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ハリーの来襲により、仕事が早く片付いたエリスたちは、そのまま休憩を取る事にした。
ラブがお茶を供し、珍しくハルと双子もお茶を相伴した。
「意外でしたね、ハリー様があんな風にお嬢を心配していらっしゃるなんて」
ダフがしみじみそう言うと、ラブがうんうんと頷く。
「ハリー様って、あまりエリス様と関わっていらっしゃらなかったと思うんですけど。やっぱりお嬢様の事、気にかけていらっしゃるんですね」
「そうね。お兄様は昔から、マイペースな方だったから。ご自分の興味がおありになることにしか、労力を割かないと思っていたのだけど。妹を心配するなんて、人並みの感情もあったのねぇ」
容赦ないエリスの言葉だったが、反論する者は誰もいなかった。
「そ、それにしても。ハリー様、すっかり元のお元気な姿に戻られていましたね!」
「そうそう。あんなにお痩せになっていたのに。顔色も悪かったし、私、本当にご病気になられたのかと信じてしまいそうでした」
「俺も!ハリー様もいくら侯爵家を継ぎたくないからって、病気の芝居までするなんて。迫真の演技でしたが、ちゃんと俺たちは偽装だって分かってましたよ」
得意げな双子の言葉に、エリスは無言で笑みを浮かべ、紅茶に口をつける。
対照的に、ハルは悪鬼の表情で双子を睨みつけていた。
「こっの、愚弟に愚妹が!お前らの目は節穴か。イジー家の恥め。お前らなど、100回死んで、生まれ変わってこい」
兄の暴言など日常茶飯事な筈の双子も、これには憤慨した。双子はちゃんと、ハリーが後継者の座から逃れるために、仮病で周囲を欺いていた事に気付いていたのに、なぜ罵られなくてはいけないのか。
使用人の中には、ハリーが本当に病気だと信じている者もいるのだ。それぐらいハリーの演技は真に迫ったものだった。
「だからお前たちは精進が足りんのだ。ハリー様の仮病など、誰にでも分かる事だ。確かに顔色は悪くお痩せになっていたように見えたが、足音や身体の運びから体重自体は変わっていらっしゃらなかった。あれは幻影魔術の応用でそう見せていただけだ」
ハルは銀縁の眼鏡を外して、眉間を揉んだ。本気でこんな単純明快な阿呆どもを、エリスの側近にしていいものか悩ましい。
「幻影魔術?そんな!魔術の気配なんて、全然感じなかったわよ!」
「足音と身体の運びで体重の増減なんて分かるのかよ?」
兄の言葉に双子は衝撃を受けた。だから、短期間で回復していたのか。
「馬鹿どもめ。だからそんな上辺だけに囚われるんじゃない。ハリー様の仕込みは、そんな単純なものじゃないんだ」
苦り切ったハルの言葉に、くすくすと声を上げてエリスが笑う。怒ったり、驚いたりと表情をコロコロ変える双子が可愛らしかった。
「ハルの言う通りよ。お兄様は侯爵家を継がないために、色々画策していらしたの。それはね、病を装って後継から下りるだけではなかったのよ。お兄様の準備は、数年前から始まっていたの」
そっくりな表情で混乱している双子を愛でながら、エリスは続けた。
「いくら我が国の法で女性の爵位継承が認められているとしても、女のわたくしが爵位を継ぐ事は反発があったと思うわ。陛下は革新的な考えをお持ちでも、頭の固い保守的な貴族が多い事も事実。お兄様が後継を辞退したくとも、女のわたくしが後を継げば、他家の注目を集める事になる。そんなこと、お父様はお許しにならなかったと思うわ。あのままならお兄様はラース家を継がざるをえなかったでしょう。メル様が侯爵夫人としての適性がないのは周知の事実だったから、婚約も解消になったでしょうね」
ハルが新たな紅茶をカップに注ぐ。爽やかな香りが広がり、エリスは暫し言葉を止めて紅茶を楽しんだ。
「……だからお兄様は、女性が爵位を継ぐ事が珍しくないという状況を作り出したの」
エリスは問題を出す先生の様に、ダフに優しく訊ねた。
「ダフ。女性の爵位継承が流行り出した切っ掛けはなんだったか、覚えていて?」
「それは、リングレイ侯爵家の御子息と、ボレー伯爵家の御息女の大恋愛……」
答えながら、ダフはまさか、と動きを止めた。その横でラブが、息を呑む。
「そうよねぇ。あの世紀の大恋愛と言われる、お二人の後継問題があったからだわ。ふふふ、怖いお兄様。一体どうやって、あのお二人を結び付けたのかしら。昔から、場を整えるのがお得意でいらしたけど、本気を出せば世間の風潮さえ変えてしまわれるのだから」
コロコロと笑うエリスに、ダフもラブも呆然とするしかなかった。ラース侯爵家の後継が女性であっても目立たぬ様に、ハリーは男性の爵位継承という常識の方を変えてしまったという事か。並々ならぬ熱意を感じる。
「お兄様の決して譲れないものは婚約者のメル様。もしメル様に侯爵夫人としての資質があれば、元々、後継なんて面倒だというお気持ちはあったでしょうけど、常識を変えてまで放棄しようだなんて熱意、お兄様にはなかったと思うわ。そんな手間のかかる事をするぐらいなら、爵位を継いでご自分の研究の片手間に当主の仕事をなさっていたでしょう。今までだって易々となさっておいでですもの」
先ほど、十数分で書類を片付けてしまった事から分かるように、ハリーは非常に優秀だ。侯爵家の当主としての仕事、王宮での役職。どれもハリーは片手間にこなしていた。自分のやりたい研究を優先し、余った時間で適当に仕事を終わらせる。ハリーにとってそれぐらいは造作のない事だった。
「でもメル様は侯爵夫人としての資質がないことを真面目に悩んでいらっしゃった。お兄様との婚約を解消しなくてはと思い詰めていらっしゃった。だからお兄様は面倒でも、爵位を放棄することになさったのだわ」
ハリーも周囲も、メルに侯爵夫人としての資質など望んでいなかった。だが常識人のメルにとって、己がハリーの足手まといになることは、絶対に避けたいことだったのだ。自分よりも侯爵夫人に相応しい人を迎えて欲しいと、身を引こうとした。
だからハリーは、戦法を変えた。女性の爵位継承という常識を準備し、病を装い爵位を放棄し、妹に押し付けた。ついでに病でメルの同情を引いて己の側に囲い続けた。多分メルはハリーの仮病にすら気づかず、本気で彼の病に心を痛め、そばに居続けるだろう。疑うことを知らない、素直で可愛らしくて優しい女性なのだ。
「わたくしとて、鬼ではないのですもの。いくら爵位を継ぐのが面倒だからと言って、人の恋路を邪魔するつもりではないわ。それに、もしわたくしがお兄様のなさる事を邪魔しようとしたら、いくら妹とはいえ、お兄様は容赦しなかったでしょう。お兄様はわたくしの知る限り、誰よりも強欲で冷酷な方なのよ。あんなのと全面戦争なんて、こちらも相応の覚悟で応戦しなくてはいけなくなるわ。そんなの、爵位を継いだ方がまだ面倒が少ないじゃない」
ヒプレス勝負は、エリスを納得させるための、おまけの様なものだ。あれで徹底的に、兄には敵わないという事を、エリスは理解した。
嘆息まじりのエリスに、双子ばかりかハルまで冷や汗をかいていた。ラース侯爵家の後継争い。世間一般で言うところの逆の争いだが、この二人が正面衝突したら、どれほどの被害が出ていたのか。
「でもこうなってみると、お兄様のしたことは、結果的に良かったわ。もしもわたくしが侯爵家を継げなくても、お兄様は病によって退場しているのですもの。お父様もお兄様に継がせるなんて、考えもしないでしょう。諦めて分家から適当に養子でも迎えたらいいのだわ」
ホホホと軽やかに笑い声を上げるエリス。
どうしてエリスが侯爵家を継げなくなるのか。その理由は、聞いたとしても、答えてはもらえないのだろう。
なんとなく、双子は悟っていた。兄は分かっているのかもしれないが、それを自分たちに語る事はないだろう。
それにしても。双子は心の底から反省していた。
癪ではあるが、ハルの言う事には一理ある。愚かにもハリーは病を装って当主の座から逃れるつもりだろうなどと底の浅い企みにしか気付けなかった。でも普通、他人の恋愛まで操り、しかも頭の固い貴族たちの常識まで変えるだなんて、誰が思うだろうか。
「お兄様も変な所が完璧主義だから……。ほら、世論の誘導って、お兄様の研究内容と色々共通点があるでしょう?途中からは楽しくなっていたのではないかしら。色々とデータを取っていたようだし」
あまり詳しく聞いたことはないのだが、ハリーは一体なんの研究をしているのか。今後も詳しく聞くのは止めようと、双子はこっそり決意した。凡人の自分たちに、理解も共感も出来る気がしない。
「全く。エリス様にお前ら程度の鳥頭の補佐しかいないのだと思うと、先が思いやられる。どう教育したら、人間並みの知能が持てるのか」
冷たく吐き捨てる兄に、優しさを求めるのは無駄だと分かっているが、それでももう少し弟妹に対して温情というものが持てないのだろうか。双子はハルの言葉にグサグサ刺されながら、悄然と頭を垂れていた。
「あら。ハルは厳しいのね。ラブやダフは頑張っているじゃない」
「エリス様……。このような輩を甘やかしてはいけません。こ奴らにも、側近として最低限の能力は必要です」
血を分けた弟妹を輩扱いするハルを、エリスはじっと見つめる。
「大丈夫よ。わたくしの側には、いつもハルがいるから」
浮かべた笑みは無邪気で、信頼に満ちていた。
「何があっても。ハルがいれば、わたくし、なんの心配もないもの」
こてりと、エリスは首を傾げる。
「ああ、でも。ハルは側近ではないものね。それじゃあやっぱり、ラブとダフにももう少し、頑張ってもらわなくてはいけないわね?」
ね、と優しくエリスに言われ、ダフとラブはしっかりと頷いた。エリスにそう言われたら、ダフもラブも『諾』以外の言葉はない。
「あら、そうだわ。わたくし、お友達にお貸しする本があるのだったわ」
図書室に探しに行くというエリスに、ラブはすかさず側に付く。二人が部屋を出て行ったところで、ダフは「あれ?」と思った。
「なぁ、ハル兄ぃ。ハル兄ぃはエリス様の側近じゃないのか?じゃあ何になるんだよ」
専属執事って側近じゃないのか、いや、ハリー様の専属執事は執務の補佐もしていて、側近も兼務しているよなぁと、自分より背の高い兄を仰ぎ見れば。
「うわっ。なんだよ、気持ち悪ぃ」
耳まで真っ赤にして顔を蕩けさせている兄に、心の底から気持ち悪いと思ってしまった。
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