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彼の一番古い記憶は、大人の女に殴られた事だった。
酒の匂いと、汚い部屋。太った女が、何か良く分からない事を喚きながら殴りつけてける。それはいつものことだから、怖いとか痛いとか感じる事もあまりなかった。
いつの間にか女はいなくなり、側には自分より小さな子どもがいた。汚い部屋から雪のチラつく外に二人で追い出され、彼は仕方なく小さい子を背負って歩き出した。その場にいたら、女にも、女と一緒にいる男にも殴られるからだ。
腹は減るし、背負った子どもは重かった。川面に映った自分の顔と、小さい子の顔は似ていたので、たぶんこの子は弟というものなんだろうと思った。自分の名前も知らないから、弟の名前も勿論、知らなかった。それでも置いていくことは出来なくて、いつも一緒にいるようになった。
そしてある日、大人の男たちに囲まれたと思ったら、弟共々捕まった。『スゴイマリョクリョウダ』とかなんとか訳の分からない事を言われ、あっという間に縄でぐるぐる巻きにされ、知らない部屋に閉じ込められた。
外より寒さはマシだったが、病気の弟はすぐに死にそうだから無駄になると言われ、弟の分は食事が貰えないし、そもそも出て来る食事も少なくて、それを2人で分けるから、お腹がずっと空いていた。外に出られたら誰かの捨てた残飯を食べたり、草を食べたり、川の水を飲んで空腹を満たせたのに、ここに閉じ込められてからはそれが出来なくて、段々と動く事すら難しくなっていった。彼より小さな弟も、声をあげる事も無く、動きもしなくなっていた。
それからの記憶は殆どない。ある日目の前が明るくなって、眩しくて目を開けたら、栗色の髪と茶色の瞳の女の子に覗き込まれていた。彼よりも小さな女の子だ。その子はキラキラした服を着て、柔らかそうで、なんだかとてもいい匂いがした。
彼が寝ている場所も凄かった。チリ一つ落ちていない床。一つも割れたところのない、ピカピカの窓ガラス。綺麗なシーツ、温かな布団、湯気の立つ食事。
死んだら女神の身許に行くと、前に施しをもらった時に教会の人が言っていたけど、ここがそうなのかと思った。
「貴方、大丈夫?怪我はお兄様が全部治して下さったわ」
女の子はじっと彼を見つめ、静かにそう言った。そういえば、ずっと痛かった腕やお腹や背中の痛みが無くなっていた。男たちに捕らえられて、殴られたり蹴られたりしてずっと痛かったのに。
「一緒にいた小さい子は、貴方の弟?」
そう言われて初めて、弟が側にいない事に気付いた。
彼が頷くと、女の子の瞳が揺らめいた。
「そう。あの子は助からなかったの。死んでしまったのよ」
死んだ。
そう言われても、彼は何も感じなかった。
弟は小さくて弱々しかった。ずっと咳をしていて、苦しそうだった。最後に覚えているのは、真っ白な顔と、寒さで縮こまっていた小さな身体。
そうか、死んだのか。としか思えなかった。
「貴方、名前は何というの?」
女の子に問われ、彼は困った。弟は彼の事を兄ちゃんと呼んでいたが、それは名前ではない事を、彼は知っていたから。
黙って視線をうろうろさせる彼に、女の子は静かに聞いた。
「貴方、名前がないの?」
彼は恐る恐る頷いた。頬がカッと熱くなる。名前が無い事を周りの奴らにバカにされたのを思い出していた。奴らは口を歪めて嗤ったのだ。親に名前すら付けてもらえなかったのか、と。今回も笑われるのかと、彼はうつむいた。
「そう……。では、わたくしが貴方の名前を付けていいかしら」
でも女の子は笑わなかった。そればかりか、名前を付けると言われ、彼は驚いた。そんな事してもいいのだろうか。
だけど彼は、恐る恐る頷いた。名前があったら、もうバカにされることはない。
「そうねぇ。わたくしの名前は、エリスというの。わたくしの名前とお揃いの、エリフィスという名前にするわ」
にっこりと女の子が笑って、彼の頭を優しく撫でた。小さな女の子が、お人形に自分とお揃いの名前を付ける様に。彼の名前は簡単に決まったのだ。
エリフィス。彼の名前。初めてもらった。彼の名前。
「よろしくね、エリフィス」
そう呼ばれ、女の子は優しく頭を撫で続ける。彼は胸の中がポカポカするのを感じた。彼よりも小さな手なのに、その手に撫でられると安心できた。
その時、ちょっとだけ、彼は悲しい気持ちになった。弟も、生きていたらこんな風に、優しく撫でて貰えたかもしれないのに。
弟はこんなにポカポカした胸の温かさを感じる事は、もうなれないのだ。
エリスに撫でられ、ふわふわした気持ちになって、彼の瞼は自然と閉じていく。一生懸命、目を開けようとしても、気持ちよさにどうしても抗えなかった。
「わたくしが貴方を守るわ。わたくしが、貴方が強くなれるように育ててあげる。そして……、いつか貴方が望むのなら………、その時は……」
女の子の優しい声は続いていたが、眠りに落ちた彼の耳には、届かなかった。
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