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8.困り眉のあの子


 サフィールにとってティアンナは安らぎだった。騒がしかった学生時代の中で、ティアンナの側でだけ息が出来た。


 出会いは図書室であったとサフィールは記憶している。窓際の席、困り顔で本と向き合っていた女子生徒に興味が湧いて向かいに座った事がきっかけだ。

 女子生徒、ティアンナは目の前に人が座った事に気付かぬ程、本に集中しており、口元を尖らせながらそれを見ていた。


 栗色の柔らかそうな髪が耳から落ちる。視界の邪魔になったのか、落ちた髪を白い小さな手で耳に掛けた。僅かに開いた唇が何かを発する。だが、静かな図書室でも声は拾えなかった。

 サフィールは手元の本のページを一枚捲る。紙の擦れる音が響いたが、ティアンナの視線は下を向いたままだった。


(こっちを見ろ)


 そう念じながら読んでもいない本のページをペラリペラリと捲る。だがティアンナはこちらをチラリとも見ない。焦れたサフィールは咳払いを一つした。


 ビクリ、目の前の小さな肩が揺れ、緑の瞳と目が合う。丸く溢れそうな不安げな瞳、困った様に下がる眉。


 目が合った瞬間、持った事の無い感情が湧いた。だが同時にこれは持ってはいけない感情なのだと理解し、それにそっと封をした。この感情を持ってこの先、生きてはいけないのだから。


 そんなサフィールの興味から始まった小さな関係だった。たまに図書室へ足を運び、彼女を見る。いつも難しそうな顔をしているティアンナを見るのが好きだった。視線に気付き、困った様に微笑むのも愛おしかった。




 淡く、そして苦くも辛くもある記憶。その思い出さえあればこの先も生きて行ける、そう思った。



 翌朝、サフィールは側近や宰相にフィティルオーナの写身が出た事を伝えた。これはクインツィアートの写身である皇帝しか察知出来ぬものだ。サフィールの言葉に臣下達は喜んだ。それはそうだ、この国は二柱の写身で治める。二人揃えば、どんな国難にも耐えられると言う。そう、神の導きのように。


(ああ、だから父上は死んだのか)


 喜ぶ臣下を見ながらサフィールは理解した。母であるフィティルオーナの写身が死んだから父も死んだのだと。二人居なければ意味が無い。そういう事なのだろう。


 フィティルオーナの写身の公示は直ぐになされた。だが、偽物ばかりで本物は現れない。銀色に髪を染めた者は髪を洗えば色が落ちた。紫の瞳も専用の点眼をさせば落ちる。だがサフィールにはその姿が暴かれる前から偽物だと分かっていた。ひと目見れば違うと心が叫ぶのだ。自分ではない部分が主張をする。決して誤るな、お前の愛はそれではない、と。

 だが、それが何だと言うのだろう。違うから何だと言うのだ。サフィールにしてみれば皇后などどうでも良い事だった。


 妻にしたかったのはたった一人。あの栗色の髪を持つ困った様に笑う人、ただ一人だけだったのだから。


 その頃からだろう。夢で怒鳴られ始めたのは。眠りに落ちて直ぐにそれは夢に現れ、自分に罵声を浴びせる。不甲斐ない、そんな感情を隠しもせず声を荒げる。


 だが一体神に何が分かる?

 愛する人を素直に愛する事が出来ないこの身にしておいて、何が。普通の貴族であれば、いや人間であれば愛する人と共になれた筈だ。だが、神の血筋に生まれたがばかりに愛を告げたい相手に何も言う事が出来ない。何故ならサフィールは皇帝だからだ、皇太子だったからだ。神が伴侶を見つける。愛する者に先がない関係を強いる事など出来なかった。


 神に反発する様に睡眠を取らなくなってきた頃、エミリオが声を掛けてきた。


「眠れてます?」


 青白い顔をしたエミリオがそれを言うかと思ったが素直に首を横に振った。


「眠れてると思うか?この隈で」

「でしょうね。だと思ったから聞いたんですけど」

「お前も大概酷い顔してるな」

「まあ、否定はしません」


 パサパサの髪をぐしゃぐしゃと乱し、エミリオは苦笑した。もう定時を過ぎているので髪型などどうでも良いのだろう。疲れ果てた顔には生気が無い。そうしたのは他でも無くサフィールなのだが、それを謝罪する事もない。だって何を謝罪する事がある?仕事をしているだけなのに。


 それから二、三冗談を挟みつつ話をしていたサフィールとエミリオだったが、会話がふと止まる。何かを考え込んだエミリオは腕を組み、サフィールを見た。


「薬貰いに行きましょうかね」


 顔色の悪さと会話のキレを見て、エミリオはそう判断した様だった。そんなに酷い顔か?とサフィールは近くの鏡を覗いたが、自分ではよく解らない。首を捻り、様々な角度で自分を見る。新しい髪色と瞳にはもう慣れたと思っていたが、こんなに見ていると自分が誰か分からなくなってくる。


 鏡から視線を逸らしたサフィールはふと、薬という言葉の意味を考えた。薬を貰いに行くというのであれば医務室であろう。医務室には薬師がいる、そうティアンナもだ。

 学生時代から薬草に興味があったティアンナは卒業後宮廷薬師となった。真面目な勤務態度を認められ、今や副室長まで昇り詰めている。


 真っ白な白衣を見に纏い、長い髪を一つに縛り上げ廊下を歩く姿は、学生時代と変わらぬ雰囲気であった。もう何年も話をしていない。だが、見掛けるとつい目で追ってしまう。忙しなくパタパタと動く姿が愛おしかった。


 姿を見れば触れたくなる、それはこの身になっても同じだった。いつだか後ろ姿を見ただけでも強く焦がれた。何故側に居れないのかと拳を強く握り締める程に、心が彼女を欲した。何故こんなにも焦がれるのに彼女では無いのか。神に問うても何も返ってはこなかった。


 サフィールはエミリオに確認の意味を込めて質問をした。


「医務室か?」

「そうですけど」


 ならば、とサフィールは考える。

 結婚はフィティルオーナの写身と決まっている。しかもまだ出てきていない。なのであれば少しでもティアンナとの接点が、繋がりが欲しい。


「薬師の指名しても良いか」


 自分の考えに高揚する。だがそれを悟られない様、サフィールは澄ました顔でそう言った。エミリオは目を丸くし、視線を一瞬だけ上に向ける。これはエミリオが困惑している時の仕草だ。

 咳払いを一つすれば、眉間に皺を寄せたエミリオが少し低めの声を出す。


「指名出来るんですか。初耳ですね」

「まあ、良いだろ。多分出来る」


 皇帝に指名されれば断る事は出来無いだろう。エミリオは腑に落ちない顔をしていたが、最後には諦めた顔で溜息を吐いた。


「で、誰をご指名で?」


 小脇に抱えていた手帳を開き、エミリオはサフィールに尋ねる。

 不敵に笑ったサフィールは喜びを隠しもせず、その名を伝えた。


「ティアンナ・ブロアーテ」


 それはエミリオには聞き馴染みの無い名前。だが、存在は知っている名だった。

 主人の口から出たほぼ初めてと思われる女性の名にメモを取ろうとしていたエミリオの手が止まる。視線を手帳からサフィールに移すと先程より口端が上がっている顔が見えた。


「彼女の薬が良い」


 疲れ果てていた顔は何処へ行ったのやら。晴れやかな顔は即位前に戻ったかの様であった。




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