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エリス・ラースは平凡な令嬢である。
栗色の髪と茶色の瞳。大人しく、少し内気な、どこにでもいる普通の令嬢だ。
毎日、真面目に学園に通い、成績は中ぐらい。少しだけ魔術と算学が苦手。マナーと音楽の授業が好き。
ラース侯爵家は、ロメオ王国のいくつかの侯爵家の中でも、ちょうど真ん中くらいの地位だ。領地も田畑が広がる長閑な田舎で、領政は安定しているが、目立った産業はない。大きな収益もないし負債もない。地味だが堅実な領地経営を行っている。
そんな平々凡々なラース家から、ある日、重要な発表があった。何事も恙なく、目立たず出しゃばらずなラース家にしては、珍しい事だ。
その内容は、ラース侯爵家の後継が、嫡男のハリーから妹のエリスに代わったというものだ。
後継者変更の理由は、ラース侯爵家嫡男の持病の悪化であった。発表がある数ヶ月前から、嫡男ハリーが苦しそうにゴホゴホと咳き込んでおり、それでも毎日、真面目に王宮に出仕はしていたが、同僚達も余りの咳の酷さに休みを促すぐらいだった。ハリーの持病は空気の綺麗な場所、例えばラース侯爵領の様な長閑な田舎で静養すれば、自然と回復するものだったが、王宮に勤める事が必須の高位貴族では、王都を離れるのは難しかった。
生真面目なハリーは病を押して働いていたが、とうとう、寝台から起き上がれぬ程、病状が悪化してしまった。
ラース侯爵はハリーの病状を考慮して、ラース侯爵家の後継を妹のエリスに変更する事を決めた。しかしエリスはまだ学園に通う学生の身であり、ラース侯爵が未だ現役で王宮勤めをしていることからも、正式な後継の変更はエリスが学園を卒業してからという事になった。
ハリーもそれを聞いて、安堵したという。この身体ではとても後継は務まらないと、生真面目な彼は悩んでいたのだ。妹のエリスも、そういう事情ならばと、覚悟を決めて後継となる事を了承した。ラース家の後継交代は、泥沼の後継争いとは無縁の、実に平和的なものだった。
幸いな事に、ハリーと婚約者の仲は非常に良好で、彼が侯爵にならなくても、領地で彼を支えたいと望んだため、婚約も続行された。
次のラース侯爵が女性であるという噂は、社交界に風の様に駆け抜けたが、それほど大きな話題にはならなかった。何故なら、革新的な今代の王の施策の元、他家でも女性の後継は少なくない数、立っていたからだ。
それには、ロメオ王国の有力な侯爵家であるリングレイ家の嫡男と、ボレー伯爵家の長女の縁組が大きく影響していた。互いに家の後継ぎであり、とうてい二人に婚姻など許される筈も無かったが、夜会で出会った二人は運命の様に強く惹かれ合い、並々ならぬ努力と熱意で周囲を説得し、嫡男が伯爵家へ婿入りする形でその恋を成就させたのだ。しかも、ボレー伯爵位は、長女が継承するとして。
ロメオ王国の法によれば、女性も爵位を継ぐことが出来る。しかし、これまでの風潮から、女性は慎ましく夫を支える事が美徳とされていた。そのため、女性が爵位を継ぐのは当主が急病に倒れ、他に後継ぎがいない場合などの中継ぎ的な特別な場合にしかなかった。
だが、侯爵家、伯爵家双方の話し合いにより、ボレー伯爵家は女伯爵として長女が家を継ぎ、嫡男はその夫として女伯爵を支えるという新しい形での爵位継承が決まったのである。
これは、ボレー伯爵家の長女が領地運営に非常に熱心であり、長女が女当主として立ち、婿がそのサポートをした方が合理的であり、かつ伯爵家の血統の正当性を保てるという理由からであった。
この決定は、社交界を大きく賑わせた。女当主への反発もなくはなかったが、王が彼らを支持したため、それも大きな問題にはならなかった。今代のロメオ国王は、革新的な取り組みで国を富ませていたので、保守派の貴族といえど、その権勢には慮るしかない。
このボレー伯爵家の例を機に、王に迎合した幾つかの貴族家が、娘を後継とする事を表明し始めた。女性も男性と同じく、当主として家を継ぐのは当たり前という風潮に傾いて行った。悪い言い方をすれば、女性が爵位を継ぐことが、流行っていったのだ。
今回のラース侯爵家の後継の変更も、時流に乗ったものの一つとして扱われ、段々とその流れに慣れて来た社交界で、さほど取り沙汰されることもなかったのだ。
こうしてラース侯爵家の後継問題は、その地味なお家柄同様、ひっそりと世間に受け入れられたのだった。
◇◇◇
「まあ、エリス様。お久しぶりでございます。お兄様のお加減は、如何でしょうか?」
「突然な事で驚きましたわ」
久しぶりに学園に登校すると、仲の良い友人のご令嬢たちにそう声を掛けられ、エリスは頬を緩めた。
「皆様にはご心配をおかけして申し訳ないわ。わたくしも、兄の病状が悪化してどうなることかと心配しましたが、お医者様は空気の綺麗な所で静養すれば良くなるだろうと仰っていたので、安心しましたわ」
ほんの少し疲れた様子を見せながらも、いつもの朗らかな笑みを浮かべるエリスに、友人たちは安堵の息を漏らす。ラース侯爵家の後継変更が発表された後、エリスは数週間、学園を休んでいた。兄の病状の悪化だけでも心労の種だというのに、突然侯爵家を継ぐことになり、どちらかというと大人しい性質であるエリスが重責に押しつぶされてはいないかと、心優しい友人たちは心配していたのだ。
「わたくしに務まるかは分かりませんが、お父様の決めた事ですから。お父様も、わたくしの伴侶はしっかりした方を選ぶから心配ないと……」
ポッと頬を染め、エリスは恥じらうように友人たちから目を逸らす。その様子に、友人たちは先ほどまでの心配もどこかに飛んでいき、キラキラした目をエリスに向けた。
「まぁ。もう候補者の方は決まっていらっしゃるの?」
「エリス様はお会いになったの?どんな方かしら?」
「もしかして、お茶会にお招き頂いた時、お側にいらっしゃった、専属執事のイジー様?」
「まぁぁぁ!素敵!あのラース侯爵家のお茶会での麗しいご様子。今思い出しても溜め息がでるわ。イジー様ならエリス様にピッタリだわ!専属執事とお嬢様の秘めた恋。素敵、物語みたい!」
「まぁ、皆様、恥ずかしいわ。そんなお話」
きゃあきゃあと大好物の恋バナに興奮を抑えきれない友人たちに囲まれて、エリスは頬を赤らめる。久しぶりに会う友人との戯れに、心が弾んでいた。
だから、休み時間とはいえ教室の中で騒ぎすぎて、ほんの少し、皆の注目を集めてしまったかもしれない。
「全く。嘆かわしいわ」
刺々しい声がエリス達に降り注ぎ、興奮気味だった友人たちが、びくりと肩を震わせ、ピタリと口を閉ざす。
「貴女たち。女性の爵位継承についてそんな浮ついた考えしかないだなんて、学園の生徒として、不謹慎ではなくて?」
声の主は、クラスでも中心的な人物であるレイア・パーカー嬢だった。パーカー侯爵家の長女にして、父を法務大臣にもち、学年上位を常にキープしている才女だ。身分的にも能力的にも未来の王妃すら夢ではないと言われているが、本人は王妃よりも女性初の大臣を目指したいと明言する、革新的な考えの持ち主だ。その分、自分を厳しく律し、他者にも厳しい。剣術も嗜み、男子生徒も論争で言い負かしてしまうほど、勝ち気な美女だ。
クラスでも華やかなグループのリーダー的な存在であるレイアに睨まれ、エリスたちは気まずそうに下を向く。確かに家の大事に、浮かれた態度だったと思い当たったのだ。
「陛下は、これからは女性も男性の支えとしてだけではなく、自ら貴族としてその責任を果たすことを望んでいらっしゃるわ。実質は男性に頼り切ったお飾りの女当主など、意味があるのかしら?それなら慣例通り、婿をとってその方を当主となさったらどうかしら?」
迫力のある美貌のレイア嬢の率直な意見に、エリスはビクリと肩を竦めた。こんな時に頼りになる護衛のダフとしっかり者の侍女のラブは、授業を受ける為に初等科のクラスに戻っており、エリスを庇い取り成してくれる者は誰もいない。
「女性の爵位継承は、前例のない事で法務大臣である父も、陛下の政策を整える為に昼も夜もなく働き、大変な苦労をしたのです。気軽な気持ちで口にして欲しくないわ」
言葉を荒らげる訳ではないが、軽蔑の混じった冷ややかな声で注意され、エリスやその友人たちはうつむいたまま、小さく謝罪の言葉を口にする。どちらかというとクラスでも目立たない彼女たちと優秀なレイア嬢の揉める様に、珍しい事だとクラスメイトたちはサワサワと囁き合った。
そこへ授業の始まりを知らせる本鈴がなり、教師がやって来たため、その話は有耶無耶のまま終わってしまった。
それ以降、レイア嬢は特にエリスたちに絡んでくる事はなかった。もともと、レイア嬢が仲良くしている華やかで優秀なご令嬢たちと、大人しめなエリスと友人たちに、クラスメイト以外の接点はなく、今まで以上に関わりが薄くなったぐらいで、双方に支障はなかった。
しばらくクラスにはぎこちない雰囲気が漂っていたが、時間が流れるとそれも薄れ、その小さな諍いは、平凡な日常の中のちょっとした出来事として、次第に皆の記憶から忘れられたのだった。
★【書籍化進行中】シリーズ1作目「平凡な令嬢 エリス・ラースの日常」
★【書籍化作品】「追放聖女の勝ち上がりライフ」
★【書籍化進行中】「転生しました、サラナ・キンジェです。ごきげんよう。」
★ 短編「女神様がやっちまいなと思し召しです」「悪役令嬢ですが、幸せになってみせますわ!アンソロジーコミック8」にてコミカライズ
こちらの作品もご一緒にいかがでしょうか。