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第十五話

 エステリアに来てからもうすぐひと月、異世界に来てからは三ヶ月と半つきが経とうとしていた頃――早朝、宿泊している宿の一室では身支度を整えるウシオの隣で手に持った白い紙を見つめ真剣な表情をしているソウタの姿があった。

 いつものようにふわふわのフリルに彩られたエプロンドレスを華麗に着こなし、艷やかな長い黒髪を白く細いリボンで鮮やかに結い上げながらウシオは隣に座るソウタへ声を掛けた。

 「ここ最近良くその紙を見ていますね、気になりますか?」

 ウシオの問い掛けに少しの間を置いて、ソウタは手元の白い紙を見つめたままゆっくりと口を開く。

 「そりゃあね、任務の期限も残り半分……リーミンに行くにはこいつが障害になるかも知れないわけだし……というか、そう遠くない内にミルドに依頼が来ると思ってるよ。まだ来てないのが不思議なくらい……他にいないでしょ、こんな危険な魔獣に対抗できそうな、頼りがいのある……都合のいい人」

 そう言ってチラッと見たミルドから再び視線を戻し目を落とした白い紙はシンプルなデザインで、上部に大きく「危険」と書かれ中央には鋭く赤い獣の目だけが描かれており下のきわには「白の王」と言う文字が並んでいる。リーミンまでの道中にある二つの砦町の住民達が現在エステリアへ避難してきている直接の原因、正体不明の魔獣に関する注意喚起のチラシであった。具体的にどのような姿をしているのかすら誰にも分からず、大きな半島に縄張りを置いている事と燃え盛るように揺らめく白い姿をしているという事以外何もわかっていない。人の手には負えないというその強大さに対し畏怖の念を込めて付けられた二つ名が「白の王」である。

 「(白の王……どの程度のものか、名前だけなら水の神の二つ名を持つタツキよりは劣りそうだけど……)」

 そんな事を考えながら、出発の時まで白い紙を見つめまだ見ぬ驚異に思いを馳せるソウタであった。


 宿を出て軽く朝食を済ませた後、ソウタ達は今日も奉仕活動に参加するべく教会へと足を向けていた。その道中、ソウタはいつも朝から騒々しい小さな翠色の少女の姿が見えない事に気付き隣を歩くウシオに尋ねた。

 「そう言えばスイカは?」

 「最近は起きるとすぐに飛び出していきますね、昨日食べ損ねた美味しそうな匂いが待ってる……とか何とか」

 「……いつも通りね」

 呆れたため息混じりに流し見るエステリアの中央通りは朝から沢山の人で賑わいを見せていた。初めて訪れた際にも感じたお祭りのような高揚感、それが日に日に増しているような気もする。開店前に店の前に立ち天樹に祈りを捧げるエステリア住民達を尻目に、ソウタは正面にそびえ立つ天樹を見上げ朝日に煌めく朝露の星々をぼんやりと見つめていた。


 教会に着きいつものように大きな扉をくぐって中へ踏み入ると見覚えのある二つの顔がソウタ達を出迎えた。頑固そうな男性と温厚そうな男性、他の司祭や司教らとは違う鮮やかな赤いローブを纏うこの二人は臣官である。臣官とはエステリア教会における事務方のトップであり、御子という特別な役職を除けば他に上のいない事実上の教会最高位という事になる。臣官は全部で三人いるのだがもう一人の臆病そうな男性は今日この場にはいなかった。

 「……本当に来おったわ」

 頑固そうな仏頂面の男性アニードは斜に構え鋭い目でソウタを見るなりフンと鼻を鳴らした、それとは対照的に隣に立つ温厚そうな男性ラバーカは礼儀正しくお辞儀をして挨拶をするとソウタ達を待っていたと告げ日頃の献身へ感謝の言葉をくれた。いえいえ、と謙虚に微笑むソウタにアニードは再びフンと鼻を鳴らすと呆れたような視線と共に嫌味を吐き捨てた。

 「点数稼ぎは順調のようだな」

 「はい、お陰様で」

 気に入らんとでも言いたげなアニードの視線を意にも介さない様子でソウタは穏やかに微笑みあっけらかんとのたまって見せた。その挑発的な態度にアニードはフンッと一際大きく鼻を鳴らすと一人スタスタと歩いて行ってしまった。

 「すいません、ちょっと調子に乗りすぎました……」

 「ふふふ……まあ、大丈夫でしょう。さ、奥へどうぞ……御子様がお待ちです」

 苦笑いを浮かべ軽く頭を下げて謝罪するとソウタ達はラバーカの案内の元、前回御子と謁見したのと同じ教会奥二階の天樹を正面に臨む部屋へ通された。今回も少し待たされたが前回よりも早く二人の男性が戻ってくると、側に立つなりアニードはぶっきらぼうにソウタへ声を掛けた。

 「落ちた星では何も見つからんかったようだな……で、今度は何を企んどる」

 前回御子が出てきた左上のスロープ先を見上げていたソウタは突然の問い掛けに視線を下げるとアニードの鋭い目に微笑んで答えた。

 「企むと言うほど大仰な事はないですが、ただもう少し御子様とお近付きになりたいなと思いまして」

 「……近付いてどうする」

 「どう……? ……いえ、特には……まだよく知らないので、ただもう少し知りたいなと気になっているだけです」

 よくわからないと言った様子で笑みを浮かべながら首を傾げるソウタをしばし眺めるとアニードは鼻でため息を吐き目を閉じた。そんな様子を穏やかな表情で見守る隣の男性ラバーカに視線を移したソウタは前回ひと悶着あった例の件の続報を尋ねてみた。

 「そう言えば例の王都の件……砦町から避難しているはずのシスターは見つかったんでしょうか?」

 唐突に向けられた視線と問い掛けにも動じる事なく、ラバーカはゆったりとした動きでソウタと視線を交わすと緩やかに目を閉じゆっくりと首を横に振った。

 「いいえ、残念ながらまだ見つかっていません……というよりは所在不明となっています。同じ街の住民達も姿を見ていないとの事」

 「そうですか……何か進展があったら教えて頂けますか?」

 「ええ、もちろん」

 穏やかに微笑むラバーカへソウタは感謝し深く頭を下げた。直後、シャンッ! と鈴の音が頭上から鳴り響くと前回同様前後に近衛を伴い御子がスロープを降りてきた、今日は昼間なのでランタンの明かりはない。真ん中の小さい、やはりオーラの見えないその影を薄布越しに見つめながらソウタはどうせ白の王絡みの依頼だろう等と勘ぐっていた。御子は椅子に付いてからも水を飲み喉の調子を整えたりと何やら前回と違いわたわたとしていた、しばらくして姿勢を正し御子の口が開かれるとソウタの予想は大きく外れる事となる。


 「――護衛……ですか?」

 白の王の討伐依頼かと思いきや、恭しい挨拶ののち御子フィリアが願い出たのは避難民を慰問する際の随伴護衛であった。

 「はい、明日から十日間の日程で収穫祭が催されるのですが、折角の機会ですから避難民の方々にもこのお祭りを是非とも楽しんで頂きたく、各教会支部を巡りながら慰問に伺う予定なのです。その際の護衛としてソウタ様達にも着いてきて頂きたいのですが、如何でしょうか?」

 「(収穫祭、街の高揚感の理由はそれか……そう言えばフューラーさんが丁度一年前がどうこう言ってたか……うーん……)」

 ソウタは一瞬目を伏せ考え込むとチラリと仏頂面のアニードを見た。警戒を向けられているにも関わらず御子の護衛に付けるという教会の判断にどうにも納得がいかなかった。

 「……なにかね、儂に何か言いたい事でも?」

 「いえ、まだそんなに点数稼げてないと思っていたので、随分と信頼されてるな……と。それに教会にも兵はいますよね、何故よそ者の我々に白羽の矢が立ったのでしょうか?」

 ソウタの呈した疑問にフィリアは少々答えづらそうな様子を見せた。すると温厚そうな男性ラバーカは私が代わりに、と穏やかに名乗り出た。

 「避難生活が長引き先の見通せない状況に避難民の方々の中に徐々に不満を口にする方が増えてきておりまして、今回の慰問にはそう言った方々の不満を低減したいという狙いがございます。そこで最近評判を上げているあなた方のお人柄にも是非頼らせて頂きたい、とこういう訳です」

 避難民のオーラをその目で見ている分教会にとっても差し迫った状況というのは理解出来た……が、本人を目の前にしてプロパガンダに協力しろという内容の話を穏やかな表情と穏やかなオーラで滑らかに語ってみせる温厚そうなおじさんにソウタは胸の内で密かに感心していた。ここ連日に渡るソウタ達の奉仕活動への参加も点数稼ぎであると知りながら、その稼いだ点すら教会の為に有効利用しよう……とこういう魂胆である。一国を支配していると言って差し支えないエステリア教の事実上のトップの一角、その流石の強かさに感嘆しながらもソウタは冷静に状況を整理しにかかる。

 「(この人全然オーラがブレない、本当に人間か……? こうなると今の言葉がこの人のものかフィリアのものかも判断が付かないな……人の良さそうな見た目しといて、オーラが見えないより見えて厄介の方が嫌だな……)」

 頭の中で管を巻きながらソウタは御子側の視点にも立ち自分達がどう見えているのかにも意識を向けた。妖精を視認するだけでなく妖精を連れ歩く神吏者を探す旅人、奉仕活動で点数を稼ぎ教会の信用を得ようとしている少年。監視に出した妖精達をも餌付けして抱き込もうとする怪しい三人組、街の住民達の評判はよく外面の良さが余計怪しさを引き立てている。そんな得体の知れないソウタ達と距離を取ろうとするならば理解は単純で、あえて接触を図ってくるとすればそこには何かしら狙いがあると見るべきである。手駒としての抱き込みや白の王討伐依頼の布石など、ソウタは複雑に考えすぎた結果少々長く黙りすぎていた。

 「申し訳ございません、ソウタ様……本来であればこういったお願いの仕方は不本意なのですが……教会の兵達も大部分は街の警備に出さなければならず、人手が足らないという状況で……面目次第もございません」

 ソウタの長い沈黙を不服と誤解されたのか、薄布の向こうで謝罪するフィリアの表情はよく見えないものの申し訳無さそうに俯き肩を落としているのは見て取れた。

 「あ、いえ……避難民の不満についてはボクも気になっていたのでお役に立てるなら協力は惜しみません、喜んでお引き受けします」

 慌てて取り繕いソウタは今しばらくは教会の出方を窺う方向で進める事とした。ホッとした様子で感謝を述べるフィリアへソウタは明日の予定を尋ねる。

 「明日はいつ頃に何処へ行けばよいでしょう?」

 「あ……えっと……」

 急に言葉に詰まり何かを思案し始めたフィリアにソウタだけでなく両脇の近衛二人や臣官の二人もどうしたのかと視線を送ると、フィリアは咳払いを一つして改まった様子で口を開いた。

 「あの、明日の朝お祭りの始まりを告げる開会式がございまして、その後お昼までの少しの間ですがお祭りの視察をするんです。もしよろしければソウタ様……達も、ご一緒に如何でしょうか」

 フィリアの追加の申し出に何故か教会関係者一同が妙な驚きを見せていた、ラバーカとかいう一人を除いて。この人本当にブレないな……等と呆れながらもソウタはオーラの見えない御子の真意を慎重に探る。

 「その視察の際も護衛が必要という事でしょうか?」

 「あっいえ……その、ソウタ様達もエステリアは初めてのようですから、年に一度のお祭りを一緒に楽しんで頂けたらと思いまして……ぁっもちろん他のご予定があればその、全然……」

 妙に歯切れの悪いフィリアを見つめながらソウタはその言葉の裏を読もうとしていた。ソウタ達をなるべく目の届く所に置いておきたいのか、或いはあわよくばの護衛戦力として期待しているのか、親睦を深め教会もソウタ達の点数稼ぎをしたいのか……などなど。

 現状想像し得る教会側から見たソウタ達の魅力的な点は『妖精が見える』『言葉を話せる妖精を連れている』『ミルドの腕と評判』、あとは『珍しさでとにかく目立つ』と言った所だろうか、二つ星のサポーターはエステリアでは珍しくないので除外する。もし教会がソウタ達を抱き込みたいと考えているのであれば断れば良いだけなので問題にはならない。

 逆に問題になる、警戒しなければならない事は教会がソウタ達を排除しようとしている場合である。理由は現段階では全くわからない、ただの想像・仮定の話である。だが妖精が見える事や神吏者を探している事が教会の禁忌や逆鱗に触れる可能性は否定できない。実際臣官アニードは相変わらずソウタ達に強い警戒感を抱いている、表立った悪意は見えないがトップである御子のオーラが見えない以上注意しないわけには行かない。

 虎穴に入らずんば虎子を得ず……ソウタは最大限の警戒を保ちつつもリスクを恐れず穏やかに微笑みながら相手の懐へ飛び込んでいった。

 「では、明日の朝教会に来ればよろしいですか? 御子様とご一緒できるなら楽しみにしておきます」

 「っ……はっはい、私も楽しみにしています」

 よろしくお願い致します、とフィリアは深々と頭を下げた。その後、明日の詳細な予定と移動ルート等を説明するとの事でソウタ達はラバーカに連れられその場を後にした。

 ソウタ達が去った後、その場に残ったアニードは目を閉じたまま大きなため息を吐いた。その不満を滲ませる露骨な態度に恐る恐る口を開いたのはフィリアであった。

 「ごめんなさい、アニード……私の独断で予定にない事まで……」

 「……内容に不満はありません、ですが……」

 アニードは薄っすらと目を開くとフィリアへ視線を向けることもなく床を見つめたまま、やや躊躇いの間を置いて重苦しく続けた。

 「ですがあの少年は……エステリアには留まらないでしょう」

 「……そう……ですね、わかっています」

 それ以上の言葉はなくしんと静まり返る中、フィリアは膝の上に重ねた細い指でキュッとスカートを掴みながら俯いていた。仄かに微笑むその瞳は虚ろで悲しげで、両脇に侍る近衛の二人は顔を見合わせながらも掛ける言葉を持たず……ただ切なげな少女の小さな背中を見守りながら小さくため息を零すのだった。


 臣官ラバーカと詳細な明日の予定を確認し終えた後、ソウタ達は今日も変わらず奉仕活動に参加すべく参加者の集団に混ざり司祭の後に着いて街を歩いていた。その道中、そして奉仕活動の間、終わった後帰路についてからも、ソウタは一日中街ゆく人々を見回し落ち着き無くキョロキョロとしていた。明日からのお祭りに浮き立つ街並みを楽しげに眺めているわけではなく、その穏やかとは言い難い視線と表情に堪らずウシオが声をかける。

 「ソウタ、ずっと怖い顔していますよ……何を気にしているんですか?」

 ウシオの声にソウタはおもむろに足を止めるとゆっくりと周囲を見渡しながら来た道を振り返った。茜色に賑わう街並みを見つめながら鋭く目を細めると呟くように口を開いた。

 「増えてるんだ、日に日に少しずつ……人混みの中に点々と不満を抱えた人の数が……」

 「明日からお祭りも始まりますし御子様が慰問にも行かれるわけですから、これから少しずつ解消していくのでは?」

 「……そう単純に行くかどうか」

 夕暮れに赤く染まる街並み、家路につく肩を並べた影法師達の中寄る辺無くフラフラと歩くその影を見つめソウタは小さくため息を零した。刺々しく揺れる鬱屈した不満の波は段々と、まるで祭りの高揚感に引き摺られるように荒々しさを増していく。波は全てを押し流し纏う風はくすぶる火種を炎へと盛らせるもの。祭りの口火が切られたその時、巻き起こる風はどれほどの炎を猛らせてしまうのか……。

 通り過ぎていく人々のオーラに一抹の不安を覚えながら、ソウタは夕日に染まる天樹をチラリと見上げた。明日は波乱の一日になる――そんな予感を胸に、ソウタは踵を返し再び宿へと歩き出した。



 一夜明け収穫祭始まりの朝――エステリアの街は夜明け前から早くもザワザワと賑わいを見せ始めていた。地球の時間でいうと開会式は朝九時頃からなのだが、待ちきれない住民達の声に起こされたソウタ達もまた空が白む頃には既に教会へと足を運んでいた。教会大聖堂の中、早朝から忙しない司祭や信徒に混じりソウタ達も準備を手伝っているとそこへ臣官の一人、温厚そうなラバーカが近づき声を掛けてきた。

 「おはようございます、随分と早いですね。視察の時間までまだ随分とありますが」

 「おはようございます、街の賑わいに起こされてしまったので……夜明け前からすごいですね」

 「年に一度ですから、皆楽しみにしているのですよ」

 そう語りながら二人は忙しくも何処か楽しそうに準備を進める人々を穏やかに微笑みながら眺めていた。自身もまだ仕事があると言い軽く会釈してその場を去ろうとするラバーカを、ソウタは呼び止めた。

 「あ、あの……一つ気掛かりがあるのですが……」

 「気掛かり……ですか?」

 立ち止まり振り返ったラバーカへソウタは連日気になっていたある事を手短に伝えた。

 「……ふむ……なるほど……わかりました、他の者とも共有して対策を講じます。ご報告、ありがとうございます」

 話を聞いたラバーカは改まって深々と頭を下げ感謝を述べると一人教会の奥へと去っていった。

 その背中を見送った後もソウタ達は教会の準備を引き続き手伝いながら時間を潰すこと約三時間あまり、ソウタ達は教会正面広場の一角に立ち逸る住民達と共に御子による開会の宣言を待っていた。

 ほどなくして教会正面広場に面したテラスに御子であるフィリアが姿を見せると集まった民衆からは大きな歓声と拍手が沸き起こった。

 フィリアは肩の見える白いドレスのような衣装に身を包み髪は白い布で、顔もヴェールのようなもので隠していて見る事は出来なかった。フィリアの正面にはマイクスタンドのような棒が立っているが先端にマイクはなく、代わりに小さな輪っかが付いていた。更にフィリアとの間に一メートル程の隙間を開けて前方により大きな輪っかが三つ、横並びで民衆の方に向けられていた。

 少女とは思えないその綺麗な立ち姿からフィリアが淑やかな所作でスッと民衆へ手をかざすと、興奮した人々の歓声はあっという間にしんと静まり返った。次にフィリアは顔のすぐ横にいる青い妖精と何やら短く言葉を交わすとその青い妖精はゆったりと宙を泳ぐように小さな輪っかと大きな輪っかの間に移動し民衆の方を向いて静止した。

 一体何が始まるのかとソウタが見つめていると大勢の見守る中、満を持して御子フィリアの口がゆっくりと開かれた――


 「――皆様、おはようございます。今年も待ち焦がれたこの時期がやって参りました。今日この日の為、長らく準備に励んで頂いた皆様に、心より感謝を申し上げます。今回は例年とは違い、現在アルクス・フルリオの両砦町から多くの住民の皆様が、魔獣の驚異に晒され、このエステリアへと避難されています。避難者の皆様には多大なお不便をお掛けしている現状、教会を代表して心より申し訳無く思います。また、エステリア住民の皆様におかれましても、多分なご苦労をお掛けしております事を、心よりお詫び申し上げます。一日でも早い問題解決に至れるよう、エステリア教会一同、皆様の心に寄り添い、謹んで努めて参ります。今しばらくのご理解とご協力を、よろしくお願い致します。そして、今日からの十日間、このお祭りが避難者の皆様の、エステリア住民の皆様の、双方のひと時の癒やしとなる事を、切に願っております。長々と申し訳ございません、それでは皆様、お待たせいたしました。私、御子を務めますフィリアが、天樹様への感謝を込めて、ここに! センテ・エステリア大収穫祭の! 開会を、宣言致します!」


 フィリアの言葉が終わるよりも早く、民衆が再び歓喜に沸き上がると教会の大きな鐘の歌声が頭上から降り注ぎエステリア中へと響き渡っていった。待ちに待った祭りが始まり人々が盛大に盛り上がりを見せる中、ソウタは民衆に手を振るフィリアを真っ直ぐに見つめながら全く別の事を考えていた……それは宣言時のフィリアの声である。

 フィリアの声はまるでマイクとスピーカーを通したような大きなものだった。異世界に来て三ヶ月半が経つが落星で見た神吏者の技術を除いてソウタ達は未だにこの世界で電子機器系の技術が使われているのを目にした事がなく、フィリアの見せた想定外の技術に驚きを隠せなかった。

 「(電子系の技術もなしに……拡声器のような事が出来るものなんだな……あの青い妖精の力か……)」

 ソウタの目はフィリアの前にある大きさの異なる二種類の輪っかと青い妖精を凝視していた。遠目では気付きにくいがよく見ると輪っかには透明な水の膜が張られているのがわかった。想像ではあるが恐らくフィリアの声、その音の波を小さい輪っかに張られた水の膜で受け取り、それを青い妖精が増幅して大きな輪っかに張られた水の膜を振動させて再現する……と言った原理だと思われる。妖精と意思の疎通が図れるフィリアでなければ出来ない芸当であろう。

 ひょっとしてスイカもああいった事が何か出来るのだろうか、などとぼんやり考えているとフィリアの顔がこちらを向き手を振っているような気がした。ヴェールのせいでどこを見ているかわからないのだが、せっかくのお祭りだからとソウタは微笑んで応え手を振り返した。


 開会式の後、視察の時間はすぐにやってきた。ソウタ達が教会の入り口で待っていると教会脇の門扉から純白の馬車が現れ教会入口の前に付けて停まった。ほどなくして教会の中から大勢の教会関係者と共に三人の臣官、そして近衛の二人を引き連れ御子が姿を見せる。開会の宣言の時と同じ白い服装のヴェールで顔を隠したフィリアは教会前広場に集まった人だかりへ上品に手を振りながらゆっくりと進み出ると、馬車の前で待つソウタ達へ声を掛けた。

 「お待たせして申し訳ありません。これより視察に参りますので、どうぞよろしくお願い致します」

 恭しく丁寧なお辞儀をしてみせるフィリアにソウタも自然と背筋を伸ばすと穏やかに微笑みウシオ達と揃ってお辞儀を返した。

 「はい、よろしくお願いします。いつも布越しだから、なんだか緊張しますね」

 ソウタとフィリアが穏やかに笑みを交わしているとそこへ、ずいっと横から近衛の一人が間に割って入ってきた。

 「ソウタ殿、お初にお目にかかります。ワタクシ、フィリア様の近衛騎士を務めておりますノブルと申します。もう一人は双子の妹のアンブル、以後お見知りおきを。フィリア様の身辺警護は我々の務め、あなた方は予備、控え、おまけですので、立場を弁えて頂けますようお願い申し上げます。よろしいですか?」

 ノブルと名乗った女性は二十歳前後くらいで、敵意こそ無いものの見るからにプライドの高そうな少しきつい目でソウタを見下ろしていた。しかし綺麗に整えられた髪に精悍な顔立ち、ピシッと着こなした服装と何よりその堂々たる立ち居振る舞いには思わず感心させられる美しさがあった。ゆったりと流れる揺らぎない洗練されたオーラからも只者でない事を窺わせている。そんな彼女の右後ろではアンブルと呼ばれたもう一人の近衛の妹さんがすごく申し訳無さそうにペコペコと頭を下げていた。こちらはふわりと一本に結ったオサゲを肩前に出した、ややタレ目がちのおっとりした容姿をしている。「うちの姉がごめんなさいぃ……っ!」という声が今にも聞こえてきそうである。

 「もうっノブル! 私からお誘いしたのですから失礼な事を言わないで下さい!」

 「いいえフィリア様、男子とはいついかなる時も可憐な乙女を狙っているのです! 甘い笑顔に心を許してはなりません!」

 「もぉぉ……お姉ちゃんもフィリア様もやめようよぉ、皆すっごい見てるってばぁ……っ」

 女三人寄れば姦しいとはこの事だろうか、厳かな教会の入り口真ん前で繰り広げられる賑やかな光景に周囲の人々からは和やかな笑い声が上がっていた。ノブルは相変わらずだな、などという声も聞かれどうやらそれほど珍しい光景でもないようである。

 目の前でわちゃわちゃと繰り広げられる女子三人の会話にソウタが笑みを零すと、やや頬を高揚させたノブルは恥ずかしさをオーラに滲ませながらも鋭くソウタを睨み付けた。恥じらいはちゃんとあるらしい。

 「……何が可笑しいのです」

 「いえ何でも、立場は十分に弁えております。それよりも急ぎませんと、時間が無くなってしまいます」

 ソウタは振り返り背後で待ちぼうけの馬車を示しながらノブルへ微笑みかけた。つかの間ソウタをジッと見やるとノブルはフンと鼻を鳴らしソウタに背を向けフィリアからソウタが見えないように自身を間に挟みながらフィリアを馬車に誘導し始めた。

 「さ、参りましょうフィリア様。時間が無くなってしまいます」

 「もうっ、誰のせいですか!」

 「姉が本当にすいません……」

 フィリア、ノブル、アンブルの三人は姦しいままに白い馬車へ乗り込むとゆっくりと大通りに向け走り出した。動き始めた馬車を見届けたソウタは振り返り教会入り口に並び立つ三人の臣官達へお辞儀をして馬車の後を追う。と、背を向けたソウタに臣官の一人から声がかかった、アニードである。

 「小僧、気掛かりの件は御子様にも伝えてある……くれぐれもよろしく頼んだぞ」

 ソウタは振り返り元気に愛想よく返事をするともう一度会釈をしてゆっくりと進む馬車の後を追いかけていった。


 姦しく賑やかに始まったお祭りの視察であるがここで一度この後の予定とルートをおさらいしておこう。教会を出発した御子達は馬車に乗りエステリアの街を南北に走る大通りを北に向かって進んでいく。エステリアには教会が三箇所ありそれぞれ北支部、中央支部、南本部である。南本部から大通りを北上しまず北支部へ、その後中央支部を経由して南本部へと帰ってくる、というルートを辿る。御子によるお祭りの視察はその北支部までの道中に行われると言った感じである。今日一日掛けて各教会を巡り避難民を慰問して無事南本部まで帰ってくればミッションコンプリートとなる。

 街なかをゆっくり進むとあって視察の警備には細心の注意を払う事となる。言うまでもないが護衛には近衛騎士の二人とソウタ達以外にも教会所属の騎士達が複数付いている。馬車の周りに市民が近付けないよう教会騎士による規制線が張られフィリア達の進むペースに合わせて馬車とその空間が一緒に動く形となる。ソウタ達はと言うと馬車の直ぐ近く、後方をミルド、前方をソウタとウシオが張りついて警戒にあたっている。御子によるお祭りの視察は恒例行事となっているそうで街の住民達もどうすればよいのかはよく心得ているようであった。一通りの行程を確認した所でここからは視察中の一幕を見ていこう。


 ソウタは馬車を引く馬を撫でながら進行方向の人混みに視線を向けていた。和やかな人々の中に刺々しいオーラを纏う人影がポツポツと紛れていたからである。流石にこの大通りのど真ん中でいきなり騒ぎを起こしたり、ましてや襲撃してくるなんて事はないと思うが万が一を気にかけるソウタの目は徐々に細く鋭くなっていった。そんなソウタの背中に穏やかなウシオの声が語りかける。

 「御子様達、本当に仲が良いんですね。まるで兄弟姉妹のようです」

 その声に振り返るとフィリア達は食べ歩きできるスイーツ店の前でどれを注文しようかと相談中であった。服装こそ御子と近衛騎士だが仲睦まじいその声や仕草は謁見の時とも違う年相応の女の子三人組といった感じであった。

 「(兄弟姉妹……――)」

 ソウタがフィリア達をぼんやりと見つめながら何かを思い出しかけていると再びウシオの声によってぼやけた意識が叩き起こされた。

 「一緒にというお誘いだったのに、行かなくていいんですか?」

 「ん……まぁ……ノブルさんがずっとチラチラこっち睨んでくるし、今は迂闊な事しない方がいいかな……」

 稼いだ点数が無駄になるのも嫌だし……とソウタが突き刺さる視線から目を背けているとそこへ、耳慣れた呑気な声が頭上から降ってきた。

 「そおおおたあああぁ!」

 声の主、風の妖精スイカは上空から急降下してくるとソウタの鼻先でピタッと止まった。思わず仰け反ったソウタと至近距離で言葉を交わす。

 「こんな所で何してるの?」

 「……お仕事、スイカこそ何してるの」

 「美味しいもの探してたらソータを見つけた!」

 「そう……食べられるものじゃなくて悪かったね、美味しそうなものならそこで……」

 「あーフィリアだー!」

 「人の話は最後まで聞きなさい……」

 ため息を零すソウタを置いてきぼりにしてスイカはフィリアの元へすっ飛んでいくと早くも出来たてスイーツをフィリアからご馳走になっていた。呆れ混じりにその様子を見守っているとスイカと何やら言葉を交わしたフィリアがゆっくりとソウタの元へ歩み寄ってきた。その手にはスイーツの入った紙袋と細長い串が握られている。

 「あの……ソウタ様も、お一つ如何ですか?」

 そう言うとフィリアは紙袋の中に長い串を差し込み先端に一口大のスイーツを刺してソウタの口元へ差し出してきた。串に付いたそれは一口大のパンで油で揚げた上に砂糖をまぶした簡素なものである。見た目はほぼベビーカステラ。

 フィリアはお口を開けて下さい、とまさかのあーんを所望してきた。ソウタは差し出された串に仰け反りながらその串を受け取ろうとする、が……。

 「あ、いや……流石に自分で……」

 「だめです、はい、あーん?」

 串を渡そうとせず意外と押しの強いフィリアに観念したソウタは民衆から羨ましいな小僧! 等とからかわれながらも大人しくフィリアのあーんを受け入れた。食んだ揚げパンはモチモチとしていて中にクラッシュナッツのようなものが練り込まれており、香ばしい匂いにカリカリと食感も楽しく想像以上に美味しかった。フィリアの背後からすごい形相で睨みつけるノブルに慄きながらソウタは困った苦笑いを浮かべつつ素直な感想を伝えた。

 「美味しいです、ありがとうございます(これボク悪くないよね……)」

 フィリアはヴェールの向こうで小さくフゥ……と一息つくとよかったです、と微笑んだ。口元を袖で隠し揚げパンをもぐもぐしながらソウタはここに来て初めて至近距離に近付きヴェールの向こうに薄っすらとフィリアの顔を捉えた。そのあどけなさの残る少女の瞳は微かに潤んでいるようにも見えた。

 その後フィリアは隣のウシオにも揚げパンを差し出すと、ウシオの艶やかなあーんに観衆からは低いおぉ……という感嘆の声が漏れ出たのであった。

 それから教会北支部に到着するまでの僅かな時間、ソウタ達の視察は不満を抱える人々の動向を注視しつつノブルに煙たがられながらもまるでフィリアとのデートのような形で続いた。そう仕向けた主犯はウシオとスイカである、と言ってもスイカに自覚はないのだが。北支部に着くお昼頃にはソウタに対するノブルの警戒レベルは振り切れ今にも噛み付いてきそうな迫力とオーラが滲み出していた、唸る猛獣のようである。散々弄ばれたソウタも気苦労から滝の如きため息を垂れ流していた。この日の夜、主犯曰く「せっかくのお祭りなので気分転換になればと思い……少々やりすぎました、ごめんなさい」などと笑顔で供述しておりあまり反省の色は見られなかったという。


 二時間と少し掛けて祭りの視察を終えるとスイカはまた一人で大通りの方へと引き返していった。教会北支部に辿り着くと既に慰問の準備は万端に整えられ、教会関係者達が並んで御子の到着を待っていた。準備をしてくれた北支部の関係者らや朝の奉仕活動に参加した人々に丁寧に感謝を伝えたフィリアはソウタ達も引き連れぞろぞろと教会裏手の方へと案内された。

 教会の周囲には広大な空き地があり現在はそこが避難民の為の難民キャンプのようになっていた。全体を見渡せるよう用意された壇上に立ち開会式で見せたあの輪っかの付いた水膜マイクスタンドを立てると再び青い妖精の力を借りフィリアによる慰問の挨拶が始まる。傍らで避難民達の様子を注視していたソウタだがここ北支部では特に何事もなく、慰問の行程は滞りなく進み三十分ほどで無事終了した。

 フィリアのスピーチの内容は避難者達の境遇に寄り添い慰め勇気付けるシンプルなものだった。しかし事前に用意した文面を読み上げるわけでもなく、身振り手振りも交えて切に訴えるフィリアの声には確かな誠実さと強い想いがこもっていた。その真摯な想いは耳を傾ける民衆に確かに届き、ソウタの目に映る刺々しい不満のオーラも教会の狙い通り静かに落ち着きを取り戻していった。

 その絶大な効果を目の当たりにしたソウタは避難民達と共に天樹に祈りを捧げる少女を見つめながら彼女に対する認識を改めないといけないのかも知れない、と考えていた。本来あるべきオーラが見えないという一点でこのひと月彼女を警戒し続けてきたわけだが、いついかなる時も彼女を含めた周囲から敵意や悪意を向けられる事はなかった。オーラが見えずともソウタの目に映るのはいつだって誰からも分け隔てなく愛される等身大の無垢な姿と、そして御子という特別な役職を担う重責を背負いながらも立派に務め上げるひたむきな強さであった。

 ヴェールの奥で瞳を潤ませ微笑んだあどけない顔を思い出しながら、ソウタは歓声と拍手の中上品に手を振る少女に素直な尊敬の念を抱かずにはいられなかった。


 北支部での慰問を終えるとソウタ達は再び馬車に乗る御子一行の護衛に付き、今度は中央支部に向かうべく北支部を後にした。中央支部への道程は大通りを引き返し中ほどで東に曲がる、そのまま道なりに真っ直ぐ進めば一時間ほどで到着となる。ほぼ真っすぐ中央支部へ向かう道もあるにはあるのだが狭いであるとか見通しが悪いと言った警備上の不都合により遠回りせざるを得なかった。

 人混みをゆっくりとかき分け予定より少し遅れて中央支部に到着すると教会の周囲には当初の想定を大きく超える人集りができていた。中央支部の周囲にも広大な空き地があり北支部同様難民キャンプのようになっているのだが、中央支部以外を拠点にしている避難者達も多く集まった為空き地の方まで入る事が出来ず、仕方なく急遽通り沿いから御子による慰問の挨拶が送られる事となった。

 先程と同じように用意された壇上に立ち、恭しく一礼したフィリアがスピーチを始めようとしたその時だった。切っ掛けは母に寄り添う子供の「いつ帰れるの?」という素朴な切ない一言。子供に対しても誠実な謝罪を口にするフィリアであったが投じられたその小さな波紋はまだフィリアのスピーチを聞いていない避難者達の積もりに積もった刺々しい不満を大いに刺激した。始めはまだポツポツと、思い思いに不満を口にする避難者達を何とか鎮めフィリアの話を聞いてもらいさえすれば、と皆が苦心する中……この状況を嘲笑うかのように最悪なタイミングでソウタの気掛かりが顔を出した。


 「そんなに帰りたきゃ帰ればいいだろ」「私達の貯えを貪っておきながら厚かましい」「こっちだって我慢してんだ」「街の空気まで暗くなる」「自分達じゃ何もしないくせに」「天樹様への祈りが足りないのよ」「お前達がいるせいで日課の礼拝にもいけない」「祭りの気分に水を差すな」


 それはソウタ達の背後から上がった声、すなわちエステリア住民の声であった。ソウタが気に掛けていた事、それは不満を抱えているのは避難民達だけではない、避難を受け入れているエステリア住民の方にも不満が溜まっているという事だった。今朝それを臣官ラバーカに伝えていた為か開会の挨拶ではエステリア住民を気遣う文言も見受けられた。教会、ひいては御子と住民との間でのコミュニケーションはそれで良かったかも知れない。しかし避難民達から直接、それもわざわざ慰問に訪れた御子に対して不満をぶつけられたとあってはエステリアの住民達も黙ってはいられなかった。小さな波風は燻ぶっていた火種を呼び起こし煌々と赤熱に染め上げていく……人々の怒りを燃え盛らせるのにそう時間はかからなかった。

 売り言葉に買い言葉、怒号となった不満の応酬は激しくぶつかり合い教会中央支部周辺は大混乱に陥っていた。集まった教会騎士達が何とか双方の間に割って入り取っ組み合いの乱闘騒ぎになるのを食い止めている間にフィリアは落ち着くように必死に民衆へ呼びかけ続けた。しかしその切なる想いも虚しく、避難民の不満は何処からともなく質量を持ってフィリアの元へ投げつけられた……小さな石である。

 ソウタはフィリアの眼前に迫った小石を指弾のように親指を使った穿点でひっそりと打ち砕いたのだが、これが悪手となる。小石は青い妖精の目の前でパァンッと砕け散り、それに驚いた妖精が何処かへと飛んで行ってしまったのである。青い妖精の助力を失った事で水の膜は零れ落ちただの輪っかとなった。妖精の力で増幅していたフィリアの声は元々の少女のものとなり、その可憐でか弱い声は容易く怒号に飲み込まれていった。

 「――なさ――ッ! ど――か聞――て――さいッ! ――願――しま――ッ! 落ち――て――さいッ!」

 それでも尚呼び掛け続けるフィリアであったがその小さな声にもはやこの場を鎮めるだけの力はありはしなかった。自分の失態だと悔しさを滲ませたソウタだが今はそれどころではない、とノブルに一時撤退を打診した。今はまだ抑えられているがいつ乱闘騒ぎになってもおかしくない状況、必死に叫び続けるフィリアの思いを痛いほど理解しながらも背に腹は代えられない、とノブルは奥歯を噛み締め声を張り上げた。

 「アンブル! フィリア様を馬車へ! 一度退きます!」

 ノブルの声は当然フィリアの耳にも届いていた。こんな状況を放置して帰るわけには行かないとフィリアも抵抗を見せる。

 「待って下さい、ノブルッ! 私が今ここを離れるわけには……ッ!」

 「申し訳ありません……ッ」

 「フィリア様ごめんねぇ……ッ!」

 少女の抵抗など言うに及ばず、二人の近衛に抱え上げられフィリアは強引に馬車の中へと連れ戻された。すぐに馬車が動き出すのとほぼ同時に、それを合図とするかのようにとうとう抑えられていた均衡は呆気なく瓦解した。避難民とエステリア住民、抑えていた教会騎士のバリケードを乗り越え両者の手が互いに届くと取っ組み合いの乱闘騒ぎが始まってしまった。

 すぐに馬車を追わなければならない、ソウタが指示を出そうとミルドに目を向けるとミルドは無数の避難民達に群がられ身動きが取れなくなっていた。

 「ミル――っ待て、動くな!」

 人の群れ程度振り払う事など造作もないのだが怪我をさせるわけにも行かない。皆を傷付けないようにゆっくり戻ってこい、と指示を出したソウタは頷くミルドを見届けるとウシオと共に急ぎ馬車を追って駆け出していった。


 御子達を乗せた馬車は人の多い大通りを介さず南本部までほぼ真っすぐの緩やかな曲線を描く細い裏通りを走っていた。細いと言っても馬車がすれ違える程度の道幅はある。追いついたソウタとウシオは走る馬車の両脇を挟むように並走していた。

 道を開けるよう呼び掛けながら少し走った所でソウタ達の背後から――ドォンッ! と低い音と微かな地響が轟いた、つい先程までいた中央支部の方である。

 「ソウタ、今のは……!」

 「……ミルドだ! 気にしなくていい!」

 一瞬右目を閉じてミルドの状況を確認したソウタはウシオの問いに短く答えると速度を上げ、先行して横道から顔を出す人や馬車をせき止め道を作った。

 走行を妨げられる事もなく十五分足らずで開会式を行った南本部教会前広場まで辿り着くと前方をウシオに任せソウタは速度を落として馬車の後方へと回った。フィリア達を乗せた馬車も速度を落とし教会入口前で停まるとソウタは周囲へと視線を向け、片目を閉じて人形の目を借り上空からも警戒の目を行き渡らせた。すると人形の目が広場に面した建物の屋根の上に立つ人影を捉えた。と同時に、その人影から茶色い何かが放たれ空を舞った。

 「(何だ……小さい樽……?)」

 ハッとソウタが目を向けた放物線を描くそれは容量十リットル程の小さな樽であった。屋根の上の人影は先端に紐のついた釣り竿のような長い棒を持ち、遠投のような要領で樽を投げ放ったのである。その樽が向かう先にはフィリア達の乗る白い馬車が停まっていた。

 気付くのが遅れた事、そして一瞬でも爆発物かも知れないと脳裏に過ぎった事でソウタは穿点での迎撃を躊躇い樽を撃ち落とせなかった。石畳の地面にワンバウンドして跳ねた樽は馬車の側面を強く叩き今正に扉を開いて降りようとしていたフィリア達から甲高い悲鳴を引き出した。

 もしこの樽が爆発物なら甚大な被害を及ぼす事になる、何としてもフィリアは守らなければならない――刹那に思考を疾走らせたソウタは馬車から顔を覗かせていたノブルを瞬間移動の如き速さで中へ押し戻すとフィリアのいる馬車の中へと乗り込んでいた。

 「なっ貴様――ッ!」

 「失礼――」

 次の瞬間、小さな樽は轟音と衝撃を伴って弾けた。余りの衝撃に馬車はいとも容易く横転し広場に居合わせた多くの人々は強烈な爆風に吹き飛ばされていった。広場の石畳を消し飛ばすほどの大爆発は祭りの呑気な喧騒を悲鳴と怒号に塗り潰し、辺りを一瞬にして凄惨な光景へと染め上げた。

 「ソウタ……ッ!?」

 爆発の衝撃で教会の鐘が耳鳴りのような余韻を響かせる中、間一髪で爆風を凌いだウシオが急ぎ倒れた馬車に駆け寄ると中から叫び声が上がった。

 「ウシオ! 屋根の上だ、逃がすなッ!?」

 それは他でもないソウタの声であった。どうやら無事のようだと安心するのも束の間、ウシオはその声の示す通り広場に面した建物の屋根上をキッと見やるとそこに立つ人影目掛け土煙の立ち込める広場を風を切って駆け抜けていった。一方、横倒しになった馬車の中では――

 「……くっ、一体何がっ……」

 「な、なんかムニュムニュするぅ……っ」

 「……ふぅ……どこか痛い所とか無いですか?」

 「は、はい……ぁ……その……」

 九十度横にひっくり返った馬車の中ではソウタを含めたノブル、アンブル、そしてフィリアの四人が狭い室内を満たす柔らかいモチのような白い物体に包まれていた。その白い物体が徐々に体積を減らしていくと天井となった側面の小窓から明かりが差し込み中の状況がそれぞれの目に映る。瞬間、ノブルは目を見開き息を呑んで目の前の光景に絶句した。そこにはソウタの腕の中、胸元に顔を寄せるフィリアの姿があった。アンブルは両手を頬に添え顔を赤らめている。

 「……緊急時の不可抗力という事で……勘弁して下さい」

 ソウタがバツの悪そうな顔で両手を上げ降参の姿勢を示すと手が離れた一瞬の間にフィリアはノブルの腕の中に移っていた。

 「フィッ……フィリア様に気安く触れるなァッ!? この白いのは何だ! 外で何が起きた!」

 ノブルはフィリアを抱きしめながら悲鳴のような絶叫を上げ捲し立てる、が……こんな状況にあっても冷静さを保っている所は流石の近衛騎士であった。

 「外で爆発が起きて馬車が横転しました。白いのは人形です、後で説明します」

 「ば、爆発……人形……?」

 眉をひそめ怪訝な表情を浮かべるノブルをよそにソウタはスッと立ち上がると上を見た。二つある扉の一つは今ソウタの足元にある、窓は小さく人は通れないので馬車から出る為には天井にあるもう一つの扉を開けなければならない。ソウタは飛び上がって吹き飛んだ窓に手を掛けぶら下がるとドアノブに手を掛け力を入れてみる、しかしフレームが歪んだせいなのか扉はびくともせず……ソウタは仕方なく体を揺らし反動を使って勢い良く扉を蹴破った。

 ヒョイと身軽に馬車の上に出たソウタはすぐさま周囲を見渡した。未だ周囲に立ち込めた土煙は晴れず、煙越しにオーラを見ても広場に人の姿は殆ど見えなくなっていた。ソウタが警戒を続けているとそこへ拘束された人間を二人、両の手にぶら下げた人影が土煙の中から現れた。

 「ありがとうウシオ、二人だけ?」

 「はい、屋根の上にいたのはこの二人だけです」

 「爆弾以外に武器の類は?」

 「特には見当たりません、紐のついた棒は屋根の上に置きっぱなしですけど……持ってきますか?」

 「……いや、とりあえずそっちは後だ、御子様達を降ろすの手伝ってもらえる?」

 「はい」

 ウシオは穏やかな表情のまま両の手を離すと拘束された二人の男をドサッとその場に落とした。ソウタはその二人の酷く精彩を欠いたオーラを気に掛けながらも一旦放置し、馬車の中のフィリアへ手を差し伸べた。

 「ボクが引き上げてウシオが降ろします、御手をどうぞ」

 「待て、私が先に上り私がフィリア様を引き上げる」

 「あ、はい……ではノブルさんから、手を……」

 「必要ありません」

 そう言ってノブルはソウタの手をそっと払いのけると跳躍と腕の力だけで難なく上半身を馬車の外に出し、立ち込めた煙に驚愕しながらも自身の力のみで馬車から脱出してみせた。軽装とはいえ要所に金属製の鎧を身に付けているのだがやはり日々鍛えているのだろう、流石の身体能力をしている。などと感心しつつもここまで目の敵にされているのも心外なのでソウタはやや困った笑顔でノブルに微笑みかけた。

 「ボク、別に敵というわけではないのですが……」

 ノブルはソウタをやんわり睨むと仄かに耳を赤くしながら不満げな表情でフンと鼻を鳴らしそっぽを向いてしまった。そのオーラは何故か恥じらいを滲ませており何故この状況で恥じらい……? と理解の及ばないソウタは一人キョトンと首を傾げた。

 そんなソウタを尻目にノブルはフィリアを軽々引き上げると馬車の縁に座らせウシオの手を借りて地面に降ろしフィリアに付いて一緒にさっさと下へ降りていた。一人馬車の中に取り残されたアンブルが弱気な声を上げる。

 「お、お姉ちゃん私はぁ……っ?」

 「あなたもフィリア様の近衛なら一人で出てきなさい!」

 「えぇぇ……っ」

 ほんのり涙目のアンブルを見かねてソウタが手を差し伸べると彼女は感謝を述べつつもその手を取るのを躊躇した。

 「あ……あの……私ちょっと、重いかも……だけど……」

 もじもじと恥ずかしげなアンブルを見てソウタはようやく先程のノブルの反応をそういう事かと理解した。どうにもいつも気付くのが一歩遅いな、と胸の内で密かに反省しながらソウタは馬車の中で待つアンブルへ穏やかに微笑みかけた。

 「任せて下さい」

 そう言って改めて差し伸べた手をアンブルがおずおずと握りしめるとソウタは穏やかな表情のままその細い腕で軽々と引き上げてみせた。

 「おおぉ、力持ちだぁ」

 ようやく馬車の外に出たアンブルは耳と頬を赤くしてソウタに感謝を述べると後は大丈夫と言って威勢よく飛び降り……尻餅をついた。

 「あなたは全く……鍛錬が足りません」

 「私だってちゃんとやってるもぉん、お姉ちゃんがストイック過ぎるんだよぉ……」

 涙目の妹に呆れながらも姉は優しく手を差し伸べ立ち上がらせると今度は一転、ノブルはゆっくりと振り返るとそこに寝そべる男二人を鋭く睨み付けた。左手は剣に添えられ立ち上るオーラには殺気が色濃く滲んでいる。

 「それで……この者達が襲撃の犯人ですか」

 今にも剣を抜き放ちこの場で斬り捨てそうな程の気迫を放つノブルに男達は恐怖に震え声も出せずにいた。しかしまず先に優先すべき事がある、とソウタは馬車の上から声を掛けノブルを引き止めた。

 「まずは御子様を安全な場所へ、この場は我々に任せて下さい」

 ソウタの声にノブルは視線を返す事はなかった。だが広場の凄惨な光景を見て肩を震わせるフィリアを見やると迷いなく即座に決断を下した。

 「いいでしょう、この場は任せます。フィリア様、心中お察しいたしますが……どうか今は教会の中へ……」

 ノブルが背中にそっと手を添えるとフィリアは黙ったまま心苦しそうにゆっくりと頷いた。二人の近衛に付き添われフィリア達が教会の方へ歩き出した所でソウタが馬車から降りると、フィリアは突然立ち止まりソウタの方へ振り向いた。

 「あ……あの……ソウタ様……ぁ……」

 フィリアは何かを言い淀んで言葉に詰まり俯いてしまった。オーラが見えないので彼女が言おうとした内容を察する事もできないが、ソウタはいつもよりも随分と小さく見えるその不安気な少女に何の気なしに微笑んでみせた。

 「また、後ほど」

 「――……はい」

 しっかりと頷いて応えたその様子はいつもの凜とした御子フィリアに戻っていた。その後バタバタと駆けつけたアニードや教会騎士達に付き添われフィリアは足早に教会の奥へと戻っていった。


 フィリア達を見送り広場に残されたソウタは早速拘束した二人の男に歩み寄ると目の前にしゃがみ込んで立ち込める煙の中尋問を開始した。表面上冷静に見えるがソウタも決して心穏やかではなく、自然と眼光と言葉に冷たさが宿る。

 「さて……まずは動機だ、目的は? 御子を殺して何になる?」

 ソウタの質問に反応はなく、男達は何故か尋常でないほどの怯え方をしており殆ど心ここにあらずといった放心状態であった。しかしそこはオーラの流れに干渉できるソウタである、気を整え頬を引っ叩いて無理やり冷静さを取り戻させると胸ぐらを掴んで尋問を再開する。声はひそめ囁くような小声で、脅しも織り混ぜていく。

 「さっさと答えろ、動機と目的だ。御子を殺してお前達に何の得がある」

 「ちっ違うっ……こん、こんなっ……こんなのっ……オレ達は、ただっ……」

 「質問をしているんだ、質問に答えろ。答えない度に指の骨を潰す」

 そう冷たく言い放ちながらソウタが男の小指の先を摘むと男はソウタの目を見てゴクリと息を呑んだ。瞬き一つせずピクリとも動かない瞳孔に再び怯え震え上がるがソウタがそれをさせない。強制的に正気を維持されながら男の尋問は続けられた。

 「動機」

 「はっ……はっ……すっ……少し、だけっ……こっ困らせったくっ……てっ……」

 「これが少しか」

 「ち、違う! こっこんな威力ないっ……く、くずっ……クズ片しか入ってないんだっ……ほんっ本当だ……っ!」

 震えながらも必死に答える男のオーラに嘘はなかった。男の言う通りもしあの小さな樽にクズ片しか入っていなかったのなら確かに樽が破裂して少しびっくりする程度で済んだだろう、しかし実際の爆発の威力はどう考えてもクズ片を寄せ集めたものとは考えられない大きさであった。男が嘘を言っていないのなら樽に何らかの細工が施されていた事をこの男は知らなかった、という可能性が考えられる。次はそちらの方向にソウタは尋問を進めてみる事にした。

 「あのタル爆弾は自作か」

 「ち、違う……もっ貰ったんだ……酒に酔って愚痴ってたら……「丁度良いものがある、少し驚かせる程度の代物だ」って……」

 「どんな奴だ、名前は」

 「ろ、ローブで……全身隠してて、顔も名前も知らねぇ……で、でも女だっ……女の声だった……っ」

 「樽の中を見たか」

 「う、受け取る時に……見た……本当にクズ片しか入ってなかったんだっ信じてくれっ……!」

 男は涙ながらに訴え本気でこの事態を後悔していた。もう一人もやってしまった事の重大さに絶望しているようだった。この男達にタル爆弾を渡したという女の存在にソウタが思考を傾けていると背後から複数の足音がバタバタと煙をかき分け近付いてきた。

 「失礼します、その者達が襲撃犯でしょうか!」

 足音の主は教会騎士達だった。やや来るのが遅い気もするが叱咤する立場でもない為、ソウタはスッと立ち上がると向き直って軽く会釈した。

 「そのようです、後はお任せしてよろしいですか?」

 「はっ、お任せ下さい!」

 「……あの……我々はただのいちサポーターに過ぎないので、普通に話して頂いて構いませんが……」

 ソウタがその過剰な言動に言及すると騎士達は上から恩人なので丁重に対応するように仰せつかっている、と事情を元気よく教えてくれた。ソウタは苦笑しながら教会側の配慮に感謝を述べると地べたに転がっている男二人を騎士達に預け連行を見届けた。

 段々と周囲の土煙も晴れてきた事で広場の状況がはっきりと見えるようになるとソウタ達は周囲を見渡しながらひっそりと言葉を交わす。

 「爆弾を渡したというその女性、目的は何でしょうか」

 「……声だけで女と決めつけるのも早計だけど……この威力を見れば殺意は明白だ。実際ボクらがいなかったら怪我程度では済まなかっただろう」

 「クズ片しか入ってなかった樽にどんな仕掛けをしたらこうなりますか?」

 「単純に大きい結晶をクズ片の下に隠しておけばいい、開けて確認はしてもひっくり返しはしないだろう……高価な大きい結晶を用意できるのが前提だけど。硝煙の匂いもないし、少なくとも火薬の類ではないと思う。こっちの世界では今の所一度も見てないしね」

 「……その女性も避難民なんでしょうか」

 心配そうに呟いたウシオの顔を見上げ、ソウタはウシオが言わんとしている事をその表情から察してため息を零した。

 「あの男達は身なりからして避難民だろう。その女が何者であっても、避難民の不満はまだ燻ぶってる……彼らの不満を利用するつもりなら、二度目三度目の警戒は必要になるね」

 ソウタのその言葉を最後に二人は広場の周囲で救助活動に勤しむ人々を眺めながら重苦しく口をつぐんだ。

 まず何から手を付けたものか、とソウタが考えているとそこへゆっくりとミルドが戻ってきた。ソウタはフッとため息を吹き飛ばすと気を取り直して背後に倒れたままの馬車へ視線を向けた。

 「……ミルドも戻ってきたし……周りは街の人に任せて、ボクらは気絶した馬の手当から始めようか」

 「……はい」

 新たな懸念材料に落ち込む気持ちをお互いの小さな笑顔で励まし合いながら、ソウタとウシオはぐったりと横たわる馬の手当を開始した。広場から馬車が撤去されソウタ達の作業が終わる頃には日はすっかりと落ちていた。


 教会中央支部で起こった乱闘騒ぎの顛末はというと……ソウタ達が離れた後すぐにミルドが震脚で注意を引いた事で負傷者も少ない内に皆を落ち着かせる事が出来たという。ソウタの”皆を傷付けないように”という指示が意図せずして結果功を奏した形となった。

 そして教会本部前広場で起きた大爆発、御子襲撃事件の方はと言うと……御子様が襲撃を受けたという噂はその日の内に瞬く間に広まりエステリア中を震撼させた。この大事件の事後処理及び調査は夜を徹して行われ、合わせて数百人に及ぶ重軽傷者を出したものの幸いにも死者は一人もおらず、被害のなかった部分に関しては収穫祭も継続の運びとなった。しかしエステリアの人々の心に落ちた暗い影は色濃く深く、慰問によって避難民達の不満を低減しようという教会の目論見は皮肉にもより大きな分断と問題を残す結果となるのだった。


 馬の手当が終わった後もソウタ達は雑用として教会に残りバタバタと対応に追われる司祭達を手伝っていた。ほどなくして一旦の落ち着きを見た頃、臣官の一人ラバーカがソウタ達の元を訪れ話があると三度教会奥の謁見の間へと案内された。聖堂左奥の扉をくぐり階段を上がると微かな月明かりの差し込む薄暗い謁見の間には既に二人の人物が待っていた。険しい表情で腕を組み仁王立ちしている頑固そうな臣官アニードと、ランタンを片手にどこか落ち着かない様子の臆病そうな三人目の臣官カゴールである。謁見の間に御子の姿はなくいつもは点いている壁の明かりも灯されてはいなかった。

 三人の臣官は揃って横一列に並ぶと突然ソウタ達に対し深々と頭を下げた。三人は顔を上げるとそれぞれ思い思いに感謝を口にする。

 「ノブルから話は聞いている。不思議な人形とやらで御子様を守ってくれたそうだな、それがなければ怪我では済まなかっただろうと……感謝する」

 「中央支部の方の騒ぎもミルドさんが鎮めて下さったと、本当にありがとうございました」

 「み、御子様にもしもの事があったら……想像するだけで恐ろしい……礼を言う」

 ソウタはいつもと違う思い掛けない三人からの感謝にハトが豆鉄砲を食ったように目を丸くしていた。ウシオの手が背中にそっと触れるとソウタはハッと我に返り慌てて言葉を返した。

 「あっいえ、そんな……護衛ですから、当然の事をしたまでです。けれど、だいぶ気を落とされているようでした……その後御子様の様子は如何ですか?」

 ソウタが尋ねると三人はそれぞれ顔を見合わせ目を閉じて深くため息を吐いた。これまで全くオーラがブレなかったラバーカですら今は酷く動揺を見せている。

 「相当参っておられる……まさか、こんな事になろうとはな……」

 「私の失態です……悠長に構えている場合ではなかった」

 「ま、祭りを待つのも一つの手と提案した己にも責任はある、自分ばかり責めるな……」

 三人の臣官は実質的な教会運営のトップである、それ故に今回の事態にかなりの責任を感じているようだがそれ以上に、三人のオーラにはまるで娘を想う父親のような深い愛情が見て取れた。

 ソウタは気落ちする三人の様子を眺めながら今後の対応について尋ねてみた。

 「明日以降の対応は……まだ協議中ですか?」

 この質問にラバーカは何かを伺うようにアニードと顔を見合わせた。内部の情報であるから当然外部の人間であるソウタにそうやすやすと話せるものでも無いと思うが意外にもアニードはすんなりと頷いて応えた。

 「十分信頼に足るだろう。どの道、協力してもらう他あるまい」

 「……そうですね……。教会としては、早急に避難者の皆様がご自宅へ帰れる算段を付けなければなりません。このままでは内紛に発展しかねませんので……さしあたってですが……」

 ラバーカは心苦しそうに今後の方針、そして求められる条件などソウタ達にも協力してほしいと詳しく話した。幾度となく躊躇い言葉に詰まるラバーカの話に、ソウタは黙って耳を傾けた。

 話を聞き終わるとソウタは束の間思案に目を伏せた。やがて一通りの考えをまとめるとソウタはラバーカを見つめ必要な確認を取る。

 「今すぐ準備を始めたとして、どれだけかかりますか?」

 「すぐですか……アニード、例の……王国への支援物資、あれは流用できますか?」

 「……そうだな……半分程度、食用の穀類であれば問題なかろう」

 「であれば……」

 ラバーカは右手を顎に添えじっくりと考え込むと明朝までには完了できる、と自信を持って告げた。これにソウタは穏やかな笑みを浮かべ頷いて応えた。

 「ではすぐにお願いします」

 ソウタの快諾を受け申し訳無さそうに謝罪と感謝を述べるラバーカの隣で、意外にも口を出してきたのはアニードであった。

 「……そんな安請け合いでいいのか?」

 いつものような覇気もなく、まるで呟くように尋ねるアニードの表情はどこか暗く固かった。慙愧の念を滲ませるオーラをその目に捉えながらソウタは穏やかに口を開く。

 「安請け合いしているつもりはありません、しっかりと熟慮した上でお引き受けします」

 「……それは若さか、怖いとは思わんのか」

 予想外の案じ方をするアニードにソウタは一瞬戸惑いギョッとした視線を向けた。彼のオーラにソウタに対する警戒の色は既に無く、本気で心から心配してくれているようであった。その心遣いに応えるべくソウタも真剣に考え答えを返した。

 「……恐怖が無いとは言いませんが……覚悟なら旅の前に決めています。伊達や酔狂で危険を冒してまで方々を渡り歩いているわけではありません」

 堂々と、真剣にそう言ってのけるソウタの真っ直ぐな瞳を見据えるとアニードは静かに目を閉じ深いため息を吐いた。

 「……全く……年若い者に敬意を覚えるのは、御子様に次いで貴様で二人目だ」

 優しさのこもった目でソウタを見つめながらそう告げたアニードは初めてぎこちなくも笑顔をみせてくれた。ソウタも笑顔を返し感謝を述べるとラバーカは早速準備を進めると言って一人足早に階下へと駆け下りていった。ラバーカが去ってから少しすると入れ違いにソウタ達の元へ歩み寄ってくる人影が現れる、近衛の妹の方アンブルであった。

 「あぁよかった、まだ居たぁ」

 「アンブル、一人か? 御子様の元を離れて何をしておる」

 ソウタを見つけホッと胸を撫で下ろしながら歩いてくるアンブルへアニードがまた険しい表情に戻って声をかけると彼女は突然シャキッと姿勢を正した。表情まで緊張気味に少しこわばっている、よほどアニードが苦手らしい。

 「おじっ……アニード様、そのフィリア様からソウタ君を呼んできて欲しいと頼まれまして、その……お話はお済みでしょうか?」

 「……御子様が自室に連れてくるように仰ったのか?」

 「そっ……はい! 二人で話したい事がある、と……」

 アンブルとの会話が進むにつれてアニードの目は鋭さを増し、対照的にアンブルはダラダラと冷や汗を垂らしていた。なんとなくわかってはいたがやはり近衛の二人とアニードは親族らしい。

 「……ノブルはなんと」

 「おねっ……ノブルはフィリア様がお望みなら、と……あ……その……お姉ちゃん、すごく悔しそうだった……」

 悲しそうに俯き上目遣いでアニードを見つめるアンブルと目を閉じ腕を組んで険しい表情をしているアニードに挟まれなんとなく気まずさが重くのしかかる中、ソウタは黙って成り行きを見守っていた。しばらくして沈黙はアニードの鼻息によって吹き飛ばされる。

 「……フン……よかろう、行くが良い。小僧、先程の話……御子様にはまだお伝えしておらん。可能ならお主の口から伝えてほしい」

 「……わかりました」

 「あっありがとうございます! あ、えっと……じゃあソウタ君、着いてきてもらえる?」

 ソウタは険しい表情のまま仁王立ちしているアニードと影の薄いカゴールに軽く一礼するとアンブルの後について御子の待つ教会東館へと移動を始めた。やがてソウタ達の姿が見えなくなり足音も聞こえなくなると謁見の間に残った二人の臣官の一人、カゴールは様子を窺うようにアニードへ声を掛けた。

 「……よ、よかったのか? 御子様は恐らく……」

 「……フン、良いも悪いもない……それを決めるのはフィリアだ。……我らは我らの務めを果たそう、喧伝の準備は?」

 「こ、こんな事もあろうかと……先に準備しておいた、後は配るだけだ……」

 「相変わらず気持ちの悪い勘の良さだ……」

 それは褒めてるのか? と怪訝な顔を見せるカゴールにアニードはフンと鼻を鳴らして返事をすると二人は揃って謁見の間を後にした。


 謁見の間から東館へ移ったソウタ達は赤い絨毯の敷かれた東館の豪奢な階段をゆっくりと上っていた。東館へのルートは二階と三階にある渡り廊下の二つ。東館一階にも当然入り口はあるが教会から一度外に出なければ行けない事に加え、普段は誰も通れないように固く閉ざされている。また三階の渡り廊下は謁見の間とを行き来する御子専用となっているのでそれ以外の者は基本二階ルートしかない。

 謁見の間から扉をくぐればすぐに東館と繋がる渡り廊下である。この東館は御子の居室があるという事で普段は男子禁制となっており、御子の近衛であるノブルとアンブル、そして身の回りの世話をする侍女隊と警備の女性教会騎士以外には臣官でさえ滅多に立ち入らない女の園となっている。という事でミルドは渡り廊下でお留守番となった。

 要所に立つ警備兵にジロジロと見られながら三階に到着し赤い絨毯の続く長い廊下の先を見ると真ん中で道を塞ぐようにノブルが立っていた。剣を身体の前に立て柄に両手を乗せて、何処かで見たような見事な仁王立ちである。歩み寄る足音を感じ取ったノブルは閉じていた目をゆっくり開くとまっすぐにソウタを見つめた。その眼光は鋭いものであったが彼女の纏うオーラは深い悲しみに染まっていた。ノブルは聞こえないほどに小さく呼吸を整えると静かに口を開いた。

 「……此処より先はソウタ殿お一人でお進み下さい、お連れの方はここでお待ち頂きます」

 ソウタはその指示に従う意思を示すとウシオと顔を見合わせ互いに頷いた。力なく進行を促すノブルの横を恐る恐る、ゆっくりとすれ違うと一メートル程通り過ぎた所で突然ノブルの声がソウタの背中を掴んだ。

 「――叶うなら……フィリア様がお辛い時、誰よりもお近くに寄り添える者は自分でありたかった」

 「お姉ちゃん……」

 仁王立ちのまま微動だにせず、締め付けられるような胸の内を静かに吐露するノブルの微かに震えた声に足を止めたソウタは振り返ること無く黙って耳を傾けた。

 「しかし……フィリア様が望まれるのなら仕方ありません、悔しいですがここはあなたに譲りましょう……だから……」

 叶わぬ願いを託す為、ノブルは言葉に詰まりながら潤んだ声を絞り出した。

 「だからどうか……フィリア様を、元気付けてあげて下さい……お願いします……」

 「……はい、善処します」

 何故ボクなのかわかりませんが……と思い浮かべた出掛けた言葉をソウタは飲み込んだ、無念に涙する高潔な近衛の精一杯の願いに対して無粋だと思った。ノブルの願いを背負い背筋を伸ばしたソウタは改めて歩を進めると大きな扉の前に立ち二回軽くノックした。


 どうぞ、というか細い声が聞こえ扉を押し開いて中へ踏み入るとフィリアは窓際に立ち淡い月明かりを浴びながら天樹を見上げていた。明かり一つ灯さず窓から差し込む月明かりだけの薄暗い部屋で、相変わらず髪も顔も隠したままのフィリアはゆっくり振り返ると窓際のテーブルを指し示しながらソウタを近くへ招いた。

 「ソウタ様、お待ちしていました……こちらへどうぞ」

 蜜のような甘い香りに満たされたフィリアの私室というその大きな部屋は広さに対して家具が少なく随分と質素なものに感じられた。品のある立派な部屋ではあるのだが飾りや調度品なども必要最低限と言った感じで却って部屋の広さが強調されている。この空間にベッドなどの寝具は見受けられず奥に見える扉の先が寝室になっているようであった。

 ゆっくりゆっくりと歩を進めながらソウタが広々とした室内に目を泳がせているとフィリアが苦言を呈してきた。

 「ソウタ様……そんなに部屋を眺められるとその……恥ずかしいです……」

 「あ……ごめんなさい、女性の部屋を……失礼しました……」

 警戒と状況把握が染み付いているソウタはまたやってしまった……と反省し苦笑いで誤魔化した。ソウタが窓際のテーブルまで辿り着くとフィリアはソウタを正面に見据え姿勢を正した。凛とした立ち姿が月明かりに映える。

 「まずはわざわざお呼び立てしてしまって申し訳ありませんでした、助けて頂いたお礼をまだお伝えしていませんでしたので……ソウタ様、身を挺して守って頂き、ありがとうございました」

 感謝を述べながらフィリアは淑やかに深く、そして長く頭を下げた。事前に想像していたよりは元気に見える、しかしオーラが見えずともそれがから元気である事をソウタも感じ取る事が出来ていた。

 「……ノブルさんが泣いていましたよ、感謝を伝える為だけにボクを呼んだわけではないでしょう?」

 ソウタの問い掛けにフィリアはゆっくりと頭を上げると俯いたまま静かに語りだした。

 「……昔は私も泣き虫で、あの子が小さい頃はよく一緒に泣いていました。けれど私が余りにも泣いてばかりだったから、いつしかあの子は泣かなくなって……自分がフィリアを守ってあげると言い出して……今では誰よりも信頼できる、立派な私の騎士です……ノブルには後でちゃんと謝ります」

 言い終えるとフィリアはソウタへ座るように促した。背もたれのついた椅子にソウタが腰を下ろすとフィリアはティーセットの乗ったワゴンをテーブル脇に付け手慣れた様子でお茶を淹れ始めた。

 「侍女もいると伺いましたけど……手慣れてますね、普段からご自分で?」

 「自分でお茶も入れられないようでは恥ずかしいですから……」

 テキパキと動くフィリアを眺めているとほどなくして綺麗なカップに注がれた茶褐色のお茶が目の前に置かれた。立ち上る湯気と香りを楽しみつつしばし待つとフィリアの着席を合図に月明かりの茶会が静かに幕を開けた。


 いただきます、とひと声かけてカップを傾けるとその薄い褐色のお茶は芳醇な果物の香りと舌先に僅かに感じる渋みの後に仄かな甘さの広がる甘美なものであった。ソウタも思わず驚きを口にする。

 「……お砂糖入れてなかったですよね、甘い……」

 ソウタの反応が嬉しかったのかフィリアはふふっと無邪気に微笑んだ。

 「果物の皮などを一緒に使っているそうで、私のお気に入りなんです。ソウタ様にも気に入って頂けたらと思いまして」

 「美味しいです、とても。ありがとうございます」

 互いに笑みを交わし月に照らされた二人だけのお茶会は和やかに進んだ。

 双方一服を終えた頃、もじもじとなかなか話を切り出せないフィリアに代わりソウタが口火を切った。

 「それでお話というのは、馬車の側で言いかけた事と同じですか?」

 ソウタの問いにフィリアは声には出さず、静かに頷く事で答えた。テーブルの上に重ねたフィリアの両の手が震えている事に気付いたソウタは改めてその必要性を確認する。

 「それは……ボクに伝えなければいけない事、なんですか?」

 これにフィリアは首を振って見せると突然堰を切ったように口を開いた。

 「いけないわけではありません、誰にも話さぬようにと……ずっと隠してきました。けれど……聞いて欲しいんです……他でもない、ソウタ様に」

 いつの間に彼女の中でソウタの存在がそこまで大きなものになったのか……ソウタは少し困惑していた。しかし相対するフィリアの声や仕草は冗談を仄めかすようなものではなく真剣そのもので、これまで見てきたどの一面とも違う新たなフィリアの姿にソウタも自然と興味を惹かれていた。

 「話というのは……私の事です……聞いて、頂けますか……?」

 真っ直ぐソウタを見つめるヴェールの奥に隠されたフィリアの瞳は月の光に照らされキラキラと潤んでいるのが見て取れた。知りたいと思っていた事を本人の口から聞く事が出来る……断る理由などあるはずもなくソウタは頷いて答えた。

 「その為にここにいます、聞かせて下さい」

 少しでもフィリアが話しやすくなればと、ソウタは優しく微笑んでみせた。するとフィリアは一つ深呼吸をしておもむろに立ち上がるとクルッと振り返りソウタに背を向けた。何をするのかとソウタが眺めているとフィリアは後頭部のリボンを解き頭をすっぽりと覆い隠していた布をフェイスヴェールごと脱ぎ捨てた。

 いつ見ても布に包まれていた、ソウタの見開いた瞳に映るフィリアの長い髪は月明かりを浴びて紫銀に輝いていた。この世界では赤茶や薄茶をたまに見るくらいで殆どの人が暗めの茶色か黒髪である、老齢の白髪なども見た事があるが銀色に煌めく髪を見るのは初めてだった。

 ソウタが何の反応も出来ずにいると肩を震わせたフィリアは再び深呼吸をして意を決しゆっくりと振り返りソウタを正面に見据えた。フィリアの顔はヴェール越しではあったが一度見ていた。しかしそれでも、ソウタは驚愕せざるを得なかった。

 フィリアの瞳は最初髪と同じ淡い紫色に見えた、かと思えば淡い青にも見え、時にエメラルドグリーン、時に桜色と瞬きする度に違う輝きを見せ、光の加減や角度によって発色を変える不思議な宝石のような瞳あった。

 ソウタは呆けて見入るばかりでフィリアの表情に全く気付いていなかった。唇を噛み締め必死に涙を堪える強張った表情に気付きもせず、ソウタは何も考えず無遠慮に無警戒に、自然と湧いた思いを呟くようにそのまま口に出していた。

 「……そんなに綺麗なのに、何故隠しているんです?」

 見開いたフィリアの瞳から涙が零れ落ちた所でようやくソウタはその表情に気が付き慌てふためいた。早口で弁解を並べながらウシオの助けにも期待できずあたふたしていると胸を抑えて俯いたフィリアはゆっくりと首を振り精一杯に声を絞り出した。

 「っ……違います……悲しいわけではなくて……止まらなっ……ごめんなさい……っ」

 立ちすくんで止めどなく溢れる涙に戸惑うフィリアに席を立ち歩み寄るとソウタはフィリアを椅子に座らせた。テーブルに付いたフィリアの手にそっと手を差し伸べるとフィリアはゆっくりとソウタの手に自身の手を重ね弱々しく握りしめた。小さく震える温かいフィリアの手をソウタも握り返すとその涙が止まるまでの間、両の手を重ね静かに寄り添い続けていた。


 「申し訳ありません、泣き虫な所ちっとも治らなくて……」

 少し落ち着きを取り戻すとフィリアは自嘲気味に微笑んで頭を下げた。もう大丈夫だと感謝を告げるフィリアと手が離れるとソウタは今一度フィリアの対面に座り直し静かにフィリアの言葉を待った。泣き腫らした目元を拭い呼吸を整えるとフィリアは潤んだ瞳でソウタを見据えゆっくりと口を開いた。

 「お話したいのは私の生い立ち、身の上話です。ソウタ様にも関係あると思い、お招きしました」

 「ボクに……?」

 この世界の住人ではないソウタに関係のある生い立ちと聞けば可能性など一つしかなかった。ソウタの脳裏に浮かぶ言葉がフィリアの口から語られる。

 「私は……神吏者、なのかも知れません」

 「神吏者、かも……?」

 妙に歯切れの悪い言い方にソウタが首を傾げるとフィリアは静かに頷き秘匿された自身の生い立ちを語り始めた。


 ――十年前、フィリアは落ちた星と共に現れた。

 エステリアの南に落ちたモノを調べに来た教会の調査隊は巨大なクレーターの中心、落ちた星の側で倒れていた少女を保護した。紫銀の髪と不思議な瞳の少女は自身の出自や名前すら覚えておらず、当時御子を務めていた先代マディスに引き取られるとフィリアという名前を与えられた。

 伝承に語られる神吏者かもしれない、余りにも人と違う隔絶した容姿を持つフィリアが人々に知られれば果たして受け入れて貰えるのか……複雑な懸念を拭いきれなかったマディスはフィリアの髪と瞳を隠し徹底的に秘匿するよう厳しく命じた。

 肩身の狭い思いをさせてしまう罪悪感もあったのかもしれない、マディスは泣いてばかりの朧気なフィリアに我が子のように深く愛情を注いでくれた。本当の親子のように触れ合う中である日フィリアに妖精を見る力がある事に気付いたマディスはその時既に高齢で、後継者を探していた事もあり次代の御子にフィリアを指名した。そして三人の臣官にフィリアを託すとマディスはほどなくして息を引き取った。

 訳も分からず御子の位を継承したフィリアは当然まだ人前に出せる状態ではなく、頭を抱えた三人の臣官は双子の孫娘と一緒に教育を施す事にした。言葉使いや礼儀作法、そして御子の務めとは何か、様々な事を学び素直なフィリアはたった数年で驚くほどの成長を遂げいつしか立派に御子としての務めを果たせるようになっていった。双子の姉妹も教会騎士として腕を磨き数年前、驚くべき早さで御子の近衛にまで上り詰めた。幼い頃の約束をようやく果たせると二人揃って報告に来た時は本当に嬉しかった。


 「昔は私の方が背が高かったのですが、いつの間にか二人共大きくなっていて……私だけ置いていかれてしまいました」

 双子の近衛への思いで話を締めくくったフィリアは目を丸くしているソウタに気付くと自身も驚きを見せた。

 「お気付きだったわけでは……ないのですか?」

 「……何故です?」

 可愛らしく首を傾げ唐突に妙な事を言い出すフィリアにソウタは面食らったように目を丸くしたまま質問で返すと、フィリアは首を傾げたまま困ったような笑みを浮かべた。

 「初めてお会いした時からずっと、私の事を気に掛けているようでしたので……てっきり感づかれているものとばかり……」

 「あー……その……そういうわけではないのですが……何というか……」

 ソウタはフィリアから目を逸らすとしどろもどろになりながら愛想笑いを浮かべてお茶を濁した。その様子がどのように見えたのか、フィリアは何かを思い出すようにゆっくりと目を伏せると口元に笑みを浮かべたまま少し悲しげな表情を見せた。

 「神吏者を探しているとお聞きした時は本当に驚きました。そしてそれと同時に申し訳なくも思いました……きっと私はソウタ様の疑問にお答えできない……だから隠し通すべきだと、アニード達からも強く止められて……」

 仕方のない事、あなたが悪いわけじゃない……と頭には浮かんでいたのに、憂いを帯びたフィリアの顔を見つめていたソウタは口を開くも言葉が出なかった。目ではなく心で捉えた彼女の感情に、胸が詰まる思いだった。

 少しの沈黙が続くと一つの瞬きと共にソウタへ視線を向けたフィリアは悲しげに目を細めもう一つの謝罪を口にした。

 「申し訳ないと言えば王都の件も……ソウタ様がお怒りになるのも無理のない事です、面目もございません」

 「……腹を立てていたのも気付かれていたんですね……隠せていると思っていました……」

 畏まって頭を下げる意外と目ざといフィリアにソウタは小さくため息を零し苦笑いを浮かべてたじろぐばかりであった。

 「今すぐにでも援助をお届けしたいのですが……海路も陸路も使えず……至らぬ事ばかりです、申し訳ありません」

 暗く肩を落とし謝ってばかりのフィリアを見て、ソウタは何の為にここにいるのかとノブルから託された思いを胸に己を叱咤し背筋を伸ばした。

 「悪いのは嘘の報告を上げた者達です。それに今は支えてくれる人達もいるはずなので、それほど心配しなくても大丈夫だと思います。それでも心苦しいと仰るなら……」

 話しながら袖から一枚の依代を取り出したソウタはフィリアの目の前で鳥人形を出してみせた。突然テーブルの上に現れたそこそこ大きめの白い鳥にフィリアは肩をすぼめ可愛らしい仕草で驚いた。

 「こ、この子は……?」

 「人形です、馬車で少しお見せしましたが本来はこう使います。手紙くらいの軽い物なら一日もあれば王都に届けられると思います」

 「い、一日ですか……? そんなすごい事が……あ、あの……触れてみても、宜しいでしょうか……?」

 ソウタが微笑んで頷くとフィリアは恐る恐る人形に手を伸ばした。鳥の形をしているが鳥ではない、その不思議な手触りにフィリアの口元は自然とほころび少しは気持ちを和らげてあげられたようであった。

 鳥人形を生き物のように優しく愛でるフィリアを眺めながらソウタは最も大きな気掛かり、一番確認しなければならない彼女の真意を知るべく覚悟を決めて一歩踏み込んだ。

 「……長年隠してきた秘密を何故話してくれたのか、伺ってもいいですか? 神吏者としての記憶がないのならアニードさん達の言う通り、黙っていればよかった。何故今、何故ボクだったのでしょうか?」

 フィリアは穏やかな笑みを浮かべたまま人形を撫でていた手を止め、ゆっくりと窓の外に佇む天樹へと視線を向けた。

 「……ソウタ様は……ご自身を”特別”だと、思われた事はございますか?」

 「特別……ですか?」

 フィリアはゆったりと視線をソウタへ向けると静かに頷いた。考え込むソウタを見つめながらその答えを待たずにフィリアはそっと目を伏せると穏やかな口調で続けた。

 「教会のベッドで目が覚めたあの日から十年……私はずっと……”特別”でした」

 そう語るフィリアの表情は穏やかに微笑みながらもどこか寂しそうに、憂いを帯びたものだった。この十年を思い返しながらフィリアは語った。目が覚めてすぐに特別と秘匿され、愛されながらも特別と守られて、誰からも等しく特別と扱われ、御子として常に特別を求められて、十年の時を過ごしてきた。

 穏やかでありながらも誰とも違う、”特別”である事が私の日常でした……とフィリアは物憂げな表情で締めくくった。

 「……特別と扱われる事が嫌だった、と?」

 ソウタがストレートに尋ねるとフィリアはそっと目を閉じ小さく首を振ってこれを否定した。

 「嫌とは言いません、嬉しく思いますし感謝もしています」

 そうは言いながらもしょんぼりと目を伏せていたフィリアは再び窓の外へ視線を向けると遠い目で天樹を見上げた。

 「けれど時々、ふと思うのです……私と同じ人はどこにいるんだろう、この世界に私一人だけなのか……と」

 悲しげな表情をしていたフィリアはゆっくりと視線を落とすと一転、穏やかに笑みを浮かべながら続けた。

 「そんな時です、妖精を連れ歩いている方がいると聞いて胸が高鳴りました。どんな人なんだろう、お会いしてみたい、お話してみたいと思いました」

 先程までとは打って変わって穏やかな、優しい表情をしたフィリアはゆっくりと桜色に煌めく綺麗な瞳をソウタへ向けた。

 「その方は周囲と違う変わった白いお召し物を着ていて、背丈も私と同じくらいで、同じように妖精が見えて、真っ直ぐな瞳で、神吏者を探していると仰いました」


 ――まるで私の事を迎えに来てくれたのだと、そんな夢を見てしまうほどに胸が熱くなった。

 ――自分が誰かも分からなかったあの日から十年、ただ一人”特別”であり続けた私が初めて出会えた、たった一人の、私だけの”特別”な人。


 などと口に出せるはずもなく、口をつぐんだフィリアは目を細め潤んだ瞳で霞むソウタを見つめるとゆっくりと微笑んで目を閉じた。

 「……私には何もありませんがせめて、少しでもその方のお力になりたいと思いました。”特別”な御子ではなく、ありのままの私として向き合いたいと……そう思い、お話ししようと決意致しました。なんて……本当は怖くて心細くて……もしかしたらソウタ様なら、私の我儘な思いを分かって下さるかも……と、少し期待した部分もあります」

 ずるいですね……と穏やかに微笑んだまま、零れ落ちる涙をごめんなさいと謝罪しながら拭うフィリアを見つめ静かに聞き入っていたソウタはゆっくりと目を閉じると深く大きくため息を吐いた。何か気に障っただろうかと慌てて謝罪するフィリアにソウタは首を振り必要ありません、と笑顔で告げた。

 「己の未熟を恥じただけです、気にしないで下さい」

 オーラが見えない、たったそれだけの事でどれだけ自分の目が曇っていたのか……この少女と話しているとそれを痛いほど痛感させられると自嘲気味に笑ったソウタは胸の内で強く反省しオーラにばかり頼っていてはいけない、と固く戒めとした。それと同時にきちんと彼女の思いに応えたいという強い想いを胸に、ソウタはフィリアの煌めく瞳を真っ直ぐに見つめた。

 「それじゃあお返しに、今度はボクの話もしましょうか」

 「っ……はい、是非お聞きしたいです!」

 途端に元気の弾けたフィリアに微笑むとソウタは何もかもを包み隠さず話して聞かせた。この世界の人間ではない事、地球で起こった大惨事フラッシュフォールから始まった異変と異能の事、その原因究明の中でこの世界に降り立ち帰る手段を探している事、そして落星での調査で神吏者と思われる人の形をした遺体を発見した事も、謝罪と一緒に打ち明けた。想像もしていなかっただろうソウタの話にフィリアは終始驚きの連続であった。

 ソウタが話し終えるとフィリアは再び申し訳無さそうに目を伏せ神妙な面持ちで謝罪を口にした。

 「ソウタ様が元の世界へ帰る手掛かり……申し訳ありません、私が少しでも何か覚えていたら……」

 「そんなつもりで話したわけではないので謝らないで下さい、御子様は何も悪くありません」

 慰めを述べながらソウタが優しく微笑みかけるとフィリアは見つめ合ったまま束の間何かを思案し意を決した様子でゆっくりと口を開いた。

 「……フィリア……御子様ではなく、フィリアと……そう呼んで頂けませんか?」

 不安気な表情で綺麗な瞳を揺らす子犬のようなフィリアにソウタは微笑んで一つ交換条件を提示した。

 「……じゃあボクの事も、様はなしでお願いします」

 ソウタの申し出にフィリアははい、と嬉しそうに微笑んで頷いた。しばしお互いの名前を呼び合い気恥ずかしそうに微笑み合う、見ている方が恥ずかしさの余り思わず叫びたくなるような甘ったるいやり取りを交わすと深呼吸して気持ちを落ち着けたフィリアは先程のソウタと同じ質問を口にした。

 「ソウタ、さん……は、どうしてそこまで私に話して下さったのですか?」

 フィリアからの問い返しにソウタはうーん……と唸りながら目を伏せ、俯いてじっくりと思案すると自身の心情を自分でも確認するようにゆっくりと言葉に変えた。

 「大した理由はありませんが……誠意、と言うか……この人とは対等に正面から向き合いたいと、そう考えただけだと思います」

 たとえオーラが見えなくとも信じられる、信じたいと心から思える……そんなフィリアだからこそ彼女に対しては誠実でありたいと、ソウタは強く思った。

 ソウタの答えを噛み締めるかのように、フィリアはゆっくりと目を閉じ穏やかな表情で両手を胸に当て祈るような仕草を取るとおもむろに立ち上がり少し待っていて下さいとソウタに告げ一人奥の扉の先へと消えていった。

 ほどなくして戻ってきたフィリアは手に飾り気のない質素な木の箱を持っていた。重箱に一回り大きい重箱を蓋にして被せたような作り(※総かぶせ蓋と言うらしい)の木箱を開けると中には綺麗な白い布に包まれた一対のペンダントが収められていた。フィリアはその一つを手に取りまじまじと感じ入るように見つめると両の手で優しく包み込み胸元に抱き寄せて再び祈るような仕草を取った。祈りを捧げ終わったフィリアは月明かりの元ゆっくりとソウタに歩み寄るとスッとそのペンダントを差し出した。

 「ソウタ、さん……こちらを、受け取って下さいますか?」

 「……綺麗な首飾りですけど……これは?」

 差し出されたそのペンダントは直径五センチ程の円の内側を一回り小さな円でくり抜いた三日月のような形で、内側の穴には更に二回りは小さいどこかで見たような赤い宝石のような球体があしらわれていた。三つの円の円周が十二時の位置で重なるようなデザインである(※真向月に星という家紋と同じ)。

 「これは私が保護された際、唯一持っていたものだそうです。お守りのようなものではないかと考えています。同じものが二つございますので、一つを是非、ソウタさんに」

 「それは……大事なものでは?」

 「先代の御子マディス様……お母様が仰っていました。『この人だと、心から思える人に巡り会えた時、二つの内の一つを贈りなさい』……と」

 「それほど大切なものなら尚の事もっと、ちゃんとした方に渡すべきです」

 受け取れない、と困った顔のソウタをフィリアは綺麗なエメラルドブルーの瞳で真っ直ぐに見つめると優しい表情で微笑みゆっくりと首を振った。

 「ずっと特別だった私と、対等でいたいと仰って下さった事……本当に嬉しかった。そんなソウタさんだからこそ、これを持っていて欲しいと思うのです。私は何も覚えていませんが……もしかしたらこれが、神吏者への手掛かりに繋がるかも知れません。エステリア教会御子の私がしっかりとお祈りも込めました。天樹様の御加護が、ソウタさんと共にありますように――」

 軽い気持ちで贈ってくれているわけではないと、見つめ合う彼女の瞳から確固たる意思を感じ取ったソウタはそれ以上何も言わず、ゆっくりと椅子から立ち上がった。これ以上の固辞は却って失礼に当たると覚悟を決めたソウタはフィリアと正面から向かい合い、差し出されたペンダントを両手で受け取った。見た目に反してずっしりと重量感のあるペンダントを見つめその重みを噛み締めたソウタはそっと両手でペンダントを包み込み真剣な表情でフィリアへ感謝を告げた。

 「ありがとうございます、大切にします」

 「はい」

 窓から差し込む月明かりの中、あどけなくも自愛に満ちた微笑みを湛える紫銀の髪の少女はまるで聖母か女神かのように美しかった。

 ぼんやりと見惚れているとフィリアから今一度のお茶のお誘いを受けソウタは是非、と微笑んで快諾した。雑談も交えながら和やかにカップを傾け会話を楽しんでいるとフィリアからいつまでエステリアに滞在できるのかという話が出てきた。

 「そうだ、それもお伝えしなければいけませんでした」

 ソウタはすっかり忘れていた今後の計画について、現在アニード達臣官の三人が準備を進めてくれている事を説明した。計画の内容を聞いたフィリアは開口一番真っ先に反対を訴えたが、予め決めていた予定とも合致するからとソウタが説得し渋々ではあるが了承を得た。恐らくアニード達の口から説明を受けていたらフィリアは断固反対の意思を曲げなかっただろう、ソウタに伝えて欲しいと頼んだ意味が今ならばよく分かる。

 その後三色の妖精達も加わり賑やかに続いたお茶会が終わりを告げるとソウタは妖精達にスイカを呼んできて欲しいとお願いした。

 ソウタがフィリアの部屋を出ると入れ替わりにフィリアはノブルとアンブルを部屋に呼び、心配をかけた事への謝罪と日頃の感謝を伝えた。近衛二人の咽び泣く声を耳にするのはきっとこれが最後になるだろう。

 ウシオと合流した後スイカの到着を待ち、ほどなくしてスイカとも合流するとソウタは今後の予定を奔放な妖精に伝えた。

 「……ええええええええええええッ!?!!?」

 話を聞いたスイカの大きな驚愕の叫びは風鳴りの如く、ごく僅かな者の耳にだけ木霊すると夜風に乗って舞い散る木の葉を踊らせるのだった。

第十五話、お読み頂きありがとうございます。橘月りんごです。

ちらほらと見て頂く機会が増えてきたのかなと思う今日このごろ、もっと見て頂きたいと思いつつ初めての執筆で手探りなもので中々筆が進みません。

四月九日に書き始めたはずなのですが月を跨いでしまいました、お待たせして申し訳ない限りですが必ず書きますのでのんびりとお待ち下さい。

後半三話目という事で少し小さな山場となりました、次回第十六話からは三話に渡って滞在したエステリアを離れます。

エステリア住民と避難民の間に空いた溝に何を示すのか、後半のクライマックスに向けて今後ともよろしくお願い申し上げます。

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