9.暴走
サフィールに睡眠薬を処方し始めて一ヶ月。薬は合っていた様で、二週間ごとの処方を行なっている。エミリオから聞く話も調子が良さそうな為、このまま何の問題が無ければ一ヶ月に一度の処方にしても良さそうである。本来であれば血液検査をしたいところだが、皇帝であるサフィールは多忙だ。検査の話をしたところで、いつそれが行えるかも解らない。
今日は3回目の診察日。エミリオの予約時間は15時。そろそろ時間だろうと用意を終えた室長室から出たティアンナは医務室の入り口付近で彼を待った。
何故こんな事をしているのかと言うと、ユナのせいである。
どうしてもエミリオの診察をしたいユナが突撃をしてくるのだ。前回もそうだった。エミリオが医務室に入って来た瞬間、他の患者がいるのにも関わらず大声でエミリオを呼び、室長室ではない普通の診察室へ連れて行こうとした。だが、そこは色男であり有能でもあるエミリオ。それとなくユナを躱し、あろう事かティアンナのところまでユナを案内させていた。にこやかなエミリオ、般若の様なユナ。ガチャリと室長室が開かれた瞬間、ティアンナの全身から冷や汗がドバッと出たのは言うまでも無い。
今回はそんな事にならない様、ユナ対策としてティアンナは速やかにエミリオを室長室へ連れて行く為、入り口で彼を待ち構えているのである。
今日来るという情報をティアンナは敢えて朝礼で言い、全員へ周知していた。前回の事は多くの職員が目撃しており、それなりに問題視をしていたからだ。そのお陰か何人かの同僚がティアンナにユナの事はまかせろ!と言ってくれた。頼もしい限りである。
時間近くになるとユナが何かを言いたげに入り口にいるティアンナを見てきた。その表情はとても憎らしげで、一瞬目が合ったティアンナは『ひぇ』と肩を揺らしてしまった。そのくらい恐ろしい顔をしていたのだ。
ユナは鋭い視線をティアンナに向けるだけで近寄っては来ない。恐らく足止めとして何かしらの業務を任されているのだろう。人前で罵声を浴びせられるよりは睨まれる方が断然良い。ティアンナはユナの視線を無視して、エミリオの来訪を待った。
エミリオが来たのは予約時間の5分前。一ヶ月前よりも断然輝いているエミリオは入室した瞬間、目の前にいたティアンナに目を丸くして驚いた。
「驚きました、入り口で待っていてくれたんですか」
「はい、前回迷惑を掛けてしまったので」
恐縮しながらティアンナが言えば、軽快な笑い声が聞こえた。
「ははは、確かに気にしないで下さいとは言えない出来事でしたね」
ド直球な言葉にティアンナは顔色を無くす。前回笑顔で接していたが、やはり思うところがあったらしい。
「すみません……」
「いえ、問題がある人物として以前から名前が上がっていた方なので貴方が謝る事では無いですよ。処分を思いきれない人事権を持つ人間の問題です」
はっきりとそう言い放ったエミリオはニコリと笑うとティアンナよりも早く室長室の扉を開いた。
「どうぞ」
客人に扉を開かれ、中へ促される。ティアンナは責められている気持ちになり、猫背で促されるがまま部屋へ入った。
此処で言う人事権を持つ人物は薬師課医務室、室長であるゲルトと医務院の責任者である院長の事だ。ティアンナには人事権など勿論無い。だがどうしてだかゲルトが責められると自分事の様に感じてしまう。上司だからだろうか。
勝手に気まずく思ったティアンナはお茶を作り、エミリオの前にカップを置く。中身は以前と変わらずカモミールとレモンバームのお茶だ。出されたお茶を一口飲んだエミリオはふぅ、と息を吐く。いつもと同じ動作にティアンナは少しほっとした。
「どうですか、陛下の様子は」
気持ちを切り替え、エミリオに問うとエミリオは『ええ』と微笑んだ。
「良く寝られるみたいです。最近はとても顔色も良くて、仕事の効率も上がってますね」
「それは良かったです。コストナー小公爵も顔色良さそうですね」
「お陰様で私も良く寝れています。もう一つの薬のお陰か疲れづらくなった気もして」
そう言ってエミリオは腕をグルグルと回し始めた。奇怪な行動に驚いたが、ティアンナは笑みを絶やさず頷く。サフィールは実際に診ていないので解らないが、エミリオのこの元気さを見れば診察回数を減らして問題は無いだろう。
ティアンナは診療録にペンを走らせた。
「薬も合う様なので一ヶ月に一度の診察にしましょうか」
書き終わりと同時にエミリオにそう伝える。だが彼は予想と反して酷く驚いた顔をした。
「え!同じペースで良いですよ!」
「え」
わりと大きな声で拒否をされ、思わず驚きの声を上げる。
今回の提案は薬の合う合わないもそうだが、多忙でこちらに頻繁に来るのも大変だろうと提案したものだった。まさかの拒否にティアンナは眉を下げる。
「駄目ですかね?」
そんなティアンナの顔を見て、エミリオは上目遣いで尋ねた。そのあざとさにティアンナは一瞬動揺したが、直ぐに持ち直す。
別に駄目な事は無い。ティアンナの業務が多少増えるが、そのくらいの事だ。全く問題は無い。だが、そんなにも抵抗をする理由は何だろうか。少し気になった。
「駄目では全く無いです。でも忙しいのに大丈夫ですか?」
「忙しいは忙しいんですが、ちょうど良い息抜きになるんですよね。美味しいお茶も飲めますし」
そう言ってエミリオはお茶に口を付ける。そういう理由であれば別にいつでも良いか、とティアンナは診療録に記載した次回診察の文言を二重線で消した。そして2weekと改めて記載する。
「では、また二週間後に」
「ええ、宜しくお願いします」
にっこりとお互い挨拶をし、用意していた薬を並べる。いつもと同じの薬であるのを確認し、エミリオはポケットにそれを仕舞い込んだ。
エミリオのお茶が無くなったらこの診察も終わりである。まだ少しだけ残っている様で、エミリオが雑談をし始めた。それに当たり障りの無い返事を返す。ティアンナは時折混ざるサフィールの話に胸が締め付けられる様な感情に襲われた。
話の流れで今回の不眠症の話になり、薬を常用し寝るのはあまり体に良くないという話になった。薬は確かに効くかもしれないが、長く服用すると肝臓などの機能が低下する可能性がある。飲まないで寝れるのであればそれに越した事は無い。
「陛下も薬に頼らず寝られる様になると良いですね」
他意はなく、しみじみとティアンナが話していると突然、部屋の扉が勢い良く開いた。
何事かと扉の方を見れば顔を好調させた女が部屋にズカズカと侵入してくる。女は目をキラキラと輝かし、エミリオへ一直線に向かっていった。
「陛下の薬なんですか!」
ユナである。
ユナは室長室の前で聞き耳を立てていたのだろう。ノックもせずいきなり扉を開けて入ってきたのだ。
あまりの出来事にティアンナもエミリオも目を見開いた。この皇城でノックもせず部屋に入ってくるという事は基本無い。いや、家でなければ基本はノックはするものだろう。非常識な行動に驚きから怒りへと感情が変化する。
ティアンナはあまり怒らない性格だ。怒るというよりも困る事が多い。だが、流石のティアンナもこの不躾な行動に怒りを禁じ得ない。ふとユナに詰め寄られているエミリオを見た。エミリオは目を座らせ、無表情でユナを見ている。間違いなく怒っている顔だ。それか軽蔑をしている顔。いや、どちらもか?
どちらにしてもユナは許されない事をした。
ティアンナはいつもより低めの声でユナを責める。
「ゴルダンさん、ノックもなく入室するなんて何を考えて」
「私!陛下のお薬作りたいです!こんな子より私の方が良い薬を作れます!」
だが基本ユナはティアンナを馬鹿にしている。ティアンナの言葉を簡単に遮り、自分の主張をした。とてもおかしな主張を。
それに良い薬とは言うが、調合は厳格に割合が決まっている。どれも等しく作らなくてはならない。それにも関わらず、良い薬をとはどういう事だろう。基本が出来ていないという事ではないか?
ティアンナはこのユナの行動とは別に室長であるゲルトにユナの薬について報告をしなくてはならなくなった。作る人によって差が出来るのは問題以外何物でも無い。
これ以上、恥を晒す訳にはいかないティアンナは立ち上がり、ユナと座っているエミリオの間に立った。
今にも舌打ちをしそうな視線がティアンナを射抜いたが、上司として怯む訳にはいかない。
「ゴルダンさん、退室してください。これはあなたの仕事ではありません」
「私の方が!」
それでも我が我がの主張をするユナにティアンナは焦りを感じてきた。
何度もユナの名前を呼ぶが、ユナは聞こえていないふりをし続ける。
段々と背後の空気が冷えていく感じがし、冷や汗が背中を流れた。
(コストナー小公爵、怒ってる!)
それはそうだ。こんな不敬な事をされた事は無いに違いない。皇帝の最側近に無礼を行うなど、命知らず過ぎるのだ。
話を聞かないユナを止めていると今まで黙っていたエミリオが小さく笑った。それは嘲っているような声だった。
突然聞こえた温度のない笑い声にティアンナは血の気を失った顔で振り返る。そこには口元に弧を描いてはいるが、全く目が笑っていないエミリオがいた。
「人の話を聞かない、ノックもせず入室する人の薬など陛下には口にして貰いたくありません」
至極真っ当な意見にユナの動きが止まった。
「え……」
ティアンナからしてみれば何を驚く事があるのか甚だ疑問だったが、ユナは何故……とでも言いそうな顔でエミリオを見ていた。エミリオもそれを感じたのだろう。鼻で笑うとユナの名を呼んだ。
「ゴルダンさん、でしたか?退室してください。貴女に守秘義務のある仕事は難しそうだ」
冷たい瞳に怯んだユナは何かを窺う様にティアンナを見る。今まで存在を無視していたのにも関わらずだ。一体何を思ってティアンナを見たのか知らないが、目が合ったのであればティアンナの言う事は一つだった。
「ゴルダンさん、退室を」
そう言えば、ユナは下唇を噛み、悔しそうな顔をして部屋を出ていった。入ってきたよりも勢いよく閉まった扉に部屋が震える。
エミリオと二人きりになったティアンナは真っ白な顔で頭を下げた。
「申し訳ございません。まさかノックもせず」
「いえ、何処にでもおかしな人は居るものです。ティアンナ嬢が気にする事ではありません」
「上司に報告致します。あと今後の診察方法も考えさせてください」
ティアンナが気にする事は無いとエミリオは言うが、その目は冷めたままである。息の仕方を忘れそうになる程、頭をフル回転させるが何をどう言えば、どう行動すれば挽回出来るのか全く分からなかった。考えても考えても、結論を先延ばしにするという手しか出てこない。
悲しいかな、ティアンナは役職者である。だがここまでの高位爵位の人物、間接的に皇帝へ無礼を働いた場合どのようにすれば良いのか全く分からなかった。下手をすれば命も無くなるかもしれない。奥歯がガチガチと鳴りそうになる。
血の気を失った真っ白な顔のティアンナを見てもエミリオが顔色を変える事は無い。そして淡々とした感情の見えない声を出した。
「では、陛下を直接診てもらえませんか」
ティアンナは青白い顔のまま、小さく『え』と呟く。一瞬何を言っているか分からなかったからだ。
エミリオはわざとらしくニッコリと微笑んだ。
「ここでの診察はもう無理でしょう。ならばこちらに出向いて下さい。出来ますよね?」
脅迫にも似た声に、誰が拒否をする事が出来よう。ティアンナは小さく震えながらコクリと頷いた。