第九話
教会の火事から始まった一夜の騒動からここ数日の間、王都には連日シトシトと雨が降り続いていた。ジメジメと湿気を帯びた空気が不愉快に肌にまとわりついてくる。
教会のシスターモニカを付け狙っていた諸悪の根源アヴァール侯爵も腹に人形を仕込まれ命を握られているとあってはどうする事もできず、恨み言をグチグチと呟きチクチクと胃痛に悩まされながらも大人しくソウタの出した条件達成に向け粛々と各方面への指示や手続きに追われる日々を過ごしていた。
焼け落ちた教会は憲兵によって見分が行われたが放火の証拠らしい証拠はほぼ焼失、加えて連日の雨により満足に検証もできないという事で有耶無耶のまま事故として処理される事となった。
その火事を起こした張本人である侯爵の手下共はと言うと、憲兵に突き出せばこれまでの悪事を暴露されかねないという事で侯爵がそのまま私兵という形で雇う事となっていた。侯爵の突然の変わりように困惑したらしいが口止め料という名目の高給に飛びつき今は侯爵の使いっぱしりをしている。何故か白いものを見ると酷く取り乱す者が何名かいるらしい……実に気の毒な話である。
そして長年住み慣れた拠り所を突然失う事となった子供達であるが、当初は泣き喚きとても不安そうな顔で四六時中モニカにくっつき一向に離れようとはしなかった。しかし教会再建の報を受けるとだんだん新たな家がどのようなものになるのかとワクワクした様子でモニカにあれこれと質問を繰り返すようになっていった。その幼気な現金さに今は救われるばかりである。
王都に抱えていた憂いも晴れ、気持ちよく出立の準備を整えているのかと思いきや……ソウタは火事のあった夜から今日の朝にかけてずっと眠りっぱなしであった。つい今しがた目を覚ましたとウシオから報告を受け、数日振りに食堂へ下りてきたソウタへ宿の女将アルは心配そうに声をかけた。
「坊や、本当にもういいのかい……? やっぱり医者に見てもらった方が……」
「すみません、ご心配をおかけして……うちの村ではたまにある事なので本当に大丈夫です、ご迷惑をおかけしました」
少し溜まっていた疲れが出ただけです、とソウタは朗らかに告げた。実際その言葉の通りであり、ウシオ、ミト、ネネの式三人を同時に出し続けていた事が数日もの間眠り続けた原因である。
通常の依代を使った下級や中級のような人形を電池式とでも仮定すると、ウシオ達のような式はソウタというバッテリーに直接コンセントを繋いでいるようなものである。普段のウシオのように大人しくしている分には大して負担になるという事はないが、畳み掛けるようにそれぞれの異能をフル活用したとなればその負担は甚大なものとなる。大きく力を消耗した結果回復の為の休眠状態に陥った、という訳である。
突然目を覚まさないなんて事になれば当然周囲の人々は心配するわけで、火事に見舞われた子供達の事もあってかすぐに医者を呼ぼうとするアルを説得し止めるのにウシオや秘書は苦慮する事になった。
「ウシオちゃん達が大丈夫だって言うから様子を見たけど……モニカちゃんも子供達も心配してたんだから、後でちゃんとお礼言うんだよ?」
「はい。アルさんもベルゴさんも、ご心配をおかけしました。ありがとうございます……リコちゃんも」
ソウタは深々と頭を下げて謝罪と感謝を述べ、お水を持ってきてくれたリコの頭を優しく撫でた。その後朝食を頂きながら起きてきた順番にモニカ、ジェント、小さい子供達へソウタは心配をかけた謝罪とお礼を繰り返す朝を過ごした。
朝食を食べ終えた頃、カウンター越しにアルからソウタへ声がかかる。
「それで坊や、ウシオちゃんからも聞いたけど……いよいよ王都を離れるのかい?」
えー! という子供達からの非難の大合唱に苦笑いで返し寂しそうに笑顔を見せるアルへ、口に含んだ水を飲み込むとソウタは穏やかな笑顔で答える。
「はい、準備が整い次第エステリアへ向かおうと思います。そこでアルさんに折り入ってご相談があるんですけど……」
改まってなんだい? と首を傾げるアルにソウタが続きを話そうと口を開いたその時であった。お店の奥から大きなモノが倒れたような、あるいは落ちたようなドスンという鈍い音が聞こえてきた。一体何事かとアルが確認に店の奥へ引っ込んだ次の瞬間――
「――アンタッ!?」
大きなアルの絶叫が店内に響き渡りすぐさまソウタ達も店の奥へと駆けつけてみると、そこには倒れた宿の主人ベルゴと何度も呼びかけるアルの姿があった。ベルゴはとてもがっしりとした筋骨隆々の大きな体躯をしており、アルだけでは到底運べないのでミルドの手を借り急いで一階にある夫妻の寝室へと運びベッドに寝かせた。幸い意識はあるようでベッド脇で泣きそうになっているアルがベルゴの手を握りながら愚痴を吐き捨てる。
「アンタまでほんとにもう……心労でこっちまで倒れっちまうよ、勘弁しておくれ……」
ここ数日何かとバタバタとした日々が続いていた事もあり、夫妻には随分と気苦労をかけてしまっている事にソウタも改めて反省する。
「ご心配ばかりかけてしまって申し訳ありません、手伝える事があれば何でもしますのでゆっくり休んで下さい」
ソウタの言葉にベルゴはいつものように寡黙に頷き笑顔で応えた。モニカや子供達もお手伝いに名乗りを上げる中、ベルゴにゆっくりと休んでもらう為アルとリコを残し一同は食堂の方へと戻っていった。
力仕事要因としてミルドを宿に残しモニカと子供達に一旦後を任せると、ソウタとウシオは雨の中何日か振りに組合へと顔を出すべく宿を後にした。組合への短い道中、ソウタが何か考え込んでいる事に気づいたウシオが声をかける。
「ソウタ、まだどこか具合でも悪いですか?」
「ん、いや……ベルゴさんのオーラがちょっと……」
中途半端なソウタの返答にウシオは追加で問い詰める。
「そんなに悪い状態なんですか?」
「……いや、何ていうか……問題ない状態だけど滞ってる……みたいな……ほぼ健康なんだけど巡りが悪いというか……でもあれで倒れるとは……」
ソウタの答えはなんとも歯切れの悪いものであった。オーラというのは心身の状態を顕著に表すものである、巡りが悪くなれば全体的にも弱々しくなったりと連鎖するので一つの変化に留まるという事はあまり見られない。これまでの経験では測れないケースに遭遇しソウタの思考は止まらないようであった。
「心配ですね……」
どんよりとした空を見上げながらウシオが呟く。天気同様中々晴れ晴れとは行かない近況にソウタ達の胸中にもモヤモヤとしたモノが見通し悪く立ちこめるのであった。
ほんの数日しか空いてないはずなのだが随分と久しぶりな感じのする受付嬢はテンション高めにソウタ達の来訪を大いに歓迎してくれた。挨拶もそこそこに済ませ所長のリデルと話がしたいと告げると手早く所長室に確認を取り鮮やかな手際で軽やかに二階へと案内してくれた。
所長室へ入るとリデルはリデルで久しぶりに顔を合わせた親戚のおじさんのようにソウタ達を歓迎すると自らお茶まで用意してくれた。
「侯爵からの指名を伝えた時以来か、ずっと心配してたんだよ? 先日の火事では火に飛び込んで子供達を救ったそうじゃないか、お手柄だったね」
あちらこちらに心配かけてばかりだな、とソウタは心の中で苦笑するとリデルに対しても謝罪と感謝を述べた。
「その節はご心配をおかけしました。教会の子供達とはちょっとした縁がありまして、必死でした。皆無事でよかったです」
変わりないソウタの様子にホッとしたようで、リデルはソファの背もたれに体を預けながら本日の要件を尋ねた。
「それで、今日はどうしたんだい? わざわざ訪ねてきたという事は頼みたい事があるのかな?」
「はい、お伝えしたい事が一つとお願いしたい事が一つ」
話を聞こう、とリデルはテーブルからお茶を手に取り聞く姿勢をとった。ソウタの言う伝えたい事というのは近々エステリアへ向けて王都を発つという話、お願いしたい事というのは出立前に二つ星への昇級を希望したいという話である。
リデルは一つ目の話でむせそうになり、二つ目の話で思いっきりむせた。ひとしきりむせた後口元を拭いながらリデルはもう笑うしかないと言った感じに笑顔を見せた。
「いずれは王都を発つと分かってはいたけど、そうか……時が経つのはあっという間だね。わかった、すぐに手配しよう」
リデルはあっさりと快諾すると隣室を覗き込みミルドの時と同じように昇給試験の相手を探すよう部下へと指示を出しながらソウタの方へ振り返る。
「あいにくの雨だけど、日を改めて晴れるまで待つかい?」
「いえ、構いません。いつ晴れるかわかりませんし、早いに越した事はないので」
ソウタの返事を聞き指示を受けた職員はパタパタと階下へ降りていった。ソウタとウシオが揃って振る舞われたお茶を飲みながら試験相手が見つかる事を願って待っていると、階下へ下りた職員が今度はバタバタと慌てた様子で所長室へと駆け込んできた。
「しょ、所長……ッ! 大変です、男性が突然倒れて……ッ!」
報告を受けたリデルとソウタ達は一緒に急ぎ階下へと確認に向かう。組合の入り口から入って右奥にある椅子とテーブルが並んだ休憩スペースのような所で所属するサポーターの男性が一人倒れており、周囲の人々から介抱を受けている最中であった。この倒れた男性も意識はあるようで、それ程大事というような雰囲気はその場からは感じられなかった。ソウタの目に映る男性のオーラも宿の主人ベルゴ同様巡りの悪さが見て取れるがそれ以外に目立った異常は見られない。
男性の状態を確認したリデルが遠巻きに見ていたソウタ達の元へ戻ってきた。
「意識もはっきりしているし大事ないようだ、きっと疲れが溜まっていたんだね」
大した事がなくてよかった、とリデルが胸を撫で下ろす一方で、ソウタはどこか神妙な面持ちで倒れた男性を見つめていた。所長室へ戻ろうとしたリデルがソウタの様子に気付き声をかける。
「ソウタ君、どうかしたかい?」
しばらく倒れた男性の方をじっと見つめていたソウタはゆっくりと視線をリデルの方へ向け、今朝起きた宿での出来事を話して聞かせた。
「……実は今朝、お世話になっている宿のご主人も倒れたんです。その時も意識はあって大した事はないと」
「そうか……それは心配だね……。でもまぁ、きっと偶然さ。運悪く偶然が重なっただけ、そう深刻に考えなくても……」
そこまでリデルが言いかけた時、再び休憩スペースの方でガタガタンッ! と机や椅子をひっくり返し大きな音を立てて別の男性が倒れた。女性職員の一人が思わず悲鳴を上げる。リデルとソウタは揃って信じられないと言った表情で声の方へ振り向き、一瞬顔を見合わせて急ぎ新たに倒れた男性の元へと駆け出した。
新たに倒れた男性もまた意識はありオーラの巡りが悪い以外には不調は見られなかった。ただ倒れた当人曰く妙に力が入らないらしく、起き上がる事ができなくなっていた。突然二人の男性が立て続けに倒れる異常事態に先程までの楽観視した雰囲気はあっという間にどこかへと吹き飛んでしまっていた。
リデルはすぐに医者を呼んでくるようにと職員の一人に指示を出し多少の医療知識を持ち合わせた職員と共に対処に当たる。その場に居合わせた他のサポーターも協力し椅子とテーブルの並んでいた休憩スペースはあっという間に野戦病院のようなスペースへと早変わりした。
ドタバタと駆け回る人々の邪魔になっては行けないと隅っこに寄っていたソウタ達は日を改めます、と受付嬢にリデルへの伝言を頼み一度宿へ戻る事にした。
宿に戻ると食堂にはモニカや子供達と一緒にアルの姿もあった。ベルゴの様子を尋ねるとやはり力が入らないらしく、ベルゴ抜きでは今夜の営業は休む他ないと肩を落としていた。ソウタはアルヘ励ましの言葉をかけ何かあれば声をかけて下さい、と告げると一度二階の部屋へと戻っていった。
部屋へ戻り扉を閉めるとソウタはすぐさま目を閉じ意識を集中させ、街中に配置した人形の視点を借り王都全体の様子を見て回った。するとどうやら倒れて起き上がれなくなっているのは数人どころの話ではなく、街の至る所で次々と人が倒れているという異常な実情が浮かび上がった。
目をひらいたソウタは今見た王都の現状をウシオと共有する。
「やっぱり何かが起きてるんだ、王都中で次々と人が倒れてる」
ウシオは反応を窺うようにソウタの顔を見つめ控えめに問い掛けた。
「……出立の準備、進めますか?」
ソウタは一瞬ウシオの顔を見ると閉じた扉を振り返り、扉にそっと手を添えて穏やかに答えた。
「王都を発つ時は皆に笑顔で見送って欲しい……その気持ちに変わりはない。ボク達に出来る事を探そう」
ソウタの意思を確認し、ウシオも穏やかに微笑み頷いた。二人は早速現在分かっている情報を整理する。
「朝にベルゴさんが倒れその後組合でも二人が立て続けに倒れた……気の巡りが妙に悪いくらいの軽度の異常」
「病気でしょうか、何か……感染症とか……」
手前のベッドに腰掛けたウシオが可能性を提示するがソウタは首を振ってこれを否定する。
「ただの病気なら異常がはっきり気に現れてもおかしくないはず、気はほぼ健康なまま力の入らなくなる病気……こっち特有のものなんだろうか」
「この世界特有というと……精霊関係とかでしょうか」
精霊……、と呟きながら口元に手を添え考え込むソウタはふとある事に気が付き、部屋の中をキョロキョロと見回すとウシオへ問い掛けた。
「そういえば、スイカは?」
ソウタの問いを受けウシオも部屋の中をキョロキョロと見回すと頬に手を添え首を傾げてきょとんと答えた。
「そういえば…………………………ソウタが眠っていた間ずっと姿が見えなかったような……」
ものすごく長く記憶を辿ったウシオはスイカの不在にようやく気が付くと、ベッドから立ち上がり狭い隙間などを見て回り始めた。スイカはとても自由であり度々一人であっちへこっちへと出かける事がままあった。その為姿が見えなくてもあまり気にしないようにしていたのだが数日もの間姿を見ていないとなると少々気がかりである。
ウシオがベッドの敷物をひっくり返したり奥のベッドの下級人形を持ち上げたりして捜索していると、ソウタはベッドの下の僅かな隙間からひょこっと顔を覗かせているスイカと目があった。
「……そんな所で何をしているんだスイカ」
ほぼ逆さまになってベッドの下から顔を覗かせるスイカは見た事もないくらい元気がなく、まるで何かに怯えて隠れているようであった。近くまで歩み寄りベッドの下を覗き込むような体勢でソウタはかくれんぼ中の妖精へ尋ねる。
「……どうしたんだ、スイカ……怯えてるのか?」
依然出てくる気配のないスイカはキョロキョロと視線を動かすと躊躇い気味にソウタへ尋ねた。
「……雨……まだ降ってる?」
「雨……?」
ソウタは体を起こし窓の外を見る。空は依然分厚い雲に覆われ、決して強くはないものの変わりなく雨は降り続いていた。
「まだ降ってるけど……スイカ、雨嫌いだったの?」
再びベッドの下を覗き込む体勢を取りスイカへ尋ねると、しょぼくれた妖精は控えめに小さく首を振り静かにこれを否定した。
「違うなら……一体雨の何をそんなに怖がって……」
「……『澱み』」
質問を重ねるソウタへ、スイカは小さな声で、しかしはっきりと答えた。久しぶりに耳慣れない言葉が飛び出しソウタはウシオと顔を見合わせた。現在起きている王都の異変に関係があるのかもしれない、ソウタは怯えたスイカに優しく声をかけた。
「……スイカ、その『澱み』というものについて、詳しく教えて貰えないか」
そう言いながらソウタはスイカに手を差し伸べると少し躊躇いながら恐る恐るゆっくりと、小さな妖精はベッドの下から出てきてくれた。窓から遠い入り口のそばにある丸いテーブルに場所を移し、ソウタの手にピタッとくっついて離れないスイカへ改めて尋ねる。
「それでスイカ、その『澱み』というのは? 今降っているこの雨がそうなのか?」
ソウタの問いに怯えた顔で窓の外をじっと見つめていたスイカはまた首を振り否定した。
「雨じゃなくて……外からちょっとだけ『澱み』みたいな感じがするの……」
「……その『澱み』というのは悪いもの? 襲ってきたりする?」
ソウタは翻訳の法則、相手にどう伝わるのかを考えながら質問の言葉を慎重に選ぶ。スイカはブンブンと力強く首を振ってみせた。
「ううん、襲ってきたりはしないよ。あのね、『澱み』は悪い子になっちゃった精霊でとっても怖いの」
「悪い子になった……精霊? ……怖いというのは、どんな影響があるんだ?」
ソウタの知っている精霊はその辺をふわふわと気ままに漂い精霊文字に集まって水を綺麗にしてくれたりするありがたい存在である。極めて人畜無害であり悪い子になったという表現がいまいち想像できない。スイカは小さな体で身振り手振りもまじえながら一生懸命に伝えようとしていた。
「くっついた精霊は皆悪い子になっちゃって、魔獣とかがくっつくとすっっっごい狂暴になって仲間同士でも喧嘩しちゃうの」
「魔獣の狂暴化……その気配がこの雨から……? ウシオ、この雨いつから降ってる?」
「火事の翌日の朝にはもう降っていたはずです、それから今日までずっと」
ソウタはスッと立ち上がり窓辺に立つと静かに窓を開けて目を閉じた、オーラを目に集中しカッと閉じていた目を見開くと窓から身を乗り出し空や周囲を見回してみる。
「……駄目だ、何も見えない……精霊までいなくなってる」
ソウタはため息混じりに窓を閉め振り返ると歩きながらテーブルの上のスイカにもう一つ尋ねた。
「スイカ、もし人が澱みに触れたらどうなる?」
「見た事ないからわかんないけど……良くないと思う……」
澱みに触れた魔獣は狂暴化する……そこから推測するのであればあまり想像したくない状況になるのは間違いない。ソウタは腰を落として視線を合わせると最後にもう一つ、スイカに確認を取った。
「スイカ、最後にもう一つだけ。この雨そのものは澱みとは違うんだね?」
スイカはしっかりと頷き肯定した。とはいえなるべくこの雨に打たれるのは避けたほうが良いだろう、という事でソウタはウシオに頼み異能の糸から全身を覆えるフード付きの大きな外套を作ってもらった。
「人が倒れてるんじゃ人伝に情報を集めるのは難しいか……書庫へ行ってみよう」
雨に怯えているスイカには留守番を頼みソウタは受け取った外套を羽織ってウシオと共に部屋を出た。アルやモニカに雨が原因かもしれないからなるべく濡れないようにと言い聞かせ、ソウタ達は急ぎ書庫へ向け雨の中へと飛び出していった。道中もう一度目にオーラを集中させ街や水路を見回してみたが、やはりどこにも精霊の姿は確認できなかった。水を浄化している精霊文字がその効果を発揮するには精霊の存在は不可欠である。このまま王都の水質が悪化するなんて事態になれば別の病気の蔓延などにも繋がりかねない、一刻も早く状況を把握しなければとソウタ達は降りしきる雨の中水飛沫を上げながら急ぎ書庫へと駆けていった。
「あれ、珍しいですね。手伝いに来てくれた……って感じではありませんね、どうしました?」
王立大書庫に着きノックもなく突然入ってきたソウタ達を出迎えたのは秘書といつの間にか数を増やした下級人形達であった。およそ十万冊あると言われる蔵書整理の仕事を現在進行系で進める秘書であるが、情報収集を早めるのと一人では到底終わらないという二つの理由から徐々に手伝いの人形が増えていき、今では十体以上の人形が日夜ブラックに働き続けていた。書庫を訪ねてくる人はほぼいないのでソウタは人目を気にせず人形を手伝いにつけていた。万が一に備えもしもの場合は隠れるように指示を出してある。
「久しぶりに顔を見せたかと思えば、ノックもなしに血相変えてなんじゃ……腹でも下したかの?」
この王都でソウタの人形術の事を知っている数少ないうちの一人、ここ王立大書庫の司書官レーヴがのんびりとした口調でソウタへ声をかけた。
「すみません、レーヴさん。急ぎ調べたい事がありまして……」
ソウタは軽く頭を下げ書庫を訪れた事情をかい摘んで話した。穏やかに耳を傾けていたレーヴであるが、ソウタの口から『澱み』という言葉が出るとたちまちその表情は険しくなっていった。
「ふむ……澱みか……その話が本当じゃとしたらこれは、ちと厄介な事かもしれんのぅ……」
「澱みについて、何かご存知ですか?」
レーヴの深刻そうな反応にソウタが尋ねると、白く長いヒゲを垂れ下げた顎を撫でながらレーヴは視線を動かす事なく答えた。
「知らん者の方が少なかろう……誰しも両親や祖父母から良く言い聞かされるはずじゃ。街の外に出るな、澱みに触れるな、とな」
どうやら『澱み』とはこの世界では常識として知られている類のものらしい、ボロが出ていたかもしれない危うさに少しヒヤリとしたソウタだったがふとある事が気になった。
「(触れるな……? 幼少時に教訓として言い聞かせるという事は誰でも見えるのか?)」
風の妖精スイカ曰く『澱み』とは悪い子になった精霊なのだという。精霊は通常肉眼では視認できない、妖精が見えるソウタでさえ目にオーラを集中しなければ捉える事のできない存在である。見えないはずの精霊、その変性した姿に触れるなという教訓があるのは違和感があった。しかしストレートに見えるのか? という質問をすればまたあらぬ疑いを招く事に繋がりかねない。その為ソウタは聞き方を工夫しレーヴに尋ねた。
「ボクは見た事がないんですが……どんな見た目をしているんですか?」
尋ねられたレーヴはゆっくりとソウタの方に視線を向けると緩やかに目を閉じて首を振った。
「儂もこの目で見た事はないんじゃよ。ただ聞く所によると、黒いモヤのようなものがモゾモゾと蠢いておるそうじゃ……まるで生き物のようにの」
「……発生原因などは分かっていないんですか?」
次なる質問にもレーヴは静かに首を振り声には出さずに否定した。あくまでも常識として周知されているのは見た目や触れるなという教訓のみのようである。
やはり書庫の書物から情報を探るしか無いと考えを固めたソウタはレーヴへ書庫利用の許可を打診する。
「レーヴさん、整理の途中に申し訳ないのですがこの雨と『澱み』の情報を集める為に書庫を利用させて貰えないでしょうか?」
お願いします、と頭を下げるソウタとそれに続いて頭を下げるウシオ、秘書を順番に見やるとレーヴは楽しそうに笑い出した。
「ほっほっほっほ……知識は活かされてこそじゃ、好きなだけ使いなさい。集めた知識と知恵が役立つのなら、先王陛下もさぞお喜びになるじゃろう」
ありがとうございます、と笑顔を添えてもう一度、三人揃って頭を下げるとソウタは秘書と人形達に『澱み』に関する資料を集めるよう指示を出し、自身とウシオも手伝って今王都で起きている異変の原因と解決の糸口を探るべく動き出した。
その後王立大書庫の書物をひっくり返す勢いで奔走する事およそ六時間。夕暮れ時に差し掛かろうかという頃、休み休み手伝ってくれていたレーヴが寝床にしている書庫奥の生活スペースに引っ込んだのを機に、ソウタ達はこれまでに得た情報の整理をする為テーブルの周りに集まっていた。
ソウタが音頭を取り緊急報告会が始まる。
「まずは澱みについてだ」
――澱み。発生の原因及び条件は不明。精霊が関係しているかもしれないという推測があるが、視認できる事から精霊とは違うのではとの意見もあり詳細は未だ謎である。判明している事は生物が触れると体調や精神に異常をきたすという性質。植物の場合も同様でありその変化は緩やかであるものの大きな樹木の枯死する様子が確認されている。特に気を付けなければならない点は魔獣が澱みに触れた場合である。魔獣が触れた場合体内の精霊結晶そのものが澱みの侵食を受け結晶内に蓄えられた精霊もろとも澱み化してしまう。このように澱みに侵され精神に異常をきたした魔獣を『狂乱』状態と呼び、その暴走は命が尽きるまで終わる事はない。過去には大型の魔獣の狂乱により一都市が壊滅的な被害を受けた記録も残されている。子供の頃からよく言い聞かせるべし、澱みに触れるな。
「回復手段も記述なし。澱みに関してはほぼ何も分かってないのと同じだな、新しい情報と言ったら『狂乱』くらいか……」
そもそも視認できない精霊に関する情報である事、そして触れてはならないという性質上詳細な記録や資料が少ないのは当然の事である。期待したような成果は得られずソウタは歯がゆさを滲ませた。そんな中秘書が別方向のアプローチから興味深い資料を見つけたと嬉々とした様子でとある書物を開いてよこした。それは伝承などを記したもので、その中にはこんな記述が残されていた。
――水の神と災いの雨――
ひと月もの間雨が長く降り続いていた中、次々と人々が倒れるという異変が起こる。病気だ呪いだと騒いだ人々は天に祈りを捧げ救いを願った。すると長雨により荒れ狂っていた川がうねりを打って起き上がったかと思うと、その大きな長い身体を翻して天に昇って行き分厚く覆いかぶさった雨雲を瞬く間に晴らしてみせたという。雨が晴れると倒れた人々は何事もなかったかのように元気を取り戻した。これ以降人々は雲を晴らした彼の者を川の神、水の神と崇め奉り、日々欠かさず祈りを捧げ続けたという。
「災いの雨……確かに同じだな……違いは雨の期間くらいか」
現在の王都の状況と重なる内容にソウタは書物の内容に注意深く目を向けた。
「興味深いのは次のページに描かれている挿絵なんですよ!」
ソウタが真剣な目で記述に目を落としていると秘書が得意気に次のページへ進むように促した。ゆっくりとページを捲るとそこには祈りを捧げる人々と、その視線の先に天に昇る水の神の姿が古臭いタッチで描かれていた。その水の神の姿に思わずソウタの心臓がドキッと跳ねる。ウネウネと身体をくねらせ、鋭く天を睨み、長いヒゲをなびかせて雄々しく天に昇りゆく様はまさしく龍である。
「どっからどう見てもこれ龍ですよ、龍! 水の神様、龍なんですよ!」
「(龍……まさか本当にいるのか……?)」
テンション高めの秘書とは対照的にソウタは口元を抑え狼狽えるような様子を見せた。
この異世界に来た時、ソウタには任務とは関係のない個人的な期待があった……それが龍の存在である。地球上には存在しない空想上の生物、龍。ソウタがこれまでに見せた式、ネズミ、ウシ、ウサギ、ヘビ……これらの並びから何となく予想が付いた人もいるかもしれないが、式は十二支になぞらえた動物から成っている。しかし龍は現実には存在しない為ずっと空席にせざるを得なかった。人形で龍の姿を象り聖域の番人ガルドに見た事はあるかと尋ねたのも、僅かにその存在を期待をしての事である。任務がある為優先順位としては低いものの、もし龍がこの世界に存在するのなら是非とも式に迎えたいという強い思いがソウタにはあった。
しばし口元を抑えたまま微動だにしなかったソウタだが、スッと手を下ろすとはっきりとした口調で断じた。
「今考えるべきはどうすればこの異変を解決出来るかだ。龍の存在、その可能性が見えたのは素直に嬉しいが、それは後でいい」
毅然としたソウタにテンションの高かった秘書も一瞬で態度を翻し、小さく縮こまって反省を示した。ソウタは改めてページを戻り伝承の記述へと目を向ける。
「瞬く間に雲を晴らした……雨が止めばいいのか、あるいは陽の光が必要なのか……」
ソウタがブツブツと呟きながら思考を巡らせているとウシオが素朴な疑問を投げかける。
「あの分厚い雲をどうやって払ったんでしょう……ソウタ、できますか?」
ウシオの疑問を受けソウタはピタリと動きを止めると、少し思案した後ゆっくりとウシオに視線を向けぼやくように口を開いた。
「……無理かな」
例えばの話、ものすごく大きな人形を作り風船のように大量の空気を取り込ませて吹き付ける息の勢いで雲を吹き飛ばす……やろうと思えば恐らく可能だがあまりにも目立ちすぎる。山よりも大きな白い塊が息を吹きかけて雲を晴らした……新たな伝承として後世に語り継がれる事だろう。
また口元に手を添えて雲を払う方法を模索するソウタへ、ウシオが問いかける。
「あの指を弾く技ではできないんですか? 樹の皮が弾けていましたしあれをもっと大きくすれば……」
この案にソウタは小さいため息交じりに力なく首を振った。右手人差し指を立て指先にオーラを集中させながらソウタは語る。
「現状ボクの力では射程十メートルくらいが関の山だ。それに雲を消し飛ばす威力となると……とてもじゃないけど圧縮状態を維持できない。多分途中で弾けて自爆する事になる」
異世界に来て人形に頼らない力の使い方を模索する中でソウタが編み出した技――穿点。指先に集め圧縮したオーラの塊をそのまま弾き飛ばして相手にぶつける、という単純な技である。しかし単純であるがゆえにその扱いは存外難しく、オーラを一点に圧縮する力と速度、圧縮した状態を維持する力、圧縮したオーラを身体から離す技術に離れた力の圧縮を維持する力と、中々に忙しい技である。ソウタがこの技を生み出し鍛錬を積み始めてからまだひと月程度、まだまだ洗練された技とは言えない段階であった。
指先に固めたオーラの圧縮を解き、ため息を吐きながら右手を下ろすと目を閉じて人形の目を借り宿にいるモニカ達の様子を窺う。依然倒れた主人ベルゴの姿は見えないが、子供達も手伝って一緒に夕食の準備に取り掛かる所のようである。
目を開くとソウタはテーブルの上を埋め尽くす書物の山に小さくため息を吹きかけた。
「この辺で一旦切り上げよう、宿の方も気になるし続きはまた明日だ」
そう告げると片付けを秘書と人形に丸投げしソウタとウシオは一足先に書庫を後にした。途中少し寄り道をしてウシオの希望であるエプロンドレス用の布をいくつか買い込んだ。エプロンドレスの事を考えている時のウシオは少しテンションが高い、布の入った袋を大事そうに懐に抱え鼻歌交じりに家路に着くのであった。
雨が振り始めてからおよそ一週間が経つ頃。数日前までシトシトと静かに降り注いでいた雨足は日に日にその強さを増し、降り止む気配は微塵も見られなかった。倒れた人々の数も増加の一途を辿り今では王都住民の十分の一ほどまで広がりを見せていた。訪問診療に出向いた医者まで倒れる始末である……何かが起きている、と王都住民の間でもじわじわと不安の波が広がっていた。
そんな中ソウタ達も宿と書庫を往復しながら人形も駆使して情報収集を続けていたが、新たにわかった事と言えばこの雨雲が王都周辺にしか掛かっていないという事、そしてこの雨雲が北の山脈から流れてきているという事程度であった。肝心の澱みの払い方などは依然見つかっておらずソウタ達は手をこまねくばかりの状況に危機感を募らせていた。
宿の自室にて、窓にバチバチと打ち付ける雨粒をソウタが眺めているとベルゴの看病の手伝いからウシオが戻ってきた。すかさずソウタが尋ねる。
「ベルゴさんの様子は?」
「芳しくありませんね、雨が強まるに連れ日に日に容態が悪くなっているように感じます」
宿の主人ベルゴが倒れてからソウタは折を見てオーラを整えたりウシオのミルクを飲ませたりと色々試しては見たものの結果は思わしくなかった。だが理由そのものは分かっていた。精霊を捉える目でベルゴを見た際モヤのようなものがその身体を包み込んでいるのが見えたのである。しかしオーラとは違いソウタでもそのモヤには干渉する事ができなかった。
「あのモヤを払う方法さえわかれば……」
「伝承の水の神様というのも現れませんね……」
二人して難しい顔を突き合わせていると階下から来客の話し声が聞こえてきた、どこか聞き覚えのある声である。アルの呼び声に応えソウタが扉を開けて廊下に出ると階下の食堂にはサポーター組合の所長リデルともう一人、知らない青年が傍らに立っていた。ソウタに気づいたリデルが二階を見上げながら声をかける。
「おはよう、こんな早くから急に押しかけてしまってすまない。ミルドさんに話があるんだけど少しいいかな?」
ソウタはもちろんです、と笑顔で返し泊まっている二階の部屋にリデル達を招いた。奥のベッドに鎮座していた下級人形をソウタは慌ててベッドの下に隠すと、小さな丸テーブルに椅子二脚、ベッド二台の慎ましい部屋に大の大人が四人と子供一人という何とも息の詰まる状況になった。来客を椅子に座らせソウタ達はベッドに、ミルドは立ったままで話は始まった。
最初に妙に緊張した様子でやけに落ち着きのないリデルが切り出した。
「朝早くから本当にすまないね、実はミルドさんに王宮から直々の指名依頼が来たんだ」
リデルの言葉にその場の視線がミルドへと集中した。ミルドは一ヶ月に及ぶ行商護衛において目覚ましい活躍を見せたらしく、その名が王宮にまで轟いていたとしてもなんら不思議ではない。リデルと一緒に来た青年は王宮からの依頼を届けに来た使用人との事であった。リデルの緊張の理由はおそらくこれだろう……先程からリデルの視線が青年とソウタを行ったり来たりしていた。
その後続けて聞いた依頼の内容にソウタは驚き目を丸くした。要約するとこうである――
――『水の神を討伐せよ』――。
あまりに突然の、あまりの内容にソウタも困惑せずにはいられなかった。情報を整理する為にもソウタは疑問を投げかける。
「あの、ボクも災いの雨に関する伝承は書庫で見ました。水の神というのはこの雨を晴らしてくれる存在ではないのですか?」
「本来であればそのはずです。しかし今回の雨はどうもその水の神自身が降らせているようなのです」
使用人の青年はハキハキとしっかりした口調で答えた、そのオーラに嘘をついている様子は見られない。ソウタは青年をつぶさに観察しながら質問を続ける。
「そもそも神と呼ばれているものを倒せるのですか? 仮にできたとして、倒してしまって大丈夫なのでしょうか?」
「神というのは建前で実際は魔獣の一種だそうです。非常に強力な魔獣だと伺っていますが倒してしまっても問題はありません」
この回答にも嘘はない、少なくともこの青年の知っている知識では水の神は魔獣であり問題もないらしい。
「王宮には確か元三つ星のサポーターの方が数名いらっしゃると聞いた覚えがあります、何故この依頼がミルドの元に?」
「その……お恥ずかしい話なのですが、全員数日前にこの雨で倒れてしまいまして……今頼れるのはミルド殿しかいないのです」
申し訳無さそうに答える青年のオーラに微かに嘘が滲んだ……しかし今は指摘せずソウタは更に質問を重ねていく。
「雨を降らせている水の神を打ち倒せばこの雨が止むとして、倒れた人々も元気を取り戻しこの異変は治まるんでしょうか?」
「そのように伺っています、ですので一刻も早くかの魔獣を討ち倒さなければなりません」
そう拳を握りしめミルドに向かって力強く語る青年に嘘はなかった、心からの言葉である。ソウタは最後に一つ、確認の為の質問をした。
「もう一つ、水の神がこの雨を降らせていると、王宮はどのような手段で知る事が出来たのでしょうか?」
「えっと……すいません、それは私ではわかりません。依頼内容の確認に必要でしょうか?」
「……いえ、余計でした。ありがとうございます」
青年の警戒心を刺激してしまったようなのでソウタは大人しく引き下がる事にした。少しの沈黙を破りリデルが報酬の話へと繋げる。
「も、もし依頼を達成してくれたなら報酬はなんと大金貨三枚! とんでもない破格の報酬だ」
現在王都では取り扱っていないが三つ星の依頼の平均的な報酬は小金貨数枚程度らしい。小金貨十枚で大金貨一枚なので実に十倍近い報酬という事になる。金額的には申し分無いもののさほどお金に興味のないソウタは口元に手を添えやや考え込むと指を一本立てて見せ提案を投げかけた。
「報酬を一つ追加しては頂けませんか?」
リデルと青年は驚き意外そうに顔を見合わせた、二つ返事の快諾を期待していたようである。通常の十倍の報酬となれば普通はそうなるのであろうがそんな事はお構いなしにソウタは淡々と追加報酬の希望を告げた。
「昇級試験を免除して彼を、ミルドを三つ星に認定して頂けないでしょうか」
リデルも青年も大層驚いたようで二人はしばらく絶句していた。やがて青年とリデルが続けて口を開く。
「だ、大金貨三枚というのは一般庶民の年収に匹敵します、それでは不服ですか……?」
「あー……一応理由を聞いてもいいかな、ソウタ君」
動揺にこわばる二人の顔を見ながらソウタは立てた指を二本に増やすと口元に穏やかな笑みを浮かべながら語りだした。
「もちろん不服とまでは言いません、理由は二つ。一つは手間を省く為、この異変が治まればすぐにでも王都を発ちたいので三つ星への申請だの試験だのといった面倒をせっかくのこの機会に省きたい」
「も、もう一つは……?」
リデルの相槌と咳払いを一つ挟みソウタは淡々と穏やかに続けた。
「もう一つは……神と呼ばれるほどの魔獣を倒そうというのですから、それだけの実績を経て報酬がお金だけだなんて味気ない」
如何でしょうか? とソウタは立てていた指を降ろしながら堂々と告げた。その様子が慇懃無礼に映ったようで青年のオーラはじわじわと怒りの色を滲ませていた。
「王宮からの直々の指名という栄誉になんという……あなたには恥というものがないのですか?」
その発言から青年の考え方を理解したその上で、ソウタはあっけらかんと言い放つ。
「我々は旅のよそ者ですので、そういった事には興味がありません。三つ星の認定が頂けるのであればお金はなくても構いませんが」
バチバチと視線をぶつけ合い白熱する青年とソウタの間で仲裁に入ろうとあたふたしているリデルをよそに、二人の言い合いは尚も加速する。
「交渉できると思っている事が不敬だと言っているのです。王宮の決定に異を唱えている自覚がないのですか?」
「それを依頼とは言いません、命令です。依頼とは双方合意の上で結ばれる契約ですので、一方的に決められるものではありません」
「建前すらわからないとは……呆れ果ててものも言えません。高度な社会を知らないと王宮の権威も理解できませんか」
「人の動かし方も知らない権威があるのですね、それは知りませんでした。でしたら権威で動く王宮の元三つ星を使っては如何でしょうか?」
「ふっ記憶力もないのですね、彼らは全員倒れて動けないと――」
「いいえ」
ここでソウタは青年の言葉を遮りピシャリと断じた。先程まで口元に浮かべていた笑みも既にない。鋭い眼光とは裏腹に穏やかな口調でソウタが続ける。
「まだ動ける方がいますよね?」
首を傾け下からねめつけるようにソウタは青年を見つめた。小さな少年とは思えないその眼力と圧に青年も思わずたじろぎ息を呑んだ。唯一の嘘を見抜かれた事もあり青年のオーラはひどく動揺の色を見せている。ソウタは姿勢を正すと軽い咳払いで場の空気を払い神妙な面持ちで口を開いた。
「王宮の事情はどうあれ依頼の内容は承知しました、謹んでお受けしますとお伝え下さい。一応三つ星認定の話も伝えて下さいね」
ソウタの圧に圧倒され呆然としていた青年は急に改まったソウタの言葉を受けて我に返り慌てて言葉を返す。
「ぁ、い、依頼はミルド殿に送られたものです、あなたではありません……!」
「今はボクが彼の主人です、判断はボクが下します。それとリデルさん、ボクの二つ星昇級の件なんですが……」
サラリと流され絶句している青年の隣で突然話を振られ話に着いて行けてないリデルは愛想笑いを浮かべ冷や汗を垂らしたまま応える。
「え、あ、ああ、なんだい……?」
「試験は後日改めて受けるので、今すぐ二つ星にして頂く事は可能ですか?」
「あ、あー……? うん、ソウタ君も忙しいよね、試験は後で今すぐ…………今すぐ……え……?」
ゆっくりとソウタの言葉を噛み砕きようやく理解が追いつくとリデルは愛想笑いが引きつったような顔でソウタの真剣な顔を見つめ絞り出すように言葉を紡いだ。
「二つ星、今すぐにって……まさかソウタ君……着いて行くつもり、なのかい……?」
「二つ星になれなくても着いては行きますが」
開いた口が塞がらないリデルと青年、それとは対照的にウシオやミルドの口元には笑みが浮かんでいた。ソウタも改めて笑みを浮かべると威勢よく啖呵を切ってみせた。
「元より見聞を広げる為の旅ですから、神なんて呼ばれる魔獣がいるとなればこれを見ずには帰れません」
地球には存在しない龍を式に加えるチャンスを近くで窺いたいと言うのが本当の所であるがそんな事とは露知らず、リデルはソウタの啖呵に緊張が吹き飛んだのか突然大きな声で笑い出し青年を驚かせた。
「ふっふふふっ……、はっはっはっはっはっ! はぁ、久しぶりに気概のある若者を見た気がするよ、やっぱりその歳で旅をする人は言う事が違うね」
「わ、笑っている場合ですかリデル殿、自殺行為だ! その辺の小物とはわけが違うのですよ!?」
リデルはひとしきり笑うと腹を抱えながら息を整え、滲んだ涙を拭い姿勢を正すと笑顔で答えた。
「臨時特例として、所長リデルの名の下にソウタ君の二つ星昇級を認めます。徽章はこの後取りに来てね」
「はい、ありがとうございます」
「リデル殿ッ!?」
一人だけ置いてきぼりになった青年が不満を露わにする中、一切意に介する事なくソウタは淡々と話の続きを始めた。
「それで、水の神と呼ばれる魔獣はどこにいるんでしょうか?」
すっかりソウタに心を乱された青年は腹に据えかねた様子でソウタを睨みつけるとフンッとそっぽを向きそのまま黙ってしまった。見た目二十代前半位に見えるが思ったよりも若いのかもしれない。そんな子供っぽさを見せる青年にソウタは無遠慮に意地悪に、鋭く棘を刺す。
「王宮からの依頼にボクは受けるとお答えしました。ここで説明を放棄するとなると……おや、まさか王宮の権威に逆らうおつもりなのでしょうか?」
「ソウタ君……あんまり煽らないで……ッ」
冷や汗を垂らすリデルがソウタをたしなめているとそっぽを向いた青年はワナワナと震えながら大きく息を吐き、再びソウタを睨みつけながら鼻息荒く、渋々口を開いた。
「……水の神は北の山脈のどこかにいる。準備ができ次第西門に行け、馬が用意してある。三つ目の砦近くから山に入れる」
「わかりました、ありがとうございます」
怖い顔の青年にソウタは穏やかな笑顔でお礼を言うとスッと立ち上がりリデルへ告げる。
「一刻を争うと思うのですぐに出ます、今から徽章を受け取りに伺えますか?」
「あ、ああ、もちろん。すぐに用意しよう」
リデルは笑顔で応え外套を羽織ると一足先に部屋を飛び出し組合へと駆けていった。ソウタ達も白い外套を羽織り部屋を出るとアルやリコ、モニカと子供達へ事情を話し数日王都を空ける事を伝えた。ソウタとウシオも着いて行くと聞いて皆が一様に不安そうな顔を見せる中ただ一人、ジェントだけが力強い言葉でソウタを送り出してくれた。
「こっちの事はオレ達がどうにかするよ、だから心配いらないぜ」
そう語るジェントのオーラにも決して不安がないわけではない、しかし今はその想いを頼らせて貰う事にしソウタは頷き笑顔で応えた。
「ありがとう、ジェント。アルさん、一応書庫にアレも残ってますので何かあればこき使って下さい」
「……ああ、坊やもウシオちゃんも気をつけるんだよ。帰ってこないと承知しないからね!」
アルの喝にも笑顔で応え行ってきます、とリデルの待つ組合へと足を向けようとしたその時、待て! という声がソウタ達の背中を叩いた。振り向くと声の主は二階の廊下からソウタ達を見下ろしていた青年であった。不本意な注目を浴びてしまいどこか気まずそうな複雑な表情を見せてていたがフウと一息吐くと意を決し、青年は階下のソウタ達へ頭を下げた。
「先程は失礼した、どうか……よろしく頼みます」
「……こちらこそ失礼致しました、必ず雨を晴らしてみせるとお伝え下さい」
青年が頷くのを確認し、ソウタは子供達の声援に背中を押されながら降りしきる雨の中へと飛び出していった。
組合に着くと一足先に戻っていたリデルが二つ星の徽章を乗せた小さなお盆を手に入り口でソウタ達の到着を待っていた。ソウタはすぐさま胸に付けていた一つ星の徽章をお盆に乗せて返却しその手で二つ星の徽章を受け取る。ミルドと同じ二つ星を眺めソウタはリデルへ頭を下げた。
「ありがとうございます、無茶を言ったようで申し訳ありません」
「構わないさ。護衛付きとは言え旅をしているくらいだ、戦える事は立ち居振る舞いからも見て取れるよ」
これでも所長だからね、とリデルはおどけたようにお茶目に笑った。返却された一つ星の徽章の乗ったお盆をカウンターに置きながら今度はウシオにも声をかける。
「ウシオさんも着いていくんだよね……?」
「はい、もちろん」
穏やかに笑みをたたえるウシオの横からソウタは胸に新たな徽章を付け直しながらサラリと補足する。
「ボクより強いので大丈夫ですよ」
「あー……そう、なんだ……はは、人は見かけによらないね」
愛想笑いとも呆れ顔ともつかない表情のリデルにウシオはいつもの笑顔を向けていた。
徽章を付け直したソウタは外套のフードを被り直しリデルへ出発の挨拶を送った。
「では、行ってきます」
「三人とも、気を付けて」
簡素なやり取りだがお互いに頷き合いソウタ達はいざ西門に向け組合を後にした。
ソウタ達が急ぎ円形商店街の中を駆け抜けようとしていたその時だった。バチバチと石畳を叩きつける雨音の中におーい! と言う低い呼び声が聞こえた気がした。雨音に加えフードもしている為聞き間違いかとも思ったソウタだが念の為周囲を見渡してみると、水飛沫の向こうで手を振ってソウタ達を呼んでいる人影が見えた……ミルドの装備を依頼した装備品店の店主である。急ぎ駆け寄ると店主はどこかホッとした様子でソウタ達を迎え入れた。
「……お前さんら、外に行くのか……なら丁度良かったな」
「……分かるんですか?」
外套についた水滴を払いながらソウタは店の奥に入っていった店主へ尋ねた。奥から店主の大きくぶっきらぼうな返事が店内に響き渡る。
「こんな商売やってりゃあな! 目や顔つきを見りゃ大体察しが付くってもんだ!」
店の奥から店主は大きな包みを両手いっぱいに抱えて戻ってきた、一部細長い棒が飛び出ている。会計などを行うカウンターにドサッと置くとその包みを開きながら店主はミルドへ告げた。
「そのボロじゃもう心許ねえだろう、こいつに換えて行け」
そう言って開いた包みの中にはミルドの為に作られた新品の防具と剣が入っていた。磨き上げられた胸当ての金属プレートがキラリと輝いている。ソウタ達も思わずおぉ……、と感嘆の声を漏らす。
「旦那のでけえ身体に合わせて作った一点物だ。そのサイズの合ってねえボロに劣るってこたぁねえはずだ、持っていきな」
「本当にいいタイミングです、ありがとうございます」
ソウタは深々と頭を下げ感謝を伝えると、ソウタとウシオも手伝い急ぎミルドの装備を換装する。浮浪者のようなボロ布と亡骸から頂戴した防具を脱ぎ捨て、新たな服と防具を身に着けたミルドは実に良い戦士の風貌となった。強面は健在だが怪しさはもう感じられない。右腰には追加注文した小剣も据えられている。店主がニヤリと笑みを浮かべ得意気に語り出した。
「少しでか目の片手剣の形を整え直して柄の部分を長くした。握りも少し太めにしてある、旦那の手にゃあ丁度いいだろ」
どう? とソウタが剣の具合を尋ねるとミルドは小剣の柄を撫でながら黙って頷いてみせた、人形なので相変わらず愛想はないがその表情はどことなく嬉しそうにも見える。
三人揃って改めて店主へ深々と頭を下げ感謝を伝えるとソウタはウシオから小金貨三枚を受け取り店主へと差し出した。店主は頬杖を付きながらぶっきらぼうにそれを受け取ると、手の中の小金貨を見つめながら遠い目をして笑みをこぼした。
「……前にも言ったがよ、うちには大したもんはねえ。けど久しぶりに熱の入った、やりがいを感じる仕事ができた……こっちからも礼を言う、ありがとよ」
そう語り拳を強く握りしめる店主と笑顔を交わしたソウタ達は、ミルドの古い防具の処分を店主に頼み三度感謝を伝え店を出ると白い外套を翻し急ぎ西門へと駆けていった。
王都西の端、城門に辿り着くとそこには数台の馬車と数名の兵士達がミルドの到着を待ちわびていた。王宮からの直々の指名依頼、断るという選択肢を一切考慮せず準備万端な辺りがなんと言うか流石である。兵士の一人が駆け寄ってくるミルドに気が付き馬車の中に声をかけると馬車から一人だけ意匠の違う偉そうな兵士が降りてきた。指揮官らしきその兵士は到着したソウタ達へ手短にこの後の流れを説明してくれた。
この先西の街道にはここと同じように雨に濡れないように馬車に乗せた馬と兵士が点々と待っているらしい。それらを中継して馬を乗り継ぎ通常三日かかる三つ目の砦までの道程を一日で駆け抜けてもらう、との事だった。馬は乗り継ぐのでいいとしてもこちらはこの雨の中を馬に乗りっぱなし走りっぱなし、ソウタ達なので何ら問題はないが常人であったなら中々の鬼畜の所業である。
ソウタとウシオも同行するという事で兵士達と一悶着が起きたが軽くあしらい、二頭の馬を借りてソウタ達はそそくさと王都を出発した。時刻は地球で言う所の朝の九時を回った頃である。
王都西側には穏やかな平原が広がっている。多少の起伏はあるもののほぼまっ平らと言って差し支えのない草原の向こう、数百メートル離れた南には南部の崖に沿って広がる大きな森が、北側には今にも倒れてきそうな程の圧を感じる高い山々が悠然とそびえ立っている。西側街道はこの北側にある山脈に沿うように作られているようで、東側同様細礫を敷き詰めた舗装路がなだらかな緑の中をどこまでもまっすぐに延びて行く情景は平時であれば風を感じながらいつまでも眺めていたいような、そんな風情を感じさせる。
しかし今は有事、しかも大雨の中である。午前中にも関わらず分厚い雲に陽の光は遮られ周囲はどんよりと薄暗くなっている。強烈な雨によって見通しも悪く、もし王国軍によって西側の魔獣が減らされていなければ地獄のような道程になっていた事だろう。とは言え全く魔獣がいないと保証されているわけではない、ソウタ達は魔獣の襲撃に細心の注意を払いながら高らかに馬の足音を響かせ駆け抜けていった。
三十分ほど走っては中継馬車で馬を交換してまた走ってを繰り返す。一つ目の砦を過ぎ、二つ目の砦を過ぎ、魔獣の襲撃を受ける中継馬車を助けまた走る。順調に、ただただひたすらに走り続けるコト実に八時間以上、ソウタ達はようやく登山口に近い三つ目の砦へと到着した。この辺りまで来ると王都周辺にだけ掛かる雨雲の範囲を抜けており、ソウタ達は久しぶりの空を見上げ小さなため息を溢した。
三つ目の砦は他の砦と比べてやや大きい造りをしており、警備だけとは思えないくらい大勢の兵士が出迎えてくれた。農村から王都に向かう際に立ち寄った砦と比べると三倍四倍はいるだろうか、皆一様に緊張感があり士気も高そうだが妙に殺気立ってもいた。一人ズイッと歩み出た砦の責任者を名乗る男性と軽く挨拶を交わし、ソウタ達はこの後の段取りについての説明を受けた。
入山は明朝夜明けと共に、二つ星サポーターのミルドを先頭に『王国軍二個小隊が随伴し』魔獣征伐作戦を決行する……と言う内容である。さっさと食事を済ませ与えられた部屋に引きこもるとソウタは早速頭を悩ませた。
「まさか着いてくるとは……通りで兵士が多いはずだ……どうしたものか……」
部屋に入るなり狭い室内に一台だけ置かれた質素なベッドにドスッと腰掛けソウタは小さくため息を吐く。後から隣へ静かに腰を下ろしたウシオがソウタの頭を撫でながら声をかけた。
「彼らが着いてくるとなると……我々は参加できませんね」
「……それにあの指揮官が言った征伐という言葉も少し気になる」
どういう事ですか? とソウタの頭を両手で撫で回しながらウシオが尋ねる。
「罪人や反逆者、反抗する者に兵を出し攻め討つ事を征伐という。ただ野生の魔獣を討つなら討伐と訳されるはずだ」
翻訳の法則、最も理解のしやすい形で聞こえるというものである。つまり水の神と王国には以前から何らかの関わりがあった可能性がある。
気になる事は他にもある、とソウタは隣に座るウシオに引き倒され柔らかな太ももに頭を乗せて膝枕の姿勢を取りながら、そのまま構わず話し続けた。
「依頼を持ってきた青年の嘘は王宮にいる元三つ星は全員倒れた、というものだけだった。倒れてはいる、けれど全員ではない……それ以外に彼の語った内容に嘘はない」
ソウタが青年から得られた情報は五つ。
一つ――水の神が雨を降らせている。
二つ――水の神は魔獣であり倒しても問題はない。
三つ――王宮の元三つ星は倒れた者もいるが一人以上健在である。
四つ――水の神を討てば倒れた人々も元気を取り戻し異変は治まる。
五つ――王宮は澱みと雨と水の神の関係を早期に把握している。
「その中で最も気になっていたのは五つ目、雨を降らせているのが水の神だと王宮はどのように察知したのか。もし仮に、王宮と水の神の間に何らかの繋がりがあったのならある程度納得はできる」
膝枕の姿勢で腕組みをしながら語るソウタの頭を撫でながらウシオは一つ問いかけた。
「王宮が青年に嘘を教えた、という可能性は?」
「それはもちろんある。もしかしたらこの雨の原因が王宮にある可能性すらある、けどボク達にはそれほど関係はない」
ソウタはスッと目を閉じるとそのまま眠ってしまった……かと思いきや、長考の後おもむろに目を開けると喫緊の懸念を説く。
「直近でボク達が考えるべきなのは二つ、かな。王宮が遠見の力を持っているかどうかと、着いてくる二個小隊をどう撒くか」
「遠見……?」
胸が邪魔でソウタの顔が見えず横から覗き込もうとしながらウシオがハテナを浮かべていると、見かねてソウタは体を起こしそのハテナに答えた。
「ミルドの元に依頼が来るまでの時間、雨が振り始めてから一週間だ。王都からこの砦まで通常三日かかるとなると、どう考えても早すぎる」
「なるほど……遠くを見られるなら水の神の異変もすぐ察知できますね」
今度は頭をぎゅうっと抱きしめられ豊満な塊に右頬を圧迫されながらソウタは遠見についての私見を述べた。
「ただ遠見については正直杞憂であって欲しい、見られたくない事がボク達には多すぎる」
「兵士の方々を撒く算段はついているんですか?」
「んーまぁ……行きあたりばったりにはなるけど……最悪謎の白い魔獣にでも襲われてもらえばいいかな」
ソウタを抱きしめたままユラユラと身体を揺らすウシオにされるがまま、ソウタは思考の海へと意識を沈めてゆく。
「(王宮側の人間が雨の降り始め時点で水の神の側に居たと仮定すれば時間は片道分で済む、遠見じゃなくても一応可能か……)」
「(人が倒れる事と雨の関連性は王宮も把握しているわけだから、澱みを検知する能力はあると見ていい。精導術に長けた者もいるという事だし不思議でもないか……)」
「(ミルドを使う理由はなんだろう……よそ者だから様子見の使い捨てか、あるいは品定め? もう少し王宮の調査やっとくべきだったかな)」
「(もし……万が一本当に王宮に遠見の力があって見られているとしたらどうする? 水の神との戦闘を見られたら考えられる影響は……)」
「ソウタ……ソウタッ」
思考の海に深く深く沈んでいた意識が呼び声に応え浮かび上がってくると、いつの間にかソウタはウシオの膝の上に抱えられ向かい合って頭を大きな胸の谷間に挟まれていた。鼻先がくっつきそうなほどウシオの綺麗な顔が近い。
「……ごめん聞いてなかった……なに?」
見上げるように僅かに首を動かしながら聞き返すソウタへ、ウシオは身体を前後に揺らしながらどこか嬉しそうに無邪気な笑顔を浮かべていた。
「辰が加わればいよいよ十二支完成が見えてきます、楽しみですね」
子供をあやすようにゆっくりと身体を揺らすウシオの顔を見つめながらソウタは全身から緊張が抜けていくのを感じていた。また考えすぎていたんだな、と一人胸の内で反省し微笑んで返す。
「まだ加わってくれるとは決まってないよ」
心地よいウシオの腕の中で大きく深呼吸をするとソウタは目を閉じ初心に返ってごちゃごちゃとした頭の中を整理する。
現在の最優先はこの異変の解決、その為の水の神討伐。随伴する王国軍を何らかの手段で足止めしソウタ達だけで水の神の元へ、殺してしまわないよう注意し可能であれば式に加える。実現の為には王宮の目を気にしている余裕はない、この際王宮の事はしばらく置いておく事にし目の前に集中する。
閉じていた目を開きスッキリとした顔でソウタはもう一度ウシオの顔を見上げ穏やかに声をかけた。
「明日は大変な一日になる、少し早いけどもう休んでおこうか」
「はい、そうしましょう」
簡素なベッドに下級人形の敷布団を広げ懐中時計のゼンマイを巻いて、ソウタはウシオに抱きしめられたまま床についた。扉の向こうから微かに届く兵士達の足音や話し声を子守唄に、二人はゆったりと微睡みへ身を委ねるのだった。
翌日の朝。ソウタ、ウシオ、ミルドの三人は白い外套をはためかせながら登山道の折り返し地点である尾根に立っていた。登山道は砦近くから山の斜面を西へ斜めに進みまずこの尾根を目指す。そこから尾根を回り込んで再び反対側の斜面を東へ斜めに降りていく、という作りになっている。登山道の途中までは樹木も生い茂る森の中を進む事になるがあるラインから徐々に草木がなくなり荒涼とした山肌が露わとなっている。ソウタ達のいる尾根はそんな草木のなくなる高さにあり、そこから望む事のできる景色は正に圧巻の一言であった。見渡す限り空の果てまで続く山々の中には雲を貫く高さのものも見られ、そんな山々に降り注いだ雨水が谷間を駆け巡り川沿いに豊かな緑を育んでいる。
本当に感動を覚える程の絶景なのだが、惜しむらくは天候に恵まれなかった事だろう。……そう、王都にだけかかっていた雨雲は徐々にその範囲を広げ、遂にはソウタ達のいる西第三砦周辺にまで災いの雨をもたらしていた。雨が振り始めたのは夜が明ける少し前、出発の直前というタイミングだった。雨への対応を迫られ出発の準備に手間取る王国兵を尻目に、ソウタ達は一足先に砦を発ち辿り着いた尾根から山脈を見渡して現在に至る。ソウタ達の後ろには後に続く王国兵の隊列が蟻の行進のように伸びていた。重い装備と荷物を抱えての山道であり、その隊列は所々に綻びを見せ始めている。
どうやって王国兵の随伴を妨害するか、雄大な大自然を眺めながら考えていたソウタは使えそうなある物を既に見つけていた。それはソウタ達の立っている場所から尾根伝いに少し登った所に鎮座していた手頃な大岩である。手頃と言ってもサイズは戸建ての一軒家ほどの大きさがある。この大岩を雨に乗じて落とし登山道を塞いで通せんぼしよう、という策である。人形を大岩の足元にスタンバイさせ準備は整った。一軒家程の大きさの岩をどのように落とすのか、実演と行こう。
スタンバイさせた仕込みの人形は小さなものでそのまま押して落とすには力が足りない。大岩はどっしりと安定した状態で鎮座している、なのでその支えている地面の方を斜めに切ってやれば大岩の重さによって斜面を滑り落ちてくるだろう。登山道を歩く王国兵からは見えないように尾根で視線を遮り、人形は高速回転による遠心力も利用して一息にズバッ! と大岩の足元を切り裂いた。少しの間を置いて、支えを失いバランスを崩した大岩は地鳴りを響かせ斜面を元の姿勢を保ちながら勢いよく滑り落ちてきた……ソウタ達目掛けて。
「……あ」
しまった、とソウタはすかさずミルドとウシオに指示を出し大岩を登山道のど真ん中に鎮座するように受け止めさせた。ミルドが受け止めソウタとウシオが人形と糸で大岩の勢いを軽減すると共に下まで転がり落ちないように支える、もちろん王国兵達からは見えないようにである。些細なハプニングはあったがとっさの連携によって当初の狙い通り登山道を塞ぐ事に成功した。雨によって水を含んだ土砂も都合よく隙間を埋めてくれた事により道は完全に寸断された。後続の指揮官の声が大岩の向こうから聞こえてくる。お互いの無事を確認し合い岩を切ってくれとの指揮官の声は聞こえないふりをして、ソウタ達は無事一つ目の憂いを取り除き満を持して水の神の待つ北の山脈へと足を踏み入れるのであった。
異世界側の目という抑圧から開放されたソウタは中型の鳥人形の背に乗りのびのびと異世界の空を翔けていた。風を切り雨粒をかき分けながらソウタはある一点を目指し一直線に鳥人形を疾走らせる……その目が鋭く見据えていたのは北部山脈の中で最も高い雲を貫く高峰である。傍らに寄り添うウシオがフードを抑えながらソウタの耳に顔を寄せ尋ねる。
「ソウタ、真っすぐ飛んでいますけど水の神の居場所に当てがあるんですか?」
ウシオの疑問にソウタも顔を寄せ目指す場所と理由を話して聞かせた。
「この雨雲は自然現象じゃない、水の神が作ったものとするなら雲の湧き出るその付近にいるはず……それがあの山の辺りだ」
ソウタが指差し示す方をウシオも一緒に見つめながら一つ目の山脈を超えると目指す高峰のお膝元を眼下に捉えた。大粒の雨に阻まれ見通しの悪い中、ソウタが数キロ離れた高峰の足元付近に見える湖のような場所を目を細めて凝視していた、その時である――
「――ソウタッ!?」
突如叫びを上げ飛びついてきたウシオと一緒にソウタは鳥人形の上から宙空へと投げ出された。ウシオが飛びついてきた刹那、ソウタはウシオの肩越しに彼女の背中を掠めて横切る白い直線をその目に捉えていた。一瞬ではあったがそれはまるで空をまるごと切り分けるような鋭さで、ソウタの視界を左から右へと駆け抜けていった。
地上目掛け宙を舞いながらソウタは新たに鳥人形を作り体勢を立て直すとそのまま一度地上へと降り立ち先程凝視していた湖の方を注視する。ミルドも遅れて地上に降り、三人は臨戦態勢で意識を研ぎ澄ませてゆく。見つめる先、霞む遠景が僅かに揺らいだ次の瞬間――
――ビュシュンッ!?
彼方から再び自身に向かって放たれた何かをソウタは紙一重で躱しその軌跡を捉える。その何かは地表に転がる大小無数の石諸共地面を切り裂きながらソウタ達の遙か後方に至るまで、一ミリほどの溝を残しながら薙ぎ払い消えていった。得体のしれない攻撃にウシオも緊張した様子で警戒を続けている。
「ソウタ、これは……」
「二人共必ず避けろ……多分、ウォーターカッターだ」
――ウォーターカッター。超高圧で放たれる水流によって様々なものを切断、削り切る事が出来る技術である。ただの水ながらその威力は凄まじく、石材、硝子、金属の切断加工など幅広く利用されている。人体に当たれば容易く致命傷となるのは想像に難くない。超強いすごい水鉄砲である。
未だ数キロ離れているにも関わらず水が霧散せず一ミリほどの溝を残す威力と精度、水の神の名に恥じない正に神業であった。
「想像以上かもしれない、手加減とか考えてる場合じゃないな……」
そう呟きながら、ソウタは霞に揺蕩う神の威容を朧気に見つめていた。
降りしきる雨は尚も勢いを増し、湖から伝い流れる水は灰色に淀み力強く大地を削り取っていく。王都で異変解決を待つ多くの人々の為、そして龍を式に加えるという悲願成就の為……ソウタ、ウシオ、ミルドの三人は雨と土の匂い渦巻く山の中、水の神との邂逅を果たすのであった――。
第九話、お読み頂きありがとうございます。橘月りんごです。
執筆が終わっているものも残す所あと一話となりました。以降は書きながらの投稿という事になります。
プロローグの後書きでも触れましたが執筆速度は早くありません。辛くなるとモチベも切れるのでマイペースにコツコツと進めて参る所存です。
ソウタ達はこの佳境にどう立ち向かっていくのか。
白熱の展開の行く末を、今後ともよろしくお願い申し上げます。