7.空っぽの心で
夢を見た。いつものあの夢だ。
金髪赤眼の男が自分に怒鳴る夢。
『何故、気付かない!』
『そこに居るではないか!』
『お前の目は節穴か!分かるであろう!?』
『俺が感じるのだ!お前にもわかる筈だ!』
両肩を掴み、力の限りグラグラと揺らされる。耳元で大声を出される。眼前にある彫刻の様な顔は見た事が無い人物であった。だが、自分はこれを知っている。だってこれは……
―――うるさい!
そう叫ぶと見慣れた天蓋が目に入り、夢だったのだと理解する。汗に塗れた服が煩わしく、乱暴に脱ぎ捨てると男はベッドから抜け出し、ソファーに身を沈めた。前屈みに両手を組み、額につける。汗ばむ額に髪が貼り付いた。
深い溜息を殺して、その場でじっと夜明けを待つ。もう数え切れない程、こんな夜を過ごした。瞼を閉じれば、いや、閉じなくても真夜中の静寂さの中には何事も無力で、鼓膜に男の声がこだまする。怒鳴り続ける男の声、それが誰だかはもう理解していた。だが、それを認めると自分でなくなる気がした。自分が共有物となったのだと認める気がした。
もう自分だけの体では、人生では無いのだと。その恐ろしさに飲み込まれそうになるのだ。
男、サフィールは瞬きもせず、綺麗に上品に編み込まれた絨毯の目を数える様に下を見続ける。いつまで続くのか解らない悪夢と現実に、死を求める程極限だった。
何故こんな事になったのか等、馬鹿な事は言わない。だが、予想外であった事は確かだった。
前皇帝が身罷った。サフィールにとっての父が死んだ。殺されたのだ。
叛逆の刃に倒れた皇帝。その遺体は即位前の黒髪へと戻っていた。薄く開いた瞼から見えた瞳も赤眼ではなく、柔らかな黄白色。初めて見る父本来の姿を見て、悲しみと共に戻れたのだな、と感じた。硬直が始まっていた為、もう瞳が閉じる事は無い。もう動かぬ父、触れた頬はまだ少し温かかった。
それから日々は慌ただしく過ぎていった。脱力する事など許さぬと周りが皇帝の仇を!と騒ぎ立てる。勿論サフィールもそのつもりで剣を持った。血の繋がりのある叔父を追い詰めるのは簡単で、決着が着いたのはたった一週間後である。叔父に味方など居なかった。
裁判を開かず、即刻斬首された叔父は最期まで自分の皇位を主張していた。もう既に結婚しているのであれば、その資格は無いというのに。獣の様に広場に響いた悲鳴とも咆哮とも言えぬ汚い断末魔。それを聞いて漸く父の死を嘆く事が出来るのだと思った。
だが、そんな思いは一瞬にして消え失せた。自身の即位式が行われるからである。まだ皇帝が身罷って日が浅いのにも関わらず、盛大に行われるそれ。
違和感しか無く、だが盛大にやる事の意味も解る為、流れに身を任せ身辺を固めていった。
皆口々に前皇帝の事を『残念だった』と言う。だがそう言う態度は父の死を嘆いている様には見えなかった。口だけの言葉に短く返事を返す自分。それにも吐き気がした。
国民の前での最後の儀式、王笏を天に掲げ、国の安寧を願う。その途端、頭のてっぺんから何かが入ってくる感じがした。ぞわぞわと自分が侵食される感覚。鳥肌が立つ。不快感に顔を歪めそうになった。だがここで粗相は出来ない。サフィールは笑みを崩さずそれを受け入れた。
すると、その鳥肌と時を同じくして地響きを伴う歓声がサフィールを襲った。声が波となり、体を揺らす。それを聞いてサフィールは理解した、己の姿が変わったのだと。
(俺は……)
足元が覚束ない。だが此れからは此処で生き、死ななければならない。
決意はしていた、いつかはなるであろう地位に。だが実際はこんなにも恐ろしい。神を身に宿し、全ての国民の命に責任を持つ。目に見える人でさえも守れなかったというのに。
サフィールは笑みを浮かべながら国民に手を振った。不安など見せず堂々と。これからは自分が皆の父であろうと、薄氷の上で手を振り続けた。
即位式は終わったが、慌ただしい日々に変わりはなかった。寧ろこれからが本番だと言わんばかりの業務に手は止まる事が無い。
父を悼む時間も無かったサフィールだったが、これだけ時間が経つと気持ちが段々と国へと向かってきていた。父を忘れたのではない。考える時間が無くなって来たのだ。次から次へと起こる問題。皇太子時代とは比べようが無い程多忙な日々。側近であるエミリオの顔色が悪くなっているのは解っていたが、前皇帝時代の臣下を引き続き採用していたサフィールにとってエミリオなど皇太子時代から付き合いがある側近達の方が意思の疎通が出来た。だから外せなかった。
そうした多忙な日々を送っていたある日、いつも通り執務室で仕事をしていたサフィールはふと、心に懐かしい感情が込み上げて来るのを感じた。時間はもう夜だ、疲れが溜まって変な気分になっているのか?とも思ったが込み上げる感情は段々激しさを増していく。
時間が時間な為、もう執務室には誰も居ない。不安とも喜びとも感じるこの想いをどう処理していいのか解らず、サフィールは手に持っていたペンを置いた。
胸に手をやり、前屈みになる。
―――愛おしい
自然と出た言葉。それと共に涙が溢れた。
―――愛おしい、愛おしい、私の愛
ボロボロと溢れる涙、止まる事の無い涙。愛おしい気持ちが溢れて止まらなかった。そしてサフィールは唐突に理解した。
番が、フィティルオーナの写身が出現したのだと。
遂に出現した、自身の半身。自分ではない感情が喜びを、黒髪の自分が諦めの涙を流した。
「ティアンナ……」
瞼を閉じて思い出したのは夏の日、学生時代の色褪せない思い出。困り眉で笑った彼女に触れた日の事だった。