第三話 逃走劇と歌姫
「次は!?そっちか!」
歓楽街の路地裏を女性を背負って駆け抜ける。蜘蛛の巣の様に広がる小路を先導するのは財布を盗んだ子供だ。
「待たんか!怪しいヤツめ!」
背後からバタバタと数人の足音が続く。彼らはこの街の治安維持組織の職員だ。簡単に言えば権力者の犬である。面倒な事に市民を拘束して逮捕する権限を持っているのだが、勤勉で公正な組織とは言えず実際は賄賂に汚職にと腐りきっている。子供の母親を抱えて建物から出てきた時に、瘴気汚染の確認に来た彼らとばったり出くわしてしまったのだ。そしてお約束の言葉を言う。
「市民番号を。」
一応ではあるが、この街を運営している公的な組織が存在している。選挙もあれば市長もいる。そして街の正式な住民は番号が与えられ、それを提示することで様々な公共サービスを受けられる・・・らしい。そう言えばちゃんとしている様に聞こえは良いが、市民番号を受け取れるのは一定水準を超える収入がある極々一部だけだ。住民の大半以上を占める貧困層や流れ者には縁の無い話である。
つまりだ、市民番号を持っていない奴らはダストシュートの市民では無いのだから何をしてもお咎め無しというのが治安維持組織の掲げる正義という訳だ。もちろん俺やマシロも親父さんも、歓楽街に住む住民も持っている筈が無い。となれば逃げるが勝ちというものだ。
「ッ!?どこだ!?見失ったのか?」
いつの間にか先を走っていた子供の姿が見つからなくなっていた。追われている恐怖で我を失って走っていったのかもしれない。だがそれは責めるものではない。噂で奴らは憂さ晴らしに浮浪者を殺したなんて聞いた。そんな奴らに追いかけられたら恐怖を感じて当たり前だからだ。
しかし先導がいなくなったのは少し分が悪いかもしれない。挟み撃ちにされたら女性を背負ったまま逃げるのは難しい。そう考えながらも走り続けていると
「こっちだよ!入んな!」
若い女性が路地裏に面した扉を開けてそう言ってきた。罠かと疑ったのだが、直感的にその建物の中へと飛び込んだ。立ち尽くしていたならばすぐにでも追手に追い付かれていただろう。女性を背負ったまま息を整えて薄暗い建物内に視界を慣らす。建物の外を足音が過ぎ去っていく。どうやら追手は巻けたらしい。
「行ったみたいだね。そう怖い目をしなくっても危害は加えないよ。そら、そこのソファーで背負ってる人を休ませてあげな。」
結った赤毛にそばかすのある同年代くらいの女性だ。彼女は左足を引きずりながら歩いて行く。建物は大きめの酒場だった。言われた奥まった場所にあるソファーに母親を降ろすと、赤毛の女性が水の入ったコップを持ってきてくれた。
「はいよ。」
「あぁ、すまない。助かった。」
「礼はあの子に言っておくれ。知り合いじゃなきゃ見捨ててたよ。」
「親戚か何かなのか?」
「そんな大層なもんじゃない。ボロボロの姉妹にたまに飯食わせていただけさ。母親とは面識も無かったよ。」
「そうか。」
世の中には色々な飲み物があるのだが、やはり運動後に飲む水が一番美味い。そうして一杯の水を飲み干すと、小さな人影がカウンターの陰から恐る恐る顔を出した。ボロ布の子供だった。最初からこの酒場に向かって走っていたのだろう。ソファーに横たわる母親を見つけると一目散に駆け寄る。
「あんた名前は?」
「俺はグレイだ。」
「灰色の髪だからかい?分かりやすくていいね。」
「そっちは?」
「あたしはアレクシス。長いからアリーでいい。それで?あんた達は何をやったんだい?」
「何をって・・・子供に財布盗まれて追っかけたら瘴気汚染ってのに出くわしてだな。んで取り残された母親を助け出したら奴らお決まりの市民番号を〜が始まったから逃げただけだ。」
「瘴気汚染だって?はぁ、遂にこんな所でも起きる様になったのかい。しかしあんた、随分と勇気があるんだね。瘴気汚染に向かって行くなんてさ。」
「正直、結構危ないところだった。変な腕みたいなのに掴まれてしこたま瘴気を吸っちまったしな。」
「はぁ!?掴まれたうえに瘴気を吸っただって?体は何とも無いのかい?どこを掴まれたんだい!?」
「急にどうしたんだ?おい、服を捲るな!」
体験談を話した途端にアリーの目の色が変わる。真面目な顔で服を捲ってくるものだからこちらも困惑してしまう。
「何とも・・・無い?」
「あぁ、人を担いで走れるくらいには元気だな。」
「そうじゃなくて!普通は瘴気に触れるとその部分が瘴気患いになって動かなくなるだろ?」
「そう・・・なのか?」
「ほら、こいつを見なよ!アタシも少し前に足を掴まれてこの有り様さ!」
アリーが左足のズボンの裾を捲り上げる。脛の真ん中から下部分の皮膚が黒く変色していた。
「生憎なんだか俺は記憶喪失ってやつらしくてな、そういう常識ってのに疎いんだ。しかし瘴気患いか・・・普通は、そうなるのか。時間差とかあったりするのか?」
「アタシの時はすぐに掴まれた場所から黒いのが拡がって動かなくなった。医者じゃないから分からないけど、多分すぐに症状は出ると思うよ。」
瘴気患い。一応は知っていた。なにせカズラとアネモネがそうだったからだ。しかしあれはいつの間にか無くなって治っていた。なにせ現在は元気に走り回っている。風邪みたいなものだと思っていたのだ。アリーの話を聞いて、瘴気沼に倒れ込んだ自分の体に何かむず痒い気がしてくる。だが実際は何とも無い。いつも通りのコンディションだ。
「うっ・・・う〜ん・・・」
「お母さん・・・起きた!お母さん!」
「あら?ここは・・・?」
瘴気患いについて額に皺を寄せて悩んでいると、ソファーの方からそんな声が聞こえてきた。見れば女性が体を起こしてぼんやりとしている。
「目が覚めたのかい?災難だったね。瘴気汚染から逃げ遅れるなんてさ。」
「瘴気汚染ですか?あの・・・私、その・・・」
「どうしたんだい?瘴気患いでも起きたのかい?」
「いえ、逆というか・・・瘴気患いが消えたと言うか・・・そういえば今は何日ですか?」
「何日って・・・一角獣の月の六日だけど。」
「実は・・・先月末辺りからの記憶が無いんです。」
「お母さん、ずっと眠ってたんだよ。お顔が真っ黒になって。」
無邪気に母親に抱きつく子供。その発言から察するに瘴気患いで意識を失っていたのだろう。そして瘴気患いが消えたという。確かに見た限りで顔や胸元にアリーの足にある様な変色は見られない。そして記憶があやふやでかなり困惑した様子だ。
「あっ!お姉ちゃん呼びに行かなきゃ!お母さんは待っててね!」
「あっ、おい!」
「大丈夫大丈夫、すぐに戻るから!」
「おいおい、大丈夫なのか?」
「追いかけられてたあんたが行くより一人の方が動きやすいさ。それに奴らもそこまで仕事熱心じゃないよ。今頃どこかで酒を引っ掛けてる頃さ。」
「う〜む、ならいいんだが。」
母親が目を覚ましたのが嬉しかったのだろう。財布を盗んだ時の切羽詰まった表情はどこへやら。年相応の子供らしい笑顔で酒場を出ていってしまった。
「まだ混乱しているのですが・・・私はあなた方に助けて頂いたんですね。ありがとうございます。私はマリー。子供達はレモナとルシダといいます。」
「俺はグレイだ。」
「アタシはアレクシス。アリーって呼んで。ところで・・・もしかして・・・もしかするとなんだけどさ。歌うオットセイの歌姫ってもしかして・・・」
「・・・はい。私でした。それも随分と前の事ですけど。」
「歌うオットセイ?歌姫?」
「ちょっと遠くにある大きな店だよ。そこじゃ歌やショーを見ながら楽しめるのさ。そこにマリーっていう美声の持ち主がいたんだけど半年前くらいにぱったりと姿を消したんだ。」
「今思えばあれが瘴気患いだったのでしょうね。声が思う様に出せなくなって、すぐに追い出されました。」
「今なら・・・歌えるんじゃないか?瘴気患いは消えたんだろ?」
「確かに・・・前みたいに喉は重くないみたいですね。う、うーん・・・コホン。」
思いつきでそう提案してみると、マリーは喉の調子を確かめて軽く咳払いをした。そして感覚を思い出す様にハミングだけで短い歌を聴かせてくれた。本調子でも無ければ歌詞も無い歌。しかし何か惹かれるものを感じた。まるで耳ではなく脳で聴いているかの様な錯覚を覚える。そして歌い終えた後の僅かな静寂すらも歌の一部だと思える程だ。
「・・・凄いな。」
「アタシも初めて歌姫の歌を聴いたけど・・・うん、凄いとしか言えないねこりゃ。」
「久しぶりに歌えて凄く嬉しいわ。やっぱり歌って良いものね。コホッ!」
「おっと、そういえば寝たきりの体だったか。悪いな、無理させたみたいだ。」
「ほら、水だよ。ゆっくり飲みな。」
「ありがとう。・・・ふぅ、思ったより体が弱ってるみたいね。」
力が抜けたのか、水を飲んでマリーは再びソファーに横たわる。しかしその表情は生気に満ちている。再び歌えた事に感動しているのだろう。
「アリーさん、お願いがあるんです。」
「なんだい?」
「私をここでや
「あら?素敵な歌が聴こえてきたと思ったら・・・お客様?いい目覚ましだったわ。」
マリーの声を遮る様に二階から誰かが話しかけてきた。この酒場は二階に営業スペースは無いがテラスの様に通路があり、声の主はちょうどカウンターから見上げる位置にいた。もたれる様に見下ろすのは・・・豊かな二つの膨らみであった。