21
「それは、わたくしよ。エリフィス」
エリスとエリフィスの間を、軽やかに風が抜ける。
「わたくしは、魔道具を作り、その管理を怠ったわ。そして、管理を怠ったわたくしを教育するために、何の手も打たなかったラース侯爵家」
エリスの魔道具を盗んだのは、王家から派遣された魔術師だった。ラース侯爵家の開発したものを余す事なく手に入れたい王家が、監視のために派遣した魔術師。それ故、エリスは油断した。王家の監視者が、悪事を働くなんて思いもしなかった。当時まだ幼かったエリスは、そこまで人間を疑う事がなかった。だから魔術師に、無邪気に魔道具を手渡したのだ。
「ラース家は、魔術師の悪心を知りながらその行動を黙認したわ。魔道具が悪用されればどれほどの被害を齎すかも分かっていて、わたくしにラース家が他に与える影響力を自覚させるために、黙認したの」
権力に興味はないとはいえ、ラース家は貴族だ。力のない者が犠牲になろうとも、そこに益があれば躊躇はしない。
もしもラース家が、魔術師の企みを予め阻止していれば、10年前の事件は起こらずに済んだだろう。だが、エリスを育成していたラース家は、わざと魔術師を野放しにしたのだ。
エリスに悪意を理解させるために。
「そしてその結果、貴方の弟は死んでしまったわ」
「それは……」
エリフィスの脳裏に、小さな弟の姿が浮かぶ。どれほど年月が経とうと、エリフィスの中から、消える事は無い存在。
「わたくしがあんな魔道具を作らなければ。そして、それを騙し取られるなどと愚かな真似をしなければ。貴方も弟も、あの魔術師たちに攫われることも、貴方の弟が死ぬこともなかったのよ」
淡々と、エリスは語る。抑揚のない声には、深い悔恨が感じられた。
「エリフィス。わたくしは、貴方の弟を守れなかったなどと、綺麗事を言うつもりはないわ。わたくしは貴方の弟を知らないから、死なせてしまって悔いているなどと、嘘は吐けないの」
エリスにとって興味の無い者は、塵芥と同じ存在だから。
清々しいまでの主人の言葉に、エリフィスは苦しさを覚えた。弟を軽んじられて悔しいなどという、そんな簡単な感情ではなかった。
エリスだけでなく、弟を覚えている者など誰もいない。それぐらい、弟が小さくて取るに足らない存在だった事が哀しかった。
「魔道具を騙し取られたことは、わたくしにとって初めての失敗だったの」
初めはただ、折角作った魔道具を騙し取られて、悔しいという気持ちだった。自分の魔道具を自分の許可なく好き勝手に使う連中が許せなかった。魔道具のせいで、捕らえられ売られた者がいたと知っても、なんとも思わなかった。あの時、エリフィスの弟を見るまでは。
エリフィスの弟は、エリスと同じぐらい小さな子どもだった。それが、汚い床の上で、縮こまって、冷たく固くなっていた。回復魔術でも治らない。エリスが初めて生身で感じた死だった。
恐怖を感じたわけではない。罪悪感もない。貧しい者が亡くなるのは知識として知っていたから。
だが、エリスの魔道具が、エリスの預かり知らぬところで、勝手に人の命を奪うなど、酷い屈辱だった。己の作った魔道具一つ管理できなかったことに、自分自身に深い失望を感じた。
それをまざまざと感じさせたのが、物言わぬエリフィスの弟だった。小さな亡骸が、エリスの失敗と愚かさを嘲笑っている様だった。
「愚かなわたくしを罰するのは、お前でなくてはいけないと思ったの」
エリフィスを手元に引き取り、育てる事にしたのは、そのためだった。
いつか。エリフィスが大きくなり、弟の仇を取りたいと望むのなら。
エリスはエリフィスの手を取り、自分の首に導いた。白く、細い、エリスの首。初めて触れたそこは、柔らかく温かで、ほんの少し力を込めただけで、折れてしまいそうなほど華奢だった。
「だからね、エリフィス。わたくし、貴方をあの場所から連れ帰ったときから、決めていたの。貴方をわたくしの手で育てようと」
エリスの髪がサラリと手に触れる。エリスの瞳に、もう憂いはなかった。満足気に、強く輝いている。
「わたくしを殺すことが出来るぐらい、強く育てようと」
「エリス様!」
驚きに、エリフィスの目が見開かれる。反射的に引いた手を、エリスは柔らかく掴む。
「そんな、そんな事は、私は望んでいません!」
息苦しくも絞り出した言葉に、エリスは、微笑みを深くした。
「ねぇエリフィス。可愛いわたくしの大事な子。わたくしが憎いのなら、わたくしを殺してもいいわ。お前がそう望むのなら、わたくしはその望みを叶えてあげたいの」
元々、魔力量が多く、才能のあったエリフィスは、エリスの予想以上に強くなった。
これなら、エリスを殺したことでラース家と袂を分かつことになったとしても、一人で生きて行くことぐらいは出来る筈だ。
「お前の唯一の家族を死なせたのは、わたくしよ」
家族というものは、不思議なものだ。自分のことなど気に掛けていないと思っていたハリーが、エリフィスの望みを叶えようとする妹を案じていた。理屈では割り切れない、情というものがあるのかもしれない。
エリフィスはエリスを慕ってくれている。だが家族を死なせた元凶でもあるのだ。エリフィスの中で、少しでもエリスを恨む気持ちがあるのなら、それを晴らしてあげたかった。
「……」
家族と言われて、エリフィスの脳裏に、弟の最期の姿が浮かぶ。忘れたことなど、一度もないのは確かだ。
だけどエリフィスにとって、誰よりも鮮やかなのは、目の前の主人だけなのだ。弟とエリス。どちらを取るかと言われたら、何の迷いもなく、エリスを選ぶ。その事に、酷い罪悪感を感じた。
ああ、だって、俺は。弟を。
「……違います、俺は、俺はっ」
エリフィスはエリスの手を振り払って、頭を抱えた。
「俺は、優しい兄ではなかったのです。身体が弱かった弟が、嫌いだった。鬱陶しかった。あいつが縋って来るから、仕方なく、二人でいたんです」
生まれた時から、ゴミみたいな存在だった自分たち。何時から一緒だったのか分からない。親の顔も知らず、お互いの名前すら知らなかった。弟は俺を兄ちゃんと呼び、俺は弟をなあとか、おいとか呼んでいた。毎日、毎日、住む場所もなく、食べるものもなく、ただ生きているだけで精一杯だった。
弟がいなければなんて、何度思ったことだろうか。コイツがいなければ、もっと腹一杯食えるのにと思った。住み込みの仕事を見つけて、漸く這い上がれるかもと思っても、弟の病気がうつるかもしれないと言われクビになった。路地裏で雨風をしのげる場所で寝ていても、弟の咳がうるさいと追い出された。寒い中、弟を背負い、腹を空かしてどこにも行けずに彷徨って。コイツが居なければ、もう少し楽だったろうなんて考えて、背中から振り落としたくなるのを我慢していた、薄情な兄だった。だから。
「でも、お前は弟を忘れていないでしょう」
罪悪感で一杯だったエリフィスの胸に、ズキンと痛みが走り、たまらず、エリフィスは胸を押さえた。初めて感じた、知らない痛みだった。
確かにエリフィスは弟を忘れる事が出来ない。今がどれほど恵まれていて、幸せだと思っていても。忘れる事はない。
弟が嫌いだった。鬱陶しかった。捨てたかった。楽になりたかった。
だけど。一つのパンを二人で分け合って食べた。かたいパンなのに、二人で食べれば、美味しく感じた。
寒い夜は体温を分けあう様に、抱き合って眠った。咳の止まらない弟が、ごめんね、ごめんねと謝っていたのを、気にするなと頭を撫でた。小さな弟の身体は頼りなかったけど、とても温かかった。
路地裏から二人で見上げた月は綺麗だった。手に取りたかったのだろうか。弟は月に手を伸ばして、精一杯背伸びをしていた。
少ないけれど、楽しい思い出にはいつも弟がいる。
嫌いだったし、鬱陶しかったし、捨てたかったし、楽になりたかった。
だけど、弟の事を忘れたいと思った事は一度もない。
気付けば、エリフィスは泣いていた。
弟が死んで、初めて、弟を想って泣いた。
弟は何のために生まれてきたんだろう。生まれた時から何も持っていなくて、ずっと病気で苦しんで。家族だって、こんな薄情な兄しかいなかった。
俺は今、エリス様に出会って、腹一杯食べて、温かな寝床があって。学んで、成長して、仲間も出来て、天職ともいえる魔術師になれて。毎日が楽しくて、充実しているのに。
そんな輝くような幸せを一つも知らないまま、弟は死んでしまった。
弟が生きていたら。一緒にいたら。あいつもこんな幸せを知る事が出来たかもしれないのに。
主人の肩に縋って、エリフィスは嗚咽をあげた。
長く固まっていた悲しみと後悔と寂しさと苦しさが、初めて、エリフィスの中から流れ出た様だった。
泣くエリフィスを、エリスは何も言わず、抱き締めていた。
◇◇◇
「私は、貴女を罰することも、殺すことも、望んでいません」
やがて泣き止んだエリフィスは、エリスの傍に跪くと、眩しいものでも見るように目を細めて、断言した。
現在の自分が在るのは全てエリスとラース家のお陰なのだ。もしあの時、あの魔術師に捕らえられなかったとしても、兄弟二人、いつまで生き長らえただろうか。弟は冬を越せたか分からないし、自分だってあんな環境で、長く生きられたとは思えない。それぐらい、あの頃の自分たちに、死は身近なものだった。
「ラース侯爵家にも、ご恩こそあれ、反意など……。私は生涯を我が君と、ラース家に捧げたいのです」
それがエリフィスの嘘偽りない気持ちだった。弟の仇を取るなど、この薄情な兄に資格があるはずもない。
弟を疎んじ、守れなかった後悔は、全て自分が背負わなくてはならないものだ。一連の事件の解決を願ったのは、自責の念を軽くしたいがための、エリフィスの身勝手な我儘だったのだから。
そしてこれ以上、ドーグ・バレやジラーズ王国の犠牲になる者も増やしたくなかった。悍ましい事件に利用される魔道具を取り戻し、エリスの憂いを払いたかったからなのだ。
「ですがエリス様。もし、私に何か報いてくださるというのなら」
小さく頼りない弟の姿が目に浮かぶ。綺麗な月に手を伸ばし、届かないと悲しそうに諦めた顔。
何一つ手に入れずに、死んでいった、小さな弟にせめて。
エリフィスが一番嬉しかったものを、弟にも与えたかった。
「どうか、弟に名を」
名を与えて貰った時の、あの、身体に温もりが染み入るような幸せを。
初めて名乗った時の、心の底からの誇らしさを。
「私に付けてくださったように。弟に、名を下さいませんか」
そうして貴女の中に、私と共に弟を生かすことを許して欲しいと、エリフィスは切に願った。
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