第十話
王宮からの直々の魔獣討伐依頼を受け王都北部に位置する広大な山脈地帯へと足を踏み入れたソウタ達は、突如襲いかかる謎の攻撃を紙一重で躱しかの強大な魔獣『水の神』との邂逅を果たした。数キロ離れた霞の向こうから放たれる強烈なウォーターカッターに緊張を走らせ、驕りを払い捨てたソウタはウシオ、ミルドと共に全身全霊を以って水の神へと立ち向かう。
「まずは距離を詰める、出し惜しみはなしだ……行くぞ!」
掛け声と同時にソウタは素早く両袖から十枚の依代をバッと周囲へばら撒くとその全てを中型の鳥人形に変え前方に向けて放った。それを合図にウシオとミルドが先んじて飛び出しソウタも弾き出されるように二人の後に続く。すかさず飛んでくる水の刃を放った鳥人形も足場としながら各々で躱し一気に距離を詰めていった。ものの数秒で距離を半分ほどに詰め水の神の姿をその目にしっかりと捉えた所で鳥人形の背に乗ったソウタが叫ぶ。
「ウシオ、お返しだ! そこの大岩を投げ返せ!」
「はい!」
ウシオの返事と同時に進行方向右前方に転がっていた直径三メートルくらいの大岩に糸が巻き付きフワリと持ち上がると、宙を舞う大岩はスリングの要領で遠心力を加えられ水の神目掛けて豪快に投げ飛ばされていった。時速にして数百キロは出ていそうな直球ストレートに水の神はウォーターカッターで迎え撃つが時既に遅し。その大岩は揺らめく水の神の頭部を――ドッパァァンッ!? と派手に吹き飛ばしビチャビチャと中身をぶち撒けて通り過ぎていった。あまりの衝撃的な光景に思わずソウタとウシオの思考が止まる。湖の畔に辿り着いたは良いものの戦う相手を失ったソウタ達は頭のなくなった水の神をぽかーんと見上げていた。
「ごっごめんなさいソウタ! 私、こんなつもりでは……ッ」
ウシオが慌てふためき珍しく取り乱していると傍らに立つソウタが佇む水の神の残骸を見つめたまま警戒を促す。
「ウシオ、まだだ……この程度、問題ではないみたいだよ」
ソウタの見つめる先では残った胴体からボコボコと透明なものが溢れ出ししばらくすると弾け飛んだ頭部はすっかり元の状態を取り戻していた。それだけではない、湖の水面からは新たに何体もの水の神が姿を現し群れを成したその異様な光景はさながら八岐大蛇やヒュドラを彷彿とさせる。ウシオとミルドが緊張を高める中、警戒しつつも立ちはだかる水の神をつぶさに観察していたソウタはある事に気がついた。
「(こいつら、精霊結晶が見当たらない……それに再生の際に見えた透明な中身)……水を依代にした人形、か……?」
ソウタの呟きに対する返事とでも言わんばかりに、立ち並ぶ無数の水の神は揃って大きく口を開くと水の刃で縦横無尽にソウタ達の立つ周囲を薙ぎ払った。襲い来る水の光線を鳥人形も足場にして舞い踊るように躱すとソウタは次なる一手の為ウシオから一枚の小さな布切れを受け取り楽しそうに微笑んだ。
「目には目を、数には数をだ……ネネッ!」
「あ・た・し・さん、キター☆」
ソウタの首元から喧しく元気に飛び出した小さなネズミは人形化したウシオの布切れを身にまといくるりと宙返りをしてみせると着地と同時に人の姿へと変貌を遂げた。
「シュタッ……ネネちゃん、モッテモテだぜ☆」
忍び装束のような衣装を身にまといお団子ヘアーをネズ耳のように二つ頭に乗せたその少女は着地音までを自らの口頭で演出し渾身のドヤ顔を決めていた。身長はソウタよりもやや低いくらいであろうか、スラリと伸びる華奢な手足が幼さを感じさせるがその立ち居振る舞いは堂々とした自信に満ち溢れている。
壁のように立ち並ぶ無数の水の神にも怯まず臆さず、それどころかむしろワクワクウズウズと瞳を輝かせ高揚した様子のネネへソウタが告げる。
「ネネ、こいつらの相手を頼む。水で作られた人形だ、遠慮なく全力でぶっ飛ばせ」
「はっはー☆ あたしさんに、まっかせろーい☆」
言うが早いか、水の神以上の分身をポンポンと作り出すネネにその場を託しウシオとミルドをサポートに付けるとソウタは小石を一つ拾い上げ鳥人形に飛び乗って一人空高く舞い上がっていった。湖上を旋回しながらソウタは精霊を捉える目で水の神本体の居場所を探る。おそらく湖の中だろうとあたりを付けていたソウタであったが、雨の影響もあってか湖の水は酷く濁り湖底を見通す事は困難であった。水を操り分身まで作り出す水の神相手に無謀にも水中戦を挑まなければならないのか……そんな可能性に不安がよぎる中ふと、ソウタの目があるものを捉えた。
「あれは……」
目を細め鋭く見つめる視線の先に見えたのは濁った水中でモヤモヤと微かに蠢く黒い点のような何か。目に集中したオーラを解いてもなお見えるそれをソウタは瞬時に理解した……あれが『澱み』である、と。
すかさずソウタは鳥人形を操り顔面に打ち付ける雨粒を意にも介さずグングンと急速に高度を上げていった。手の平に握りしめた小石にオーラを込め人形化すると鋭い石の槍を作り出す。雲に手が届くほどにまで達したソウタはくるりと身を翻すと進行方向を変え、今度は地上へ向かって急速に速度を上げていく。それはもはや飛行ではなく重力任せの自由落下であった。鳥人形でうまく空気抵抗を抑え速度を上げながらソウタは石の槍を袖から伸ばした人形に持たせ捻りを加えながら背後の空に向かって伸ばしてゆく、回転を加える事で貫通力を高め湖底にいるであろう本体を撃ち抜く算段である。
ソウタが湖から水の神本体を引きずり出す準備を着々と進める一方、地上ではソウタの動きを察知した水の神の分体が上空から迫るソウタを迎え撃つ構えを見せ始めていた。分体の相手を任された三人が妨害を何とか阻止しようとするが次から次へと増え続ける分体の壁は尚も分厚く、三者それぞれに焦りの色が滲んだ。
「ッ……ソウタの邪魔は、させませんッ!?」
力強く叫びを上げたのはウシオであった。幾重にも折り重なる無数の糸を新体操のリボンのようにクルクルと、自身の周りを包み込むように回転させるとパラパラと散らばった糸は徐々に重なりその線を太く大きなものにしていく。
「ネネ! ミルド!」
ウシオの掛け声に二人が回避行動で応えると次の瞬間、着物の帯ほどの太さにまで折り重なった千の糸は立ち塞がる水の神の大群を雨風諸共に薙ぎ払い断ち切った。ウシオの放った強烈な一閃は衝撃波を伴って湖面を疾風の如く駆け抜けて行き、ごっそりと胴体を寸断された水の神の分体は見事に尽く元の水へと還っていった。
上空からそれを見ていた急速降下中のソウタは口元をほころばせてウシオを称賛すると彼女が作ったこの好機を逃すまいと更に速度を上げ、大きな叫びと共に渾身の力を込め全ての勢いを石の槍に乗せて湖底を蠢く澱み目掛け撃ち放った。
「隠れてないで姿を見せろッ! 水の神ッ!」
雲の高さからの重力による落下の勢い、餅のような靭やかさを持つ人形の伸びた腕を引き寄せる勢い、そして捻りを加えた螺旋回転により貫通力を増した石の槍はシュルリと滑り込むように滑らかに、湖面を通り抜けると底を這っていた水の神の横腹を抉り湖底の岩盤を打ち砕いた。直後、ソウタの投げ放った石の槍によって生じたあらゆる衝撃は大きな爆発となって湖の水の半分ほどを豪快に吹き飛ばし、湖の周囲を取り囲むすり鉢状の地形に雨と混ざって滝のように降り注ぐと灰色の土を取り込みながら濁流となって再び湖の窪みを満たしていった。
束の間、先程まで視界を埋め尽くすほどに乱立していた水の神の分体はその鳴りを潜め、しばしの間雨粒が湖面を打ち付ける音ばかりが周囲に木霊していた。嵐の前の静けさか、ウシオ達の元へ降り立ち波打つ水面を注視しながら警戒を続けていたソウタがボソリと呟く。
「……外したかな……まさかあれで死んだなんて事はないと思うけど……」
どこから姿を見せるかわからず湖面の動きに神経を張り詰めていると、湖の中央付近の水が徐々に盛り上がっていくのをネネが察知し声を上げた。
「ソウタ、あそこ!」
四人の視線が盛り上がった湖の中央に向かうのとほぼ同時に大地は鳴動を始め本番の開始を告げる。
身構える全員の意識が湖の中央に集中するとそれを見計らうかのようにすぐ目の前の水面から細長く透き通ったものが勢いよく飛び出しソウタ達を驚かせた。その透明なものはスーッと徐々に色を取り戻して行くとキラキラとした虹色の尾ビレをもたげグワンとしなりを利かせて……意趣返しのつもりだろうか、ソウタ達の横腹を薙ぎ払うように迫ってきた。ウシオが叫びながらソウタのもとへ駆け出す。
「ソウタ……ッ!?」
「(水の中では姿を消せるのか……ッ)受け止めろッ!?」
不意を突かれ回避が間に合わないと判断したソウタは迫る水の神の尻尾を人形で包み込み滑り止めとクッションの代わりにして受け止めた。数十メートルに渡って押し込まれながらも全員の力を合わせて尻尾の薙ぎ払いを止めるとこれ以上の先手は譲らないとばかりにソウタが叫ぶ。
「陸に上げろ! 湖から引きずり出せッ!!」
受け止めた尻尾の先を今度はがっしりと掴みミルドの剛力とウシオの怪力を合わせて水の神を釣り上げにかかる。先程ウシオが見せた新体操のリボンのようにグルグルと振り回し水中から巻き上げると湖とは反対側へ、地面に叩きつけるように投げ飛ばした。泥水と土砂と岩石を押しのけながらその巨体を滑らせた水の神はその僅かな身じろぎですら大地を震わせながら体勢を立て直そうとしていた。その身に塗れた泥はサラリと滑り落ちヌラリユラリと、先程まで相手にしていた分体より二回りは大きい体をくねらせゆっくりと頭を持ち上げると、神の名を持つ獣はその堂々たる全容をこれでもかとソウタ達へ見せつける。
「こいつが……水の神……」
艷やかで綺羅びやかな宝石のように輝く鱗、そんな鱗に包まれた靭やかで太く大きな体は薄っすらと澄んだ水に包まれているように怪しく揺らめいている。螺鈿細工のように七色に煌めくヒレを持ち、寄せるさざ波のようにたおやかにヒゲを揺らしながらもその瞳の放つ眼光は獲物を狙う獅子よりも鋭い。神と呼ぶに相応しい荘厳さと気品を併せ持つその姿にソウタはしばし見惚れる他なかった。
そしてそんな恐ろしさと美しさを併せ持つ威容を汚す黒いモヤモヤが、殊更に不気味さを演出していた。澱みのすぐ近くには肉が丸く削り取られた傷跡が残っていた、しかし薄い水の膜に覆われ大した出血は見られない。水の神は鋭くソウタ達を睨みつけながらも警戒しているのか攻撃してくるわけでもなく、静かに様子を窺っていた。ソウタの攻撃の痕跡を眺めながらウシオとソウタが言葉を交わす。
「ソウタ、あの黒いのが澱みですか?」
「ウシオ達にも見えているのなら恐らく、くれぐれも触れないように気をつけて」
動きを見せない水の神に最大限注意を払いながらソウタは目にオーラを集中し結晶の正確な位置を探った。するとソウタは目を疑うような光景を目にする。
「なんだ、これ……」
水の神の体内には大きなオーラの塊が二つ存在した。黒く蠢く澱みに侵されたものの他にもう一つ、まだ澱みの侵食を受けていないものがある。それだけではない、水の神の纏うオーラから薄っすらとだが感情の色が見て取れたのである。その色をソウタはよく知っていた……苦しみ喘ぎ救いを求める色、助けを懇願する色である。目の前に佇む美しい龍はソウタ達に救いを求めていた。
「(どういう事だ? 特別な魔獣だから二つある……わけではない、か……澱みの結晶を取り込んで苦しんでいる? 澱みの侵食に、耐えているのか……?)」
ソウタが不可解な状況に困惑していると静かに様子を窺っていた水の神は突如空に向かって咆哮を上げた。超音波のような甲高い叫びが周囲の山々に反響し薄暗い空へと広がっていく。やがて叫び終えた水の神は今しがたまでの穏やかさから一変し、荒々しいオーラを纏って強く敵意を露わにする……それと同時に感情の色ももう見えなくなっていた。鋭い瞳の放つ肌を刺すような殺気に一段と気が引き締まる。ウシオ、ネネ、ミルドが身構える中、水の神と視線を交わしていたソウタが何かを決意した様子で静かに口を開いた。
「……ウシオ、しばらくボクを抱えて回避に専念してほしい」
声をかけられたウシオは眼前の強敵から視線を外す事なく警戒を維持したままその真意を問う。
「それは……もちろん構いませんが、どうするんですか?」
「あの澱みの結晶を穿点で撃ち抜く。相当な時間集中しなきゃならない、だからボクを守って」
そう告げるとソウタはミルドの元へ歩み寄り左手をかざして追加のオーラを注ぎ込み更なる強化を施した。加えてミルドに持たせた小剣をネネに持たせ指示を伝える。
「準備が整うまであいつの相手はネネとミルドの二人に任せる、合図したら何とか隙きを作って欲しい」
「ふっふっふ☆ ……別に、倒してしまっても構わんのだろう?☆」
「致命傷になるような傷は付けないように頼むよ」
「はっはー☆ まかされた!☆」
寡黙に頷いて応えるミルドの背中を軽くポンと叩き視線を交わすとソウタは再び水の神に視線を向け強い決意を言葉に変えた。
「水の神討伐、改め……水の神を澱みから解放する……始めるよ」
「はい!」
「おー☆」
思いがけず知る事となった水の神の窮状、救いを求めるその微かな声に応えるべくソウタ達は各々行動を開始した。
先陣を切って飛び出したネネにミルドが続きソウタを抱えたウシオは鳥人形に飛び乗って上空へと舞い上がる。水の神の頭部よりも更に高い所から見下ろす頃には無数のネネが水の神の四方八方を取り囲む様子が見えた。華奢な手足での徒手格闘で応戦するネネの分身であったが水の神の体を覆う薄い水の膜が衝撃を吸収、分散しているのかあまり手応えはないように見える。一方強化を施したミルドの拳や蹴りには明確に警戒や嫌悪の反応を見せ、水の神は湖へ戻る事を封じられていた。
そんな水の神も一方的にやられるばかりではない。大きく靭やかな体を生かした叩きつけや薙ぎ払いといったシンプルな攻撃に加え、全身を包む水の膜から上下左右不規則に放たれるウォーターカッターがネネとミルドの攻勢を押し返す。
地上の攻防戦を上空から見下ろしていたウシオは時折飛んでくるウォーターカッターの流れ弾を警戒しながら黒く蠢く澱みを見つめていた。
「……ソウタ、少しいいですか?」
ウシオに抱えられながら右手を卵を握るような形にしてオーラの圧縮に集中していたソウタは少しの間をおいて反応を返した。
「……いいよ、大丈夫」
お互いに視線はそのまま、ウシオはソウタの返事を確認すると真剣な表情で尋ねた。
「あの澱みに染まった精霊結晶、私の糸で引っ張り出せませんか? 大まかにでも大きさや形を教えて頂ければあの傷口付近から挿し込んだ糸を巻きつけて引きずり出せると思ったのですが……」
「残念だけど駄目だ」
ウシオの提案をソウタはさっぱりと却下すると集中を維持したままそのワケを話す。
「まず、澱みに対処する上での絶対条件として『触らない』という事が求められる。これは例え間接的にでも、だ」
例えば、澱みの結晶にウシオの糸が触れた瞬間糸を介して澱みがウシオを侵食するかもしれない。ソウタの人形やネネの分身も同様である、見えない力の繋がりを介して本体を侵食する可能性を否定できない、否定するだけの知識も経験も足りていないのである。
「僕達は『澱み』、引いては『精霊』について無知と言って差し支えない。何も知らない、何もわからない以上唯一の教訓である『触れるな』は絶対に守らなければならない」
「……わかりました。ソウタが全力を出せるよう私も全力でサポートします」
頼りにしてる、と付け加えたソウタは再び指先へと意識を集中した。
決して触れる事なく水の神の体内にある結晶を穿点で撃ち抜く……言葉で言うのは簡単だがこの作戦を遂行するにあたって考えなければならない事は他にもあった。それは結晶が砕ける際の爆発である。量が必要とはいえクズ片の連鎖爆発で石造りの橋が崩落する威力である。遠目でもバレーボールかサッカーボールほどの大きさがある澱みの結晶が砕けた際の爆発がどれほどの威力となるのか……想像するだけでも恐ろしい。
更に体内で爆発した際の水の神への影響も考えなければならない。澱みから解放できても死んでしまっては元も子もなく、またもう一方の侵食を受けていない結晶まで連鎖爆発させてしまったらこれもまた目も当てられない。撃ち抜くだけではなく遠く体外へ弾き出さなければ万事解決と言える結果には至らないだろう。
「(限界まで圧縮した点で体内に入り、最低限結晶を体外に弾き出せるだけのサイズに拡げる……体へのダメージは最小限に抑えながら確実に体外へ……)」
ソウタは右手首に添えていた左手を無意識に、自然と圧縮したオーラへとかざしていた。これまで片手と意識のみで行っていた圧縮と保持の作業を両の手で行う、これにより更に大きなオーラを強力に圧し固めていった。
極限まで研ぎ澄まされた集中、そして限界まで圧縮された高密度の生命エネルギー……上空から発せられるその存在感を当然の如く、神の名を冠する程の魔獣が見逃してくれるはずもなかった。
上空を旋回するソウタ達の企みに勘付いた水の神は空に向かって再び超音波のような甲高い雄叫びを上げると、大きく開いた口の前に周囲の水が次々と吸い寄せられるように集まり始めた。空高くから降り注ぐ大粒の雨、灰色の土と混ざった足元の泥水、そして自身の体を包み込む薄い水の膜の一部すらもかき集めて作られた水の球体は次第にその大きさを膨らませていく。直径二メートルほどはあろうかという巨大な水の塊が出来上がるとそれはすぐさま万物を削り切り裂く刃となって上空のソウタ達へと襲いかかった。
天地がひっくり返ったかの如く地上から空へ、降り注ぐ雨のように次から次へと連続で放たれるウォーターカッターを十体の鳥人形の間を飛び移りながらギリギリの所で躱すウシオであったが、足場としている人形の方が間断のない攻撃を避けきれず一体、また一体とその数を減らしていった。ソウタは極限の集中が求められる状態の為新たな鳥人形を出す余裕はなく、このままの状況が続けばいずれ足場がなくなって撃ち落とされるのも時間の問題であった。ウシオの頬から雨に混じった焦りがじわりと滴り落ちる。
そんなウシオ達の苦しい状況に救いの一手を指したのはネネだった。
「「お前の相手は……あたしさんだああああ!☆」」
意気揚々と高らかに叫び強く大地を蹴って飛びかかった二人のネネによって顎関節の辺りを左右から同時に蹴り上げられた水の神は悲鳴のような叫びを上げ大きく体勢を崩した。それと同時に水の塊は支えを失い自壊すると巨大な滝となって崩れ落ちバシャバシャと泥水を撒き散らしながら湖の窪みへと流れ落ちていった。
頭部への攻撃が脳に響いたのか、体勢を崩した水の神はフラフラユラユラと覚束ない様子で反撃の手を緩めていた。攻勢を強める絶好のチャンスとばかりに腰を落としたネネとミルドのもとへ、上空から雨粒と共にウシオの大きな声が降り注ぐ。
「ネネ、ミルド! 水の神を空へ打ち上げて下さいッ!」
それはソウタからの準備完了の合図、無茶振りが過ぎるそのリクエストにネネとミルドは互いの顔を見合わせるとすぐさまに動き出した。
「「「「「どーりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃー☆」」」」」
ネネ本体から次々に生み出された分身はふらつく水の神の頭部に素早く駆け寄ると力いっぱい大地を蹴って再びその巨体を蹴り上げていった。一発や二発では済まない、十、二十、三十……五十、百と何度も何度も、立て続けに蹴り上げられた水の神は徐々にその巨体を大地から浮き上がらせていく。しかしこれだけではソウタ達のいる上空には届くはずもない、リクエスト通りソウタ達のいる上空へ届ける為……数百に及ぶネネの軍勢により蹴り上げられ宙に浮いた水の神の真下には、大剣を携えた大男が立っていた。
ジャラリと鎖を垂れ下げた大剣を地面に深く突き刺し手放すと、ミルドは深く腰を落とし空を睨みつけた。すかさずネネの分身の一人が水の神の尻尾をミルドの真上に来るように蹴り上げる。七色に煌めく尻尾がミルドと空の間を遮ったその瞬間、強靭な脚力によってミルドは空を目掛け垂直に飛び上がった。置き去りにされた衝撃が――ドォンッ!? と轟音を伴って後を追うように山々を震わせる。撃ち出された砲弾の如く空へ向かって飛び出したミルドは水の神の尻尾をがっしりと掴み勢い良く空へと引っ張り上げていった。やがて水の神が伸びきり頭を下にして真っ直ぐに直立すると同時に、空にはミルドの咆哮が響き渡った。
「おおおおおおおおおおおおおおおおお――ッ!?」
「「「「「いっけぇーッ!☆」」」」」
脚力、腕力、強化された力の全て、飛び上がった勢いと身体の捻りを合わせ渾身の力を振り絞り……水の神の靭やかな巨体は軽やかに宙を舞い、ソウタ達のいる空へと送り届けられた。
「ソウタ、来ました!」
「水の神の下に、澱みの側に付けて」
両の手首をピタリと合わせ花の蕾のように右手を左手で包み込んで、ソウタはまるで祈りを捧げているかのようなポーズで地上から迫りくる水の神を見つめていた。その包まれた右手の中には今現在のソウタに出来る最大限度のオーラの結晶が今か今かと解放の時を待っている。
ソウタ達は上昇を続ける水の神の下にスルリと潜り込み黒く蠢く澱みを視界に捉えると、投げ飛ばされた水の神が放物線の頂点に達する瞬間を待った。上昇中では正確な狙いが付けられない為である。致命傷とならないようダメージを最小限に抑え、なおかつ確実に澱みの結晶を遠くへと弾き飛ばす……この無理難題な一撃には精密さが要求される。頂点に達したそのほんの僅かな一瞬だけ、水の神の動きは完全に止まりより正確に澱みに狙いを定める事が出来るのである。
やがて徐々に勢いが落ちてきた頃、ソウタがスッと両の手を澱みに向けた……その時だった。再び空に甲高い咆哮が響き渡りその鋭い瞳がソウタを捉えた。水の神は大きく口を開き再び周囲の水をかき集めて球体を作り出していく。神の名を冠する魔獣の最後の悪あがき――周りには雨粒しかない為出来上がった水の塊は直径五十センチほどの大きさにしかならなかったものの、放たれる水のレーザーの威力が衰えるわけではない。
水の神も限界が近いのか……ゆっくりと、微かに震えながらも最後の力を振り絞りその水球をソウタの方へと向け狙いを定める。
何としてでもソウタを守らなければ、そんな想いでウシオが身を挺して間に割って入ろうとした……まさにその時――窮地を覆す救いの声が、水の神の頭上から降ってきた。
「お前の相手はあたしさんだって、言ってんじゃん☆」
不敵な声と共に、小剣を携えたネネはふわりと頭の上から宙空へ身を投げると無敵な笑顔で水の神の視線を遮った。
「ネネちゃんの事忘れんなよ☆」
そう言い放つとネネは目にも留まらぬ速さで小剣を振り回した。宙に身を投げ水の神と視線が交わる刹那、瞬きする間もないその一瞬にネネは水球を微塵に切り捨てると真っ逆さまに地上へと落ちていった。
「ウシオーあとよろしくー☆」
遠のくネネの声を尻目に往生際悪く、水の神は再び水を集めようと大きく口を開こうとした……が、その口が再び開く事はなかった。
「もう何もさせません、大人しくしていて下さい」
ソウタを見やる水の神の視線の先にウシオの姿はなく、いつの間にか彼女は水の神の頭の上に立っていた。水の神の大きな口はウシオの糸によって何重にもグルグル巻きにされ、それどころか澱み周辺を除いた全身までもが見事に雁字搦めとなっていた。水の神は低く唸り声を上げるがもはや身じろぎ一つできない。
上昇の勢いが落ち始めてからほんの十数秒のやり取り。焦らず、動じず、極限の集中を保ったままただ静かにウシオやネネ、ミルドの躍動を見ていたソウタは何か、大きく温かなものに包まれているような感覚の中にいた。
「(皆、ありがとう……一人ではきっとこの状況は作れなかった……やり遂げてみせる、何としてでも)」
ほんの一瞬、祈るように目を閉じたソウタは決意と覚悟を瞳に込めて澱みを見据えその蠢く塊に手を伸ばした。
両の手首を合わせ蕾のように閉じた手の平が花開くと、限界まで圧縮された生命エネルギーは仄かに輝きを放ちビリビリと大気を震わせた。集中先を人差し指の先からより手の平の中心に近い中指の先に変え、親指で抑えながらその他の指は真っ直ぐに伸ばす。ともすればかめはめ波のような形で両手を澱みにかざすとまもなく、その瞬間は訪れた。
「(“点”を拡げて“孔”を穿つ……)弾き飛ばせ――」
――穿孔ッ!?
時が止まったかのようにゆったりと流れる僅かな時間、宙空でピタリと動きを止めた水の神の体内から飛び出した黒く蠢く塊は仄かな光の筋を伴って天高く打ち上げられていった。一秒ほどの間をおいて――パァンッ!? と小さな炸裂音が鳴り響く。ソウタの思い描いた通り、澱みに侵された結晶は最小限に穿たれた孔を通って体外へと弾き飛ばされていった。徐々に遠のき黒い点となっていく澱みを見つめながら感傷に浸る間もなく、ソウタは巨大な人形で自分やウシオごと水の神を包み込んでいた。
クルクルと回転しながら凄まじい速度でソウタ達の直上に飛んでいった黒い結晶はやがてその表面にひびを入れると煌々と輝きを放ち始めた。急激に光を増し余りの眩しさにその場の誰もが目を細めた次の瞬間――黒い結晶は天地を凪ぎ払う衝撃を伴って砕け散った。
――一瞬だった。その衝撃は空を覆っていた分厚い雨雲を雨粒の一欠片すら残さずに消し飛ばした。その衝撃は近くの山々の尽くを揺るがし打ち砕いて地形を変えた。雲を貫いていた山脈の頂きさえも、その一部がガラガラと音を立てて崩れ落ち足元の谷を埋めていく。黒い結晶の放ったその強烈な拍動は間違いなく、星を揺らすほどのものであった。
爆心の真下にいたソウタ達はみな各々人形に包まれ影響を低減していた。近すぎると衝撃は音速を超え大きな爆発音のようなものは意外と聞こえなくなるらしい、代わりの耳鳴りにしばし耳と平衡感覚をやられながらもソウタ達は無事地上で合流を果たしていた。
「ソウタ! 無事ですか……ッ!」
平べったく伸びた柔らかい人形の上を慌てた様子でウシオが駆け寄ってくる。半身を湖に浸しぐったりと倒れている水の神の傍らでソウタはクッションにした人形の上に横になったまま、雲ひとつない澄み渡った青空を眺めていた。ほぼ真上に差し掛かった陽光が雨の代わりに眩しく降り注いでいる。ソウタはおもむろに両手を空へ伸ばすと力なく呟いた。
「ウシオ、起こして……」
ウシオの手を借りて何とか起き上がるとソウタは体に異常がないか確認しつつ周囲へと目を向けた。
「ネネとミルドは?」
「こっちだよー☆」
その元気な声は背後から聞こえてきた。振り返るとネネは倒れた水の神の上に座り、その足元にミルドがいつものように大剣を肩に担いで佇んでいた。二人共水の神の警戒を続けているようである。ウシオも心配そうな顔で動かない水の神を見つめていた。
「死んでしまったわけでは……ありませんよね」
「死んでないよ……気を失ってるだけだと思う。傷口はもう人形で塞いであるから、乱れた気を整えてみよう」
そう言うとソウタはフラつきながら倒れた水の神の鼻先に歩み寄り両膝をつくと優しく手を添えて目を閉じた。
――……あぁ…………口惜しい…………
――情けない……此方はなんと愚かなのだ……
――……すまぬ…………本当に……すまぬ…………
――いつからだったか……彼らに、そのか弱い生き物に興味を惹かれたのは……いつからだっただろうか……。
――あれは……そう……確か、金色のが討たれた時だったか……。……あぁ……そうだ……あの時は悲しかった……始めは食ってやろうかと思ったのだ……屠ってやろうかと、思ったのだ……。 ――だのに……だのに此方というやつは……こともあろうに興味を持ってしまった……儚く脆い彼らに、魅せられてしまった……。
――今にして思えば……金色のもそうだったのだろうか……だから自ら……近づいて……。
――あぁ……すまない……人の子……本当に、すまない……。
「――ん、起きるよ」
水の神のオーラを整えていたソウタが唐突に告げると、それまで微動だにしなかった水の神は重いまぶたを力なくゆっくりと開き周囲へ視線を巡らせた。ネネとミルド、そしてソウタの傍らに立つウシオが身構える中、ソウタは両手を添えたまま穏やかに語りかけた。
「おはよう、気分はどうかな。悪くないと良いんだけど」
ソウタの言葉に水の神はゆったりとした視線で応えると大きな、それはそれは大きな深呼吸をして小さく口を開いた。
『……身体がピクリとも動かぬ。人の身でよくぞここまで……見事なものよ』
ソウタ達の耳に響くそれはたしかに人の言葉だった。耳どころか全身を震わせるほど重厚であったがどこか心地よさも感じさせる温かい響きであった。
「……普通に、話せるんだね……少し驚いた」
驚いたと言いつつも口元を仄かにほころばせ、ソウタは優しく微笑みかけていた。その無垢な笑顔に水の神はわずかに目を細めた。
『ずっと……長い間見てきたのでな、いつしか覚えてしまった』
存外の親しみやすさを覚えたソウタはすっかり腰を下ろし、相も変わらず両手を添えたまま声をかけ続けた。
「いくつか、質問してもいいかな」
『……あぁ、此方も聞きたい』
水の神の意外な返事にそれならお先にどうぞ、とソウタは最初の質問を譲った。
『王都は……民はどうなった? 死んだ者は居らなんだか……』
伏し目がちに、どこか申し訳無さそうに王都民の安否を心配する水の神にソウタは面食らいながらも気を引き締め直すと真摯に答えた。
「倒れた人は沢山います、けれどまだ死者は出ていないかと。どうすれば彼らは元気を取り戻せますか? どうすればあのモヤを払えるでしょうか?」
ソウタの口から出たモヤという言葉に見えるのだな、と呟き水の神は目を細めると一つの瞬きの後ゆっくりと視線を空へ向けた。
『雲が晴れたのなら、直に災いもはれよう。アレは、陽に当たれば自然と散ってゆく』
ソウタとウシオは互いに顔を見合わせるとよかった、と一緒に胸を撫で下ろした。抱えていた不安が取り除かれた事で改めて、ソウタは水の神と正面から向き合いその身に何が起きたのかを尋ねた。
「あなたの中には精霊結晶が二つありました。澱みに侵された真っ黒な結晶……あれは、元からあなたの中にあったものですか?」
否、と一言、すぐさまに否定した水の神は自身の記憶の奥へと意識を向けながら語りだした。
『アレが如何様に此方の内に入ったのか、此方にもわからぬ。覚えていないのだ……気がついた時には既に、澱みの侵食が始まっていた』
侵食に抗う事に精一杯でその前後に一体何があったのか、ポツリと記憶に穴が空いてしまっているようだ……と水の神は続けた。しばしの沈黙が流れると水の神はずっと鼻先に手を添え続けているソウタへ視線を向け、穏やかに感謝を述べた。
『温かい手……礼を言わねばなるまいな。人の身でありながらよくぞ、此方を止めてくれた……感謝する、人の子』
「……ソウタです、ミソノソウタ」
贈られた礼にソウタは穏やかに微笑み自己紹介で応えると、ウシオ達の事も一人一人丁寧に紹介していった。
『そうだったな……人の子は皆、名前があるのだった。ありがとう……ソウタ、ウシオ、ネネ、ミルド』
その後しばらくの間、身体を横たえたままウシオやネネとも言葉を交わす水の神の様子をソウタは優しく見守っていた。
そんな緩やかな歓談が落ち着きを見せた頃、静かに見守っていたソウタはどこか落ち着きのないソワソワとした様子で再び水の神へ声をかけた。
「これから、どうするんですか?」
神妙な面持ちで尋ねるソウタへゆったりと視線を送ると水の神は瞬きの後視線をソウタ達の背後に向け溜息を溢した。
『さて……どうしたものか……人にも獣にも、散々な迷惑をかけてしまった……もうここには留まれまいが……とはいえ、今しばらくは動きたくても動けぬがな』
すっかり様子の変わった湖の周囲に視線を向けながら水の神はどこか自嘲するように、悲しそうに呟いた。そんな寂しげな水の神の様子を見つめていたソウタはふいに傍らに立つウシオの顔を見上げた。互いに何か言葉を交わすわけでもなく、ウシオはいつものように穏やかに微笑むと静かに頷いてみせた。その笑顔に背中を押されたソウタは改めて水の神へ向き直ると、意を決したように口を開いた。
「もし……もし行く宛がないのならボクと……ボク達と、一緒にいきませんか」
緊張か、はたまた恐れからか、ソウタは少し震えていた。一方で水の神もソウタの言葉を飲み込むのに難儀したようで、一緒に……? と少しの間呆然とハテナを浮かべていた。
『……興味深い申し出、だが……まさかこの巨体を連れて歩くつもりか?』
この惨事の後だ……この上更に人の子の平穏を脅かしたいとは到底思えぬよ、と水の神はやんわりと断った。
その答えを静かに聞いていたソウタは近くへ呼んだネネとウシオに目で合図を送る。顔を見合わせ頷いた二人は瞬きする間にパッと本来の姿へと戻っていた、すなわち獣の姿である。力なく眺めていた水の神も思わず大きく目を見開き驚嘆の声を漏らした。
『なんと……』
「ウシオもネネも、元は人間ではありません……牛や鼠といった動物です」
ソウタは自身の能力についてわかっている限りの全てを詳しく話して聞かせた。加えて自分達が別の星から来た事や旅の目的など、話せる全てを包み隠さず打ち明けた。始めは目を丸くしていた水の神も一生懸命に話すソウタの意図を汲んだのか静かに耳を傾けていた。
『異なる星……異能に神吏者、か……こんな状況でも無ければ、信じられんだろうな……』
「本来生き物を依り代にする事はできませんが、ある条件を満たす事で可能となります」
条件……? と静かに聞き入っていた水の神が相槌を挟むと、ソウタは頷いて返し説明を続けた。
「その条件は……『魂を繋ぐ事』。お互いの魂を結び繋ぎ合わせる事で、命あるものでも依代にする事が出来るようになります」
『……そうすれば、此方も式とやらになり人の姿を得られる、と……ふふ、まるで夢のような話だな……』
一瞬どこか遠い目をした水の神はそっと目を閉じるとまた自嘲気味に笑ってみせた。それからしばしの間、水の神は黙ってじいっとソウタを見つめていた。見つめながら、深く考え込んでいるようであった。ソウタもまたその視線に真っ直ぐに応え、目を背ける事なく見つめ返した。
澄み渡る青から穏やかに陽の温もりが降り注ぎ緩やかな風が優しく水面を愛でていく、そんなゆったりとした時間の中で静かに見つめ合う事数分。やがてその静かな駆け引きは水の神の瞬きによって淑やかに幕を下ろした。
『異なる二つの魂を結ぶ……およそ簡単なはずはなく、また相応の危険もあろう。そうまでして此方を誘う理由を、聞かせて貰えるか?』
そう問いかける水の神にソウタは静かに頷いて応えた。微かな震えを抑え呼吸を整えて、ソウタは思いの丈を言葉に乗せる。
「一つは強くなる為……大切なものを守れるように、失わないように、ボクはもっと強くなりたい……ならなきゃいけない。その為に、ボクに力を貸して欲しい」
それともう一つ、と前置きを挟むとソウタは横たわる水の神に目を閉じて額を寄せ、希い祈るように胸の内を明かした。
「もう一つは……『家族』になって欲しい。一緒に寝て、一緒に笑って、一緒にご飯を食べて、一緒に大切を守ってくれる……そんな、ボク達の家族に、なって欲しい」
『かぞ、く……此方が……』
驚愕に目を大きく見開いた水の神は次々と湧き上がる記憶の奔流に意識を飲み込まれていく。駆け巡るそれらは水を介し永い歳月の中で見てきた人の子の営み。そして……いつしか心の内に芽生え目を背けた、決して叶う事のない夢の残滓――。
――人、人間と呼ばれる生き物。此方らとは大きく異なった、小さく、か弱い生き物。それは吹けば飛んでしまうような、叩けば潰れてしまうような、爪も牙も貧弱で特異な力もない、おおよそ脅威と呼べるものを何一つ感じない、酷く脆弱な者達。
――しかし彼らは奇怪な事に頭数を増やす事には長けていた。そう……そうだ、だから気になった。なぜこんな弱い生き物がこんなにも大きな群れを成せるのか、それを知りたいと此方は興味を持ったのだ。
――それから水を通して彼らの生活を眺め続けた。彼らは群れで生活する。日が昇ると動き出し暗くなると眠る。日中は色んな事を手分けして行う。木を切り、石を運び、住処を作り、土を耕し、獣を育て、狩りをする。群れの中で更に小さな群れを作り役割を分担する、とても賢く効率的だ。
――魔獣に襲われるとオスが協力して戦う。爪も牙もなくどうするのかと思ったら、剣だの槍だの武器なる物を作り出した。弓なる物は離れた所から獣を仕留めてみせた。実に興味深かった……個の弱さを知恵と技術と協力で乗り越えていく。その安定した暮らしは群れが大きくなるのも納得だった。
――だがそれでも弱い事には変わりなく、やはり死からは逃れられない。ほんの樹木程度の高さから落ちて死んだ。獣に少し噛まれただけで死んだ。川に落ちて死んだ。食料が尽きて死んだ。病気とやらで死んだ。五十年余りで老いて死んだ。人間同士で争い死んだ。実に簡単に、あっけなく死んだ。
――そんな無為な死を見飽きた頃だったか……それまで何とも思わなかった人の子の誕生に、温かい何かを覚え始めたのは……。目も開かぬ稚児がけたたましく泣き喚くのに、それを抱く母親が何とも嬉しそうな顔をする。その顔を見ているだけで、我が子への愛しさが伝わってくるようだった。
――それからは人の子の誕生の瞬間ばかりを見るようになった。他人事、それも他種族の事だというのに……子が生まれそうになるとまるで我が事のようにその日が待ち遠しかった。幾度となく人の子の誕生を見届けていく内に、子を慈しむ母親の顔を見続けている内に、チクリと寂しさを覚えた。
――ふと我に返ると、此方はいつも通り水底にいるのだ。仄暗く静かで、見上げると水面がキラキラと煌めいている、長年慣れ親しんだ、とても落ち着く、誰もいない、此方の住処。親や兄弟といった記憶は一切ない、いるかどうかもわからない。気が付いた時からずっと、此方は一人でここにいる。
――少し前まで、ほんの少しの間、話し相手は居たのだ。金色の毛を風に靡かせ時々フラリと水を飲みに現れる変なやつ。此方に好き勝手人間の話を聞かせたかと思えば、その人間に討たれてパタリと来なくなった迷惑なやつ。あの時初めて、悲しいという感情を覚えたのを今でもよく覚えている。
――何故、此方は一人なのだろうか。周りの獣を見ても、群れを成すものや親子をよく見かける。魔獣もそうでない獣も、共に寄り添い生きる誰かがいる。何故、此方には誰も居ないのだろうか。何故こんなにも……締め付けられるようなモヤモヤとした感情が、腹の底から湧いてくるのだろうか……。
――……弱いからか……? 弱いから、群れなければ生きていられないのか。なるほどそうか、此方は強いから群れる必要がないのだ。一人で生きていけるのだから、誰も居ないのは至極当然の事。何も不思議な事などなかった、当たり前なのだ。いらないから居ない……ただそれだけの事……。
――……此方は……なんなのだ……。誰から生まれ……何故ここにいる……。何故何も覚えていない……同胞はいるのだろうか……。母の記憶の一つでもあれば……あの表情だけでも覚えていたのなら……こんなにも……人なぞを羨む事はなかったであろう……何故……此方は……。
――……あぁ……口惜しい……情けない……此方はなんと愚かなのだ……すまぬ……本当に……すまぬ……。触れたい、触れて欲しい。話したい、聞かせて欲しい。知りたい、知って欲しい。もっと見ていたい、此方の事も見て欲しい。一人でいい、此方と一緒に……誰か……。
気付いた時には既に、横たわる巨体の大きな瞳からは止めどなく涙が溢れ出ていた。時間にすれば僅か数秒にも満たないフラッシュバック、しかし一度は固く閉じたはずの心の蓋を強引に押し開けるには十分であった。目を背け見て見ぬ振りをしてきた感情の濁流に水の神が困惑した様子を見せていると、その身体が仄かに光を帯び始め淡く輝き出した。
『なん、だ……これは……?』
内外から次々と畳み掛ける衝撃に呆然とする他ない水の神へ、両手を添えたままだったソウタはほんのりと嬉しそうな表情で優しく語りかけた。
「この光はボクとあなたの魂が繋がった証です。行きたいとは……思ってくれているんですね」
けれど、と一言挟むとソウタは穏やかな微笑みを湛えながら諭すようにかの龍の本心を求めた。
「一方的に式にする事はできません。聞かせて下さい、あなたの思いを……その涙の理由を」
そう問いかけるソウタの表情はまるでかつて見た、子を慈しむ母親のように水の神の目には写っていた。幾度となく、妬ましさすら覚える程に見たあの温かい表情が小さな少年に重なる。
『此方、は……』
潤んだ瞳に霞むソウタを見つめながら声を震わせ、水の神は締め付けられた心を解きほぐすように懸命に想いを紡いだ。
『……一人は、嫌……此方も……寄り添う、家族が……欲しい……』
もはや焦点は合わずソウタの姿は殆ど見えなくなっていた、ぎゅっと閉じた瞳から溜まりに溜まった心の澱みが溢れて落ちる。ソウタは大きな龍から絞りでたそのか細い言葉と想いをしっかりと受け止めると目を閉じ、再び祈るように額を添えて力強く応えた。
「ありがとうございます、確かに受け取りました……一緒にいきましょう」
そう告げた瞬間、水の神の身体を包む仄かな光は確かな輝きとなってその巨体をくまなく染め上げていった。続けてソウタは儀式めいた口上を唱える。新たに加わる家族への、大切な贈り物の為に。
「清廉なる尊き水の神、この日この刻、式と加わるあなたへ、新たな名前を贈ります……其の新たな名は――」
「――タツキ(辰葵)」
一際眩しい光に包まれた水の神はやがてゆっくりとその輪郭を縮め小さく人の形へと変化していった。ソウタの膝に頭を乗せ横を向いて寝そべるような姿勢で輪郭の変化が収まると、輝きも徐々に静まっていき神の名を関する獣の式としての新たな姿が露わとなる。
サラリと流れる清流のように淡い水色の髪は長く、陽光を浴びた毛先の方はかつてのヒレのように美しく螺鈿に煌めいている。透明感のある白い柔肌を大胆にさらけ出すその上にウシオが急拵えで作った布を掛けると、ソウタは膝に乗った頭を優しく一撫でし未だに目元を濡らしている涙をそっと拭ってあげた。
ソウタの細い指がその頬を撫でると人の姿を得た水の神はゆっくりとまぶたを開き、藍に煌めく宝石のような瞳で周囲をぼんやりと眺めた。
「改めて、おはよう。気分はどうかな、悪くないと良いんだけど」
ソウタが先程と同様の台詞で目覚めの挨拶を送ると水の神、否……タツキは自分の手を見つめながらゆっくりと何度も何度も閉じたり開いたりを繰り返していた。
「式になったからと言って急に疲れが吹っ飛んだり体力が回復したりはしないから、まだしばらくは動けないと思うけど……違和感とかはない?」
穏やかに尋ねるソウタにタツキはフルフルと小さく打ち震えながら何とも言えない不思議な表情で率直な感想を述べた。
「……あぁ……とても……すっきりとした、不思議な気分だ……。人の手の動かし方など、知るはずもないのに……此方はこれを知っている……」
「魂を繋いだ事で多少の記憶や知識の共有が起きるから、そのおかげかな。慣れたら元の姿にも自由に戻れるようになるよ」
ソウタの言葉に耳を傾けながらぼんやりと自身の手を見つめていたタツキの瞳からは、再び涙が零れソウタの膝をポツリと濡らした。
「本当に……此方は……夢では……ないのだな……」
溢れ出る涙に抗う事なく静かに頬を濡らすタツキを、ソウタは優しく頭を撫で続けウシオ達と共に温かく見守っていた。
「これからはボク達が一緒にいる、もう一人じゃないよ」
優しさと温もりに包まれて、タツキは小さく頷いて応えた。小さく、何度も何度も、ぎこちない笑顔と共に。
静まり返った雄大な大自然の中、住み慣れた湖の畔で穏やかなひと時に存分に満たされたタツキはやがてソウタの顔を仰ぎ見ると目を細め消え入りそうな声で限界を告げた。
「すまぬ、ソウタ……もっと色々、話していたいが……少し……疲れた……」
ソウタは微笑んで頷きこれからはいつでも話せるよ、と穏やかに声をかけるとタツキを我が身の内へと招き入れる。
「おやすみ、タツキ……次目が覚めたら、これまでの分もたくさん話しをしよう」
「……あぁ……今から楽しみだ」
満ち満ちたにこやかな笑顔を浮かべながら目を閉じたタツキはそのままフッ……と音もなく姿を消した。あとに残された急拵えの白い布を拾い上げたソウタはプツッと糸の切れた人形のように後ろへ倒れ、すかさず支えに入ったウシオの膝にポフッと頭を乗せて仰向けに寝転んだ。贅沢に大きく吸い込んだ清々しい山の空気をため息のように大きく吐き出すソウタへ、ずっと側で見守り続けてきたウシオから労いの言葉が送られる。
「ソウタ、お疲れ様でした。立派にやり遂げましたね」
ウシオの膝の上でソウタは小さく首を振ると寄り添う三人へ感謝を述べた。
「ボクだけじゃ到底無理だった。皆が居てくれて本当によかった……ありがとう」
お互い気恥ずかしそうに笑顔を交わすとウシオは事前の懸念をソウタへ問いかけた。
「結局王宮との繋がりとか……聞きそびれてしまいましたね、大丈夫でしょうか?」
「うん、まぁ……大丈夫じゃないかな。どうせすぐに王都を発つわけだし、タツキが起きた時にでもまた聞く事にするよ」
楽観的な答えをあっけらかんと返すソウタであったが、その表情にはこれまでとは一味違う確かな自信が垣間見えた。穏やかな笑みを湛えソウタの頭を優しく撫でながら、ウシオはかつてあった日を懐かしむように目を細めた。
「本当に……式を十二支になぞらえると決まった時は間違いなく辰が最後になると思っていました、十二支の完成が見えてきましたね」
ぼんやりと突き抜ける青空を見つめていたソウタはんー……、と目を閉じ考え込むと十二支完成の困難さに微かな不安を覗かせた。
「むしろハードルはより上がった気がするけど……タツキに並ぶ程の力のある寅……見つかるかな」
子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥……十二支の内まだ式に加えていなかったのは辰と寅であった。地球に存在しない辰はまだしも何故寅までもがこれまで式に加えられてこなかったのか、これにはきちんとした理由が存在する。それはずばり、辰と寅は『並び立つもの』だからである。
先に寅を式に加えてしまいもし、辰を式に加える事ができた時……両者の力に大きな差があっては並び立つものとして格好がつかない。辰と寅、古来より両者は拮抗した実力を持つものの喩えとして伝えられてきた。辰は寅に、寅は辰に、匹敵する力を有していなければならない……言うなればこれはそんな強さへの美学、男の浪漫である。
「不可能と思われた辰に出会う事ができたのですから、寅にも巡り会えます……きっと」
ウシオの励ましにそうだね、と笑顔で応えるソウタの頬を一陣の風がフワリと撫で通り過ぎていった。湖の向こうへと走り抜けていく風を目で追いながらソウタ達は激戦の跡が残る壮大な景色の中でつかの間の安息を堪能する。空高く突き抜けた深い青と、燦々と降り注ぐ陽光の惜しみない祝福を一身に浴びながら。
「……帰ろうか」
「はい、帰りましょう」
晴れ晴れとした顔で起き上がりソウタ達は揃って帰路につく。残った人形とミルドに追加したオーラを回収し、ヘロヘロになったネネを労い懐に迎えて、ソウタは今一度湖を顧みた。混ざった泥をゆっくりと底に沈め、水は少しずつ透明度を取り戻しつつある。人の手が及ぶ事のない険しい山の奥、荒れた畔もこれからまた長い歳月を経て緑豊かな自然の姿を取り戻していく事だろう。そこは新たな家族が物心つく頃から住み続けた故郷……思い出と憧れ、そして悲しみの眠る場所。湖の奥にそびえ立つ鋭さを増した高峰を見上げて、ソウタは一人胸に手を当てながら小さな声でポツリと呟いた。
「……いつかまた、ここへ帰ろう……一緒に」
囁くようなその声は誰の耳にも届かぬまま、そよぐ風にさらわれて湖の彼方へと流されていった。青白く霞む高峰の頂きに見送られながら、ソウタは踵を返しウシオ達と共に白い大きな鳥人形の背に乗って青い空へと飛び立っていった。
こうして、八日に及ぶ水の神と災いの雨にまつわる騒動は一応の一幕を終えた。
登山道の峰に落とし王国兵の帯同を封じた大岩を真っ二つにかち割り砦へと帰還するやいなやミルドは大変な称賛を浴びた。指揮官はやや不満げであったものの出発直前に振り始めた雨の影響で砦の兵士の中にも倒れた者が居た等の理由から、問題の解決に関しては素直な感謝を送ってくれた。
砦を渡る度に夜な夜な盛大な祝勝会が開かれ、辿り着いた王都でもまた一際盛大な歓迎が待ち構えていた。王宮へ招こうとする兵士の手をあの手この手で掻い潜りやっとの事で宿に帰り着くとここでもまたアルや子供達による祝勝会が開かれた。食堂の厨房には無事に元気を取り戻した主人ベルゴの姿もあり、大人も子供も妖精も帰ってきた日常に誰もが喜びと感謝を口にした。
その日の夜、宴の後ソウタは自室の窓際で人形で作った椅子に腰掛けながら星空を見上げ静かな眠れぬ夜を過ごしていた。ウシオもまた小さな丸いテーブルの上に布を拡げ夜なべしてエプロンドレス制作に没頭している。窓際のベッドには今日も見慣れた秘書、人形、スイカの鏡餅が寝息を立てながら鎮座している。
作業の手を止めか細くもよく通る小声でウシオが窓辺へ声をかける。
「ソウタ、眠れませんか? また数日寝込んでしまうかと思っていたのですが……」
懐中時計を片手にぼんやりと星を見ていたソウタは掛けられた声に視線を返すと微笑んで頷いた。
「大丈夫、問題ないよ。ボクも休眠を覚悟してたけど、多分タツキの持ってきた力が想像以上に大きかったんじゃないかな……あんな状態だったのにね」
自身の胸に手を当てながらソウタは慈しむように目を細め優しく微笑んだ。ゆったりと間をおいて、ソウタは今一度ウシオの方を見やるとその手元を見つめながら進捗を尋ねた。
「そっちは? 間に合いそう?」
「はい、今晩中には何とか」
ウシオもまた微笑んで頷きテーブルの上へと視線を落とす。今手掛けているものの他に既に出来上がり畳んであるものが三着、どれも子供用の小さいものである。出会った頃、アルとベルゴ夫妻の娘リコや教会の子供達にねだられ交わした約束の贈り物……僅かな時間の合間を縫って手作業で仕立てたウシオの謹製エプロンドレスである。
再び手を動かし作業を再開しながらウシオは今後の予定を確認する。
「出立は二日後でしたよね」
うん、と短い返事と共に立ち上がったソウタは腰掛けていた人形を袖にしまい足音を立てないよう気遣いながらゆっくりと窓辺を離れた。
「明日の……もう今日か、今日の内に必要な事を済ませて明日の朝王都を発つ。雨だ何だで予定より大分遅れてるから急がないと」
再度ベッドに腰を下ろし左手に持った懐中時計に視線を落としたソウタは今日の予定を頭の中で整理する。最優先は水の神討伐の完了報告と報酬の受け取り、そして港町までの馬車の手配を兼ねた護衛依頼の受託である。
「(後は……お世話になった人への挨拶回りと……侯爵にももう一度釘を刺しておこうか……)」
チクタクと時を刻む秒針を目で追いながら考えをまとめていると再び掛けられたウシオの声に視線と意識が吸い寄せられる。
「そう言えば、アルさんには例の件伝えたんですか?」
「うん、ついさっき……宴会の最中に伝えておいた、問題ないって」
手早く手際よく、布に糸を通しながらウシオはしみじみと語りだした。
「こちらに来てからもう一ヶ月半……あっという間ですね」
「本当にね……でも依然帰還に繋がる明確な手がかりはまだ何も掴めていない、より一層気を引き締めないと」
ソウタが思いつめたように険しい真剣な表情を見せるとウシオは一瞬手を止めフフッとからかうように微笑んだ。
「あんまり思いつめていると、可愛い眉間にシワができちゃいますよ」
「……フフッ、気をつけるよ」
唐突な軽口に和まされソウタは眉間を指で軽く撫でながら口元をほころばせた。
「あ」
突然声を上げ動きを止めたソウタはおもむろに寝ている秘書の上で鏡餅になっている下級人形の中から紙とペンを取り出した。その様子を訝しげに眺めていたウシオもたまらず尋ねる。
「……どうしたんですか?」
不思議そうに眺めるウシオをよそにソウタは黙々と人形で作った机の上に紙を広げペンを右手に構えてピタッと動きを止めた。
「……ベッキー達への報告をすっかり忘れてた」
「そういえば……」
ウシオも口元を手で抑えハッとした表情で呟いた。あちらからすると一ヶ月半もの間音信不通である、どれほどの心配をかけているのか……涙ながらに怒りを露わにするベッキーの顔が目に浮かぶ……。
その後ソウタはこの一ヶ月半の出来事と今後の予定を詳細に手紙にしたためていった。しかし長期間連絡しなかった非を詫びようとするあまり段々と謝罪の言葉が増えて行った結果、もはや近況報告なのか反省文なのかわからないものが出来上がっていった。
何度も書き直しては読み直し、また書き直しては読み直し……と、ソウタは日が昇るまで戦々恐々とした夜を過ごすはめになるのだった。
翌日、一晩中ベッキー達への手紙の執筆に奔走しドッと気疲れを溜め込んだソウタはサポーター組合所長リデルの執務室を訪れていた。
「随分お疲れの様子だね……無理もないか、神様なんて言われるような魔獣を相手にしてきたんだもんね」
ええまあ……、と見当違いの方向に察するリデルを苦笑いであしらいながらソウタは気まずそうにズズッとお茶を啜っていた。カップをテーブルに置くとソウタはタツキも気にかけていた事をリデルへ尋ねる。
「倒れた人々は大丈夫でしたか? 亡くなられた方などは出なかったでしょうか?」
「ああ、皆無事だよ。倒れた際に怪我した人が少し居たくらいで、犠牲者といったような報告は一切入ってない」
ホッと安堵の表情を見せるソウタ達をにこやかに眺めながらリデルは少し興奮したように語りだした。
「すごかったよ……君達が王都を出た翌日かな、とんでもない音と地響きがこの王都にも届いたんだ。一体何事かと驚いたよ」
おそらく結晶が砕けた際の衝撃波であろう、王都からは直線でも数百キロは離れていたはずなのでやはり驚異的な威力である。
「けど雲が綺麗サッパリ吹き飛んで、晴れ渡った空を見て確信した……君達がやったんだって」
リデルは身なりを正し改まると背筋を伸ばしてソウタ達へ感謝の賛辞を贈った。
「王都民を代表して、何て言える立場じゃないけど……是非お礼を言わせて欲しい。王都を救ってくれて、ありがとう」
深々と頭を下げられソウタはウシオと顔を見合わせて微笑むとリデルへ同様に頭を下げて返す。
「頑張ったのはミルドですが……お役に立てたのであれば何よりです、ありがとうございます」
執務室に和やかな空気が流れるとリデルはおもむろに立ち上がりパンッと手を叩いた。
「さて、無事に依頼を成し遂げたソウタ君達にお待ちかね、報酬を支払わないとね」
リデルが言い終わると同時に隣室の扉がノックされ職員の女性がコインの乗ったトレーを持って入ってきた。女性はソウタ達の前のテーブルにトレーをそっと置くと上品にお辞儀をし隣室へと帰っていった。
「雲が晴れた翌日だったかな、依頼の時一緒だった青年が私の所へわざわざ持ってきてくれたんだ。君達に渡してくれって」
「これが……大金貨」
トレーの上には整然と並べられた三枚の金貨が置かれていた。ソウタは侯爵邸で一度見ているが初見のフリをして庶民らしく感嘆の声を漏らす。
「私も所長を務めて結構長いけど、一件の依頼でこれほどの大金を扱うのは初めてだよ」
ソウタは金貨の一枚を手に取りじっくりまじまじと感触を楽しんだ。
「やっぱり重いですね……確かこの三枚で庶民の年収に匹敵するとか何とか仰ってましたね」
聞き流していたけど年という概念がこちらにもあるんだな……等と考えながらソウタは手に取った金貨をウシオへ手渡した。
「まぁ、大体だけどね。生業によって大きく変わるからあまり一概にも言えないけど……それは君達が頑張った証だから、遠慮なく受け取って欲しい」
「では、ありがたく頂戴します」
深々と頭を下げ感謝を述べて、ソウタは添えられた茶色い小さな布袋に三枚の大金貨を収めウシオへと管理を託した。それを見届けたリデルはソウタ達の正面に腰を下ろし改まった様子でソウタが求めた追加報酬の件について触れた。
「それで……例の追加報酬、ミルドさんの三つ星認定の事なんだけど……」
とても気が重そうな様子のリデルを見てソウタも概ね続きの内容を察し、これ以上気を使わせないようにと笑顔を見せた。リデルもまた力ない笑顔で応える。
「駄目だったみたいですね」
「力及ばずすまない、何か……首とか結晶とか、討伐の証になるような物があれば交渉材料になるかもしれないけど……」
ソウタは黙って首を振り元々期待はしていなかったと穏やかに語った。
「首は大きすぎて運べませんし、澱みに染まった結晶も砕けました……元よりダメ元での提案だったので気にしないで下さい」
「そうか……あの衝撃は結晶の……本当に、三人共無事に帰ってきてくれて何よりだよ」
和やかに水の神関連の要件を終え、ここひと月余りの思い出話に花を咲かせているとふとソウタはすっかり忘れていた三つ目の要件を思い出した。
「そう言えば……ボクの二つ星昇級試験、後で受けるというお約束でしたけど……どうしましょう」
「あぁ、そう言えばそうだったね……私も忘れていたよ」
ハハハ、と笑ってごまかしたリデルはスッと立ち上がるとおもむろに上着を脱いでソファの背もたれに掛けソウタを裏手の広場へ誘った。
「それじゃあ急だけど早速お手並み拝見といこうかな、せっかくだから今日は私が相手をしよう」
「はい、よろしくお願いします」
特例で先送りにして貰っていた二つ星昇級試験を受ける為執務室から裏手の広場へ場所を移したソウタは木剣を手にしたリデルと向かい合って広場中央に立っていた。組合に居た他のサポーターや通りすがりの通行人など、早くも多数の観衆が周囲を取り囲んでいる。
「私が相手をすると言ってもあまり驚かなかったね」
「依然所長が相手をする事もあると伺っていましたし、普段の何気ない所作からも心得があるのが見て取れます」
久しぶりなのかじっくりと入念に木剣の感触を確かめるとリデルは丸腰のソウタを見つめながら試験の内容を告げた。
「試験の内容は……そうだな、私の剣を避けてもらおうか。こちらが一方的に攻撃する事になるけど、どうかな?」
「反撃はなしで避け続けるだけ、と言う事でいいですか?」
ソウタの質問にリデルは黙って頷いた。と同時にギャラリーからは子供相手に大人気ないぞと非難の声が飛び交う。苦笑いしながら頭をかくリデルへソウタは了承の意思を伝え開始の合図を委ねる。
「いつでもどうぞ」
何の武器も持たない丸腰でありながら余裕の笑みを浮かべ堂々とした佇まいに確かな自信を滲ませる少年に、リデルはゴクリと喉を鳴らし剣を構えた。剣道で言う八相の構えに近いだろうか。右脚を引いて半身に開き両手に持った剣を顔の横で真っ直ぐに立てる、纏うオーラに熟練を感じさせる洗練された見事な構えであった。
「行くよ……――ッ!」
短い掛け声と共に勢い良く駆け出したリデルは素早く距離を詰め振りかぶった剣を思い切りソウタ目掛けて振り下ろした。腰の入ったその剣に子供に対する遠慮や配慮なんてものはなく、本気で襲い来る剣閃をソウタは左方向へさっと躱し距離を取った。リデルもすかさず後を追い左から右へと大きく薙ぎ払うと、ギリギリ後方へ飛び退くようにこれを避けたソウタだったがリデルの追撃は尚も続いた。右に流れた剣先を匠に操りソウタの胸元を狙い定めると鋭い突きとなって襲いかかる。紙一重で躱したのもつかの間、避けたと思った剣先はいつの間にかリデルの手元へと帰り再びその切っ先がソウタの胸元を狙い定めていた。高速で繰り出される刺突の乱舞を掻い潜りソウタは再度飛び退いて距離を取った。
「ふぅ……流石、軽やかだね」
「実際軽いですから」
二人が軽く言葉を交わすと僅か五秒程度のやり取りに集まった観衆は大いに盛り上がった。沸き上がる声援を受け再開した二人の攻防はそれから一分程度続いた。激しい大振りな攻撃と繊細な刺突による緩急をつけたリデルの剣術は実戦的でありながらも品があり見るものを大いに魅了した。それと同時にそんな無数の斬撃を軽やかに躱し続けるソウタにもまた観衆から惜しみない拍手と喝采が贈られた。
一通りの手札を出し切ったリデルは乱れた呼吸をゆっくり整えると額の汗を拭いながら息一つ乱していないソウタへ声をかけた。
「ソウタ君、次で最後にしよう。私のとっておき、攻撃は三回だ」
「わかりました」
目を閉じ最初と同じ構えを取って大きく深呼吸をしたリデルがスッと目を開いた瞬間、ピリッと張り詰めた空気にあれだけ盛り上がっていた観衆も一瞬にしてシン……と静まり返った。凛とした佇まいと鋭い眼光から発せられる強烈なプレッシャーに誰もが口をつぐみ息を呑む、とっておきが伊達ではないと言う事をリデルの波立つオーラが雄弁に物語っていた。
息が詰まりそうな静まり返った広場の中央、リデルの纏うオーラがユラリと動いたその時だった。確かな距離を保っていたはずのリデルの姿は瞬間移動でもしたのかと見紛う程に速く、気付けばソウタの目の前に迫っていた。大きく剣を振りかぶった姿から繰り出された最初の斬撃、それは試験冒頭に見せたものと全く同じ軌跡を描きながら振り下ろされた……しかし――
「(遅い……?)」
試験冒頭に見せた初撃よりも遥かにゆったりとした剣閃をソウタもまた同じ様に左方向へ、いとも簡単に躱す。と同時に……いつの間にか放たれた二撃目が眼前に迫りソウタは驚愕した。
「(速――ッ!?)」
ソウタも決して油断していたわけではない。それでも緩慢と放たれた初撃から高速の切り返しによって放たれた二撃目の横薙ぎはまたもや冒頭と同じ軌跡を描きながらも予想外の速度でソウタの脇腹を捉えようとしていた。一度目同様飛び退いての回避は到底間に合わない……ソウタはこれを地に伏す事でかろうじて回避した、避けきれなかった髪が数本ハラリと宙を舞う。
「(攻撃は三回――)」
リデルの言葉を思い出しソウタがすぐさま視線を上げたその時にはもう既に、左へ大きく流れたはずの剣先は鋭くこちらを向いていた。
緩急を付けた動きで相手の呼吸やリズムを乱す、そんなリデルの戦術にソウタはまんまとハマった。大きく体勢を崩したソウタへ容赦なく放たれた最後の突きは……仰け反ったソウタの右耳をかすめて背後の地面へと突き刺さっていた。
「……うん、文句なしの合格!」
フッ……と口元をほころばせ鋭い眼光を解いていつもの調子にパッと戻ったリデルはパチパチと手を叩きながらにこやかに合格を告げた。直後観衆からも大きな歓声と拍手が送られソウタはフー……と大きなため息を吐いて立ち上がり苦笑いを零した。
「……最後のは避けた……でいいんでしょうか」
三撃目の突き、避けきれないと判断したソウタは左手で剣の横腹を押し流す事で強引に軌道を曲げ何とか直撃を回避した。剣に触れてしまった事を気に病むソウタであったがリデルは問題ないと一笑に付した。
「見事に全部避けられちゃって悔しかったから、最後の三回は私のわがままだ……その前に合格は決まっていたよ」
最後の最後で一泡吹かせられたようだから満足だ、とリデルは晴れ晴れとした様子で高らかに笑った。試験が終わり集まった観衆がパラパラと散っていく中、執務室へ戻ろうと誘うリデルを呼び止めたソウタは改めてこの一ヶ月半の感謝を伝えた。
「リデルさん、短い間でしたが王都への滞在中色々とお世話になりました」
ウシオとミルドもソウタの後ろに並んで立ち三人揃って深々と頭を下げた。振り返りざまにかしこまって頭を下げられたリデルは突然の事にギョッとしながらも、すぐに微笑んでソウタ達の方へ向き直ると真っ直ぐにソウタの目を見つめ返した。
「何だい急に改まって……と、やめてくれ……歳を取るとどうも涙腺が緩みやすくて……」
口元に笑みを浮かべたまま目元を手の平で覆い隠したリデルはしばしの間溢れる涙を抑えるとやや赤みを帯びた潤んだ瞳でソウタを見つめ感謝の言葉で返した。
「お礼と言うならこちらこそ、とても刺激的な日々を過ごさせて貰ったよ……ありがとう」
スッと差し出されたリデルの手を取り二人は笑顔で固い握手を交わした。リデルのその手はとても大きく固く、長年積み重ねたのであろう研鑽の証が在々と刻まれていた。
この後の予定をリデルに伝えお茶の続きを断ったソウタは護衛依頼の受託を済ませて組合を後にした。ミルドの訪問に喜ぶ依頼主の商人との話を早々に済ませた後、ソウタは午後をこのひと月でお世話になった人々への挨拶回りに費やした。
大書庫の司書官レーヴや装備品店の店主、再建の為片付けが進められている焼け落ちた教会跡地、その他依頼で出会った多くの人々の元を巡りながらソウタは王都での暮らしを思い返していた。
初めは見慣れないよそ者という事もあり街の人からの視線も遠く随分と冷ややかなものばかりだった。しかし朝から晩まで駆け回り一生懸命に依頼をこなす直向きな姿を見せ、時間を掛けて街の人々との交流を重ねた今では行き交う多くの人が笑顔で手を振って声をかけてくれる程にまでソウタ達の存在は王都の住民に受け入れて貰えるようになっていた。
もちろん良い事ばかりではなく大変な事もたくさんあった。サポーター登録の為のお金がなく王都に着いて早々仕事を求めてお店というお店を片っ端から駆けずり回ったり、大物貴族のアヴァール侯爵によって引き起こされた悪意渦巻く教会の騒動にわざわざ首を突っ込んだり、果ては神と呼ばれる程の魔獣に挑み激闘の先で新たな家族を迎えたり。
行く先々で貰ったたくさんの餞別を両手いっぱいに抱えながらソウタ達は夕暮れに染まる街の中をゆっくりと宿に向かって歩いていた。段々と伸びていく影の後を追いかけながらソウタの隣を歩いていたウシオがポツリと呟く。
「……ついつい感傷的になってしまいますね」
ゆっくりとウシオの顔を見上げたソウタは優しく微笑み頷いて応える。
「うん……でも悲しくはないかな……また来ればいい……またいつか」
穏やかに、けれどしっかりと、真っ直ぐ前を見据えてそう話すソウタを見つめながらウシオはそっと微笑んだ。子供の成長を慈しむ母のように。
日が沈み切るにはまだ少し時間のある夕刻、宿に帰り着いたソウタは大量に抱えた餞別の中から食材類をアルに贈り王都最後のお風呂にモニカや子供達を誘った。喜ぶ子供達と渋るジェントの背中を押し風呂屋に着くと二階の個室を二つ借りて男女に別れる。やんちゃな子供達に手を焼きながらもソウタは終始楽しく憩いのひと時を過ごした。一足先に上がったソウタ達が外で女性陣を待っていると、出てきたモニカはソウタを見るやいなや顔を真っ赤にしながらよそよそしくお礼を述べフラとフィアの手を引いてそそくさと歩いていってしまった。何かあったのかとウシオに尋ねても心当たりは無いようでソウタは首を傾げながら帰路に着いた。
宿に着くとすぐに食堂が開店しソウタ達も最後の手伝いに付く。ここでウシオからアル、リコ、モニカ、フラ、フィアの五人に手作りのエプロンドレスが贈られ、この日の食堂はさながら舞踏会のような華やかさを以ってこのひと月で一番の盛況を博した。
閉店後は出立前夜という事で送別会が開かれた。豪華な料理がテーブルを埋め尽くす中ソウタ達へアルとベルゴ夫妻から畏まった感謝が贈られた。雨騒動の解決のお礼、そして食堂の経営再建のお礼だと夫妻は話した。
ソウタ達が来る前、夫妻の営むこの宿兼食堂は深刻な経営難に悩まされていたらしい。行商環境が劇的に改善し人の流入が増えた事で客も増えそうなものだが実際はそうはならなかった。商会によって中央通りに建てられた新しい宿や飲食店にほぼほぼ全ての客が取られてしまった為である。稼ぎの増えたサポーター達も新しい宿に流れていった事で宿目的の客は途絶え夜間の食堂を営業する事で精一杯となった。古臭い宿を求める客などおらず食堂も仕事終わりの常連が少し飲んで行くだけ、僅かな蓄えを切り詰めながら何とか営業を続けていたがそれもいつまで続けられるのかわからない……不安な日々を過ごしていたそんな時、街でソウタ達を見かけた。多くの住民達から注目を集めて歩く物珍しい旅人の四人組。可愛らしい少年と綺麗な女性に屈強そうな大男……とパッとしない顔半分男。聞けば金に困り仕事を探して駆けずり回っていると言う。得体のしれないよそ者だが物珍しい美人が客引きになってくれたら経営を立て直す糸口に繋がるかもしれない……そんな卑しい下心にもすがる思いで声をかけたのだと申し訳無さそうにアルは語った。
感謝と謝罪の混ざった複雑な表情で頭を下げる夫妻にソウタは笑顔でこう伝えた。
「途方に暮れていたあの時声を掛けて頂いた事、今でも心から感謝しています。少しでも御恩が返せていたのなら何よりです、ありがとうございました」
姿勢良く頭を下げ穏やかに微笑むソウタと目が合うとアルは溢れる涙を抑えられずしばしの間ベルゴの胸に顔をうずめて泣きはらした。顔を上げたアルは真っ赤になった目を何度も拭いながら恥ずかしそうに笑顔を見せた。
「ホント……良く出来た子だよアンタは……。はぁ、湿っぽくなっちまったね……さ! 冷めない内にパァーッといっとくれ!」
パンッとアルの手がいい音を鳴らすのを合図にソウタ達の王都最後の夕食会は賑やかに幕を開けた。我先にと口いっぱいに頬張る食い意地の張った男児達と大人気なく張り合う秘書とスイカ。はしゃぐ子供達に手を焼いて食事の進まないモニカとウシオ。それを見ながら豪快に笑うアルとリコ。隅っこで静かに乾杯を交わすミルドとベルゴ。繰り広げられる温かな団欒をソウタは微笑みながらもどこか遠い懐かしむような目で眺めていた。
楽しいひと時は瞬く間に過ぎ去りはしゃぎ疲れた子供達と一緒に街が静かに眠りについた頃、夜の闇に紛れて飛ぶ一羽の白い鳥が立派なお屋敷の窓辺へと静かに降り立った。きちんと鍵の閉められた窓の僅かな隙間をスルリと潜り抜けた鳥はグニャリと猫の姿へ形を変えるとソロリソロリと音もなくベッドの方へと歩き出す。白い猫は豪奢なベッドで喧しいイビキを立てながら眠る部屋の主の枕元へ立つと爪を立てた小さな手を振り上げ勢い良く――……ムニッと肥えた頬へ押し付けた。
「フガッ――……?」
「こんばんわ」
「………………ッ!?」
ぼやけた目で枕元に立つ影に気付いた部屋の主はすぐさま飛び起きてその影を手で払い除けた。払われた猫はその手を躱し軽やかに飛び退くとベッドから三メートル程離れた場所へスッと音もなく着地して見せた。凛と澄ました姿勢の良いお座りでベッドの上の男をじぃっ……と見つめている。
「そ、その忌々しい声……また貴様かっ……な、何だっ……何しに来たっ……言われた事は守っているだろう……まだ何かあるのかっ……」
酷く怯えた様子で部屋の主、アヴァール侯爵は凛と佇む白い猫に……その向こうにいるのであろうソウタへまくし立てて尋ねた。
「夜分遅く、ご就寝中の所大変失礼致しました……今日は最後のご挨拶をと思いまして……」
猫人形の口を借りソウタは恭しくゆったりと落ち着いた口調で侯爵へ語りかけた。
「あ、挨拶……?」
「明朝、ボク達は王都を発ちます」
ソウタの言葉を侯爵はゆっくりと時間を掛けて飲み込んだ。理解が追いつくと侯爵は引きつりながらも心底嬉しそうに口元をほころばせた。
「ふっ……ふふっ……やっとか……それはいい、さっさと出ていけっ……ふふ、ふふふ……」
ここぞとばかりに不満を吐き捨てる侯爵を白い猫は静かに見つめ続けた。ピクリとも反応を見せない猫……否、ソウタに侯爵の顔から徐々に引きつった笑顔が滑り落ちていく。
「……もちろん、挨拶だけでなく釘を刺す目的もあります。ボク等が王都を離れようと、そのお腹に仕込んだ人形はちゃんとあなたを殺しますので……くれぐれもお忘れなきよう……」
相変わらず感情の読めない落ち着いた口調で、されど先程よりもワントーン低い声で、ソウタの言葉は部屋の空気をジワリと重くした。首を絞められているかのような息苦しさに抗いながら侯爵は必死に声を絞り出す。
「ッ……いっ……言われた通りにすれば……生きられる、と…………ッ」
「はい。決して他者に悪意を向けず、善良に、献身的に振る舞う限り、人形は何もしません」
改めて条件を示してみせた所で、その言葉が本当に信用に足るのか……侯爵はソウタの言葉を信じきれずにいた。苦虫を噛み潰したような顔で猫を睨みつける姿を見かねたソウタは小さくため息を吐くと侯爵を殺す不都合について話して聞かせた。
侯爵がトップを務めるヴァール商会は王都最大の規模を誇り近年の行商環境の劇的な改善等この国の経済において極めて重要な役割を担っている。侯爵の死はすなわちヴァール商会の混乱であり、引いては王都経済全体の混乱へと波及しかねない一大事となる。そうなればその混乱の荒波に苦しみ喘ぐのは王都に住む一般の人々、ソウタ達がお世話になった感謝すべき人々である。
「我々としても殺さずに済むのならそれに越した事はないのです……清く生きて下さい、皆の為、あなた自身の為に」
ソウタの話に静かに耳を傾けていた侯爵は不満げな表情は変わらずとも納得はしたようで、叱られた子供の様なしかめっ面で俯いていた。
「それはそれとして、モニカさんや子供達にまた手を出すようなら容赦なく腹ワタをブチ抜きますよ――」
白い猫は物騒な軽口を吐き捨てると軽快な足取りで月明かりの差し込む窓辺へと歩いていった。窓辺に立つと侯爵の方へと向き直り月明かりに照らされながら恭しく頭を下げる。
「改めまして、夜分遅くに失礼致しました。これにて御暇致します、どうぞ……末永くお元気で……」
言い終えると白い猫は再び一礼し、窓の僅かな隙間をスルリと潜り抜けると鳥の姿へと形を変え翼を広げて夜の空へと飛び立っていった。
唐突に訪れ過ぎ去った嵐にようやく安堵を取り戻した侯爵は手近な調度品をむんずと掴むと振り上げ猫の去った窓辺に向かって力いっぱい投げつけ……なかった。やり場のない怒りに打ち震えながらも何とか堪え飲み込んだ侯爵は掴んだ調度品を元あった場所に戻すとふわふわの布団にくるまり不貞寝した。
「………………フンッ」
静寂に満ちた広い部屋に響き渡った侯爵の焦燥と憤慨は月の光に見守られながら静かに、淡い夢の中へと誘われていった。
宿の自室で開け放たれた窓辺に立ちスッと目を開いたソウタは鳥人形の帰還を待つ傍らでキラキラと煌めく満天の星空を眺めていた。空を見上げるその小さな背中に優しい声が囁く。
「憂いは晴れそうですか?」
「……うん……多分、ね」
振り返る事なく空を見上げ続ける不安げな背中に、ウシオはそっと寄り添うように数多の道を説く。
「いざという時は、戻ってきても良いんですよ」
その言葉にゆっくりと振り返ったソウタは心配そうに見つめるウシオに微笑んで頷いた。
「大丈夫、ボクはボクの成すべき事を成すよ……これまでも、これからも」
確かな覚悟を示すその笑顔にウシオも穏やかに微笑んで頷き返す、パタパタと役目を終えた白い鳥が窓辺に降り立ち袖の中へと帰るとソウタは静かに窓を閉めウシオと共に床につく。その夜、ウシオの温かな腕に包まれながらソウタは久しぶりの夢を見た――
――楽しそうに笑う子供達の声
――急かすように自分を呼ぶ、懐かしい声
「――ほらソウタ、早く早く!」
「――そんなに急がなくても大丈夫だよ、……マ」
王都最後の静かな夜、月と星が淑やかにそそぐ夜、優しさに満たされた小さな少年の瞳から一粒の雫が、誰に気づかれる事もなく零れ、儚く散った。
明朝日の出前――白み始めた空の下、ソウタ達は東城門前で開門の時を待つ馬車の側に立っていた。早朝まだ薄暗い時間にも関わらず見送りに来てくれた人達に取り囲まれている。
「まだ眠いだろうに、皆来てくれてありがとう」
腰を落として視線を合わせ、ソウタはしょぼくれた目をこする子供達の頭を一人ずつ撫でて感謝を示した。
「どうしても行くと言って聞かないものですから……ソウタさん、ウシオさん、本当に……本当にありがとうございました」
モニカが深々と頭を下げ感謝を述べると肩にかかったおさげを飾る白いリボンがぶらんと垂れ下がりユラユラと舞いを披露する。
「教会が再建してもまだまだ大変な事はたくさんあるでしょう、また何かの拍子に役に立つかもしれません……リボン、大事に持っていて下さい」
優しく微笑むソウタの言葉と思いやりにモニカははい! と満面の笑顔で応えた。スッと下ろしていた腰を上げると今度はアルから声がかかる。
「坊やもウシオちゃんも、忘れ物はないかい?」
「はい、必要な物はもう全部馬車に……」
「――……って……さーい……ッ!?」
積み終わっている、ソウタがそう言いかけたその時だった。遠方から何かを叫びながらバタバタと駆け寄ってくる奇妙な男が十メートルほど離れた所で盛大にコケた。皆の注目が集まる中めげずに起き上がり砂埃を払って駆け寄ってきたのはパッとしない顔半分男、もとい秘書であった。ゼェゼェと息を切らしながら必死に何かを訴えようとしている。
「まっ……」
「ま……?」
「待って下さいよッ!? 今日出発とか僕ッ……何も聞いてないんですけどぉッ!?!??」
「うん、留守番して貰うから言ってない」
「置いてかれるんですか僕ッ!!??!?!?」
秘書の放った驚愕の絶叫は通り沿いに立ち並ぶ背の高い建物に反響しながら白む空へと昇っていった。時刻は早朝、出発を待つ馬車の側という事もあり多少ガヤガヤとしているがまだ静かな時間である。
「こんな時間に大声を出さない。書庫の整理がまだ終わっていないのだから当然だ、引き受けた以上はきちんと最後までやり遂げて」
「そ、そんなぁ……」
膝から崩れ落ちた秘書は懇願するような情けない顔でソウタの事を見上げていた。対してスンとした顔のソウタは傍らに立つウシオから小さな茶色い小袋を受け取ると地べたに座る秘書へポイッと投げて渡す。
「何ですか、これ……?」
「生活費。宿と食事は引き続きアルさんに頼んである、くれぐれも無駄遣いしないように」
秘書は受け取った茶色い小袋を大事そうにぎゅっと両手で握りしめると鬼気迫る迫力でソウタへ問いかけた。
「いつ戻ってくるんですか? ちゃんと迎えに来てくれるんですよね? ね?」
「……向こうの端まで見たらもちろん戻ってくるよ、どうせ帰り道はこっちなんだから」
ソウタと秘書、二人のやり取りを静かに見守っていたリデルはソウタの口から出た”向こうの端”と言う言葉に反応を示す。
「向こうの端……というと、『リーミン』かな」
「『リーミン』……ですか?」
新たな言葉に首を傾げるソウタにリデルはにこやかに頷いて答える。
「花と彩の国、リーミン。花を原料とした染料や染織物なんかを主な産業としている国だよ。リーミン産の織物は高級品としてこっちでも有名だ」
「花と彩の国リーミン……ではエステリアの次はそこを目指してみます」
第二の目的地を定めたソウタと笑顔を交わし再び深く頷いたリデルは餞別にともう一つ話を聞かせてくれた。
「私も実際に行った事はないんだけど、リーミンはこっちとは雰囲気というか……文化が随分と違うらしい。戻ってきたら色々と話しを聞かせて欲しい」
「はい、喜んで」
今一度ソウタとリデルは固く握手と約束を交わす、するとどこからともなくガランガランと鈴の音が鳴り響き警備兵の一人が高らかに開門を告げた。馬車の前に座る商人から声が掛かりソウタ達も急いで馬車に乗り込んでいく。ウシオに引き上げられるようにソウタが馬車に乗り込むのと同時にソウタの名を呼ぶ声がその背中を叩いた、ジェントである。
「あ、あの……オレ……ど、どうすればお前みたいにッ……お前みたいに、何でも出来るようになれるかな……」
素直な悩みをぶつける、大勢の前でその勇気を見せてくれたジェントにソウタは優しく微笑むと精一杯の想いを込めて言葉を紡ぐ。
「ボクも何でもは出来ないよ。ボクに出来るのは、目標に向かって精一杯頑張る事だけ。だからまずは目標を立てるといいんじゃないかな、ジェントのしたい事は何?」
ソウタの問いかけにしばし俯いて考え込んだジェントはふとソウタの後ろ、一足先に馬車に乗り込んでいた大男を見て目を輝かせ奮起した。
「オレは……でっかく強くなりたい! 強くなって皆を守って、いっぱい稼げる大人になりたい!」
「……ははっ、それじゃあまずはいっぱい食べていっぱい寝ないとね」
子供達とは余り接していなかったはずのミルドがそれでもしっかりと影響を及ぼしていた事にソウタは思わず苦笑いを零した。
「はっはっはっでっかい夢じゃないか、ご飯ならウチに任せといで! 美味いもんたらふく食わせてあげるよ!」
「あぁぁ……でも……まだそんな、お金が……っ」
ワシワシとジェントの頭を撫でるアルと両手を頬に添え悩めるモニカと、皆の笑顔溢れる光景にソウタは心から安堵した。もう少しジェントの為に何か出来ないかと考えたソウタはふとリデルを見ながら一計を案じた。
「強くなるなら……誰か師事できる人がいると心強いですよね、リデルさん」
そう言いながら何かを期待するような視線を向けられたリデルは大志を抱く少年をまじまじと観察すると呆れたように微笑んでソウタに頷いて見せた。
「ジェント君、だったかな。君さえ良ければうちで働いてみるつもりはあるかい?」
よく知らないおじさんの唐突なお誘いにジェントが呆然としているのでソウタはそっと助け船を出す。
「リデルさん、サポーター組合の所長さんだよ」
「……ッ! お願いします!」
「はっはっは、元気で大変よろしい、よろしくね」
ジェントとリデルの握手を見届けるとソウタ達の乗った馬車は静かに港町へ向け動き出した。たくさんの笑顔に見送られながらソウタは荷台に立ち手を振る皆に最後の挨拶を叫ぶ。
「それじゃあ皆さん、お体に気をつけて! 行ってきます!」
リデル、アル、ベルゴの大人三人に後を託しソウタとウシオは馬車から身を乗り出しながら皆の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
城壁を抜け石造りの橋を渡った馬車は検問所を抜け外防壁の更に外へと進み出る。これから半月かけて街道をひた走り港町へ、更にそこから船に乗り海を渡ってエステリアへ……築き上げた安定から離れソウタ達は再び未知の世界へと踏み出した。
離れゆく城壁を物憂げに眺めていると、どこからともなく現れソウタの頭の上にフワリと降り立った妖精が呑気に尋ねた。
「ねぇねぇ、次はどこに行くの? 美味しいものあるかな?」
「……ちゃんと着いてくるんだね、スイカ」
「えぇー……だめぇー?」
妖精の可愛らしくも不満げな反応に笑みを零したソウタは頭の上にそっと手を差し伸べた。
「もちろん構わないよ、一緒に行こう」
「行こー♪」
手乗りスイカをウシオの膝に乗せ……海の近くだから魚かな、まだ川魚しか見てないね、流石に刺し身はないよね、等と他愛もない話に花を咲かせながら、ソウタ達を乗せた馬車は細礫を踏みしめながら昇ったばかりの朝日に向かって駆けて行く。
荷台に張られた幌の中、不意に目を刺す光にソウタは思わず目を細める。
振り向けば……僅かな隙間から差し込む温かな光が、ソウタ達の行く先を眩しく照らしていた。
第十話、お読み頂きありがとうございます。橘月りんごです。
という事で、プロローグの後書きでも書きましたが出来上がっているのはここまでとなります。
続きは書き上がり次第投稿して参ります。安定した執筆ペースには多分なりませんがこつこつと。
改めてにはなりますがこの作品は書籍化を目指して取り組んで参ります。もし気に入って頂けましたらポイントや感想など、応援して頂けたら嬉しいです。
ここまでお付き合い下さいましてありがとうございました、今後ともエビテンをよろしくお願い申し上げます。