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「あら。そうなの?」
場違いな、鈴を転がす様な可愛らしい声。
「わたくしは、そうは思わないけど」
いつの間に部屋に入り込んだのか。魔術師とハルのすぐ傍に、明らかに貴族の子と分かる服装の、女の子がいた。
ほんの少し、幼さゆえの舌っ足らずな口調で、子どもはコロコロと笑う。
それは魔術師がよく知る子どもだった。栗色の髪と茶色の瞳。可愛らしいがそれほど際立った容姿ではない。
そしてハルも、その声には聞き覚えがあった。ハルは一度見聞きしたことは、そう簡単に忘れない。
嘘だろ、と思いながら痛む身体に鞭を打って、必死で顔を上げた。そこには、やはり予想通りの姿があった。
「お、お前っ、どうやって?」
突然現れた子ども、エリス・ラースに、魔術師は目を見開く。慌てて仲間たちがいる方を振り向けば、折り重なるように倒れる屈強な男たちが見えた。
「なっ!」
「探したのよ。街中で派手にそれを使ってくれたお陰で、ようやく探査魔術に引っ掛かったわ」
それまでは探査の範囲から外れていたせいで見つけられなかったのだと、エリスは唇を尖らせた。
「よくも騙してくれたわね。わたくしのオモチャを、返して」
ぷうっと可愛らしく頬を膨らせ、エリスは魔術師に手をずいっと差し出す。だが魔術師はエリスに構わず、慌てて周囲を見回した。
「何を訳の分からない事を言ってやがる!仲間に何をしやがった?くそっ、騎士団も一緒なのか?」
犯罪者が最も恐れるのは、王都の悪を取り締まる騎士団だ。腕に覚えのある仲間たちが、魔術師が気付かない内に倒されるなど、奴らの仕業だとしか思えなかった。
「あら。わたくしは一人よ」
エリスは事もなげにそんな事を言う。確かに彼女の言う通り、他に人の気配は感じなかった。
「はぁ?だがどうやって……。いや、そんな事はどうでもいい。お前一人だけなんだな」
にやりと笑って、魔術師はエリスに手を伸ばす。取り敢えず、商品が一人増えたと単純に喜んだ。女の子は、それだけで商品になる。まあまあ可愛い顔立ちなので、そう悪くない値が付くだろう。
ハルはまずいと魔術師に踏まれたままの身体をねじる。バランスを崩した魔術師がよろめいた。
「逃げろ!」
ハルは必死で叫んだ。こんな所に、何故エリスがいるのか分からない。もしかしたら自分の後を付いて来て、ここに迷い込んだのかもしれない。このままエリスを巻き込んでしまう事は、なんとしても避けたかった。
「あら?貴方、シュウの息子だったかしら?」
だがそんなハルの決死の行動も、エリスには全く響かなかったようだ。ゆっくりとしゃがみ込み、ハルの顔をマジマジと覗き込む。
「やっぱり、シュウの息子よね。目と口元がよく似ているわ。名前は、何だったかしらね?覚えていないわ」
頬杖をついて、エリスはにこりと微笑む。そのどこかのんびりした口調に、ハルは本気で腹が立った。
「さっさと逃げ、がはっ」
ドンっと背中に衝撃がはしって、ハルはたまらず咳込んだ。体勢を戻した魔術師に、思い切り背中を踏まれたのだ。
「このガキが。舐めた真似しやがって。レディを守るとは、大した紳士だな。俺はそういう優等生が大っ嫌いなんだよ」
魔術師に何度も背中を踏みつけられ、ハルはもう声も出せなかった。優秀だ神童だなどと煽てられていても、結局は狭い世界の中でしか通用しないのだ。自分には子ども一人、守ることなどできないのだ。
「貴方。シュウの息子から足をどけなさい。怪我をしちゃうわ」
一方エリスは、立ち上がって腰に手を当て、魔術師を叱る。ハルの必死な言葉も、危険な状況も。全く理解していないように見えた。
「偉そうなクソガキが。最初っから、お前の事は気に食わなかったんだよ」
憤怒の表情で、魔術師はエリスを殴りつけようと手を振り上げた。魔術師は貴族たちが大嫌いだった。身分しか取り柄が無いくせに、優秀な自分に頭を下げさせやがって。
だが、魔術師は重大な事に気付いていなかった。この場にたった一人、エリスがいる理由を。屈強な男たちが、何故か倒れていた理由を。
「ふふ」
小さく笑って、エリスは予備動作なくぴょんと高く飛び上がった。
振り下ろした手が空を切り、驚いて見上げた魔術師が無防備な顔を晒す。そこに。
ドスっと音を立てて、エリスの重い蹴りが綺麗に決まる。魔術師はそのまま壁まで吹っ飛んで打ち付けられた。石壁に勢い良くぶつかり、そのまま壁伝いにズルズルと落ちていく。
一部始終を見ていたはずのハルは、今の出来事が信じられずにポカンと口を開けていた。
ナンダイマノハ。
コドモノトベルタカサジャナイ。
ケラレテトンダ?
驚きすぎて脳の処理が追い付かず、目を真ん丸にして、エリスと魔術師を見比べることしか出来なかった。男が倒れたことで、不快な縄の拘束が解けていた事にも気づかなかった。
「エリス」
空間がブレたような気配がして、抑揚のない声が響く。瞬きの間に、ラース家の嫡男、ハリーが目の前に立っていた。
「なんだ、終わったのか」
ハリーは部屋の中を見渡して、魔術師とその仲間を見て、つまらなそうに呟く。エリスはそれにニコニコと頷いている。
「……シュウの息子?」
「ええ。何故かここにいましたわ」
ハリーはハルの姿に、訝し気に眉を寄せた。だがすぐに興味を失ったように、ぐるりと視線を巡らす。その目に部屋の隅で倒れる二人の子どもの姿が留まる。ハリーは二人に近付き、その手を口元に近付けた。エリスがその後を追い、首を傾げる。
「兄さま?」
「大きい方はまだ息があるが……。小さいのは、もう呼吸が止まっている」
ハリーの言葉に、エリスが目を真ん丸にした。慌てて、魔術陣を展開させ、それを倒れ伏す小さな身体に向ける。
「無駄だ、エリス。回復魔術でも死んだ者は生き返らない。魔術は万能ではない」
切り捨てる様な冷酷な声に、エリスはビクリと動きを止めた。
ハリーはそれに構わず、大きな子に回復魔術を施し、その身体を抱え上げた。
「とりあえずこっちは回復させた。エリス、この子を医師の元に連れて行く。すぐに戻るが、それまでここで待機していろ」
死に向き合ったばかりの5歳の妹に一切の情を見せず、ハリーの姿は再び掻き消えた。残されたハルは、漸く我に返り、固まった様に動かないエリスに、恐る恐る視線を向けた。
エリスは恐怖に震えるでもなく、怯えるでもなく。5歳の子とは思えぬ程、複雑な表情をしていた。
強いのは悔恨。そして、哀れみ。それでも冷酷な瞳は凍えるようで。
特に人目を引くほどではない容姿が、そんな表情を浮かべるだけで凄絶な色香を放っていた。
まるで妖艶で冷酷な女神のようなその表情を、ハルは魅入られた様に見つめる事しか出来なかった。慰めの言葉など出てこなかった。そんな言葉、掛けること自体おこがましい。美しい。目が離せない。胸が締め付けられる様に苦しい。この顔を誰にも見せたくない。誰にも渡したくない。その足元にひれ伏して、情けを乞いたい。
そんな、恋情と執着という感情が、ハルの中に生まれた。初めて味わうその苦しさと甘さに、ハルは呼吸も瞬きも忘れて、自分の心を奪った少女を穴が空くほど見つめ続けた。
それからしばらくして、ハリーが数人の大人と共に戻ってきた。ハリーは慣れた様に魔術師とその仲間たちの捕縛を大人たちに命じる。
「この愚息が」
大人たちの中には、ハルの父であるシュウがいた。冷ややかにシュウに睨みつけられたが、エリスに夢中のハルは全く気が付かなかった。
溜息を吐いたシュウが、容赦ない一発をハルの頭上に落とす。衝撃が頭部を揺らし、ハルの視界が歪んで掠れていく。それでも目を閉じる最後まで、ハルはエリスを恍惚の表情で見つめ続けていた。
気絶する事でようやくその視線をエリスから剥がした愚息に、シュウはもう一度大きなため息を吐いた。
◇◇◇
それから半月後、魔術師に痛めつけられた傷も回復魔術で綺麗に治されたハルは、執事服を纏って父の隣に立っていた。
「我が愚息が本日より末端の見習いとして、お目汚しをいたします」
ラース侯爵夫妻、ハリー、そしてエリスに、シュウは静かに頭を下げる。ハルも倣って頭を下げるが、すぐに視線はエリスに固定された。
「おや、シュウの息子もウチで働いてくれるのか。嬉しいね」
「優秀だと聞いているわよ、楽しみね」
ラース侯爵夫妻は朗らかに笑う。それに対し、シュウはゆっくりと首を振る。
「いいえ、旦那様、奥様。愚息に期待などなさいませんよう。どうしようもない半端者でございます。足りなければすぐに放りだしますので、どの様な些細な事でも、私めに遠慮などなさらず、仰ってください」
「シュウは厳しいな」
「まぁ。父親は息子に厳しいものですからねぇ」
おっとりのんびり笑う侯爵夫妻に、シュウは柔らかに願い出た。
「お許しいただけるのでしたら、暫く愚息を領地にお預けしてもよろしいでしょうか。あちらで少し鍛えて頂いた方が、少しはモノになるでしょう」
「ああ、それは良いな。領地の子どもたちは優秀な子が多いからな。シュウの息子にも良い刺激になるだろう」
ラース侯爵に快諾され、シュウは優雅に頭を下げた。
ほんの少し才に恵まれ、神童だなんだと煽てられ調子に乗っていた愚息が、犯罪に巻き込まれるなどという愚行を犯し、しかも主家のお嬢さまに助けられるなど、本来ならば命で贖わなければならぬ程の失態だ。
しかも本人は反省するどころか、非常に分かり易くエリスに夢中だ。主家のお嬢さまに邪心は持っていけないという、基本的な常識すら理解していない。何度説教をしても、肉体言語で説明しても理解しない。ただただ、エリスを追いかけようとする。
人材の宝庫であるラース侯爵領。そこで才能の塊の様な子どもたちに揉まれ、今よりは使える人材になればいい。そして天狗になった鼻っ柱を折られて、少しは謙虚さとラース家に仕える者としての常識を身に付けて欲しいと、この時のシュウは思っていた。
数年後、ハルは領地での生活を終え、ラース侯爵邸に戻って来ることになるのだが。シュウの目論見は、半分は当たり、半分は外れてしまうことになる。ハルはラース侯爵領で優秀な子どもたちと切磋琢磨することによって、ぶっちぎりで才能を開花させることになるが、同時にエリスへの恋情と執着も順調に育て上げてしまい、我が息子ながら手の施しようのないぐらい気持ち悪い進化を遂げることになるのだ。『手遅れになる前に斬り捨てておくべきだった』とシュウは後悔したようだが、全ては後の祭りだ。
「あなた、領地に行くの?領地にはエリフィスがいるから、仲良くしてあげてね」
領地という言葉に、エリスは漸く反応した。それまではシュウの説明にも見つめ続けるハルにも無頓着だったが、領地と聞いてぱぁっと表情が柔らかくなる。
あの時の魔術師とその仲間たちは、ラース侯爵家から秘密裏に騎士団に引き渡され、表向きは騎士団が誘拐事件を解決したことになっている。
主犯の魔術師は、実は王家からラース侯爵家に派遣されていた、監視も兼ねた調査員だった。ラース侯爵家で育った優秀な人材、又は生み出された魔道具を余すことなく手に入れたい王家は、昔からこういった調査員をラース家の了解の元、派遣している。その内の一人が悪心をもち、エリスの開発した魔力を測る眼鏡と、魔力縄を盗み出したのだ。
眼鏡は魔力量を測るばかりか、適性魔力も調べる事が出来る。これまで、鑑定魔術か希少な魔力水晶でしか測れなかった魔力が、簡単に測定できるとあって画期的な発明だ。また、魔力縄は魔力を篭めれば意のままに操る事ができ、しかも相手の魔力を封じることが出来るので、どちらの魔道具も王家の大きな関心を惹いていた。
王家からの監視員である魔術師に求められるまま、エリスはこの二つの魔道具を渡していたのだが、魔術師が魔道具を持ったまま消え、王都を騒がす誘拐事件が起こった。調べにより、魔力の高い者が被害に遭っている事が判明し、ラース侯爵家は逃げた魔術師が関わっていると予想して、魔術師の捜索を始めた。ハリーとエリスが本来の予定より早めに領地から王都に移ったのも、この事件の解決の為だった。自分の魔道具が引き起こした事件なのだから自分で解決せよと、エリスは父であるラース侯爵に命じられ、まだ5歳だという事が配慮され、補佐にハリーが付けられたのだ。
被害に遭った子どもたちは、奴隷として売買されていた。綺麗な顔立ち、しかも魔力が高いという事で、高値で取引されたらしい。魔力の高い者は、身分を問わず重宝される。魔術師として育てるか、本人に魔術の素質がなければ、魔力の高い子を産ませることもできるからだ。
尤も、世間的には被害者の共通項に魔力量の多さがあった事は伏せられた。王家が眼鏡の存在を公にしたくなかったからだ。ただ、顔立ちの綺麗な子どもが狙われた事になっている。魔道具はエリスの元に戻され、更に改良が進められることになった。
エリスはあの時、捕らえられていた子どもを保護した。意識を取り戻した大きな子に聞くと、小さな子はやはり弟だったようだ。あの魔術師と仲間たちに捕まり、酷い暴力と扱いを受けていたようだ。しかも弟の方が病気で身体も弱いと知ると、売るまで保たないだろうと、弟には薬どころか食事すら与えられなかったらしい。兄が自分の少ない食事を分け与えていたが、弱っていた弟は耐えられず、ハルが捕まるより前に、動かなくなってしまったらしい。亡骸はラース侯爵家に引き取られ、丁重に葬られている。
兄の方は、誘拐され痛めつけられた挙句に弟を失い、戸惑っていた。名が無かったので、エリスが自分の名前から、エリフィスという名を付けた。しばらくはラース侯爵家に滞在していたが、つい先日、領地へと移った。子どもの教育やケアについては、王都よりもラース侯爵領の方が充実しているからだ。
エリフィスの名を口にしたエリスに、ハルがビクリと反応した。
ハルは気づいていた。ハルがどれほど想おうと、エリスはハルに全く関心を持っていない事に。シュウの息子という認識はあるようだが、それ以上でもそれ以下でもないのだ。多分、ハルの名すら、エリスは覚えていない。
初めはショックだった。神童だなんだと持てはやされ、周囲の人間はハルに群がる。まさか名前すら認識されていないなんて。わずかなプライドもへし折られて、エリスに認めて貰えるほどの実力がない自分に、劣等感を持った。そして同時に、エリスが名付けたというエリフィスという子どもに、激しい嫉妬を感じた。なにもかも、初めての経験だった。
エリスの好みは明確だ。男でも女でも、美しく強い者が好き。美しさは造形だけでなく、所作や内面まで美しい者だ。外見だけならハルも該当するだろうが、エリスの周りには、侍女も護衛も子飼いの部下も、ハル以上の強さと美しさを備えていた。しかもエリスに心酔する者ばかり。手強いライバルだらけなのだ。
だがハルは消沈するどころか、逆に燃え上がっていた。彼の人生の中で、これほどやる気に満ち溢れたのは初めてだと言うぐらい、張り切っていた。必ず、エリスに名前を憶えてもらう。必ず、エリスに存在を認めてもらう。そして、必ず、エリスの一番になり、無くてはならない存在となる。そのためだったら、何を犠牲にしても惜しくなかった。
領地に移って1年後。ハルは、ようやくエリスに名を覚えて貰った。
そしてそれからわずか2年後、『狂犬』の二つ名で呼ばれる専属執事が誕生したのだ。
★【書籍化進行中】シリーズ1作目「平凡な令嬢 エリス・ラースの日常」
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