にも知能は与えられていて必要であれば喋らせる事も可能である。人形の知能は術者に依存し、術者の知らない知識や技術はたとえ指示しても遂行する事は出来ない。何故知能を与えているかと言うと、そうしなければ術者の指示を理解できない為である。作戦行動などで連携を取らせる際、作戦の意図を理解できなければ十全な連携を取る事は難しい。完全に手動で操作するのであれば問題はないが、距離の制限もあり手動制御が使えないという事が過去にあった。そうした経験から人形には最低限の知能が与えられるようになったのである。
ソウタは二匹の鳥人形をくっつけて一体の小さな下級人形を作り、二匹の記憶を元に紙に海岸線の地形を描かせていく。
「元々ある地図ではだめなんですか?」
この世界にも当然この世界の人々が作った地図がある、ウシオが疑問を呈するとソウタは人形の描く地図を見つめながらその問いに答えた。
「ちらっと見たけど……単純に精度が低い。魔獣の存在で人の生活圏が限られているから無理もないんだけど」
あと高すぎる、とソウタは現地の地図の様々な問題点を挙げていった。現在のソウタ達の懐事情では手の届かないお値段である。
「それに帰還が成った時はこちらの情報として持ち帰る事になる、なるべく精度の高いものを用意できるならそれに越した事はない」
数分の後、人形の描き上げた大陸図は明らかに地球のものとは違っていた。横に長い西側の大陸と東側の大陸が北側の一部で繋がっている、この繋がっている部分が恐らく帝国と呼ばれる国だろう。他にも海を超えた南東の方角に別の大陸もあるようだが、この地図には描かれていない。
ソウタ達のいる王都は西側の大陸の中央南部、大陸中央を東西に走る巨大な山脈地帯と南に広がる広大な森林地帯に挟まれた場所に位置する。隣接する川に沿って南西の方向に農村バードルフ、森に沿って東南東へ進んだ沿岸部に港町がある。人形はその他にもいくつかの地点に街と思われる印を付けたがどこも王都からは遠く、現状やはり最も近いのは港町という事になりそうだった。
「次に目指すとしたらやっぱり港町になるか……残りの百七十日をどう使うか……」
未だ『神吏者』に繋がる手がかりはない、安定した活動基盤を確保した今情報収集はこれから加速する事になるがそれでも一つ所に留まり続けるわけにもいかない。今のところ秘書の働きに期待する他なく、ソウタは難しい判断を求められる。
「今後はボク達ももっと積極的に『神吏者』の話を聞いて回ろう……と言う事で、今日も頑張って働こうか」
「はい、頑張りましょう」
ウシオと笑顔を交わしソウタは二匹の鳥人形を再び空へ放つと今日も元気に王都の街を駆け回るのであった。
地図を作成した九日目から数日後――ソウタは誰も手に取らない様な割りに合わない依頼を連日こなし、同時に『神吏者』について虱潰しに街の人々に聞いて回っていた。しかしほとんどの人が初めて聞くと答え、お年寄りに聞いても要領を得ない返答ばかりであった。噂話どころかおとぎ話としてすらほぼほぼ誰も知らないレベルである。言い伝えや伝承は土地柄などにも影響を受け、あるいは長い時間を経て名前や形が変わったりする事もあるかもしれない……だがそれにしてもである。影すら掴めないその存在の希薄さにもはや作為的なものすら感じるソウタであった。
今日も今日とて依頼をこなし『神吏者』について聞いて回るもこれと言った収穫もなく、帰路についたソウタは水路沿いの夕暮れの街並みに集う子供達の中に見慣れた姿を発見する……宿の娘リコである。子供達の中には一人修道女のような格好の女性もおり、随分若く見えるが保護者のようである。
女性と戯れる子供達をしばし見つめていたソウタはその瞬間、白昼夢を見る――
――声が聞こえる。楽しそうに笑う子供達の声。大人の声も聞こえる……懐かしい、優しい声。
――……呼んでる、行かなきゃ……待って……僕も……ほら、×××も………………――――――
「――ソウタ?」
心配そうなウシオの呼び声にフッと夢から帰ってきた後もしばしぼうっとしたまま、ソウタの見つめる先にもう子供達の姿はなかった。
「ソウタ、どこか具合でも悪いですか? 急に立ち止まってぼうっとして……」
「……また、あの夢……」
いつからか度々見るようになった夢、それもいつも同じような夢。景色や情景はなく何も見えない暗闇に聞こえてくるのは子供達の声ばかり。そして目が覚める時は決まって誰かに呼ばれている気がする、そんな夢。右手で軽く額を抑えソウタはたった今見た夢を思い返していた。
「(これまでは寝てる時だけだったのに……それに今日は呼ばれただけじゃない……ボクも誰かを呼んで……)」
この夢を見た時ソウタはいつも決まって胸が苦しかった。けれどつらいものばかりではない、同時に温かいものも感じる……そんな痛み。
「ソータだいじょーぶ? 頭痛いの?」
俯いて動かないソウタを心配したスイカが下から顔を覗き込んでいた。それを受けソウタは顔を上げると心配そうに寄り添うウシオとスイカへ微笑んで謝罪の言葉を口にした。
「ごめん二人共、大丈夫……異常はない。ただいつもの夢と違ったから、少し考えていただけ」
そう話すソウタは先程子供達のいた場所を、今は誰もいないその場所をしばし見つめていた。日はすっかりと沈み辺りは暗くオレンジ色のランタンの灯りが小さく街を照らすのみである。静かに呼吸を整えるとソウタは帰ろう、と再び宿に向け一人歩き出した。スイカとウシオも後を追う、心配な気持ちの晴れないまま、その小さな背中に静かに寄り添って――。
宿に着くとすぐに女将のアルが声をかけてきた。食堂の営業開始直後である、テーブルもカウンターも既にお客さんで埋まりお酒片手にウシオへ手を振っている。ソウタ達はすぐに準備します、と手伝いを始めようとするとアルはそれを静止した。
「ああ、今日は違うんだよ。いや手伝って貰いたいのはもちろんなんだけど、先にお使いを頼まれてくれないかい?」
お使い? とソウタ達が首を傾げているとアルは出来たて熱々の料理の入った鍋をそのままソウタへ手渡してきた。蓋の隙間から溢れる湯気と香りだけでもう美味しい。
「こいつを向こうの教会まで頼みたいんだよ、アルからだって言えばわかるはずだから」
リコに案内を頼んだから、じゃ頼んだよ! とソウタ達は忙しそうなアルの勢いに押され言われるがままにお使いへと出立した。
リコの案内で宿から水路の方へと進み、水路を超えて薄暗い路地を西へ進んでいく。依頼に便乗して街のあちこちを見て回ったソウタ達だがこの辺りはまだ来た事がなかった。住宅地ではあるはずだが灯りの点いている家は少なく軒先のランタンも点々とわずかに灯るだけ、日暮れ直後にも関わらず周囲は深夜の如く静まり返っていた。リコの持つ灯りを頼りに暫く進むと左側に周りの住宅より二回り大きい建物が現れた。暗くてよく見えないが結構ボロそうである。
リコがノックもせずに扉を開くと建物の奥に向けてシスター! と大きな声で叫んだ。リコの声にパタパタと慌ただしく現れたのは夕方に見たあの修道女のような格好の女性だった。シスターと呼ばれた女性はウシオよりやや背が低く、十代半ばと言った感じの若々しい顔をしている。
「あらあらリコちゃん、忘れ物ですか? あら、そちらの方々は?」
ソウタ達はシスターへ丁寧に挨拶と自己紹介をするとアルからお使いを頼まれたと鍋を掲げてみせた。
「ああ、また、そんな、いいのでしょうか……あ、どうぞ入って下さい、何もおもてなしできませんが……っ」
誘われるまま中へ入るとそこには礼拝堂と言った感じの天井の高い厳かな空間が広がっていた。……ただしやっぱりボロい。礼拝堂右奥の扉まで通され中へ入ると長いテーブルに着く子供達の姿があった。こちらも夕方見た子供達である。見慣れぬソウタ達の姿に子供達は警戒を見せるものの鍋から漂う美味しそうな香りにすぐ警戒を忘れてはしゃぎ始めた。
「もう、皆落ち着いて、食堂でバタバタしちゃいけませんよ……っ」
シスターはソウタから鍋を受け取り子供達へ配膳を済ませると子供達はすぐに食事に夢中になりようやく落ち着きを取り戻した。子供達を食堂に残しシスターとソウタ達は礼拝堂に場所を移していた。
「すみませんご挨拶が遅れました、私この教会のシスターをしているモニカと言います。お料理ありがとうございました」
ぺこぺこと何度も深々と頭を下げるモニカにお礼ならばアルさんに、とソウタは頭を上げるよう促した。
モニカに詳しく話を聞くと、あの子供達は様々な理由で親を失くした孤児で、教会ではそういった子供達を保護しているという。アルとは子供達と遊ぶリコ伝手に知り合い、事情を知ったアルの善意でたまにこうしてお裾分けして貰っているのだそう。
「シスターモニカお一人ですか? 他のシスターや司祭の方とかは」
ソウタが尋ねるとモニカは途端に俯き悲しそうに今は自分だけだと呟くように答えた。しかしソウタの目に映るモニカのオーラは悲しみだけではない、とても複雑な感情を示していた。踏み込むべきではないか、とソウタは反省しそれ以上の追求を避ける。
その後すぐ食堂の手伝いがあるとモニカに別れを告げ、ソウタ達は早々に教会を後にした。帰り道、何かを考えながらぼうっと歩くソウタへウシオが声をかけた。
「考えているのはモニカさんの事ですか? それとも子供達の事ですか?」
夕方子供達を見てからのソウタの様子をウシオはずっと心配していた。ウシオの問い掛けにソウタはゆっくりと、自分でも確認するように答える。
「……両方……だし、教会の事も……かな」
モニカの反応の事、妙に気になる子供達の事、夕方の白昼夢の事、そしてこの世界の宗教の事、気になる事は山ほどあった。再びソウタがもやもやと悩み始めていると感じたウシオはそっとソウタの背中に手を添え自身の考えを伝えた。
「気になる事があるならとことん追ってみたらいいと思います、踏み込んでみなければわからない事もあるでしょう」
「……そう、だね。行動あるのみ、か」
ようやく顔を上げソウタはウシオと笑顔を交わす。悩んでばかりでは、ウシオ達に心配をかけてばかりではいけない。自身の胸に募るもやもやが何なのかを知る為、そしてそれを晴らす為、シスターや子供達の事をもっと知りたいとソウタはもう一度教会を訪ねる事を決めた。
宿に戻ると待ってました! と酒に酔った客がウシオの登場に大きな歓声を上げた。すっかり食堂の名物となったウシオに負けじとソウタもすぐに手伝いに掛かる、こうして今宵も王都の街角に優雅にエプロンドレスの花が舞う。迷いをかき消す賑やかな憩いのひと時にソウタも自然と口元をほころばせていた。
盛況の喧騒も過ぎ去り部屋に戻ったソウタはベッドに腰掛け一日の終りに時計のゼンマイを巻いていた。巻き終わった時計を懐にしまうとウシオがランタンの火を消し二人揃って床につく。そのまま眠りにつくかと思いきや、そっとソウタを抱きしめていたウシオが囁くような小さな声でソウタに声をかけた。
「教会を訪ねるならサポーターのお仕事はしばらくお休みにしますか? 食堂のお手伝いでお金の心配はありませんが」
ウシオの声にソウタは閉じていた目を半分だけ開き、少しの沈黙の後同じように小さな声で答えた。
「いや、仕事も続ける。ただ報酬の低いものから高いものに変えてみようと思う、一件だけこなして時間を作ろう」
本当はそんな事してる場合じゃないんだけど……、とソウタは未だ上がらない情報収集の成果を気にかけていた。
「何がきっかけになるかわかりません、もしかしたら宗教の中に手がかりがあるかも知れませんよ?」
そうだといいな、とソウタはウシオの励ましに笑顔で応え、温かな抱擁の中静かに眠りについた。
シスターモニカと教会に保護された子供達、彼女達との出会いが今後自身に大きな影響を与える事になると、この時のソウタはまだ知らない。
未知なる異世界で巻き起こる数多の試練の内の一つが今……
じわじわとソウタ達の直ぐ側まで迫っていた――
第五話、お読み頂きありがとうございます。橘月りんごです。
物語的には小休止といいますか日常回といいますか、少し盛り上がりに欠けるタイミングかもしれません。
ただこの後続く山場に向けたスタートライン、登山口でもありますのでここはぐっと堪えて乗り越えて下さい。
新たな出会いがもたらすものは何か、ソウタの歩みを今後ともよろしくお願い申し上げます。