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第十二話

 「――勝負あり! 今日もソウタの勝ちだな」

 港町を出発してから数日後の天候穏やかな海の上、たっぷりと帆を膨らませ南東へとひた走る木造貨物船の甲板にて――デッキブラシを片手に余裕の笑顔を見せるソウタと、同じくデッキブラシを片手に膝に手を付きゼエゼエと息を切らす見習い船員ナウタの姿があった。一段高い船首甲板と船尾下段甲板には複数の他の船員達の姿もありソウタとナウタ二人の甲板掃除対決を賑やかしながら並んで観戦していた。

 「どうしたナウタ、こんなもんでヘバッてたら次の仕事は任せられねえぞぉ」

 「う……うっせぇ……こいつ……速すぎんだよ……はぁ……はぁ……」

 肩で息をしながらナウタは飛んでくる野次に鬱陶しそうな視線を返した。袖を縛るたすき掛けを解きながら安穏としたやり取りを微笑ましく眺めるソウタの横を気持ちのいい潮風が通り抜けていく。

 しかし何故船員でもないソウタが甲板掃除をしているのか、それは出港直後にまで遡る。ソウタが船首に立ち進行方向を眺めているとその背中にこの船の船長ゼーマンからこんな声がかかった。

 「ボケっと突っ立ってんじゃねえ、乗せてやるとは言ったが客じゃねえんだ。航海を共にするなら家族も同然、お前らにもそれなりの仕事をしてもらうぞ――」

 ――と言う事がありかくして、ソウタはナウタと同じ見習いとして毎日の甲板掃除を仰せつかったのであった。


 見た目にそぐわぬ流石の身体能力を見せつけあっさりと勝利したソウタは馬毛のデッキプラシを片付けると明日も頼むぞ、という船員達の声に手を振りながら船尾側から船内へ。もはや梯子のような急勾配の階段を二つ降りここがお前らの寝床だ、と船長ゼーマンに案内された船の最下層……所狭しにこれでもかと木箱や樽の積み込まれた船倉の貨物スペースへと戻ってきていた。

 船底と言っても貨物室、荷物の積み下ろしをする為の縦穴が甲板から繋がっており日中であれば格子状に差し込む陽の光によってそれなりの明るさを確保できていた。とは言え薄暗い事には変わりなく、仄かに漂う焦げ臭い匂いと海面下特有のこもった音が床と壁全体から響き渡り何とも陰鬱とした空間を作り出していた。

 そんな中、積まれた木箱の一つに腰掛けるウシオの膝の上では大の字になった小さな女の子が機嫌の悪さを隠す気もなく不貞寝していた。

 「スイカ、まだ拗ねてるの?」

 甲板掃除から戻ったソウタが潜めた声をかけるとスイカはチラッと一瞬だけソウタを見やり頬を膨らませてフンッとそっぽを向いてしまった。置いていかれそうになった事をまだ根に持っているようである。

 「ちゃんと明朝出発するよって伝えたのに」

 「……お日様が出るまでは夜だもん、朝じゃないもん」

 まるでフグのようにぷくっと膨らんだ頬をウシオにツンツンされながらいじけ続ける妖精を見かねたソウタは仕方がない、と口元をほころばせ小さなため息混じりに呟くとミルドに持たせた荷物袋型下級人形の中をゴソゴソと漁り始めた。

 「ほら、これあげるから機嫌直して」

 そう言いながらソウタが取り出したのはビールジョッキ程の大きさの瓶であった。木製の蓋を紐で固く縛り密閉された瓶の中には十円玉程の小さな黄色い柑橘系の果実がぎっしりと詰められている。陰鬱とした船底で見るそれはあたかも煌めく宝石のようにも見えた。

 「あー!」

 果実の瓶詰めを見たスイカは大きな叫びと共に飛び起きるとまっしぐらに瓶に飛びついてきた。今しがたまでの不機嫌等どこ吹く風である。

 「何……そんなに気に入った?」

 「これ! 食べたかったけど食べられなかったやつ!」

 瓶をペシペシと叩きながら訴えるスイカの言葉にソウタはあー……と呆れた顔を返した。ソウタはこれを港町の広場で開かれていた露店市で購入した。スイカが食べ放題でご満悦だったあの露店市である。食い意地の妖精……もとい、さしものスイカも相手が瓶に詰められていたとあっては手も足も出なかったようである。

 ソウタはふふっと小さく微笑むと固く結ばれた紐を解き瓶の蓋を開いた。瞬間フワリと柑橘系の爽やかな香りが鼻孔をくすぐりソウタとウシオも思わず溢れ出る唾液でゴクリと喉を鳴らす。果実は波々と瓶を満たす透明なシロップにヒタヒタと漬けられていた。

 ソウタは人形を箸のようにして果実をすくい上げそのまま今度は皿のように形を変えて、ウシオとスイカにひと粒ずつ差し出した。

 「これ皮ごと食べられるんだって、お店の人が言ってた」

 「いただきまーす!」

 「そのままかぶりついたらベタベタになっちゃいますよ」

 ウシオの忠告も虚しく、構わず顔面から豪快に行ったスイカをにこやかに眺めつつソウタも一粒取り出すとヒョイッと口へ放り込んだ。表面を包み込む糖蜜は滑らかでサラリとしており瞬時に口の中を甘く染め上げた。しばらく舌の上で転がした後思い切って噛み潰すと内から弾けた強烈な酸味が一気に甘さをかき消しソウタは思わず目を閉じた。ウシオも同じようで口元を上品に手で隠しながらも眉はハの字を見せていた。

 「……思った以上に酸っぱかった」

 「なかなか強烈ですね……」

 表面の皮だけを美味しそうに堪能するベタベタのスイカをよそに酸味の爆弾を味わった二人はほんのり瞳を潤ませながら微笑みあった。


 スイカが酸っぱさに喘ぐ頃、ソウタ達の元へ一人の船員が訪れた。見習いの少年ナウタである。

 「伝達……針路を変えるから、揺れに気をつけろって」

 「わかった、ありがとう」

 ソウタが感謝を述べるとナウタはそのまま立ち去る……かと思いきや、甲板から差し込む光を間に挟んだソウタ達の反対側へと腰を下ろした。そこは彼の定位置なのか、床と壁にはシミのような黒ずみが出来ていた。膝を抱えるように縮こまって座る居心地の悪そうな少年にソウタは進んで声をかけた。

 「ナウタ君も食べる? これ」

 言いながらソウタが果実の詰まった瓶を掲げて見せるとナウタは俯いたままジロリと視線だけで反応を返した。

 「……いらない」

 ボソッと短く答えたナウタは膝に乗せた腕に顔をうずめるとピクリとも動かなくなった。

 「……そう、欲しくなったら言ってね」

 そう言ってソウタが瓶の紐を固く結び直し袋型人形の中へと瓶をしまい直していると今度は顔をうずめたままの姿勢でナウタから声をかけてきた。

 「くんも……いらない。お前の方が……上だし……」

 ナウタの言葉にソウタはウシオと顔を見合わせると改めてナウタへと真っ直ぐな眼差しを向けた。その瞳が捉える少年の弱々しいオーラ……それが示すものを一言で表すとするならば『劣等感』である。

 甲板では針路変更に伴う威勢のいい船員達の野太い掛け声が飛び交い揺れと共にギシギシと鳴り響く船体の軋む音が船倉を満たす中、ソウタは船底にうずくまる少年の抱えているものに迷わず手を伸ばした。

 「上というのはよくわからないけれど……それじゃあナウタって呼ぶね。ナウタはどうして船乗りになったの?」

 「……何でそんな事……お前に関係ないだろ」

 ごもっともな返答にソウタは王都で知り合った子供達の一人、ジェントの事を思い出し目を細めながら優しい笑顔を見せた。しかしすぐさまその表情は意地悪なものへと変化する。

 「まあ関係はないけれど……でもナウタ、さっき勝負に負けたよね?」

 この挑発にナウタはゆっくりと顔を上げ恨めしそうな目でジロリとソウタを睨んだ。その視線に今度は愛嬌を交えて応える。

 「まだまだ十日以上船の中で一緒なんだし、少しでいいから話し相手になってくれない?」

 巧みな話術に導かれナウタはため息を溢しながらもゆっくりと頭を上げると至極面白くなさそうなしかめっ面でソウタを見つめた。

 「……さっきの……くれたら、話してもいい」

 見事ナウタの譲歩を引き出したソウタは微笑んで頷くと背後に隠していた小皿を手に取りナウタの元まで持っていった。こうなる事を見越していたのか、ソウタは瓶を片付ける前にナウタにあげる果実を用意していた。

 「おまえ……最初から……」

 「食べたそうな色をしていたからね。はい、どうぞ」

 ソウタの言葉の意味は分からなかったがまんまと乗せられた事にナウタは悔しさを滲ませつつも身体は正直なもので、差し出された瑞々しい果実にゴクリと喉が鳴り自ずと手が伸びていた。

 皮ごと食べられる旨を伝えながら元いた場所に戻ったソウタはピョンッと木箱に腰掛けると来たるその時に期待を寄せて今か今かと待ち構えていた。それすなわち――例の爆弾である。ナウタが口に放り込む様子を一見優しそうな笑顔を湛え見守りながら腹の中では逸る気持ちを必死に抑え込んでいた。そしてナウタが果実を噛み潰した瞬間――。

 「……ッ!?」

 「ふふっ……あっはっはっはっ……!」

 ソウタはお腹を抱えて盛大に笑った。笑いながら、腕で口元を抑え涙の滲んだ瞳でソウタを睨みつけるナウタを気遣うように声をかけた。

 「やっぱり酸っぱいよね、それ……ふふふっ、ボクもさっきやった」

 そんな無邪気に笑うソウタの笑顔に毒気を抜かれたのか、或いは酸味の爆弾が健康に影響を及ぼしたのか、ナウタの弱々しいオーラには僅かに活力が戻っていた。


 針路変更も無事に終わり船が安定して風に乗る頃、落ち着きを取り戻したナウタは自らの意思でソウタの問いの答えを語り始めた。

 「……父親も、船乗りだって聞いたんだ」

 相変わらずの定位置に縮こまって座り込んだまま、ナウタは差し込む光の中を泳ぐ塵をぼんやりと眺めていた。

 「お父さん……聞いたっていうのは、誰から?」

 「……タリーラおばさん……もっと小さい頃、船に乗る前は……おばさんに面倒見てもらってた」

 タリーラ――港町で酒場を営む女性、エプロンドレスに興味を示した事でウシオと意気投合しほんの短い時間であったがソウタ達がお世話になった人物である。……誤解の無いよう言及しておくが恐らくまだ二十代だと思われる。

 「そんなに長い付き合いだったんだ……それで、お父さんを探す為に船乗りに?」

 ナウタはすぐには答えず押し黙って考え込んでいた。やがてひとつ、ゆっくりとした瞬きと共に衝いてでた言葉はやや鋭さを滲ませた。

 「……違う」

 そう、一言だけ呟いてナウタはまた黙ってしまった。しかしソウタも何も言わず、複雑に揺れ動くオーラを眺めながらただ静かに次の言葉を待つ。波を乗り越える度にゆったりと上下する腹の内側に些末な不快感を覚えながら静寂を愛でているとようやくナウタから次の言葉が絞り出された。

 「……オレも……船乗りになれば、わかるかと思ったんだ」

 何を? と、ソウタが尋ねるとグチャグチャとないまぜになったオーラの中で怒りと悲しみの色が一際主張を増した。その意味がナウタの口から語られる。

 「……オレが生まれても……母親が死んでも……一度も会いに来ない……父親の気持ち」

 言い終わると同時に怒りの色は消えナウタのオーラは悲しみの色に染まった。キラキラと漂う塵を見つめていた少年の頭は再び膝の上に乗せた腕に沈んでいく。

 「お母さんは……病気?」

 「……知らない……オレを生んですぐに死んだって、おばさんが言ってた」

 ソウタも言葉に詰まった。ここまでの話を総合するとつまり、この少年は両親の顔すら知らないという事になる。

 唐突だが人には誰しもが持つ承認欲求というものがある。褒められたい、認められたいなどと言った感情の事を指す言葉で物心がつく頃から表れ始める。幼児期において親に対する承認欲求が十分に満たされたか否か、これがその後の人格形成に大きな影響を及ぼすのではないかという説がある。親から褒められなかったとか、無関心であったり或いは何をしても反対ないし否定されてばかりであったりだとか……そうした経験を積み重ねながら成長するとやがて自己肯定感の低い情緒不安定な大人になるという。ナウタの自己評価の低さや自信なさげな言動の数々はそう言った過去の影響もあるのかも知れない……そんな事を考えながら、ソウタはうずくまる少年を想い胸を痛めた。

 長い沈黙の後、ナウタの境遇をゆっくりと飲み込んだソウタはそれでも臆さず更なる一歩を踏み込んだ。

 「お父さんの居場所、タリーラさんには聞かなかったの?」

 ここまで聞いてなお追求を続けて来るソウタにナウタは驚きをオーラで示した。しかし態度には出さず、平静を装いうずくまったままの姿勢で投げやりに口を開く。

 「……聞いたよ、でも……教えてくれなかった」

 ソウタは目を細め聞こえないように小さくため息を吐いた。半日程度の付き合いではあるがソウタの知るタリーラという女性は温かく優しい人である。その彼女が理由もなく嘘をついたり父親を求めるナウタの想いを無下にするとは考えられなかった。何らかの事情はあるのだろう……とはいえここはもう既に海の上、今更引き返し事情を聞く事も出来ずソウタは歯痒さに目を伏せた。

 「……いつから船に?」

 「……四……五年前、十歳の時……おばさんの店によく来る客が船の船長だって聞いて、乗せてくれって頼み込んだ」

 「……お父さんに会ったら、どうするの?」

 この質問にナウタはただでさえ小さく縮こまった身体を更に小さく、まるで自分を抱きしめるように縮こまりながらくぐもった答えを呟いた。

 「……わかんない」

 それ以降ナウタはソウタの声に一切応えず、太陽が水平線の彼方へ沈み船内が闇に閉ざされるまでずっと……シミついた定位置にうずくまり続けていた。


 その夜、夕食に温かいスープを頂いたソウタとウシオは呼び出しを受け揃って船尾側最上段、この船唯一の個室である船長室へとお邪魔していた。

 「スープありがとうございました、美味しかったです」

 出港直前の案内の時にもソウタ達は驚いたのだが、木造帆船でありながらも船内には火を取り扱える調理場が備えられていた。波の穏やかな時しか使えないのだがレンガ造りのカマドのような調理場である。

 「労働への対価であって施しじゃねえんだ、礼はいらねえ」

 この船の船長ゼーマンは小さな酒瓶を片手に椅子に座り備え付けの机に頬杖を突いていつもの鋭い視線をソウタへ向けていた。

 船長室と言うからにはさぞ立派な部屋なのかと思いきや、天井は低く部屋の中央に置かれた大きなテーブルが大部分を占領しておりかなりの狭苦しさとなっていた。

 「船長室なのに思ったよりも狭いんですね……もう少しゆったりできるものなのかと思ってました」

 ソウタが室内をキョロキョロと見回しながら歯に衣着せぬ忌憚のない意見を零すと小さな酒瓶を傾けていたゼーマンはジロリと鋭い視線をソウタに返した。

 「言っただろう、荷物が主賓だと。人の空間なんぞ最低限ありゃいい」

 ストイックと言うのだろうか、ぶっきらぼうではあるものの徹頭徹尾、首尾一貫したその価値観はいくつもの荒波を乗り越えてきた歴戦の海の漢といった感じである。責任ある立場に立つ大人というのは自然とこうなるのか、ソウタは上司であるアークエイドの理事代表ホサキに重なるものを感じそっと口元に笑みを浮かべた。

 「それで、呼び出しのご用件とはなんでしょう?」

 再び口をつけようとしていた酒瓶を持つ手を止めやや下げるとゼーマンはあからさまなため息を吐いてみせた。

 「……おめえさんの旅は見聞を広げる為の旅、だったな」

 「はい、そうですが……?」

 首を傾げるソウタを尻目にゼーマンは傾けた酒瓶に蓋をし引き出しにしまうとおもむろに席を立ち長椅子のようなこぢんまりとした質素なベッドの方へと移動を始めた。

 「なら……折角の機会だ、海の事も学んでいけ」

 そう言いながらゼーマンは中央のテーブルを挟むようにソウタ達の反対側に座ると壁に寄り掛かりながら腕を組みテーブルの上に広げられたものに視線を落とした。まさかの提案にソウタもしばし目を丸くしていた。

 「教えて頂けるんですか……?」

 「善意じゃねえぞ、海を知らねえやつは航海の邪魔になる……それだけだ」

 などと口では言いつつも人の良さを隠しきれていないオーラを見てソウタとウシオは深々と頭を下げ感謝を述べた。

 「礼はいらん。まずは……これが何か、わかるな?」

 早速ゼーマンはテーブルの上を示しながらソウタへ尋ねた。聞き方にやや圧を感じる……。

 船長室の中央をデカデカと占有する大きなテーブルの上には使い古された大きな紙が広げられていた、その上には簡素な方位磁石のような物の他何に使うのかよくわからない道具が紙を押さえつけるように置かれている。古びた紙には全体的に規則正しく描かれた格子状の直線と、上下ひっくり返して右の線が縦にまっすぐなるように傾けたアルファベットのVのような歪で不揃いなデコボコの線が描かれている。

 「海の地図、でしょうか」

 「そうだ……ここが港町、んで……こっちがエステリアだ」

 そう説明を交えながらゼーマンは地図上を指差して示してくれた。ソウタから見て左側、逆さまになったVの左下辺りに港町がありそこから右にほぼ真っすぐ行った所にエステリアがある。北部は東西の陸地が繋がり行き止まりになっており、この海域は横に長い大陸の南部が一部抉り取られた大きな湾のような形状となっている。

 「次はこの船が今どの辺りにいるか、だ……わかるか?」

 異世界での初めての航海、初めて見る海図で現在地を当てろ……というこの難問にソウタは口元に手を添えしばし黙り込むと港町から伸びる複数の線の中から一本の線を指差した。

 「港町を出た直後は太陽よりも南に向かっていたので南東に進んだと考えられます。今日まで風の向きも帆の位置も変わらず進路はほぼそのままとして、今日針路を変えると伝達があったので……この辺り」

 ソウタは港町とエステリアを結ぶWのように折れ曲がったラインの中から左側の谷付近を指し示した。直後ゼーマンの鼻がフンッと鳴った。

 「いい観察力してんじゃねえか、正解だ……この折れ曲がった線がこの船の辿る航路ってわけだ」

 集中する余りやや前のめりになっていたソウタはフウと息を吐きながらホッと胸をなでおろした。ソウタが壁に背を預けるのに合わせゼーマンは話の方向性を変える。

 「海の事でそっちから聞きてえ事はねえのか、気になる事は」

 これにソウタはうーん……と唸りながら視線を泳がせると真っ先に沸いて出た疑問をぶつけてみた。

 「一番はやっぱり魔獣でしょうか……無事に着ける保証はないとも仰っていましたし、海にも魔獣はいるんですよね?」

 「まあ……いるな」

 そう言うとゼーマンはのそっと机の引き出しに手を伸ばすと一度しまったはずの酒瓶をまた取り出して蓋を開けた。チビチビと瓶を傾けながら横目でソウタを一瞥するとこれまでに遭遇した魔獣について問いかけてくる。

 「おめえさんらがこれまで遭遇した魔獣の中に、でけえやつはいたかい」

 ソウタは質問の意図を探りながらも隣に座るウシオをゆっくり見上げるとこれまでを振り返り思い出しながら記憶をすり合わせていく。

 「えー……と……はい、それなりにいたと思います」

 農村バードルフで遭遇した象のような大きさの野犬に始まり水の神と謳われた水龍タツキ、港町への道中で遭遇した寄生植物の森と直径一メートルを越える植物型の魔獣など……大物と言える魔獣とは幾度となく遭遇を果たしてきた。

 「じゃあそいつらに……理由もなく喧嘩を売ろうと思うか」

 ゼーマンの出す質問の意図が中々見えず、ソウタは考えるのを諦め成り行きに身を任せる事にした。

 「いえ……依頼とかそういった理由がないのであれば、特に敵対するつもりはありません」

 「……複数思い当たるようだが……その中にこの船よりでかいのはいたか?」

 ここまで聞いてソウタはあぁ、とようやくこの話の着地点が見えた。

 「つまり……自身より大きなものに無謀なちょっかいを出す魔獣はいない、という事ですか」

 「そういう事だ……縄張りに入るだとか、こっちから手を出せば当然噛みついてくるがな。航路周辺は長い時間を掛けて人が切り開いてきた、言わば人の縄張りだ……近づいてくる魔獣はそういねえ。まあ……例外もいるにはいるが……この話は今はいい」

 そう言って目を閉じたゼーマンは小さな酒瓶をまたチビチビと傾け乾いた喉を潤した。束の間、お互いに一息つくとゼーマンはもう一度ソウタ達の正面に座り直し先程と同じ様に腕を組んで壁に寄りかかった。鋭い視線はテーブルの上に向けられている。

 「航路の話に戻るぞ」

 「はい、お願いします」

 ソウタも気を引き締め直し背筋を伸ばすとやや前のめりにテーブルの上の海図へと視線を落とした。

 「この航路には危険……かもしれない場所が二箇所ある」

 「かもしれない……?」

 ソウタの視線にゼーマンは応えず無視して地図上の二点を指で指し示した。

 「航路の中で最も南を通る一度目と三度目の折り返し地点……この二箇所だ」

 「魔獣の縄張り近く、とかですか?」

 ソウタが尋ねるとゼーマンは間髪入れず被せ気味に違う、と断じた。続けざまに壁に背を預けると鋭い眼光をソウタに向けながらゆっくりと口を開く。

 「天候だ」

 「天気……が荒れる、かもしれない?」

 ソウタの視線に今度は小さく頷くとゼーマンは再び視線を地図に落とし説明を続けた。

 「航路周辺は年がら年中、東から西に向かって風が吹いている。だからエステリアから港町へは一直線に進めるのに対し、逆はジグザグと斜めに進まなきゃならん」

 ソウタは説明を聞きながら港町とエステリアを結ぶ二本の線を目で追った。ほぼ真っ直ぐに結ばれた直線とその直線を二度横切る斜めの線、現在ソウタ達の乗る船はこの斜めの線に沿って進んでいる。

 「そんな中……どういうわけか、南に近づくに連れて風が巻くようになる。巻いた風の周辺では波も空も荒れる……でかい嵐にでも巻き込まれれば、こんなちっぽけな船なんぞあっという間に沈んじまう」

 「(南に行くと風が巻く……赤道が近いという事だろうか)だから危険、かもしれない」

 真剣な眼差しで地図を見つめるソウタをゼーマンは静かに見つめていた、しかしすぐに目を逸らすとまた酒瓶を傾け慰めを口に含み喉へと押し流す。

 「一度目は無事何事もなく通過できた、ここまでは順調だ。後は……三度目の無事を祈るだけだな」

 これを最後にゼーマンは今日はここまでだ、と告げながら机の方に戻り酒瓶を引き出しにしまい直した。酒瓶と入れ替わりに今度は航海日誌だろうか、手帳のような紙束を取り出すと机に向かって席につく。その様子をいつまでも見ているソウタ達へゼーマンは眼光鋭くぶっきらぼうに言い放った。

 「……さっさと戻ってさっさと寝ろ、明日もしっかり頼むぞ」

 「はい、とても有意義な時間でした、ありがとうございました」

 ウシオと揃って丁寧にお辞儀をするとソウタ達はそそくさと船長室を後にした。ウシオの気を引こうと話しかける船員達の何とも情けない声を壁越しに聞きながらゼーマンは大きくため息を吐くと、おもむろに引き出しの一番奥からペンダントのようなものを取り出した。力なく開いた手のひらに乗せたそれをぼんやりと見つめながらゼーマンは一人、そこにいない誰かに向けて声をかけようと口を開いて……そしてやめた。盛大なため息と一緒に目を閉じまた引き出しの奥へとそれを放り込むと雑に引き出しを閉じこぢんまりとした簡素なベッドにその身を投げだした。

 静かな夜、穏やかな波の音を子守唄に、仰向けになった眼光鋭い髭面の男は人知れず、祈るように目を閉じた――。


 針路を北東へと変えてから二日後、今日も天候に恵まれ暖かな日差しと柔らかな風に押されてひた走る甲板の上――毎日午前の甲板掃除でナウタと競い合い連戦連勝を重ねていたソウタはこの日、観戦していた船員達からあるお誘いを受けていた。

 「はっはっは、今日もソウタの勝ちだな。どうだソウタ、褒美ってわけじゃないが……あそこに興味はないか?」

 そう言って船員が指差し示したのは船の中央にそびえ立つメインマストの天辺、空を衝く先端に設けられた見張り台であった。

 「今日は風も穏やかだし天気もいい、きっといい景色が見られるぞ?」

 「もちろん興味はありますが……ボクも登っていいんですか?」

 ソウタがそう尋ねると船員は船長室の上、船尾上段甲板に立っていたこの船の責任者に大きな声で伺いを立てた。直後船長のゼーマンは一瞬だけソウタ達に視線を向けるとそっぽを向いてシッシッと追い払うような手仕草で反応を返した。

 「構わねえってよ」

 「(あれでOKという意味になるんだ……)」

 船員と船長のやり取りに苦笑いを零したソウタはそそくさと船内に戻ろうとしていた小さな背中に声をかけた。

 「ナウタも一緒にどう? いい気分転換になるかも」

 デッキブラシを引きずりながらトボトボと歩いていたナウタは掛けられた声に振り返るといつにも増して恨めしそうな目でマストの天辺を睨んだ。

 「……いい」

 露骨なため息と共に吐き出された拒絶をその場に残し、ナウタは格段に落ち込んだ様子で一人船の中へと帰っていった。その反応が気になりソウタが去りゆく背中を見つめていると見かねた船員達が気まずそうに事情を話した。

 「あー……その、ナウタは登れねえんだ」

 「登れない……?」

 どういう事かと尋ねるソウタに船員達はお互いに顔を見合わせると順番に口を開いた。

 「昔……ナウタが見習いになって少しした頃だったか、一度眺めを見せてやろうって登らせた事があるんだ」

 「ただ運悪くその時大きな波にぶつかって船が揺れてな……ナウタは振り落とされちまったのさ」

 「幸い落ちたのが海の方だったから、怪我事態は大した事なかったんだが……それ以降怖がっちまってな」

 「(高所恐怖症、か……)知らずとは言え、悪い事をしましたね……」

 話を聞いたソウタは申し訳無さそうにナウタの去った扉をしばらく見つめていた。


 その後太陽が直上に差し掛かる頃――ソウタの姿は船上で最も高い場所、マスト先端に設けられた見張り台の上にあった。一際強く吹き付ける潮風を一身に浴びながらソウタは三百六十度、青々と煌めく景色をその瞳に映していた。前を見ても後ろを見ても、右も左も全方位全て、弧を描く遥か彼方の水平線まで遮るものの何一つない無限の青が広がっている。

 「本当に何もなくて……気持ちがいいですね」

 じんわりと感じ入るソウタが感想を述べると傍らに座る見張りの船員がケラケラと笑った。

 「はっは、いいタマしてるぜ。大抵のやつは何もなくて怖えって言うんだけどなぁ」

 「怖い……でも動いてますから、きっとその内何処かに着きますよ」

 そうあっけらかんと微笑むソウタに船員は面食らったような表情を見せると直後、仰け反るほどに腹を抱えて大笑いした。

 「くぁっはっはっはっはっ違えねえ! いいね、そういう考え方好きだぜ!」

 落ちるんじゃないかと心配になるほど仰け反った船員は小さな足場から上体を大きくはみ出していたが、足を巧みに引っ掛け落ちないようにしっかりと身体を支えていた。そのさり気なさに熟練を感じソウタが感心していると船員はムキムキの腹筋で上体を軽々と起こしながらニッと不敵な笑みを浮かべた。

 「ただな、全く何もねえってわけでもねえんだ」

 そう言って船員は船の後方を指差した。その指が示す先へ目を向けると少し離れた所にもう一隻の船が見えた。どうやら後ろを着いてきているようである。

 「あれって……港に停まってたもう一隻の船ですか?」

 「ああ……一隻じゃ何かあった時に対処できねえだろ、だから複数で一緒に航るのが通例なのさ。まあ、うちは基本二隻だな」

 そんな説明を聞きながらしばし後方の船を眺めていたソウタは見張りの仕事に興味を示した。

 「見張りのお仕事って主に何を見ているんですか?」

 「ん? そうだな……例えば……わかりやすいのだと、アレだな」

 そう言って周囲をキョロキョロと見渡した船員が指し示したのは雲だった。特別変わった様子は見られない、至って普通の小さな白い雲である。

 「アレって、雲の事ですよね……あの雲に何が?」

 「まあ少し見とけ、段々でかくなるぞ」

 言われるがまま束の間雲を眺め続けていると船員の言う通り、その雲は徐々に大きくもこもこと膨らみ厚みを増していった。おお……と感心するソウタの反応に気を良くしたのか船員は得意げに語り始めた。

 「ああやってでかくなる雲はその下に雨を降らせる可能性が高い。進行方向に見つけたら水を補給できるチャンスになるし、危険なら避ける事もできる」

 「なるほど……見てわかるものなんですね……すごい」

 ソウタの初々しい反応を船員は大いに喜んだ。上機嫌となった船員の口は尚もよく回りその勢いは留まる所を知らない。

 「雲だけじゃなく風や波も見るぞ、ほれ……海面に境界線が出来てんのわかるか?」

 「境界線……光の反射の仕方が違うって事ですよね」

 「そうだ、波は風によって起こる。風が変われば波が変わり、波が変われば反射する光によって見え方が変わる。そいつを見れば、風の向きや強さがわかるのさ」

 「……責任重大な、とても大切な役割があるんですね」

 最後のソウタの言葉に船員はまたケラケラと笑った。

 「おめえの甲板掃除だって大切で立派な仕事さ。船乗りが一番最初に覚える、『船を大切に扱う』って言うな」

 仕事に貴賎なし――大勢で協力して一つの船を動かし大海を渡る、海に生きる者の心得をまた一つ教えられたソウタは穏やかに微笑んだ。

 「そうですね、精一杯感謝を込めて磨きます」

 「おう、明日も頼むぜ」

 はい、と良い返事をしたソウタは改めて風上の向こう、彼方の水平線を見た。船長室で見た地図によればここからほぼ真東にエステリアがある、ソウタは水平線の向こうを見据え未だ見えない次の街へ思いを馳せるのであった。


 潮風と陽射しの心地よさ、そして船乗りの心得を堪能したソウタは足早に船倉まで戻ってきていた。いつものように定位置にうずくまるナウタをしばし見つめたソウタは何も言わず自身の定位置に戻るとゴソゴソと袋を漁りだし、一粒の果実を乗せた小皿を持ってナウタの元へ歩み寄った。

 「ナウタ、さっきはごめん……皆が事情を教えてくれた」

 しゃがみ込んで視線を合わせ声を掛けながら小皿を差し出すと柑橘の香りに誘われ腕に沈んだナウタの頭がゆっくりを持ち上がる。

 「お詫びに」

 俯いた顔を覗き込むようにソウタが首を傾げて微笑みかけているとやがてナウタはゆっくりとした動きでおずおずと小皿へ手を伸ばした。小皿がしっかりとナウタの手に渡ったのを確認しソウタはスッと立ち上がると自身の定位置、差し込む光を挟んだナウタの反対側へと戻る。するとナウタのか細い声がソウタの袖を引いた。

 「……んで」

 驚いたソウタが振り返るとナウタは物憂げな目で小皿の果実を見つめていた。一見いつもと変わらない様子だがオーラを視認できるソウタの目には今にも泣き出しそうな顔に見えた。

 「なんで……お前はそんなに……何でも出来るんだ……」

 どこかで聞いたようなその台詞にソウタがフッと笑みを浮かべるとそこへすぐにナウタの鋭い視線が突き刺さる。ソウタは慌てて釈明した。

 「ごめん、ナウタを笑ったわけじゃなくて……知り合いの男の子を思い出して」

 「……知り合い?」

 恨めしそうなナウタの声に頷いて答えるとソウタは定位置の木箱に腰掛け話を続けた。

 「王都で知り合った男の子、王都を発つ時に見送りに来てくれたんだ。その時に同じような事を聞かれた……どうしたらお前みたいに何でも出来るようになるのか、って」

 「……なんて、答えた……?」

 ソウタは優しく微笑むと小さく首を振ってみせた。

 「僕も何でもは出来ないよって。出来るのは目標に向かって精一杯頑張る事だけだって、そう答えた」

 欲しい答えではないといった納得の行かない様子でナウタは再び小皿の果実へと視線を落とした。今度はソウタの方から声をかける。

 「ナウタの目標は何?」

 突然の問い掛けにナウタはチラッと一瞬だけソウタへ視線を送ると黄色い果実を見つめながら少しずつ頭の中を整理していく。

 「……目標…………皆から、認められる……一人前の船乗り」

 「どうしたら一人前になれるの?」

 ソウタから矢継ぎ早に投げつけられる質問にナウタは小さな苛立ちを滲ませた。

 「……それは……お前みたいに……」

 そこでナウタは言葉に詰まった。うまくまとまらない思考に言葉も濁る。それでも尚ソウタは構わず質問をぶつけ続けた。

 「ナウタはどうして、認められてないって思う?」

 「……いつも……新入りのお前に負けてばっかりだし……マストにも登れないし……」

 目を伏せ再び大きな劣等感に沈むナウタのオーラを見つめながら、ソウタはモニカの教えを思い出していた。胸の内でナウタの俯いた頬に手を添える。

 「ナウタはさ、皆から仕事を振られる時なんて言われてる?」

 「……なんて……?」

 よくわからない質問にナウタは首を傾げながらソウタを見た。当のソウタは優しく微笑み頷いてみせる。

 「出港からまだ五日しか経ってないけど、ボクはいつも『頼む』って言われてる。ナウタも一緒?」

 質問の意味、その答え方を理解するとナウタはこれまでの船員達とのやり取りをゆっくり時間を掛けて思い出していった。やがて、ナウタは一つの気付きを得る。俯いていた事で五年もの間見落としてきた、直ぐ側にあった事実――。

 「……違う……いつも……『任せる』……って」

 顔を上げたナウタにソウタは一際大きく頷いてみせた。

 「『頼む』と『任せる』の違いは、わかる?」

 「……違い……」

 必死に考えるナウタであったが明確な答えを導き出せずしばらくすると困ったような、乞うような目をソウタに向けた。励ますような面持ちで見守っていたソウタはやや目を伏せて答え方を思案した。手を引くのではなくあくまで添えるだけ、答えを与えるのではなく自分の力で答えに辿り着けるように、気付き思い至れるように、ソウタは慎重に言葉を選んだ。

 「仕事には責任が伴う。船の皆も船長のゼーマンさんも、皆がそれぞれ自分の責任を背負ってる。『頼む』と『任せる』、まずはその違いが分かるようになる事を目標にしてみたらどうかな。ナウタが今、任されてる仕事は?」

 「今、は……甲板と……」

 そこまで答えてナウタはおもむろに周囲をキョロキョロと見回し始めた。木箱と樽がギュウギュウに詰め込まれた船底の貨物室。薄暗く、ジメジメとしていて、埃っぽい、お世辞にも綺麗とは言えない場所を眺めるとナウタは足元の黒ずみを見つめながら小さく声を震わせて呟いた。

 「ここの、掃除……」

 自分が任された仕事を放棄していた事に気付いたナウタは瞳から零れ落ちる雫を腕で覆い隠した。恥じらいではない、一人前など程遠い……恥と思い知る。

 船底の片隅で小さくうずくまり鼻をすする少年を優しく見守りながらソウタは言葉でその背中に手を添える、傍らで微笑むウシオがいつもそうしてくれているように。

 「荷物はこの船の主賓、しっかりともてなしてあげないとね……あ、座ってた」

 ソウタが一人おどけてみせるとうずくまる少年から鼻で笑う声が返ってきた。目元を何度もゴシゴシと擦り顔を上げたナウタは目を赤く腫らしながらも少し精悍な顔つきをしていた。一際大きく鼻をすするとゆっくりと立ち上がりナウタは小皿の果実を仰ぐように口へ放り込み間髪入れずに噛み潰した。

 「ッ……酸っぱ……」

 瞳を潤ませたまま甘味を纏った酸味の暴力を腹に収めたナウタは小皿をソウタへ放り返しごちそうさま、と告げると足早にどこかへと駆けていった。少しして戻ってきたナウタの手には海水の入った水桶と柄の取れたデッキブラシの先っぽが握られていた。定位置に染み付いた黒ずみを前に鼻をすすり袖を捲くったナウタは気合を入れてゴシゴシと床を磨き始めた。

 その様子を静かに眺めていたソウタは傍らに座るウシオと顔を見合わせ穏やかに笑顔を交わすと懸命な背中にそっと尋ねた。

 「……手伝おうか?」

 「……いいっ……オレの、仕事だから……っ」

 ナウタは滴り落ちる汗も構わず床を擦り続けた。五年の歳月を掛けて染み付いた黒ずみは中々に手強くすんなりと綺麗にはなってくれない。しかし、この床が新品のようにピカピカになるまで彼は磨き続けるだろう。仲間から任された責任と向き合い踏み出した小さな、されど確かな一歩を積み重ねながら……いつか一人前の船乗りになる、その日まで――。


 出港から七日目――。想定を超える風に恵まれ順調に航路を進む貨物船はこの日、早くも二つ目の折り返し地点を目前に控え船内は朝から慌ただしさを増していた。

 日課の甲板掃除をいつものようにあっさりと片付けたソウタは船倉の木箱の上で仰向けに寝転びながらスイカとジェスチャー当てクイズをしていた。出題者はソウタの顔の上に浮かぶスイカである。

 「いーい? よく見ててね?」

 そう言いながらスイカは両手を後ろに伸ばし一歩歩くごとに首を前後に動かすハトのような動きをしてみせた。この世界にハトがいるかどうかは定かではないがどこからどう見てもハトなのでソウタは翻訳の法則に頼りそのまま答えてみる。

 「ハト」

 「ぶー、正解は朝のお散歩中のヴァンおじいちゃん」

 「知らないよ誰ヴァンおじいちゃん……」

 唐突にお出しされた未知の他人に度肝を抜かれるソウタを置いてきぼりにしてスイカは次の出題へと移る。

 「じゃあこれは?」

 そう言いながらスイカは後ろに伸ばした両手をバタバタと羽ばたきながら左足を斜め前に突き出し前後に動かし始めた。加えて名状しがたい面白い顔をしている。一見また鳥のようにも見えるのだが一度目を踏まえソウタは熟慮する。

 「んー……足を怪我した鳥……のマネをしてるおじさん」

 「惜しい! 正解は馬の糞を踏んじゃって地面に擦り付けてるマルルおじさん」

 「惜しくないよ何で羽ばたくのマルルおじさん……」

 いつものように穏やかに微笑むウシオに見守られる中誰が当てられるのかわからない理不尽なクイズを和やかに楽しんでいた、その時――


 ――ヤリイカだああああああああああ……ッ!?


 と船員の大きな声が船中に響き渡った。ただでさえ慌ただしさを増していた船内は更に騒がしさに拍車がかかり、ソウタ達の頭上からはドタドタバタバタと甲板へ向かう船員達の足音がけたたましく鳴り響いた。ところがソウタ達はと言うと……聞こえてきた言葉が言葉だっただけに逆に慌てるタイミングを見失い、全く微動だにしていなかった。

 以下、仰向けのままのソウタと天井を見上げるウシオのやり取りである。

 「……気の所為か今ヤリイカって聞こえた」

 「聞こえましたね」

 「……こっちの世界にもいるんだね」

 「いるんですね」

 「……ご丁寧に漢字だったよ」

 「漢字でしたね」

 「……槍?」

 「槍ですね」

 「「…………」」

 妙な間をおいて顔を見合わせた二人は勢いよく立ち上がるとミルド、そしてスイカも伴って急いで甲板へと駆け上がっていった。


 ソウタ達が甲板に出ると既に船員達が勢揃いで両舷に集まり後方を見つめていた。ソウタ達も急ぎ船尾上段甲板に立つゼーマンの元へ駆け寄ると彼はソウタ達を一瞥するなりため息混じりにこう告げた。

 「お前らも運がねえ……よりによって槍烏賊とはな……」

 そう言うとゼーマンはまた船の後方へと視線を向けた。その視線の先には後方を付いてくるもう一隻の貨物船がいた。よく見るとメインマストの天辺に赤い布がはためいているのが見える。

 「あの赤い布は?」

 「救難信号として掲げるもんだ、手信号と合わせて今回は槍烏賊の接近を告げてる」

 槍烏賊とは何か――そうソウタが尋ねようとした時、周囲の船員達から口々に悲痛な嘆きが零れ出た。未だデッキブラシを握りしめていたナウタもブルブルと震え上がり、膝から崩れ落ち涙する者までいる。そんな船員達の様子にソウタが困惑しているとゼーマンが気を利かせて説明を始めた。

 「槍烏賊っつ―のはな……毎年決まった時期にこの海域に現れる海の生物だ。例年ならもう少し後に来るはずなんだが……今年はやけに早え」

 「魔獣ですか?」

 「いや、魔獣じゃねえ……ただの魚と同じさ。見た目は魚らしさの欠片もねえがな」

 魔獣でもないただの生き物の接近、たったそれだけで陽気な船員達がここまで悲嘆に暮れるものなのか……とソウタが慄いているとゼーマンは左舷前方を指差した。

 「向こうに岩礁地帯があるのが見えるか」

 「……ええ、見えます」

 示された先、船からはかなり離れた所に点々と小さく海面に飛び出る岩礁があった。範囲はかなり広い、だが浅瀬と言うよりはまばらに岩が積み上がって出来たように見える。

 「あそこにゃ以前でかい岩山があったんだ。この船よりもでけえ、島みたいな岩山がな」

 「島……何故今はないんですか?」

 「……槍烏賊さ」

 そう言うとゼーマンは再び船の後方へ視線を向けた。

 「何日か前、でかい船に喧嘩を売るやつはいねえと話したな」

 「はい……例外もいるけれど今はいい、とも」

 「奴らがその例外だ……あいつらは槍のように硬い頭ででかいものに真っ直ぐ突っ込んでいく習性がある。おかげで島のような岩山も削りに削られ……今や見る影もねえ」

 名前からは想像も付かない槍烏賊の驚異性を聞きソウタは事態の深刻さを理解した。しかも二度目の折返し直前という事は航路の半分という事、つまり港町とエステリアの丁度中間地点にあたり最も陸地が遠いタイミングであるという事を意味している。身を守る防壁も助けも存在しない海のど真ん中である、船員達が悲嘆に暮れる理由がよくわかる。ゼーマンもいつもと変わらず鋭い眼光で船の後方を睨みつけているがそのオーラには悔しさが滲んでいた。

 歴戦の海の男達が一様に絶望に沈む中、ソウタは回避の糸口を探る。

 「出来る事は何もないんですか?」

 「遭遇しないよう時期をずらす、それが人間に出来る全てだ。群れをなし、おまけに速度も向こうが上……振り切る事も出来ん」

 ゼーマンが断言するのと同時に、立ちすくんでいた船員達は一斉に膝を折り生存を諦めた。一縷の希望すらないのだと船の責任者から示された形である。

 ソウタは甲板に沈む船員達を、その中に佇むナウタを見た。一人前の船乗りになるという目標へやっと一歩踏み出した矢先にこの騒ぎ、悔しさもひとしおであろうナウタは甲板に突き立てたデッキブラシにしがみつき倒れまいと必死に耐えていた。口を真一文字に結び涙を堪えるその姿を見てソウタは意を決する。

 「ゼーマンさん、速度を落として後ろの船に近付けてください。その後は並走を」

 「……何をしようってんだ」

 「何が出来るかはわかりません……ですが我々は槍烏賊の驚異をまだ知りませんので、もう少し足掻きたいと思います」

 まだ膝を折る理由はボク達にはないと物語るソウタの真っ直ぐな瞳を、その胸に輝く二つ星の徽章を見つめたゼーマンはフンッと高らかに鼻を鳴らすと踵を返し打ちひしがれる船員達へ檄を飛ばした。

 「立て野郎共ォ!? 速度を落として後続に並べろ! こんな坊主がまだ諦めねえと吠えやがる、乗ってやろうじゃねえか! テメエらも最後まで漢見せやがれェ……ッ!?」

 ゼーマンの声に顔を上げた船員達の視線が堂々と並び立つソウタ達に集まる。ただの世間知らずの見栄か、子供故の意地か……それでも毅然とした表情を見せるソウタ達の姿に船員達は互いに頷きあうとなけなしの勇気を奮い立たせ雄叫びと共に立ち上がった。すぐさまに各々持ち場に付き帆を畳み始める。

 「ありがとうございます、ゼーマンさん」

 「礼はいらん、状況は何も変わってねえんだ」

 「はい、まずは槍烏賊をこの目で確認してきます」

 そう言うとソウタは素早くメインマストを駆け登り見張り台の上に立つやいなや後方の彼方を鋭く見つめた。同時に右目を袖で隠し上空の鳥人形の視点からも槍烏賊の姿を確認する。

 槍烏賊の影は船の後方約十キロ程の距離にあった。時速にして四十キロは出ているだろうか、驚異的な速度で船をめがけ真っ直ぐに迫ってきていた。上空から見る、数百からなるその群れの魚影はまるで巨大なクジラのようであった。

 その姿を観察しながらソウタは取り得る対抗策を見出すべく思考を巡らせていく。

 「(数が多い……大きなものに突っ込む……船よりでかい人形を海中に、は流石にバレるか……この透明度じゃ白い人形は丸見えだ……他に……)」

 子、丑、卯、巳……と順番に現在使える手札と合わせて現実的な策を探っていたその時、ソウタはトビウオのように海面へ飛び出す槍烏賊の姿をその目に捉えた。水を噴射する事で更に速度を増すようで頭から足先まで真っ直ぐに伸びた細長いそのシルエットは正に投げ放たれた槍のようであった。そしてそれを見ると同時に頭をよぎった疑問を隣で見張りの任についている船員へ尋ねてみた。

 「あの、槍烏賊って突っ込む相手の大きさをどうやって判断しているんでしょうか?」

 「あー……何もねえとこで飛び跳ねてんのを見てオレも考えた事がある、オレの勝手な推測で確証はねえんだが……聞くか?」

 「お願いします」

 「多分……アレだ」

 そう言いながら船員は海面……ではなく、上を指差した。その先には当然だが空がある。今日も天気に恵まれ穏やかな青空が広がっていた。一瞬意味がわからなかったソウタだったがそこに浮かぶあるものを見て察しを付ける。

 「……雲……雲の影……?」

 「おそらくな、繰り返すが確証はねえぞ?」

 自信のなさを何度も念押す船員をよそにソウタは改めて槍烏賊へ目を向けた。見張り台からでは分かりづらいが上空からの視点であればはっきりと見える、槍烏賊は確かに雲の影目掛けて蛇行し重なるタイミングで海面を飛び跳ねていた。接触まで時間もない、ソウタはこの可能性に賭けてみる事にした。

 素早く縄梯子を滑り降りたソウタはミルドに剣を持つように指示を出し船尾上段甲板で待つウシオの元へ駆け寄った。ゼーマンの目の前だが気にせずポンッと下級人形を作るとウシオへ手渡し指示を伝える。

 「合図を出したら船の後方に向かって上に放り投げて、あの辺り」

 「はい」

 「何だそいつは……どっから出しやがった……」

 「精導術で作った人形です、他言無用でお願いします」

 早口で簡潔に説明を終えたソウタは人差し指を口元に添えて微笑むとすぐにまた見張り台へと駆け上がっていった。入れ替わりに大剣を携えたミルドが階段を上り船尾へと戻ってくる。柄に結ばれた鎖を右手に何重にも巻きつけロープ類を傷付けないよう切っ先を海の方へと向けていた。

 「剣なんかで一体何をしようってんだ……」

 鋭い眼光のまま困惑気味に尋ねるゼーマンにミルドは黙って佇みウシオも穏やかに微笑むばかりであった。大きくため息を吐いたゼーマンは空を仰ぎマストの天辺に立つ白い少年を見上げた。何もしなければ確実な死が待つこの状況で、二隻合わせて六十人近い船員達全員の命がかかる絶望的な局面で、まるで日常だとでも言うように微笑んでみせた小さな少年の姿にゼーマンは人知れず拳を握りしめていた。


 数分して声が届くほどの距離に近づいた二隻はそのままの距離を保ちながら並走を始めた。後続の船に大筋の事情を説明するゼーマンの声を聞きながらソウタは槍烏賊を睨みつけタイミングを計っていた。

 「(近すぎれば船が巻き込まれかねない……かと言って遠すぎても駄目だ……進路を逸らして追い抜いてもらわないと……)」

 徐々に距離を詰めてくる槍烏賊の大群を見つめ待つ事更に数分、甲板からもはっきりと視認できる距離にまで迫ってくると船員達はザワザワと騒ぎ始め膝をついて天樹に祈りを捧げた。

 誰もが死を覚悟する船上、迫る驚異に抗う白衣の少年の声が今……蒼海へと響き渡る――

 「――ウシオッ!?」

 「はい!」

 ソウタの合図と共にポーンと空高く放り投げられた白団子、もとい下級人形は全身を細長く伸ばし甲板に立つミルドの左腕を掴むと反動を利用してミルドを更なる空高くへと引きずり上げ投げ飛ばした。ミルドの脚力で船上からジャンプすると船が壊れてしまうという配慮である。

 皆が空に上ったミルドを見上げる中尚も叫ぶソウタの声がゼーマンの耳に届く。

 「ゼーマンさん! 揺れます!」

 「揺れ……まさか……ッ、掴まれええええええぃ……ッ!?」


 打ち上げられるような形で空高く飛び上がったミルドは剣を両手に構えると体を捻り、落下の勢いに回転の遠心力を加えながら海面に向けて豪快に剣を振り下ろす……接触の刹那、ミルドは手首を捻り刃ではなく剣の腹を海面に叩きつけた。

 凄まじい膂力によって生み出された剣戟の重みは海面を抉るように窪ませる、しかし流体である海水に破壊はなく押しのけられた空間へとすぐさま反動で戻ってくる。水同士が引っ張り合い周囲諸共を巻き込みながら押しのけられた以上の水が一点に向かって収束しようと押し寄せる。やがて……行き場を失った大量の水は盛大なうねりを伴って空へと昇るのである――


 ――ドッ………………パアアアアアアァァン……ッ!?


 爆弾でも炸裂したのかと思うような破裂音を響かせ二隻の船のやや斜め後方に突如巨大な水柱が出現した。メインマストの天辺に立つソウタが見上げるほどに高く立ち上った水柱は太陽の光を遮り海面に大きな影を落とす。突然現れた巨大な影に槍烏賊の群れは吸い寄せられるように進路を変え海面へ飛び出すと、取り込んだ海水を吐き出しながらロケットのように水柱の腹へと飛び込んでいった。驚異的な加速を見せた槍烏賊の群れは宙を舞い鮮やかな放物線を描きながら船員達の目の前を横切り、船の真横辺りへと着水するとそのまま何事もなかったかのように悠々と北へ通り過ぎていった。


 ザァァァァァ……っと音を立てながら段々と小さくなっていく水柱をバックに大きく揺れが残る船上はシンと静まり返っていた。船員達が呆然としながら状況を確認しようとキョロキョロ周囲を見渡す中、最初に口を開いたのはナウタだった。

 「……生きてる」

 その小さな一言を皮切りに、絶望から開放された約六十人分の生の歓喜が一気に堰を切り極太の雄叫びとなって大海原へ響き渡った。沸き立つ船員達を眺めながら唯一人、船長のゼーマンは船尾の手すりに寄り掛かりながら未だ呆然としていた。

 「………………旦那……旦那はどうした」

 「今上がってきますよ」

 ミルドの安否を心配するゼーマンにフワリと見張り台から降りてきたソウタが軽やかに答えを返すと同時に左舷の手すりからミルドがよじ登ってきた。首に巻き付いた下級人形が背中で剣を抱えている。全身びしょ濡れになったミルドは涙を浮かべる船員達に取り囲まれると謎の歓喜の踊りでもてなされていた。ようやくホッと出来たのかゼーマンは改めて大きなため息を零した。

 「……まさか……海面ぶっ叩いて山を作っちまうたぁ……参るぜ全く……」

 夢でも見ているかのような浮遊感を味わうゼーマンはそうぼやきながら隣に立つソウタへ視線を向けた。

 「何とかなってよかったです。……やったのはミルドですけど」

 そう微笑んで見せるソウタをゼーマンはどこか遠い目で見つめていた。

 「笑えるんだな……お前も……」

 「も……?」

 首を傾げるソウタにゼーマンは細めた目を閉じると大きく息を吐き手すりから腰を離した。

 「何でもねえ」

 そう吐き捨てながら空を見上げたゼーマンは船員達のいる中央甲板を見下ろせる位置に立つと唐突に大きくがなり散らした。

 「阿呆共、いつまで浮かれてやがる! 積荷の無事を確認次第折返しだ! 総員配置に付けェ……ッ!?」

 眼光鋭い船長の叱咤も歓喜に浸る船員達には薬にもならず、返る野太い雄叫びは尚も色めき立つのであった。

 ようやく船員達から開放されたミルドが剣を再び固定する作業に取り掛かろうとしているとそこへ渋い声がかかった。

 「旦那、それにお前さんらも」

 丁度階段を降りようとしていたソウタ達も呼び止められゼーマンと視線を交わすと彼は突然深々と頭を下げ感謝を述べた。

 「船を代表して礼を言わせてくれ……助かった、感謝する」

 柄にもなく長々と頭を下げ続けるゼーマンにソウタは少し驚きウシオと顔を見合わせた。穏やかに微笑むウシオを見てソウタも落ち着きを取り戻すと一つ咳払いをして送られた感謝を真摯に受け止めた。

 「船が沈んで困るのはボクらも同じですから、ここはお互い様という事で」

 「……そうか、じゃあ仕事はこれまで通りでいいな」

 顔を上げたゼーマンはいつもの調子に戻り鋭い眼光をソウタに向けた。

 「あれ……免除の可能性がありました?」

 苦笑いを零すソウタを見やりゼーマンはフンと鼻を鳴らすとクルリと踵を返しソウタの問いには答えないまま反対側の階段へ歩き出した。ソウタ達に背を向けたまま右手をヒラヒラと振ってみせる。

 「明日からも頼むぞ、ソウタ」

 それだけ言い残すとゼーマンはスタスタと階段を降り船長室へ去っていった。甲板にポツンと取り残されたソウタへウシオが声をかける。

 「名前で呼んで下さいましたね」

 「……素直じゃない所も少し似てるかな」

 ソウタとウシオが笑顔を交わしているとそこへどこからともなく現れた妖精がソウタの頭の上へ降り立った。ふぅー……と何やら一仕事終えたみたいな空気をかもし出している。

 「スイカ、何してたの」

 「んー? 聞きたいー? あの甘いのくれたら教えてあげてもいいけどー?」

 「ん、じゃあまた今度ね」

 「ねえええええー!」

 頭の上にうつ伏せに寝転んだスイカは手足をバタバタとさせて不満を露わにした。剣の固定を終えたミルドと合流しソウタは意地悪に微笑みながらまた穏やかな日常へと戻っていく。この日の食事は塩漬けのお肉を使った少し豪華なものとなり、盛り上がった船員達のお祭り気分はその後数日間に渡って続いた。

 航海七日目。お昼前に突如巻き起こった槍烏賊襲撃騒動はミルドの尋常成らざる活躍によって見事やり過ごし、こうして無事に幕を閉じたのであった。


 航海十日目――甲板には振り落とされまいと必死に手すりにしがみつく船長ゼーマンの姿があった。その眼光は鋭く、表情は決して穏やかではない。

 「クソッ……ポンプ止めるな、排水を続けろォッ!? 風上に向けて姿勢を保てェ……ッ!?」

 吹き付ける強風に負けじと声を張り上げるゼーマンの元に船体に打ち付けた波飛沫が容赦なく襲いくる。順調すぎるペースで航路を進んできた貨物船はこの日、荒れ狂う嵐の只中にいた。

 二度目の折返し以降も快適な航行が続いていた船は十日目にして早くも三度目の折返しを目前に控えていた。しかし二度目に続きまたしても直前……進行方向に突如立ち込めた暗雲に船は急いで折返しに入るも反転間に合わず、警戒も虚しく船は北上してくる暴風雨に無情にも飲み込まれてしまった。後続の船はギリギリ反転が間に合ったようで嵐の向こう、暗雲の途切れた青空の元嵐が通り過ぎるのをただじっと待っていた。

 お昼頃から始まった嵐の中、ただひたすらに耐え続ける事はや五時間。夕暮れに差し掛かるも雨風共に依然衰えを知らず、疲労が溜まり満身創痍となった船員達へ……更なる追い打ちを掛けるように雷鳴のような絶叫が耳をつんざいた。

 振り向けば甲板の上に船員が一人倒れていた、左腕を抑えながら呻き苦しんでいる。甲板で作業にあたっていたその船員は揺れと波飛沫に体勢を崩しいずこかへ左腕を強打したようであった。すぐに船内に運び込まれた船員の左腕はひと目で分かるほど完全に骨が折れてしまっていた。

 船長ゼーマンの指示を受けた船員が代わりとなる船員を探しに船内へ入るのと同時に、今度は頭上からガタガタバタバタと木と木がぶつかり合い布がはためく音が耳に入った。甲板の頭上にある布など一つしかない、見上げるとしっかりと固定されていたはずの帆の端がほどけ強風に煽られて激しく荒ぶっていた。それに連動し帆桁とマストがぶつかり合いガタガタと嫌な音を奏でている。先程腕を骨折した船員はこの帆桁を固定するロープを抑えていたのである。

 急いで帆桁を固定し直しほどけた帆を結び直さなければならない。万が一帆が開くような事があれば最悪マストが折れる可能性もあった。バタバタと荒ぶる帆を鋭く見つめているとそこへ代わりを探しにいった船員から嫌な知らせが届く。

 「駄目だカシラッ、皆参っちまってて動けるやつが一人もいねえ!」

 「チッ……」

 忌々しげに舌を打ち鳴らしたゼーマンはギリッと奥歯を噛み締め荒ぶる帆を見上げた。強風吹き荒れる中、肝心の帆桁を固定する為のロープはほどけた帆とは反対側の端からユラユラと風に揺られ宙を舞い踊っていた。まずはあのロープを掴みに行かなければ、こうなれば自らが行く他ない……船長ゼーマンがそう決断した矢先、船内で伝達や看護の手伝いなど雑務を担っていた小さな少年が名乗りを上げた。

 「カシラッ、オレに行かせてくれ!」

 その声の主はナウタだった。過去のトラウマから高所恐怖症となった少年の無謀な進言にゼーマンは度肝を抜かれ思わず声を荒げた。

 「馬鹿言ってんじゃねえッ!? テメエ登れねえだろうがッ!?」

 「だからッ……!?」

 五年もの間航海を共にしてきたナウタの初めての怒声にその場の誰もが、ゼーマンすら息を飲んだ。ナウタ自身自分の怒声に驚いたようで乱れた呼吸を整えると真っ直ぐな瞳をゼーマンへ向けた。

 「だから今……登れるようになる」

 「……オメエ……」

 微かに声を震わせながらも覚悟を瞳に込める十五歳の少年にゼーマンは迷いを滲ませた。その様子を近くで眺めていたソウタは骨折の応急処置を担うウシオと顔を見合わせ頷きあうとすかさず自らも名乗りを上げる。

 「ボクも行きます、半人前も二人いれば一人前という事で」

 すごく嫌そうな顔で押し黙ったゼーマンは膨れ上がった不満を大きなため息と共に吐き出すと鋭い眼光をナウタに向けた。

 「わかった、お前達に任せる……ただし! 無茶はするな、無理だと思ったらすぐに引き返せ」

 「「はい!」」

 良い返事をした二人は視線を交わすと揃って甲板へと飛び出した。

 甲板に出た瞬間、二人は一瞬にして全身水浸しになった。吹き荒れる雨風と波飛沫から熱烈な歓迎を受ける。互いに支え合い二人はまずマストを固定するロープに設けられた縄梯子を伝って帆桁とマストの接触部までゆっくりと上っていった。その間にも船は大きく揺れ動き暴れ狂う風が容赦なく二人の小さな体を吹き飛ばそうと襲いかかってくる。

 ロープを掴む手にこれでもかと力を込め帆桁の元まで辿り着くと二人はガタガタと荒ぶる帆桁の両端を確認する。右端にほどけた帆が、左端に固定用のロープがある。

 「先に帆桁を固定しないと……」

 「わかった、ボクが言ってくる。ナウタはここで待ってて、振り落とされないようしっかり掴まって」

 ナウタをその場に残しソウタは帆桁に沿って張られたローブに足を乗せ体重を預けるとガタガタと揺れる帆桁にしがみつきながら舞い踊るロープへとゆっくり歩を進めた。ゼーマン他船員達が固唾を飲んで見守る中、帆桁の端に到達したソウタは荒ぶるロープをワシっと掴むと少しずつ手繰り寄せ慎重に束ねていく。舞い踊っていたロープを全て回収したソウタはすぐさま来た道を戻り危なげなくナウタの元へ帰還を果たした。

 「ふう……ただいま、このロープはどこに?」

 「あそこ、カシラが立ってる」

 マストにしがみついたナウタが指差す先を見るとここだ! と叫びを上げるゼーマンがロープの到着を待っていた。ソウタは頷いて返すとロープが絡まないようルートに気遣いながら縄梯子を滑るように降りていく。風と波に何度も足を止められながらも何とかゼーマンの元へ辿り着くと手渡したロープは熟練の見事な手捌きによって一瞬にして完璧に固定された。

 「よし、よくやった……あとは……」

 ソウタを労ったゼーマンが今一度固定し直した帆桁の方へ顔を上げると、そこには目を疑うような光景が広がっていた。

 「……待て、何してる…………ッ、一人で行くなァッ!? ナウタァ……ッ!?」

 吠えるゼーマンの視線の先、固定し直し揺れの収まった帆桁にはマストにしがみついていたはずのナウタの姿があった。帆桁に抱き着くように両腕を回し必死にしがみつきながらじわりじわりとはためく帆へと近づいていく。固定された帆桁はガタガタといった小刻みな揺れこそないものの船体に連動した大きな揺れがダイレクトに伝わる。牙を剥く風と波と揺れ、その全てにあらん限りの力を振り絞って抗いナウタは真っ直ぐはためく帆を見つめていた。

 やがてバタバタと荒ぶりはためく帆に辿り着きナウタが手を伸ばしたその時、悪戯な風が嗤った。

 突風。手を伸ばした事で帆桁から離れた僅かな隙間に入り込んだそれは十五歳の痩せた身体をいとも簡単に押しのけた。身体を支えていた腕に力が足りなかったわけではない。事ここに至るまでずっと、力を入れ続けていた事で筋肉に疲労が溜まり踏ん張りが効かなくなっていた。直向きな必死さが皮肉にも足首に纏わりつき、少年を澱んだ海へと引きずり落としていく。


 遠ざかる帆桁を見つめながらナウタはかつて海に落ちた時の事を思い出していた。

 あの時は見張り台からだった。右も左もわからず失敗ばかりで、落ち込んでいた自分を励まそうと皆が登らせてくれた。下から見る海も好きだった。暗い気持ちがどこまでも広がっていって無くなってしまうような、そんな気持ちになれた。だけど船の一番高い所から見た海はいつものそれとは全く違うものみたいに見えた。自分が小さすぎて、自分達が小さすぎて、考えてる事も悩んでる事も、全部見えなくなって、空っぽになった自分の中に大きな何かが入ってくるような、とてもいい気持ちだった。あの水平線の向こうに何があるんだろう、どこまで続いてるんだろうって、胸がバクバクうるさくなって、あの時は久しぶりに笑えた気がする。

 海に落ちたのはそのすぐ後。船が揺れて振り落とされたんだとすぐに分かった。宙に放り出された時、遠ざかる空を見つめていた時、途端に胸が締め付けられるように苦しくなった。怖かったのもあると思う。でもそれ以上に……『必要ない』と、海にも見捨てられたような気がして、涙が溢れた。そう言えばあの時、真っ先に飛び込んで助けに来てくれたのは――


 「ナウタアアアァ……ッ!?」


 いつの間にか溢れ出た涙で滲む視界の端でナウタはゼーマンの姿を捉えた。あの時もあんな顔をしていた気がする……そんな事をぼんやりと思い出しながらナウタが目を閉じた次の瞬間、真っ逆さまに海へ向かっていたナウタの身体は突然何かに腕を掴まれピタリと動きを止めた。右手を何かひんやりとしたすべすべしたものが包み込んでいる……その不思議な感触にナウタが目を開き見上げると、帆桁から手を伸ばすソウタの姿が見えた。ソウタの手元から伸びた白い柔らかい何かが自分の手を包み込んでいる。

 「ふぅ……無茶をしないって約束だよ」

 そうぼやいたソウタが微笑むと白い何かはみるみる縮んでナウタの身体を引き上げていった。帆桁まで帰ってきたナウタはソウタに支えられながら中々の手捌きで素早く帆を結び直し無事ひとまずの対処を終えた。

 二人の様子を見守っていたゼーマンはホッと胸を撫で下ろすとすかさず空を睨みつけた。

 「もうじき嵐も通り過ぎる、もうひと踏ん張りだ! 最後まで気い抜くなァッ!?」

 船長の檄に数少ない船員達の低い雄叫びが応える。程なくして、嵐を耐え抜き後続と合流を果たした二隻の頭上には無事を祝福するような満天の星空が広がっていた。

 体力の限界を迎えた船員達は所構わず寝転びゼエゼエと息を切らしていた。ソウタ、ウシオ、ミルドの三人が船内で忙しなく怪我人の処置や食事の手伝いに駆けずり回っていた一方、甲板で寝そべり星を見ていたナウタの元にツカツカと足音が近づいた。

 「……ナウタ」

 眼光鋭い渋い声の主は慌てて立ち上がろうとするナウタをそのままでいい、と制すると隣に腰を下ろした。並んで甲板に座り込んだまま束の間沈黙が続く。指示を聞かず無茶をしたお叱りが待っている、と緊張した様子で冷や汗を垂らし固まるナウタへゼーマンはおもむろに手を伸ばした。咄嗟にギュッと目を閉じたままナウタが待っているとその手はそっとナウタの頭の上に乗せられた。

 「……勇気と無謀を履き違えるんじゃあねえ。焦るな、焦ったってどうにもならねえんだ……一つずつ、ゆっくり進め」

 初めて聞く船長の優しい声色に、頭を撫でる大きな優しい手に、ナウタは何故か溢れ出る涙を止められなくなった。何の反応もなく突然涙するナウタの様子に居たたまれなくなったのかゼーマンはしんどそうに立ち上がると小さくため息を零す。

 「今日はよくやった、ゆっくり休め」

 そう言い残すとゼーマンは逃げるように船内の方へ去っていった。それからしばらくの間、ソウタが温かいスープを持ってくるまでの間、ナウタは甲板に寝転び潤んだ瞳でキラキラと滲む空を見上げ続けていた。


 数時間して、後続船との間で人員整理が行われ船は緩やかな風を受けて再びエステリアへ向けて動き出していた。後続船から渡ってきた船員達によって操船がなされ疲労困憊に倒れた者達が寝息を立てる中、ソウタは船長からの呼び出しを受け一人船長室を訪れていた。

 「……一人か」

 「ウシオは怪我人の看病に付いて貰ってます、ミルドは船倉の整理を」

 ソウタの報告を受けゼーマンは俯いて大きなため息を吐いた。

 「結局、お前さんらには頼りっぱなしになっちまったな……不甲斐ねえ話だ」

 責任を感じうなだれるゼーマンにソウタは穏やかに笑みを浮かべ首を振ってみせる。

 「先にもお伝えしたようにお互い様ですから、余りお気になさらないで下さい」

 「そういう訳にいくか、こっちにもメンツってもんがある……礼を出すなら何がいい? 金か?」

 ゼーマンの提案にソウタはお金には困っていない、と困った顔を見せた。フンと鼻を鳴らし酒瓶を傾けるゼーマンを見つめながらしばし思案したソウタはおもむろに背筋を伸ばし神妙な面持ちで口を開いた。

 「でしたら一つ、お尋ねしてもいいでしょうか」

 「……何だ、改まって」

 「ナウタの……お父さんについて」

 瞬間、時が止まったようにゼーマンは動きを止めた。口に付けていた酒瓶がゆっくりと下がっていくのと同時にその鋭い眼光がじわじわとソウタへ向けられる。ソウタはその鋭い視線を真っ向から受け止めた。

 「……ナウタから聞いたのか」

 「はい、父親の気持ちが知りたくて船乗りになったのだ……と」

 ゼーマンはゆっくりとソウタから視線を外すと何もない机の上にぼんやりと視線を落とした。繰り返されるため息が狭苦しい船長室に木霊する。

 「ナウタは多分……まだ気付いてませんよね。直ぐ側にいるのに、名乗り出ないのですか?」

 「…………ナウタの事情なら当然オレも知ってる。が……何故オレがそうだと思う」

 白を切るつもりのゼーマンにソウタは長々と説得するのも面倒なので迷う事なく手の内を晒した。

 「実はボク、感情を視認する事が出来ます」

 「……なんだって?」

 突然トンチキな事を言いだしたソウタにゼーマンはお手本のような怪訝な表情を見せた。

 「感情が見えるんです、体の周りにユラユラと。その動きや形、色なんかを見ると、感情だけでなく嘘をついているかもわかります」

 「…………それも精導術ってやつか」

 「いえ、ただの体質です」

 ゼーマンはただじっと、ソウタの目を見つめ続けた。にわかには信じがたい話、ソウタが正気の沙汰かどうかを推し量っているようであった。やがて目を細めたゼーマンは幾度目かの大きなため息を零す。

 「…………頭がオカシイわけじゃあ……ねえな」

 その一言にただ微笑んで返すソウタにフンと鼻を鳴らしたゼーマンはまた机の方に向き直ると、握られた酒瓶の中で揺れる琥珀色の液体に遠い目を向けた。

 「……オメエ、親は」

 「いません」

 ソウタが即答するとゼーマンはソウタを一瞥するなり派手に舌を打ち鳴らし眉間にシワを寄せた。

 「チッ……どんな育ちしてやがる……」

 同情とも自己嫌悪とも取れる表情を見せるゼーマンにソウタは苦笑いで応えた。絶え間なく吹き出る噴水のように溢れ出すため息で船長室を満たすとゼーマンは瓶の中で揺らめく琥珀を見つめながらとうとうと語り始めた。

 「……アレの……ナウタの母親は勝ち気な女でな。粗暴な船乗り相手でも一切気後れしない、クソ生意気な……よく笑う女だった」



 ――ゼーマンとナウタの母親、二人の出会いは十七年ほど前に遡る。当時既に船長として豊かな経験と確かな実績を積んでいたゼーマンは危険な航海を難なくこなすやり手として商人達の間でも名を轟かせていた。何度目かに訪れた港町で酒瓶片手にブラブラと夜道を彷徨っていた時、ふと路地裏の奥にぶら下げたランタンに照らされた酒場の看板を見つけた。こんな人目につかない所に酒場があったのかとゼーマンは吸い寄せられるようにその店の扉を開いた。

 「いらっしゃい!」

 ゼーマンを明るく出迎えたのは若い娘だった。十代半ばといった所か、ゼーマンの生まれつき鋭い目つきにも一切怯まず少女は朗らかにゼーマンを二階のテーブル席へ案内した。まだまだ深夜と言うには早い時間、にもかかわらず店内はがらんとしていた。立地を考えれば当然かも知れない。それなりに広い店内には少数他の客の姿もあったが、碌な連中でないのは見てくれでわかった。

 その店は家族で経営しているようだった。両親と娘が二人、父が調理し母が接客、上の娘が母を手伝い下の娘が父を手伝っている。注文を取りに来た上の娘にゼーマンが「こんな目立たねえ所じゃ客も来ねえだろう」と嫌味を言うと、娘は「そうなんだよねえ、おじさんお友達とかいたら沢山連れてきてよ。あ、でも目つき悪いからお友達なんていないか」と嫌味を返しまた笑った。ゼーマンはフンと鼻を鳴らしながら変わった娘だと思った。

 持ち込んだ酒瓶を傾けながらゼーマンが酒を注文すると娘は瓶を指差しながら「いや飲んでるじゃん」と鼻で笑った。ゼーマンが「もっと安い酒だ」と言うと娘は「て事はそれお高いの? ね、どんな味か知りたい! 一口貰えない? ちょっとだけ、ね?」と身を乗り出して迫ってきた。半ば強引に押し切られる形で渋々酒瓶を渡すと娘はグイッと空を見上げるように酒瓶を煽りゼーマンが思わずギョッとするほど大量に口に含んだ。アルコール度数で言うと五十度近いブランデーのような酒である……直後娘は口に含んだ琥珀色の酒を盛大に吹き出し思い切りむせた。

 「バッ……カ野郎、そんな一気に行くやつがあるか! もったいねえ……」

 「カハッエホッ……エホッ……フッ、フフッ……こんな強いの、初めて……」

 娘は顔を真っ赤に染めながら尚も明るく微笑んでいた。その後は娘の両親から何度もペコペコと謝罪され酒どころではなくなったゼーマンはすぐに店を後にした。

 しかし翌日、ゼーマンは再び同じ店を訪ねていた。今度は沢山の船員達を引き連れて。

 店に入るとまた娘が同じ様に明るく出迎えた。大勢引き連れてきたゼーマンに娘は「昨日言った事気にしてたんだ? ふふ、ごめんなさい」とあっけなく謝罪を述べ頭を下げた。遥か年下の娘の掌の上で踊らされたようでゼーマンはフンと鼻を鳴らして不満を示した。

 それからというもの、ゼーマンは港町に停泊する度に連日船員達を引き連れ酒場に通い詰めた。酒を飲みながら自分は何をしているんだと自問しても答えは出なかった。ただいつも、視線の先には娘の笑顔があった。


 槍烏賊の北上に合わせて設けられている禁航期間を挟んだ翌年、日が暮れた頃久しぶりに港町に降り立ったゼーマンが一人いつものように路地裏を進むとそこにランタンのぶら下がった酒場の看板は付いていなかった。店内にも明かりはなくまるで廃墟のように静まり返っていた。店じまいでもしてしまったのかと扉に手をかけると鍵はかかっておらず、ゼーマンは思い切って中へと踏み込んだ。

 広く暗い店内に人の気配はなくやや埃っぽかった。キョロキョロと店内を見渡しながらしばらく佇んでいると、厨房の更に奥から足音と明かりが近づいてくるのがわかった。ゆっくりとした足取りでランタンを手に出てきたのは――いつも明るく出迎えてくれたあの娘だった。

 「……来るのが随分と早くない? いいけど……今日の客は誰? いい加減乱暴な人は……………………?」

 明かりは娘の持つランタンだけ、暗がりで何も言わず佇む相手に違和感を覚えた娘が明かりをかざし佇む男を照らすと娘は目を見開き息を呑んだ。

 「おじ……さん……」

 驚愕に染まる娘の顔にはいくつものアザがあった。手足にはいくつもの包帯が巻かれ目元も赤く腫れ上がっている。

 ゼーマンは言葉が出なかった。ほんの半年ほど前まで扉を開けると明るい笑顔で出迎えてくれたあの娘と同じ人物だとは思えない、それほどに痛ましい姿だった。

 ほんの僅かな時間、されど二人にとっては気の遠くなるような時間、お互い掛ける声を見つけられず見つめ合って佇んでいるとそこへ新たに扉を開く者が現れた。

 「……既に待ってるとは、やっと立場がわかってきたか。さ……今日も仕事の……ぁん?」

 入ってきた男は娘の視線を辿り暗がりの中に佇む人影にようやく気付く、気付くと同時に男は黒い人影に猛烈な勢いで押し倒され何事かと見開いた目に鬼のような形相を捉えた。

 「このコのキズはおマエか」

 鬼の唸るような低い声が押し倒された男の腹に響く。鬼の目を見つめながら男は震え上がった、男はその顔を知っていたのだ。

 「ゼ……ゼーマンッ……な、なん……なんで……ッ」

 「コタえろ……さもなくば……ウミのソコにシズむか」

 恐怖に震えた男は涙を浮かべ命乞いをするように事情を話した。

 酒場の出店に際し父親は良くない所から金を借りていた。その返済に日々奔走する中、両親は病に倒れ揃って死んだ。ゼーマン達が港町を出て少しした頃である。残された娘二人だけでお店を切り盛りできるはずもない。途方に暮れる暇もなく娘は借金の返済の為、そして妹に手出しさせない為、言われるがまま夜の仕事をするしか無くなった。

 「いくらだ……」

 煮えくり返った腸から憎悪を吐き出すように鬼が唸ると押し倒された男は勘違いとも気付かずに引きつった顔で笑った。

 「ふっ……ははっ……こ、こいつか……? だっ旦那ほどの、お人なら……安くっぐッ……ガッ……カッ」

 「くびりコロすぞ……シャッキンはいくらかってキいてんだ……ッ!?」

 丸太のような腕で首を締め付けられた男はバタバタともがき今にも死にそうだった。否、殺されそうであった。しかし男はすぐに解放された、娘がゼーマンに飛びかかり止めたのである。

 「だめっ……だめだよおじさんっ……罪人になっちゃう……だめっ……ッ! 大丈夫……私なら大丈夫だからっ……ほら、ねっ……?」

 涙ながらにぎこちない笑顔を浮かべ訴える娘は声も身体も震えていた。その痛ましい笑顔を見つめギリギリと奥歯を噛み締めたゼーマンは煮え立つ血液を何とか頭に回し這いずって逃げようとする男に生まれつきの鋭い眼光を叩きつけた。

 「おい……借用書を持ってこい、今すぐにだ……戻ってこなかったら……朝日は拝めねえと思え……」

 暗がりに浮かぶ鬼の眼光に死を見せられた男は「す、すぐにお持ちしまぁす……ッ!?」と悲鳴のように叫びながら夜の街へ走り去っていった。

 二人だけになった店内、カウンターに置かれたランタンの仄かな明かりに照らされて、娘はゼーマンの胸に顔を埋め静かに泣いていた。声を押し殺して涙する娘を、ゼーマンはただ見守る事しか出来なかった。

 その後借用書を持って戻った男にゼーマンが全額を肩代わりし一括返済した事で娘達の借金問題は決着が付いた。両親が亡くなった時港町にいれば、或いはもっと前から首を突っ込んででも事情を聞いていれば……悔やんでも悔やみきれない思いを、ゼーマンは今でも胸に抱えている。

 それからの数日間は目まぐるしかった。ゼーマンは娘達の住居でもある店を無駄に貯えた私財で買い上げると酒の仕入れを自ら手配した。自分達が停泊している間だけ店を開かせ船員達を引き連れて酒を飲みに来る、その売上で娘達の生活費を工面した。また、二度とゴロツキ共が近づかないよう各方面にも手を回し轟いた名で睨みも利かせた。娘達の苦しかった生活はあっという間にひっくり返った。

 翌日に出港を控えた晩、妹の安らかな寝顔を見届けた娘は閉店後に一人残り酒を飲んでいたゼーマンの元を訪れると唐突に正面から抱き着くように首に手を回した。すかさずゼーマンが怒気の滲む声で静止する。

 「よせアニーラ、何の真似だ。もうしなくていいと言っただろう」

 「……違うよ……そうじゃない」

 くっつきそうなほどに顔を寄せた娘、アニーラは覚悟を秘めた瞳でゼーマンの鋭い目を見つめた。

 「おじさんには感謝してる……ううん、言葉に出来ないくらい……感謝してもしきれないくらい、感謝してる。でも……赤の他人がここまでして貰っていいはずがない……するはずないんだ……だから……」

 よく見るとアニーラの瞳は震えていた、その震えは次第に手足の先へと広がっていく。震えを抑えるように大きく息を吸うとアニーラはゼーマンに覚悟を問い掛けた。

 「だから、助けてくれるなら……放っておけないなら…………私を、ちゃんとおじさんのものにして……。信じて……いいんだって……思わせて……」

 震える声と潤んだ瞳、ゼーマンは不安に染まるアニーラの顔をただじっと、静かに見つめていた。僅か半年の間にどれだけの人の醜さを目の当たりにしてきたのか……人間不信等という言葉では言い表せないどす黒い闇が、アニーラの心にベッタリとまとわりついていた。

 やがてその鋭い目を僅かに細めるとゼーマンは酒に焼けた渋くも優しい声で囁くように告げた。

 「一つ、条件がある」

 条件、と聞いた瞬間アニーラの身体はビクッと微かに跳ねた。

 「っ……うん……言って……私、なん……っ」

 何でもする、そう言いかけたアニーラの声はゼーマンの添えた指によって静かに遮られた。ゼーマンはアニーラの頬に手を添えると伝い落ちる不安を親指でそっと拭いながら唯一つの願いを口にした。

 「――笑ってくれ、それだけでいい」

 いつも仏頂面で目付きの悪い、何を考えているのかよくわからない男が初めて見せた胸の内。稚拙とも言えるその些細な願いにアニーラは俯きぼろぼろと涙を溢した。前回はただ見守る事しか出来なかったゼーマンも反省を活かし今度は優しく頭を撫でた。

 しばらくして落ち着きを取り戻したアニーラは泣き腫らした目を擦りながらゼーマンに尋ねた。

 「……ねえ、あのお酒今日も持ってる? お高いやつ」

 「あるが……また一気に飲むんじゃねえぞ」

 渋々差し出された酒瓶を受け取るとアニーラはまた空を仰ぐように勢いよくグイッと酒瓶を煽り琥珀色の酒を大量に口に含んだ。

 「バッ…………ぁ……?」

 ゼーマンが咄嗟に酒瓶を取り上げるもアニーラは吹き出さなかった。必死に堪え口に含んだ全てをきちんと飲み干す……が、初めて高純度のアルコールに晒された喉は耐えられなかったようで灼けるような感覚にアニーラはゼーマンの飲みかけだった安酒を奪い取ると浴びるように喉へ流し込んだ。

 目の前で繰り広げられる一連の流れをゼーマンはぽかんと口を開き呆れながら見ていた。しかしその後に美味しい、と見せたアニーラの笑顔は今でも深く瞼の裏に刻まれている。涙を滲ませ顔を赤く染め上げて、よだれのように口元から垂れた酒を拭いながら微笑む娘は太陽のように眩しかった。

 覚悟を示しあった男女の間にこれ以上の言葉はいらず、どちらからともなく唇を重ねた二人はこの夜、広い酒場の二階の隅で、夫婦の契りを結んだ。


 二人の結婚式はアニーラたっての希望により酒場でしめやかに執り行われた。来賓は妹と船員達、花嫁は妹の手掛けた質素なドレスに身を包み野太い声援に祝福されながら恥ずかしそうに頬を染めていた。ささやかだが確かな幸せの中、アニーラが新たな生命を身ごもるのにそう時間はかからなかった。

 翌年、出産を間近に控えた頃、アニーラは病に倒れた。出港を控え夫として父として、船長という重責との板挟みに思い悩んでいたゼーマンを叱咤し檄を飛ばしたのは他の誰でもない、アニーラだった。心配はいらない、赤ん坊と一緒に元気になって待っている――冷や汗を垂らしながらそう微笑む妻の言葉に背中を押され、すぐに戻ると言い残しゼーマンは妹と町医者に後を託して海へ出た。

 順調にエステリアに着いたゼーマンはすぐに引き返すべく準備を急がせた。しかしこの時、間の悪い事に禁航期間が迫っていた。このままじゃ間に合わない……船員達からも不安の声が聞かれる中、ゼーマンは積み荷の量を減らす事で荷積みの時間を短縮する事を思いついた。船が軽くなればより早く走れる、より早く対岸へ、妻と子の元へ戻れる……ゼーマンはそう考えていた。しかし……この判断が運命を分ける事になる。

 出港から数日後、ゼーマンの乗る船は転覆した。原因は船が軽すぎた事……積み荷を減らした事で風の影響を受けやすくなり、船体下部の重みが足りなかった為に大きく傾き復元できずにひっくり返ってしまった。ゼーマンは後続の船に救助されたが家族同然だった船員達から多くの死傷者を出し、あげく何とか引き返したエステリアで彼を待っていたのは転覆の責任を問われての船長解任だった。船の所有者であった雇い主にはどんな声も届かず、船員達の遺族から浴びせられる非難の声は湯水の如く。憔悴し亡者のような足取りでフラフラと港の端に立ち水平線の彼方を見つめながら、膝から崩れ落ちたゼーマンは絶望と後悔に圧し潰され大粒の涙を海へと還した。

 それからゼーマンは妄執に取り憑かれた狂人の如く帰るすべを探し求めた。真っ先に探したのは船。船長としてではなく一個人として、乗せてくれる船を探し求め乗船交渉を繰り返した。しかしアニーラ達の為に貯えを殆ど使い果たし大した金を持っていなかった事に加え、船を沈めた張本人として悪名が広まっていた彼を歓迎する者は一人もいなかった。

 次に考えたのは馬車による陸路。陸続きとはいえエステリアから港町までを陸路で行こうとすれば軽く数ヶ月はかかる。しかし一刻も早く帰りたかったゼーマンにとってかかる期間など些末な問題だった。しかしこちらも別の壁が立ち塞がる……この頃エステリアと帝国との関係に溝ができ、出入国の取り締まりが強化されていたのである。浮浪者のような薄汚い格好で商品も持たずただ港町まで行きたい、そう語る眼光鋭い髭面の男を帝国の検問は通さなかった。ただ妻と子の元へ帰りたいだけだ――そう訴えるゼーマンの叫びも虚しく、検問で暴れた事でエステリアの憲兵隊に取り押さえられた彼は数日間教会の地下牢に囚われ、エステリア教の教義を聞き流しながら天井付近の小さな隙間から覗く天樹を見上げ続けた。大いなる天樹に願うは妻子の無事、ただそれだけだった。

 牢から解放された後、ゼーマンは事情を聞いた一人の司祭の指導の元で教会の活動を手伝いながら生活の再建を図った。失った信頼を少しずつ取り戻し、再び船長の座を取り戻す頃には実に二年の歳月が過ぎていた。

 三年ぶりに降り立った港町は然程変わっていなかった。はやる気持ちと高鳴る鼓動に突き動かされゼーマンは急いで我が家へ、あの路地裏の酒場へと走った。妻の名を叫びながら勢いよく扉を開けたゼーマンを出迎えたのは、カウンターに立つ少し大きくなったアニーラの妹だった。手前のテーブルには小さな子供もおり突然入ってきた見知らぬおじさんにびっくりしていた。ゼエゼエと息を切らして飛び込んできたゼーマンを見て妹は涙を流した。その涙を、その表情を見て、ゼーマンは全てを理解した。

 妻は、アニーラは亡くなっていた。出産後間もなくして、二十歳にも満たない……余りにも早すぎる別れだった。この世界に埋葬の文化はない。魔獣の脅威があるこの世界では人の生活圏は限られ一部の権力者にしか墓所は与えられなかった。必ず戻る、そう言い残したゼーマンとの約束を遂げる事なく、アニーラは海へと還った。出産にも死に目にも立ち会えず、約束を果たす事も別れを告げる事も出来ずに、ゼーマンは遺された無力感をただ力なく噛み締める事しかできなかった。

 しかしそんな妻アニーラが命をとして遺したものがもう一つあった、息子のナウタである。見知らぬおじさんと育ての親である妹が揃って泣き崩れている様子を大きな瞳をパチクリさせて訳も分からずキョトンと眺めていた。その健気で幼気な、純真無垢な瞳を……ゼーマンは直視できなかった。

 妹にナウタを託し幼気な瞳から逃げ出すように背を向けたゼーマンを、引き止められる者などどこにもいなかった――。



 「その妹さんというのが――」

 「……タリーラだ」

 「(物心付く前だからナウタは覚えていないのか……)」

 まるで懺悔でもするかのようにうなだれ自身の過去を語り終えたゼーマンは瓶の中で揺れる琥珀色の液体を一口含むと乾いた喉を潤し芳醇な香りと共に盛大なため息を吐き出した。

 「……親らしい事なんか何もしてねえ、おまけに背を向けて逃げ出したオレが……今更どの面下げて父親を名乗ろうってんだ」

 波乱万丈を地で行くような凄絶な人生、静かに聞きっていたソウタはどう声をかけるべきか言葉を探した。

 「……逃げたとおっしゃるなら何故、ナウタを船に乗せたんです? 海を渡る困難も危険も、誰より知っているのに」

 「……負けたのさ、あいつの真っ直ぐな目に。断っても他の船を探しただろうしな、他所に乗せるくらいなら手元に置いた方がまだマシ……それだけだ」

 そう吐き捨てるように告げゼーマンはまた酒瓶を傾けた。決して愛がないわけではない、ただ積み重なった自責の念が邪魔をして向き合い方がわからないだけなのだと、ソウタはゼーマンの揺れ動くオーラを見つめながら胸を痛め小さくため息を零した。

 「ナウタは……一人前の船乗りになりたいそうです」

 「……結構なこった……高所も克服できそうだしな……教えてねえ縄捌きも、まあ悪くはなかった」

 ちゃんと見てるじゃないか、と口には出さずソウタはそっと微笑んだ。

 「その為にどうすればいいか、自分自身とも向き合って、ナウタはやっと次の一歩を踏み出せそうです。ゼーマンさんの歩んだ大変な人生にボク如きが言える事はありませんが……ナウタにだけは、ナウタの気持ちにだけは、応えてあげて欲しいです。子供にとっての親という大きな存在を、信じさせてあげて欲しいです」

 「……信、じ……」

 信じていいんだって、思わせて――ゼーマンはぼんやりと俯き瓶の中の琥珀を見つめながら妻アニーラの声を聞いていた。

 「……こんな……ロクでなしでもか」

 まるで亡き妻に語りかけるかのように、微動だにせず俯いたままの姿勢で呟くように尋ねるゼーマン……ソウタの目にはその姿が船倉でうずくまるナウタの姿と重なって見えていた。

 「事情を聞いたボクには、ゼーマンさんがロクでなしだとは思えません。ナウタももう子供ではありませんから、きちんと事情を話せばきっと、受け止めてくれると思います。そうしたらアニーラさんも……また笑ってくれるんじゃないでしょうか、もちろんタリーラさんも」

 ゼーマンは何も言わなかった。おもむろに天井を見上げたかと思うと大きく息を吸い深呼吸するようにゆっくりと酒の香りを天井に吹きかけた。

 「チッ全く……お節介なガキを乗せちまった」

 天井を見上げたまま憎まれ口を叩くゼーマンへソウタは口元をほころばせた。

 「航海を共にするなら家族も同然……でしたよね?」

 憎まれ口に減らず口で返されたゼーマンはフンと鼻を鳴らして不満を訴え、貯えた髭の奥で微かに笑みを浮かべていた。


 嵐に見舞われた日、三度目の折返しから五日目の夜明け前――船長のゼーマンから唐突に呼び出しを受けたソウタはウシオと共に甲板に出てきていた。甲板に出るとすぐにゼーマンの渋い声が潮風を貫きソウタ達の耳に届く。

 「こっちだ、上がってこい! いいもん見せてやる!」

 叫ぶゼーマンの姿は船の前方、船首にあった。ゼーマンの持つランタンの明かりを目印に未だ暗い甲板を進み階段を上ると右前方に仄かに白み始めた水平線が見えた。

 「まだ今日一日分距離は残ってんだがな、いい頃合いだ……良く見とけ、もうすぐだ」

 船首に上ってきたソウタ達へゼーマンはそう告げると手に持っていたランタンの火をフッと吹き消してしまった。途端に暗くなった星空の下、白む水平線を見据えるゼーマンに習いソウタ達も揃って水平線に目を向ける。ゆっくりとぼやけた白が広がっていく水平線から眩い陽射しが顔を出したその時、ソウタ達の目にソレは悠然と映し出された。

 水平線の彼方に捉えた未だ小さなソレは陽の光を浴び燦然と煌めいていた。何もない滑らかな曲線を描く水平線の中にポツンと飛び出したソレは小さなキノコのようであり、また大きな山のようでもあった。

 「枝葉に付いた朝露に反射して輝いて見える……あれが『天樹』だ」

 「あれが……天樹……」

 ゼーマンはまだ一日分距離が残っていると言った、航行速度は一定ではないが一日分となると実に百キロ以上の距離を残している事になる。現に天樹は見えているが陸地は未だ影も形も見えていなかった。

 どれだけ大きいのか、食い入るようにキラキラと輝く天樹を見つめるソウタの横顔をチラリと見やり、ゼーマンは咳払いを一つして改まると緊張した面持ちで口を開いた。

 「ソウタ」

 天樹から視線を移しキョトンと見上げるソウタへ向き直ったゼーマンはとても真剣な目をしていた。その目に応えるようにソウタもゼーマンへと向き直り姿勢を正す。

 「今回の航海、お前達がいなければオレ達は間違いなく全滅してただろう……ここまで辿り着けたのはお前達のおかげだ、礼を言う」

 畏まって頭を下げるゼーマンにソウタは穏やかに微笑むとその思いに誠心誠意の感謝で応えた。

 「こちらこそです。エステリアへ渡る術に困っていたので、乗せて頂けて本当に助かりました。ここまで運んで頂いて、ありがとうございました」

 ウシオと共に恭しくお辞儀をしてみせるとソウタはゼーマンと視線を交わし陽に照らされた眩しい笑顔を見せた。

 「ま……とはいえまだ到着には一日かかる。最後まできっちり甲板掃除……任せたぞ、ソウタ」

 「……ふふ、はい!」


 十五日間に渡る長い航海の果て、いくつもの苦難を越え辿り着いた先で、今日も船上には元気な声が響き渡る。

 荒波も悲しみも、かき分け乗り越えて前へ進む。その先に何が待っていようとも、ただ風の赴くまま、揺らめく想いが……果てに至る事を信じて――。

第十二話、お読み頂きありがとうございます。橘月りんごです。

一ヶ月かかりました。プロットではサラッとした閑話と言った感じで山場でも何でもないのですが、書き上がってみたら何故か前半十二話の中で最長のボリュームになってました。意味がわからない。

なにはともあれ一旦切りのいい所まで書き続ける事が出来たのは自身としても素直に喜ばしく思います。

次回からはいよいよ第一部後半へと突入し、交易と宗教の国センテエステリアへと上陸致します。

新たな土地ではたしてどんな出会いが待っているのか、ソウタ達の歩みを今後ともよろしくお願い申し上げます。

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